巻の三前編 実在した神武天皇と神功皇后

 

ヒ 神武東征は歴史的事実

 日本書紀に記載されていることは、朝廷の権威を高めるための創作で虚構である。百歳を超える長命の天皇が何人もいるのは、朝廷の歴史を長くみせるためのでっち上げで、欠史八代天皇は存在せず、神武天皇神功皇后は架空の人物である。

 こうした、日本の歴史を陥れる、批判というより悪意ある中傷が、いまだに大手を振って世間を闊歩している。われわれの先祖は嘘を承知で、歴史書だと偽って日本書紀を創ったと、これらの批判者は心底から信じているのだろうか。

 朝廷の歴史を長く見せかけるなら、天皇の宝算を百歳超にするより、常識的な寿命の天皇の数を増やすほうが、はるかに信憑性が高まる。名前などいくらでも創作できるのだから、異常な長命にして疑いを招く愚を冒す必要はない。

 それとも批判者たちは、そんな単純なことにも気がつかないほど、日本書紀の選録者たちが無能だったと、考えているのだろうか。もしそうなら、彼らも無能な祖先の血を受け継ぎ、無能ゆえの批判をしていることになるのだが……。

 思考が停止すると、子供でもわかる論理が理解できなくなるのは、これらの例からでも明らかである。

 神武天皇は実在したのか。神武東征はあったのか。神功皇后は創作された人物なのか。

 特定のイデオロギーの持ち主たちは、記紀に記載されているこうした物語のすべてを虚構だと否定するが、先入観に毒されていると、事実を発見しても事実だと判断できなくなることを忘れてはならない。

 延長された紀年に惑わされず、特定の先入観を持たずに記紀を分析すれば、古代の真実は明確に見えてくる。

 なぜなら、皇紀や紀年と海外史料との比較だけでは明確にならなかった歴史的事実が、西暦(キリスト紀元)という第三者的な暦の普及で、客観的に判断することができるようになったからである。

 江戸時代はもちろん、明治、大正、敗戦前の昭和時代を通じて、一部の学者を除き西暦はほとんど使われてこなかった。敗戦によってGHQに西暦を押し付けられたが、それが第三の物差となって、歴史に新しい光を射し込んだのは不幸中の幸いといえよう。

 戦後に記紀批判が一斉に吹き荒れたのは、日本弱体化を狙ったGHQの占領政策によるものだが、西暦によって皇紀と海外史料との年代比較ができるようになったことは皮肉なものである。

 そして、敗戦直後から最近まで、西暦による皇紀と海外史料の分析は、自虐史観が底流にあったため、日本を貶める方向に走るばかりだった。

 だが、思考停止が弱まるにつれ、歴史的事実を客観的に捉えることができるようになってきた。那珂通世や津田左右吉史料批判も、思考停止が解けた目で見れば、また違ったものになる。

 六百年の紀年延長がなされていることで、神武元年は紀元前六〇年前後と推測できた。では、神武東征はあったのだろうか。

 東征したのは邪馬台国だとか、いやその前身国だとか、これもさまざまな議論がなされている。金印が見つかった倭の奴国や吉備国などというのならともかく、朝鮮半島や中国大陸から侵攻してきた外来民族などという、根拠のない奇想天外なものまである。これではあまりにもトンデモ説である。

 外来民族が大和を制圧したのなら、外来語も大和を制圧していなければならない。大陸や半島の言葉と、大和の言葉が同じであるべきだが、まったく共通点はない。これだけでも、外来民族の東征論が架空の産物であることがわかる。

 さて、神武東征を考えるにあたり、神武勢が難波から川を遡り、長髄彦(ながすねびこ)と遭遇するまでの日本書紀の記述をまず参照しよう。

 

 難波碕(なにわのみさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会(あ)ひぬ。名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。亦(また)浪花(なみはな)と曰(い)ふ。今、難波(なには)と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。遡流而(かはよりさか)上(のぼ)りて、径(ただ)に河内国(かふちのくに)の香草邑(くさかのむら)の青雲(あをくも)の白肩之津(しらかたのつ)に至ります。

