巻の三後編 小六なら解ける邪馬台国の位置

ミ 魏志倭人伝を正確に読む

 卑弥呼といえば魏志倭人伝魏志倭人伝といえば卑弥呼と、多くの人が反射的に言葉を思い浮かべるだろう。奈良県や九州北部で祭殿遺跡が発見されれば、卑弥呼の館ではないかと、大マスコミは大騒ぎする。過剰反応としか思えないが、その最大の原因は、魏志倭人伝の読み方にある。

 ともすれば邪馬台国はどこかとか、卑弥呼日本書紀に記された誰だとか、興味本位の扱い方をされるから、本当のところが見えてこない。

 さらに当時の魏の言葉(呉音)で邪馬台国ヤマタイ卑弥呼がヒミコと発音されていたかもどうかも明確ではない

 魏志倭人伝は、魏から倭国へ来た使者が実際に見聞きした体験と、現地へ行かずに耳にした伝聞と想像、さらに作者・陳寿の思想的な思惑が、魔女の鍋のようにごった煮になっている。使者の実際の「体験」と「伝聞」や「想像」、「陳寿中華思想」を区別しないと、複雑な迷路に踏み込むばかりである。

 まず、最初に押さえておかなければならないのは、倭人伝の冒頭の文章である。

 

倭人は帯方の東南たる大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国にして、漢の時に朝見する者有り。今、使訳(しえき)通ずる所三十国なり。

 

 ここで注意しなければならないのは、魏と使者が往来しているのは邪馬台国だけでなく、三十国あるという文章である。倭国という統一国家としてではなく、今でいえば村ともいえる当時の小さな国々が、魏と自分の国とを行き来していた。

 行き来するからには言葉が理解できなければならない。魏志倭人伝は三世紀の記録で、すでにこの頃、「使訳を通ずる」とあるから、中国語がわかる日本人通訳がいて、漢字も理解できたと推測できる。

 さて、魏志倭人伝を読むにあたり、作者・陳寿の思想を理解しておかなければならない。儒教の国である魏は男尊女卑で、世界の中心は中国という中華思想が根底にある。さらに白髪三千丈の例えではないが、物事を誇張する習癖がある。

 これらを前提にし、まず陳寿邪馬台国をどう見ていたかを俯瞰しよう。倭人伝は邪馬台国の位置を次のように記している。

 

其の道里を計るに、まさに会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし。

 

 会稽の東冶とは現在の福建省福州市のあたりで、日本列島よりはるか南、台湾に近い場所にある。その東には尖閣諸島があるが、あとは海ばかりである。つまり陳寿中華思想から、邪馬台国を南方の海に浮かぶ蛮国とみなしていたのである。

 陳寿倭人を蛮族と考えていたのは、ほかの文章にも見える。

 

女王国の東、海を渡ること千里に、復(ま)た国有り。皆倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千里なり。又、裸国(らこく)・黒歯(こくし)国有り、復た其の東南にあり。船行すること一年にして至る可(べ)し。

倭の地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り、或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可りなり。

 

 邪馬台国から渡海して東へ千里に倭種の国があるというのは、使者が倭人から聞いた伝聞だろう。

 問題はその次からである。女王国から四千里のかなたに小人の国があり、その東南に裸で暮らす国や歯が黒い国があるというのは、想像というよりは陳寿の思想を表している。中華思想は中国の首都から遠くへ離れれば離れるほど、文明から遠ざかると信じているから、小人の国があり、衣服を着ない国があり、白いべきである歯が黒い国があるとなる。

 後漢書には女性について次の文章が載っている。

 

叉た説くに、

「海中に女国有り。男人無し。或いは伝う、其の国に神井有り。これを闚(うかが)うに輒(すなわ)ち子を生めり」と。(訳 また、「海中に女の国があって、男は一人もいない。その国には神の井戸があって、これを覗き込むと子が生まれる」という)。

 

 荒唐無稽としかいいようがないが、これが中華思想である。中華の地から遠ざかるほど、「中国人の文明や常識ではとても理解しがたい制度や習俗をもった民族が存在したとしても、何ら異とするには当たらなかった」(卑弥呼誕生 遠山美都男 洋泉社)のである。

 さらに、「中国人にとって女性を王に戴くなどというのは、(中略)未開・非文明の象徴、その最たるものなのであった」(同)から、女王卑弥呼が君臨する倭国は、陳寿にとって野蛮な国にほかならなかった。

 魏志倭人伝にはこうした陳寿中華思想が存在していることと、千里とか四千里というように、数字にはさまざまな誇張があることを忘れてはならない。この前提を無視して魏志倭人伝に取り組むと、陳寿に翻弄されるだけである。

 魏志倭人伝の冒頭には、多くの研究者が意図的に無視しているのではないかと疑いたくなる重要な文が記録されている。

 

郡より倭に至るに、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸の狗邪(くや)韓国(かんこく)に到る。七千余里なり。(訳 帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに船で行き、韓国からは南や東に進み、「その」北岸の狗邪韓国に着く。帯方郡から狗邪韓国までは七千余里ある)

 文中にある「その」とは何を指しているのだろうか。ここの文章を素直に読めば、「その」とは倭国としか考えられず、朝鮮半島の南端は倭国だったことになる。

 これを裏付けるように、魏志倭人伝が載っている「三国志韓伝」には、「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」と書かれている。この文章も素直に読めば、韓国は海に隔てられることなく、陸続きで南で倭国と接しているとなる。

 さらに「弁辰」の条に、十二国ある弁辰の「瀆廬(とくろ)国は倭と境界を接する」とあり、やはり倭国と陸続きだったとある。

 研究者によっては「その北岸」を九州の倭国とし、海を通じて接していると解釈する向きがあるが、文献をなぜ 歪めて読んでしまうのか不思議である。

 朝鮮半島の南端に倭国があっては都合が悪く、歴史書の記載から目をそらしているのだろうか。

 魏志倭人伝の時代、倭人朝鮮半島南端と九州北部を一つの海洋圏として生活していた。いや、それよりはるか以前、縄文時代から半島と九州北部は一つの生活圏だった。

 朝鮮半島には独自の土器があったが、移住した倭人が作ったらしい縄文土器が半島南部で相次いで発見されている。さらに、狩猟具や漁労具に使う黒曜石が発見されているが、半島では産出されず、倭人が九州産の黒曜石を持ち込んだものである。

 このように、縄文時代から倭人半島人は互いに行き来して交易を行い、半島南端に倭人が住み着いていたのは疑いない。歴史を考えるにあたり、無視してはならない事実である。

 倭国の北岸の狗邪韓国を出発すると、いよいよ倭国への航海である。距離と戸数を抜粋する。

 

始めて一海を渡ること、千余里にして対馬国に至る。(中略)方(ほう)四百余里可(ばか)り、千余戸有る。

また南に一海を渡ること千余里、一大(いちだい)国(一支国)に至る。方三百里可り三千許(ばか)りの家有り。

また一海を渡ること千余里にして末慮(まつろ)国に至る。四千余戸有り。

東南に陸行すること五百里にして、伊都(いと)国に到る。千余戸有り。

東南百里で奴(な)国へ至る。二万余戸あり。

東へ百里で不弥(ふみ)国に至る。千余戸有り。

南に水行二十日で投(とう)馬(ま)国へ至る。五万戸可り。

南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月、七万余戸可り。

郡より女王国に至るまで万二千余里なり。

 

 なぜ数字を拾ったかというと、邪馬台国の位置を求めるのに必要なことと、魏志倭人伝の数字の扱いがかなり大雑把なこと、さらに使っている文字の違いで実際に使者が体験したのかそれとも伝聞かを区別するためである。

 邪馬台国の位置を推測するには、まず魏志倭人伝が使っている一里は何メートルなのかを求めなければならない。ところが、余里とあるように正確な数値ではないから、類推するしかない。

 さて、当時の魏の1里はいまの400メートルだから、記述通りに地図上をたどれば、倭国は九州のはるか南方となる。この記述が邪馬台国論のネックになり、世の学者諸氏を惑わせてきた。

 だが、何の先入観もない小学校六年生ぐらいの生徒に、魏の里を求めよという問題を出したら、簡単に計算できるのではないか。

 記事に記載されている魏里と、地図上の実測値を比較すれは、簡単に答えが出る。対馬壱岐の島の一辺を示してやれば、簡単に導けるだろう。いまの小学生ならスマホを使って両島のホームページにアクセスし、「方」を簡単に割り出すだろう。

 方可四百余里(方は四百里ばかり)とある対馬国は、対馬市のHPによると、南北八二キロメートル、東西一八キロメートルとなっており、壱岐の国だと思われる一大国は方三百余里で、南北一七キロ、東西一五キロ。

 方は一辺だから、対馬は南北が一里二〇五メートル、東西が四五メートル。壱岐は、南北五七メートル、東西五〇メートルと計算される。

 対馬壱岐の共通項から、1里は四五~五七メートルと推測できる。

 対馬から壱岐まで六八キロメートル、壱岐から東松浦半島呼子唐津市)まで二六キロメートル、唐津港まで四二キロメートルある。魏志倭人伝対馬から壱岐壱岐から末慮国まで、それぞれ千余里としているから、一千里として計算すると、対馬壱岐は一里六八メートル、壱岐呼子は二六メートル、壱岐唐津港は四二メートルとなる。

 このように、魏志倭人伝に書かれている距離は、正確な測量機器が当時あったわけではないだろうから、使者が実体験した場合でもかなり大雑把である。

 だが、数字のおおよその傾向から察するに、魏志倭人伝の使者は、一里を四〇メートルから七〇メートルと考えていたことがわかる。

 さて、彼の国には「白髪三千丈」という言葉があるように、物事を誇大に表現する癖がある。そして、露布(ろふ)といい、戦争など国外での出来事は、実際の数字を一〇倍して政府へ報告する習わしがあった。100人を殺せば1000人を殺したと報告するのである。

 それを勘案すれば、一万二千里は実際には一二〇里、つまり1里は400メートルの10分の一、40メートルとなる。

 数字のあやふやさ以外に、文中に出てくる「可」という文字の問題がある。通常は「ばかり」と訳されているが、「あるべしと推量」した表現である。

 この「可」という表現は、距離だけでなく戸数にも登場する。考古学者の森浩一氏は「倭人伝を読みなおす」(ちくま新書)で、「有る」と「可」の違いを明確に指摘した。

 

対馬国では「有千余戸」となり、一支国から不弥国までの国々の戸数も「有る」と断定していた。ところが投馬国では「可五万余戸」、つまりあるべしと推量の戸数であり、邪馬台国も「可七万余戸」と表現を変えている。可は副詞で「ばかり」と曖昧さのある語である。

 

 可が使われている部分は、使者が実測したものではなく、倭人から聞いた距離や戸数をそのまま書き記したか、あるいは耳にした情報を基に推測したかのどちらかだから、「有」と断定できなかったのだろう。おおよその意味で使われる「ばかり」は「許り」と表現され、「可」とは明確に区別されている。

 可が使われている部分が推量だとしたら、対馬国や一大国で「方」を実測してはおらず、現地の島人の説明を鵜呑みにしたのに違いない。

 同じことが、国々の戸数にも言える。投馬国の「五万戸」、邪馬台国の「七万戸」は「可」で表現されており、倭人から聞いた伝聞を基に推測が記録されていると考えられる。両国とも使者が実際に見聞きして戸数を調べたのではない。

 投馬国や邪馬台国に比べ、対馬国から伊都国までの国々は、国情が詳細に描写されている。実際にその地に足を踏み入れたからにほかならない。奴国、不弥国は戸数を「有」と断定しているが、ほかの描写はわずかである。「有」と書かれているから現地には赴いたのだろうが、国情を詳細に把握するほどの時間は与えられなかったに違いない。

 さて、一戸の人数を平均五人(当時はもっと多かったと思われる)として、投馬国の五万戸は二十五万人、邪馬台国の七万戸は三十五万人となる。人口三十五万人の国家となれば、今で言えば政令指定都市に相当する。投馬国の人口二十五万人にしても大国家である。三世紀にそれほどの巨大国家が、はたして存在したのだろうか。

 ほかの国と比べると、末慮国は四千余戸、伊都国は千余戸、奴国は二万余戸、不弥国は千余戸で、投馬国と邪馬台国は桁外れに大きい。

 投馬国五万戸、邪馬台国七万戸は、魏の使者というより、陳寿によって誇張された戸数なのではないか。魏の使者がわざわざ訪れる邪馬台国は、大国でなければならないから、戸数七万戸の巨大国家ということになったのだろう。

 可が推量で使われていることを明確に示すのが、「船行すること一年にして至る可し」と「倭の地を参問するに(中略)周旋五千余里可りなり」という部分だろう。魏の使者は、もちろん一年かけて裸国や黒歯国を訪ねてもいないし、倭の地の周りを廻ってもいない。すべて「参問」、つまり参考のために質問し聞いたことだと正直に記している。

 可の文字が推量であることは確実だが、となると、魏の使者は投馬国や邪馬台国まで、実際に行ったのかという疑問が出てくる。

 それを裏付けるように、魏志倭人伝は伊都国について記した部分で「郡使往来するに、常に駐(とど)まる所なり」と、伊都国に常駐したことを明確に記録している。

 魏の使者は倭国へ来ると伊都国に留まり、「戸有」という表現から、日帰りできる奴国や不弥国へ行くことはあったが、「可」と記録された投馬国や邪馬台国へは、実際には行くことがなかったのである。

 伊都国には魏の使者が常駐し、邪馬台国がほかの国々を監察するため派遣した一大率(だいそつ)もいる。倭国の諸国は一大率を恐れ、さらに一大率は魏と倭国を行き来する使者を港で臨検していた。このように、伊都国は重要な国であるにもかかわらず、ほかの国に比べて人口が少ないのはなぜなのか。

 魏の使者は友好使節団だとしても、倭国の国情を偵察に来たスパイでもある。そんな危険な使者を、倭国の中枢部まで案内しただろうかという疑問が起きる。だから、伊都国に倭国の監察と魏の使者を臨検する一大率を置いて特別行政地区とし、魏の死者にはそこから他国への訪問を禁じた。江戸時代にオランダ商館があった長崎の出島と同じ発想だったのではないだろうか。

 したがって、「水行二十日、五万戸」や「水行十日陸行一月、七万戸」という言葉は、「参問」して推測して書いたということになる。推測というより、ある意図を持って記載したというほうがいいかもしれない。

 魏志倭人伝の最初の部分に、中華思想により倭国は南方の遠隔地というニュアンスがこめられ、「会稽の東冶の東」にあると書かれていた。この大前提にしたがい邪馬台国の位置を記すとすると、「水行二十日」と「水行十日陸行一月」で「会稽の東冶の東」に合致すると考えたのであろう。

 伝聞と推測、さらに中華思想が入り混じって邪馬台国の位置を示しているのだから、距離や方角をどう検討しても、正確な場所がわかるはずがない。魏志倭人伝からは、邪馬台国は不弥国の南ということしか読み取ることができないのである。

 では、九州なのか近畿なのかの議論にどう答えるかだが、魏志倭人伝を素直に読めば明確である。邪馬台国卑弥呼論争が長期間にわたって混乱してきたのは、最初から九州山門(やまと)にあるとか、近畿の大和地方にあるという前提を基に、邪馬台国の場所を求めたからにほかならない。そして、倭という文字を「やまと」と読んでいいのかという疑問もある。

 魏志倭人伝には、女王国の東、海を渡って千里のところに国があり、すべて倭種であると記載されている。海を渡るとは、海岸にそって航行するのではなく、文字通り渡海することである。

 魏志倭人伝帯方郡から狗邪韓国まで海岸に沿って水行と記したあと、始めて海を渡って対馬国に着き、さらに渡海して一大国、末慮国へ至っている。海岸に沿った水行(川を遡るのも水行)と、渡海とを明確に区別している。

 不弥国から投馬国、女王国まで水行だから、海は渡っていない。九州から大和へ行くには海を渡らなければならない。つまり女王国は、到着した地域から渡海していないのだから、具体的な場所はともかく、九州以外にあるはずがない。そして、海を渡って千里にある倭種の国が大和ということになる。

 邪馬台国が九州、それも海岸や川に近いところにあることを示す表現が、魏志倭人伝にある。

 

男子は大小と無く、皆鯨面(げいめん)文身(ぶんしん)す。(中略)今、倭の水人、沈没して魚蛤(ぎょかう)を捕らふるを好む。文身するも亦(ま)た以って大魚水禽(すいきん)を厭(おさ)へんとすればなり。後に稍(やうや)く以って飾りと為す。諸国の文身は各々異なり、或いは左に或いは右に、或いは大に或いは小に、尊卑差有り。(訳 倭国の男子は大人も子供も顔や体に入れ墨をして、水にもぐって魚や蛤を取っていた。入れ墨をするのは巨大な魚や鳥などからの害を避けるためだったが、後に飾りになり、身分によって差ができた)

