巻の二前編 記紀の不思議に迫る 

 古事記日本書紀を、後世の潤色が多く歴史的事件を伝えていないと批判したのは、戦前から戦後にかけて、歴史学会に一大旋風を巻き起こした津田左右吉(そうきち)だった。津田史学は文献批判、史料批判を基に記紀を分析、戦前は皇国史観に反するとして著作が発禁になり、不敬罪で裁判にもかけられた。

 戦後は逆に皇国史観に反対した硬骨の歴史家としてもてはやされたが、実のところ津田の皇室崇敬の念は強く、反共産主義者ということもあって、当時の左翼陣営の皇室批判には同調しなかった。

 戦後の歴史学、特に古代を対象とする歴史学は、史料批判という津田史学を誤った形で受け継ぎ、古事記日本書紀に記された歴史や物語を、天皇を正当化する後世の創作だとして、歴史書として認めようとしなかった。

 現代につながる自虐史観の大本をなす誤謬といっても過言ではないだろう。

 敗戦直後の歴史学界で名を成した学者は、GHQの公職追放の嵐から免(まぬが)れた占領軍の御用学者や、皇国史観からの転向者ばかりだったから、占領政策の先棒を担いで記紀や我が国の伝統を否定するのにやっきとなった。普通の感覚なら、独立回復でGHQへの追従を止めるはずなのに、何を思ったか朝日新聞などの大マスコミが占領政策を引き継ぎ、我が国の歴史と伝統を否定する自己検閲で、歴史解釈を捻じ曲げてしまった。

 浅はかな彼ら大マスコミは、自己検閲を正義だと曲解し、古代史の研究を大きく歪め、思考停止の暗幕を人々の上に張り巡らせたのである。その偏向報道は現在も続いている。

 戦前の皇国史観は教条的すぎて歴史を歪めた。戦後の史料批判による歴史学は、特定のイデオロギーに毒されて記紀を否定し、国民の歴史認識を一段と歪(いびつ)にした。

 しかし、歴史認識に関する中韓のなりふり構わぬヒステリックな外圧が、思考を厚く覆っていた黒雲を吹き散らし、理性の光が射すようになって、国家のあり方を真剣に考える国民が増えている。それに呼応するように、誤った歴史観と決別し、古代史に真剣に取り組む学者諸氏が続出している。

洗脳が解け始めたことで、先入観を持たずに古代の歴史を明らかにできる時期が到来した。歓迎すべきことである。

 

ヒ 天皇長寿の謎

 

 中世まで、日本書紀は朝廷や一部の神道界の重鎮が書写し研究しているだけだった。しかし、江戸時代になって日本書紀全巻が木版印刷されて一般に普及し、歴代天皇の在位期間や宝算(崩御年齢)が異様に長いことに、新井白石本居宣長などの儒学者国学者から疑問が呈された。

 確かに、日本書紀の紀年(神武元年、二年…と数える記述法)、すなわち在位期間は第六代孝安天皇が百二年、第十一代垂仁天皇が九十九年と長く、宝算にいたっては神武天皇百二十七歳、孝安天皇百三十七歳、第七代孝霊天皇百二十八歳、垂仁天皇百四十歳と軒並み百歳を超え、百歳以上の天皇は十一人を数える。疑問を覚えるのは当然である。

 だからといって、天皇の存在そのものを架空の産物と断言することはできない。

 津田左右吉は第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までのいわゆる欠史八代について、元にした資料が異なるのに、古事記日本書紀天皇名が一致している。物語が記載されていないことについては平和だったからで、それが存在を疑う強い根拠とはならないと指摘している。異常な長寿はともかくとして、津田左右吉欠史八代を含め、歴代天皇の存在を疑わなかったのである。

 さて、古代天皇のあり得ない長寿や紀年の長さの解明に、多くの学者が取り組んできた。明治時代に紀年論争に火をつけたのは、東洋史学者の那珂通世で、明治二十一年に「日本上古年代考」を発表、中国の予言説を基にした讖緯(しんい)説によって紀年が延長されていると主張、大論争を巻き起こした。それ以来、紀年の研究がさまざまに行われてきたが、いまだ定説となっているものはない。

 讖緯説については後に詳しく論じるが、ほかの代表的な紀年論に「春秋二倍暦説」と「復元紀年説」がある。いずれも延長された紀年を修正し、実年代を求めようというものである。

 まず春秋二倍暦説だが、日本の上古は春夏と秋冬をそれぞれ一年と数えていたから、一年が倍の二年と計算されており、紀年や宝算を実年に修正するには半分にしなければならないとする説である。