 

 難波の碕に到着するとき、速い潮流があって、大変速く着いた。名づけて浪速国とした。今、難波(なにわ)というのは訛ったためである。川を遡って、河内国の香草村(日下村)の青雲の白肩之津に着いた、というのである。

 ここで注意しなければならないのは、「潮流」と「川を遡る」という二点である。潮流は海で起こるもので、川を遡るのは文字通り川の流れに逆らって上るのである。

 現在、難波は大阪市の内陸部にあり、日本書紀が選録された天武天皇時代も陸地だった。そこへ潮流に乗って速く着いたというのは海だったことを示しているが、当時の人はとても想像することはできなかっただろう。それでも潮流のことを記したのは、日本書紀の選録者が史料や伝承に忠実に従ったからにほかならない。

 選録者たちは生きている時代と地形が違うからといって、もっともらしく書き直すことはしなかったのである。

 では、神武天皇の東征時、大阪の内陸部は本当に海だったのだろうか。ここでは、神武天皇が橿原で即位した年代を、先に試算した紀元前六〇年前後として検討する。

 国土交通省の大阪湾環境データベースをみてみよう。

 

古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣が異なる地形だった。

この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。

 

 大阪湾環境データベースによると、今から七千~六千年前、大阪平野の奥、生駒山の麓まで、河内湾が広がっていたというのである。そして、河川が土砂を運び堆積させる沖積作用によって、三千~二千年前には河内潟ができ、千八百~千六百年前には潟の淡水化が進み、上町台地砂州が北へ伸びて潟を閉じ河内湖となった。

 仁徳天皇が行った堀江の開削は、潟が湖となって頻発する洪水を防止するためだった。そして、湖は埋め立てられていき、現在の大阪平野となったのが、大阪湾と大阪平野の歴史である。

 日本書紀の選録が始まった天武天皇時代はすでに平野になっていた。当時の人々は、そこが潟や湾だったことを、言い伝えで知っていたかもしれないが、実感はなかっただろう。ましてや、湾口に速い潮流があったことなど、思いも寄らなかったに違いない。

 さて、神武天皇の軍船は、潮流によって難波まで大変に速く着いた。湾口部は潮の満ち干によって速い潮流ができる。軍船は満潮に乗って思いがけない速さで難波に着いたのである。

 大阪湾の時代、海は生駒山の麓まで続いていたから、現在の日下まで海上を船で行けた。日本書紀にあるように、川を遡る必要はなかった。したがって、神武東征は河内湾の時代ではないことになる。

 一方、河内湖の時代になると、上町台地が北へ一段と伸び、大阪湾と河内湖を隔てているので、船で乗り入れることはできなくなっていた。

 神武東征の描写を信じるなら、それは河内潟の時代となり、三千~二千年前の出来事となる。

 大阪湾環境データベースは市原実氏と梶山彦太郎氏の論文によっており、二千年前というのは炭素14年代測定法の基準年となる一九五〇年からのことで、河内潟の時代は西暦紀元前一〇五〇年~同五〇年となる。したがって、神武東征は河内潟がある時代、誤差があるとしても、紀元前五〇年前後までには行われていることになる。

 速い潮流があったとか、川を遡ったという描写は、実際に経験した者でなければ記せない。河内湾が平野になった時代に、想像で描くことはまず無理である。これからだけでも、神武東征軍が難波から川を遡り、日下へ向けて進んだことが、実際の経験の伝承として残っていたことを物語っている。

 東征が行われたのが河内潟の時代だったことを念頭に、九州のどの勢力が進出したのかを考えよう。まず金印が与えられたといわれる奴国だが、後漢光武帝建武中元二年、西暦五七年に金印を下賜したとあり、奴国が東征するのには河内潟の時代より百年ばかり遅いことになる。もっとも、もっと古い時代に奴国が存在したとすれば、河内潟の時代に合致することはできる。