 魏志倭人伝の時代、海岸沿いの倭国の国々の男たちは、こぞって入れ墨をしていたのだろう。魚蛤を捕らえるとあるように、入れ墨をするのは温暖な地域に住む海洋族の習性だった。

 ところで、儒教の経典である「礼記(らいき)」には、東方に住んでいる者を夷(い)といい、身体に入れ墨をする、南方を蛮といい、額に入れ墨をするとある。魏志倭人伝礼記を典拠としており、鯨面文身は東夷と南蛮の習俗を兼ねた表現になっている。

 渡邉(わたなべ)義浩(よしひろ)氏によれば、「倭人は、中国の東南にいる。したがって、顔面(南)と身体(東)の両方に入れ墨をしているべきである。これが儒教の理念であり、『三国志』に著された時代の世界観であった」(魏志倭人伝の謎を解く 中央新書)。つまり、陳寿は事実を事実として書いているのではなく、帯方郡の東南にいる倭人は、顔と体の両方に入れ墨がなければならないという思想によっていることがわかる。

 ところで、古事記には神武天皇が皇后を選定するとき、使者に立った大久米(おおくめ)命の顔の入れ墨に、皇后となる伊須気余理比売(いすけよりひめ)が不審を覚え、「など鯨(さ)ける利目(とめ)」と詠って聞いたという問答がある。

 ここから、大和に住んでいた伊須気余理比売にとって、入れ墨は見たことがない不審なものだったことがわかる。大久米命は海人族だから入れ墨をしていたのだろうが、神武天皇やほかの人々には入れ墨はないから、大久米命の「鯨ける利目」が強調されたのであろう。

 大和地方は海洋国ではないから入れ墨の習慣はなかった。後に装飾として入れ墨が登場しても、罪人や特殊な職業の人物(馬曳き、力士、武人)に限られた。

 これらから、男子全員が鯨面文身していたのは、大和国家ではあり得ないことになる。となると、九州の玄界灘に面する国々が倭国となる。

 では、邪馬台国はどこかだが、具体的な場所を特定することは難しい。だが、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里とあり、道程を計算すると、帯方郡から奴国までは一万六百里、不弥国まで一万七百里である。

 不弥国が魏の使者が足を踏み入れることができる限界だったと思われる。その不弥国を基点として邪馬台国へ向うとしよう。帯方郡から邪馬台国までの一万二千里から、不弥国までの一万七百里を引くと千三百里。一里四〇メートルとして約五〇キロメートル、一里七〇メートルとして約九〇キロメートルとなる。

 奴国からだと邪馬台国まで一万二千里引く一万六百里で千四百里、五六~一〇〇キロメートルとなる。

 末慮国は唐津、伊都国は糸島市、奴国は福岡市とほぼ特定されているが、不弥国は不明である。博多港から東へ少し行くと宇美川があり、ウミをフミと聞いた可能性はある。

 宇美川河口から五〇~七〇キロメートル、あるいは福岡市から五六~一〇〇キロメートルの円をそれぞれ書いた範囲に邪馬台国があることになる。不弥国から南という方角を信用すると、邪馬台国の位置は福岡県の内陸部、いまの八女市筑後市柳川市あたりになろうか。九州説の山門郡も有力な候補地になる。

 方角を考慮しないと、九州の東海岸の福岡県豊前市大分県宇佐市などが候補に上がる。

 魏志倭人伝邪馬台国の南に、対立して戦争となった狗奴国があると記している。狗奴国は熊本の熊で、熊襲にも通じる。

 また、魏志倭人伝は狗奴国に狗古智卑狗という官がいると記している。狗奴国の豪族の一人だろう。熊本県島原湾岸には菊池平野があり、福岡県へ向かって菊池川が流れている。狗古智卑狗を地方豪族の菊池彦とすれば、魏志倭人伝の記載そのものとなる。

 さて、もう一つの考え方は、対馬壱岐の「方」を計算入れるものである。半島南部から九州は南東にあたる。対馬壱岐を経るには島を半周することになる。対馬は「方」400里、壱岐は300里だったからそれぞれ半周すれば800里と600里、合計で1400里になる。つまり余りの1400里はなくなり、邪馬台国は奴国ということになる。

 倭人の代表である邪馬台国と、熊本以南の狗奴国=熊襲が戦ったというのが、魏志倭人伝の記録だろう。つまり、玄界灘に面した末慮国や奴国などの海岸諸国から、福岡県内陸部や有明海沿岸の邪馬台国、さらに南の狗奴国の物語が魏志倭人伝なのである。

 魏志倭人伝は改行や句読点がなく、漢字がズラズラ並ぶばかりで、実は明確に読みくだすことが難しい。例えば水行20日の投馬国は、伊都国から発して20日としているのか、それともほかに起点があるのか。邪馬台国は投馬国を起点にしているのか違うのか

 伊都国を起点とすれば投馬国も邪馬台国もはるか南方となるが、それでは陳寿のまやかしにまんまとはまるだけである。

 投馬国や邪馬台国の起点をそもそもの帯方群とすれば、一気に問題は解決する。郡から三千里で松浦国に着くから、それが水行10日とすると、郡から20日の水行では九州南部に到着する。南部、すなわち薩摩半島あたりで、「サツマ」という国名を使者が「ツマ」と聞いた可能性がある。

 問題は渡海しているのに水行と記していることだろう。

 松浦国から伊都国まで陸行1月とすると時間がかかりすぎている感じだが、国々で歓迎され国情を調査しての旅ならうなずける。

さて、卑弥呼とは誰なのか。記紀の誰かに相当するのだろうか。

 ここで注意しなければならないのは、古代、名前を知られれば身も心も支配されると考え、名前は極秘だったことである。

 万葉集最初の雄略天皇の求婚の歌は、乙女に向かって「名ら宣(の)らさね」と名前を問うている。名前を答えれば求婚を受け入れることになり、身も心も雄略天皇に委ねるという意味になる。

 このように、古代、名前は秘すべき大切なもので、海外の使者に伝えるものではないし、民が口にするものでもなかった。だから、卑弥呼も壱与(豊与)も、個人の名前ではなく、通称ということになる。

 古代は通称に地名を付けることが多かった。卑弥呼は古代の発音では.ピムカ、壱与はイヨ、豊与はトヨと呼ばれでいたと思われる。

 ピムカは漢字にすれば日の当たる場所である日向国、イヨは伊予国、トヨは豊国とそれぞれ地名であろう。

 卑弥呼を神に仕える「日の御子」とする解釈もあるが、それなら次のぷぷ壱与も「日の御子」で、壱与としているのは無理がある。

 卑弥呼は偉大なシャーマンとして倭国=九州北部に君臨していた。おそらく第12代景行天皇時代の人物で、狗奴国=熊襲との戦い間に帰幽した。女王国は景行天皇熊襲征討の際に崩壊した。

 倭国は北部九州の部族連合で、魏の使者が倭人の「我の国」という言葉を「倭国」という固有名詞ととらえ、さらに大和朝廷のヤマトという言葉を誤って倭国と同一視し、邪馬台国と名付けた。倭という漢字はどう読んでもヤマトとは読めず、誤解のまま倭国の部族連合の国名になったのが真相ではないか。

 邪馬台国論争は、魏が女王卑弥呼に贈ったとされる金印や、倭の使者に与えた銀印が発見されなければ、決着がつくことはないだろう。仮に発見されたとしても、奴国の金印のように偽造だと疑われ、果てしない論争が続くのは確実である。

邪馬台国女王卑弥呼は歴史のロマンとして、そっとしておくのがいいかもしれない。

巻の三前編 実在した神武天皇と神功皇后

 

ヒ 神武東征は歴史的事実

 日本書紀に記載されていることは、朝廷の権威を高めるための創作で虚構である。百歳を超える長命の天皇が何人もいるのは、朝廷の歴史を長くみせるためのでっち上げで、欠史八代天皇は存在せず、神武天皇神功皇后は架空の人物である。

 こうした、日本の歴史を陥れる、批判というより悪意ある中傷が、いまだに大手を振って世間を闊歩している。われわれの先祖は嘘を承知で、歴史書だと偽って日本書紀を創ったと、これらの批判者は心底から信じているのだろうか。

 朝廷の歴史を長く見せかけるなら、天皇の宝算を百歳超にするより、常識的な寿命の天皇の数を増やすほうが、はるかに信憑性が高まる。名前などいくらでも創作できるのだから、異常な長命にして疑いを招く愚を冒す必要はない。

 それとも批判者たちは、そんな単純なことにも気がつかないほど、日本書紀の選録者たちが無能だったと、考えているのだろうか。もしそうなら、彼らも無能な祖先の血を受け継ぎ、無能ゆえの批判をしていることになるのだが……。

 思考が停止すると、子供でもわかる論理が理解できなくなるのは、これらの例からでも明らかである。

 神武天皇は実在したのか。神武東征はあったのか。神功皇后は創作された人物なのか。

 特定のイデオロギーの持ち主たちは、記紀に記載されているこうした物語のすべてを虚構だと否定するが、先入観に毒されていると、事実を発見しても事実だと判断できなくなることを忘れてはならない。

 延長された紀年に惑わされず、特定の先入観を持たずに記紀を分析すれば、古代の真実は明確に見えてくる。

 なぜなら、皇紀や紀年と海外史料との比較だけでは明確にならなかった歴史的事実が、西暦(キリスト紀元)という第三者的な暦の普及で、客観的に判断することができるようになったからである。

 江戸時代はもちろん、明治、大正、敗戦前の昭和時代を通じて、一部の学者を除き西暦はほとんど使われてこなかった。敗戦によってGHQに西暦を押し付けられたが、それが第三の物差となって、歴史に新しい光を射し込んだのは不幸中の幸いといえよう。

 戦後に記紀批判が一斉に吹き荒れたのは、日本弱体化を狙ったGHQの占領政策によるものだが、西暦によって皇紀と海外史料との年代比較ができるようになったことは皮肉なものである。

 そして、敗戦直後から最近まで、西暦による皇紀と海外史料の分析は、自虐史観が底流にあったため、日本を貶める方向に走るばかりだった。

 だが、思考停止が弱まるにつれ、歴史的事実を客観的に捉えることができるようになってきた。那珂通世や津田左右吉史料批判も、思考停止が解けた目で見れば、また違ったものになる。

 六百年の紀年延長がなされていることで、神武元年は紀元前六〇年前後と推測できた。では、神武東征はあったのだろうか。

 東征したのは邪馬台国だとか、いやその前身国だとか、これもさまざまな議論がなされている。金印が見つかった倭の奴国や吉備国などというのならともかく、朝鮮半島や中国大陸から侵攻してきた外来民族などという、根拠のない奇想天外なものまである。これではあまりにもトンデモ説である。

 外来民族が大和を制圧したのなら、外来語も大和を制圧していなければならない。大陸や半島の言葉と、大和の言葉が同じであるべきだが、まったく共通点はない。これだけでも、外来民族の東征論が架空の産物であることがわかる。

 さて、神武東征を考えるにあたり、神武勢が難波から川を遡り、長髄彦(ながすねびこ)と遭遇するまでの日本書紀の記述をまず参照しよう。

 

 難波碕(なにわのみさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会(あ)ひぬ。名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。亦(また)浪花(なみはな)と曰(い)ふ。今、難波(なには)と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。遡流而(かはよりさか)上(のぼ)りて、径(ただ)に河内国(かふちのくに)の香草邑(くさかのむら)の青雲(あをくも)の白肩之津(しらかたのつ)に至ります。

 

 難波の碕に到着するとき、速い潮流があって、大変速く着いた。名づけて浪速国とした。今、難波(なにわ)というのは訛ったためである。川を遡って、河内国の香草村(日下村)の青雲の白肩之津に着いた、というのである。

 ここで注意しなければならないのは、「潮流」と「川を遡る」という二点である。潮流は海で起こるもので、川を遡るのは文字通り川の流れに逆らって上るのである。

 現在、難波は大阪市の内陸部にあり、日本書紀が選録された天武天皇時代も陸地だった。そこへ潮流に乗って速く着いたというのは海だったことを示しているが、当時の人はとても想像することはできなかっただろう。それでも潮流のことを記したのは、日本書紀の選録者が史料や伝承に忠実に従ったからにほかならない。

 選録者たちは生きている時代と地形が違うからといって、もっともらしく書き直すことはしなかったのである。

 では、神武天皇の東征時、大阪の内陸部は本当に海だったのだろうか。ここでは、神武天皇が橿原で即位した年代を、先に試算した紀元前六〇年前後として検討する。

 国土交通省の大阪湾環境データベースをみてみよう。

 

古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣が異なる地形だった。

この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。

 

 大阪湾環境データベースによると、今から七千~六千年前、大阪平野の奥、生駒山の麓まで、河内湾が広がっていたというのである。そして、河川が土砂を運び堆積させる沖積作用によって、三千~二千年前には河内潟ができ、千八百~千六百年前には潟の淡水化が進み、上町台地砂州が北へ伸びて潟を閉じ河内湖となった。

 仁徳天皇が行った堀江の開削は、潟が湖となって頻発する洪水を防止するためだった。そして、湖は埋め立てられていき、現在の大阪平野となったのが、大阪湾と大阪平野の歴史である。

 日本書紀の選録が始まった天武天皇時代はすでに平野になっていた。当時の人々は、そこが潟や湾だったことを、言い伝えで知っていたかもしれないが、実感はなかっただろう。ましてや、湾口に速い潮流があったことなど、思いも寄らなかったに違いない。

 さて、神武天皇の軍船は、潮流によって難波まで大変に速く着いた。湾口部は潮の満ち干によって速い潮流ができる。軍船は満潮に乗って思いがけない速さで難波に着いたのである。

 大阪湾の時代、海は生駒山の麓まで続いていたから、現在の日下まで海上を船で行けた。日本書紀にあるように、川を遡る必要はなかった。したがって、神武東征は河内湾の時代ではないことになる。

 一方、河内湖の時代になると、上町台地が北へ一段と伸び、大阪湾と河内湖を隔てているので、船で乗り入れることはできなくなっていた。

 神武東征の描写を信じるなら、それは河内潟の時代となり、三千~二千年前の出来事となる。

 大阪湾環境データベースは市原実氏と梶山彦太郎氏の論文によっており、二千年前というのは炭素14年代測定法の基準年となる一九五〇年からのことで、河内潟の時代は西暦紀元前一〇五〇年~同五〇年となる。したがって、神武東征は河内潟がある時代、誤差があるとしても、紀元前五〇年前後までには行われていることになる。

 速い潮流があったとか、川を遡ったという描写は、実際に経験した者でなければ記せない。河内湾が平野になった時代に、想像で描くことはまず無理である。これからだけでも、神武東征軍が難波から川を遡り、日下へ向けて進んだことが、実際の経験の伝承として残っていたことを物語っている。

 東征が行われたのが河内潟の時代だったことを念頭に、九州のどの勢力が進出したのかを考えよう。まず金印が与えられたといわれる奴国だが、後漢光武帝建武中元二年、西暦五七年に金印を下賜したとあり、奴国が東征するのには河内潟の時代より百年ばかり遅いことになる。もっとも、もっと古い時代に奴国が存在したとすれば、河内潟の時代に合致することはできる。

 邪馬台国はどうかといえば、魏志倭人伝にあるように、存在したのは三世紀初めから半ばにかけてだから、すでに河内湖が出来上がっており、河内潟の時代とは年代がまったく合わない。前邪馬台国とでもいうものが紀元前に存在していたと仮定すればあり得るが、「もともと百余国」(魏志倭人伝)に分かれていた倭国が、東征するほどの力を保有していたと考えるのは無理である。

 外来民族が東征した可能性はあるのだろうか。弥生文化をもたらしたのは彼らだという「定説」に従えば、弥生時代は紀元前三〇〇年頃からだから、年代的には河内潟の時代となる。しかし、前にも詳述したように、渡来人が弥生文化を日本に持ち込んだのではないから、これも的外れである。

 河内潟の時代に東征できた勢力は、日本書紀が明確に名前を記している神日本磐余彦天皇、実名は彦火火出見(ひこほほでみ)であった。日本書紀の一書では幼名を狭野(さの)尊とし、東征後に神日本磐余彦彦火火出見尊と名を加えたとある。

 古事記は神倭伊波禮毘古命の別名を若御毛沼(わかみけぬ)命、豊御毛沼命と記しており、幼名若御毛沼命が東征して大和を平定し、その土地の地名にちなんで日本書紀古事記ともイワレと名前に付けたのである。

 古代は言霊信仰で実名を呼ばれると支配されると考えられており、公にすることはなかった。だから、地名に美称や尊称を付けて名前とした。その典型的な名前の「カムヤマトイワレビコ」が資料の異なる記紀で一致しているのだから、実在したと考えていいだろう。

