巻の三後編 小六なら解ける邪馬台国の位置

ミ 魏志倭人伝を正確に読む

 卑弥呼といえば魏志倭人伝魏志倭人伝といえば卑弥呼と、多くの人が反射的に言葉を思い浮かべるだろう。奈良県や九州北部で祭殿遺跡が発見されれば、卑弥呼の館ではないかと、大マスコミは大騒ぎする。過剰反応としか思えないが、その最大の原因は、魏志倭人伝の読み方にある。

 ともすれば邪馬台国はどこかとか、卑弥呼日本書紀に記された誰だとか、興味本位の扱い方をされるから、本当のところが見えてこない。

 さらに当時の魏の言葉(呉音)で邪馬台国ヤマタイ卑弥呼がヒミコと発音されていたかもどうかも明確ではない

 魏志倭人伝は、魏から倭国へ来た使者が実際に見聞きした体験と、現地へ行かずに耳にした伝聞と想像、さらに作者・陳寿の思想的な思惑が、魔女の鍋のようにごった煮になっている。使者の実際の「体験」と「伝聞」や「想像」、「陳寿中華思想」を区別しないと、複雑な迷路に踏み込むばかりである。

 まず、最初に押さえておかなければならないのは、倭人伝の冒頭の文章である。

 

倭人は帯方の東南たる大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国にして、漢の時に朝見する者有り。今、使訳(しえき)通ずる所三十国なり。

 

 ここで注意しなければならないのは、魏と使者が往来しているのは邪馬台国だけでなく、三十国あるという文章である。倭国という統一国家としてではなく、今でいえば村ともいえる当時の小さな国々が、魏と自分の国とを行き来していた。

 行き来するからには言葉が理解できなければならない。魏志倭人伝は三世紀の記録で、すでにこの頃、「使訳を通ずる」とあるから、中国語がわかる日本人通訳がいて、漢字も理解できたと推測できる。

 さて、魏志倭人伝を読むにあたり、作者・陳寿の思想を理解しておかなければならない。儒教の国である魏は男尊女卑で、世界の中心は中国という中華思想が根底にある。さらに白髪三千丈の例えではないが、物事を誇張する習癖がある。

 これらを前提にし、まず陳寿邪馬台国をどう見ていたかを俯瞰しよう。倭人伝は邪馬台国の位置を次のように記している。

 

其の道里を計るに、まさに会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし。

 

 会稽の東冶とは現在の福建省福州市のあたりで、日本列島よりはるか南、台湾に近い場所にある。その東には尖閣諸島があるが、あとは海ばかりである。つまり陳寿中華思想から、邪馬台国を南方の海に浮かぶ蛮国とみなしていたのである。

 陳寿倭人を蛮族と考えていたのは、ほかの文章にも見える。

 

女王国の東、海を渡ること千里に、復(ま)た国有り。皆倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千里なり。又、裸国(らこく)・黒歯(こくし)国有り、復た其の東南にあり。船行すること一年にして至る可(べ)し。

倭の地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り、或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可りなり。

 

 邪馬台国から渡海して東へ千里に倭種の国があるというのは、使者が倭人から聞いた伝聞だろう。

 問題はその次からである。女王国から四千里のかなたに小人の国があり、その東南に裸で暮らす国や歯が黒い国があるというのは、想像というよりは陳寿の思想を表している。中華思想は中国の首都から遠くへ離れれば離れるほど、文明から遠ざかると信じているから、小人の国があり、衣服を着ない国があり、白いべきである歯が黒い国があるとなる。

 後漢書には女性について次の文章が載っている。

 

叉た説くに、

「海中に女国有り。男人無し。或いは伝う、其の国に神井有り。これを闚(うかが)うに輒(すなわ)ち子を生めり」と。(訳 また、「海中に女の国があって、男は一人もいない。その国には神の井戸があって、これを覗き込むと子が生まれる」という)。

 

 荒唐無稽としかいいようがないが、これが中華思想である。中華の地から遠ざかるほど、「中国人の文明や常識ではとても理解しがたい制度や習俗をもった民族が存在したとしても、何ら異とするには当たらなかった」(卑弥呼誕生 遠山美都男 洋泉社)のである。

 さらに、「中国人にとって女性を王に戴くなどというのは、(中略)未開・非文明の象徴、その最たるものなのであった」(同)から、女王卑弥呼が君臨する倭国は、陳寿にとって野蛮な国にほかならなかった。

 魏志倭人伝にはこうした陳寿中華思想が存在していることと、千里とか四千里というように、数字にはさまざまな誇張があることを忘れてはならない。この前提を無視して魏志倭人伝に取り組むと、陳寿に翻弄されるだけである。

 魏志倭人伝の冒頭には、多くの研究者が意図的に無視しているのではないかと疑いたくなる重要な文が記録されている。

 

郡より倭に至るに、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸の狗邪(くや)韓国(かんこく)に到る。七千余里なり。(訳 帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに船で行き、韓国からは南や東に進み、「その」北岸の狗邪韓国に着く。帯方郡から狗邪韓国までは七千余里ある)

