巻の六 後編 息吹永世が現代人を救う

ヨ 神霊のざわめき

こうした神懸りという神霊との接触は、先達の指導なく無闇に行うと、危険を伴うことは言うまでもない。命を落としたり、精神に異常を来たすこともある。

例にするのは恐れ多いが、神功皇后の神憑りでは、仲哀天皇崩御されている。

神懸りは、古くは琴を奏でて神を降ろしていた。古事記の帯中日子(たらしなかつひこ)天皇仲哀天皇)の項に「天皇御琴を控(ひ)かして建内宿禰大臣沙庭(さにわ)に居て、神の命(みこと)を請(こ)ひき。是に大后神を歸(よ)せたまひて」とある。大后は息長帯日賣(おきながたらしひめ)命、神功皇后である。

 神功皇后に降りた神は、西の方にさまざまな宝を持った国があり、その国を服従させて与えようと仲哀天皇に伝える。しかし天皇は、高いところに登って西の方を見ても国土は見えず、ただ大海があるだけだと「詐(いつはり)を為(な)す神」と決めつけて、琴を引くことを止めてしまう。

 怒った神は「凡そ茲(こ)の天の下は、汝(いまし)の知らすべき国に非ず。汝は一道へ向かひたまへ」と宣告する。一道とは死への道のことで、仲哀天皇はその場で息絶えてしまう。

 その後、日本書紀によれば、建内宿禰が琴を引き、中臣烏賊津使主(いかつおみ)を審神者にして、神功皇后に降りた神が底筒男、中筒男、上筒男の住吉に祀る三神などであることがわかる。

 降りた神を信じなかったために、仲哀天皇は亡くなってしまった。神懸った神の力は、天皇でさえも容赦しない恐るべきものである。ここで古事記は初めて「罪」という言葉を使い、国の大祓を行っている。

 三島由紀夫の作品に「浅春のある一夕、私は木村先生の帰神(かむがかり)の会に列席して、終生忘れることのできない感銘を受けた」から始まる「英霊の聲」がある。「英霊の聲」は、二二六事件や五一五事件、さらには大東亜戦争で散った戦士たちの霊が、川崎重男という二十三才の盲目の青年神主に懸かる帰神の会で、霊たちの怨念が噴出する様を、迫力ある筆致で描いている。

 神主の「川崎君」に、審神者である「木村先生」が石笛を吹き鳴らし、帰神をさせる。そして川崎神主は、懸かった夥(おびただ)しい霊の力にもみくちゃにされ、全身の力を消耗して息絶える。「英霊の聲」は最後を次のように結んでいる。

 

 死んでいたことだけが、私どもをおどろかせたのではない。その死顔が、川崎君の顔ではない、何者とも知れぬと云おうか、何者かのあいまいな顔に変容しているのを見て、慄然としたのである。

 

「何者かのあいまいな顔」という描写は、背筋が寒くなる表現である。そして、夥しい霊が三島由紀夫本人に依(よ)り憑(つ)き、この作品を書かせたのではないかと戦慄するほど、真に迫っている。

 神主と審神者だけで神懸りを行えば、この作品のように危険な状況になることが往々にしてある。それを三島由紀夫は、作家の創造力と筆力で描きだしてしまった。三島由紀夫自身に霊が懸かるのは避けられないところである。

 作品の主人公・川崎君のようにならないために、神懸りを行う場合、審神者は求める神や霊以外は懸からないようにする能力がなければならないが、力不足だったり、一人で行うなどの危険な神懸りが世に広まってしまった。

 その最大の原因は明治十五年、神職と教導職の兼務を禁止し、教派神道を認可した明治政府の神道政策にある。そして、教派神道の多くは、教祖が神懸りで神意を受けた。

 神懸りになった教祖は、審神者もいなければ先達もおらず、神社の門前で祈っているとき、死の病に苦しんでいるとき、貧困に喘いでいるときなどに、突然の神懸りで神の声を聞けるようになった、あるいはそう思い込んだのである。

 そうした教団では、教祖の体験を基に、信者が神懸り行を修行しただろう。そして、何人もの信者が、神懸り状態になったのは、想像に難くない。

 三島由紀夫は「英霊の聲」の参考文献として大正時代から昭和初期に活躍した神道家、友清歓真(ともきよよしさね)の著書「霊学筌蹄(せんてい)」挙げている。

 友清歓真は最初、弾圧事件で有名な大本教に入った後、鎮魂帰神法を確立した本田親徳の霊学継承者、長沢雄楯(かつたて)に入門し、霊的国防論を唱える神道天行居(てんこうきょ)という教団を開いた。本田霊学が「英霊の声」に影響を及ぼしているといっていいだろう。

 後の大本教の聖師となる出口王仁三郎も長沢に師事し、故郷で御笠稲荷講社の支部を作り鎮魂帰神の修行を行った。

 大本教は大正十年、不敬罪と新聞紙法違反で、昭和十年にはクーデタを計画しているという疑いで、それぞれ京都府警によって厳しく弾圧され、本部や神殿などがすべて破壊された。

 宗教学者の津城寛文氏は「鎮魂行法論」(春秋社)で、「第一次大本事件前の警察記録をみると、この鎮魂帰神による精神障害その他の弊害が当局の注目する所になっていたことがわかる」と記している。憑霊現象を軽々しく扱うことの危険性を示唆したものだ。

 また同氏は、東洋大学神道を講義した神道学者の田中治吾平(一八八六~一九七三)の行法を取り上げ、「修行者に都合のよいものではなかった」と不都合が発生したことを次のように指摘している。

 

 不都合とは、修行者(これを命人(みことびと)と称する。これに対して鎮魂行法の指導者を柱人(はしらびと)と称する)の中に精神の異常をきたすものが出たことをさしており(後略)

 

 このため田中治吾平は、行法を変更せざるを得なかった。そのあたりについては森佐平の「小説すめらみこと」(霞ヶ関書房)に詳しい。

 京都大学助教授で作家だった高橋和己は、一九七〇年を前にした大学紛争で全共闘系学生をいち早く支持したことで有名な人物である。彼の著書「邪宗門」は、ある教団の信者が修行中、何人もが精神異常になったと記している。事実に基づいた記述だったのであろう。

 さて、ある教団の幹部信者が書いた本に、二人の最高幹部に天照大御神須佐之男命がそれぞれ神懸り、教団の運営方針について激しい議論をしたとあった。

 本気でこれを書いているとしたら、正気の沙汰とは思えない。天照大御神須佐之男命が、一教団の運営方針ごときの議論で、都合よく神憑りすることなどあり得ない。幹部同士の芝居、狂言だと気がつかないとしたら、完全な思考停止、洗脳されているとしか言いようがない。

 神道国際学会会長を務めた中西旭氏は「神道の理論」(たちばな出版)で次のように指摘している。

 

 高貴の神名を名乗り出る者は、必ずしもかゝる正神には非ず、否その殆どが邪霊とさるべきだろう。常識的にも、大神が俗生活の情実の些事等に干渉する筈が無い。

 

 記紀を読めば、天照大御神が神降るのは天皇以外にないことがわかる。それも、神憑り状態になるのではなく、夢による神託などで神意を受けている。

 天皇は皇孫であるから天照大御神の神託が得られるのであって、一般の人間が、たとえ宗教家だとしても、神降ることはあり得ない。

 本田親徳の鎮魂行法は掌を合わせて指を組み合わせ、人差し指を立てた独鈷印を胸の前に置く。大本教や田中治吾平などの鎮魂行法の独鈷印は、指の組み合わせに違いはあるが、本田の鎮魂行法と共通している。

 前に手を胸より上にすると危険だと指摘したが、本田親徳らの鎮魂行法は逆に胸から上へ積極的に上げている。神懸りをしやすくするためだろうが、よほどの神霊力がある先達が一緒でないと、危険極まりないから、軽々しく行うべきものではない。

 大本教や田中治吾平の詳しいことは他の研究書に譲るとして、友清歓真神道天行居谷口雅春(まさはる)の生長の家、中野与乃助の三五(あなない)教、手かざしで浄霊をする岡田茂吉世界救世教などの諸教団が大本教から派生した。

 変わったところでは、大本教から離れて心霊科学協会を設立し、オカルト研究の先駆者になった浅野和三郎がいる。彼は英文学者で、大本教が買収した大阪の日刊紙「大阪日日新聞」の社長になり、一時は社会的に大きな影響力を手にした。

 大本教の隆盛に共振するように、いわゆる心霊科学や超能力の研究が盛んになっていった。中でも、東京帝国大学の福来(ふくらい)友吉や京都帝国大学の今村新吉などの学者が、千里眼や念写の能力を持っているという御船(みふね)千鶴子や長尾郁子を実験台にした公開実験は、世間に大きな反響を呼んだ。

 幕末から明治初期、明治後期から大正初期は、新興教団や超能力、心霊科学が盛んになった。幕末の動乱と明治維新による社会変化が大衆に大きな不安を与え、「すがるもの」を求めさせたのである。その社会不安に呼応するように、政府の神道政策で教派神道が続々と誕生し、近年の第一次宗教ブームとなった。

 大正時代は第一次世界大戦が大正三年(一九一四年)に勃発し、国民に不安が台頭した。大本教が躍進し、超能力などが話題になったのも偶然ではない。社会不安が強いと、人々は不可知なものに頼り、安寧を得ようとする。

 敗戦後の第二次宗教ブームは言うにおよばず、第三次宗教ブームとされる現在も、さまざまな意味で大衆が不安を抱いている時代である。物質文明が高度に発達し、経済至上主義が蔓延したあげく、バブル経済が破綻し、さらには東日本大震災が発生するなど、人々は心の拠り所を求めている。そして、「えっ!」と驚くような宗教団体が跋扈(ばっこ)している。まさに「鰯の頭も信心」状態になってしまった。

 現代社会は歪んだ精神状態にある。その最大の原因は、自分の頭で考えることを怠っているからにほかならない。

 言い換えれば、GHQに押し付けられた民主主義の美名の下に、日本の伝統を否定した戦後教育が人々の利己主義を増長させ、自分だけよければいいという社会を作りだしたからである。

 かといって、国民が政治に参加する「民主主義」を否定するわけではない。日本は神代から、「八百万の神を神集へに集ひて」(大祓詞)神々がこぞって祭政に臨んでいた国だったのだから。

 

イ 祝(はふ)りの神事

 

 皇室に長く伝わり、新宗教の底流に大きな影響を与えた白川伯王家神道に、十種神宝御法という修行法があったそうだ。「そうだ」と書いたのは、白川伯王家が消滅したため、直接確かめようがないからである。この修行法は、白川伯家神道について書かれた書物に垣間見られるくらいで、詳しいことはわかっていない。そして、白川伯家神道を継承しているといわれる人々も、どこまで正式なものを伝えられているのか定かではない。

 この御法は、祝殿(はふりでん)という建物で行われたので、祝の神事と呼ばれ、天つ神の御子の天皇が受ける行とも言われている。

 全国最小村の東京都青ケ島の役場職員を務め、島で最年少の社人とし神事に奉仕したジャーナリストの菅田正昭氏は、「古神道は甦る」(たま出版)で祝の神事について、「目をつぶったままで行う幽斎修行で、十種神宝を十個の徳目(とくもく)にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯(かいてい)を一歩ずつのぼっていこうというもの。また、御簾(みす)(神前などにある目の細かいすだれ)内(うち)で行われることから〈御簾内の行〉ともいわれている」と前置きして、具体的な内容を次のように記述している。

 

 修行じたいはひじょうに簡単で、まず正座をし、拍手を打ってから、右手の指が左手の指より前にくるように手を組み、両手の人差指だけはアンテナのように直立させ、目をとじ、あとは永世をしながら、八方からあがる独特の節回しの、お祓の声をただ黙って聴いておればよいのである。

 この行をするときには、一人以上の修行人のほか、周囲から祓詞を奏上する八人が必要だ。(後略)

 

 永世は長い呼吸のことで、正座か安座して行う。菅田氏は祓詞を奏上するのは八人の乙女だと書いているが、違う神霊能力を持った八人という説もある。

 八という人数は宮中の八神殿に祀られている神々の数で、八方の方位も表している。さらに「八」は「や」で、弥栄(いやさか)の「弥(いや)」に通じ、永久(とわ)にという意味合いを持っている。

 祝の神事の八乙女は、神懸り行をする場合に神を降ろす「神主」と、「神主」を神懸りさせる「祭主」、さらに降りた神がどういう神であるのか判断する「審神者」、そして荒ぶる霊が懸からないように結界をつくる八人が必要だと示唆している。

 菅田氏は、「古神道は甦る」で次のように記している。

 

 真ん中に、島でいうところのミケコのある社人・巫女の候補者を置き、その周りを巫女さんたちが祭文を唱えながら踊り回るのである。(中略)

 現在の青ケ島では、かならずしも八人で行なわれてはいないようだが、やはり理想としては八人、それも巫女八人である。

 

 鎮魂行の古い形が、世間から隔絶された青ケ島に残っているのかもしれない。

 

ム 「ふる」という神言葉

 十種神宝といえば、石上神宮に明治になって復活した鎮魂法が伝わっている。その由来を記しているのは、先代旧事本紀(せんだいくじほんき)で、物部一族が書いたと言われている。もっとも、学者によっては偽書とする人もいるが、記紀古語拾遺から引用したとみられる部分を除いて、独自の伝承と考えて問題ないだろう。九世紀初めから十世紀はじめの間に成立したとみられている。

 先代旧事本紀によると、邇藝速日(にぎはやひ)命は布都御魂(ふつのみたまの)神、布留(ふる)御魂神、布都斯(ふつし)御魂神を石上神宮に鎮め祭った。布都御魂神は建雷之命が大国主と国譲りしたときの剣、布留御魂神は天つ璽十種瑞御寶、布都斯御魂は速須佐之男命がおろちを退治したときの十握剣のそれぞれの神霊である。

 古事記では邇藝速日命はわずかしか登場しないが、日本書紀では天つ神の御子で、長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶り、可美真手(うましまで)命(古事記では宇摩志麻遅(うましまじ)命)をもうけたとある。

 この可美真手命が物部氏の先祖で、物部氏は傍流だが天つ神の血統ということになる。

 しかし、物部氏は大連(おおむらじ)だった物部守屋が崇仏派の蘇我馬子に滅ぼされ、政治の表舞台から姿を消す。このため、物部氏に伝わった祭祀や伝承が、蘇我氏によって抹殺された可能性が高い。それ故、天つ神の子孫だったのにもかかわらず、邇藝速日命は埋没してしまったと考えられる。

 邇藝速日命について詳しく記してあるのが先代旧事本紀と、石上神宮に伝わる十種神宝祓詞という祝詞である。

 天照大御神と速須佐之男命が天の真名井で「うけひ」して五男三女が生まれた。大御神の左の御美豆良(みみづら)に巻いた御須麻流(みすまる)の珠から生まれたのが太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかちはやひ)天之忍穂耳(あめのおしほみみ)命。次男神が天之菩卑能(あめのほひの)命で、その子孫が代々、出雲大社を務める千家(せんげ)家である。

 高円宮家の二女だった典子さんが嫁いだのが千家国麿氏で、天照大御神の長男神と二男神の子孫が結ばれたことになる。

 記紀によれば、天照大御神が最初に水穂国を知らすよう「言因(ことよ)さし賜(たま)ひ」たのが天之忍穂耳命。しかし、出雲國での大国主命の国譲りなど、水穂国を言向けやわしているうちに、天火明(ほあかり)命と邇邇藝命が生まれる。そして、邇邇藝命が降臨するのだが、長男神天火明命はどうしたのかという疑問が起きる。

 実は、この天火明命こそが邇藝速日命である。先代旧事本紀や十種神宝祓詞には、「あまてるくにてるひこ、あめのほあかり、くしだま、にぎはやひのみこと」と、明確に記されている。つまり天火明命、あるいは邇藝速日命は、天孫として降臨した邇邇藝命の兄神に当たる。

 邇藝速日命が降臨する時に、天照大御神から授けられたのが「すめかみのゐさせたまふ、とくさのあまつしるし、みづのみたから」の十種神宝だった。

 十種神宝を「一二三四五六七八九十」と唱えながら「ゆらゆらとふるへ」ば、「いやこころのたりて、まかれるひとも、さらに、かえりいきなむ」とされている。亡くなった人さえ生き返らせるというのだから、これに勝る奇跡はない。

 そして後世に伝えられたのが、十種瑞乃神宝を振るう「ふる」という神言葉である。先代旧事本記と石上神宮祝詞とでは、十種瑞乃神宝の順序が少し異なるが、ここでは先代旧事本記に倣って記す。

 

 十種瑞乃神宝

 瀛津鏡(おきつかがみ)一つ

 邊津鏡(へつかがみ)二つ

 八握剣(やつかのつるぎ)三つ

 生玉(いくたま)四つ

 死返玉(まかるがへしのたま)五つ

 足玉(たるたま)六つ

 道返玉(ちがへしのたま)七つ

 蛇比禮(おろちのひれ)八つ

 蜂比禮(はちのひれ)九つ

 品々比禮(くさぐさもののひれ)十

 

 一つ一つの神宝がどのようなものか、さまざまな解説があるが、行じることが大切だから、言葉の詮索はあまりしない方がいいだろう。

 十種瑞乃神宝を「ふるふ」ことで神威を発現させるのが、「布留部詞(ふるべのことば)」だ。

 

 一(ひ) 二(ふ) 三(み) 四(よ) 五(い) 六(む) 七(な) 八(や) 九(こ) 十(と) 乎(を)

 十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 伊

 瓊音布留部(にのおとふるべ)

 由良由良(ゆらゆら)

 由良由良布留部

 瓊(に)は玉という意味で、十種瑞乃神宝を玉を振るように、「ゆらゆら」と振るえば、「もろもろの、わざはひ、やみことは、すみやかに、はらひたまひ、いやしたまひ、いやこゝろのたりて、まかれるひとも、さらにいきかえらしめたまひ」て、正しき直き本(もと)の御魂を心の真中に鎮め、言霊が幸はうと、十種神宝祓詞は記している。

