巻の一 続き 

ミ 縄文文化の先駆性

 

 我が国の古代を、縄文時代弥生時代とに分ける二重構造論が一般的で、網目のついた(ないものもある)縄文土器が作られたのが縄文時代、稲作農耕文化に伴う弥生土器が作られたのが弥生時代といわれている。

 縄文土器についても稲と同じ「誤った常識」がまかり通っている。これまで縄文土器の製造技術は七千~六千年前、シベリアなどから日本に伝わったことになっていた。ちなみに、最古の土器年代はシベリアが七千~六千年前、西アジアが六千五百年前、中国が四千五百年前とされてきた。

 しかし、新たな遺跡の発掘と、炭素14を使った放射線炭素年代測定法の科学的進歩によって、この「常識」は大きく覆され「誤った常識」に転落した。現在までのところ、世界最古の土器は、青森県大平(おおだい)山元I遺跡から出土した文様のない無文土器で、一万六千五百年前のものとなっている。また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡からは一万二千年前の土器が発見されている。

 縄文土器は今のところ世界最古の土器なのである。もっとも、中国湖南省で一万八千年前の土器が発見されたという報道もあるが、世界の学会で権威づけられておらず、詳細はつまびらかではない。

 また、漆についても「常識」が覆され「誤った常識」となった。漆の器は従来、揚子江流域の河姆渡(かぼと)遺跡から発見された七千年前のものが世界最古とされてきた。したがって、漆の技術は中国から入ってきたと考えられていた。

 ところが、北海道の垣ノ島B遺跡から出土した赤色漆が九千年前のものとわかり、漆の技術についても日本が先行していたことが判明した。

 さらに福井県鳥浜貝塚から出土した漆器は一万二千六百年前のもので、DNA鑑定の結果、漆は日本の固有種と判明した。漆器は日本独自の技術だったのである。

 こうした事実にもかかわらず、高度な技術はすべて渡来人がもたらしたという思い込みがいまだに続いている。こんな「非常識」な状態が続くのは、日本という国を貶めようとする、意図的な策謀があるからにほかならない。

 科学や技術は水と一緒で、高い方から低い方へ流れる。高度な文化は、拓(ひら)いた国から存在しない国へと流れていく。これまで発見された遺跡だけから常識的な類推をすれば、縄文土器漆器の製造技術は、日本から海外へ伝わったことになる。

 かといって、日本の文化が最も高くて海外は低いなどと、国粋主義的なことを言うつもりは毛頭ない。ましてや、まだ発見されていない遺跡から常識を打ち壊すような遺物が発見されるかもしれず、いま見つかっているものだけで判断するのは早計である。

だが、大陸の文化が日本より発展していたと思い込んで思考停止した人間は、発見された遺跡から眼を背け、従来の主張を繰り返し続けている。非科学的態度としか言いようがない。

 私たちは戦後教育や反日宣伝工作で刷り込まれている「誤った常識」を、まず疑ってかからなければならない。大疑なければ大悟はない。大疑という楔を「誤った常識」に打ち込めば、真実はおのずから明らかになっていく。

 

 ヨ 日本人のDNA

 

 遺伝子工学の発達で、従来の「誤った常識」が次々と否定されている。そして人類学でも、DNA分析による分子人類学が「誤った常識」に楔を打ち込んだ。

 分子人類学によると、原生人類は二十万年ほど前にアフリカで誕生し、長い時間をかけてアフリカ内部に広がり、「そして約6万5000年程前、ごく少数のヒト集団が意を決してアフリカを後にし、新たな冒険へと旅立っていった。それが出アフリカである」(新日本人の起源 崎谷満 勉誠出版)。

 アフリカで誕生した原生人類は、環境によって遺伝子を変化させながら、さまざまな土地へ移っていった。変化した遺伝子をグループごとにまとめ(これをハプログループと呼ぶ)、どのヒト集団に属するかを客観的、科学的に判断するのが分子人類学である。つまり分子人類学は、それぞれの人種や民族が持つDNAを大きなグループに分け、共通性や違いを明らかにしようという学問である。

 分子人類学は、以前からミトコンドリアDNAの分析によって、ハプログループをつくってきた。ミトコンドリアDNAは母親から子供に伝わるDNAで、母系家系を追跡するのに利用されている。