 古事記も神武東征を迫力ある筆致で描写しており、日本書紀古事記がそろって描く東征伝承を、虚構とすべきではない。

 ところで、神武東征を史実と考える物的な証拠として、滝川政次郎は「神武天皇紀元論」 (立花書房)で次のように述べている。

 

 神武天皇磯城の兄磯城、弟磯城、添の居勢祝、猪祝、宇陀の兄猪、弟猪、生駒の長髄彦等の大和の土豪等と戦つたいはゆる「聖蹟」が、例外なく昔あつた大和盆地湖の沿岸にあることである。大和平野を中心に五〇米等高線をつなげば、一世紀頃の盆地湖の形は略想見せられるが、「聖蹟」はすべて五〇米等高線の外にあり、且つその附近には必ず弥生式遺跡があつて、その地が古くから聚落のあつた場所であることが知られる。神武天皇紀が、津田史学の徒がいふ如く、飛鳥時代に作られたものであるとするならば、「聖蹟」の中に一つや二つは、飛鳥時代には既に陸地となってゐた大和平野中央部の地名が交じつてゐなければならない。従って、「聖蹟」が例外なく山添ひの高みにあることは、神武天皇紀の伝へが非常に古いものの証拠である。

 

 大和平野中央部には神武天皇が戦った「聖蹟」がなく、五〇メートル等高線の外、つまりすべてが上にあるということは、東征は盆地湖の水位がもっと高かった時代となる。

 それがどの時代だったかといえば、「大和に於ける、縄文式土器の分布を見ると、こゝに最も注意しなければならないことは、その出土地はいづれも標高七〇米線の上、叉はそれよりも高い山岳丘陵上であって、七〇米線以下の低湿平原からは発見されないことである」(神武天皇紀元論 樋口清之)から、縄文土器から五〇米線の弥生土器へと移り変わる寸前だったと考えられる。

 そして、「大和地方前期縄文式土器の分布が、吉野川渓谷から、宇陀に出、宇陀から三輪に止まってゐる点は、あたかも神武天皇入国説話と偶然にも一致してゐる」(同)ことから、神武東征の道筋は、日本書紀の選録者が勝手に創作したのではなく、伝承に基づいて記録したことがわかる。

 このように神武東征は、考古学や地理学の事実と一致し、架空の物語でないことは明らかである。日向から海沿いに北上し、大分県の宇佐から福岡県遠賀川河口付近の岡水宮へ着き、そこから東へ向けて出発し広島県の安芸、さらに岡山県の吉備などで勢力を蓄え、海路はるばる難波に着き、地元豪族の抵抗を退けて橿原で建国したのは、間違いのない事実と考えなくてはならない。

 これだけの証拠がありながら、神武東征は架空の出来事で、神武天皇は存在しなかったと、神話を全面否定する人々がいる。

 神武天皇が実在し、東征が事実であっては都合の悪いことがあるのだろうか。

 多くの否定論者は、実在した天皇崇神天皇からで、開化天皇以前は朝廷の歴史を長く見せるための創作だと主張する。

 だが、考えてもらいたい。記紀が成立した当時、大和朝廷の力は他の豪族に比べ歴然とした差があり、わざわざ創作してまで天皇の歴史を長くする必要はなかった。

 百歩譲って創作だとしよう。天皇の歴史を長くするためなら、神武天皇の前には邇邇藝尊、彦火火出見(ほほでみ)尊、鵜草葺不合尊が存在するから、三柱を神話の神々とはしないで歴史上の人物とすればよかった。

 神武東征否定論者たちが主張しているのは、否定するための否定でしかないことは明らかである。

 

フ 神功皇后と倭女王

 

 神武天皇と同様に伝説上の人物とされているのが神功皇后である。

 日本書紀巻九は神功皇后が摂政を務めたのは六十九年と記載している。時代が下れば何人もの女性天皇が誕生し、神功皇后は十分にその資格を持っていたのに、摂政にとどまったのはなぜかというのが疑問の一つである。

 もう一つの興味深い疑問は、古代の祭殿遺跡が発見されるたびに、邪馬台国の跡ではないかと騒がれ、大きな話題となる倭の女王卑弥呼と、神功皇后が同一人物なのかどうかである。

 日本書紀の執筆者が、海外史料を読み込んでいたのは明らかで、神功摂政紀には魏志倭人伝や「晋(しん)書」の「起居注」(中国皇帝の起居・動作を日記風に記録したもの)、百済本紀などからたびたび引用されている。

 その中で、倭女王についての引用を次に箇条書きに記す。いずれも小文字で分注と考えられるが、表示年は普通文字で正文がないため、本来はあった正文が欠如したのか、あるいは正文が小文字で写され分注となったのかは判然としない。ここでは、現代に伝わる日本書紀の表記に基づいて分注として扱う。

 

神功摂政三十九年。魏志に云(い)はく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の三年の六月、倭(わ)の女王(ぢょおう)、大夫(たいふ)難斗米等(ら)を遣(つかは)して、郡(こほり)に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献(てうけん)す。太守(たいしゅ)鄧夏、吏(り)を遣わして将(ゐ)て送りて、京都(けいと)に詣(いた)らしむ。

四十年。魏志に云はく、正始(せいし)の元年に建(けん)忠(ちう)校(かう)尉(ゐ)梯(てい)携(けい)等(ら)を遣(つかは)して、詔書(しょうしょ)印綬(いんじゅ)を奉(たてまつ)りて、倭(わの)国(くに)に詣(いた)らしむ。

四十三年。魏志に云はく、正始(せいし)の四年、倭王、復(また)使(つかひ)大夫(たいふ)伊声者掖耶約等(ら)八人を遣(つかは)して上献(しょうけん)す。

六十六年。是年(ことし)、晋(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年なり。晋の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳(おさ)を重(かさ)ねて貢献(こうけん)せしむといふ。

 

 神功摂政三十九年は景初三年で西暦二三九年、四十年は正始元年で二四〇年、四十三年は正始四年で二四三年、六十六年は泰初二年で二六六年、計算すると神功摂政元年は二〇一年、末年の六十九年は二六九年となる。

 神功摂政紀には、海外史料と照らし合わせられる記述がほかにもある。

 

神功摂政五十五年。百済の肖古王(せいこわう)薨(みう)せぬ 

五十六年。百済の王子貴須(せしむくゐす)、立ちて王(こきし)と為(な)る。

六十四年。百済国の貴須王薨(みまか)りぬ。王子枕流王(とむるおう)、立ちて王と為る。

六十五年。百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(あか)王年少(としわか)し。叔父(おとおぢ)辰斯(しんし)、奪(うば)ひて立ちて王と為る。

 

 百済本紀によれば、近肖古王(肖古王)の在位は三四六~三七五年で、崩年は三七五年。近仇首王(貴須王)の在位は三七五~三八四年で、即位年は三七五年。日本書紀は貴須王の即位年を肖古王の崩年の翌年にしているが、前王の崩年を即位年とする当年称元法を採用したか、翌年を即位年とする越年称元法を採用したかの違いによるものだろう。

 貴須王の崩年と枕流王の即位年は三八四年で、神功摂政六十四年。枕流王の崩年は翌年の三八五年で、神功摂政六十五年となる。

これらから、神功摂政元年は三二一年、末年は三八九年と計算できる。

つまり、神功摂政元年は西暦二〇一年と三二一年、末年は二六九年と三八九年の二通りがあることになる。神功元年と末年のそれぞれの年を比較すると、元年は三二一年引く二〇一年で百二十年、末年は三八九年引く二六九年で百二十年の差がある。神功摂政元年を二〇一年とし、末年を三八九年とすると差は百八十九年。神功摂政は六十九年だから、百二十年分が加えられていることになる。

 一方、雄略五年と応神元年の間の実年は七十二年だったが、紀年は百九十二年経っており、百二十年分が短くなっている。逆に神功摂政紀は百二十年延長されており、短くなった百二十年が相殺されている。

 神功摂政紀で紀年延長がなされているとは本居宣長が指摘したことだが、倉西氏は百二十年の紀年が増減され相殺されていることを発見した。

 さて、神功皇后卑弥呼が同一人物であるかどうかを検討しよう。神功摂政末年を応神元年の前年の三八九年とすると、卑弥呼とは時代が異なるから、明らかに別人となる。

 では、神功摂政元年を二〇一年、末年を二六九年とした場合、年代的には合致するが、同一人物といえるかどうかである。

 卑弥呼が初めて登場する魏志倭人伝を参照しよう。

 魏志倭人伝によると、以前から邪馬台国の南にある狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と不和だった卑弥呼は、正始八年に戦争となり、魏から黄幢(こうどう)(黄色の旗)と檄文がもたらされた。戦争が原因かどうかはわからないが「卑弥呼以死、大作冡」とあり、卑弥呼は亡くなり、大きな墓を作ったことになっている。その後、男王が即位したが国はまとまらず、卑弥呼の宗女の壱与(豊与)が十三歳で女王になった。

 卑弥呼の死が正始八年だとすれば、二四七年のことである。となると、神功摂政六十六年、泰初二年の二六六年に遣いを晋に送った倭女王は壱与となる。神功摂政は六十九年、二六九年まであるから、卑弥呼が死に壱与が女王になったとき、神功皇后は生存していたことになる。

 神功皇后卑弥呼と壱与の二人になることは不可能だから、倭女王は神功皇后とは別人という結論が導きだせる。

 もっとも、日本書紀には倭女王とあるだけで名前が記されていないから、編纂者が誤解して神功皇后に比定したとか、卑弥呼と壱与の二人と知っていながら、倭女王であるなら朝廷に存在する人物でなければならないと、あえて神功皇后に比定したなどの反論がでてこよう。

 しかし、日本書紀の編纂者は中国の文献に精通していたはずだから誤解することはあり得ないし、神功皇后に比定するなら、日本書紀の書き方から推測して、皇后が遣いを送ったという主体的な書き方になるはずである。

 倭女王に関する条はいずれも海外文献からの引用である。ほかの海外文献の引用はすべて分注扱いだから、年が正文(普通の文字の大きさ)で書かれていても、分注にほかならない。中国の文献に倭女王についての記事があるから、とりあえず引用しておこうという、伝聞扱いの編纂をしている。

 後世に倭女王と神功皇后を混同する研究者が現れたのは、中国と外交交渉を持ったのは大和朝廷という思い込みがあり、さらに「女王」とあるから朝廷の王という先入観が、卑弥呼神功皇后に比定することになったのであろう。

 神功皇后卑弥呼を混同する原因になったのは、応神元年と雄略五年の間の紀年が、実年より百二十年延長されているため、その分を遡らせた結果、神功摂政元年が二〇一年になった。そして卑弥呼の記事が魏志倭人伝に載っていたので、分注として引用したところ、後世に混同したというのが本当のところだろう。

 魏志倭人伝にある西暦二三九~二六六年の卑弥呼の時代が、B列による日本書紀の年代列でほかの天皇の御世となっていたら、そこに倭女王の記事が記載されたに違いない。神功皇后卑弥呼の混同は、百二十年という期間が過去へ遡ったため偶然に起きたいたずらである。

 神功皇后卑弥呼はまったく異なる人物にほかならない。

 さて、神功皇后摂政紀が六十九年と六十年を超え、薨去年齢は百歳となっており、紀年延長がなされていると考え一元六十年をそれぞれから引くと、摂政期間は九年、薨去年齢四十歳となる。

 日本書紀仲哀天皇在位を九年としているが、那珂説によると成務天皇崩御年は三五五年、仲哀天皇崩御は三六二年だから、仲哀天皇の在位は七年となる。

 仲哀天皇崩御年から神功末年の三八九年まで二十七年で、これが六十九年とされている神功皇后の摂政期間に相当する。

 神功皇后が三八九年に四十歳で薨去したとすると誕生は三四九年、仲哀末年の三六二年には十三歳、十分に出産できる年齢である。

 応神天皇の宝算は百十歳だから、一元六十年が加算されているとして、宝算を五十歳とする。宝算から日本書紀の在位期間四十一年を引くと九年で、一元を引いた神功摂政期間の九年と一致する。この場合、応神天皇が九歳で即位するまで、天皇不在のまま神功皇后が摂政を務め、その後は応神天皇を補佐したことになる。応神天皇が三七一年に九歳で即位したとすると、神功皇后薨去年三八九年には二十七歳、それまでの在位期間は十八年となる。

 これらから推測すると、仲哀天皇崩御直後は神功皇后が摂政を務め、新羅制圧による朝鮮半島情勢の収拾や、異母兄らの謀反制圧を終えると応神天皇が即位し、神功皇后が末年まで補佐したと考えられる。

 古事記日本書紀と違って神功摂政紀を立てていないのは、摂政期間が仲哀天皇応神天皇の治世に含まれていると考えたからだろう。それに対し日本書紀は、神功皇后が神憑り能力に優れていたから、祭祀を司るのは天皇に準じると考えて神功摂政紀を立てたのではないか。そして、ほかの天皇崩御と即位に倣い、神功皇后薨去した三八九年の翌年三九〇年を応神元年としたのではないか。

 一方、那珂説の応神末年三九四年にも問題がある。応神元年を三九〇年、崩御年を三九四年とすると、在位は五年となる。だが、日本書紀は応神八年に百済の王子直支の来日を、十六年には百済の阿花王の死去をそれぞれ伝えている。百済本紀によれば、直支王子が人質として訪日した年を三九七年、阿華王の崩年を四〇五年としている。いずれも応神元年が三九〇年となる根拠の出来事でもあり、百済本紀の記載を優先すれば、応神朝は少なくとも十六年まで続いたことになる。

 雄略五年から応神元年、神功摂政紀にかけて、実に複雑な操作が行われており、どれが正しいと後世の人間が結論することは不可能である。この期間は、断片的に残されたさまざまな史料と、讖緯説とを整合させる最も難しい場面だったのではないか。いうなれば、史料に基づいた歴史と、讖緯説により創作した神武紀元をどう融合するか、選録者たちを苦しめた期間だったと考えられる。

 さて、神功摂政紀は半島情勢の緊迫化を受けて、百済新羅にからむ記事が多く記載されている。神功摂政四十六年に百済の肖古王が日本と交流を望んだという記事があり、翌年の四十七年には百済王が久氐(くてい)ら三人の使者を送って朝貢した。この時、新羅の使いが一緒に来て、百済の貢物を奪い、新羅の貢と偽ったことが判明したことから、四十九年(西暦三六九年)に新羅を征伐した。

 この戦勝に感謝した百済が、日本へ使者を送った記事が次である。

 

五十二年の秋九月(ながつき)の丁(ひのと)卯(う)の朔(ついたち)丙子(ひのえね)に、久氐(くてい)等(ら)、千熊(ちくま)長彦(ながひこ)に従(したが)ひて詣(まうけ)り。則(すなわち)ち七枝刀(ななつさやのたち)一口(ひとつ)・七子(ななつこの)鏡(かがみ)一面(ひとつ)、及び種種(くさぐさ)の重宝(たから)を献(たてまつ)る。

 

 久氐らが七枝刀と七子鏡、さまざまな宝を献じたと記録されている。七枝刀は石上神宮に伝わる国宝で、金象嵌で「泰和四年」と文字が刻まれており、東晋の大和四年(三六九年)と考えられている。

これらから、新羅征伐に感謝した百済が、征伐年の泰和四年、すなわち三六九年に七枝刀を製造し、三年後の神功摂政五十二年、三七二年に朝貢したことがわかる。

 百済本紀には近肖古王(在位三四六~三七五年)、近仇首王(同三七五~三八四年)、枕流王(同三八四~三八五年)、辰斯王(三八五~三九二年)の即位年と末年が記されている。

 百済本紀と神功摂政紀の二つの記録は一致しており、歴史的事実だったことが確認できる。

 七枝刀が奉献された事実や、百済王の即位などの記事の一致は、神功皇后が実在したことを明確に示している。

 不思議に思うのは、神功皇后架空説の論者は、応神天皇の母親は誰だったと考えているのかということである。母親なくして子供が生まれないのは、大人なら誰だって知っている。応神天皇の母親が神功皇后でないというなら、実際の母親を特定するのが学問ではないだろうか。そうした裏づけもなく存在を否定するだけでは、それこそ根拠のない想像になり、科学的姿勢とはほど遠いものである。

 同様のことが、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣でもいえる。昭和五十三年に傷みが激しい鉄剣の保存処理とエックス線調査が行われ、刀の両面に文字が刻まれていることが判明した。

 

表の銘文。

辛亥(かのとい)の年七月中、記す。乎獲居(オワケ)の臣。上祖の名は意富比垝(オオビコ)。其(そ)の児(こ)、名は多加利足尼(タカリノスクネ)。其の児、名は弖已加利(テヨカリ)獲居。其の児、名は多加披次(タカヒシ)獲居。其の児、名は多沙鬼(タサキ)獲居。其の児、名は半弖比(ハヒテ)。