 この説が提唱されたのは、宋の時代に裴松之(はいしょうし)という学者が、卑弥呼で有名な魏志倭人伝に、「魏略」という書物から引用してつけた注釈が根拠になっている。注には「魏略に曰く、其の俗正歳四節を知らず、但し、春耕秋収を計って年紀とする」とあり、倭国は一年を通じる暦がなく、春と秋を年の初めとして歳や紀年を計算しているというのである。

 春秋二倍暦を最初に提唱したのはウィリアム・ブラムセンというデンマーク人の研究者で、明治十三年に「日本年代表」という論文を発表した。ブラムセンの春秋二倍暦説は、魏略によったものではなく、紀年や宝算が異常に長いことに注目して考え出されたものだった。

 日本人では、気候学者の山本武夫が魏略に注目し、昭和五十四年に「日本書紀の新年代解読」(学生社)で春秋二倍暦を発表した。最近では芥川賞作家の山城修三氏が「紀年を解読する」(ミネルヴァ書房)や「日出づる国の古代史」(現代書館)で、建築家の長浜浩明氏が「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)で春秋二倍暦説による紀年解読を行っている。

 独創的な着想だが、弱点は日本書紀の紀年が春夏秋冬を通じて一年として記されていることである。春夏を一年、秋冬を一年とするなら、春夏と秋冬の部分が一年ずつになり、交互に記載されていなければならないのに、日本書紀は例えば崇神七年のように春二月(きさらぎ)、秋八月(はづき)、冬十一月(しもつき)の出来事が同じ年のこととして記載されている。これが明確に説明できないと、春秋二倍暦は支持を得ることがなかなかできないだろう。

 さらに魏略の注は、中国では一年が四節分で区切られているのに対し、倭国はそれを知らず暦が存在しないとし、「春耕秋収を計って年紀とする」とあるから、春耕から秋収、秋収から春耕までを一年と数えているとも読める。春秋二倍暦なら、春耕から秋収、秋収から春耕をそれぞれ一年と数えると指摘しているはずである。やはり、春秋二倍暦説には無理があると言わざるを得ない。

 一方、復元紀年説は、日本書紀には記述のない空白の年があることから、空白年をすべて除外し、記事のある年だけが実際にあった年だとして紀年を作り直すものである。この説は非常に複雑な操作が必要になるし、記録されていないからその年は存在しなかったことにするのは、あまりにも短絡的である。津田左右吉が言うように、物語がないのは平和の証拠だとしたら、空白年を除外するのは無理がある。

 ほかにも、言語学者安本美典氏のように古代天皇の在位期間を平均十年として紀年論を展開する学者がいるが、歴史に統計学を持ち込むのは的外れである。統計学で傾向をつかむには、取り上げるデータの数が大量でなければ、誤った結論を導くのは数学の常識である。しかし、神武天皇から昭和天皇まで百二十四代、すべての天皇在位期間をデータに取っても、統計学の対象になる数とはならない。まして、十代で百年だから一代十年と結論するのは、あまりにも短絡的である。

歴史に統計的手法を持ち込むと、データ不足から結論を誤ることになる。

 

フ 百二十年の謎

 

紀年を考えるにあたり、海外史料と照らし合わせ、歴史的事実と確認できる記事が記載されている雄略天皇紀から考察を始めよう。

 雄略五年六月の条に、百済の武寧(むねい)王になる嶋君(せまきし)が生まれたという記事がある。さらに継体十七年に「百済國王武寧薨」とある。雄略天皇紀は二十三年まであるから五年を引いて十八年、清寧天皇紀五年、顕宗天皇紀三年、仁賢天皇紀十一年、武烈天皇紀八年、継体天皇十七年までを足すと、武寧王は六十二歳で死去したことになる。

 一方、一九七二年に韓国の伝武寧王墓から出土した墓誌に、斯麻(しま)王が癸(みずのと)卯(う)の年に六十二歳で死去したと記録されている。百済本紀は武寧王の諱(いみな)を「斯摩」、日本書紀の武列紀では「斯麻」と記しており、斯麻王と武寧王は同一人物であることがわかる。

 武寧王の在位は五〇一年~五二三年で、五二三年から斯麻王の宝算六十二を引くと誕生年は四六一年となる。

 これで、雄略五年は西暦四六一年と確定することができる。

 歴史学者の倉西裕子氏は、雄略五年を基準年にすると同時に、応神天皇元年をもう一つの基準年に置いている。

 同氏の「日本書紀の真実」(講談社選書メチエ)によると、応神三年条に百済の阿花(阿華)王の即位を伝えており、「百済本紀」は阿華王の即位を三九二年としているから、逆算して得られる応神元年は三九〇年となる。