 邪馬台国はどうかといえば、魏志倭人伝にあるように、存在したのは三世紀初めから半ばにかけてだから、すでに河内湖が出来上がっており、河内潟の時代とは年代がまったく合わない。前邪馬台国とでもいうものが紀元前に存在していたと仮定すればあり得るが、「もともと百余国」(魏志倭人伝)に分かれていた倭国が、東征するほどの力を保有していたと考えるのは無理である。

 外来民族が東征した可能性はあるのだろうか。弥生文化をもたらしたのは彼らだという「定説」に従えば、弥生時代は紀元前三〇〇年頃からだから、年代的には河内潟の時代となる。しかし、前にも詳述したように、渡来人が弥生文化を日本に持ち込んだのではないから、これも的外れである。

 河内潟の時代に東征できた勢力は、日本書紀が明確に名前を記している神日本磐余彦天皇、実名は彦火火出見(ひこほほでみ)であった。日本書紀の一書では幼名を狭野(さの)尊とし、東征後に神日本磐余彦彦火火出見尊と名を加えたとある。

 古事記は神倭伊波禮毘古命の別名を若御毛沼(わかみけぬ)命、豊御毛沼命と記しており、幼名若御毛沼命が東征して大和を平定し、その土地の地名にちなんで日本書紀古事記ともイワレと名前に付けたのである。

 古代は言霊信仰で実名を呼ばれると支配されると考えられており、公にすることはなかった。だから、地名に美称や尊称を付けて名前とした。その典型的な名前の「カムヤマトイワレビコ」が資料の異なる記紀で一致しているのだから、実在したと考えていいだろう。

 古事記も神武東征を迫力ある筆致で描写しており、日本書紀古事記がそろって描く東征伝承を、虚構とすべきではない。

 ところで、神武東征を史実と考える物的な証拠として、滝川政次郎は「神武天皇紀元論」 (立花書房)で次のように述べている。

 

 神武天皇磯城の兄磯城、弟磯城、添の居勢祝、猪祝、宇陀の兄猪、弟猪、生駒の長髄彦等の大和の土豪等と戦つたいはゆる「聖蹟」が、例外なく昔あつた大和盆地湖の沿岸にあることである。大和平野を中心に五〇米等高線をつなげば、一世紀頃の盆地湖の形は略想見せられるが、「聖蹟」はすべて五〇米等高線の外にあり、且つその附近には必ず弥生式遺跡があつて、その地が古くから聚落のあつた場所であることが知られる。神武天皇紀が、津田史学の徒がいふ如く、飛鳥時代に作られたものであるとするならば、「聖蹟」の中に一つや二つは、飛鳥時代には既に陸地となってゐた大和平野中央部の地名が交じつてゐなければならない。従って、「聖蹟」が例外なく山添ひの高みにあることは、神武天皇紀の伝へが非常に古いものの証拠である。

 

 大和平野中央部には神武天皇が戦った「聖蹟」がなく、五〇メートル等高線の外、つまりすべてが上にあるということは、東征は盆地湖の水位がもっと高かった時代となる。

 それがどの時代だったかといえば、「大和に於ける、縄文式土器の分布を見ると、こゝに最も注意しなければならないことは、その出土地はいづれも標高七〇米線の上、叉はそれよりも高い山岳丘陵上であって、七〇米線以下の低湿平原からは発見されないことである」(神武天皇紀元論 樋口清之)から、縄文土器から五〇米線の弥生土器へと移り変わる寸前だったと考えられる。

 そして、「大和地方前期縄文式土器の分布が、吉野川渓谷から、宇陀に出、宇陀から三輪に止まってゐる点は、あたかも神武天皇入国説話と偶然にも一致してゐる」(同)ことから、神武東征の道筋は、日本書紀の選録者が勝手に創作したのではなく、伝承に基づいて記録したことがわかる。

 このように神武東征は、考古学や地理学の事実と一致し、架空の物語でないことは明らかである。日向から海沿いに北上し、大分県の宇佐から福岡県遠賀川河口付近の岡水宮へ着き、そこから東へ向けて出発し広島県の安芸、さらに岡山県の吉備などで勢力を蓄え、海路はるばる難波に着き、地元豪族の抵抗を退けて橿原で建国したのは、間違いのない事実と考えなくてはならない。