そうした研究によれば、現代ヨーロッパ人は旧石器時代の七人の子孫であり、アジアやアフリカ人のDNAをも検証した結果、世界中の人間の母系先祖は、アフリカの少数の女性、いわゆる「ミトコンドリア・イブ」だと推定された。

 しかし、ミトコンドリアDNAは母系しかたどれないため、人類の系統や移住地を調べるには不十分である。そこで注目されたのが、父系だけの系統をたどるY染色体DNAである。

 父系をたどるとどういうことがわかるか。例えば、A民族がB民族を支配したとする。この場合、後世のB民族の子孫のDNAは、母系のミトコンドリアDNAには大きな変化がないが、父系のY染色体DNAは圧倒的にA民族の系統が多くなることが判明している。つまり、「征服による融合では、基本的にY染色体DNAの方が多く流入する」(日本人になった祖先たち 篠田謙一 日本放送出版協会)ため、ある民族の支配者の歴史そのものということになる。

 なぜこうなるかといえば、被支配民族の男は支配民族に抵抗しないよう多くが殺され、被支配民族のY染色体DNAが激減するからである。

 ちなみに、「かつての『元』の帝国の版図のなかで、チンギス・ハンに由来するY染色体DNAを持つ人々は男性総人口の八%、およそ一六〇〇万人、満州を建国した太祖ヌルハチの祖父である景祖ギオチアンガの子孫は一六〇万人であると推定されている」(同)。征服者のY染色体DNAが急増することを物語っている。

 ハプログループはA、B、C……と分類され、さらにA1、A2などのサブハプログループに小分類される。

さて、日本人のミトコンドリアDNAのハプログループ分布は、朝鮮半島中国東北部の集団とそれほど違っていないのに、Y染色体DNAは大きく異なっていることが判明している。

 日本人のY染色体DNAは、「出アフリカ」を行ったヒト集団に由来する三大マクロハプログループが三系統ともそろっており、さらにハプログループDが全体の約四割と最も多いことである。

DハプログループにはD1、D2、D3、D*のサブハプログループがある。

 日本人のDハプログループのほぼ一〇〇パーセントがD2サブハプログループに属しており、このグループは日本人だけに存在し、三万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられている。そして、D2サブハプログループはアイヌ人と沖縄人にさらに高い頻度で存在していることから、「いわゆる縄文人」の遺伝子と考えられている。

 ハプログループDは近隣諸国には非常に小数で、高率なのはチベット人だが、日本人とは違ったD1、D3サブハプログループに属している。

 日本人のY染色体DNAの主なサブハプログループは、約四割がD2、O2が三割強、O3が約二割、Cが一割弱となっている。

 これに対し漢族は、O3が五五パーセント、O2が一六パーセント強存在し、Dは一パーセント未満で、O3が漢族の中核的なDNAと考えられる。歴史的に中国と密接な関係を持っていた朝鮮族は、O2が三割強、O3が約四割、Dは二パーセント強となっている。これらから、漢族の朝鮮半島進出によって、宗主国である漢族のO3が多くなったと推測される。

 また、蒙古族はCが五割を上回り、ついで一割強がO3、チベット人はDが四割強で、O3が四割弱となっている。チベット、蒙古とも漢族の進出に押され、Y染色体DNAすらも席巻されつつある実態がうかがえる。

 東アジアは「漢民族の膨張によってDNA・文化・言語の単一化の流れが加速されてきたことは、歴史的に繰り返されてきた。それがDNA分析でもって科学的に実証された」(新日本人の起源)のである。

 日本人独自のD2に、O2、O3がかなり高率で追随しているのは、大陸や半島から渡航してきたいわゆる渡来人が平和的に融合したからと考えられる。もし、渡来人が大挙して押し寄せ、縄文人を武力で征服したのなら、D2の割合は極端に少なくなり、O2やO3が圧倒的に多くなっていなければならない。

 逆に縄文人が渡来人と戦い制圧したのなら、O2やO3の比率はもっと低下していなければならない。

 多様なY染色体DNAの存在からわかることは、渡来人と縄文人は友好的に融合したということである。

古代は鋼鉄製の大型船はおろか、元寇時の大型帆船さえなく、丸木舟で日本と朝鮮半島や大陸を行き来していた。船団を組んで航海していたわけではなく、先住民を制圧できるような大量の人間を、一度に運ぶことは不可能だった。大陸や半島から出た人々が、風や潮に任せて散発的に日本へ渡来したというのが実際のところである。あるいは逆に、日本人が半島や大陸へ散発的に出かけていた。