 文中にある「その」とは何を指しているのだろうか。ここの文章を素直に読めば、「その」とは倭国としか考えられず、朝鮮半島の南端は倭国だったことになる。

 これを裏付けるように、魏志倭人伝が載っている「三国志韓伝」には、「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」と書かれている。この文章も素直に読めば、韓国は海に隔てられることなく、陸続きで南で倭国と接しているとなる。

 さらに「弁辰」の条に、十二国ある弁辰の「瀆廬(とくろ)国は倭と境界を接する」とあり、やはり倭国と陸続きだったとある。

 研究者によっては「その北岸」を九州の倭国とし、海を通じて接していると解釈する向きがあるが、文献をなぜ 歪めて読んでしまうのか不思議である。

 朝鮮半島の南端に倭国があっては都合が悪く、歴史書の記載から目をそらしているのだろうか。

 魏志倭人伝の時代、倭人朝鮮半島南端と九州北部を一つの海洋圏として生活していた。いや、それよりはるか以前、縄文時代から半島と九州北部は一つの生活圏だった。

 朝鮮半島には独自の土器があったが、移住した倭人が作ったらしい縄文土器が半島南部で相次いで発見されている。さらに、狩猟具や漁労具に使う黒曜石が発見されているが、半島では産出されず、倭人が九州産の黒曜石を持ち込んだものである。

 このように、縄文時代から倭人半島人は互いに行き来して交易を行い、半島南端に倭人が住み着いていたのは疑いない。歴史を考えるにあたり、無視してはならない事実である。

 倭国の北岸の狗邪韓国を出発すると、いよいよ倭国への航海である。距離と戸数を抜粋する。

 

始めて一海を渡ること、千余里にして対馬国に至る。(中略)方(ほう)四百余里可(ばか)り、千余戸有る。

また南に一海を渡ること千余里、一大(いちだい)国(一支国)に至る。方三百里可り三千許(ばか)りの家有り。

また一海を渡ること千余里にして末慮(まつろ)国に至る。四千余戸有り。

東南に陸行すること五百里にして、伊都(いと)国に到る。千余戸有り。

東南百里で奴(な)国へ至る。二万余戸あり。

東へ百里で不弥(ふみ)国に至る。千余戸有り。

南に水行二十日で投(とう)馬(ま)国へ至る。五万戸可り。

南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月、七万余戸可り。

郡より女王国に至るまで万二千余里なり。

 

 なぜ数字を拾ったかというと、邪馬台国の位置を求めるのに必要なことと、魏志倭人伝の数字の扱いがかなり大雑把なこと、さらに使っている文字の違いで実際に使者が体験したのかそれとも伝聞かを区別するためである。

 邪馬台国の位置を推測するには、まず魏志倭人伝が使っている一里は何メートルなのかを求めなければならない。ところが、余里とあるように正確な数値ではないから、類推するしかない。

 さて、当時の魏の1里はいまの400メートルだから、記述通りに地図上をたどれば、倭国は九州のはるか南方となる。この記述が邪馬台国論のネックになり、世の学者諸氏を惑わせてきた。

 だが、何の先入観もない小学校六年生ぐらいの生徒に、魏の里を求めよという問題を出したら、簡単に計算できるのではないか。

 記事に記載されている魏里と、地図上の実測値を比較すれは、簡単に答えが出る。対馬壱岐の島の一辺を示してやれば、簡単に導けるだろう。いまの小学生ならスマホを使って両島のホームページにアクセスし、「方」を簡単に割り出すだろう。

 方可四百余里(方は四百里ばかり)とある対馬国は、対馬市のHPによると、南北八二キロメートル、東西一八キロメートルとなっており、壱岐の国だと思われる一大国は方三百余里で、南北一七キロ、東西一五キロ。

 方は一辺だから、対馬は南北が一里二〇五メートル、東西が四五メートル。壱岐は、南北五七メートル、東西五〇メートルと計算される。

 対馬壱岐の共通項から、1里は四五~五七メートルと推測できる。

 対馬から壱岐まで六八キロメートル、壱岐から東松浦半島呼子唐津市)まで二六キロメートル、唐津港まで四二キロメートルある。魏志倭人伝対馬から壱岐壱岐から末慮国まで、それぞれ千余里としているから、一千里として計算すると、対馬壱岐は一里六八メートル、壱岐呼子は二六メートル、壱岐唐津港は四二メートルとなる。

 このように、魏志倭人伝に書かれている距離は、正確な測量機器が当時あったわけではないだろうから、使者が実体験した場合でもかなり大雑把である。

 だが、数字のおおよその傾向から察するに、魏志倭人伝の使者は、一里を四〇メートルから七〇メートルと考えていたことがわかる。

 さて、彼の国には「白髪三千丈」という言葉があるように、物事を誇大に表現する癖がある。そして、露布(ろふ)といい、戦争など国外での出来事は、実際の数字を一〇倍して政府へ報告する習わしがあった。100人を殺せば1000人を殺したと報告するのである。