 これだけの証拠がありながら、神武東征は架空の出来事で、神武天皇は存在しなかったと、神話を全面否定する人々がいる。

 神武天皇が実在し、東征が事実であっては都合の悪いことがあるのだろうか。

 多くの否定論者は、実在した天皇崇神天皇からで、開化天皇以前は朝廷の歴史を長く見せるための創作だと主張する。

 だが、考えてもらいたい。記紀が成立した当時、大和朝廷の力は他の豪族に比べ歴然とした差があり、わざわざ創作してまで天皇の歴史を長くする必要はなかった。

 百歩譲って創作だとしよう。天皇の歴史を長くするためなら、神武天皇の前には邇邇藝尊、彦火火出見(ほほでみ)尊、鵜草葺不合尊が存在するから、三柱を神話の神々とはしないで歴史上の人物とすればよかった。

 神武東征否定論者たちが主張しているのは、否定するための否定でしかないことは明らかである。

 

フ 神功皇后と倭女王

 

 神武天皇と同様に伝説上の人物とされているのが神功皇后である。

 日本書紀巻九は神功皇后が摂政を務めたのは六十九年と記載している。時代が下れば何人もの女性天皇が誕生し、神功皇后は十分にその資格を持っていたのに、摂政にとどまったのはなぜかというのが疑問の一つである。

 もう一つの興味深い疑問は、古代の祭殿遺跡が発見されるたびに、邪馬台国の跡ではないかと騒がれ、大きな話題となる倭の女王卑弥呼と、神功皇后が同一人物なのかどうかである。

 日本書紀の執筆者が、海外史料を読み込んでいたのは明らかで、神功摂政紀には魏志倭人伝や「晋(しん)書」の「起居注」(中国皇帝の起居・動作を日記風に記録したもの)、百済本紀などからたびたび引用されている。

 その中で、倭女王についての引用を次に箇条書きに記す。いずれも小文字で分注と考えられるが、表示年は普通文字で正文がないため、本来はあった正文が欠如したのか、あるいは正文が小文字で写され分注となったのかは判然としない。ここでは、現代に伝わる日本書紀の表記に基づいて分注として扱う。

 

神功摂政三十九年。魏志に云(い)はく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の三年の六月、倭(わ)の女王(ぢょおう)、大夫(たいふ)難斗米等(ら)を遣(つかは)して、郡(こほり)に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献(てうけん)す。太守(たいしゅ)鄧夏、吏(り)を遣わして将(ゐ)て送りて、京都(けいと)に詣(いた)らしむ。

四十年。魏志に云はく、正始(せいし)の元年に建(けん)忠(ちう)校(かう)尉(ゐ)梯(てい)携(けい)等(ら)を遣(つかは)して、詔書(しょうしょ)印綬(いんじゅ)を奉(たてまつ)りて、倭(わの)国(くに)に詣(いた)らしむ。

四十三年。魏志に云はく、正始(せいし)の四年、倭王、復(また)使(つかひ)大夫(たいふ)伊声者掖耶約等(ら)八人を遣(つかは)して上献(しょうけん)す。

六十六年。是年(ことし)、晋(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年なり。晋の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳(おさ)を重(かさ)ねて貢献(こうけん)せしむといふ。

 

 神功摂政三十九年は景初三年で西暦二三九年、四十年は正始元年で二四〇年、四十三年は正始四年で二四三年、六十六年は泰初二年で二六六年、計算すると神功摂政元年は二〇一年、末年の六十九年は二六九年となる。

 神功摂政紀には、海外史料と照らし合わせられる記述がほかにもある。

 

神功摂政五十五年。百済の肖古王(せいこわう)薨(みう)せぬ 

五十六年。百済の王子貴須(せしむくゐす)、立ちて王(こきし)と為(な)る。

六十四年。百済国の貴須王薨(みまか)りぬ。王子枕流王(とむるおう)、立ちて王と為る。

六十五年。百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(あか)王年少(としわか)し。叔父(おとおぢ)辰斯(しんし)、奪(うば)ひて立ちて王と為る。