つまり、渡来人は一時に大量流入したのではなく、ぽつりぽつりと到来し、日本人も同様に進出していたのである。渡来人は必然的に日本の社会に溶け込んでいかざるを得ず、縄文人を駆逐して制圧することなどあり得なかった。

 縄文人弥生人の骨格や頭蓋骨の形の違いを指摘して、縄文人弥生人は違う民族だと主張する形質人類学がこれまで主流だったが、人間の体型は食べ物によって左右され、骨格も大きく変わることを無視している。水稲が普及することで食糧事情が改善され、頭蓋骨や骨格が変化したと考えるほうが妥当ではないか。頭蓋骨や骨格の形だけで縄文人弥生人を異なる人種だと区別するのは行き過ぎだろう。

 稲作だけとっても、縄文時代晩期には水稲陸稲がともに栽培されていたのだから、渡来人がもたらして弥生時代をつくったことは否定される。さらに、Y染色体DNAの分析結果は、日本列島に住んでいたいわゆる縄文人が、水稲の栽培で食生活を改善し、弥生人になったことを示している。

 にもかかわらず、いまだに縄文人弥生人は人種や民族が違うとする二重構造論が社会でまかり通っているのは不思議である。

 その原因は、文明は渡来人がもたらし、弥生時代をつくったという「誤った常識」が、進歩的文化人という人たちの頭の奥底に、こびりついているせいである。それは言葉を変えれば、中華文明絶対主義というイデオロギーにどっぷりと浸かっているからということにほかならない。

 

 イ 銅鐸と銅矛は同じ文化圏

 

 古代遺跡からの出土品の分布でも、思考停止の時代が長く続いた例がある。その典型が、九州は銅剣銅矛文化圏、近畿は銅鐸文化圏で、銅剣銅矛文化勢力が銅鐸文化勢力を滅ぼしたというものだ。遺跡が発掘されるにつれ、この学説は過去の遺物となったが、いまだに銅剣銅矛文化と銅鐸文化の対立を信じている人がいるといけないので、科学的に明確にしておこう。

 ここにも文化圏の対立という、弁証法的二重構造論が存在している。思考停止すると、物事を深く洞察できなくなり、対立という単純な発想しかできなくなるいい例である。

 九州を銅剣銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼んだのは、昭和前半に活躍した哲学者の和辻哲郎だった。それ以来、弥生時代は二つの文化圏が対立し、銅剣銅矛文化圏の九州勢が銅鐸文化圏の近畿勢を武力でもって征服、皆殺しにして、銅鐸文化を滅ぼしたといわれ続けてきた。

 その最大の原因は、九州では銅鐸が発見されず、近畿の銅鐸が人目を避けるように、すべて土中に埋められていたためである。つまり、征服された銅鐸文化圏の人々が、祭祀に使う銅鐸を征服者の目から隠したというのである。

 古事記日本書紀に一言も銅鐸について触れられていないことも、大和朝廷とは相容れない祭祀器具だと断定する材料になった。

 このため、九州北部にいた銅剣銅矛文化の天皇家水稲を携えて東征し、自分たちとは違った銅鐸文化を武力で制圧、滅ぼし尽くしたとする論調が、古代史の世界で主流になった。

 もっともらしい論理だが、思考停止した頭に、天皇は武力による征服者というステレオタイプの「誤った常識」が刷り込まれていることを忘れてはならない。

 二つの文化圏を対立させるのはわかりやすい構図だが、致命傷は、その当時に発掘されている遺跡だけで、帰納法的に古代の歴史を類推したことである。発見されている遺物だけを元に、古代の政治状況をもっともらしく語るのは危険で、厳に戒めなければならない。

 発見されていない遺跡はないのではなく、われわれの眼にはまだ触れていないだけなのかもしれないと考えるのが、良識ある態度である。それなのに、発見されていない遺跡は存在しないと断定し、自分の主張に都合のいいように利用するのは思考停止しているが故である。

 そもそも遺跡は、人が多く住んでいて、さまざまな開発がなされる場所から発見されていく。いわば人口密集地が遺跡発見の先進地区なのである。和辻哲郎が生きた明治から昭和半ばの日本列島の先進地区は、九州ではなく近畿であることは紛れもない。遺跡発見は、当然ながら近畿が先行する。そして、近畿で発見された遺物がほかの地域で見つからないからといって、存在しないと断言するのは、いつほかでも発見されるかもしれないのだから、本来なら勇気がいる行為である。なぜなら、それまで組み立てた論理は、他地区での発見で、根底から崩れ去ってしまうからである。

