巻の一 歴史の″常識″は正しいのか?

 同じ言葉を繰り返し耳にしていれば、それが間違いであっても正しいと信じ込んでしまうのが、悲しいことに人間の習性である。従軍慰安婦南京大虐殺などはその典型である。嘘も百回言えば本当になる。

 私たちは文部行政や教職員組合によって、日本人は戦争を起こした悪い人間だと耳にタコができるほど聞かされ、二度と戦争はしませんという言葉を金科玉条にしてきた。

戦争は悲惨で、自ら起こすべきでないのは当然だが、では鎌倉時代元寇(文永、弘安の役)のように、一方的に元・高麗(朝鮮族)連合軍に攻められた場合、どうするのかという視点が欠けている。戦わずに降伏しろとでもいうのだろうか。

そんなことをすればどうなるかは明白である。元寇対馬壱岐、九州沿岸の多くの住民が、元軍と高麗軍によって大虐殺され、多くの人が捕虜として連れ去られたことを忘れてはならない。壱岐の人口は当時二万~三万人と推察されるが、生き残ったのはわずかに二桁(六十五人とも記録されている)だった。

元寇が襲来した九州地方には「むくりこくり、鬼が来るぞ」という、わがままや泣き止まない子供の脅し言葉がある。「むくり」は蒙古、「こくり」は高麗のことで、今の中国や朝鮮である。八百年前の元寇の恐ろしさが、いまだに伝えられている。

皆殺し――それが侵略者の当然の行動であることを忘れてはならない。

多くの日本人は平和至上主義の美名の下に、子供のころから偏向教育を施され、自虐的になるようマインドコントロールされてきた。その事実に、教えられる学生や生徒はもちろん、洞察力を備えていなければならない教師すらも気づいていない。

 では、どうすればマインドコントロールから抜け出せるかといえば、常識だと思っている歴史に、まず疑問を抱くことである。

 

 ヒ 科学的判断を

 

日本人は稲作と一緒に日本列島へやってきて、狩猟採集生活をしていた先住民の縄文人を征服、駆逐して弥生時代を築いた……と学校の教科書などは教えていた。私もそう習った年代だ。

 日本の文物はすべて、中国大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て入ってきたというのが、ある種の「常識」だった。その背景には、遣隋使や遣唐使を派遣したから、中国大陸は日本より文化が発達していたという思い込みがある。

 ある種の「もの」、例えば仏典などは、インドから中国へもたらされたのだから、日本より中国が仏教を受け入れた「先進国」だったことは間違いない。それらが朝鮮半島を経て、日本へ届けられたこともあっただろう。

 遣隋使や遣唐使は、仏教などの経典や律令制度を求めるのが最大の目的で、朝鮮の新羅(しらぎ)が自ら「藩屏(はんぺい)の家臣」と称したように、当時の日本国が隋や唐に冊封(さくほう)されていたわけではない。中国は日本国の宗主国ではなかったし、我が国は中国の朝貢国でもなかった。文化に心酔していたわけでもない。聖徳太子が隋に送った国書の「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す」という文面が、それを端的に物語っている。

 遣隋使や遣唐使を送ったからといって、中国大陸や朝鮮のすべての文物が、日本より優れていたということにはならない。にもかかわらず、日本は後進国で大陸や半島は先進国だという、事実を基に良く考えてみれば「非常識」だとわかることが、「常識」として定着してしまったのはなぜだろうか。

 底流には、日本人が新しいもの好きということがある。上代には道教や仏教などがもてはやされ、中世は儒学、明治になっては西洋化を急いだ。古代から進取の気質に富んでいるのが日本人である。

そうした土壌があるところへ、大東亜戦争の敗戦で日本は戦争を起こした悪い国だと、弱体化を狙う占領政策で伝統や歴史を否定され、進んだ文物はすべて大陸から入ってきたと思い込まされたことが、「非常識な常識」ができあがった大きな原因である。

 だから、縄文文化より発達した弥生文化は大陸に発生したのが先で、稲作と一緒に日本列島へ渡ってきた弥生人が、土着の縄文人を征服し駆逐したという論理になる。大勢の学者や文化人、考古学者や歴史学者さえ、大陸からの渡来人が稲作と弥生文化を日本にもたらしたと考えている。