 さて、「ふる」という言葉だが、御魂を振って心身を活発化する振り魂の「ふり」であり、神の枕言葉とされる「千早振(ちはやふ)る」の「ふる」である。「千」は霊(ち)で、「早」は速く激しく、「振る」は御魂振りだ。つまり「千早振る神」とは、霊威が強大な神という意味になる。

 また、民俗学の礎を築いた折口信夫は、「ふる」は「増える」「恩顧(ふゆ)」の語源だとしている。

 振り魂は御魂の力を強大にするだけでなく、数も増やしてさらに霊威を高めるということになりそうだ。また、「御魂の恩顧をこうむりて」などと使われる「恩顧」は、「振ゆ」「殖(ふ)ゆ」で、御魂を増やす意味である。

 石上神宮に伝わった十種瑞御寳修行法は、物部氏が権力闘争に破れて祭政の中枢から外れたことで、だんだんと廃(すた)れていった。

 それが復活したのは明治の初めで、現在は神社本庁が神社の神職に自修鎮魂行として行うよう指定している。具体的には、息長(おきなが)という複式の長い息を鼻で行いながら祝詞を上げ、体を左右前後に振る行法だが、文献にこの行法の記録はなく、石上神宮の伝承によって復活されたものだろう。

 石上神宮の鎮魂法は皇室祭祀にも取り入れられている。新嘗祭の前日の晩、掌典職が御衣と玉の緒が入った箱を「ゆらゆら」と振るう天皇の鎮魂、魂振りが行われている。物部氏の祖である宇摩志麻治命が十種神宝で神武天皇の鎮魂を行ったのが始まりと日本書紀にある。

 さて、失われた「祝の神事」とは、石上神宮に伝わる自修鎮魂行と、菅田正昭氏が述べている八乙女の行を、一つにしたものではないかと思われる節がある。八乙女による鎮魂は他修鎮魂ともいうべきもので、自修鎮魂、他修鎮魂がそろってこそ、すめらみことの行である御簾内の行にふさわしいと考えられる。

 

ナ 息吹永世

 神社本庁の自修鎮魂行では呼吸法を息長としているが、白川伯家神道には息吹永世という呼吸法がある。禊や祓い、鎮魂で共通して行われる呼吸法で、水が体の外側を禊祓うのに対し、呼吸で体の中から禊祓う行である。

 まず裸足の足の裏を合わせた安座または正座の姿勢(女性は正座)を取る。もっとも、息吹永世だけなら、正座でも椅子に座っていてもかまわない。

 安座して両手を体の前の床で揃え、円を描くように両腕を体の後ろへ回して手を合わせ、体の前へ両脇を通って戻す。そして一揖(ゆう)二拝二拍手一拝一揖し、神前でと同じように、安座している場所の神々に参拝し、修行の場を借りる挨拶をする。いわば結界をつくる。揖は軽いお辞儀で、拝は深い敬礼である。

 さて息吹永世だが、左指を上にして指を組み、人さし指だけ伸ばして合わせ、臍の前に置いて独鈷印を結ぶ。目を半眼に閉じ、鼻から息を吸って腹に溜め、口からゆっくり細く長く吐く。吐き切ったら鼻からゆっくりと息を吸って止め、再び細く長く吐く。息を吸うときに腹を膨らませ、吐くときは引っ込める複式呼吸を意識して行う。

 この場合、組んだ手を胸から上へ上げると霊動が出ることがあるから、厳に慎まなければならない。霊動が出て、神懸かったと喜んだら、とんでもない悪霊だったということになりかねない。ある種の宗教にはよくある話である。

 しっかりした指導者が不在で、一人で息吹永世を行じるときは、腹に気を鎮めるという意識を常に持っていなければならない。

 息吹永世を続けると、体全体が熱くなり、合わせた掌や人さし指がじっとりと汗ばんでくる。そういう状態になれば、息吹永世が正確にできている証拠である。

 息を吐くときに、体の中の罪穢れを細く長く吐いて清めてやるという意識を持つ。息吹永世を五分も続ければ、体の疲れが軽くなり、気力が出てくることに気づくだろう。「長い息」は「長生き」につながるから、息吹永世はストレスで難病に罹(かか)りやすい現代人の救世主でもある。

 逆に、「ハァ~」とため息のような息を吐くと、気力や体力が衰え、さらには罪や穢れがほかの人に憑(つ)いてしまうから、気をつけなければならない。

 息吹永世を続けても、衰えた気力が回復しない場合、息を細く長く吐いた最後に、すべての息を強く吐き切る。このとき、フツと音がするよう強く吐く。これを何度か繰り返すと、不思議に気力が湧いてくる。

 このフツという音は、速須佐之男命が八俣遠呂智(やまたのをろち)を「切り散(はふ)りたまいし」とき、つまり物を断つ際に出た音とされている。そしてフツは石上神宮の祭神の一柱である「フツノミタマ」、香取神宮の祭神「フツヌシ」に通じる言霊を持っている。

 日本書記によれば、経津主神武甕槌神と共に、出雲の国へ大国主神との国譲りに出向いた正使の神である。

 さらに神武東征の折り、熊野で大熊が現れて天皇も軍勢も毒気にあたって病に伏し倒れたとき、高倉下が一ふりの横刀(たち)を持って駆けつけると病気が癒され、「荒ぶる神、自ずから皆切り仆(たお)さえ」た。この横刀は、古事記では建御雷之男神出雲国の国譲りに携行して「専(もはら)ら其の国を平(ことむけ)し横刀」で、布都御魂と分注している。

 これらから、フツは荒ぶる敵を平定する言霊と考えられ、フツと息を吐けば、気力が充満するのだろう。

 呼吸は人間に大きな影響を与える。ちなみに、仏教の日蓮宗と念仏をする宗派とでは、題目と念仏を唱える声の出し方が違う。日蓮宗は何妙法蓮華経と息を強く吐き出し、念仏は南無阿弥陀仏とこもるように唱える。声を強く吐くと気力が高まって攻撃的になり、こもらせると内省し深い洞察に向かう。

 日蓮宗では開祖の日蓮だけでなく、血盟団事件の首謀者だった井上日召、八紘一宇(はっこういちう)を唱えた国柱会の田中智学などのように、気性の激しい人物が多出している。これに対し、内省に向かう念仏は、浄土宗の僧侶で、日本人仏教徒として始めてインドの仏跡を巡り、光明(こうみょう)主義を開いた山崎弁栄(べんねい)上人のような高僧を生む。

 念のため一言付け加えると、八紘一宇という言葉は戦前の軍部が盛んに喧伝したが、古事記にも日本書紀にも記載されておらず、田中智学の造語である。日本書紀にあるのは「八紘為宇(はっこういう)」で、「世の中を宇(いえ)=家=となす」が本来の意味だ。「一」というから世界を統一して支配下に置こうとなってしまう。「家」ならさまざまな家族がいるわけで、唯我独尊の軍国主義にはならない。言葉は正確に使うべきである。

 現代人が思考停止から逃れ、自らの頭で考えるようにするには、息吹永世での瞑想が最適である。目を半眼にし、ゆっくりと息吹永世を繰り返しながら、解決したいことに意識を集中してもいいし、何も考えずに無心になってもいい。

 これを一日に五分でも十分でもいいから継続して行えば、深い洞察力が得られ、気力体力が充実してくるだろう。神道の鎮魂の業である。

 すべての神道の行を現代人が実践するのは、環境的にも時間的にも難しい。したがって、まず自分で簡単にできること、つまり息吹永世から始めて、機会があれば神社が主催する禊会に参加することである。禊の後の爽快感を体験すれば、積み穢れが祓われたと実感できるだろう。

 そのとき、思考停止は完全に解けているに違いない。

巻の六 秘められた奇跡の道は禊から

 現代は第三次宗教ブームだと言われているが、自己を内省し精神を高みに導くべき宗教でも思考停止が起きている。いや、宗教だからこそと言うべきか。

 鰯の頭も信心からというが、傍から観れば首を捻る教祖の言動でも、信者が頭から信じてしまうのが宗教だ。宗教をなまじかじると思考停止に陥り、周りが観えなくなる例がいくらでもある。

 信教の自由があるからといって、悪神や悪霊、悪魔を信じれば魂や身の破滅だ。おのれだけの不幸で済めばまだしも、善良な青人草=国民を苦しめてしまうことになりかねない。地下鉄サリン事件を思い浮かべれば一目瞭然である。

 大半の宗教団体が教祖や教義を疑うことなく信じ、他者の批判を受け付けようとしない。場合によっては社会に牙を剥き、権力をつかもうとするのは、古代から宗教の歴史が物語っている。国家にとって、宗教は諸刃の剣なのである。

 一口に宗教といっても、ピンからキリまである。宗教を語るうえで最も大切なことは、教団が最高神や本尊とする神や仏の「格」であると肝に銘じなければならない。

 神信仰は、浄(きよ)く明(あか)く正(ただ)しく直(なお)く、爽やかさを感じさせるものである。爽快感がない宗教団体は、我が国伝統の神祭りとは無縁である。思考停止していると、そのあたりの判断ができなくなり、妄信してしまう。

思考停止から脱し、自分の頭で考え判断できるようになるには、伏流水となって伝えられている正しい神道を、まず知ることが肝要である。

 

 ヒ 歪んだ宗教政策

 

 近年の第一次宗教ブームは、幕末から明治にかけて起きた。すでに述べたように、明治十五年の神職と教導職の分離をきっかけに、教派神道十三派など多くの宗教団体が設立され、明治政府に認可されなかった宗教団体は、十三派の傘下に入って活動を維持した。

 第二次宗教ブームは戦後すぐの昭和二十年から始まった。戦前は大本教事件に象徴されるように、軍部を中枢とする政府が、さまざまな宗教団体を治安維持法不敬罪などで弾圧した。その反動で、敗戦を機に鳴りを潜めていた宗教団体が次々と息を吹き返した。

 そして現在の第三次宗教ブームで、雨後の竹の子のように宗教団体が発生している。玉石混淆というのならまだしも、真理を求める本物の宗教団体が、いったいどれだけあるのかと首を捻るばかりだ。自己満足に留まる宗教なら無益というぐらいで済むが、オーム真理教のような犯罪者集団となると、由々しき問題になる。

 ほかにも似たような宗教団体が多く存在する。血分け(教祖が若い女性信者全員と交わる性儀式)や全財産の強制寄付、悪質霊感商法などなど、反社会的な教団は少なくない。

 これらの多くが、オーム真理教裁判で明らかにされたように、さまざまな洗脳技術を駆使し、信者に思考停止を起こさせ、教義に疑問を持たせなくしている。

 集団の中にいると、その場の雰囲気で暗示にかかりやすくなる。集団暗示は新興宗教だけでなくさまざまな教団や政治団体が、熱烈な信者や賛同者をつくるために採用する洗脳手法だ。社会問題化した宗教団体絡みの事件は、マインドコントロールによって理性を失った信者たちが起こしたものがほとんどである。洗脳されたら抜け出すことは容易ではない。

 なぜ、簡単にと言ってもいいほどに洗脳されてしまうのだろうか。いつの時代でも、漠然とした社会への不安は存在するが、物質文明が高度に発達した現代、心の安定を求めて神や仏、霊的なものを求める人々が多くなっている。それが第三次宗教ブームになっているのだが、神霊についてあまりに無知な故に、深い考えもなく教団に接触し、信者にされてしまう。

 無知の最大の原因は、明治政府の神職と教導職の分離に始まり、大東亜戦争の敗戦によってGHQの占領政策、とりわけ神道指令で国の伝統と歴史を否定され、政教分離政策が採られたからにほかならない。

 政教分離政策は神道だけに厳しく、ほかの宗教には甘いという矛盾がはなはだしいにもかかわらず、独立回復後も政府はそのまま受け継いでしまった。そして、信教の自由への抵触をタブー視するあまり、宗教と呼べない代物まで野放しにした。

 日本の神々を国民が理解できない状態になってしまったのだ。

 とはいっても、この狭い国土に神社本庁傘下の神社が八万社近くもある。正月には初詣に行き、安産祈願や生まれた赤ちゃんのお宮参り、厄払い、受験生の合格祈願などなど、日本人は常に神々とともにある。少し意識して回りを見れば、身近なところに神社がいくつもある事実に気づくだろう。やはり日本は、神々とともにある国なのだ。

 問題は、戦前の軍部の歪んだ神道解釈や、神道を否定する戦後の政教分離政策で、人々が神道本来の姿を見失ってしまったことだ。

 神々の世界には、侵すことのできない上下関係がある。そして神道は、八百万神とは言いながら、天照大御神という唯一絶対の最高神が存在している。

 これに対し、宗教が最高神として祭る神は、大半が八百万神の一柱で、教祖や開祖に降(くだ)ったとされる神である。絶対最高の神でもなければ、唯一の神でもない。自教団の神を最高とする誤った神観が、世を乱れさせる原因だと言ったら、言い過ぎだろうか。

 一世を風靡した神道家の修行法を知れば、現代の宗教家のそれがいかに危険で薄っぺらなものか判断できる。まず、本物を知ることである。

 これから具体的な修行法を紹介するが、見よう見まねで行を修すると、危険を招きかねないから、しっかりした道彦に先達してもらわなければならない。

 具体的な鎮魂行法について述べられた書物は、門外不出ということもあるだろうが、意外に少ない。ここでは川面凡児、本田親徳など神道家の実践行と、埋没した白川伯家神道、明治に復活した石上神宮の修行法から、神道の本質を探る。

 

フ みそぎ

 

 神道の基本は、心身を清める禊(みそぎ)である。

 黄泉の国から還った伊邪那伎大神が、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門の阿波岐原(あわぎはら)で、身についた穢れを清めたのが禊の始まりである。

 古事記日本書紀には、大祭の前に天皇が御禊を行ったという記録が随所に出てくる。古代、十一月下旬の卯(う)の日に行われる新嘗祭(にひなめさい)は、天皇践祚(即位)した後を特に大嘗祭(おおなめさい)といい、一月(ひとつき)前の十月に加茂川で御禊を行ったと記録がある。

 社家や宮廷人も禊をしたに違いないが、いつのころからか行われなくなった。願い事をする人々の水垢離や、修験道行者の修行などに、わずかな名残が伝えられてきただけである。埋没したといわれるゆえんだ。

 神代からの禊を復活させたとされるのが川面凡児である。

 川面凡児は大分県出身で、宇佐神宮の東南にある馬城峰(まきのみね)にたびたび登り、斎籠修行中に六百九十七歳と自称する仙人に出会い、さまざまな神秘的な教えを受けたという。このときの斎籠行が川面凡児の原点となっている。

 一時は蓮華法印の名前で仏教界で活躍、後には「大日本世界教稜威会本部」を創設、神奈川県の片瀬海岸で毎年、大寒禊を行った。

 川面凡児は社家などから「行者」と蔑まれたが、神宮奉斎会会長の今泉定助が寒中禊に参加するにいたって、禊は一気に神社界に広がった。

 厳格な禊を指導することで有名な日本大学今泉研究所の礎を築いた今泉定助は、仙台の白石で生まれ、平田篤胤の弟子だった丸山作(さらく)に師事、国学院大学の基となる皇典講究所の講師などを経て神宮奉斎会会長になった神道界の重鎮である。

 その重鎮が、還暦近い年齢で禊行に参加して以降、川面凡児を全面的に支持するようになる。当時の還暦といえば長老で、それが一人の求道者として、文字通り裸になって寒中禊を行ったのである。

 今泉定助を川面凡児に紹介したのは福岡県福岡市の筥崎(はこざき)宮の社家だった葦津(あしず)耕次郎で、昭和の神道思想家として名高い葦津珍彦(うずひこ)の父親である。

 川面凡児を高く評価した今泉定助は、神職に禊行を普及して全国に広まり、今では神社界で広く行われている。

 川面凡児の禊行は後に大政翼賛会が国民精神高揚に取り入れたため、一大国民運動となっていく。このため、川面凡児や今泉定助を軍国主義の権化のように言う人間がいるが、表面だけ見て禊の何たるかを知らない不心得者である。

 川面凡児は、本居宣長平田篤胤の系統ではなく、さらに白川流、吉田流、さまざまな流派の神道でもなく、奈良朝よりはるか以前の神代の教えだと主張した。奈良朝の神祭りは、すでに道教や仏教の影響を受けていたから、それ以前の純粋な神道だと言いたかったのだろう。

 その川面凡児を、白川子爵が大正元年十月に稜威会へ訪ねた。金谷真(かなやまこと)の「川面凡児先生傳」(みそぎ会正座聯盟)によると、川面凡児は子爵から由緒正しい白川家の傳をうけ、その門に入るよう勧められたが断ったとある。そしてあるとき、白川子爵が「川面は実におかしなことに、宮中以外に知られぬことまで知っている」(川面凡児先生傳)と述懐したという。

 これを裏付けるように、川面凡児は昭和三年の昭和天皇の御即位御大礼にあたり、大嘗祭の主基(すき)田が福岡県に決まった際、天地鎮祭や鏑(かぶら)矢を射る蟇目(ひきめ)神事などの祭事指導を行った。白川伯家神道を学んだことのない川面凡児が、宮中に伝わる秘儀に精通していたとは不思議である。

 川面凡児は本居宣長平田篤胤国学神道とは趣を異にしていると、自ら宣言しているが、不思議な関わりもある。川面凡児全集一巻に、「聖徳太子以前の事が認めてある寫本(しゃほん)」を平田篤胤が京都の書肆(しょし)で見つけ、財布を宿に忘れていたので持って戻ってくると、すでに筑紫の人が買ってしまっていたということが書かれている。この筑紫の人というのが、川面凡児の祖父だというのである。

 この「寫本」は神代から応神天皇までの公の歴史を記した「フミ」と、随筆様の「真魂」で、大和の神代文字は五十韻の文字とあり、今でいう片仮名だと川面凡児は判断している。

 もっとも、この「寫本」は公開されておらず、真書か偽書か判断することはできない。

 川面凡児の祖父が「寫本」を手に入れた時期は、尊皇思想が高まってはいたが、徳川幕府が長く続き、公家たちは生活に困窮していた。だから、代々伝わる書物を、書肆に売って生活の足しにした公家もいたことだろう。「寫本」の出所はおそらくそうした公家たちで、秘められた書であったことは間違いない。