 銅剣銅矛文化と銅鐸文化の二つの青銅器文化の対立という思考停止による「誤った常識」は、昭和五十四年に佐賀県鳥栖(とりす)市安(やす)永田(ながた)遺跡の発見で強烈な衝撃を受けた。

銅鐸の鋳型が発見されたのである。

さらに青銅器の原料を溶かしたらしい炉の跡や、弥生時代中期から後半の住居跡も発見された。安永田遺跡から発見されたのは銅鐸鋳型五点、銅矛鋳型五点で、一括して国の重要文化財に指定されている。

そして、有名な佐賀県吉野ヶ里遺跡から、ついに平成十年、銅鐸そのものが発見された。九州に銅鐸はないとする「誤った常識」は、これで完全に否定された。

吉野ヶ里遺跡発見に先立つ昭和六十年、島根県出雲市にある荒神谷遺跡から、六口の銅鐸と十六本の銅矛が発見された。それも、仲良く並べて埋設されていた。

対立する文化なら、並べて埋めることはないはずである。この段階で、銅矛と銅鐸は対立するといった「誤った常識」は否定された。にもかかわらず、その後も銅矛と銅鐸の対立という二重構造論が生き延びていたが、福岡県や佐賀県で多数の銅鐸が発見され、もはや過去の遺物となった。今では九州で銅鐸が発見されても、話題にさえならなくなっている。

二重構造論を喧伝していた学者諸氏は現在、どうしているのだろうか?

では、銅鐸、銅矛とは何なのだろうか。特に銅鐸は謎が深い祭祀器具である。

だが、実は古語(こご)拾遺(しゅうい)に鉄鐸という言葉がでてくる。古語拾遺は神代の神話に登場する太玉(ふとだまの)命の後裔とされる斎部広成(いんべひろなり)が大同二年(八〇七年)に、古事記日本書紀に漏れているとする伝承をまとめて平城天皇に献上したものである。

 神話には、天照大御神須佐之男命の狼藉で天岩窟に籠った際、天鈿女(あめのうづめ)命が踊って大神を岩窟から連れ出す場面がある。このとき、天鈿女命が持っていたのが、「鐸着けたる矛」だった。そして鐸は天目一箇(あめのまひとつ)神が「鉄の鐸」を作ったとある。

 鉄は「くろがね」、鐸は「さなき」と読む。「さなき」は「さ鳴く」で、鳴り響く大鈴のことである。

 古語拾遺が記録しているのは銅鐸でなく鉄鐸だが、ここに銅鐸の謎を解く鍵がある。

まず、天岩窟神話で鉄鐸は矛に着けられていた。銅矛には穴があり、物を掛ける道具だったと推測できる。これから類推すると、銅鐸は銅矛に着けられていたと考えられる。

 東洋大学教授で神道学者だった田中治吾平(故人、行の実践者でもあった)は、榊に鏡や玉を掛けたように、矛に鐸を掛け、神々を招く祭祀を行ったと、「天照大御神の研究」(霞ヶ関書房)で指摘している。さらに、航海などでは榊を矛に代えて、鏡や玉を着けたと考えている。

 天岩窟神話で天鈿女命は伏せた「誓槽(うけふね)」に立ち、大鈴を打ち鳴らしながら、矛で槽を叩いて踊ったというのだから、さぞかしにぎやかだっただろう。天岩窟に籠っていた天照大御神が外を覗きたくなるのもうなずける。

 銅鐸が榊の代わりの銅矛に着けられて祭祀に使用されたと考えて間違いなさそうだが、ではどういう祭祀かというと、記紀にも明確には記されていない。。

 皇學館大学名誉教授の真弓常忠氏は、銅鐸は葦の根に凝固した褐鉄鉱を象徴し、褐鉄鉱が多く生成することを祈る儀式に使われたと推測している。

 どういうことかといえば、火山国の日本では、河川や湖沼に鉄分が多く含まれている。そして日本は、「豊葦原の瑞穂の国」というように葦が多い国である。水に含有されている鉄分が、バクテリアによって葦の根に吸着され、かなりの大きさになる。これが褐鉄鉱で、製鉄に利用された。古代は褐鉄鉱を利用した製鉄が大々的に行われていたのである。