 

 百済本紀によれば、近肖古王(肖古王)の在位は三四六~三七五年で、崩年は三七五年。近仇首王(貴須王)の在位は三七五~三八四年で、即位年は三七五年。日本書紀は貴須王の即位年を肖古王の崩年の翌年にしているが、前王の崩年を即位年とする当年称元法を採用したか、翌年を即位年とする越年称元法を採用したかの違いによるものだろう。

 貴須王の崩年と枕流王の即位年は三八四年で、神功摂政六十四年。枕流王の崩年は翌年の三八五年で、神功摂政六十五年となる。

これらから、神功摂政元年は三二一年、末年は三八九年と計算できる。

つまり、神功摂政元年は西暦二〇一年と三二一年、末年は二六九年と三八九年の二通りがあることになる。神功元年と末年のそれぞれの年を比較すると、元年は三二一年引く二〇一年で百二十年、末年は三八九年引く二六九年で百二十年の差がある。神功摂政元年を二〇一年とし、末年を三八九年とすると差は百八十九年。神功摂政は六十九年だから、百二十年分が加えられていることになる。

 一方、雄略五年と応神元年の間の実年は七十二年だったが、紀年は百九十二年経っており、百二十年分が短くなっている。逆に神功摂政紀は百二十年延長されており、短くなった百二十年が相殺されている。

 神功摂政紀で紀年延長がなされているとは本居宣長が指摘したことだが、倉西氏は百二十年の紀年が増減され相殺されていることを発見した。

 さて、神功皇后卑弥呼が同一人物であるかどうかを検討しよう。神功摂政末年を応神元年の前年の三八九年とすると、卑弥呼とは時代が異なるから、明らかに別人となる。

 では、神功摂政元年を二〇一年、末年を二六九年とした場合、年代的には合致するが、同一人物といえるかどうかである。

 卑弥呼が初めて登場する魏志倭人伝を参照しよう。

 魏志倭人伝によると、以前から邪馬台国の南にある狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と不和だった卑弥呼は、正始八年に戦争となり、魏から黄幢(こうどう)(黄色の旗)と檄文がもたらされた。戦争が原因かどうかはわからないが「卑弥呼以死、大作冡」とあり、卑弥呼は亡くなり、大きな墓を作ったことになっている。その後、男王が即位したが国はまとまらず、卑弥呼の宗女の壱与(豊与)が十三歳で女王になった。

 卑弥呼の死が正始八年だとすれば、二四七年のことである。となると、神功摂政六十六年、泰初二年の二六六年に遣いを晋に送った倭女王は壱与となる。神功摂政は六十九年、二六九年まであるから、卑弥呼が死に壱与が女王になったとき、神功皇后は生存していたことになる。

 神功皇后卑弥呼と壱与の二人になることは不可能だから、倭女王は神功皇后とは別人という結論が導きだせる。

 もっとも、日本書紀には倭女王とあるだけで名前が記されていないから、編纂者が誤解して神功皇后に比定したとか、卑弥呼と壱与の二人と知っていながら、倭女王であるなら朝廷に存在する人物でなければならないと、あえて神功皇后に比定したなどの反論がでてこよう。

 しかし、日本書紀の編纂者は中国の文献に精通していたはずだから誤解することはあり得ないし、神功皇后に比定するなら、日本書紀の書き方から推測して、皇后が遣いを送ったという主体的な書き方になるはずである。

 倭女王に関する条はいずれも海外文献からの引用である。ほかの海外文献の引用はすべて分注扱いだから、年が正文(普通の文字の大きさ)で書かれていても、分注にほかならない。中国の文献に倭女王についての記事があるから、とりあえず引用しておこうという、伝聞扱いの編纂をしている。

 後世に倭女王と神功皇后を混同する研究者が現れたのは、中国と外交交渉を持ったのは大和朝廷という思い込みがあり、さらに「女王」とあるから朝廷の王という先入観が、卑弥呼神功皇后に比定することになったのであろう。