 さらに、応神八年条の分注に百済の王子(こにし)直支(とき)の来日を伝えており、百済本紀は直支王を人質として三九七年に日本へ送ったと記している。逆算すると応神元年は三九〇年となる。また、応神十六年に百済花王薨去を記しており、百済本紀は阿華王が四〇五年に死去したとしているから、逆算すると応神元年は三九〇年となる。

これらから倉西裕子氏は応神元年を三九〇年とする基準年を設けた。ここで問題になるのが、雄略五年と応神元年に挟まれた紀年と西暦年に整合性があるかどうかである。

 応神元年の三九〇年から雄略五年の四六一年までの期間(三八九~四六一)は七十二年である。しかし、日本書紀にある応神紀四十一年、空位年二年、仁徳紀八十七年、履中(りちゅう)紀六年、反正(はんぜい)紀五年、空位年一年、允恭(いんぎょう)紀四十二年、安康紀三年、雄略紀の五年までを合算すると百九十二年となる。海外史料から計算した応神元年から雄略五年までの七十二年と、実に百二十年の差が出る。

 つまり、応神元年から雄略五年までの間に、日本書紀の紀年は実際の経過年七十二年より百二十年長くなっている。それは、雄略五年以前の記載された歴史が、百二十年過去へ遡っていることを意味する。

 倉西氏は応神元年を基準とする紀年をA列、雄略五年を基準とする紀年をB列と規定し、それぞれの年代列があったと指摘している。

 どういうことかといえば、日本書紀全体の紀年はB列によって記されていて、雄略紀を基に応神紀、崇神紀、神武紀などのように紀年が過去に遡っている。そして、紀年の経過とは無関係に、歴史的事実である応神紀のA列がはめ込まれているというのである。

 歴史書であるからには、年代列は一貫していなければならない。にもかかわらず、応神紀のA列のように異なる年代列が並行して書かれているのはなぜだろうか。

 日本書紀の編纂者はB列で全体を統一しながら、A列を組み入れることによって、年代列が複数あると後世の読者に知らせたかったのではないだろうか。

 B列以外にA列があるとなると、ほかの年代列も存在している可能性が出てくる。極端なことをいえば、歴代天皇ごとに年代列があるかもしれないのである。

 

 ミ 雄略紀を最初に執筆

 

 日本書紀の基準年代列が雄略紀であることは、使用された暦によって、最初に雄略紀が書かれたと推測できることからも裏付けられる。

 雄略紀に使われている暦は、中国の南北朝時代に宋の天文学者の何承天(かしょうてん)が編纂した元嘉暦(げんかれき)が使われている。国会図書館の「日本の暦」によれば、元嘉暦は百済を通じて欽明天皇十五年(五五四年)に日本へ伝えられ、推古十二年(六〇四年)から用いられた。

これに対し、唐の天文学者の李淳風(りじゅんぷう)が編纂した儀鳳(ぎほう)暦は、持統天皇六年(六九二年)に元嘉暦と併用され、文武天皇元年(六九七年)から単独使用されている。

 先に元嘉暦が伝わり、後から儀鳳暦が伝来したのだが、雄略紀は古い元嘉暦で記録され、それ以前の巻一~十三は儀鳳暦が使われている。つまり、日本書紀の編纂は天武朝から始まったから、その当時に使用されていた古い元嘉暦を用い、雄略紀から書き始めたことになる。

 そして、巻一~十三は新しい儀鳳暦が使われているから、文武朝以降に執筆されたことになる。

 また、上代特殊仮名の遣い方の分布から、雄略紀以降とそれ以前の巻では、大きな違いがあることが判明した。

 上代特殊仮名遣は、奈良時代以前の上代には、八母音で八十七音節(八十八音節説もある)あったという学説である。国語学者橋本進吉日本書紀万葉集の万葉仮名(漢字の意味に関係なく音で日本語の一字を表した)を分析し、昭和六年に上代特殊仮名遣として提唱した。

 橋本説を受け継いだのが弟子の大野晋(すすむ)氏で、上代の母音を八母音だとし、母音イエオについて甲i・e・oと乙i・e・oと表音記号の書き分けを行った。この六母音にアとウを加えて八母音となる。

 八母音八十七(八十八)音節によると、上代にはイ・エ・オの母音に二種類あって、イ列の「キ・ヒ・ミ」、エ列の「ケ・ヘ・メ」、オ列の「コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ」の十三音について、万葉仮名は甲類と乙類を書き分けており、甲乙の二つは厳密に区別されているという。