 葦の根に吸着した褐鉄鉱を「スズ」といい、中が空洞で、内側に鉄片が剥がれ落ちたものを振れば音が鳴る。これを「鳴る石」とか「鈴石」と呼び、鐸や鈴の原型になったとされる。

 真弓氏は「鉄を求めてスズの生成を待ち望んだ弥生時代の民は、鈴や鐸を振り鳴らして仲間の霊を呼び集めるだけではあき足らず、同類を模造して地中に埋祭したのである」(古代の鉄と神々 学生社)とし、さらにスズの生る葦や茅などの植物の「葉の部分を形象化したのが、銅剣・銅鉾・銅戈であった」(神と祭りの世界 朱鷺書房)と述べている。

 それらから推測すると、あるときは銅矛に銅鐸を着け、振り鳴らしながら川や湖沼を巡って「スズ」の霊を呼び、さらに川や湖沼の近くに埋設して「スズ」の生成を祈ったのが銅鐸祭祀だということになる。そして「スズ」が連なってできるのを「鈴なり」と称した。

 なぜ銅鐸が祭祀に使われたかといえば、鉄鐸では酸化して錆び、土に還ってしまうからである。なくなってしまっては、継続して祈る祭祀にはならない。

 時代が下がるにつれ、製鉄技術の発達でより大量に得られる砂鉄を原料にするようになり、褐鉄鉱の役目は終る。そして時の経過とともに、「スズ」の霊を呼んだ銅鐸の存在は忘れ去られ、後世に発掘されても何に使われたのかわからず、論議を呼ぶことになったのではないか。

 神話の世界の鐸は、すでに銅鐸ではなく、古語拾遺にあるように鉄鐸だった。我が国では、青銅器はほとんど実用品として使われず、太古から鉄が使用されてきた。高温で製鉄できるだけの技術と、原料になる褐鉄鉱や砂鉄が豊富だったからである。そして錆びない青銅器は祭祀の道具として利用された。

 通常、金属文化は青銅器から鉄器へと進歩する。しかし我が国の実用品では、青銅器より鉄器が先に発達した可能性がある。そして青銅器は錆びない故に、祭具に特化していったのではないか。「スズ」の成長を祈る銅鐸は、砂鉄の利用で祭具としての役割を終え、人々から忘れ去られていくのは時代の趨勢だったといえよう。

 ところで、鐸は「さなき」のほか「奴弖(ぬて)」とも読む。「ぬて」は呼び鈴である。矛に取り付ける大きなものを「さなき」、部屋にある呼び鈴を「ぬて」という。神社の神前にある大鈴は「さなき」、神楽で使われる鈴は「ぬて」の名残りだと思われる。

 ともに上代から、神々に祈りを奉げる祭具として使われ、現代まで伝わったものにほかならない。

 以上のように、わずかな例を挙げるだけで、古代史がいかに「誤った常識」に振り回されているか明確になった。

 専門家といわれる人たちは、自分の研究分野には詳しいが、視野狭窄になって全体を俯瞰できていない。そのため、専門分野以外の知識を動員して全体像を把握すればわかる間違いを、見つけられなくなっている。

 特に、唯物弁証法に慣れてしまうと、物事を対立的に観ることしかできなくなり、思考停止を起こす。歴史を支配者と被支配者の階級闘争としか考えられなくなり、征服者と被征服者、文明・文化の先進国と後進国などと、ステレオタイプの思考に陥る。

 その結果、常識的に俯瞰すれば、明らかに誤謬とわかる物事を、間違って判断するようになる。国を貶めようと、意図的に間違った方向へ誘導する売国奴的輩(やから)、もいるに違いない。

 歴史や伝統、文化は、弁証法で割り切れるほど単純ではない。しかし、二者択一的な思考方法に慣れてしまうと、弁証法は最高の哲学と思い込むようになる。思考停止の始まりである。

渡来人(弥生人)と原住民(縄文人)、大陸(先進国)と日本(後進国)、銅鐸文化圏と銅鉾文化圏などなど、物事を対立させる主張に出合ったら、著者や論者の思考停止を疑うべきである

常識とされる歴史は、ある意図を持った一方的なプロパガンダの可能性があると、肝に銘じよう。そして熟慮すれば、物事の本質が見えてくるだろう。