裏の銘文。

其の児、名は加差披余(カサヒヨ)。其の児、名は乎獲居の臣。世々、杖刀人(じょうとうにん)の首(おびと)と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)の大王の寺、斯鬼(シキ)の宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

おおよその訳は、「辛亥の七月に記す。オワケの臣の古い先祖はオオビコで、代々武人である杖刀人の長をして今に至っている。ワカタケル大王の寺がシキの宮にあるとき、政治を補佐し、この百練の刀を作らせ、仕える根拠を記した」である。

 ワカタケル大王は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇雄略天皇)、意富比垝は大彦命のことである。辛亥の年は四七一年、雄略天皇の治世期間四五七~四七九年に含まれ、雄略十五年となる。

 日本書紀には、大彦命孝元天皇の長男で、開化天皇の実兄とある。そして、崇神天皇の十年に、東海(うみつみち)、西道(にしのみち)、丹波(たには)、北陸(くがのみち)の四道を制圧する四道将軍の一人として北陸へ出陣している。鉄剣に刻まれた銘文により、大彦命の実在は確実になったのである。

 大彦命がいれば当然ながら父がいて、兄弟もいるだろう。となると、父の孝元天皇と弟の開化天皇も存在したと類推できるが、両天皇欠史八代に含まれるため実在を認めようとしない学者諸氏がいる。

彼らが欠史という言葉を聞くだけで思考停止してしまうのだとしたら、とても学問にはならない。

巻の二 後編 60年が謎のカギ

ヨ 百歳を超える天皇が多い理由

 

 神武天皇紀元が西暦紀元前(BC)六六〇年に設定されたのはなぜなのか。百歳を超える長命の天皇が十一人、治世が六十年を超える天皇仁徳天皇以前に十人もいるのはなぜなのか。日本書紀にはさまざまな謎がある。

 それを解明するには、応神元年から雄略五年の間に、実年の七十二年に対し紀年が百二十年加算された理由を理解しなければならない。すでに明治時代に那珂通世が指摘したところだが、百二十年延 長の背後にある讖緯(しんい)思想を考慮しなければ、真実は見えてこない。

 讖緯とは予言のことである。いつの時代でも予言を好む人々はいるが、上代人は治世にあたり、十干十二支に易経陰陽道などを組み合わせた讖緯思想を重要視した。これらは当時の最高の先端科学ともいうべき思想で、特に聖徳太子は熱心だったといわれる。

 十干は甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)葵(き)で、十二支は子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い)。甲に子を、乙に丑をというように組み合わせていく。さらに十干に易経の五行の木火土金水を当てはめ、甲=木(き)の兄(え)、乙=木の弟(と)、丙=火(か)の兄(え)……と読んでいくと、六十年で最後の葵(みずのと)亥(い)となる。

 これを一元とし、二十一回廻った千二百六十年を一蔀(ほう)とし、例えば甲子(きのえね)の年は法律である令(りょう)が革(あらた)まる革令の年、辛酉(かのととり)は天命が革まる革命の年と考えるのが讖緯思想である。

 さて、日本書紀天皇の在位期間を網羅しているが、宝算については多くが抜け落ちている。これに対し、古事記は紀年が記されたのはわずかな代わりに、多くの天皇の宝算と、崇神天皇から推古天皇までの二十四代のうち、十五代について崩御年の干支を分注として記載している。

 これを分注崩年干支といい、干支を基に天皇の崩年を西暦に換算したのは那珂通世である。那珂説と日本書紀に記された天皇の末年とを比べると、二十七代安閑天皇が五三五年で一致し、三十代敏達天皇は那珂説が五八四年で一年少なく、次の三十一代用明天皇から以降は一致している。逆に代を遡るにつれて日本書紀天皇末年と那珂説は次第に差を大きくしていく。

 これらから、紀年延長とは関係のない古事記の分注崩年干支は、何らかの事実を伝えていると推測することができる。そして、代を遡るほど那珂説の崩御年と日本書紀の末年の差が大きくなっていくのは、日本書紀が「ある目的」を持って紀年延長を図ったことによると考えられる。

 この「ある目的」とは、神武紀元という最初の記念すべき年を、特別の干支の年に設定することである。

 ここで前提にしておきたいのは、日本書紀は正確な暦のなかった時代のことを讖緯説によって年紀を立て、月日も詳しく記載するなど、歴史書の体裁を無理して整えていることである。このため、実際の伝承と矛盾を生じることになった。

 百歳を超える天皇が非常に多く、世継ぎ誕生時の父天皇の年齢が六十歳以上になるなど、常識ではあり得ないことが記載されている。ほかにもさまざまな矛盾があるが、典型的なのが第十四代仲哀天皇の誕生である。

 仲哀天皇の宝算は、古事記日本書紀ともに五十二歳となっているが、これを基に誕生年を逆算すると、叔父の成務天皇十九年となる。しかし、父親の日本武尊(やまとたけるのみこと)は前の天皇の景行四十三年に亡くなっている。景行天皇の在位は六十年だから、誕生年の成務十九年とは三十六年の空白が生じる。すなわち、日本武尊が亡くなった三十六年後に仲哀天皇が生まれたことになる。

 これを指摘して日本書紀を信用できないと批判する学者がいるが、長寿天皇を何人も創るより天皇の人数を増やすほうが信憑性が高いのと同様に、平田俊春氏は「仲哀天皇の宝算を三十六年延長して『八十八歳』としておけば、簡単に解決するのである」(神武天皇紀元論 日本文化研究会編 立花書房)と指摘する。

 それとも批判者は、日本書紀の執筆者が、矛盾に気がつかないほど無能だったとでも主張したいのだろうか。

 日本書紀仲哀天皇誕生の矛盾を訂正しなかったのは、古事記との宝算一致で明らかなように、古伝承に手を加えなかったからである。あくまでも伝承を優先し、歴史書の体裁を整えるにあたり、改竄することがなかった故の矛盾にほかならない。歴史書の体裁をより重視するなら、伝承は元の姿を失っていただろう。

 では、なぜ矛盾を承知で日本書紀を選録したかだが、那珂通世が明治時代に指摘したように、讖緯説によって神武天皇元年を一蔀の最初の辛酉の年にしたためである。

 辛酉は革命、甲子は革令の年で、一蔀の最初の辛酉の年は、世が変わり新時代に入るというのが讖緯説である。

 日本書紀の選録者は、神武紀元を決めるにあたり、推古九年(西暦六〇一年)を一蔀の最初の辛酉の年とし、これより一蔀千二百六十年前の辛酉の年に、奈良県の橿原で神武天皇が国家成立を宣言したと考えたのである。

 推古九年は平穏な年で、一蔀の最初の辛酉年にふさわしい新時代到来を思わせる出来事がなかったからと、讖緯説による神武紀元の設定に疑問を投げ掛ける向きがあるが、推古十二年の甲子年を基準にして、三年前の辛酉年が一蔀の最初と決められていることを見落としてはならない。

 推古十二年には元嘉暦が採用され、冠位が制定され、正徳太子が十七条の憲法を制定した。この年は革令の年にふさわしい出来事が多く、一蔀の最初の甲子年と受け止めれば、その三年前の辛酉年が一蔀の最初の年と考えるのは自然の成り行きである。

 そして、聖徳太子日本書紀の原典となる帝紀旧辞を選録したことを考えれば、推古九年が一蔀の最初の辛酉の年となるのは必然だった。

 こうして神武元年は推古九年の千二百六十年前の辛酉年と決められ、雄略紀から遡って紀年が創られていく。

 その際、応神紀にみられたように、伝承を基にした年代列が、讖緯説で統一された日本書紀の紀年にはめ込まれていったから、矛盾が生じることになった。

 そして仲哀天皇以前は、照らし合わせる海外史料がないから、天皇の異常な長寿や仲哀天皇誕生などの矛盾を承知のうえで、統一された紀年に古伝承を挿入していったのだろう。

 では、讖緯説によってどれだけ紀年が延長されたかといえば、那珂通世は約六百年と推測した。もっとも、神武天皇から崇神天皇までの十代の天皇について、在位期間を一代三十年と仮定しての計算だから、統計を歴史に持ち込む愚を犯している。

 歴代天皇の宝算と在位期間を俯瞰しよう。神武天皇から仁徳天皇までの十五代にあって、百歳を超える天皇は十一人、十人の在位期間が六十年を上回っている。

 これから検討する紀年は、応神元年から雄略五年までに百二十年の延長がなされていることを前提にする。

 在位期間が六十年を超える天皇のうち、第九代開化、第十二代景行、第十三代成務の三天皇の在位期間がそろって六十年で、景行天皇成務天皇と二代続いていることに注目しなければならない。

 三人の在位が六十年で、さらに二代続けてとなると、偶然では片付けられない要素が含まれていると、普通なら考える。確率論からいえば、開化天皇から成務天皇まで五代の中で、三人の在位が六十年で完全一致する可能性はわずかである。

 それも、雄略五年から延長された百二十年を含め、百九十二年の年を遡って応神元年に至り、在位が九年と短かった仲哀天皇の前の成務天皇から、二代が続けて在位六十年となると、執筆者の意図が透けて見えてこないだろうか。

 正確な暦がない時代、天皇の宝算や在位期間がどのていど伝承されていたかだが、年齢や在位期間を正しく記録することは難しく、史料というものは非常に少なかったと考えられる。

 日本書紀仁徳天皇から推古天皇までの十八代中、在位期間は全天皇に記載されているが、宝算も記載されているのはわずか六代にすぎない。これに比べ、応神天皇以前のより古い時代の歴代すべてに、宝算と在位期間が記載されているのは、推古九年の千二百六十年前の辛酉の年を神武紀元とする大前提により、宝算や在位期間を執筆者たちが創り上げたからにほかならない。

 史料が残っていなくても歴史書を創らなければならないとなると、頼るのは古代の「科学」である讖緯説や陰陽道、干支しかない。そして、後世の人も讖緯説や陰陽道に詳しいことを前提にして、推古九年から一蔀千二百六十年前の神武紀元を、無理なく受け入れられるように創りだしたのが、異常に長い在位期間と宝算だったのではないか。

 こう考えてくると、日本書紀の紀年を読み解く鍵は一蔀の千二百六十年であり、それを構成する一元六十年となる。

 開化、景行、成務の三天皇の在位期間がそろって六十年となっているのは、在位期間の記録が残っていなかったため、一元六十年に統一したためだろう。後世の人がこれを見ても、讖緯説や陰陽道の知識を持っていれば、そろえた理由がわかるからである。

 さらに、あるていどの記録が残っていた歴代の在位期間に、一元六十年を加えて紀年延長を図った。その際、推古九年から仲哀元年まで、空位年一年を考慮して四百十年経過しているので、成務末年から神武元年までを八百五十年とする必要があった。

 成務天皇景行天皇開化天皇の在位期間は六十年だから、六十年を加えたとすると在位期間がないことになってしまうが、開化天皇孝元天皇の在位五十七年に、景行天皇成務天皇垂仁天皇の在位九十九年に、それぞれの在位期間が合算されているからだと考えられる。

 つまり、孝元天皇の在位期間の五十七年は、孝元天皇開化天皇の二人の在位期間の合計、垂仁天皇の九十九年は、垂仁天皇景行天皇成務天皇の三人の在位期間の合計となる。

 在位期間が六十年を超える天皇が続くなかで、孝元天皇が五十七年と一人だけ以下なのは、開化天皇との合算だから六十年を加算しなかったためと考えられる。同様に、垂仁天皇の九十九年は三人の天皇在位期間の合計だから、これも加算はなされていないと考えていいだろう。

 第五代孝昭天皇まで加算を続けてきて、紀年の合算が六百六十六年となり、残りが百八十四年となったところで、古事記では宝算が短い第四代懿徳(とく)天皇(四十五歳)、第三代安寧(あんねい)天皇(四十九歳)、第二代綏靖すいぜい)天皇(四十五歳)の在位を伝承通りとした。そして、伝えられている神武天皇綏靖天皇間の空位四年を考慮して、初代神武天皇の在位に六十年を加え七十六年として調整したと考えられる。

 多くの天皇の宝算が百歳を超える長寿になっているのも、伝えられていた宝算に一元六十年を加えたからと考えれば辻褄が合う。ちなみに、神武天皇日本書紀の宝算百二十七歳、在位期間七十六年からそれぞれ六十年を差し引くと、宝算六十七歳、在位十六年となる。長寿天皇の宝算と在位期間からそれぞれ六十年を引けば、実際と思われる数値に近づくだろう。

 在位五十七年、宝算百十六歳の孝元天皇は、宝算から六十年を差し引けば五十六歳で、古事記の宝算五十七歳とほぼ一致する。これは、原史料から選録するにあたり、実際の宝算に六十年を加えたことを示唆している。また、古事記の宝算と日本書紀の在位期間が一致しており、日本書紀の執筆者が宝算と紀年と誤解を混同した可能性がある。

 成務末年から神武元年まで、紀年が六十年延長されているのは八人の天皇で、合計は四百八十年である。成務末年から神武元年までの紀年の合計は八百五十年だから、実際の経過年数は三百七十年となる。

 応神元年から雄略五年まで、加算されていたのは二元の百二十年だった。これに八代の四百八十年を加えると、延長された紀年は六百年となり、奇しくも那珂説と一致する。すなわち、神武元年は西暦紀元前六〇年前後と推測できる。

 日本書紀私記や釈日本紀などの日本書紀解釈書が天皇の長寿を話題にしていないのは、当時の人々が長寿の理由を、すぐに理解できたからだろう。

 神武元年が讖緯説によって創られているからといって、歴史的に間違っていると否定すべきではない。紀年から実年を推定するのは、歴史研究の立場では必要であっても、上代人が日本国成立の初めと考えた神武紀元は、日本人の情操に深く刻み込まれ血肉となっているのだから、伝承による紀元だと納得しておけばいいのである。

 ちなみに、西暦元年はイエス・キリストの誕生年と一般にいわれているが、実際には誕生四年後である。だからといって、西暦元年を四年前に改定しようなどという杓子定規な動きなどどこにもない。

 

イ 入り組んだ百二十年

 

雄略五年から応神元年までの百二十年の延長は、在位期間に一元六十年を単純に加えたものではない。海外史料との比較ができる時代になっているため、対外的な歴史書である日本書紀は、それらとの整合性を保たなければならなかった。歴史と伝承の狭間の時代である。このため、雄略五年から応神元年の百二十年については複雑な工夫がなされている。

 応神元年から雄略五年まで、二元百二十年がどのように加えられたかを検討しよう。

 まず、日本書紀古事記の関係だが、古事記は歴史書の体裁にこだわらず、日本書紀よりもより古い形で伝承を伝えている。分注崩年干支のように、何らかの原史料を基に、加工せず選録されている可能性が大きい。そこで、古事記に記載されている宝算や在位期間は、普通では考えられない長寿を除いて、原史料を忠実に反映しているという前提に立つことにする。

 日本書紀仁徳天皇の在位期間を八十七年、古事記は分注崩年干支から計算すると、在位三十一年、宝算八十三歳となっていて、古事記の宝算より日本書紀の在位期間のほうが長いという矛盾が起きている。

 前提にしたがって古事記の在位三十一年が正しいとすると、日本書紀は五十六年の紀年延長がなされていることになる。同様の前提に立つと、反正天皇は五年で一致、安康天皇日本書紀だけ三年としているからそのままとし、日本書紀履中天皇在位六年、允恭天皇四十二年に対し、古事記履中天皇五年、允恭天皇十六年だから、紀年延長はそれぞれ一年、二十六年となる。三天皇の延長された紀年を合計すると八十三年となる。

 雄略五年から応神元年までの延長紀年百二十年から、三天皇の合算した延長紀年八十三年を引くと三十七年となる。これが応神天皇の延長された紀年となる。

 日本書紀応神天皇在位は四十一年だから、延長された三十七年を引くと、実際の応神在位は四年と計算される。応神元年は三九〇年だったから、応神末年は三九三年ということになる。

 これを基に、延長紀年を引いて各天皇の末年を西暦に換算すると、仁徳四二六年、履中四三一年、反正四三六年、允恭四五三年となる。

 那珂説によると応神末年は三九四年、仁徳四二七年、履中四三二年、反正四三七年、允恭四五四年で、先に算出した各天皇の末年といずれも一年の差がでる。

 仁徳天皇の在位期間にはもう一つ、不思議な数字の一致がある。履中天皇の在位六年、反正天皇の五年、允恭天皇の四十二年、安康天皇の三年の四代を合計すると五十六年で、仁徳天皇の在位期間八十七年から古事記の在位期間三十一年を引いた五十六年と一致する。仁徳紀に四代の治世が含まれているとみることもできる。

 延長された紀年、仁徳天皇の五十六年と允恭天皇の二十六年には、ほかの天皇の年代列が重複して挿入されている可能性が高い。

どれが正しいかは断定できないが、雄略五年~応神元年まで、このようにさまざまな操作が行われており、海外史料と整合性を保つために、非常な苦労を重ねていることがわかる。