 川面凡児の熱心な崇拝者に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公、日露戦争バルチック艦隊撃滅に大きな貢献をした秋山真之(さねゆき)がいる。また川面凡児は南極大陸を探検した白瀬矗(のぶ)中尉に、霊視によって作成した大陸の地図を出発前に渡し、探検隊が遭難したとき、その地図によって助かったなど、多くのエピソードを残している。

 禊祓いは、さまざまな行や祭事の前に、必ずやらなければならない大切な行事である。何を禊祓うかといえば、もちろん罪と穢れだ。

 では、罪とは何だろうか。穢れとは何だろうか。

 罪は罪悪の罪であり、犯罪の罪でもあるため、不法行為というイメージが湧いてくる。また穢れは汚いものと受け取られている。

 だが、本来の意味はまったく違う。「つみ」や「けがれ」という言葉に「罪」と「穢」という漢字を当てはめてしまったために、時が経つにつれ、表意文字の意味が、一般に定着してしまったのだ。

 実は、古事記日本書紀の神代巻には、「つみ」という言葉はない。「つみ」が明確に記されているのは、中臣家に伝わった大祓詞である。速須佐之男命が高天原で犯した狼藉を天津罪、人間が犯す過ちを国津罪と、「つみ」を二つに分け、それぞれ具体的に記している。こういうことをしてはならないという、一種の倫理規定として取り上げたのではないかと思われる。

 さて、春日大社宮司を務めた葉室頼昭氏は「つみ」という言葉について、「み」を「つつむ」意味だと指摘している。どういうことかといえば、「つつむ」は「包む」で覆う意味、「み」は「身」で体、体を不要なものが包むのが「つみ」であるというのである。

 人間は生きていくために、やむを得ず動植物の殺生をし、他人を傷つけたりもする。そうしたもろもろの悪しきこと、良くないことが身を包み、本来の清らかさが失われている。だから、身を包んだ余分なものを取り去り、本来の清らかな体に戻すのが禊祓いだというのである。

 川面凡児は「み」は「霊」であるとも語っている。となると、「つみ」は「霊」まで包み、心身ともに「つみけがれ」に覆われることになる。

 これでは浄く明く正しく直き神道の心とは程遠い人間になる。

 次に「けがれ」だが、最も近い漢字で書けば「気枯れ」である。つみが重なると気が枯れて、元気がなくなる。ため息ばかりついていると気が枯れ、ますます元気を失い、病気になりかねない。

 では、つみやけがれを無くすにはどうすればいいかだが、伊邪那岐命の禊祓いに倣って水を注ぐ。

 伊邪那美命を追って黄泉(よみ)の国へ行った伊邪那岐命は、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓いする。まず御杖など身につけている物を投げ棄て、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」として「中つ瀬に墮(お)り迦豆伎(かづき)て滌(すす)ぎ」たまう。

 そして水の底、中、上と「滌ぎ」、最後に「左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神、次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命、次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命」と、三貴神が成った。

「みそぎ」の語源は「水を注ぐ」だが、「つみ」を「そぐ」が「みそぎ」となったとも読める。

 川面凡児や今泉定助は「み=霊」を注ぐであるとも言っている。神聖な「み=霊」を注ぎ、自分の魂をいっぱいに満たし、つみけがれを弾き飛ばすのが「みそぎ」だというのである。

 また、みそぎという言葉は「身」を「削ぐ」という意味でもある。断食はまさしく「身を削ぎ」、肉体の死に一歩ずつ近づいていく、みそぎの最たる行だ。五感が敏感になり、いろいろと不可思議なことが起こる。

 伊邪那岐命のみそぎは、さまざまなことを暗示している。まず、体に付けているすべての物を捨て去ることから始まるが、これはモノに対する執着心を捨て去ることが、つみけがれを祓う大本だと指摘しているのではないだろうか。

 次に伊邪那岐命は、水の底、中、上と滌いでさまざまな神々を生み、最後の三貴子が成ったのは、水面が鼻先に触れた状況だったと推察される。つまり左右の目と鼻先が水面で一直線になり、波が静かに洗ったのだろう。

 禊をするのは、「み」についた「つみけがれ」を「そぎ」、神祭りをする清らかな「み」になるためである。禊で浄く明く正しく直き心身になり、神々に奉仕するのが、この国の本の姿である。

 禊をすることで、いわゆる超常能力を取得しようと考えたら、怪力乱神を求めるの類で、ある種の疑似宗教に堕ちかねないと、心しておくべきである。

 神々に仕える前の禊祓いがどれだけ厳しいものかは、宮中で賢所に奉仕していた内掌典の高谷朝子氏の著書「宮中賢所物語」(聞き手・明石伸子、ビジネス社刊)に詳しく紹介されている。賢所では、わずかな穢れも許されない清らかさが求められるのである。

 禊を行う水には不思議な力こめられている。川面凡児の海の大寒禊会では、病人が次々と治っていったという。

 ちなみに南フランスに、聖母マリアが現れて修道女に示したというルルドの泉がある。奇跡の湧き水といわれ、大勢の信者が集り、難病が癒されている。ローマ法王庁が奇跡確認所を設け、奇跡を認めているが、科学的に二つのことが解明されている。

 一つは、浅井ゲルマニウム研究所の故浅井一彦氏が発見した。同研究所の研究員だった柿本紀博氏が、世界に先駆けてゲルマニウム有機化し、サプリメントとして難病に絶大な効果のあることが、さまざまな臨床実験でわかっている。その快癒の仕方とルルドの泉の治り方が似ているというので調べたところ、「ルルドの泉の水には大量の有機化されたゲルマニウムが含まれていた」(永遠なる魂 千代田圭之 バンガード社)のである。

 もう一つは、九州大学大学院の白畑實隆教授(当時)が発見したもので、ルルドの泉には、万病のもとになる活性酸素を中和する大量の活性水素が含まれているという。ドイツのノルデナウの水など奇跡の水と言われる水には、活性水素が溶け込んでいるというのが白畑教授の持論である。

 ルルドの泉という一つの水から、まったく違う二つの結論が導き出されたことは実に興味深い。水の神秘性である。

 川面凡児は、夏は滝での禊、大寒は海での禊を提唱した。

 禊にあたっては、禊祓や祓禊の祝詞を唱え、右の掌を上にし、左の掌を十字にかぶせ、玉を持っているように膨らみを作る。そして、海での禊の場合は水の中で、滝での禊は打たれながら、それぞれ臍下丹田の前で、手の膨らみを「払いたまえ清めたまえ」と唱えながら上下に振り、振り魂行を行う。

 このとき、手を胸より上にしてはならない。罪穢れが祓われて敏感になっているから、思いがけない事態が起きることがある。信じられないかもしれないが、腕が激しく動く霊動が起きたり、手を何かの力で体ごと上へ持っていかれたりする。

 禊行にあたっては、手を必ず腹の前に置かなければならない。

 一人で禊行を行うのは危険だから、禊会に参加するのが望ましい。今では多くの神社で禊神事が行われているから、それに参加するのが最善だろう。

 こうした禊会に出られないときは、自宅で禊ぐことになる。水を溜めた水槽(浴槽)に蹲踞(そんきょ)して向かい、祓いたまえ清めたまえと祝詞をあげ、左足、右足、真ん中の順に水をかける。次に左肩、右肩、頭頂の順に、エイ、エイと気合をかけて水を叩きつけるようにかぶる。左右中心と水をかぶるのは、伊邪那岐命が左目、右目、鼻と洗った故事に倣っている。

 禊は何と言っても水によらなければならない。しかし、朝の祭祀に当たって水による禊をしている神社は少なく、多くが入浴で代替している。

 今泉定助はさまざまな著書で、神職が水で禊をせず、風呂に入っていると嘆いている。入浴して身体を温めれば細胞が弛緩し、緊張が薄れて集中力が失われる。神々の存在は、精神を張り詰め意識を集中しなければ感じる事ができないのに、逆のことをしていると批判している。

 神職の禊は、肉体を洗って体を清めばいいという、唯物論的な考えに基づいているのだとしたら、おぞましいことだ。

 

ミ 鎮魂帰神法

 

 後の世の新宗教に絶大な影響を与えた本田親徳の鎮魂帰神法は、自感法、他感法、神感法の三法あるが、ここでは一般に神懸り行といわれるものについて紹介する。

 これは神霊に憑依される神主と、どのような神霊が憑依したかを判定する審神者の二人で行じる。神主は掌を合わせて左指が上にくるように指を組み、胸の少し上で人差し指を伸ばす独鈷印(鎮魂印)を作る。審神者が神主に憑霊させるため岩笛を吹くと、やがて神懸りするというものである。

 本田親徳によって再興された神懸り行は、上代では珍しいものではなかった。

 古事記で最初に神懸りが記述されるのは、天照大御神が天岩屋戸に籠ったときのことである。天宇受賣命が岩屋戸の前に汗氣(うけ)(槽のこと)を伏せ、上に載って踏み轟かせて神懸りし、天照大御神が岩屋戸から覗き見るきっかけをつくったとある。

 また、日本書紀によると、第十代崇神天皇の御世、国内にさまざまな災害が起こったため占ったところ、大物主神が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命に懸かった。さらに、古事記仲哀天皇の項に、住吉神社の神が神功皇后に神懸りしたと記されている。

 また、魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼は鬼道をよくしたとあり、卑弥呼が神懸りしたことを示唆している。ちなみに、倭迹迹日百襲姫命卑弥呼と比定する学者もいるが、先に述べたように、邪馬台国は九州の一地方国家だったから、あり得ない論である。

 本田親徳が再興した霊学には、帰神(かみがかり)で懸かった神霊を鎮める鎮魂法と、懸かった神霊の正邪を判定する審神(さにわ)法がある。そして帰神には審神者が不可欠とされている。過去にもさまざまな神道家や宗教家が神懸りや霊懸かりを実践したが、本田親徳が「学」という体系に纏めたので、霊学中興の祖と言われている。

 

巻の5 後編  本つ教えの本質歪めた明治政府

ミ 復古神道の爆発

 

 吉田神道垂加神道の流れを汲み、仏教や儒学の影響を排除し、古事記万葉集などの、我が国固有の古典に忠実に従おうとしたのが国学者たちだった。

 その先兵となったのが、京都の伏見稲荷大社の神官の家に生まれた荷田春満(かだあづままろ)(一六六九~一七三六)で、神職を弟に譲り、国学を研究し、我が国固有の道を説くことに専念した。

 荷田家の神道吉田神道の流れを汲み、さらには山崎闇斎の門弟が伏見稲荷大社の神官に就いていたことから、春満は幼年時代から神道中心の考え方を持っていた。

荷田春満国学復古神道の先駆者で国学四大人(うし)の一人と言われ、賀茂真(ま)淵(ぶち)(一六九七~一七六九)に大きな影響を与え、それが本居宣長(一七三〇~一八〇一)、平田篤胤(一七七六~一八四三)の国学運動へとつながっていく。

 加茂真淵は遠州静岡県)浜松の加茂神社の社家出身で、荷田春満の門下で万葉集を研究した。真淵の影響を受けたのが伊勢国三重県)松坂に生まれた本居宣長である。宣長は医学を学ぶが、僧契沖(一六四〇~一七〇一)の学問に触れて国学に興味を持ち、さらに松坂で加茂真淵に会ってから万葉集古事記などの古典研究に没頭した。

 宣長は日本文学の基本を「もののあはれ」に求め、古事記の精神に基づき「漢(から)意(ごころ)」を排除して、神道がすべての大本であることを説き、大部の「古事記伝」を執筆して国学研究の姿勢を確立した。

 宣長の没後の門人である平田篤胤は、秋田久保田藩藩士の子供として生まれ、備中国松山藩の平田家の養子になり、宣長の著書に触れて国学に開眼した。

 宣長、篤胤ともに天照大御神を太陽そのものと唯物的に判断したのは、神道の真髄を理解できなかったからで、国学の限界を示したといえよう。

 篤胤は宣長の学風を受け継いでいるが、大きな違いは神霊や霊魂、神仙、さらには神代文字などの存在を肯定しているところである。

 篤胤の前に突如姿を現した、仙界を知るという天狗小僧寅吉から聞き取りして「仙境異聞」を著し、「勝五郎再生記聞」では人の生まれ変わりを論じた。篤胤は伯家神道吉田神道の古学教授を委嘱され、神道の行にも深い興味を示した。

 篤胤の最大の功績は、黒船の来航で国家存亡の危機にあって、幕末から明治にかけ維新運動を推進した勤皇の志士たちに、思想的な影響を与えたことである。だが、明治新政府は当初こそ平田門下生を重用したが、政教分離政策によって政府中枢から放逐していった。

 

ヨ 近世二度の埋没

 

 明治維新政府は明治元年に「祭政一致ノ詔」を発し、祭政一致の道を目指した。さらに神祇官制度を復活させ、同三年には、宣教師を任命して大教(神道精神)を国民に布教する「大教宣布ノ詔」が下された。

 神仏判然令(分離令)を拡大解釈した排仏棄釈などの行き過ぎもあったが、維新をなし遂げた志士たちの思いが実行に移されたといっていい。

 しかし、世襲制を否定する神祇官制度の導入によって、八二三年に及んだ白川神祇伯は廃止された。白川家は明治初めまで皇室祭祀を司り、天皇や摂政にさまざまな手振り=作法を伝授していたにもかかわらず、新政府は存在を否定したのである。同時に、吉田神道神職免許の授与権を剥奪された。

 吉田家や白川家を排除したのは、「岩倉具視ら政府首脳らの総意の反映で、『白川氏などこれまで神祇に関係していた人々は一切採用しない』ことが、岩倉具視と神祇事務局総督の鷹司輔熙の間で確認されていた」(女性神職の近代 小平美香 ぺりかん社)からである。

 岩倉具視は白川家などの神祇家を目の敵にしていた節がある。敬神の念の強い孝明天皇が、公武合体と攘夷を強く求めた原因は、神道の影響があったからだと考えていたからである。

 吉田神道は神社を保有していたから細々とではあるが生き残ったが、白川神祇伯は固有の神社を持たず、皇室にだけ奉仕していたから、神祇伯を廃止されては、権威を失い没落していくしかなかった。

 岩倉を筆頭とする新政府の重鎮が、神道政策を歪めた責任は大きい。

 明治四年には、神社はすべて国家の宗祀(そうし)とされ、これによって神社独自の祭祀が禁じられ、国の祭祀方式に統一された。例えば、柏手は出雲では四開手(よひらて)、神宮では八起拝(やおきはい)八開手(やひらて)だったのに、一律に二拝二拍手一拝と定められた。もっとも、これに従う由緒ある神社は皆無で、独自の祭祀が続けられた。

 さらに神官の世襲制と社家制度が、人材登用のため廃止された。復活した神祇官もすぐに廃され、翌年には神官や国学者から登用されていた宣教師制度も廃止され、僧侶も就任できる教導職制度が導入された。宣教師や教導職はキリスト教の布教に対抗し、神道精神を普及するための職制であるにもかかわらず、僧侶を登用したところに政府の見識のなさが表れている。

 そして明治十五年、神官の教導職兼任が禁止され、国家の宗祀としての神社と、教導職が普及する宗教活動とが、完全に分離されてしまった。

簡単に言えば、神社は宗教性を持ってはならないと規定されたのである。この神社神道がいわゆる国家神道と言われるものだ。神社から宗教性や神秘性を排除してしまっては、神の道とはならないから、明らかに時の政府の失政である。

 この分離政策で、葬式は宗教性があるからという理由で、神官は例外を除いて神葬祭を禁じられた。明治維新で一千年以上にわたる神仏混交に終止符を打ち、やっと神葬祭が復活したのに、神社と教導職の分離が、再び歪んだ姿にしてしまったのだ。

 神葬祭を禁じて宗教性を排除すれば、先祖の霊を祭る「みたままつり」まで否定することになる。これでは、皇霊殿で歴代天皇の御霊を祭る皇室の神事すら否定しかねない。明治政府の政治家や官僚は、口では敬神を唱えながら、実際には神をも恐れぬ無神論者ばかりだったのである。神道は時の政府や官僚に利用されて意図的に埋没させられ、ここに「いわゆる国家神道」という「官僚神道」が出来上がった。

 それを推し進める方策が、いかに激烈であったかは、神道国際学会会長を務めた中西旭氏が「神道の理論」(たちばな出版)で次のように述べている。

 

 又、「神武創業の始に基づき諸事一新」の維新制度の立案者たる玉松操(大国隆正門下)も、それと前後して侍講より隠退し、「孺子(岩倉具視を指す)に全く騙された」と慨嘆して突如死亡した、否暗殺されたと云われる(明治五年二月)

 

 玉松操は錦旗を作り、薩長土肥を官軍に仕立て上げた立役者だが、そんな人物すらも要職から追われ、暗殺されたのである。そして、神道行事が軽視されていく。

 宮内庁が昭和、平成と、天皇陛下のご高齢を理由に皇室神事を簡略化しようと画策する動きは、神道行事軽視の当時とよく似ているのではないだろうか。

 

イ 意図した脱神道

 

 明治維新直後の神道行政を担ったのは、長州藩に隣接する津和野藩藩主の亀井茲(これ)監(み)と、藩士の大国隆正や福羽美静(よししづ)などの津和野派といわれる神道家たちだった。

 津和野藩は「明治維新以前に神仏分離を実行したり神葬祭を実行したりした」(国家神道と日本人 島園進 岩波新書)ほどの、熱狂的な国学派だった。

 そして維新政府内で「津和野派の影響力は平田派を圧倒し、一八六八年頃には彼らが神道事務局を動かし、行政の主導権を握るようになった」(同)ため、平田学派は急速に力を失い、神社行政は彼らが目指した理想とは程遠いものになっていった。

 津和野派と平田学派の対立は、平田学派の神職重鎮である常世長胤(とこよながたね)が書いた「神教組織物語」(日本近代思想大系五 岩波書店)に詳しい。

 平田学派が没落していくさまは、島崎藤村の小説「夜明け前」が、発狂して死ぬ主人公の青山半蔵の眼を通して、当時の状況を生き生きと描いている。ちなみに、青山半蔵のモデルは藤村の実父である。