 神功皇后卑弥呼を混同する原因になったのは、応神元年と雄略五年の間の紀年が、実年より百二十年延長されているため、その分を遡らせた結果、神功摂政元年が二〇一年になった。そして卑弥呼の記事が魏志倭人伝に載っていたので、分注として引用したところ、後世に混同したというのが本当のところだろう。

 魏志倭人伝にある西暦二三九~二六六年の卑弥呼の時代が、B列による日本書紀の年代列でほかの天皇の御世となっていたら、そこに倭女王の記事が記載されたに違いない。神功皇后卑弥呼の混同は、百二十年という期間が過去へ遡ったため偶然に起きたいたずらである。

 神功皇后卑弥呼はまったく異なる人物にほかならない。

 さて、神功皇后摂政紀が六十九年と六十年を超え、薨去年齢は百歳となっており、紀年延長がなされていると考え一元六十年をそれぞれから引くと、摂政期間は九年、薨去年齢四十歳となる。

 日本書紀仲哀天皇在位を九年としているが、那珂説によると成務天皇崩御年は三五五年、仲哀天皇崩御は三六二年だから、仲哀天皇の在位は七年となる。

 仲哀天皇崩御年から神功末年の三八九年まで二十七年で、これが六十九年とされている神功皇后の摂政期間に相当する。

 神功皇后が三八九年に四十歳で薨去したとすると誕生は三四九年、仲哀末年の三六二年には十三歳、十分に出産できる年齢である。

 応神天皇の宝算は百十歳だから、一元六十年が加算されているとして、宝算を五十歳とする。宝算から日本書紀の在位期間四十一年を引くと九年で、一元を引いた神功摂政期間の九年と一致する。この場合、応神天皇が九歳で即位するまで、天皇不在のまま神功皇后が摂政を務め、その後は応神天皇を補佐したことになる。応神天皇が三七一年に九歳で即位したとすると、神功皇后薨去年三八九年には二十七歳、それまでの在位期間は十八年となる。

 これらから推測すると、仲哀天皇崩御直後は神功皇后が摂政を務め、新羅制圧による朝鮮半島情勢の収拾や、異母兄らの謀反制圧を終えると応神天皇が即位し、神功皇后が末年まで補佐したと考えられる。

 古事記日本書紀と違って神功摂政紀を立てていないのは、摂政期間が仲哀天皇応神天皇の治世に含まれていると考えたからだろう。それに対し日本書紀は、神功皇后が神憑り能力に優れていたから、祭祀を司るのは天皇に準じると考えて神功摂政紀を立てたのではないか。そして、ほかの天皇崩御と即位に倣い、神功皇后薨去した三八九年の翌年三九〇年を応神元年としたのではないか。

 一方、那珂説の応神末年三九四年にも問題がある。応神元年を三九〇年、崩御年を三九四年とすると、在位は五年となる。だが、日本書紀は応神八年に百済の王子直支の来日を、十六年には百済の阿花王の死去をそれぞれ伝えている。百済本紀によれば、直支王子が人質として訪日した年を三九七年、阿華王の崩年を四〇五年としている。いずれも応神元年が三九〇年となる根拠の出来事でもあり、百済本紀の記載を優先すれば、応神朝は少なくとも十六年まで続いたことになる。

 雄略五年から応神元年、神功摂政紀にかけて、実に複雑な操作が行われており、どれが正しいと後世の人間が結論することは不可能である。この期間は、断片的に残されたさまざまな史料と、讖緯説とを整合させる最も難しい場面だったのではないか。いうなれば、史料に基づいた歴史と、讖緯説により創作した神武紀元をどう融合するか、選録者たちを苦しめた期間だったと考えられる。

 さて、神功摂政紀は半島情勢の緊迫化を受けて、百済新羅にからむ記事が多く記載されている。神功摂政四十六年に百済の肖古王が日本と交流を望んだという記事があり、翌年の四十七年には百済王が久氐(くてい)ら三人の使者を送って朝貢した。この時、新羅の使いが一緒に来て、百済の貢物を奪い、新羅の貢と偽ったことが判明したことから、四十九年(西暦三六九年)に新羅を征伐した。