巻の二前編 記紀の不思議に迫る 

 古事記日本書紀を、後世の潤色が多く歴史的事件を伝えていないと批判したのは、戦前から戦後にかけて、歴史学会に一大旋風を巻き起こした津田左右吉(そうきち)だった。津田史学は文献批判、史料批判を基に記紀を分析、戦前は皇国史観に反するとして著作が発禁になり、不敬罪で裁判にもかけられた。

 戦後は逆に皇国史観に反対した硬骨の歴史家としてもてはやされたが、実のところ津田の皇室崇敬の念は強く、反共産主義者ということもあって、当時の左翼陣営の皇室批判には同調しなかった。

 戦後の歴史学、特に古代を対象とする歴史学は、史料批判という津田史学を誤った形で受け継ぎ、古事記日本書紀に記された歴史や物語を、天皇を正当化する後世の創作だとして、歴史書として認めようとしなかった。

 現代につながる自虐史観の大本をなす誤謬といっても過言ではないだろう。

 敗戦直後の歴史学界で名を成した学者は、GHQの公職追放の嵐から免(まぬが)れた占領軍の御用学者や、皇国史観からの転向者ばかりだったから、占領政策の先棒を担いで記紀や我が国の伝統を否定するのにやっきとなった。普通の感覚なら、独立回復でGHQへの追従を止めるはずなのに、何を思ったか朝日新聞などの大マスコミが占領政策を引き継ぎ、我が国の歴史と伝統を否定する自己検閲で、歴史解釈を捻じ曲げてしまった。

 浅はかな彼ら大マスコミは、自己検閲を正義だと曲解し、古代史の研究を大きく歪め、思考停止の暗幕を人々の上に張り巡らせたのである。その偏向報道は現在も続いている。

 戦前の皇国史観は教条的すぎて歴史を歪めた。戦後の史料批判による歴史学は、特定のイデオロギーに毒されて記紀を否定し、国民の歴史認識を一段と歪(いびつ)にした。

 しかし、歴史認識に関する中韓のなりふり構わぬヒステリックな外圧が、思考を厚く覆っていた黒雲を吹き散らし、理性の光が射すようになって、国家のあり方を真剣に考える国民が増えている。それに呼応するように、誤った歴史観と決別し、古代史に真剣に取り組む学者諸氏が続出している。

洗脳が解け始めたことで、先入観を持たずに古代の歴史を明らかにできる時期が到来した。歓迎すべきことである。

 

ヒ 天皇長寿の謎

 

 中世まで、日本書紀は朝廷や一部の神道界の重鎮が書写し研究しているだけだった。しかし、江戸時代になって日本書紀全巻が木版印刷されて一般に普及し、歴代天皇の在位期間や宝算(崩御年齢)が異様に長いことに、新井白石本居宣長などの儒学者国学者から疑問が呈された。

 確かに、日本書紀の紀年(神武元年、二年…と数える記述法)、すなわち在位期間は第六代孝安天皇が百二年、第十一代垂仁天皇が九十九年と長く、宝算にいたっては神武天皇百二十七歳、孝安天皇百三十七歳、第七代孝霊天皇百二十八歳、垂仁天皇百四十歳と軒並み百歳を超え、百歳以上の天皇は十一人を数える。疑問を覚えるのは当然である。

 だからといって、天皇の存在そのものを架空の産物と断言することはできない。

 津田左右吉は第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までのいわゆる欠史八代について、元にした資料が異なるのに、古事記日本書紀天皇名が一致している。物語が記載されていないことについては平和だったからで、それが存在を疑う強い根拠とはならないと指摘している。異常な長寿はともかくとして、津田左右吉欠史八代を含め、歴代天皇の存在を疑わなかったのである。

 さて、古代天皇のあり得ない長寿や紀年の長さの解明に、多くの学者が取り組んできた。明治時代に紀年論争に火をつけたのは、東洋史学者の那珂通世で、明治二十一年に「日本上古年代考」を発表、中国の予言説を基にした讖緯(しんい)説によって紀年が延長されていると主張、大論争を巻き起こした。それ以来、紀年の研究がさまざまに行われてきたが、いまだ定説となっているものはない。

 讖緯説については後に詳しく論じるが、ほかの代表的な紀年論に「春秋二倍暦説」と「復元紀年説」がある。いずれも延長された紀年を修正し、実年代を求めようというものである。

 まず春秋二倍暦説だが、日本の上古は春夏と秋冬をそれぞれ一年と数えていたから、一年が倍の二年と計算されており、紀年や宝算を実年に修正するには半分にしなければならないとする説である。

 この説が提唱されたのは、宋の時代に裴松之(はいしょうし)という学者が、卑弥呼で有名な魏志倭人伝に、「魏略」という書物から引用してつけた注釈が根拠になっている。注には「魏略に曰く、其の俗正歳四節を知らず、但し、春耕秋収を計って年紀とする」とあり、倭国は一年を通じる暦がなく、春と秋を年の初めとして歳や紀年を計算しているというのである。

 春秋二倍暦を最初に提唱したのはウィリアム・ブラムセンというデンマーク人の研究者で、明治十三年に「日本年代表」という論文を発表した。ブラムセンの春秋二倍暦説は、魏略によったものではなく、紀年や宝算が異常に長いことに注目して考え出されたものだった。

 日本人では、気候学者の山本武夫が魏略に注目し、昭和五十四年に「日本書紀の新年代解読」(学生社)で春秋二倍暦を発表した。最近では芥川賞作家の山城修三氏が「紀年を解読する」(ミネルヴァ書房)や「日出づる国の古代史」(現代書館)で、建築家の長浜浩明氏が「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)で春秋二倍暦説による紀年解読を行っている。

 独創的な着想だが、弱点は日本書紀の紀年が春夏秋冬を通じて一年として記されていることである。春夏を一年、秋冬を一年とするなら、春夏と秋冬の部分が一年ずつになり、交互に記載されていなければならないのに、日本書紀は例えば崇神七年のように春二月(きさらぎ)、秋八月(はづき)、冬十一月(しもつき)の出来事が同じ年のこととして記載されている。これが明確に説明できないと、春秋二倍暦は支持を得ることがなかなかできないだろう。

 さらに魏略の注は、中国では一年が四節分で区切られているのに対し、倭国はそれを知らず暦が存在しないとし、「春耕秋収を計って年紀とする」とあるから、春耕から秋収、秋収から春耕までを一年と数えているとも読める。春秋二倍暦なら、春耕から秋収、秋収から春耕をそれぞれ一年と数えると指摘しているはずである。やはり、春秋二倍暦説には無理があると言わざるを得ない。

 一方、復元紀年説は、日本書紀には記述のない空白の年があることから、空白年をすべて除外し、記事のある年だけが実際にあった年だとして紀年を作り直すものである。この説は非常に複雑な操作が必要になるし、記録されていないからその年は存在しなかったことにするのは、あまりにも短絡的である。津田左右吉が言うように、物語がないのは平和の証拠だとしたら、空白年を除外するのは無理がある。

 ほかにも、言語学者安本美典氏のように古代天皇の在位期間を平均十年として紀年論を展開する学者がいるが、歴史に統計学を持ち込むのは的外れである。統計学で傾向をつかむには、取り上げるデータの数が大量でなければ、誤った結論を導くのは数学の常識である。しかし、神武天皇から昭和天皇まで百二十四代、すべての天皇在位期間をデータに取っても、統計学の対象になる数とはならない。まして、十代で百年だから一代十年と結論するのは、あまりにも短絡的である。

歴史に統計的手法を持ち込むと、データ不足から結論を誤ることになる。

 

フ 百二十年の謎

 

紀年を考えるにあたり、海外史料と照らし合わせ、歴史的事実と確認できる記事が記載されている雄略天皇紀から考察を始めよう。

 雄略五年六月の条に、百済の武寧(むねい)王になる嶋君(せまきし)が生まれたという記事がある。さらに継体十七年に「百済國王武寧薨」とある。雄略天皇紀は二十三年まであるから五年を引いて十八年、清寧天皇紀五年、顕宗天皇紀三年、仁賢天皇紀十一年、武烈天皇紀八年、継体天皇十七年までを足すと、武寧王は六十二歳で死去したことになる。

 一方、一九七二年に韓国の伝武寧王墓から出土した墓誌に、斯麻(しま)王が癸(みずのと)卯(う)の年に六十二歳で死去したと記録されている。百済本紀は武寧王の諱(いみな)を「斯摩」、日本書紀の武列紀では「斯麻」と記しており、斯麻王と武寧王は同一人物であることがわかる。

 武寧王の在位は五〇一年~五二三年で、五二三年から斯麻王の宝算六十二を引くと誕生年は四六一年となる。

 これで、雄略五年は西暦四六一年と確定することができる。

 歴史学者の倉西裕子氏は、雄略五年を基準年にすると同時に、応神天皇元年をもう一つの基準年に置いている。

 同氏の「日本書紀の真実」(講談社選書メチエ)によると、応神三年条に百済の阿花(阿華)王の即位を伝えており、「百済本紀」は阿華王の即位を三九二年としているから、逆算して得られる応神元年は三九〇年となる。

 さらに、応神八年条の分注に百済の王子(こにし)直支(とき)の来日を伝えており、百済本紀は直支王を人質として三九七年に日本へ送ったと記している。逆算すると応神元年は三九〇年となる。また、応神十六年に百済花王薨去を記しており、百済本紀は阿華王が四〇五年に死去したとしているから、逆算すると応神元年は三九〇年となる。

これらから倉西裕子氏は応神元年を三九〇年とする基準年を設けた。ここで問題になるのが、雄略五年と応神元年に挟まれた紀年と西暦年に整合性があるかどうかである。

 応神元年の三九〇年から雄略五年の四六一年までの期間(三八九~四六一)は七十二年である。しかし、日本書紀にある応神紀四十一年、空位年二年、仁徳紀八十七年、履中(りちゅう)紀六年、反正(はんぜい)紀五年、空位年一年、允恭(いんぎょう)紀四十二年、安康紀三年、雄略紀の五年までを合算すると百九十二年となる。海外史料から計算した応神元年から雄略五年までの七十二年と、実に百二十年の差が出る。

 つまり、応神元年から雄略五年までの間に、日本書紀の紀年は実際の経過年七十二年より百二十年長くなっている。それは、雄略五年以前の記載された歴史が、百二十年過去へ遡っていることを意味する。

 倉西氏は応神元年を基準とする紀年をA列、雄略五年を基準とする紀年をB列と規定し、それぞれの年代列があったと指摘している。

 どういうことかといえば、日本書紀全体の紀年はB列によって記されていて、雄略紀を基に応神紀、崇神紀、神武紀などのように紀年が過去に遡っている。そして、紀年の経過とは無関係に、歴史的事実である応神紀のA列がはめ込まれているというのである。

 歴史書であるからには、年代列は一貫していなければならない。にもかかわらず、応神紀のA列のように異なる年代列が並行して書かれているのはなぜだろうか。

 日本書紀の編纂者はB列で全体を統一しながら、A列を組み入れることによって、年代列が複数あると後世の読者に知らせたかったのではないだろうか。

 B列以外にA列があるとなると、ほかの年代列も存在している可能性が出てくる。極端なことをいえば、歴代天皇ごとに年代列があるかもしれないのである。

 

 ミ 雄略紀を最初に執筆

 

 日本書紀の基準年代列が雄略紀であることは、使用された暦によって、最初に雄略紀が書かれたと推測できることからも裏付けられる。

 雄略紀に使われている暦は、中国の南北朝時代に宋の天文学者の何承天(かしょうてん)が編纂した元嘉暦(げんかれき)が使われている。国会図書館の「日本の暦」によれば、元嘉暦は百済を通じて欽明天皇十五年(五五四年)に日本へ伝えられ、推古十二年(六〇四年)から用いられた。

これに対し、唐の天文学者の李淳風(りじゅんぷう)が編纂した儀鳳(ぎほう)暦は、持統天皇六年(六九二年)に元嘉暦と併用され、文武天皇元年(六九七年)から単独使用されている。

 先に元嘉暦が伝わり、後から儀鳳暦が伝来したのだが、雄略紀は古い元嘉暦で記録され、それ以前の巻一~十三は儀鳳暦が使われている。つまり、日本書紀の編纂は天武朝から始まったから、その当時に使用されていた古い元嘉暦を用い、雄略紀から書き始めたことになる。

 そして、巻一~十三は新しい儀鳳暦が使われているから、文武朝以降に執筆されたことになる。

 また、上代特殊仮名の遣い方の分布から、雄略紀以降とそれ以前の巻では、大きな違いがあることが判明した。

 上代特殊仮名遣は、奈良時代以前の上代には、八母音で八十七音節(八十八音節説もある)あったという学説である。国語学者橋本進吉日本書紀万葉集の万葉仮名(漢字の意味に関係なく音で日本語の一字を表した)を分析し、昭和六年に上代特殊仮名遣として提唱した。

 橋本説を受け継いだのが弟子の大野晋(すすむ)氏で、上代の母音を八母音だとし、母音イエオについて甲i・e・oと乙i・e・oと表音記号の書き分けを行った。この六母音にアとウを加えて八母音となる。

 八母音八十七(八十八)音節によると、上代にはイ・エ・オの母音に二種類あって、イ列の「キ・ヒ・ミ」、エ列の「ケ・ヘ・メ」、オ列の「コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ」の十三音について、万葉仮名は甲類と乙類を書き分けており、甲乙の二つは厳密に区別されているという。

 どう区別されていたかといえば、「キ」を表す万葉仮名は支・嗜・吉・棄、喜などが甲類で、「聞く」や「君」、「秋」などを表すときに使う。これに対し、己・紀・寄・気・既などの乙類は、「木」や「霧」、「月」などを表す。

 甲乙の区別は音韻の区別によるもので、平安時代になって甲乙の区別が薄れ、現代の五十音になったというのが、橋本進吉上代特殊仮名遣説である。

 同氏以前にも本居宣長が、同じ音でも言葉に応じて当てる仮字が使い分けられていると指摘し、弟子の石塚龍麿が具体的な使い分けを分類した。この二人の研究を橋本進吉が論文で紹介し、上代特殊仮名遣は言語学界を風靡して定説となり、古典解釈や古語辞典の編集などに大きな影響を与えた。

 言語学者の森博達(ひろみち)氏は、日本書紀上代特殊仮名遣が、正確に遣われている巻と、遣い方を間違え、不自然に使用している巻があることを発見した。そして、遣い方が正しい巻をα群、誤って遣っている巻をβ群と分類し、帰化一世の中国唐人と日本人が分担して日本書紀を執筆したと、新たな視点から分析した。

 その結果、α群が巻十四~二十一、二十四~二十九、β群が巻一~十三、二十二~二十三、二十八~二十九と明確に分けられた。

 間違いのないα群の上代特殊仮名遣は、森氏によると「単一の字音体系(唐代北方音)に基づき、原音(漢字の中国音)によって表記」(日本書紀成立の真実 中央公論社)されていた。つまりα群は、中国語(当時)の正音で書かれており、執筆したのは中国人だというのだ。

 これに対しβ群は「複数の字音体系に基づく仮名が混在し倭音(漢字の日本音)によって表記」(同)されているから、執筆したのは中国原音に精通していない日本人だというのである。

 日本書紀は漢文、すなわち中国語で書かれた歴史書である。協力した唐人の執筆した巻が原音を正確に表記しているのは当然だが、日本人執筆者が書いた部分に間違いが多いのは、彼らが甲音乙音を聞き分けられなかったことを意味する。日本人執筆者は唐人に倣って書き分けたが、甲音と乙音を正しく区別できなかったから、正確に表記できなかったのである。ということは、日本人にとって甲音乙音はなかったことになる。

 森氏は上代特殊仮名遣について六母音説を提唱しており、後に述べる五母音説を主張する学説とも相まって、八母音八十七(八十八)音節説が絶対的な学説ではなくなってきたのは明らかである。

 ところで、森氏によれば、巻十四の雄略天皇紀は唐人が担当したことになるが、それを証明するような記載が日本書紀にある。雄略紀の初めの部分で、天皇が皇后に呼びかけた「吾(わぎ)妹(もこ)」という言葉に、「妻を称(い)いて妹(いも)とすることは、蓋(けだ)し古(いにしへ)の俗(ひとこと)か」と小文字の分注が付いている。

 当時の日本人にとって、妻を妹と呼ぶのは常識だったが、わざわざ注釈したのは、執筆者が奇異に感じたからにほかならない。だが、β群では「妹」の文字が妻の意味で使われていても、分注は付いていない。