 だが、本当にそうなのだろうか。日本は野蛮な国で、大陸中国は文化的な国だったのだろうか。歴史教科書で「先進国」は大陸中国で、日本は「後進国」と思い込まされているだけではないのだろうか。学者や文化人が自分の意見を正当化させるために、「事実」から目を逸らしているのではないだろうか。あるいは「事実」を意図的に無視しているのではないだろうか。

 世の風潮をみていると、こんなさまざまな疑いが生じてくる。「大疑は大悟に通じる」から、大いに疑問を持たなければならない。敗戦で我が国は、政治や教育で戦前のことをすべて悪だと否定され、欧米に二度と歯向かえないようにマインドコントロールを施されたのだから、知識の表層を覆っている「非常識な常識」という塵芥を一掃し、先入観のない物の見方を取り戻さなければならない。

 さらに、中国大陸やアメリカ大陸などの広大な大地への憧れという、単純な物質的憧憬を捨て去らなければ、物事を正しく認識することはできない。

 では、どうやって正しい認識をするか? それには「科学的」な視点が必要である。弥生人は渡来人だった、弥生人縄文人を征服した、稲作は弥生時代から始まった……などの「常識」を、事実に則して科学的に判断することである。

 科学は、立てた仮説を実験で証明しなければ、正しいとは判断しない。さらに証明された仮説は、どこからどこまでの範囲で正しいのかという範囲性を重視する。

 例えば、物質の物理学であるニュートン力学。リンゴが木から落ちるのを見てニュートン万有引力を発見したといわれている。このニュートン力学は、日常生活の物質の動きを説明するには有効だが、素粒子の世界には適用できない。逆に素粒子の世界を論じる量子力学は、ニュートン力学の世界では通用しない。

 どういうことかと言えば、ある地点を始点として物質が移動すると仮定する。速度とかかった時間がわかれば位置がわかる。かかった時間と位置がわかれば速度がわかる。速度と位置がわかればかかった時間がわかる。こうした日常的な世界を研究したのがニュートン力学、あるいは古典力学という。

 では、素粒子の世界では速度と時間、位置の関係がどうなるかと言えば、原子核を回る電子の速度がわかると位置が判明せず、位置がわかると速度が判明しない。しかし、電子は確実に存在しているわけだから、高名な物理学者のハイゼンベルグは、電子が飛び回る範囲に電子が存在する確率を一とした不確定性原理を提唱した。確率一とは、その範囲に電子が確実に存在していることを意味する。

 このように、仮説の証明と範囲の確定がなされなければ科学とは言えない。実験で証明されてもいない単なる仮説を、正しいと主張するのは、鰯の頭の類で妄信や盲信である。

 

 フ 稲作文化はいつから

 

 妄信や盲信の最たる例が、縄文時代は狩猟採集の放浪社会で、弥生時代水田稲作の定着社会だという「誤った常識」だ。この「誤った常識」は、日本は縄文時代には米が存在せず、ましてや水田稲作など行われていなかったと主張している。

 しかし、遺伝子考古学という科学の発達でさまざまなことがわかってきた。一九九九年四月二十二日付の山陽新聞に次の記事が報じられている。

 

◎最古の稲細胞化石を発見 岡山・朝寝鼻貝塚

=六千年前の縄文前期初め 稲作起源論に波紋=

 岡山理科大発掘チーム(代表・小林博昭同大教授)は二十一日、岡山市津島東の朝寝鼻(あさねばな)貝塚から採取していた縄文時代前期初め(約六千年前)の地層から、稲の栽培を示す細胞化石・プラントオパールを検出したと発表した。稲作を行っていたとみられる資料としては、岡山県美甘村・姫笹原遺跡など縄文時代中期の例を千五百年近くさかのぼり、日本最古の発見。稲作起源論争に大きな波紋を広げそうだ。(中略)

 プラントオパール(植物ケイ酸体) イネ科植物の葉などに含まれるガラス質細胞の微化石。イネ、キビ、アワなどの種類ごとに固有の形、大きさがある。安定した性質で、土壌中はもちろん、高温で焼かれた胎土にも残ることから、イネ科植物の存否を判別するのに大きな威力を発揮する。

 