 この戦勝に感謝した百済が、日本へ使者を送った記事が次である。

 

五十二年の秋九月(ながつき)の丁(ひのと)卯(う)の朔(ついたち)丙子(ひのえね)に、久氐(くてい)等(ら)、千熊(ちくま)長彦(ながひこ)に従(したが)ひて詣(まうけ)り。則(すなわち)ち七枝刀(ななつさやのたち)一口(ひとつ)・七子(ななつこの)鏡(かがみ)一面(ひとつ)、及び種種(くさぐさ)の重宝(たから)を献(たてまつ)る。

 

 久氐らが七枝刀と七子鏡、さまざまな宝を献じたと記録されている。七枝刀は石上神宮に伝わる国宝で、金象嵌で「泰和四年」と文字が刻まれており、東晋の大和四年(三六九年)と考えられている。

これらから、新羅征伐に感謝した百済が、征伐年の泰和四年、すなわち三六九年に七枝刀を製造し、三年後の神功摂政五十二年、三七二年に朝貢したことがわかる。

 百済本紀には近肖古王(在位三四六~三七五年)、近仇首王(同三七五~三八四年)、枕流王(同三八四~三八五年)、辰斯王(三八五~三九二年)の即位年と末年が記されている。

 百済本紀と神功摂政紀の二つの記録は一致しており、歴史的事実だったことが確認できる。

 七枝刀が奉献された事実や、百済王の即位などの記事の一致は、神功皇后が実在したことを明確に示している。

 不思議に思うのは、神功皇后架空説の論者は、応神天皇の母親は誰だったと考えているのかということである。母親なくして子供が生まれないのは、大人なら誰だって知っている。応神天皇の母親が神功皇后でないというなら、実際の母親を特定するのが学問ではないだろうか。そうした裏づけもなく存在を否定するだけでは、それこそ根拠のない想像になり、科学的姿勢とはほど遠いものである。

 同様のことが、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣でもいえる。昭和五十三年に傷みが激しい鉄剣の保存処理とエックス線調査が行われ、刀の両面に文字が刻まれていることが判明した。

 

表の銘文。

辛亥(かのとい)の年七月中、記す。乎獲居(オワケ)の臣。上祖の名は意富比垝(オオビコ)。其(そ)の児(こ)、名は多加利足尼(タカリノスクネ)。其の児、名は弖已加利(テヨカリ)獲居。其の児、名は多加披次(タカヒシ)獲居。其の児、名は多沙鬼(タサキ)獲居。其の児、名は半弖比(ハヒテ)。

裏の銘文。

其の児、名は加差披余(カサヒヨ)。其の児、名は乎獲居の臣。世々、杖刀人(じょうとうにん)の首(おびと)と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)の大王の寺、斯鬼(シキ)の宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

おおよその訳は、「辛亥の七月に記す。オワケの臣の古い先祖はオオビコで、代々武人である杖刀人の長をして今に至っている。ワカタケル大王の寺がシキの宮にあるとき、政治を補佐し、この百練の刀を作らせ、仕える根拠を記した」である。

 ワカタケル大王は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇雄略天皇)、意富比垝は大彦命のことである。辛亥の年は四七一年、雄略天皇の治世期間四五七~四七九年に含まれ、雄略十五年となる。

 日本書紀には、大彦命孝元天皇の長男で、開化天皇の実兄とある。そして、崇神天皇の十年に、東海(うみつみち)、西道(にしのみち)、丹波(たには)、北陸(くがのみち)の四道を制圧する四道将軍の一人として北陸へ出陣している。鉄剣に刻まれた銘文により、大彦命の実在は確実になったのである。

 大彦命がいれば当然ながら父がいて、兄弟もいるだろう。となると、父の孝元天皇と弟の開化天皇も存在したと類推できるが、両天皇欠史八代に含まれるため実在を認めようとしない学者諸氏がいる。

彼らが欠史という言葉を聞くだけで思考停止してしまうのだとしたら、とても学問にはならない。