 日本人には常識の「妹」という言葉が、雄略紀で注釈されているのは、執筆者が日本人ではなく唐人、それも日本の習俗について詳しくない帰化一世の唐人だったからと推察できる。さらに注釈は最初に現れた文字や単語につけるから、雄略紀に注釈があることは、この巻から執筆が始まったことを意味する。

 歴史書を編纂する場合、古い時代から書き起こすのが普通だと思われるが、なぜ雄略紀から書き始められたのだろうか。それは日本書紀が神代の神話から始まっていることや、古い時代の帝紀や旧事を歴史的事実として選録しようとしても、あまり伝承が残っていないため容易でなく、史料が多く疑いのない部分から書き始めたからだと推察される。

 すなわち雄略紀は、海外史料と照らし合わせて、伝わっている記録が歴史的事実だと認められると、当時の編纂者は考えたのであろう。そのため、雄略紀から以後をまず歴史として選録し、それ以前を遡って記す手法を取ったのではないか。それを裏付けるように、雄略天皇紀の前の安康天皇紀は元嘉暦で、安康天皇前紀は儀鳳暦で記されている。

これらを総合すると、唐人が雄略紀から元嘉暦で書き始め、日本人執筆者がしばらくして時代を遡って安康天皇紀に取り掛かり、その最中に儀鳳暦が施行されたので、安康天皇前紀から前の時代は新しい暦が使われたと推測される。

巻の一 続き 

ミ 縄文文化の先駆性

 

 我が国の古代を、縄文時代弥生時代とに分ける二重構造論が一般的で、網目のついた(ないものもある)縄文土器が作られたのが縄文時代、稲作農耕文化に伴う弥生土器が作られたのが弥生時代といわれている。

 縄文土器についても稲と同じ「誤った常識」がまかり通っている。これまで縄文土器の製造技術は七千~六千年前、シベリアなどから日本に伝わったことになっていた。ちなみに、最古の土器年代はシベリアが七千~六千年前、西アジアが六千五百年前、中国が四千五百年前とされてきた。

 しかし、新たな遺跡の発掘と、炭素14を使った放射線炭素年代測定法の科学的進歩によって、この「常識」は大きく覆され「誤った常識」に転落した。現在までのところ、世界最古の土器は、青森県大平(おおだい)山元I遺跡から出土した文様のない無文土器で、一万六千五百年前のものとなっている。また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡からは一万二千年前の土器が発見されている。

 縄文土器は今のところ世界最古の土器なのである。もっとも、中国湖南省で一万八千年前の土器が発見されたという報道もあるが、世界の学会で権威づけられておらず、詳細はつまびらかではない。

 また、漆についても「常識」が覆され「誤った常識」となった。漆の器は従来、揚子江流域の河姆渡(かぼと)遺跡から発見された七千年前のものが世界最古とされてきた。したがって、漆の技術は中国から入ってきたと考えられていた。

 ところが、北海道の垣ノ島B遺跡から出土した赤色漆が九千年前のものとわかり、漆の技術についても日本が先行していたことが判明した。

 さらに福井県鳥浜貝塚から出土した漆器は一万二千六百年前のもので、DNA鑑定の結果、漆は日本の固有種と判明した。漆器は日本独自の技術だったのである。

 こうした事実にもかかわらず、高度な技術はすべて渡来人がもたらしたという思い込みがいまだに続いている。こんな「非常識」な状態が続くのは、日本という国を貶めようとする、意図的な策謀があるからにほかならない。

 科学や技術は水と一緒で、高い方から低い方へ流れる。高度な文化は、拓(ひら)いた国から存在しない国へと流れていく。これまで発見された遺跡だけから常識的な類推をすれば、縄文土器漆器の製造技術は、日本から海外へ伝わったことになる。

 かといって、日本の文化が最も高くて海外は低いなどと、国粋主義的なことを言うつもりは毛頭ない。ましてや、まだ発見されていない遺跡から常識を打ち壊すような遺物が発見されるかもしれず、いま見つかっているものだけで判断するのは早計である。

だが、大陸の文化が日本より発展していたと思い込んで思考停止した人間は、発見された遺跡から眼を背け、従来の主張を繰り返し続けている。非科学的態度としか言いようがない。

 私たちは戦後教育や反日宣伝工作で刷り込まれている「誤った常識」を、まず疑ってかからなければならない。大疑なければ大悟はない。大疑という楔を「誤った常識」に打ち込めば、真実はおのずから明らかになっていく。

 

 ヨ 日本人のDNA

 

 遺伝子工学の発達で、従来の「誤った常識」が次々と否定されている。そして人類学でも、DNA分析による分子人類学が「誤った常識」に楔を打ち込んだ。

 分子人類学によると、原生人類は二十万年ほど前にアフリカで誕生し、長い時間をかけてアフリカ内部に広がり、「そして約6万5000年程前、ごく少数のヒト集団が意を決してアフリカを後にし、新たな冒険へと旅立っていった。それが出アフリカである」(新日本人の起源 崎谷満 勉誠出版)。

 アフリカで誕生した原生人類は、環境によって遺伝子を変化させながら、さまざまな土地へ移っていった。変化した遺伝子をグループごとにまとめ(これをハプログループと呼ぶ)、どのヒト集団に属するかを客観的、科学的に判断するのが分子人類学である。つまり分子人類学は、それぞれの人種や民族が持つDNAを大きなグループに分け、共通性や違いを明らかにしようという学問である。

 分子人類学は、以前からミトコンドリアDNAの分析によって、ハプログループをつくってきた。ミトコンドリアDNAは母親から子供に伝わるDNAで、母系家系を追跡するのに利用されている。

そうした研究によれば、現代ヨーロッパ人は旧石器時代の七人の子孫であり、アジアやアフリカ人のDNAをも検証した結果、世界中の人間の母系先祖は、アフリカの少数の女性、いわゆる「ミトコンドリア・イブ」だと推定された。

 しかし、ミトコンドリアDNAは母系しかたどれないため、人類の系統や移住地を調べるには不十分である。そこで注目されたのが、父系だけの系統をたどるY染色体DNAである。

 父系をたどるとどういうことがわかるか。例えば、A民族がB民族を支配したとする。この場合、後世のB民族の子孫のDNAは、母系のミトコンドリアDNAには大きな変化がないが、父系のY染色体DNAは圧倒的にA民族の系統が多くなることが判明している。つまり、「征服による融合では、基本的にY染色体DNAの方が多く流入する」(日本人になった祖先たち 篠田謙一 日本放送出版協会)ため、ある民族の支配者の歴史そのものということになる。

 なぜこうなるかといえば、被支配民族の男は支配民族に抵抗しないよう多くが殺され、被支配民族のY染色体DNAが激減するからである。

 ちなみに、「かつての『元』の帝国の版図のなかで、チンギス・ハンに由来するY染色体DNAを持つ人々は男性総人口の八%、およそ一六〇〇万人、満州を建国した太祖ヌルハチの祖父である景祖ギオチアンガの子孫は一六〇万人であると推定されている」(同)。征服者のY染色体DNAが急増することを物語っている。

 ハプログループはA、B、C……と分類され、さらにA1、A2などのサブハプログループに小分類される。

さて、日本人のミトコンドリアDNAのハプログループ分布は、朝鮮半島中国東北部の集団とそれほど違っていないのに、Y染色体DNAは大きく異なっていることが判明している。

 日本人のY染色体DNAは、「出アフリカ」を行ったヒト集団に由来する三大マクロハプログループが三系統ともそろっており、さらにハプログループDが全体の約四割と最も多いことである。

DハプログループにはD1、D2、D3、D*のサブハプログループがある。

 日本人のDハプログループのほぼ一〇〇パーセントがD2サブハプログループに属しており、このグループは日本人だけに存在し、三万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられている。そして、D2サブハプログループはアイヌ人と沖縄人にさらに高い頻度で存在していることから、「いわゆる縄文人」の遺伝子と考えられている。

 ハプログループDは近隣諸国には非常に小数で、高率なのはチベット人だが、日本人とは違ったD1、D3サブハプログループに属している。

 日本人のY染色体DNAの主なサブハプログループは、約四割がD2、O2が三割強、O3が約二割、Cが一割弱となっている。

 これに対し漢族は、O3が五五パーセント、O2が一六パーセント強存在し、Dは一パーセント未満で、O3が漢族の中核的なDNAと考えられる。歴史的に中国と密接な関係を持っていた朝鮮族は、O2が三割強、O3が約四割、Dは二パーセント強となっている。これらから、漢族の朝鮮半島進出によって、宗主国である漢族のO3が多くなったと推測される。

 また、蒙古族はCが五割を上回り、ついで一割強がO3、チベット人はDが四割強で、O3が四割弱となっている。チベット、蒙古とも漢族の進出に押され、Y染色体DNAすらも席巻されつつある実態がうかがえる。

 東アジアは「漢民族の膨張によってDNA・文化・言語の単一化の流れが加速されてきたことは、歴史的に繰り返されてきた。それがDNA分析でもって科学的に実証された」(新日本人の起源)のである。

 日本人独自のD2に、O2、O3がかなり高率で追随しているのは、大陸や半島から渡航してきたいわゆる渡来人が平和的に融合したからと考えられる。もし、渡来人が大挙して押し寄せ、縄文人を武力で征服したのなら、D2の割合は極端に少なくなり、O2やO3が圧倒的に多くなっていなければならない。

 逆に縄文人が渡来人と戦い制圧したのなら、O2やO3の比率はもっと低下していなければならない。

 多様なY染色体DNAの存在からわかることは、渡来人と縄文人は友好的に融合したということである。

古代は鋼鉄製の大型船はおろか、元寇時の大型帆船さえなく、丸木舟で日本と朝鮮半島や大陸を行き来していた。船団を組んで航海していたわけではなく、先住民を制圧できるような大量の人間を、一度に運ぶことは不可能だった。大陸や半島から出た人々が、風や潮に任せて散発的に日本へ渡来したというのが実際のところである。あるいは逆に、日本人が半島や大陸へ散発的に出かけていた。

つまり、渡来人は一時に大量流入したのではなく、ぽつりぽつりと到来し、日本人も同様に進出していたのである。渡来人は必然的に日本の社会に溶け込んでいかざるを得ず、縄文人を駆逐して制圧することなどあり得なかった。

 縄文人弥生人の骨格や頭蓋骨の形の違いを指摘して、縄文人弥生人は違う民族だと主張する形質人類学がこれまで主流だったが、人間の体型は食べ物によって左右され、骨格も大きく変わることを無視している。水稲が普及することで食糧事情が改善され、頭蓋骨や骨格が変化したと考えるほうが妥当ではないか。頭蓋骨や骨格の形だけで縄文人弥生人を異なる人種だと区別するのは行き過ぎだろう。

 稲作だけとっても、縄文時代晩期には水稲陸稲がともに栽培されていたのだから、渡来人がもたらして弥生時代をつくったことは否定される。さらに、Y染色体DNAの分析結果は、日本列島に住んでいたいわゆる縄文人が、水稲の栽培で食生活を改善し、弥生人になったことを示している。

 にもかかわらず、いまだに縄文人弥生人は人種や民族が違うとする二重構造論が社会でまかり通っているのは不思議である。

 その原因は、文明は渡来人がもたらし、弥生時代をつくったという「誤った常識」が、進歩的文化人という人たちの頭の奥底に、こびりついているせいである。それは言葉を変えれば、中華文明絶対主義というイデオロギーにどっぷりと浸かっているからということにほかならない。

 

 イ 銅鐸と銅矛は同じ文化圏

 

 古代遺跡からの出土品の分布でも、思考停止の時代が長く続いた例がある。その典型が、九州は銅剣銅矛文化圏、近畿は銅鐸文化圏で、銅剣銅矛文化勢力が銅鐸文化勢力を滅ぼしたというものだ。遺跡が発掘されるにつれ、この学説は過去の遺物となったが、いまだに銅剣銅矛文化と銅鐸文化の対立を信じている人がいるといけないので、科学的に明確にしておこう。

 ここにも文化圏の対立という、弁証法的二重構造論が存在している。思考停止すると、物事を深く洞察できなくなり、対立という単純な発想しかできなくなるいい例である。

 九州を銅剣銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼んだのは、昭和前半に活躍した哲学者の和辻哲郎だった。それ以来、弥生時代は二つの文化圏が対立し、銅剣銅矛文化圏の九州勢が銅鐸文化圏の近畿勢を武力でもって征服、皆殺しにして、銅鐸文化を滅ぼしたといわれ続けてきた。

 その最大の原因は、九州では銅鐸が発見されず、近畿の銅鐸が人目を避けるように、すべて土中に埋められていたためである。つまり、征服された銅鐸文化圏の人々が、祭祀に使う銅鐸を征服者の目から隠したというのである。

 古事記日本書紀に一言も銅鐸について触れられていないことも、大和朝廷とは相容れない祭祀器具だと断定する材料になった。

 このため、九州北部にいた銅剣銅矛文化の天皇家水稲を携えて東征し、自分たちとは違った銅鐸文化を武力で制圧、滅ぼし尽くしたとする論調が、古代史の世界で主流になった。

 もっともらしい論理だが、思考停止した頭に、天皇は武力による征服者というステレオタイプの「誤った常識」が刷り込まれていることを忘れてはならない。

 二つの文化圏を対立させるのはわかりやすい構図だが、致命傷は、その当時に発掘されている遺跡だけで、帰納法的に古代の歴史を類推したことである。発見されている遺物だけを元に、古代の政治状況をもっともらしく語るのは危険で、厳に戒めなければならない。

 発見されていない遺跡はないのではなく、われわれの眼にはまだ触れていないだけなのかもしれないと考えるのが、良識ある態度である。それなのに、発見されていない遺跡は存在しないと断定し、自分の主張に都合のいいように利用するのは思考停止しているが故である。

 そもそも遺跡は、人が多く住んでいて、さまざまな開発がなされる場所から発見されていく。いわば人口密集地が遺跡発見の先進地区なのである。和辻哲郎が生きた明治から昭和半ばの日本列島の先進地区は、九州ではなく近畿であることは紛れもない。遺跡発見は、当然ながら近畿が先行する。そして、近畿で発見された遺物がほかの地域で見つからないからといって、存在しないと断言するのは、いつほかでも発見されるかもしれないのだから、本来なら勇気がいる行為である。なぜなら、それまで組み立てた論理は、他地区での発見で、根底から崩れ去ってしまうからである。

 銅剣銅矛文化と銅鐸文化の二つの青銅器文化の対立という思考停止による「誤った常識」は、昭和五十四年に佐賀県鳥栖(とりす)市安(やす)永田(ながた)遺跡の発見で強烈な衝撃を受けた。

銅鐸の鋳型が発見されたのである。

さらに青銅器の原料を溶かしたらしい炉の跡や、弥生時代中期から後半の住居跡も発見された。安永田遺跡から発見されたのは銅鐸鋳型五点、銅矛鋳型五点で、一括して国の重要文化財に指定されている。

そして、有名な佐賀県吉野ヶ里遺跡から、ついに平成十年、銅鐸そのものが発見された。九州に銅鐸はないとする「誤った常識」は、これで完全に否定された。

吉野ヶ里遺跡発見に先立つ昭和六十年、島根県出雲市にある荒神谷遺跡から、六口の銅鐸と十六本の銅矛が発見された。それも、仲良く並べて埋設されていた。

対立する文化なら、並べて埋めることはないはずである。この段階で、銅矛と銅鐸は対立するといった「誤った常識」は否定された。にもかかわらず、その後も銅矛と銅鐸の対立という二重構造論が生き延びていたが、福岡県や佐賀県で多数の銅鐸が発見され、もはや過去の遺物となった。今では九州で銅鐸が発見されても、話題にさえならなくなっている。

二重構造論を喧伝していた学者諸氏は現在、どうしているのだろうか?