 岩倉らは長く続いた神祇家を排除したが、維新政府の神祇官だけで祭祀を行うには、知識や経験の不足で無理があった。「大祓」や「祈年祭」「新嘗祭」などで白川家や吉田家に頼らざるを得ず、明治四年には「いったん排除されたはずの白川資訓、吉田良義が『掌典』に任命されることによって両氏の神祇官復活が実現」(女性神職の近代)したのである。

 伝統ある神祇家を排除し、次には頼らざるを得ない維新政府の神祇行政は、右往左往するだけの場当たり的で混乱を極めた。

 さて、大東亜戦争に負け、GHQの神道指令でいわゆる国家神道軍国主義の原因にされたため、明治維新神道復活を進めた平田学派がファシズムの根源だと非難されている。しかし神道政策の歴史をみれば、維新政府は平田学派を排除しているから、この主張がいかに的外れかわかる。

 では、なぜ維新政府は神社から宗教性を排除する神道政策を取ったのか。一つには、鎖国から開国へと外交の舵を切った維新政府が、欧米諸国から信教の自由の確立、すなわちキリスト教の自由な布教を強く求められたからである。

 このため維新政府は浅はかにも、国家祭祀から宗教性を排除すれば、神道は宗教ではなくなるから、神社を国家護持しても欧米諸国から批判されなくて済むと考え、神社と宗教的な神秘性が不可分なのにもかかわらず、教導職の導入で神社から宗教性を分離した。

 この「官僚神道」が国家政策を大きく歪める結果となった。

 欧米の帝国主義国家が、他国を侵略するときに、先兵としてキリスト教を布教させるのは歴史が証明するところだ。だから、宣教師にしろ教導職にしろ、キリスト教にいかに対抗して神道を国民に普及するかが最大の課題であった。

 しかし、神道を普及する教導職に僧侶を加えるなど、政府の神道政策は支離滅裂だった。ものの本質をわきまえない官僚の姑息な政策が、神道を誤った方向へ導き、国民に誤解を与えてしまったのだ。

 さらに、鹿鳴館に代表されるように、「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開花の音がする」と庶民から揶楡(やゆ)された西洋化政策が、神道軽視に拍車をかけた。我も我もと西洋かぶれし、伝統を棄てるのが進歩人とでもいう風潮が蔓延していった。思考停止が起こったのである。

 この時代も、官僚が国の政策を誤らせた。米国に追従し、中国に媚を売るのが得という人間ばかりの現代と、そっくりではないだろうか。いつの世にも、深く物事を考えない外国崇拝者(かぶれ)の軽薄な人間がいるものだ。

 そういう精神的な危機は、古事記の編纂時のように、日本を何度も襲っている。そのたびに、時の天皇が祭祀の必要性を説かれている。

 

 わが国は 神のすゑなり 神まつる

 昔のてぶり 忘るなよゆめ

 

 とこしえに 国まもります 天(あめ)地(つち)の

 神のまつりを おろそかにすな

 

 明治天皇御製である。明治天皇伯家神道の行に熱心だったといわれ、神道関係の資料が残されていないか、襖の下張りまで探されたというほど敬神の念が強かった。御製から、政府によって神祭りがおろそかにされていくことへの、強い懸念が読み取れる。

 神祇伯の廃止で、政府は白川伯王家に代々伝わった、皇室のさまざまな作法などを記した有職故実(ゆうそくこじつ)の返却を求め、伯家神道の存在価値を失わせた。神祇伯が廃止された後も、しばらく白川伯王家は子爵として続くが、貴族の例外に漏れず没落、さらに跡継ぎに恵まれず、ついに断絶した。その結果、伯家神道は民間に埋もれることを余儀なくされた。

 それでも伯家神道は、断片が教派神道や民間修行者に細々と伝わっていった。伯家神道最後の学頭だった高濱清七郎(たかはま・せいしちろう)が宣教師となり、全国布教に携わったから、行を継承した有志がいたに違いない。

 民間に埋没した伯家神道は、後に「霊学中興の祖」といわれている本田親徳(ちかあつ)(一八二二~八九)らに一部が伝えられ、本田の鎮魂法が大正、昭和と大弾圧された大本教に受け継がれ、さらには大本教から派生した多くの新興宗教へと流れていった。

 

ム 神道十三派

 

 明治十五年の神官と教導職の分離で、宗教性=神秘性が認められない神社神道を嫌った多くの神官は、辞任して教導職になっていった。そうした動きが、教派神道という新宗教の設立につながっていく。

 教派神道が成立する土台はすでに徳川時代からあった。幕末期は長い徳川家支配で制度疲労を起こし、武家社会は豪商から借金をしなければなり行かず、農民や大衆は貧困に喘いでいた。貧富の差が著しく拡大したのである。さらには黒船の来航は幕府だけでなく、国民に恐怖と混乱を招いた。

 社会不安が強まると、いつの時代でも大衆はすがるものを求める。そして、大衆の求めに呼応するように、新しい宗教が産声をあげ、虐げられた大衆に浸透していく。徳川時代の末期は新宗教が次々と産声を上げた黎明期であった。

 さらに尊王攘夷意識の高まりは新宗教にも影響を与え、眠っていた日本古来の神々を目覚めさせたとでもいうように、神道系の教団が相次いで誕生した。それに拍車を掛けたのが神職と教導職の兼務禁止で、教導職が新宗教に流れ込み、教派神道が独立し、神道十三派が明治政府から順次公認された。

 黒住教(明治九年)

 神道修成派(同)

 出雲大社教(十五年)

 扶桑教(同)

 実行教(同)

 神道大成教(同)

 神習教(同)

 御嶽教(同)

 神道大教(十九年)

 神理教(二十八年)

 禊教(同)

 金光教(三十三年) 

 天理教(四十年)

これら以外に神宮を中心にした神宮教(初代管長は時の神宮大宮司田中頼(より)庸(つね))が認められていたが、神宮は宗派を超えた存在だとして宗教団体の性格を改め、明治三十二年に財団法人神宮奉斎会へと改組した。

 教派神道黒住教金光教天理教のように教祖の神憑り体験を基に作られた教団や、修験道のような山岳宗教、さらには尊王運動の中から生まれてきた教団などさまざまだった。金光教天理教は幕末から活動していたにもかかわらず認可が遅れたのは、教義が国家の宗祀に合わなかったためで、教義を作り変えてやっと認可された。

 

ナ 帰神法

 

 この時代、宣長や篤胤の感化をうけて国学復古神道に人材が湧出し、新宗教も活発になったが、後世に大きな影響を残す鎮魂帰神法を復活させたのが、明治維新前後に活動した「霊学中興の祖」といわれる本田親徳である。本田親徳は薩摩出身の神道家で、水戸学の会沢正子斎に師事、白川神祇伯の最後の学頭だった高濱清七郎から教えを受けたといわれている。

 本田親徳が霊学研究を始めたきっかけは、京都の藩邸で狐憑(つ)きの少女の憑依(ひょうい)を見てからだった。今では狐憑きなどというと首を捻る向きが大半だろうが、物質文明が発達する以前の素朴な生活環境にあっては、憑依現象は稀なものではなかった。

 本田親徳が再興した霊学は神主に神霊を懸(か)からせるいわゆる神懸(かみがか)り行で、さらに審神者(さには)が神霊の善悪や区分などを判定する審神法、懸かった神霊を鎮める鎮魂法などからなっている。

 本田が平田篤胤を厳しく批判したことから、外務卿などを務めた明治の元勲の一人、副島種臣(一八二六~一九〇五)らの弟子たちが平田門下生の報復を恐れ、著作を世間に発表させなかったという。さらに代表的な著作の「難古事記」が完成した明治十六年は、自由民権運動などの弾圧が起こり、副島らは本田霊学が政府から危険思想とみなされることを恐れて発表を見合わせさせた。

 本田親徳の数百人の弟子の中で、正統な後継者とみなされているのが門下生一千人を超えた長沢雄楯(かつたて)(一八五七~一九四〇)である。長沢雄楯は静岡県の御(み)穂(ほ)神社社司で、月見里(やまなし)神社の神主でもあった。月見里神社は御笠稲荷神社とも呼ばれ、御笠稲荷講社として県の認可を得て、本田霊学の神懸り行を布教した。

 この稲荷講社を訪ねたのが上田喜三郎、後の大本教の聖師となる出口王仁三郎(おにさぶろう)(一八七一~一九四八)である。

 大本教は大正十年と昭和十年の二度にわたって官憲の弾圧を受け、大東亜戦争の敗戦で自由の身となったが、弾圧される過程で分かれていった幹部たちが、世界救世教生長の家など、現在でも活発に活動している多くの新宗教を設立した。大本教は今なお宗教界に大きな足跡を残している。

 

ヤ 近世の言霊学

 

 鎮魂帰神法の本田親徳に先立ち、平田篤胤と同世代の神道家で、近世言霊学再興の祖といわれるのが、山口志(し)道(どう)(一七六五~一八四二)と中村孝(たか)道(みち)(不明~一八三七)の二人である。

 二人の活動は、本居宣長平田篤胤国学復古神道を提唱した時代と重なっており、この時期は長い間埋もれてきた神道や言霊学が、一斉に甦りを果たした復活のときだったと言えよう。

 山口志道は現在の千葉県鴨川市豪農出身で、代々伝えられた古文書「布斗麻邇御霊(ふとまにみたま)」の解明を進めているうち、荷田春満の後裔から伏見稲荷神社に伝わっていたとされる「稲荷古伝」を伝授され、著書「水穂伝」を完成した。志道の言霊学は、すべてのものは「火」と「水」で成り立っており、「火(い)水(き)の発現である言霊によって天地が動く」とし、独特の五十音図を作り上げた。

 中村孝道の言霊学は「ますみの鏡」という七十五音図(濁音を含めた音図)の中心に「す」音を配し、七十五音すべてに解説をつけた。特に「す」音は「天(すめら)皇(みこと)」や「統(す)べる」の「す」であり、すべてを統一する働きがある中心音としている。

 中村孝道の言霊学は高弟の望月幸知から孫の望月大輔に引き継がれ大成した。望月家は滋賀県甲賀の在で、祖は大伴氏にさかのぼる名家とされている。望月大輔は後に近代言霊学中興の祖といわれる大石凝真素美(おおいしごり・ますみ)(一八三二~一九一九)である。

 古代から伝わってきた鎮魂帰神法や言霊学、禊行は、行基以来の神仏混淆により、いずれも歴史の闇に埋没したが、国が危機に陥るたびに甦り、幕末から明治維新の激動の中でも復活した。あたかも時代に意志というものがあるかのようである。

 それら神々の業(わざ)は、神道に対する明治政府の失政や西洋化の推進、昭和の軍部主導の誤った思想弾圧で再び地下に埋没し、さらにGHQが神道軍国主義の基となった国家神道だと誤認、抹殺しようとしたところから、国民が精神的支柱を失った現在の悲劇がある。

 そして、神道が埋没した間隙を縫って、宗教とも言えない代物が、人々の不安を煽って謳歌している。あるいは、物質至上主義の刹那的唯物論が大手を振っている。

 だが、我が国が存亡の危機に直面すると、埋没し伏流水となっていた神道は必ず甦り、国を正しい道へと導く。平成二十五年の神宮ご遷宮は、国民の心を洗い、神々の世界へと意識を向けさせた。人々の意識が思考停止から甦る秋(とき)は近い。

巻の五前編 国の危機に甦る地下清流「本つ教」

 

 私たちの住む町や村には、少し目を周りに向けるとさまざまな神社があり、祭りが行われている。春は豊作を祈って田植えをし、秋には収穫を感謝し、国や地域の安全を祈り、子供が生まれればお宮参りで健康に育つよう祈り、初詣でや受験の合格祈願、交通安全や家内安全などなど、日本は神々とともに人々が暮らす国である。

 そして神祭りは、個人の願いより全体の平安を祈る心を優先している。

だが、神々の存在は長い歴史の中で、国民精神の荒廃や物質至上主義の蔓延で希薄になり、戦前の軍部独裁で歪められ、さらにGHQの神道指令で大きく捻じ曲げられた。特にGHQは日本人の精神的支柱を破壊するため、いわゆる国家神道なるものを禁じ、我が国の弱体化を推し進めた。今や神々の本来の姿が失われようとしている。

   その結果、自己を優先させて他人を思いやらず、国家の安泰などどこ吹く風という利己主義が蔓延し、国中にはびこった。国民が義務を忘れて権利を主張するだけでは、国は成り立っていかない。

   だが、我が国の根底には神ながらの清流が流れ続け、国の精神的危機が訪れるたびに奔流となって甦り、神々が復活する。平成二十五年の伊勢神宮遷宮は、日本人に神々の存在を思い出させる最高の機会だった。そっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

   そっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

 しかし、黙って傍観していたのでは、神々は甦るどころかそっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

 

ヒ 神祭り

 

 神道というと、GHQの占領政策で悪いイメージが植えつけられ、拒否反応を示す人もいるだろう。そこでまず、我が国の根底に流れる清流、神道の歴史を概観しよう。

 天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭るのが神道だが、神代から神道という言葉があったわけではない。仏教が入ってきて、それと区別するために「神の道」という言葉が使われるようになった。つまり、仏教が入ってくるまでは、神祭りの理屈をこねることなく、豊作を祈り収穫を感謝する、自然の姿勢で神々に奉仕していたのである。神々の御心のままに祭りに奉仕することを神ながらという。

 神道という言葉が最初に表れるのは、日本書紀の第三十一代用明天皇の項で、「天皇仏法を信(うけ)けたまひ、神道を尊びたまふ」と、仏法と対応させている。

 次が第三十六代孝徳天皇のくだりで、「仏法を尊び、神道を軽(あな)どりたまふ」とある。

 用明天皇神道を尊び、孝徳天皇は軽んじたというのである。日本書紀のすばらしさは、朝廷にとって益にならない出来事でも、平然と記録に残していることである。

 実は、神道という言葉は他には使われておらず、古事記では「本(もとつ)教(おしへ)」や「神(かむ)習(ならい)」、書紀では「神教」「徳教」「大道」などと表現されている。古代、神祭りはわが国の日常の中にあり、ことさらに神道という言葉を使うことはなかった。

   そもそも「しんとう」という読み方自体が中国語読みで、鎌倉期以降に使われるようになった。本来は「もとつおしへ」や「かみのみち」と言い表すべきだろう。

   本教は神代からの神祭りで、現在まで綿々と伝わっているが、長い歴史の中で、さまざまな外(とつ)国(くに)の宗教とかかわりを持ってきた。最初の外来宗教は道教で、次いで入ってきた仏教が、物部氏蘇我氏の争いを招き、世に騒乱を起こした。

   仏教が広く普及したのは、大僧正の称号を朝廷から初めて与えられた行基(ぎょうき)(六六八~七四九年)が、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説を唱えてからだった。インドが本地で、インドの仏が日本では神となって現れたと説いた。

   仏を敬ったら神の怒りに触れるのではないかと恐れていた大衆は、インドでは仏と言い大和では神と言う説に安心し、仏教を信じるようになった。

   これなど三百代言、デマゴーグの典型だが、そういう意味で行基は天才だった。宣伝工作とは恐ろしい力を持っている。

   神祭りは本来、春に豊作を祈り秋に収穫を感謝し、国家や民の繁栄を祈るもので、個人の利益を願うものではない。無私の心で国家安泰と国民の平和を祈る格調高いものである。そこが、個人の救済を目的とする宗教と、神道が根本的に異なるところである。

   仏教はまさしく個人の救済を求める宗教だから、当時の苦悩を持った大衆に急激に広まっていった。大衆が仏教に現世利益を求めたのである。

   こうして奈良時代末に神仏混淆が始まり、明治初めの神仏分離まで長く続いた。そして仏教は、わが国の先祖祭りと融合し、日本で独自の発展をなした。

   しかし、どんなに仏教が普及しても、本教を凌駕することはできず、神の道を己の教義に組み込んでいかざるを得なかった。それが、最澄(七六七~八二二)と空海(七七四~八三五)が唱えた山王(さんのう)一実(いちじつ)神道と両部(りょうぶ)神道である。

   山王は中国では天台山、インドでは霊鷲山(れいしゅうさん)に祭られており、法華経の守り神とされる。これに倣って、最澄比叡山に山王を祭った。

   山王の由来は、最澄比叡山の山に三つの月光を見て不思議に思ったところ、一人の童子が現れ、三つの光は釈迦と薬師と弥陀で、自分の名前であると言って、縦三本に横一本、横三本に縦一本の線を書いて消え去ったところから、山王と名付けたとされている。

   また、空海が唱えた両部神道は、伊勢神宮の内宮と外宮を真言宗金剛界胎蔵界に重ねた神仏習合説の典型で、天照大御神大日如来とすらした。

    山王一実神道両部神道も、我田引水、牽強付会の論としか言いようがないが、日本で仏教を布教するには、本教を取り入れ、融合しなければならなかった。

逆説的にいえば、仏教が本教に呑み込まれていったのである。

 

フ 社家神道の勃興

 

   仏が元で、姿を変えたのが神という、神仏混淆本地垂迹説の仏教中心の考え方に対し、異を唱えたのが一つの神社に代々仕える家柄の社家だった。社家が唱えた神道を社家神道というが、その代表的なものが、伊勢神宮外宮の神官だった渡会(わたらい)氏が唱えた神道論で、伊勢神道とか、度会神道と呼ばれている。

   神宮の祭神は内宮が天照皇大御神、外宮が大御神の食事のお世話をする神饌都(みけつつ)神の豊受(とようけ)大神である。だが外宮神の豊受大神記紀にわずかな伝承しかなく、由緒が明らかでない謎の大神である。そこで、祭神についてさまざまな主張がなされるようになる。

   神宮の神官は、内宮を荒木田氏、外宮を渡会氏が代々継いできた。そして渡会氏は、常に外宮が内宮の風下に立たされるのを厭(いと)い、独自の神道説を唱えた。

 その典型が、外宮の祭神の豊受大神は、日本書紀に最初に現れる国常立(くにとこたち)神だとし、さらには古事記の最初の神、天之御中主あめのみなか(ぬし)神が姿を変えたのだとか、月神であると主張した。日本の神は一柱でいくつもの名前を持っており、外宮の祭神も同体異名で複数の名前があるというのである。