 いわゆる縄文時代は草創期(一万六千年前~)、早期(一万一千年前~)、前期(七千二百年前~)、中期(五千五百年前~)、後期(四千七百年前~)、晩期(三千四百年前~)と分類される。

記事によれば、六千年前の縄文時代前期、すなわち紀元前四千年に、既に稲作が行われていたことになる。

 日本の稲には熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの二種類があり、熱帯ジャポニカは畑作や焼畑などで作られる陸稲(おかぼ)、温帯ジャポニカは水田で作られる水稲である。

 朝寝鼻貝塚の稲は陸稲だが、稲は弥生時代にならないと現れないという「誤った常識」は、完全に否定された。

 では、水稲はどうか。これまでの「常識」は、水稲を持ち込んだ渡来人が、弥生時代を築いたとしてきた。そこから、渡来人が日本列島の縄文土着民を征服したという「誤った常識」が生まれ、日本人は北方騎馬民族の末裔(騎馬民族水稲栽培をしたのだろうか?)であるとか、朝廷は朝鮮半島からやってきたなどという「妄説」が喧伝されるようになった。

 水稲が栽培されるようになったのは、本当に弥生時代からなのか。

 この「誤った常識」も、福岡市博多区板付遺跡唐津市の菜畑遺跡の発見で覆った。両遺跡とも縄文時代から弥生時代へ連続して生活が営まれた遺跡で、縄文時代の地層から水田跡が発見されたのである。

菜畑遺跡は昭和五十四年に発見され、五十八年に史跡に指定された。水田跡の遺構が発見されたのは、十六層ある遺構のうち縄文晩期後半の十二層からで、それより時代が新しい上層からは弥生時代中期までの水田遺構が見つかり、多数の農機具も発見されている。

さらに、弥生時代前期の地層では大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路や堰(せき)、取水口と排出口、木の杭や矢板を使った畦畔(けいはん)が発掘された。

 これらの遺跡は、縄文時代晩期に水田耕作が行われていたことを実証するものである。つまり、水稲縄文時代から弥生時代へと、連続して行われていたことを示している。

 さらに、陸稲水稲が平行して栽培されていたこともわかっている。縄文稲作を陸稲、弥生稲作を水稲とすれば、仲良く共存し、どちらかがどちらかを駆逐するという、敵対的関係でなかったのは明白だ。

 そして、陸稲水稲の交配で通常の水稲より二〇パーセントも早く成長する早稲(わせ)種が生まれ、早く刈り入れができるようになり、寒冷地の青森までわずかな期間で普及した。

 渡来人が私たちの主食である水稲を持ち込んで縄文人を駆逐し、弥生時代を築いたという「誤った常識」は、これらの遺跡発掘によって完全に否定されたのである。

 にもかかわらず、「誤った常識」がいまだに大手を振っているのは、無知なのか、科学的事実を事実として認めるのが嫌なのか、あるいは事実を意図的に歪めたい「ためにする主張」かの、どれかとしか考えられない。

 ちなみに、稲が日本に渡ってきたとされる朝鮮半島では、陸稲が栽培されていたのは紀元前一千年ころで、水稲はそれより遅いことがわかっている。日本に比べればはるかに後の時代と言わざるを得ない。

 さらに、遺伝子工学の発達で、日本の水稲のDNAは非常に少ない種類しか存在せず、朝鮮半島水稲とは違う型であることがはっきりしている。

 米の遺伝子型はa~hの8種類あり、水稲の発生した中国大陸では、すべてがそろっている。朝鮮半島ではb型はなく、7種類が存在している。

 一方、日本の遺伝子型はa~cの三種類で、b型が最も多い。

 もし半島から稲が渡ってきたのなら、日本の稲作が始まった時代より早い時代に、b型のDNAを持つ稲が、半島で栽培されていなければならない。

 だが、b型が存在しないということは、過去に半島に存在しなかったか、現代までに絶滅したことになる。7種類の遺伝子型が存在しているのだから、まず絶滅は考えられず、半島にはb型の米は伝わらなかったというしかない。

 現在はその稲を栽培していないという反論があるなら、プラントオパールを示すなど、科学的証拠を明確にしなければならない。

 半島から日本に稲作は伝わらず、原産地の揚子江流域から海路で直接ということになる。

 科学の結果を無視すれば、「鰯の頭」と同じで、カルト宗教妄説としか言えなくなる。