では、銅鐸、銅矛とは何なのだろうか。特に銅鐸は謎が深い祭祀器具である。

だが、実は古語(こご)拾遺(しゅうい)に鉄鐸という言葉がでてくる。古語拾遺は神代の神話に登場する太玉(ふとだまの)命の後裔とされる斎部広成(いんべひろなり)が大同二年(八〇七年)に、古事記日本書紀に漏れているとする伝承をまとめて平城天皇に献上したものである。

 神話には、天照大御神須佐之男命の狼藉で天岩窟に籠った際、天鈿女(あめのうづめ)命が踊って大神を岩窟から連れ出す場面がある。このとき、天鈿女命が持っていたのが、「鐸着けたる矛」だった。そして鐸は天目一箇(あめのまひとつ)神が「鉄の鐸」を作ったとある。

 鉄は「くろがね」、鐸は「さなき」と読む。「さなき」は「さ鳴く」で、鳴り響く大鈴のことである。

 古語拾遺が記録しているのは銅鐸でなく鉄鐸だが、ここに銅鐸の謎を解く鍵がある。

まず、天岩窟神話で鉄鐸は矛に着けられていた。銅矛には穴があり、物を掛ける道具だったと推測できる。これから類推すると、銅鐸は銅矛に着けられていたと考えられる。

 東洋大学教授で神道学者だった田中治吾平(故人、行の実践者でもあった)は、榊に鏡や玉を掛けたように、矛に鐸を掛け、神々を招く祭祀を行ったと、「天照大御神の研究」(霞ヶ関書房)で指摘している。さらに、航海などでは榊を矛に代えて、鏡や玉を着けたと考えている。

 天岩窟神話で天鈿女命は伏せた「誓槽(うけふね)」に立ち、大鈴を打ち鳴らしながら、矛で槽を叩いて踊ったというのだから、さぞかしにぎやかだっただろう。天岩窟に籠っていた天照大御神が外を覗きたくなるのもうなずける。

 銅鐸が榊の代わりの銅矛に着けられて祭祀に使用されたと考えて間違いなさそうだが、ではどういう祭祀かというと、記紀にも明確には記されていない。。

 皇學館大学名誉教授の真弓常忠氏は、銅鐸は葦の根に凝固した褐鉄鉱を象徴し、褐鉄鉱が多く生成することを祈る儀式に使われたと推測している。

 どういうことかといえば、火山国の日本では、河川や湖沼に鉄分が多く含まれている。そして日本は、「豊葦原の瑞穂の国」というように葦が多い国である。水に含有されている鉄分が、バクテリアによって葦の根に吸着され、かなりの大きさになる。これが褐鉄鉱で、製鉄に利用された。古代は褐鉄鉱を利用した製鉄が大々的に行われていたのである。

 葦の根に吸着した褐鉄鉱を「スズ」といい、中が空洞で、内側に鉄片が剥がれ落ちたものを振れば音が鳴る。これを「鳴る石」とか「鈴石」と呼び、鐸や鈴の原型になったとされる。

 真弓氏は「鉄を求めてスズの生成を待ち望んだ弥生時代の民は、鈴や鐸を振り鳴らして仲間の霊を呼び集めるだけではあき足らず、同類を模造して地中に埋祭したのである」(古代の鉄と神々 学生社)とし、さらにスズの生る葦や茅などの植物の「葉の部分を形象化したのが、銅剣・銅鉾・銅戈であった」(神と祭りの世界 朱鷺書房)と述べている。

 それらから推測すると、あるときは銅矛に銅鐸を着け、振り鳴らしながら川や湖沼を巡って「スズ」の霊を呼び、さらに川や湖沼の近くに埋設して「スズ」の生成を祈ったのが銅鐸祭祀だということになる。そして「スズ」が連なってできるのを「鈴なり」と称した。

 なぜ銅鐸が祭祀に使われたかといえば、鉄鐸では酸化して錆び、土に還ってしまうからである。なくなってしまっては、継続して祈る祭祀にはならない。

 時代が下がるにつれ、製鉄技術の発達でより大量に得られる砂鉄を原料にするようになり、褐鉄鉱の役目は終る。そして時の経過とともに、「スズ」の霊を呼んだ銅鐸の存在は忘れ去られ、後世に発掘されても何に使われたのかわからず、論議を呼ぶことになったのではないか。

 神話の世界の鐸は、すでに銅鐸ではなく、古語拾遺にあるように鉄鐸だった。我が国では、青銅器はほとんど実用品として使われず、太古から鉄が使用されてきた。高温で製鉄できるだけの技術と、原料になる褐鉄鉱や砂鉄が豊富だったからである。そして錆びない青銅器は祭祀の道具として利用された。

 通常、金属文化は青銅器から鉄器へと進歩する。しかし我が国の実用品では、青銅器より鉄器が先に発達した可能性がある。そして青銅器は錆びない故に、祭具に特化していったのではないか。「スズ」の成長を祈る銅鐸は、砂鉄の利用で祭具としての役割を終え、人々から忘れ去られていくのは時代の趨勢だったといえよう。

 ところで、鐸は「さなき」のほか「奴弖(ぬて)」とも読む。「ぬて」は呼び鈴である。矛に取り付ける大きなものを「さなき」、部屋にある呼び鈴を「ぬて」という。神社の神前にある大鈴は「さなき」、神楽で使われる鈴は「ぬて」の名残りだと思われる。

 ともに上代から、神々に祈りを奉げる祭具として使われ、現代まで伝わったものにほかならない。

 以上のように、わずかな例を挙げるだけで、古代史がいかに「誤った常識」に振り回されているか明確になった。

 専門家といわれる人たちは、自分の研究分野には詳しいが、視野狭窄になって全体を俯瞰できていない。そのため、専門分野以外の知識を動員して全体像を把握すればわかる間違いを、見つけられなくなっている。

 特に、唯物弁証法に慣れてしまうと、物事を対立的に観ることしかできなくなり、思考停止を起こす。歴史を支配者と被支配者の階級闘争としか考えられなくなり、征服者と被征服者、文明・文化の先進国と後進国などと、ステレオタイプの思考に陥る。

 その結果、常識的に俯瞰すれば、明らかに誤謬とわかる物事を、間違って判断するようになる。国を貶めようと、意図的に間違った方向へ誘導する売国奴的輩(やから)、もいるに違いない。

 歴史や伝統、文化は、弁証法で割り切れるほど単純ではない。しかし、二者択一的な思考方法に慣れてしまうと、弁証法は最高の哲学と思い込むようになる。思考停止の始まりである。

渡来人(弥生人)と原住民(縄文人)、大陸(先進国)と日本(後進国)、銅鐸文化圏と銅鉾文化圏などなど、物事を対立させる主張に出合ったら、著者や論者の思考停止を疑うべきである

常識とされる歴史は、ある意図を持った一方的なプロパガンダの可能性があると、肝に銘じよう。そして熟慮すれば、物事の本質が見えてくるだろう。

巻の一 歴史の″常識″は正しいのか?

 同じ言葉を繰り返し耳にしていれば、それが間違いであっても正しいと信じ込んでしまうのが、悲しいことに人間の習性である。従軍慰安婦南京大虐殺などはその典型である。嘘も百回言えば本当になる。

 私たちは文部行政や教職員組合によって、日本人は戦争を起こした悪い人間だと耳にタコができるほど聞かされ、二度と戦争はしませんという言葉を金科玉条にしてきた。

戦争は悲惨で、自ら起こすべきでないのは当然だが、では鎌倉時代元寇(文永、弘安の役)のように、一方的に元・高麗(朝鮮族)連合軍に攻められた場合、どうするのかという視点が欠けている。戦わずに降伏しろとでもいうのだろうか。

そんなことをすればどうなるかは明白である。元寇対馬壱岐、九州沿岸の多くの住民が、元軍と高麗軍によって大虐殺され、多くの人が捕虜として連れ去られたことを忘れてはならない。壱岐の人口は当時二万~三万人と推察されるが、生き残ったのはわずかに二桁(六十五人とも記録されている)だった。

元寇が襲来した九州地方には「むくりこくり、鬼が来るぞ」という、わがままや泣き止まない子供の脅し言葉がある。「むくり」は蒙古、「こくり」は高麗のことで、今の中国や朝鮮である。八百年前の元寇の恐ろしさが、いまだに伝えられている。

皆殺し――それが侵略者の当然の行動であることを忘れてはならない。

多くの日本人は平和至上主義の美名の下に、子供のころから偏向教育を施され、自虐的になるようマインドコントロールされてきた。その事実に、教えられる学生や生徒はもちろん、洞察力を備えていなければならない教師すらも気づいていない。

 では、どうすればマインドコントロールから抜け出せるかといえば、常識だと思っている歴史に、まず疑問を抱くことである。

 

 ヒ 科学的判断を

 

日本人は稲作と一緒に日本列島へやってきて、狩猟採集生活をしていた先住民の縄文人を征服、駆逐して弥生時代を築いた……と学校の教科書などは教えていた。私もそう習った年代だ。

 日本の文物はすべて、中国大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て入ってきたというのが、ある種の「常識」だった。その背景には、遣隋使や遣唐使を派遣したから、中国大陸は日本より文化が発達していたという思い込みがある。

 ある種の「もの」、例えば仏典などは、インドから中国へもたらされたのだから、日本より中国が仏教を受け入れた「先進国」だったことは間違いない。それらが朝鮮半島を経て、日本へ届けられたこともあっただろう。

 遣隋使や遣唐使は、仏教などの経典や律令制度を求めるのが最大の目的で、朝鮮の新羅(しらぎ)が自ら「藩屏(はんぺい)の家臣」と称したように、当時の日本国が隋や唐に冊封(さくほう)されていたわけではない。中国は日本国の宗主国ではなかったし、我が国は中国の朝貢国でもなかった。文化に心酔していたわけでもない。聖徳太子が隋に送った国書の「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す」という文面が、それを端的に物語っている。

 遣隋使や遣唐使を送ったからといって、中国大陸や朝鮮のすべての文物が、日本より優れていたということにはならない。にもかかわらず、日本は後進国で大陸や半島は先進国だという、事実を基に良く考えてみれば「非常識」だとわかることが、「常識」として定着してしまったのはなぜだろうか。

 底流には、日本人が新しいもの好きということがある。上代には道教や仏教などがもてはやされ、中世は儒学、明治になっては西洋化を急いだ。古代から進取の気質に富んでいるのが日本人である。

そうした土壌があるところへ、大東亜戦争の敗戦で日本は戦争を起こした悪い国だと、弱体化を狙う占領政策で伝統や歴史を否定され、進んだ文物はすべて大陸から入ってきたと思い込まされたことが、「非常識な常識」ができあがった大きな原因である。

 だから、縄文文化より発達した弥生文化は大陸に発生したのが先で、稲作と一緒に日本列島へ渡ってきた弥生人が、土着の縄文人を征服し駆逐したという論理になる。大勢の学者や文化人、考古学者や歴史学者さえ、大陸からの渡来人が稲作と弥生文化を日本にもたらしたと考えている。

 だが、本当にそうなのだろうか。日本は野蛮な国で、大陸中国は文化的な国だったのだろうか。歴史教科書で「先進国」は大陸中国で、日本は「後進国」と思い込まされているだけではないのだろうか。学者や文化人が自分の意見を正当化させるために、「事実」から目を逸らしているのではないだろうか。あるいは「事実」を意図的に無視しているのではないだろうか。

 世の風潮をみていると、こんなさまざまな疑いが生じてくる。「大疑は大悟に通じる」から、大いに疑問を持たなければならない。敗戦で我が国は、政治や教育で戦前のことをすべて悪だと否定され、欧米に二度と歯向かえないようにマインドコントロールを施されたのだから、知識の表層を覆っている「非常識な常識」という塵芥を一掃し、先入観のない物の見方を取り戻さなければならない。

 さらに、中国大陸やアメリカ大陸などの広大な大地への憧れという、単純な物質的憧憬を捨て去らなければ、物事を正しく認識することはできない。

 では、どうやって正しい認識をするか? それには「科学的」な視点が必要である。弥生人は渡来人だった、弥生人縄文人を征服した、稲作は弥生時代から始まった……などの「常識」を、事実に則して科学的に判断することである。

 科学は、立てた仮説を実験で証明しなければ、正しいとは判断しない。さらに証明された仮説は、どこからどこまでの範囲で正しいのかという範囲性を重視する。

 例えば、物質の物理学であるニュートン力学。リンゴが木から落ちるのを見てニュートン万有引力を発見したといわれている。このニュートン力学は、日常生活の物質の動きを説明するには有効だが、素粒子の世界には適用できない。逆に素粒子の世界を論じる量子力学は、ニュートン力学の世界では通用しない。

 どういうことかと言えば、ある地点を始点として物質が移動すると仮定する。速度とかかった時間がわかれば位置がわかる。かかった時間と位置がわかれば速度がわかる。速度と位置がわかればかかった時間がわかる。こうした日常的な世界を研究したのがニュートン力学、あるいは古典力学という。

 では、素粒子の世界では速度と時間、位置の関係がどうなるかと言えば、原子核を回る電子の速度がわかると位置が判明せず、位置がわかると速度が判明しない。しかし、電子は確実に存在しているわけだから、高名な物理学者のハイゼンベルグは、電子が飛び回る範囲に電子が存在する確率を一とした不確定性原理を提唱した。確率一とは、その範囲に電子が確実に存在していることを意味する。

 このように、仮説の証明と範囲の確定がなされなければ科学とは言えない。実験で証明されてもいない単なる仮説を、正しいと主張するのは、鰯の頭の類で妄信や盲信である。

 

 フ 稲作文化はいつから

 

 妄信や盲信の最たる例が、縄文時代は狩猟採集の放浪社会で、弥生時代水田稲作の定着社会だという「誤った常識」だ。この「誤った常識」は、日本は縄文時代には米が存在せず、ましてや水田稲作など行われていなかったと主張している。

 しかし、遺伝子考古学という科学の発達でさまざまなことがわかってきた。一九九九年四月二十二日付の山陽新聞に次の記事が報じられている。

 

◎最古の稲細胞化石を発見 岡山・朝寝鼻貝塚

=六千年前の縄文前期初め 稲作起源論に波紋=

 岡山理科大発掘チーム(代表・小林博昭同大教授)は二十一日、岡山市津島東の朝寝鼻(あさねばな)貝塚から採取していた縄文時代前期初め(約六千年前)の地層から、稲の栽培を示す細胞化石・プラントオパールを検出したと発表した。稲作を行っていたとみられる資料としては、岡山県美甘村・姫笹原遺跡など縄文時代中期の例を千五百年近くさかのぼり、日本最古の発見。稲作起源論争に大きな波紋を広げそうだ。(中略)

 プラントオパール(植物ケイ酸体) イネ科植物の葉などに含まれるガラス質細胞の微化石。イネ、キビ、アワなどの種類ごとに固有の形、大きさがある。安定した性質で、土壌中はもちろん、高温で焼かれた胎土にも残ることから、イネ科植物の存否を判別するのに大きな威力を発揮する。

 

 いわゆる縄文時代は草創期(一万六千年前~)、早期(一万一千年前~)、前期(七千二百年前~)、中期(五千五百年前~)、後期(四千七百年前~)、晩期(三千四百年前~)と分類される。

記事によれば、六千年前の縄文時代前期、すなわち紀元前四千年に、既に稲作が行われていたことになる。

 日本の稲には熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの二種類があり、熱帯ジャポニカは畑作や焼畑などで作られる陸稲(おかぼ)、温帯ジャポニカは水田で作られる水稲である。

 朝寝鼻貝塚の稲は陸稲だが、稲は弥生時代にならないと現れないという「誤った常識」は、完全に否定された。

 では、水稲はどうか。これまでの「常識」は、水稲を持ち込んだ渡来人が、弥生時代を築いたとしてきた。そこから、渡来人が日本列島の縄文土着民を征服したという「誤った常識」が生まれ、日本人は北方騎馬民族の末裔(騎馬民族水稲栽培をしたのだろうか?)であるとか、朝廷は朝鮮半島からやってきたなどという「妄説」が喧伝されるようになった。

 水稲が栽培されるようになったのは、本当に弥生時代からなのか。

 この「誤った常識」も、福岡市博多区板付遺跡唐津市の菜畑遺跡の発見で覆った。両遺跡とも縄文時代から弥生時代へ連続して生活が営まれた遺跡で、縄文時代の地層から水田跡が発見されたのである。

菜畑遺跡は昭和五十四年に発見され、五十八年に史跡に指定された。水田跡の遺構が発見されたのは、十六層ある遺構のうち縄文晩期後半の十二層からで、それより時代が新しい上層からは弥生時代中期までの水田遺構が見つかり、多数の農機具も発見されている。

さらに、弥生時代前期の地層では大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路や堰(せき)、取水口と排出口、木の杭や矢板を使った畦畔(けいはん)が発掘された。

 これらの遺跡は、縄文時代晩期に水田耕作が行われていたことを実証するものである。つまり、水稲縄文時代から弥生時代へと、連続して行われていたことを示している。

 さらに、陸稲水稲が平行して栽培されていたこともわかっている。縄文稲作を陸稲、弥生稲作を水稲とすれば、仲良く共存し、どちらかがどちらかを駆逐するという、敵対的関係でなかったのは明白だ。

 そして、陸稲水稲の交配で通常の水稲より二〇パーセントも早く成長する早稲(わせ)種が生まれ、早く刈り入れができるようになり、寒冷地の青森までわずかな期間で普及した。

 渡来人が私たちの主食である水稲を持ち込んで縄文人を駆逐し、弥生時代を築いたという「誤った常識」は、これらの遺跡発掘によって完全に否定されたのである。

 にもかかわらず、「誤った常識」がいまだに大手を振っているのは、無知なのか、科学的事実を事実として認めるのが嫌なのか、あるいは事実を意図的に歪めたい「ためにする主張」かの、どれかとしか考えられない。

 ちなみに、稲が日本に渡ってきたとされる朝鮮半島では、陸稲が栽培されていたのは紀元前一千年ころで、水稲はそれより遅いことがわかっている。日本に比べればはるかに後の時代と言わざるを得ない。