 実は、内宮と外宮には、天照大御神豊受大神だけでなく、相殿(あいどの)神が祭られている。内宮には岩屋戸に隠れた天照大御神を招き出した天之手力男(あめのたぢからを)神と、邇邇藝(ににぎの)尊の母である栲幡千千姫(よろづはたちぢひめ)命が祭られている。

 一方、外宮には「相殿に坐す神三坐」とあるだけで、神名が不明である。この相殿神が神官にさまざまな憶測を呼び、国常立神であるとか、天之御中主神であると主張する原因ともなっている。

 さて、外宮神を月神とする思想は、両部神道書の「中臣祓訓解」に記されている「実相真如の日輪は、生死長夜の闇を明らかにし、本有常住の月輪は、無明煩悩の雲を掃ふ〈日輪は則ち天照皇大神、月輪は則ち豊受皇大神〉。両部不二なり」という記述に影響されている。

 この言葉は、聖武天皇の勅命で、行基が神宮に仏舎利を献じたとき、神殿の中から大声で響いた大神宮の「御託宣」といわれるものである。だが、あまりにも都合のいい神託といわざるを得ず、権威付けるために勝手に作り上げた類だろう。

 さて、伊勢神道の思想の本となったのが、古代から外宮に代々伝えられたという、伊勢両宮の由緒を記した神道五部書で、門外不出とされた。

 

天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第

伊勢二所皇太神宮御鎮座傳記

豊受皇太神御鎮座本紀

造伊勢二所太神宮寶基本紀倭姫命世記

 

 この五部書の奥書には、撰述が奈良朝以前だとか、雄略天皇の勅令によるとか、天孫降臨で道案内をした猿田彦命の子孫の大田命が、五十鈴川皇大神を迎えたなどと記されている。いずれも古代に作られたとするもので、六十歳以上の長老でなければ読んではならない秘伝の書とされた。

 だが、江戸時代の神道学者で熱田神宮の神官だった吉見幸和(よしみゆきかず)(一六七三~一七六一)によって偽書と指弾された。

 これら五部書の成立は古代ではなく、「鎌倉中期、文永・弘安頃であろうということで大方の意見の一致をみている」(伊勢神道の成立と展開 高橋美由紀 ぺりかん社)が、実際には定まった学説はない。しかし、外宮の神官だった度会行忠(ゆきただ)(一二三六~一三〇五)が多くかかわったのではないかという点ではほぼ一致している。

 五部書は吉見幸和らによって偽書とされたが、まったくの捏造ではなく、「散逸してしまった伊勢神宮内部の古伝承を断片的に伝えるものだともいわれている」(神道の逆襲 菅野覚明 講談社現代新書)のが最近の研究である。

 五部書はいずれも神宮の縁起書で、正史にはない外宮神豊受大神の独自の伝承を少なからず伝えていると考えられる。しかし、権威付けるために、古代の撰述としたところに、勇み足があったといえよう。

 伊勢神道神道を本として仏教に対抗してはいるが、逆に大きな影響をも受けてもおり、道教儒教の説も取り入れている。純粋な神道と言うには、外来思想に影響され過ぎているが、仏教全盛期に日本の神々を本とした神道思想を甦らせた功績は大きい。

 伏流水となっていた清流が、国を誤った方向へ導きかねない仏教全盛期に、顕在化したのである。

 伊勢神道が確立できたのは、神宮が古代からの祭祀を純粋に守り、仏教の影響を受けなかったためである。

 神宮は天照大御神を祭る神域であるが故に、厳しく不浄を忌み、仏教に関するものを一切受け付けなかった。仏教にかかわる言葉を口にすることすら嫌い、寺を瓦葺、僧侶を髪長などと呼び習わすほどで、神宮は古来からの伝統を純粋に受け継いでいた。

 天照大御神豊受大神に奉仕するために、古代から祭りを続けてきたからこそ、仏教の攻勢にも惑わされなかったのである。

 世界の歴史をみると、世界宗教の進出によって、地域宗教は淘汰される運命にある。キリスト教イスラム教はもちろんだし、仏教も多くの地域宗教を席巻した。それが世界宗教の影響力である。小さな宗教など、貪欲に呑み込んでしまう。

 にもかかわらず、日本が仏教に蹂躙されることなく、伊勢神道が勃興したのは、世界の宗教史でも珍しい現象である。伝統を守り続けることが、いかに大切かを如実に物語っている。

 神宮が二十年に一度の遷宮を行うのは、建物の改築や装束の新調で昔からの伝統を守るだけでなく、付随するさまざまな儀式をも伝えていく智恵である。

 内宮の少宮司を務めた幡掛正浩(はたかけまさひろ)氏は「私本 式年遷宮の思想」(神社新報社)で、遷宮は「この制度が定められた上世の当時において広く行はれてゐた権威ある知識に根拠があったものと考えられる」と指摘、「元旦と立春が二十年に一度重なる(正確には十九年七ヶ月)という説」を推している。

 つまり、元旦と立春が重なることで、新たな十九年七ヶ月が始まると上代の人々は考えたというのである。約二十年ごとに世の中の「気」が変わり、新しい時代が始まるという再生の思想が、遷宮に伏在していると考えられる。

 さて、伊勢神道神道中心の思想は、南北朝時代吉野朝廷に仕えた北畠親房に大きな影響を与え、「神皇正統記」を生み出した。さらに神皇正統記は、水戸光圀が編纂させた「大日本史」へとつながり、幕末の尊王攘夷運動の思想的背景となった。

 国家動乱時には、このように本つ教=神道がかならず甦る。

 伊勢神道の影響を受け、京都の吉田神社の神官・吉田家によって説かれたのが吉田神道で、卜部神道とか、元本宗源神道唯一神道などとも呼ばれている。

 朝廷の神祇に携わるのは、神祇伯の白川家、次に中臣家、斎部家、卜部家で、神祇の四姓と呼んだ。

 白川家は第六十五代花山天皇の皇子清仁(すみひと)親王から始まった家柄で、第七十代後冷泉天皇の寛徳三年(永承元年=一〇四六年)に親王の王子延信(のぶざね)王が神祇伯に任じられ、世襲神祇伯として皇室に仕えた。神祇伯は中臣、忌部、橘などの氏族が任じられていたが、この時から白川伯王家世襲となった。

 卜部家は占いである亀卜を司り、神祇四姓の中で最も低い家柄だったが、後に京都の吉田神社の神官になって吉田神道を唱えてからは、神祇伯の白川家をも凌駕する勢力を持つようになった。

 吉田神道が勢力を得たのは、吉田兼倶(かねとも)(一四三五~一五一一)が応仁の乱(一四六七~七七)後の世の乱れに乗じて、公卿や幕府に取り入り、自ら神祇管領長上と名乗って、政治的に自説を広めたからだった。

 吉田神社はそもそも藤原氏氏神である春日大社の分霊を祭っていた。吉田兼倶はある夜、「伊勢神宮の神霊が吉田山に飛び移った」と宣言し、境内に日本最上神祇斎場を創設し、内宮、外宮だけでなく、延喜式内社の三千百三十二座の神々をすべて祭った。

 この当時、飛び神明といって、全国で光る神が飛んだと盛んにうわさされていたから、それに便乗したのにほかならない。

 吉田兼倶は延徳元年(一四八九)、光る霊物=神器が吉田山に降臨したと天皇に密奏した。「神器が伊勢神宮の神体との触れこみで叡覧に供されたことを窺わせる」(神道思想史研究 高橋美由紀 ぺりかん社)もので、天皇が「この神器なるものが伊勢神宮の神体に相違なしと認める」(同)宣旨を下し、延徳密奏事件といわれた。

 もちろん邪説、妄説だと非難されたが、兼倶は政治力で押し切り、神道の総本山だと主張した。

 自分が創設した宗教が最高だと他を非難し、勢力を拡大する新興宗教と、どこやら似ているのではないだろうか。ひいき目にみても兼倶の主張は強引過ぎるが、それでも儒教や仏教が全盛時代に、神道をすべての根本とする神道説を確立した功績は大きい。

 吉田兼倶が朝廷に大きな影響力を行使できたのは、一族の出身者が円融天皇の女御となって皇子を生み、一条天皇となったからだった。「一条天皇が即位した寛和二(九八六)年には、国家が祭る神社に位置づけられ、翌年からは国費での祭礼が行われるようになった」(吉田神道の四百年 井上智勝 講談社選書メチエ)ほどである。

 江戸時代になると幕府の神社政策もあって、吉田家は神職免許を授与するようになり、明治まで続いた。

 吉田神道の流れを受け、将軍綱吉の時代に公儀神道方に任じられた吉川惟足(これたり)(一六一六~九五)は、朱子学や武士道精神を加えた神道説を提唱し、幕府や諸大名に普及した。吉川神道とか理学神道と呼ばれている。

 他にも赤穂浪士の吉良邸討ち入りで打ち鳴らされた、山鹿流陣太鼓で有名な兵学者で儒者山鹿素行は、天皇を仰ぎ、君臣の別を明らかにするところに神道の根本があると、独自の神道説を唱えた。

 吉川神道吉田神道を学んで垂加(すいか)神道を確立したのが、門弟六千人を誇ったという儒学者山崎闇斎(あんさい)(一六一八~八二)だった。垂加という名前は、吉川惟足神道五部書倭姫命世記」の「神垂(しんすい)は祈祷を以て先とし、冥加(みょうが)は正直を以て本とす」の「垂」と「加」から取って、山崎闇斎垂加儒者という号を授けたことに由来する。

山崎闇斎」(澤井啓一 ミネルヴァ書房)や「今泉定助(いまいずみさだすけ)先生研究全集」(日本大学今泉研究所刊)によれば、闇斎はある時、大勢の弟子を前に「今若(も)し支那の国が孔子を大将とし、孟子を副将として、数万の兵を率ゐて、我が国を攻めて来たならば、孔孟の道を学んでゐる者として如何に処すべきか」と問うたところ、誰一人として答えるものがなかった。そこで闇斎は「若しそのやうなことがあったならば、身に甲冑を帯び武器を手にとってこれと一戦し、孔孟を生捕にして、国難に報ずべきである。これが真の孔孟の道である」と教えたという。

気迫の大切さは昔も今も変わらないと、現代の為政者は肝に銘じるべきである。

巻の四 後編 記紀以前の書はあったか?

 イ 古語拾遺が古代文字を否定?

 

 歴史の教科書には、古事記は「語り部の阿礼が誦んだものを、安萬侶が書き記した」と一般に書かれている。古事記を解説した諸々の書物も、ほとんど同じ意味合いで序文を解説しているが、ここで疑問に感じることはないだろうか。

 稗田阿礼古事記序文に「目に渡れば口に誦み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき」とある。「誦む」とは、声を出し節をつけて詠(うた)うことである。阿礼は目にすれば詠うことができ、聞けば記憶に残せたというのだ。

 この部分は、阿礼の読解力と記憶力の確かさについて述べている。それなのに、稗田阿礼が「目に渡れば口に誦」んだとわざわざ記しているのは、節をつけて詠う口誦(こうしょう)をしたということを強調したかったのだろうか。それとも、阿礼が読める文章を、大学者の太朝臣安萬侶が読めなかったから注記したのだろうか。

 普通に考えれば、当時の最高の知識人である安萬侶が、読めないわけがない。

安萬侶が読め、阿礼も読めるのに、「目に渡れば口に誦み」と特記したのは、何らかの理由があったからに違いない。

 聞いたことを記憶するのは、猿媛(さるめ)君氏出身で神懸かり能力を持った語り部・阿礼の特殊能力である。そして記憶した文章を阿礼が文字にすれば、安萬侶を頼らずに一人でまとめることもできた。稗田阿礼一人でも、古事記を編纂する能力があったはずなのに、二人が必要だったのはなぜなのかという疑問が生じる。

 大胆に推理すれば、安萬侶は阿礼が誦む文字を読むことができず、逆に阿礼は中国伝来の漢字に精通していなかったと考えれば、漢文に精通した大学者と、神懸かりの語り部の二人でなければ,古事記を編纂できなかった理由がわかる。

 では、阿礼が誦んだ文字とは何か。それは、神代文字とか古代文字といわれる日本固有の文字、古代和字だと思われる。

 多くの言語学者は日本固有文字の存在を否定している。そして、その論拠の一つが、斎部広成が自家に伝わる伝承に基づいて書いた古語拾遺に「蓋(けだ)し聞く。上古の世、文字あらざるなり」という記述である。

 古語拾遺は西暦八〇七年に成立したもので、古事記日本書紀など、国の公式書物から漏れた重大な事柄を、拾い集めたとされている。

 筆者の斎部広成は、邇邇藝(ににぎ)命の天孫降臨に従った五伴緒(とものお)の一柱である布刀玉(ふとだま)命の子孫で、天照大御神が岩屋戸に閉じ込もった際、「種種(くさぐさ)の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて、天兒屋命、布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷き白(ほぎまほ)して」と、岩屋戸開けで重要な役割を果たしている。

 簡単に言えば、布刀玉命が根こそぎに抜いた榊に勾玉と鏡を付けた神籬(ひもろぎ)を捧持し、天兒屋命が祝詞を奉上し、ほかの神々の働きもあって、岩屋戸が開かれたのである。

 そして天兒屋命の子孫は中臣(なかとみ)氏で、朝廷の祭祀では中臣氏が祝詞を奏上、忌部氏=斎部氏が神籬を捧持した。

 時代が下がって大化改新中臣鎌足が権力を握り、その後、中臣氏は最有力の祭祀氏族になった。相対的に斎部氏の地位が下がり、祭祀の中心から外されるようになる。

 中臣氏と斎部氏は、伊勢神宮の奉幣使の役職について、長年にわたって裁判で争うなど、祭祀をめぐってさまざまな揉め事があった。神事に携わる名門同士の壮絶な争いがあったのだろう。

 そして、祝詞奏上は主に中臣氏の役割とはいえ、一部を斎部氏が担っていたが、それすら除外された不満が斎部氏に渦巻き、古語拾遺という形で持論を発表したといわれている。 

 こうした背景で書かれたのが古語拾遺で、問題になるのが「上古之世、未有文字、貴賤老少、口口相傳」という一文。上古の世は文字がなく、尊い人も卑しい人も、老いも若きも語り伝えたという意味である。この記述が、後の世に大きな影響を与える事になった。

 文字通りに受け止めれば、上古は文字がなかったことになる。これが、古代和字の存在を否定する一つの根拠になっている。

 

 ム 上代特殊仮名遣が神代文字を否定

 

 古代和字の存在を否定する大きな根拠は、奈良時代以前の上代は八母音で八十七音節(八十八音節説もある)あったという上代特殊仮名遣である。

 上代が八母音八十七(八十八)音節だったとしたら、古代和字は五十音ないしはいろは四十七文字で表されるから、明らかに矛盾する。したがって、古代和字は五十音図やいろは四十七文字が作られた平安時代以降に創作された文字で、上代の文字ではないというのである。

 しかし、言語学の素人の私でも、八母音説に大きな疑問を覚えるところがある。

キ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの十三音節は確かに書き分けられ、母音が二種類あったように感じられる。しかし、肝心の母音イエオは、なぜ甲イエオと乙イエオとに書き分けられなかったのか。

 音節は、例えば子音kと母音iの結合でki=キと発音される。キに甲乙の違いがあるなら、そもそもの母音にも甲乙の違いがなければならない。にもかかわらず、母音イには甲乙の別が存在していないのである。

 さらに、平安時代になって、上代特殊仮名遣が廃れたのは、ひらがなが急速に普及したからだというが、甲音乙音があったのなら、ひらがな自体に「き甲」「き乙」のように書き分けがなされてしかるべきである。にもかかわらず、k・i のひらがなは「き」一つしかないのはなぜなのかという疑問が生じる。

 そうした疑問に真正面から挑んだのが、金沢大学の松本克己教授(当時)と、奈良女子大学の森重(もりしげ)敏(さとし)教授(同)だった。

 上代日本語の語彙すべてを調べ上げた松本氏は、「古代日本語母音論」(ひつじ書房)の中で、「母音の相違というよりも、むしろ先行する子音に付随する音声的特徴に基づくと見る方が自然な解釈といえよう」とし、音韻的には同じ音だが、環境によって違った発音になるにすぎないと結論づけた。

 奈良時代以前の漢字の執筆者は、多くが帰化した中国人だった。中国語はわずかな音の違いで意味が異なる。音に敏感な中国人が、日本人の発音を聞いて文字にしたのが万葉仮名で、必要以上に発音の差を聞き分け、万葉仮名を書き分けたというのが本当のところだろう。

 松本氏は「日本語固有の文字体系からも、また諸方言の比較研究によっても、古い時期の日本語に5母音とは違った母音体系の存在を推定することは困難である」(古代日本語母音論)と指摘し、「奈良時代のいわゆる『8母音』なるものは、書記法の作り出した「虚像」にすぎない」(同)とまで断定している。

 松本氏が論文を発表したのと時を同じくするように、森重氏は文法論と語構成の観点から上代特殊仮名遣を調べ、八母音八十七(八十八)音節を否定した。森重氏の著書「上代特殊仮名音義」(和泉書院)などによると、「イ列、エ列、オ列の乙類音はすべて、母音ウ・ア・オのそれぞれに、語をひきしめる接辞イ(「イ行く」「或イは」などのイ)が連接して生まれたもので、独立の母音ではなく、臨時の合成音とみるべきだ」と、乙類母音の存在を否定した。そして、「平安時代に入ると、接頭語イが蔭を消し、文字も渡来人の手による録音的な万葉仮名から、日本人の手による音韻的な仮名文字に移る。これらと同時に、上代特殊仮名遣が消滅するのは、偶然の暗号ではない」と指摘した。

 松本、森重両氏とも、日本人の発音を聞いた帰化人が、そのまま万葉仮名を遣って筆記したために、あたかも八母音あるように記録されたという点で一致、万葉時代の母音の数は、現代と同じ五つだ」(古代日本語母音論)と結論づけている。

 松本氏の論文は昭和五十年十二月一日付の毎日新聞学芸欄で紹介され、言語学会に大きな衝撃を与えた。それはそうだろう。橋本進吉以来、上代の日本語は八母音あったということが定説となり、どこからも異論はでてこなかったのだから、松本論文と森重論文は日本語学会に破壊的な爆弾を投げ込んだのと同じだった。