 どう区別されていたかといえば、「キ」を表す万葉仮名は支・嗜・吉・棄、喜などが甲類で、「聞く」や「君」、「秋」などを表すときに使う。これに対し、己・紀・寄・気・既などの乙類は、「木」や「霧」、「月」などを表す。

 甲乙の区別は音韻の区別によるもので、平安時代になって甲乙の区別が薄れ、現代の五十音になったというのが、橋本進吉上代特殊仮名遣説である。

 同氏以前にも本居宣長が、同じ音でも言葉に応じて当てる仮字が使い分けられていると指摘し、弟子の石塚龍麿が具体的な使い分けを分類した。この二人の研究を橋本進吉が論文で紹介し、上代特殊仮名遣は言語学界を風靡して定説となり、古典解釈や古語辞典の編集などに大きな影響を与えた。

 言語学者の森博達(ひろみち)氏は、日本書紀上代特殊仮名遣が、正確に遣われている巻と、遣い方を間違え、不自然に使用している巻があることを発見した。そして、遣い方が正しい巻をα群、誤って遣っている巻をβ群と分類し、帰化一世の中国唐人と日本人が分担して日本書紀を執筆したと、新たな視点から分析した。

 その結果、α群が巻十四~二十一、二十四~二十九、β群が巻一~十三、二十二~二十三、二十八~二十九と明確に分けられた。

 間違いのないα群の上代特殊仮名遣は、森氏によると「単一の字音体系(唐代北方音)に基づき、原音(漢字の中国音)によって表記」(日本書紀成立の真実 中央公論社)されていた。つまりα群は、中国語(当時)の正音で書かれており、執筆したのは中国人だというのだ。

 これに対しβ群は「複数の字音体系に基づく仮名が混在し倭音(漢字の日本音)によって表記」(同)されているから、執筆したのは中国原音に精通していない日本人だというのである。

 日本書紀は漢文、すなわち中国語で書かれた歴史書である。協力した唐人の執筆した巻が原音を正確に表記しているのは当然だが、日本人執筆者が書いた部分に間違いが多いのは、彼らが甲音乙音を聞き分けられなかったことを意味する。日本人執筆者は唐人に倣って書き分けたが、甲音と乙音を正しく区別できなかったから、正確に表記できなかったのである。ということは、日本人にとって甲音乙音はなかったことになる。

 森氏は上代特殊仮名遣について六母音説を提唱しており、後に述べる五母音説を主張する学説とも相まって、八母音八十七(八十八)音節説が絶対的な学説ではなくなってきたのは明らかである。

 ところで、森氏によれば、巻十四の雄略天皇紀は唐人が担当したことになるが、それを証明するような記載が日本書紀にある。雄略紀の初めの部分で、天皇が皇后に呼びかけた「吾(わぎ)妹(もこ)」という言葉に、「妻を称(い)いて妹(いも)とすることは、蓋(けだ)し古(いにしへ)の俗(ひとこと)か」と小文字の分注が付いている。

 当時の日本人にとって、妻を妹と呼ぶのは常識だったが、わざわざ注釈したのは、執筆者が奇異に感じたからにほかならない。だが、β群では「妹」の文字が妻の意味で使われていても、分注は付いていない。

 日本人には常識の「妹」という言葉が、雄略紀で注釈されているのは、執筆者が日本人ではなく唐人、それも日本の習俗について詳しくない帰化一世の唐人だったからと推察できる。さらに注釈は最初に現れた文字や単語につけるから、雄略紀に注釈があることは、この巻から執筆が始まったことを意味する。

 歴史書を編纂する場合、古い時代から書き起こすのが普通だと思われるが、なぜ雄略紀から書き始められたのだろうか。それは日本書紀が神代の神話から始まっていることや、古い時代の帝紀や旧事を歴史的事実として選録しようとしても、あまり伝承が残っていないため容易でなく、史料が多く疑いのない部分から書き始めたからだと推察される。

 すなわち雄略紀は、海外史料と照らし合わせて、伝わっている記録が歴史的事実だと認められると、当時の編纂者は考えたのであろう。そのため、雄略紀から以後をまず歴史として選録し、それ以前を遡って記す手法を取ったのではないか。それを裏付けるように、雄略天皇紀の前の安康天皇紀は元嘉暦で、安康天皇前紀は儀鳳暦で記されている。

これらを総合すると、唐人が雄略紀から元嘉暦で書き始め、日本人執筆者がしばらくして時代を遡って安康天皇紀に取り掛かり、その最中に儀鳳暦が施行されたので、安康天皇前紀から前の時代は新しい暦が使われたと推測される。