 さらに、遺伝子工学の発達で、日本の水稲のDNAは非常に少ない種類しか存在せず、朝鮮半島水稲とは違う型であることがはっきりしている。

 米の遺伝子型はa~hの8種類あり、水稲の発生した中国大陸では、すべてがそろっている。朝鮮半島ではb型はなく、7種類が存在している。

 一方、日本の遺伝子型はa~cの三種類で、b型が最も多い。

 もし半島から稲が渡ってきたのなら、日本の稲作が始まった時代より早い時代に、b型のDNAを持つ稲が、半島で栽培されていなければならない。

 だが、b型が存在しないということは、過去に半島に存在しなかったか、現代までに絶滅したことになる。7種類の遺伝子型が存在しているのだから、まず絶滅は考えられず、半島にはb型の米は伝わらなかったというしかない。

 現在はその稲を栽培していないという反論があるなら、プラントオパールを示すなど、科学的証拠を明確にしなければならない。

 半島から日本に稲作は伝わらず、原産地の揚子江流域から海路で直接ということになる。

 科学の結果を無視すれば、「鰯の頭」と同じで、カルト宗教妄説としか言えなくなる。

 

国の本つ姿を求めて

序 君、国売りたもうなかれ

 此(こ)の国は伊多佐夜藝有(いたくさやぎあり)て、蠅声(さばへな)す邪(あ)しき政治屋や新聞屋どもは、地震(ない)振(ふ)りて津浪(つなみ)起こり、数多(あまた)の國(くに)民(たみ)を一道(ひとみち)へ押し流した哀しみと、塗炭の苦しみに悶え、生き死にの境を彷徨(さまよ)う青人草(あおひとくさ)を忘れ、原子力発電所の深刻な事故を保身に利用し、己(おの)が地位や爛(ただ)れた欲望を満たすことにひたすら邁進(まいしん)し、人の心を失いたり。

それを正すべき大新聞である朝日新聞は、従軍慰安婦という嘘の記事を捏造し、毒を世界にばら撒き、日本国民を貶(おとし)めたにもかかわらず恬(てん)として恥じようせず、他の新聞やテレビも、敵意を持っているかの如(ごと)く、祖國を悪し様に罵る始末なり。                             

 是(ここ)に天つ神、諸々(もろもろ)の命以(も)ちて、此の國(くに)に多(さわ)在(な)る荒振(あら)ぶる邪(あ)しき政治屋や新聞屋どもを言趣(ことむ)け和(やは)せとのりたまひき。

 

 神代に、天照大御神が天岩屋戸に閉じこもられた時のような、暗黒世界が国民を苛んでいる。日本列島を思考停止という物の怪(け)が大手を振って闊歩(かっぽ)し、理性の光を遮(さえぎ)っているからである。

 物事を自分の頭で考えられなくなり、パブロフの犬のように条件反射で政治や経済を批判し、さらに自らのアイデンティティであるはずの日本文化を貶(おとし)め、厚顔にも平然としている人間の何と多いことか。思考停止すると、平和、人権、平等至上主義などと、ステレオタイプの主張しかできなくなる。

 それらが大切なことに異存はないが、ではどうやって具体的に実現するかになると、恥ずかしくなるほどの思考停止状態を露呈し、抽象的な言葉の羅列に終始し、建設的な提言は皆無となる。

 日本の歴史を否定するプロパガンダで刷り込まれたスローガンを、何の疑いもなく信じ、衝動的な発言をするからである。

 いわく、日本は戦争を起こした悪い国だから、「平和憲法」を護らなければならない。A級戦犯が祭られる靖国神社の総理参拝は許されない。日の丸と君が代は国旗国歌ではない。教科書検定基準の近隣諸国条項で近隣諸国の問題について教科書検定をしてはならない。社員を搾取している大企業の経営側と、労働者は闘わなければならない。などなど、あきらかに首を捻らざるを得ない主張が続出する。

 これに少しでも異を唱えると、極右とか右傾化と罵られる。

 大東亜戦争の敗北で、日本弱体化を狙った連合軍総司令部(GHQ)による占領政策に、今でも心の奥底まで洗脳されている故である。

戦後は終ったというが、物質的、経済的にはそうでも、国民の多くはいまだに洗脳が解けず、思考停止が続いて精神的にはまだ終っていない。

 人間はオギャーと生まれてから長い時間をかけて言葉を覚え、意思疎通を図るようになっていく。言葉がなければ、日常生活すらままならない。しかしその大切な言葉が、思考停止のせいで本来の意味を失い、上滑りな雑音になってしまった。

 若者たちのはやり言葉を指しているのではない。一時的な流行語など、時を経(へ)れば自然淘汰され、いずれ消えていくが、時の最高権力者、総理大臣の言葉は、国政を司る重みからも、若者と同列に扱うことはできない。

 しかし、漢字をきちんと勉強したのかと疑うほど読み方を間違えた総理、ハトの鳴き声を真似し、意味のない言葉をぺらぺらと喋りまくり、「ルーピー」と揶揄された総理、何かの間違いでなってしまい、思いつきばかりを口にし、辞める辞めないで醜態をさらけ出して、一部新聞に「アレ」と化(ば)け物扱いされた総理……。

 こんな茶番劇を見ていると、言葉は何と軽くなってしまったかと、嘆かざるを得ない。

 保守系の政治家も革新系の政治家も、言い換えれば右も左も口先だけで、いずれも実行力は皆無に等しい。彼らには、国平(たい)らけく民(たみ)安(やす)かれという「祈り」がなく、私利私欲、党利党略しか念頭にない。

 そして行政は、国益どころか省益のみを優先させ、特別会計特殊法人を隠れ蓑に、肥え太ることしか考えていない。さらに経済界は、企業利益至上主義に陥り、社員やパート従業員を低賃金に甘んじさせ、下請け企業の育成どころか下請けいじめを平然と行い、民への思いやりを失った。それでは国民の生活が豊かになるはずがない。

 国民のためにという耳あたりのいい言葉を、政治家や官僚、財界人がどれだけ口にしようと、心の底からの「祈り」がない薄っぺらな発言が、実現するわけもない。

 声だけがいくら大きくても、「祈り」を忘れた言葉は無力である。いや、死んだと言ったほうがいい。長い日本の歴史の中で、今ほど、言葉が空虚になった時代はないだろう。

 無責任な発言、言い逃れ、はては記憶にない、などなど、言っている本人たちは恥ずかしくないのだろうか。この人たちは、自身を省みることがあるのだろうか。人間の品性がこれほどまで劣化するとは情けないかぎりだ。

 言葉を大切にするのは、古今東西どこの国でも同じである。だが、それが我が国では崩れかけている。

 言葉は伝統や文化、歴史の根源である。そしてそれらは、民族の「いのち」である。だから、言葉は熟慮し、正確に発音しなければならない。

 言葉が乱れ、伝統や文化が廃(すた)れ、歴史が歪められたら、その国はよって立つ基盤を失う。政治は腐敗し、贈収賄が横行し、やがて滅びゆくのは、栄華を誇ったローマ帝国や、中国の歴代王朝を例に挙げるまでもない。

 ひるがえって現代、日本は戦争を起こした悪い国だからと、伝統や歴史を否定し、虚偽を加えた戦後教育を自ら施した結果、人間性を疑う人物が相次いで総理大臣になった。

 日本の伝統ある文化や歴史を否定したGHQの占領政策、すなわち日本弱体化政策が、いまだに日本を覆い、日本人の思考を停止させているからにほかならない。

 さまざまな占領政策の中で、現在もなお大きな負の遺産となって影響しているのが教育である。サンフランシスコ講和条約の締結で我が国が独立を回復したあとも、時の為政者が何の抵抗もなく占領時代の教育政策を継続したからである。

 歴史教師は平然とマルクス唯物史観を教え、日本は「侵略戦争」を起こした悪い国だと子供たちに自虐意識を刷り込んだ。さらに、新しい文明や技術は中国大陸や朝鮮半島からもたらされ、日本独自のものは皆無だと、事実に反して我が国の後進性を強調した。

 そして○×方式の二者択一教育や、記憶力至上主義の詰め込み教育は、子供たちから自分の頭で熟慮する思考能力を奪い、物事を衝動的に判断し行動する人間を作り出した。

 熟慮しないまま詰め込んだ子供のころの記憶は、単なる物事の記憶にとどまらず、大人になってから「事実」として認識するようになる。教育の恐ろしさだ。

 これらの偏向教育は、近・現代史だけでなく古代史にも及び、伝統を否定し、誤った歴史観を刷り込み、思考停止と自虐思想を蔓延させている。

 思考停止の結果、恐ろしい事態が蔓延している。

 自己の目的のためには手段を選ばず、平然と嘘を言い、他人を思いやるどころか当然のごとく足を引っ張る自己中心主義が横行している。モンスター何とかと呼ばれる人たちはその典型である。犯罪予備軍といっても過言ではない。さらに親が子を殺し、子が親を殺し、無差別大量殺人が相次いで発生するなど、悲惨な事件が目につくばかりだ。

 国家を平安に導くべき政治家の中には、強いものに迎合し、相手の関心を買うことに熱心なあまり、おもねる発言をする輩(やから)がいる。尖閣諸島の帰属を棚上げする密約があったとする野中広務官房長官や、鳩山由紀夫元総理の一連の発言などは、その代表例である。

 彼らに共通するのは、故人となった誰それに直接聞いたと、確認の取れないことを、あたかも秘密の事実らしく発言するところだ。さらに自分の考えを、いつの間にか事実と思い込み、頭の中で作り出した妄想だとも疑わず、大声で主張することも似通っている。

 偏向した戦後教育の恐るべき影響は、朝日新聞毎日新聞東京新聞共同通信、NHK,テレビ朝日、TBSなどの大マスコミにも及んでいる。一九六〇年と七〇年の日米安全保障条約改定時に、激しい反対闘争を繰り返した日本共産党の学生組織・民主青年同盟(民青)や、全学共闘会議全共闘)の活動家やシンパがマスコミの幹部になり、過去の間違った活動を反省することなく、若い記者を反日報道に誘導しているからである。

 原子力発電所問題もそうだ。我が国は世界唯一の被爆国だから、核兵器根絶を唱えて当然だが、一部の学者が作り出した「被爆量はわずかでも危険」という、誤った「放射線量神話」を信じ込まされ、反政府活動に利用されている。さらには、朝日新聞福島第一原発「吉田調書」のように、誤報(捏造)で原発の恐ろしさを強調し、反原発意識を煽る輩もいる。

 秋田県玉川温泉鳥取県三朝温泉のように、難病に効くとされている温泉が、多量の放射線を放出していることだけをみても、この放射線神話のいかがわしさがわかる。

 政府は感情的な主張に惑わされることなく、福島原発事故の被曝被害について、科学的、疫学的立場から冷静に詳細に調査しなければならない。政府の調査不足と広報不足が、原発事故による被爆で鼻血が出るなどという妄想を生む原因になる。

 わずかな例を挙げただけでも、思考停止の最大の原因であるGHQの戦後教育を、ひとかけらの見識もなく推進した時の政府や教育官僚、それに輪をかけた教職員組合、大マスコミの意図的なあおり報道などの責任が、いかに重大であるかがわかる。

 朝日新聞慰安婦問題と原発「吉田調書」の誤報(捏造としかいえない)を認め謝罪したが、反日反保守反財界という刷り込まれたプロパガンダを頭から信じ込んで報道の前提にしているから、記事を捏造し大誤報をするはめになる。

 思考停止の結果、大マスコミはGHQに押し付けられた日本国憲法がうたう民主主義を金科玉条にして、権利だけを主張する自己中心の利己主義を蔓延させ、我利我利亡者ばかりを生み出してきた。

 君、売国奴となって国滅ぼすなかれ。

 これは愛国を標榜する保守や右系の人たちにも言える。根底に「祈り」がないまま、隣国などの侵略共産主義を批判し、左翼陣営を攻撃していては、思想が違うだけで、彼らと同じ立ち位置になってしまう。

 GHQの占領政策は過酷なものだった。日本を占領するや神道指令によって日本人の精神的支柱を破壊し、天皇のいわゆる「人間宣言」で神国思想を否定した。

 極め付きは極東国際軍事裁判東京裁判)で、大戦後に戦勝国が一方的に決めた「平和への罪」を、過去に遡及させてはならないのに戦争前まで適用し、A級戦犯という犯罪者を新たに作り出し、無惨にも処刑したことである。勝者による敗者への報復以外のなにものでもない。

 そして、わずかでも愛国的なことを発言する人間を公職追放し、兵糧攻めで転向を強要した。教科書裁判で有名な家永三郎は、戦前は皇国史観の持ち主で、敗戦直後に主張を翻した転向組の典型である。生活のために転向する人間が続出し、学界や教育界は一気に売国化した。我が国が独立を回復するまで、公職に就いていた学者や教育者で、日本の国を真剣に憂えた人間は皆無だろう。

 戦前、軍部に協力した前非を悔いて沈黙するならともかく、GHQの尻馬に乗って反祖国発言を公然とするとは、何とあさましい行為か。

 教育は後々まで影響を及ぼす恐ろしい力を持っている。だからこそ、自分の頭で考えられる環境をつくり、思考停止から脱しなければならない。

 間違った教育の恐ろしさは、反日教育を行ってきた中華人民共和国中共)や大韓民国(韓国)を見れば一目瞭然である。両国国民は尖閣諸島竹島、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などというフレーズに思考停止し、衝動的に反日を叫び、集会やデモで気勢を上げ、暴動にまで過激化する。彼らもまた、自国政府に思考停止させられた被害者である。

 だが最近になり、我が国では思考停止の分厚い覆いが、少しずつ綻(ほころ)んできている。

 私の学生時代や新聞記者時代は、日本国憲法廃棄、自主憲法制定、東京裁判批判、共産主義の誤謬などを口にすれば、右翼反動分子のレッテルを貼られ、激しく罵られた。そればかりか、身の危険すら覚えたものである。

 しかし、中共や韓国の反日騒動に感情を揺さぶられた日本国民が、何が真実か自分の頭で考え、発言するようになってきた。

 南京大虐殺従軍慰安婦の嘘、尖閣諸島竹島の領土問題などの誤った歴史認識は、多くの良心的な学者諸氏や著述家によって、真実を明確にした研究成果が発表されている。

 しかし古代、優れた技術や宗教、思想は、大陸中国朝鮮半島からもたらされたという誤った拝外思想がいまだに信じられている。

 菅直人内閣時代の仙石由人官房長官は、尖閣諸島海域で中共漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件の国会答弁で、「中国から伝来した文化が日本文化の基礎になった」と平然と言ってのけた。それも敬語で……。無知もはなはだしいとしか言いようがない。

 拝外思想はこのように東京裁判史観と同様、日本国民の思考停止を助長している。

 自虐史観の批判は優れた名著に譲り、ここでは誤った常識を信じ込まされている古代史や神道の真実を明確にしたい。国の歴史や伝統文化は、国民一人ひとりが寄って立つ基盤だからである。

 最初に誤って記憶すると、その上に構築される知識や思想、哲学は歪んだものになる。建物の基礎が歪んでいれば、そこに建つ建築物が、上へいくほど歪むのは当然の帰結である。ありもしなかった南京大虐殺を、最初に「あった」と間違えて認識すると、後は「あった」ことを前提に知識を深め、理論武装することになる。誤りを誤りの鎧が覆い、事実とはかけ離れた妄想が出来上がっていく。

 言葉乱れれば人心乱れ、人心乱れれば国乱れる。国乱れれば、さらに人心や言葉が乱れる。そして、国や人心が乱れれば、自然すらも乱れる。東日本大震災や全国の大雨被害などの大災害が続くのは、自然が乱れた結果ではないか。

 フリーランス神主を名乗る鎌田東二氏は、このところの相次ぐ災害を「日本をその根底から立て直せというメッセージ」(現代神道論 春秋社)と受け止め、神々から大きな警告が発せられたと訴えている。

 古代の日本人なら、大災害の「原因」は政治や人心の乱れだと恐れおののき、為政者は正しい道へ戻そうと、身を慎んで潔斎し、神祭りをしたに違いない。目に見えない神々の前で厳しく内省し、国家安泰を真摯に祈ったことだろう。

 そして祈れば、良心に従って善政を施すようになる。

 私たちはいま、神代から伝わってきた言葉を大切にし、「国、民、安(やす)らけく平(たいら)らけく、弥栄(いやさか)えませ」という「祈り」を甦らせる必要に迫られている。

 そして、何が正しいか自分の頭で考え、誤った古代史観や近・現代史観を克服すれば、わが日本は神々の加護を得て、輝く未来を迎えられるだろう。

 心ある人々の真摯な祈りを、日本の神々は嘉(よみ)するに違いない。