 毎日新聞の報道をきっかけに、八母音説の推進者である大野晋氏や、言語学の第一人者 の服部四郎東大名誉教授などを巻き込んで、「母音論争」が巻き起こった。いまだ議論の過程だから、どちらが勝ちという決着がついたわけではないが、八母音説を教条的に支持すべきでないことだけは明らかになった。

 松本、森重両氏の後も、何人もの言語学者が八母音説に疑問を投げ掛け、母音論争は百家争鳴の状態が続いている。しかし、母音イエオの乙音が万葉仮名で書き分けられていないことを説明できないのは、八母音説の致命傷といえよう。

 万葉仮名に書き分けがあることを最初に発見した本居宣長は、「皇国ノ古言ハ五十ノ正音ヲ出ズ」と明言していることを忘れてはならない。

 上代特殊仮名の八母音説が揺らいだ以上、古代和字を否定する言語学的根拠が失われたと言っていい。

 日本は縄文時代から弥生時代に、土器から推察できるように、高い文化を誇ってきた。高文化の国では、文字が発生するのが常識である。

にもかかわらず、古代和字の存在を比定するのは、日本が古代から高い文化を維持してきたことを否定したいためではないか。

 

ナ 古代文字考

 

 古代和字を肯定する人々は、古語拾遺のいう「文字」を漢字のことだとし、漢字が伝わらなかった時代のことを指していると主張する。しかし、そう解釈すると、漢字が伝わるまで「貴賎老少 口口相傳」していたということになる。古代和字が存在すれば、口伝えする必要はないから、肯定論者が存在を否定する論理矛盾に陥る。

 古語拾遺の作者である斎部広成は、稗田阿礼が語った歴史や物語を、太朝臣安萬侶が初めて漢字で記した古事記の序文を、当然のことながら読んでいたはずだ。神事に携わる氏族として、古事記日本書紀の成立の事情に精通していたのは確実である。そして、もし「文字」が「漢字」を意味するのなら、斎部広成は「未有漢字」(いまだ漢字あらざるなり)と記したに違いない。

 したがって、上古は文字がなかったという意味は、漢字はもちろん、何らかの文字もなかった時代、非常な太古を指していると解釈するのが普通だろう。文章通りに解釈すればいいのである。

 時代が下るにつれ古代和字が発生し、そして後に漢字が入ってきた。そう考えると、古語拾遺の一文をもって、漢字以前の文字はなかったと断定することには躊躇せざるを得ない。古語拾遺は日本固有文字の存在を、否定してはいないのである。

 さらに、さまざまな遺物から複数の古代和字が発見されたとする学説もあり、存在を肯定する地道な研究が進められている。

 古代和字といわれるものには、阿比留(あびる)文字、阿比留草文字、出雲文字、物部文字、カタカムナ文字、ヲシテなど、多くの種類があるとされる。

 もっとも、いつの時代でも物事を捏造する人間がいることを考えれば、これまでに発見されたすべての古代和字が本物であるとは言い切れない。

 古代和字で書かれたとされる文書も上記(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)、竹内文書富士古文書など、さまざまなものがあるが、これらのすべてが実在したかといえば、首を捻らざるを得ない。明らかに偽書と思われるものもある。

 こうした古史古伝の特徴は、日本に超古代文明があったと記されていることだ。例えば、天孫降臨した邇邇藝(ににぎ)命の孫で神武天皇の父にあたる日子波限)建(なぎさたけ)鵜草葺不合(うかやふきあえず)命は一人のことではなく、何人もが同じ名前を名乗った鵜草葺不合朝のことだとしている。従って、神武天皇以前に、鵜草葺不合朝が何代も続き、何万年もの歴史を持っているというのである。

 神武以前の歴史がないはずはないが、見てきたような歴史として物語を整然と記載してしまったところに、古史古伝の勇み足がみられる。偽書とされる所以だ。

 だが、すべてを否定するのはどうだろうか。たとえ後世に作られたものだとしても、何らかの真実は含まれているものだ。偽書といわれる書物でも、伝承を土台にして書かれていることが往々にしてある。

 古代和字の研究は、平田篤胤の「神字(かむな)日文傳(ひふみでん)」や、伊勢神宮禰宜(ねぎ)だった落合直澄の「日本古代文字考」(一八八八)が有名である。最近、といってもすでに故人だが、宮崎小八郎の「神代の文字」(霞ヶ関書房)は一読に値する。

 漢字以前の文字があったことを裏付けるように、日本書紀欽明天皇二年に一書(あるふみ)云わくとして「帝王本紀に、多(さわ)に古き字(みな)ども有りて、撰(えらび)集むる人……」とある。帝王本紀は古事記序文にいう帝王日継のことで、天皇家の系譜を記したものである。そういう権威ある記録に「古き字」があったというのだが、それが何を指しているのか、古代和字の否定論者は明確な答えを示してくれない。

 古代和字が存在したことは、記紀に示唆されている。古事記上巻の国生み神話では、水蛭子(ひるこ)や淡島が生まれたことで、伊邪那岐命伊邪那美命は「今吾が生める子良からず」と、高天原に上り、天つ神に相談する。そして「天つ神の命以ちて、布斗麻邇爾(ふとまに)に卜相(うらな)」ったとある。

 天照大御神が天の岩窟に籠もられたときには、天の香山の真男鹿(まおしか)の肩を内抜きに抜きて、「占合(うらな)ひ麻迦那波(まかなは)しめて」とある。

 布斗麻邇は鹿の肩甲骨を焼き、表れたひびで神意を判断する占いで、割れたひびから審神者が神意を読み取るのだが、勝手に判断するわけではない。ひびの読み方に一定の法則がなければ、審神者によってまちまちの判断になってしまう。

 中国では亀甲(きっこう)を焼いて占いをした。いわゆる亀卜(きぼく)で、そこにも読み方があり、文字が発生している。

 つまり、占いの読み方に一定の法則があれば、そこには文字があったと考えるのが妥当である。

 古代和字は神事に密接に関係していた。そして神事は、朝廷で執り行うだけではなく、有力氏族などもそれぞれの氏神を祭っていた。中臣氏は天兒屋命を、斎部氏は布刀玉命を、猿女君氏は天宇受賣命を、物部氏は邇藝速日(にぎはやひ)命をというように、氏々は独自の神々を祭っていた。

 それぞれの有力氏族が、神事から発生した文字を持ち、故事来歴を記録していたとしても不思議ではない。古代和字は神事の秘事だから、氏族が違えば、簡単には読めない。そして、自分の氏族がいかに由緒正しいかを強調するあまり、「諸家のもたる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ」という状況になってしまったのではないか。

 古史古伝超古代文明の存在が記されているのは、氏族が自己の歴史の長さを誇るため、創作=偽造したからではないだろうか。大和朝廷を快く思わない氏族が、別の王朝があったと作為をもって記録することもあっただろう。さらには、後世の人間が捏造したものもあるに違いない。

 このため「偽りを削り實を定め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむ」ことになったが、記録する文字を統一する必要性に迫られ、採用されたのが乱立する古代和字ではなく、中国から入ってきた漢字だったと思われる。

 漢字は第十五代応神天皇の時代に、百済和邇吉師(わにきし)が、論語十巻、千字文一巻の合計十一巻を朝貢して伝わったとされている。

 それ以前にも、四代前の第十一代垂仁天皇時代に、百済の国主の子、天之日矛(ひぼこ)の来日が伝えられているから、古い時代から漢字は少しずつ入ってきていたと考えられる。漢字を使用する下地はすでにできていた。

 そして、明治の文明開花ではないが、和邇吉師の朝貢で中国ブーム、漢字ブームが起き、漢字が定着していった。漢字は氏々に伝わる古代和字と違い、統一された中国の国語だから、古事記を編纂するにあたり、漢字が重んじられたのは無理もない。

 稗田阿礼が氏々の古代和字を読み、言い伝えを記憶し、それを漢文に精通した太朝臣安萬侶が、原文の意味を違えないよう、細心の注意を払って纏めたのが古事記なのである。

 古事記の序文を後世の偽作としたのは加茂真淵で、安萬侶を架空の人物とした学者もいた。さらに、古事記そのものを偽書とする見方もある。

 古い時代の物事を、現代人のわれわれが、完全に解き明かすことは容易ではない。それを承知で異論を唱えるのは、自己アピールとしか思えない。大学者の加茂真淵がそうだとは言わないが、現実に存在しているものを、どうして否定したがるのだろうか。

 蛇足だが、安萬侶架空説は昭和五十四年、奈良市の茶畑から太朝臣安萬侶の墓が発見され、骨や木櫃、墓誌が出土し、完全に否定された。その後は、辻褄合わせで序文だけが後世の偽作という主張に変わってきた。

 これだけをみても、古事記や序文の存在を、素直に受けとるべきだろう。

 ドイツのシュリーマンが伝説的な詩人ホメロスの詩を元に、トロイやミケーネの遺跡を発掘し、エーゲ文明の存在を証明したように、いわゆる伝説や神話は、事実を物語っていることが往々にしてある。

 古事記序文によれば、安萬侶は大変な努力をして古事記を編纂している。

「上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構うること、字に於いて即ち難し」

 とあるように、漢文ですべてを表すことはできないと正直に述べている。そして、漢字の音訓を交え、可能なかぎり上古の言葉に近づくよう書いたのである。

 ちなみに、古事記の序文は純粋な漢文体(つまり中国語)、古事記本文は漢文と仮名の交じった変態の漢文体、歌謡は一音節一字の仮名と、はっきりと書き分けられ、さらに、読みを明確にするため、注表記がなされている。

 古事記が非常に言葉を大切にしていることがわかる。

 だが古事記日本書紀を、まったくの架空物語であるとか、「征服王朝」側から書いた一方的な歴史書だと、存在価値を否定する学者や文化人がいる。

 恐ろしいのは、古代和字らしいものが発見されても、「権威ある知識人」や郷土史家などが、よく調べもしないで「偽物」「捏造」だと心ない断定をして破壊されかねないことである。発見されながら、偽物だから不要だと判断され、闇に葬られた遺跡が数多あるに違いない。

 それは日本人のアイデンティティを崩壊させることにつながりかねないから、不用意な発言をしてはならないと肝に銘じてほしい。

 

 ヤ 日本書紀以前の書

 

 欽明天皇紀にある「古き字」はどのようなものだったのだろうか。現物が残っていないから断定できないが、日本紀私記や扶桑略記釈日本紀などから類推することは可能だ。

 日本紀私記は奈良時代から平安時代にかけ、七回にわたって行われた日本書紀の講義録である。養老五年(七二一年)、弘仁三年(八一二年)、承和十年(八四三年)、元慶二年(八七八年)、延喜四年(九〇四年)、承平六年(九三六年)、康保二年(九六五年)の各回で、日本紀の成立直後から講義が行われていたことになる。それぞれの講義録を私記といい、弘仁私記や承平私記などと呼ぶ。

 仮名で書かれたという日本紀について詳しい記録を残しているのは釈日本紀で、日本書紀の講義録を卜部兼方鎌倉時代にまとめたものである。まとめた時期が後世ということで、資料的な価値の問題があるが、示唆に富んだ書物である。

 この中の巻第一「開題」の部分で、仮名日本紀という単語が頻繁に出てくる。最初に読み下し文を、後に現代語訳を示す。

 

問。此の書を考え読むため何の書を以って其の調度として備ふべきか。

答。師の説では、先代旧事本紀上宮記古事記、大倭本紀、仮名日本紀など是なり。

又問。仮名日本紀は何人の作るところで、又此の書の先後如何と。

答 師の説では、元慶の説に云ふ此の書を読まんが為に私に注出する所なり、作者未だ詳らかならず。

又問 仮名本は元より在るべし。其の仮名を嫌ふが為に、養老年中に更に此の書を選ぶ。然るに則ち、此の書を読まんが為に、私に記すと謂ふべからず。

答 疑うところ理あり。ただ未だその作者を見ざるなり。今按ずるに仮名本は世に二部有る。其の一部は和漢の字相雑へて之を用ひ、其の一部は専ら仮名、倭言の類を用ひて居る。上宮記の仮名は已に旧事本紀の前にあつた。古事記の仮名も亦此の書の前にあつた。仮名の本は此の書の前にあつたと謂ふべきである。或る書に云ふ養老四年安萬侶等をして日本紀を選み録さしむ。之の時古語、仮名の書数十家に有りしと雖も勅語をもつて先と為す。然る時は則仮名の本は此の前にあったことは確かである。

又問 仮名字は誰人が作るところか。

答 大蔵省の御書の中に、肥人の字六七枚ばかり有り。先帝は御所に於いて其の字を写させたまふ。みな仮名を用ふ。(中略)

先師の説に云う。漢字が我が朝に伝来するは応神天皇の御宇なり。和字においては、其の起こり神代にあるべきか。亀卜の術は神代より起これり。所謂此の紀の一書の説に、陰陽二神蛭児生れます。天神太占を以って之を卜ひ、時日を卜ひ定めて降したまふ。文字無くんば豈に卜ひとなるべけんや。

 

現代語訳

問 この書(日本書紀)を読むのに、どのような書物を参考として備えるべきでしょうか。

答 師の説によると、先代旧事本紀上宮記(かみつみやのふみ)、古事記、大倭(おおやまと)本紀、仮名日本紀などです。

又問 仮名日本紀は誰が作ったのですか。また、日本書紀とどちらが先に作られたのですか。

答 師の説によると、元慶二年の講義では、仮名日本紀日本書紀を読むために、私的な注釈書として作られたものだとしています。作者はわかりません。

又問 仮名日本紀は以前からあったのではないですか。仮名であることを嫌って、養老年中にさらに日本書紀を選集したのではありませんか。日本書紀を読むために、私的に作った注釈書というのは間違いです。

答 疑問はもっともです。しかし、作者はわかりません。いま考えると、仮名日本紀は世の中に二部あります。その一部は和漢の文字が雑(ま)じったものです。もう一部はもっぱら仮名倭(やまと)言葉を用いています。上宮記の仮名本は旧事本紀ができる前にありました。古事記の仮名本も日本書紀の成立以前にありました。仮名日本紀日本書紀の成立前にあったと言うことができます。ある本によると、養老四年に安萬侶たちが日本書紀の撰録を命じられたときに、古語や仮名の書が数十の家にありましたが、みな勅語のほうを優先させました。したがって、仮名日本紀日本書紀成立以前にあったということはもっともなことです。

又問 仮名字はだれが作ったのですか。

答 師の説では、大蔵省の書の中に、肥人(ひのひと)の文字が六、七枚ほどあり、先帝が御所で写させられました。みんな仮名を用いていて、その字はまだ明らかになっていません。(中略)

 先師の説では、漢字が我が国に伝わったのは応神天皇の御世です。和字の起こりは神代にあるべきでしょうか。亀卜(きぼく)の術は、神代より起こっています。いわゆる日本書紀の一書の説に、陰陽二神(伊邪那岐伊邪那美の命)が蛭児(ひるこ)を産んだとき、高天原へ上がって天つ神に尋ねたので、天つ神が太占(ふとまに)をもってこれを卜(うらな)い、時と日にちを定めて地上へ降(くだ)されました。文字がなければ、どうやって卜いをなすことができるでしょう。

 

 釈日本紀のやり取りから、日本書紀ができる以前に仮名日本紀が存在しており、古事記上宮記も仮名で書かれたものがあったことがわかる。そして仮名文字は神代から伝わっていると判断している。

 釈日本紀以外にも仮名日本紀の存在を示唆する古書は、弘仁私記、承平私記、扶桑略記(一〇九四年頃に成立)など数多くある。

 弘仁私記に次のようにある。

 

 飛鳥岡本宮朝(皇極帝)の皇太子は漢風を好まれた。難波長柄宮朝(孝徳帝)、後の岡本宮朝(斉明帝)、近津大津宮朝(天智帝)の四代の間、文人学士は各競って帝紀、国記、および諸家記、氏々の系譜などを漢字を以って漫りに之を翻訳し、私意を加えて人を誣いす。殆ど先代旧事の本意が絶えん。

 

訳 皇極天皇の皇太子は大いに漢風を好まれ、孝徳天皇斉明天皇天智天皇の四代の間、文人学士はみな競って帝紀、国記、および諸家の記録や氏々の系譜をみだりに漢字に翻訳し、私意を加え、事実を曲げて人を騙し、ほとんど先代の旧事の本当のところが絶えようとしている。

 

 これを読むと、皇極天皇から天智天皇在世までの約三十年間、古代和字の記録を漢字に翻訳し、かつ勝手に書き換えていたことがわかる。漢字ブームが到来し、我先に記録を改竄していたのである。それを憂えた天武天皇が、事実を明確にし、後世に残そうとしたのが古事記であり、続く日本書紀だった。

 皇極天皇孝徳天皇斉明天皇天智天皇の御世は仏教勢力が盛大となり、さらに百済を支援した白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北し、世相が多いに乱れていた。漢字がもてはやされ、仮名(古代和字)=国字は軽んじられた。このため各氏族は、古代和字を漢字に訳し、氏族に都合のいいように改竄し、過去の歴史が捻じ曲げられ滅びようとした。そこで、天武天皇勅語をもって歴史を正したと推測できる。古事記序文に「諸家のもたる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ」と記されたことがまさに起きていたのである。

 この時、各氏族に伝わる普遍性のない古代和字では統一することが難しく、漢字を統一文字としたため、古代和字は忘れ去られていく運命となった。さらに、漢字の国字化で、古代和字を使用することがはばかられ、消滅していったのではないか。

 古語拾遺を表した斎部広成の子孫・忌部正道は「神代巻口訣(くけつ)」で興味深いことを記している。

 

神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域より書始めて来朝す。推古天皇朝に至り聖徳太子漢字を以って日本字につける。後百有余歳、而して此の書となる。

 

訳 神代文字象形文字である。応神天皇の御世に漢字が伝わり、推古天皇の時代に聖徳太子が漢字を日本字の横に付した。それから百年以上がたち、此の書となった。

 

 さまざまな古代史料を検討してみると、古代和字が存在しなかったと断定することはとてもできない。中立な視点でこれらの史料を見れば、少なくとも奈良時代から、日本書紀を講義する学者たちは、漢字ではない文字、すなわち古代から伝わる和字があったと認識していたことは明らかである。

 日本の文物は大陸中国より後れていたという先入観があると、これらの貴重な史料を見落とすことになる。もっとも、自説を主張するため、意図的に無視しているのかもしれないが……。

 ちなみに韓国では、古代和字の一種である阿比留文字とハングルの形が似ているというので、ハングルを真似て神代文字を偽造したと主張する向きがある。この説の致命傷は、ハングルができたのが十五世紀、肥人の文(阿比留文字)について論じている釈日本紀の成立が十三世紀であることである。それだけでも年代的に二百年の差があるから、ハングルを真似て阿比留文字を作ろうにも作りようがない。

 自国の文化が高いと無理やり信じ込み、何でも自分たちが作ったと主張したがる朝鮮族の、子供っぽい自己中心の性癖が端的に現れている。

我が国の考古学者や歴史学者が先入観を払拭し、中立な目で遺物を調べれば、古代和字の存在は明確になるだろう。そうなる日を願ってやまない。

 

巻の四 中編 古事記はビッグバンを示唆

ミ アマかマノかマガか

 

 こう書くとまるでナゾナゾだが、言霊にとって実に重大な事柄を含んでいる。

「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神

 言霊の宝庫・古事記の本文冒頭には、こう書かれている。

「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天原に成(な)れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)神」と読み下す。(岩波書店日本古典文学体系による)

 ここに記されている高天原という言葉が、「タカアマハラ」「タカマノハラ」「タカマガハラ」と三通りに読まれている。

 読みは一つのはずなのに、どうしてそんなことになるのだろうか。そして、どれが正しいのだろうか。

 古事記は小文字による分注が次のように続く。

「訓高下天云阿麻。下效此」

「高の下の天を訓みてアマと云ふ。下は此に效(なら)へ」と日本古典文学体系は読み下している。

 つまり古事記は冒頭で、高天原を「タカアマハラ」と読めと、わざわざ分注を加えているのである。

 おそらく、古事記編纂当時には、氏族によっていろいろな読み方があったのだろう。そして、そうした混乱を統一するのが、古事記の狙いであった。

 日本は「言霊の幸はふ国」だが、言霊は正確に発音しないと発動しない。だからこそ、乱れた言葉を正すために、古事記は編纂された。

 古事記は神々の名前について、いたるところで「音を以(もち)ゐよ」と指定している。神々の名前を正確に発声しなければ、神威が働かないからにほかならない。

 タカマノハラは「タカアマノハラ」と読み、タカの「ァ」音とアマの「ア」音が同音だとして、「ア」を省略したのだろうが、「アマ」と古事記がわざわざ分注で指定しているのにかかわらず、どうしてそんな省略をしなければならないのか? もし「タカマノハラ」と読めというなら「訓高天云高麻(高天を訓みてタカマという)」という分注があるはずである。

 タカマガハラにいたっては、古代、接続詞は「之」が使われていたから、「ガハラ」とは決して読まず、論外というしかない。

 釈日本紀には「高天原」について「多加阿万乃波良 弘仁」と記されている。弘仁三年(八一二年)の日本紀講義での読み方で、多加阿万乃波良(たかあまのはら)と明確に示している。

 我が国最古の漢字で記録された文献・古事記すら、正しい読みがなされていないのは悲しむべきである。これでは言葉が乱れるのは避けようがない。

 勝手な読み方をしている人たちは、上代の言葉について、古事記の編纂者より、自分の方が詳しいとでも考えているのだろうか。何か思惑があってわざと読みを変えているのか、違うことを口にすることで目立とうとでもしているのか。

 分注で指定している訓(よ)みを無視したら、古事記そのものを理解できなくなる。後世の浅知恵で判断するのではなく、序文に「上古の時、言意並びに朴にして」とあるように、古事記に記されていることを素直に受け取るべきなのだ。

 高天原を分解すると「タカァ」「カァマ」「アマ」「ハラ」となる。

 葉室氏は、「ハラ」の「ハ」は葉で葉緑素を作り生命を生み出し、「ハハ」と二つ重なって母になる。さらに「ラ」は「ぼくら」などの「たち」という意味で、「ハラ」は多くのものを生み出す生命の源のことであると本質を喝破している。

 まさしく「ハラ」は生む腹であり、生命が誕生した海原(うなばら)である。外来の漢字を当てはめ「原」としために、本来の言霊がわからなくなってしまったのだ。

 昭和十五年に神祇院が復活した際、朝廷の祭祀を司っていた白川家最後の当主白川資長から、正しい神道行法だと認定され、政府高官の指導を委託された神道家の梅田伊和麿(いわまろ)翁は、天地開闢(かいびゃく)の時、「タカアマハラ」という言霊が鳴り響き、タカァ=高御産巣日(たかみむすび)神、カァマ=神(かみ)産巣日神、アマ=天之御中主神造化三神がハラ=成ったと断じている。

 造化三神は「成(な)」れる神と古事記にはある。ナルは鳴るで、雷鳴のように言霊が鳴り響いたのだろう。そして、天之御中主神をすべての中心として、高御産巣日神神産巣日神のムスヒ(結び)の働きで宇宙が造られ、太陽系ができ、地球と月が生まれ、八百万の神々や人類が誕生したという、壮大な宇宙創成神話が古事記の神代巻なのである。これに対し、日本書紀は地球が創生された以降の歴史を語っているといえよう。

 葉室氏は古事記の冒頭部分を、大宇宙が誕生したビッグバンを描写していると明快に指摘している。

高天原の原は腹や肚と発音が同じである。肚が据わった人とか、肚の太い人というように、人の精神のあり方をも示している。

 腹は人間の体の真ん中にあり、手足を広げて横に回転すれば、臍を中心に回る。

 武道や禅の修行では、腹すなわち臍下丹田(せいかたんでん)(気海(きかい)丹田ともいう)に気を入れることを重視する。声楽でも腹から声を出せと指導する。

 腹から出した声は小さくても遠くへ通る。鶏の鳴き声は、近くで聞くとさほど大きくはないが、驚くほど遠くまで届く。

 声楽家がマイクなしで歌っても広い会場全体に行き渡り、武道の達人が気合を掛ければ空飛ぶ鳥さえ落とす。生命の中心から気が出ているからである。

 スポーツではオノマトペといって、「声を出すと記録が良くなる」(スポーツオノマトペ 藤野良孝 小学館)ことが、最近の研究でわかってきた。ハンマー投げ室伏広治選手が、手を離す瞬間に叫ぶのは、そのいい例である。

 丹田に気をこめ、それを発すれば、偉大な力が発揮される。ハラという生命の中心から出るからである。

 では、丹田は臍の下のどこにあるのかと言えば、二つの考え方がある。一つは臍の下の下腹部、もう一つは、臍から体の奥へ入った内部にあるというものだ。

 この二つの考え方は、丹田が持つ一面を、別々の方向からみている。本来、丹と田は分けて考えるべきものである。

 丹は真心という意味がある。仙人は丹を練るという。また胆を練るという言葉もある。この場合の胆は気力や「きもったま」だ。胆は肝臓のことだから、丹は体の内部にある経絡上の壺、田は気を溜める腹だとわかる。

 では、誰でも丹田に気をこめれば、偉大な力を発揮できるかといえば、そう単純なものではなく、何事にも鍛練が必要なことは言うまでもない。

 丹を練りに練り、田に気をいっぱいに溜めて、言霊が響き渡る言葉を発声できるようにする行が、我が国には古来、伝わっている。一般には知られていないが、日本古来の神道には、腹を練るさまざまな修行法がある。その代表的なものが、白川伯家(はっけ)神道の修行法の一つ、息吹永世(いぶきながよ)という呼吸法で、思考停止から抜け出す重要な実践法である。

 

 ヨ 古事記は黙示録

 

現代の言葉の乱れは、古事記の編纂を指示した、天武天皇時代に似ている。

 天智天皇崩御後、圧倒的に不利だった大海人皇子は壬申(じんしん)の乱で劇的に状況を逆転、即位して天武天皇となり、飛鳥の清原(きよみはら)を都として天の下を治(しら)しめた。この時代、仏教をめぐる物部氏蘇我氏の対立、蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)の専横、大化の改新壬申の乱を経て国は乱れ、「諸家のもたる帝紀および本辞、既に正實(せいじつ)に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ」(古事記)状況になっていた。

 このため天武天皇は「今の時に當(あた)りて、其(そ)の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年も経ずして其の旨滅びなむとす」と憂え、古事記の編纂を命じた。つまり、各々の氏族に伝わる天皇や国に関する歴史や出来事に間違いがあり、嘘も書き加えられているから、今のうちに正しておかないと、事実が失われてしまうと、危機感を持たれたのである。

 ひるがえって現代は、「正しき伝統に則った教育を施し、自らを悪者とする自虐史観から脱却せずば、日本の本つ姿は滅びなむ」状態にある。

 壬申の乱を乗り切った天武天皇の御世(みよ)、仏教の伝来や漢字の普及で、言葉は現在と同様に乱れていた。それを憂えた天武天皇が、言葉や歴史、文化を正そうと編纂させたのが古事記である。

 そして、漢字を統一文字として古事記が撰録された。

 古事記天武天皇側近で二十八才の若き舎人(とねり)稗田阿礼(ひえたのあれ)が、天皇の命令で誦(よ)み習わした天皇家の系譜を記した帝王日継(ひつぎ)と、時代ごとの出来事である先代旧辞(くじ)を、太朝臣安萬侶(おおのあそみやすまろ)が編纂したものである。 阿礼は天宇賣(あめのうすづめ)命の後裔の猿媛(さるめの)君氏出身で、神懸(かみが)かり能力を持った語り部、安萬侶は漢文(中国語)の権威で、当時の最高の知識人である大学者だった。

 安萬侶が最も苦労したのは、古い言葉や意味を損なわないよう、漢字の音と訓を組み合わせ、筋道や論理が通らない語には「注」を施し、本来の意味や訓(よ)みを表すことだった。

 古事記の序文には「上古(じょうこ)の時、言(ことば)意(こころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字(じ)に於(お)きて即ち難(かた)し。すでに訓に因(よ)りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以(も)ちて連ねたるは、事の趣更に長し」とある。

 訓では意味を正確に言い表せず、音だけでは長すぎる文になるというのである。漢字で「上古」からの歴史や物語を、他人がわかるように記録することが、いかに難しかったかを示している。

 古事記は神懸りの稗田阿礼が口述し、漢文の権威の太朝臣安萬侶が記述した、神伝の書である。そして古事記は、唯一絶対最高神の存在を示し、さらには神祭りこそが国家の礎だということを暗示的に述べている。古事記は文章と文章の間に国体のあり方を示した黙示録である。

 古事記の冒頭は次のように書かれている。

 

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。次高御産巣日神、次神御産巣日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隠身也。

次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神。次天之常立神。此二柱神亦、獨神成坐而、隠身也。

 上件五柱神者、別天神

 

 日本古典文学大系の読み下し文を次に記す。

 

天地初發(はじめ)て發(ひら)けし時、高天原に成れる神の名(みな)は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神御産巣日神。此の三柱の神は、並(みな)獨(ひとり)神(かみ)に成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。

次に國稚く浮きし脂の如くして、久羅下那州(くらげなす)多陀用弊流(ただよへる)時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物によりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲(うましあしかびひこぢ)神。次に天之常立(あめのとこたちの)神。此の二柱も亦(また)、獨神に成り坐して、身を隠したまひき。

 上の件(くだり)の五柱の神は、別(こと)天つ神。

 

 この冒頭部分だけでもさまざまな解釈がある。前にも述べたが、高天原をタカマノハラやタカマガハラと歪めた読み方をする人がいる。古事記に分注があるにもかかわらず、独自の読み方をしているわけだが、「成る」という言葉を「産む」とこれも勝手に解釈する人がいる。「成る」は自然に現れる意、「産む」には両親が必要である。

 にもかかわらず、天之御中主神高御産巣日神や神御産巣日神を産んだとする解釈がある。最初に高天原に「成った」神が天之御中主神だから、次の二柱の産巣日神を産んだというのだ。

 そうなら、天之御中主神を生んだのはどの神なのかという問いが思い浮かぶが、明確な答は還ってこない。

 最初に成った天之御中主神と、伊勢神宮に祭られている天照大御神と、どちらが上位の神であるかは、昔から議論されている。ここでは、最高神を誤って解釈することが、国体を乱れさせている原因だと指摘しておくにとどめる。

 次に、「別天神」だが、特別の天つ神とか、天つ神とは別の天つ神と、ここでも解釈が分かれている。特別でも別でも構わないが、素直に読めば「天つ神」とは「異なる」神である。

 歴史書を読んでいると、よく天つ神系とか国つ神系という言葉が出てくる。天つ神系という言葉は、いわゆる「征服王朝」の大和朝廷の系統を、国つ神系とは「被征服王朝」の出雲系を指して使われている。しかし、古事記日本書紀には、天つ神「系」などという言葉はどこにも出てこない。後世の階級闘争史観の持ち主が、天皇を征服者と言いたいがためにつくり出した言葉だからである。

 最初の三柱の神の「並獨神」という言葉も、「並」が「みな」とか「ならびます」と読まれている。「ならびます」と読むと、三柱の神は同格の神という意味合いになる。同格であれば、天之御中主神最高神ではない。

 獨神とは、夫婦神ではないということだ。五柱の次に成れる国之常立神豊雲野神も獨神で、五柱の神々とともに「身を隠したまひき」とある。

 身を隠すとはどういう意味か。大祓詞のように、祝詞には「あめのみかげひのみかげとかくりまして」という言葉がよく出てくる。現し身を持たず、「かげ」に隠れている存在という意味だろう。七柱の「身を隠したまひき」神々は、現実世界に現れることなく、国を守っているのである。

 国之常立神豊雲野神の次に、五代(いつよ)の夫婦神が成る。最後が国産み神話で知られている伊邪那岐(いざなぎき)神と伊邪那美(いざなみ)神で、国之常立神から伊邪那美神までを神代七代(ななよ)と言う。

 伊邪那岐神伊邪那美神は国土の修理固成を行うが、天つ神の命令によってだった。古事記は次のように記している。

 

是に天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、伊邪那岐命伊邪那美命、二柱の神に、是の多陀用弊流(ただよへる)国を修(おさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ、と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。

 

 この後、岐美二神が天の浮橋に立って国産みが始まるのだが、ここで出てくる「天つ神」とは、どういう神なのだろうか。前に成った「別天神」と同じなのだろうか。

 古典文学体系などは、「天つ神」を「別天神」と解説している。しかし、もしここで現れた「天つ神」が「別天神」のことなら、「別天つ神諸の命以ちて」と書くだろう。ここの部分の文章は、「天つ神」と「別天神」とは違うということを示しているのにほかならない。

 この場合の天つ神は、天照大御神のことを指している。それを裏付けるのが、古事記日本書紀天皇のことを「天つ神の御子」と明確に書いていることだ。天皇天照大御神の皇孫だからである。

 大祓祝詞には「あまつかみはあめのいはとをおしひらき」とある。天の岩屋戸に隠れたのは天照大御神で、別天神ではない。

 さらに、天皇別天神の御子ではない。もし別天神の御子なら、親が五柱もいることになってしまう。「天つ神」を「別天神」であるとする解説が、いかに的外れかわかる。

 別天神は成った神だが、天つ神は「成った」とは書かれていない。広辞苑は「成る」を、「無かったものが新たに形ができてあらわれる」「別の物・状態にかわる」などと解説している。

 この場合の「無かったもの」は「現実世界に無かった」という意味で、「新たに形ができてあらわれ」たのは現実世界にということである。つまり、どこか元になる世界から現実世界に現れることを「成る」と表現している。「別の物・状態にかわる」のは、元の物や状態があるから「変わる」ことができる。

 天つ神は「成った」神ではなく、最初から高天原に存在していた神、あるいは高天原そのものと言っていい。

 天つ神という原初の存在が、「高天原」という言霊を発し、天之御中主神高御産巣日神、神御産巣日神の造化三神を「成らせ」たのだから、天つ神は無始無終、唯一絶対の最高神ということができる。

 この天つ神が、伊邪那岐命の禊祓いで現実世界に降臨した。

 

是に左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀(つくよみ)命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男(たけはやすさのお)命。

 

 ここで天照大御神の御名が初めて登場するが、以後、天つ神という御名での活躍はなくなる。天つ神は天照大御神となって地上に降臨し、さらに伊邪那岐命の「汝(いまし)命は高天原を治らせ」とのことよさしによって高天原へ戻り、天上天下の唯一絶対最高神となったのである。

 それを裏付けるように、日本書紀の神代巻では、神という表現は天照大御神だけで、ほかの神々は「尊」か「命」と使い分けている。天照大御神が唯一絶対最高神であると、日本書紀は明確に記述している。

 日本書紀本文の最初に現れるのは「国常立尊」である。以後、成る神々はすべて「尊」という表現が使われている。「便(すなは)ち神と化為(な)る」とか、「凡(すべ)て三柱の神ます」というような抽象的な使い方はしているが、個別の御名では神を使っていない。神は天照大御神だけで、ほかの神々は尊であり命なのである。

 日本書紀には「至(いた)りて貴きをば尊(そん)と曰(い)ふ。自(これより)余(あま)りをば命(めい)と曰ふ。並(なら)びに美(み)挙(こ)等(と)と訓(い)ふ。下(しも)皆此れに効(なら)へ」とある。

 日本書紀の「至りて貴き」存在、つまり「尊」は、神々と天皇、太子(ひつぎのみこ)に限られている。あとは「命」とはっきりと区別をしている。

 そして古事記の冒頭に成った天之御中主神高御産巣日神も神御産巣日神も、日本書紀ではすべて尊と表現されている。つまり唯一絶対神天照大御神で、あとの神々は尊であり命なのだ。そう前提を置いたうえで、今後は古事記にならって神と表現する。

 日本書紀で尊と表現されている天之御中主神最高神なら、俗な言い方だが、規模が大きいもっとたくさんの神社が祭り、人々の尊崇を受けていてしかるべきだろう。しかし、天之御中主神を祭る神社は、安産祈願で有名な水天宮や北極星を祭神とする妙見神社、北星神社など数えるほどしかない。

 動かない北極星を宇宙の中心と考え、天之御中主神の御中主という言葉から、北極星天之御中主神と発想したのが妙見神社や北星神社である。神霊的にというより、論理的に導き出したのだろう。記紀に星神信仰はほとんど記載されておらず、道教陰陽道の影響でこれらの神社が創建されたと思われる。

 さて、尊も命も「みこと」と読み「御言」とも書く。「詔(みことのり)」の「みこと」だ。そして「みこと」は、言霊のことでもある。尊や命は、天つ神が言霊を発し、神々に与えた使命を表している。

 古事記の冒頭文は、すべての存在には御中主=中心があり、天地開闢の中心になったのが天之御中主神であると暗示している。

 天之御中主神の次は高御産巣日神と神御産巣日神の二柱の産巣日の神が成った。「むすひ」は「結ぶ」で、存在と存在を結び付ける言霊である。独立していた存在が結び付けば、新たな存在が発生する。産巣日という大切な作用、神霊的な遠心力と求心力を暗示したのが二柱の産巣日神である。物理学が物質の構成を示した、原子の回りを電子が回転する様(さま)に似ている。

 神々の世界には、私たちの目には見えないものの、厳然とした序列がある。下位の神を最高神と誤認してしまったら、秩序が崩れる。さまざまな宗教が自分の神なり仏なりを持つのは悪いことではないが、最高神仏ではなく、御守護(みまもり)の神仏だと、明確に認識しなければならない。

 古事記日本書紀は、絶対最高の神を天つ神=天照大御神であると、一貫して示していることを忘れてはならない。

 普段、私たちが何気なく遣っている言葉には、このように深い意味がこめられている。だからこそ、言葉を正しく遣い、祈りのこもった言霊を甦らせなければならない。

 

巻の四 前編 言霊と古代和字の神秘

 

巻の四 言霊と古代和字の神秘

 思考停止は日常の言葉をも汚染し呪縛している。自らの主張に魂が入っていなければならない政治家の多くが、上滑りて使い古した言葉ばかりだ。それを正さなければならない知識人といわれる人々にも、正確な言葉を遣えない人間が増えている。

 日本語は現代の言語学では明確な起源がわからず、世界の言葉と共通することもなく独自に発達し、孤峰を保っている日本語はどこから来たのか、ほとんど不明といっていい。

 そんな状況の中で、言葉には魂があるという考え方、すなわち言霊(ことだま)が形成された。

 アルファベットを組み合わせて単語をつくる英語などと違い、古代の日本では「吾」を「あ」、「汝」を「な」と発言し、「あ、い、う、え、お」などの一つひとつの言葉に意味があった。

 ところが、漢字が日本に入ってきて日本語に当てはめたため、時代が下るにつれ本来の意味がわからなくなった。さらに思考停止のせいで、言葉は空虚なものに堕落し、言霊は力を失った。このままでは、言葉はますます薄っぺらになり、単なる音声記号に成り下がってしまう。

 だが、言葉を正確に発声し、正しい遣い方をすれば、言霊が甦り、思考停止の暗幕は雲散し、日本は本来の姿を取り戻せるだろう。

 

ヒ 妄りなコトアゲ

 

 歴史小説作家の井沢元彦氏が著書の「言霊」(祥伝社)で、日本はコトダマが支配する国だとして、次のように興味深いことを述べている。

 

 言葉と実体がシンクロする、というのがコトダマの基本原理である。そしてコトダマを発動させるためにはコトアゲすればいい。

 簡単に言えば、雨を降らせたいと思ったら、「雨が降る」と言えばいい。これは、必ずしも命令形でなくてもよい。逆に、実現しないでほしいと思ったことは、絶対に口にしてはいけない。「あの飛行機は落ちる」などとは絶対に口にできない。私は「墜落せよ」と言った覚えはないと、抗弁してもだめである。命令形でなくてもコトアゲした以上は、効力があるのだから。

 こういう世界では、言葉をうっかり口にできない。口に出すということは、コトアゲをしたということになるからだ。したがって、普通に使っている言葉も、状況によっては使えなくなる。

 

 井沢氏は具体的な例として鎌倉時代年代記吾妻鏡」の承元二年(一二〇八年)正月十一日の記事を紹介している。

 

晴る、御所の心経会(しんきょうえ)なり。去(い)ぬる八日式日たりといへども、将軍家御歓楽(ごかんらく)によりて、延びて今日に及ぶ。

 

 心経会が延期になったのは、将軍源実朝(みなもとのさねとも)の「歓楽」が理由だという。歓楽の意味は今も昔も「喜び楽しむ」ことである。実朝が楽しく遊び歩いたために心経会が延期になったとしたら、将軍として失格だが、実は歓楽の意味がまったく違って使われている。

 心経会の時、実朝は病気だったのだが、コトダマの原理によって、不吉な言葉を使うと不幸な事態がやってくるから、言い換えたというのである。

 結婚式のスピーチで「別れる」とか「割れる」と言うのは禁忌で、披露宴は「終わり」ではなく「お開き」という慣習と同じだというのだ。

 もっとも、めでたい席で縁起の悪いことを口にすべきでないのは、人々の祝い心に水を差すから、どこの国でも同じだろう。また、「将軍歓楽」のように、重要な人物の病状を隠すのは、症状が重ければ重いほど当然である。まして要人の逝去は国家の最高機密で、後の体制が整うまで隠されるのは、外国にも多くの例がある。

 もう一つの実例として、井沢氏は「太平記」をあげている。「太平記」は南北朝の抗争を扱った「戦乱物語」なのに、なぜ「太平」と題されたのかと問いかけている。

 

もし「戦乱記」とでも名付ければ「戦乱」という言葉の霊的作用(つまりコトダマ)によって本当に戦乱を呼んでしまうからだ。将軍の病気を「歓楽」と表現するのと同じ精神構造のなせる業なのである。(中略)

 ところが、コトダマの支配下にある日本人は、言葉と実体の間に相関関係があることを信じている。そこで実体を改革するのに何らかの困難や不都合がある時、言葉のほうだけ言い換えることによって、実体を改革したような気になって、安心してしまうという悪い性癖がある。

 

 確かにある種の人々にはその傾向がある。

 鳩山由紀夫元総理の普天間基地海外移転原子力に強いと自ら喧伝し、訳のわからない空虚な政策を次々と打ち出した菅直人元総理。二人とも何もやっていないのに、言葉を先行させてやったと思い込んでしまっているのは、コトダマ信仰の故であろう。

 コトダマ教の最たる例は、軍隊を自衛隊と言い換え、戦争を放棄した日本国憲法第九条を守れば、世界に平和がくるという「迷信」であり「妄信」である。

 旧社会党時代に、女性で初代衆議院議長を務めた故土井たか子などは、コトダマ教信者の最たる人物である。

 迷信を信じる人々にとっては、現実がどうあろうと何の関係もなく、平和に反することを言葉や文字にしなければ、平和が実現するはずなのである。

 では、こうした「平和主義」の標榜者たちは「自分は平和を求めている」から、強盗が入ったり、暴漢に襲われたりすることはないと信じ、家に鍵を掛けず、玄関を開き放しにしているのだろうか。もしそうだとしたら見上げたものだが、現実は「平和憲法」を守れと主張している政党や人物ほど、本部や自宅のガードが固く、警戒を怠っていない。

 ウクライナへのロシアの侵略を見れば、平和を求めるという言葉が、いかに無意味が分かる。

 主張する言葉と現実の行動がいかに違うか、コトダマ教信者の面目躍如たるところである。

 井沢氏は実にユニークな視点で日本人を分析しているが、この論が本当の言霊ではなく、「妄りなコトアゲ」を俎上に載せていることに気づいているだろうか。

 万葉集の「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰く」に言霊を詠(うた)った長歌反歌が載っている。国文学者の中西進氏の著作「柿本人麻呂」(筑摩書房)から引用する。

 

  柿本朝臣人麻呂の歌集に曰く

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国

しかれども 言挙ぞわがする 言幸く 真幸くませと

恙(つつみ)なく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと

 百重波 千重しきに 言挙すわれは 言挙すわれは

  反歌

敷島の 大和の国は 言霊の 幸(さき)はふ国ぞ 真幸くありこそ

 

 敷島の瑞穂の国は神の御心のままに言葉に表さない国だが、あえて無事にと私は言挙げをします。ご無事でおられたら、荒い波が打ち寄せてきても、後にお目にかかれると、百重波、千重波が寄せてくるように、私は何度も重ねて言挙げします、というものだろう。人麻呂は無事を祈って「あえて」言挙げしているのである。

 言葉には霊魂、すなわち言霊が宿っていて、言霊によって言挙げすれば、神々の加護が得られて実現するというのが日本古来の信仰だが、言挙げすれば何でもかなえられるというものではない。言葉に研ぎ澄まされた霊力を持っている天才宮廷歌人の人麻呂だからこそ、祈りをこめて言挙げしてもいいのである。

 人麻呂は、太平記とか、将軍の歓楽とか、「平和憲法」などのように、無闇にコトアゲをしているわけではない。妄りなコトアゲをすると、現実から目を逸らせ、かえって悪影響を及ぼしてしまうのは、元総理二人の言動を見るだけで明らかだろう。

 妄りなコトアゲではなく、願いを込めた言葉と考えるべきではないだろうか。戦乱が続くから「太平」であってほしい、病気が回復して「歓楽」してほしい、戦争が起こらない「平和」であってほしい、と祈っていると受け取るのが真意ではないのか。

 井沢氏は悪意で言葉を持ち遊んでいるとしか思えない。小説の中での事柄ならともかく、歴史と名付けた以上は正しい認識をしてもらいたい。

 

 フ 祈りの力

 

 コトダマ教が我が国で蔓延したのはなぜなのだろうか。それは、練り上げられた言葉にはまさしく言霊が宿っていて、祈りが実現するからである。

 こう書くと、「そんな馬鹿な」と、すぐさま否定する人たちがいるだろうが、祈りには奇跡的な力が秘められている。特定の宗教団体の祈祷を指しているのではなく、だれもがする祈りそのものに、神秘的な力があることに気づかなければならない。

  祈りの力を科学的に研究したのは、世界的な遺伝子学者の村上和雄氏である。同氏は世界に先駆け、高血圧を引き起こす酵素レニンの遺伝子を解析、さらに稲ゲノムの全解読を行った。そして、複雑極まりない遺伝情報を作り上げた何ものかが存在するとして、サムシンググレートの概念を提唱している。また、笑いと糖尿病治療の研究を進め、笑うことで血糖値が下がることを実証している。

 村上氏は宗教学者の棚次正和氏との共著「人は何のために『祈る』のか」(祥伝社)で、「祈りには、病気を癒し、心身の健康を保つ大きな力が秘められていることが、科学的に明らかになりつつある」と、衝撃的な事実を明らかにしている。以下に著書から引用する。

 

 そうした例をひとつ挙げてみることにしましょう。アメリカの病院で行なわれた、祈りの効用に関する研究結果です。

 重い心臓病患者393名を対象に、一人ひとりに向けて回復の祈りを行ない、祈らないグループとの比較をしてみました。そうしたら、祈られたグループの患者群は、祈られなかったグループの患者より、明らかに症状が改善されていました。祈る事が、何らかの形で心臓病を患(わずら)った人たちに良い影響を及ぼしたと報告されたのです。

 

 このほかにも、アメリカのアイオワ州の農村地帯で、トウモロコシの「多収穫」の祈りを集団で行なったところ、ずっと不作だったのが、その年は思いがけないほど豊作だった例、などなどが記述されている。

 そして祈りは、「どんな宗教でも祈りの効果は得られるし、宗教を信じない人にも有効であるということがわかってきました」という。医学に慣れた現代人は迷信と考えるかもしれないが、祈りの力で病気を治す研究が実際に行われているのである。

 信じられないと思う人もあるだろうが、多くの宗教が最初は病気治しから始まっていることを忘れてはならない。

 ちなみに世界最大の信者数を誇る宗教はキリスト教だが、イエス・キリストは、らい病や中風、出血病、盲人、口のきけない人など、さまざまな病気を言葉で治している。

 村上氏は、「無意識の心で感じたものが意識に変換されるときには身体の動きとつながりますから、遺伝子も当然関係してきます。遺伝子には、太古からの人類の祈りが刻み込まれていると思われます。すべての人間が大昔から祈ってきた理由は、このへんにあるのかもしれません」(前掲書)と指摘。

 そして、病気の原因は「悪い遺伝子がオンになった状態と考えられます。ガンはガン促進遺伝子が活発に働いた結果、起きていることです。身体の中にはガン促進遺伝子だけでなく、ガン抑制遺伝子も備わっています。ふつうは、それがきちんと働いてくれるのです。それが、なぜか悪い遺伝子のほうがオンとなって、正義の味方のはずの抑制遺伝子がオフになってしまう。これを逆転させれば、ガンなど自然に治ってしまうのです」(同)と述べている。

 どうやって抑制遺伝子を活発化させるかだが、笑いが糖尿病患者の遺伝子にどう影響するか、「DNAチップ法」という検査法を使って検査した結果から、その方法を示唆している。

 それによると、笑いによってオンになる遺伝子四十七個、オフになる遺伝子八個が見つかった。さらに、動きが活発になった遺伝子は、いずれも免疫力向上に重要な役割を果たしているもので、活動が鈍ったのは、糖尿病による臓器疾患に関係する遺伝子だったという、驚愕的な研究結果が得られたのである。

 村上氏はDNAチップ法を使えば、笑いだけでなく、感謝でも祈りでも、どんな遺伝子がオンになり、オフになるかわかると結論づけている。

 では、祈ればすべてかなえられるかといえば、そんな都合のいいことはあり得ない。祈る人の真摯さや熱心さ、利己的か利他的か、継続した祈りか思いつきの祈りかなど、さまざまな祈りがあるからである。もっとも、真摯で熱心、継続的に利他的な祈りを奉げるからといって、すべてが実現するわけではない。

 村上氏は前掲書で、祈りは「最適解」の答えを出すと述べている。どういうことかといえば、心からの祈りは、たとえ実現しなくても、その時々の最もいい事態を招いている。祈った時には願いが適わなくても、後からもっと望ましい形で実現することがあるというのである。

 祈りは実現する力を持っているが故に、祈ったこと、言葉に出したことは、すべて実現すると思い込むのがコトダマ教である。そこには心の底からの祈りはなく、祈っておけばいい、あるいはコトアゲすればいい、という安易な気持ちしかない。

 言挙げしない国で、軽々しくコトアゲすれば、実現するどころか、逆の結果を招きかねないと肝に銘じるべきである。

 ちなみに鳩山元総理は、神前でやってはならない虚言を平然と口にした結果、政界引退を余儀なくされた。

 山村明義氏の「神道と日本人」(新潮社)によれば、後に天武天皇となった大海人(おおあま)皇子が、挙兵を決意する託宣を得たと由来が伝わっている奈良県吉野の古社「勝手神社」で、鳩山元総理が政権交代祈願を行った際のことである。勝手神社の社殿は、平成十三年九月に不審火で焼けてしまったので、宮司が冗談めかして寄付を願った。「神道と日本人」は次のように記している。

 

「ここは火事で焼けてしまったので、民主党が奉賛(寄付)してくださいよ」と嘆願すると、鳩山氏は、その場で「わかりました。それぐらいさせてください」と語ったという。ところが結局、寄付はおこなわれなかった。続けて鳩山氏は、「政権が取れたら、神社にお礼参りに参ります」と答えたが、まったく「お礼参り」には来る気配もない。

 

 鳩山元総理の虚言癖と「言葉の軽さ」が、神の御前でも同じとは呆れるかぎりである。妄りなコトアゲが災いし、神の怒りを買った人間の末路がどうなるか、鳩山元総理の引退が示唆している。神々を軽視する人間には悲劇が待っていたのである。いや、さらなる悲劇が待っているのかもしれない。

 言葉の大切さは、古今東西、どこでも同じである。世界の人口の三人に一人は信者といわれるキリスト教も例外ではない。旧約聖書の「創世記」冒頭を日本聖書協会の聖書から引用する。

 

 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。

 全知全能の神の言葉から、昼と夜が別れたというのである。以後、神が何かを言うたびに、言葉通りの事柄が実現していく。

 神の言葉による世界の発展を、新約聖書ヨハネ福音書は次のように記している。

 

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 

 キリスト教の「はじめにありき言葉」は、神が発した言葉だから、文章となっている。これに対し、日本の言葉は、人々が話す「あ、い、う、え、お」などの一つひとつに深い意味が含まれている。一音一義、一音万義である。

 それが我が国に伝わる言霊で、言葉は「神」だけのものではなく、人間とともにあることを忘れてはならない。

 

 言霊を忘れたわかりやすい例は「いのち」という言葉で分かる。「いのち」に「命」という漢字を当てはめたため、「命」は生命のこととなり、「いのち」に含まれた深い意味がわからなくなった。

 奈良春日大社宮司を務めた葉室頼昭氏は、形成外科の医師を定年退職して神主になった異色の経歴の持ち主で、神道に関する多くの本を出している。

 葉室氏は、「いのち」の「い」は生きる、「の」は接続詞、「ち」は知恵で、神に与えられた「生きる知恵」のことだと喝破している。

 人類が誕生して以来、体験したことが遺伝子に組み込まれ、「生きる知恵」となって子孫に伝えられていくのが「いのち」だというのである。もちろん、処世上の知識や技術を指しているのではない。

 ちなみに「いね=稲」は「いのちのね=命の根」で、私たちが何気なく使っている言葉には、深い意味があることがわかる。

 神々が人間に与えられた「いのち=いきるちえ」を伝えていくのが言葉だ。

 一つひとつに意味のある日本語の単語に、中国の表意文字を当てはめたのが漢字である。時代が下るにつれ、本来の意味が忘れられ、漢字の意味に振り回されるようになった。

 そして人々は、長い年月のうちに言霊の存在を忘れ、いわゆるコトダマを信じるようになり、コトアゲすれば実現したと思い込むようになった。鳩山由起夫菅直人など、歴代の多くの総理経験者、政治家や官僚は抽象的な言葉を駆使し、コトアゲすることで国民を欺くようになったのである。

 言葉が乱れに乱れた現在、わが国の伝統は失われようとしている。伝統を守るためには、国民一人ひとりが言葉を正確に発音し、祈りをこめて言霊を甦らせなければならない。