 それを勘案すれば、一万二千里は実際には一二〇里、つまり1里は400メートルの10分の一、40メートルとなる。

 数字のあやふやさ以外に、文中に出てくる「可」という文字の問題がある。通常は「ばかり」と訳されているが、「あるべしと推量」した表現である。

 この「可」という表現は、距離だけでなく戸数にも登場する。考古学者の森浩一氏は「倭人伝を読みなおす」(ちくま新書)で、「有る」と「可」の違いを明確に指摘した。

 

対馬国では「有千余戸」となり、一支国から不弥国までの国々の戸数も「有る」と断定していた。ところが投馬国では「可五万余戸」、つまりあるべしと推量の戸数であり、邪馬台国も「可七万余戸」と表現を変えている。可は副詞で「ばかり」と曖昧さのある語である。

 

 可が使われている部分は、使者が実測したものではなく、倭人から聞いた距離や戸数をそのまま書き記したか、あるいは耳にした情報を基に推測したかのどちらかだから、「有」と断定できなかったのだろう。おおよその意味で使われる「ばかり」は「許り」と表現され、「可」とは明確に区別されている。

 可が使われている部分が推量だとしたら、対馬国や一大国で「方」を実測してはおらず、現地の島人の説明を鵜呑みにしたのに違いない。

 同じことが、国々の戸数にも言える。投馬国の「五万戸」、邪馬台国の「七万戸」は「可」で表現されており、倭人から聞いた伝聞を基に推測が記録されていると考えられる。両国とも使者が実際に見聞きして戸数を調べたのではない。

 投馬国や邪馬台国に比べ、対馬国から伊都国までの国々は、国情が詳細に描写されている。実際にその地に足を踏み入れたからにほかならない。奴国、不弥国は戸数を「有」と断定しているが、ほかの描写はわずかである。「有」と書かれているから現地には赴いたのだろうが、国情を詳細に把握するほどの時間は与えられなかったに違いない。

 さて、一戸の人数を平均五人(当時はもっと多かったと思われる)として、投馬国の五万戸は二十五万人、邪馬台国の七万戸は三十五万人となる。人口三十五万人の国家となれば、今で言えば政令指定都市に相当する。投馬国の人口二十五万人にしても大国家である。三世紀にそれほどの巨大国家が、はたして存在したのだろうか。

 ほかの国と比べると、末慮国は四千余戸、伊都国は千余戸、奴国は二万余戸、不弥国は千余戸で、投馬国と邪馬台国は桁外れに大きい。

 投馬国五万戸、邪馬台国七万戸は、魏の使者というより、陳寿によって誇張された戸数なのではないか。魏の使者がわざわざ訪れる邪馬台国は、大国でなければならないから、戸数七万戸の巨大国家ということになったのだろう。

 可が推量で使われていることを明確に示すのが、「船行すること一年にして至る可し」と「倭の地を参問するに(中略)周旋五千余里可りなり」という部分だろう。魏の使者は、もちろん一年かけて裸国や黒歯国を訪ねてもいないし、倭の地の周りを廻ってもいない。すべて「参問」、つまり参考のために質問し聞いたことだと正直に記している。

 可の文字が推量であることは確実だが、となると、魏の使者は投馬国や邪馬台国まで、実際に行ったのかという疑問が出てくる。

 それを裏付けるように、魏志倭人伝は伊都国について記した部分で「郡使往来するに、常に駐(とど)まる所なり」と、伊都国に常駐したことを明確に記録している。

 魏の使者は倭国へ来ると伊都国に留まり、「戸有」という表現から、日帰りできる奴国や不弥国へ行くことはあったが、「可」と記録された投馬国や邪馬台国へは、実際には行くことがなかったのである。

 伊都国には魏の使者が常駐し、邪馬台国がほかの国々を監察するため派遣した一大率(だいそつ)もいる。倭国の諸国は一大率を恐れ、さらに一大率は魏と倭国を行き来する使者を港で臨検していた。このように、伊都国は重要な国であるにもかかわらず、ほかの国に比べて人口が少ないのはなぜなのか。

 魏の使者は友好使節団だとしても、倭国の国情を偵察に来たスパイでもある。そんな危険な使者を、倭国の中枢部まで案内しただろうかという疑問が起きる。だから、伊都国に倭国の監察と魏の使者を臨検する一大率を置いて特別行政地区とし、魏の死者にはそこから他国への訪問を禁じた。江戸時代にオランダ商館があった長崎の出島と同じ発想だったのではないだろうか。

 したがって、「水行二十日、五万戸」や「水行十日陸行一月、七万戸」という言葉は、「参問」して推測して書いたということになる。推測というより、ある意図を持って記載したというほうがいいかもしれない。

 魏志倭人伝の最初の部分に、中華思想により倭国は南方の遠隔地というニュアンスがこめられ、「会稽の東冶の東」にあると書かれていた。この大前提にしたがい邪馬台国の位置を記すとすると、「水行二十日」と「水行十日陸行一月」で「会稽の東冶の東」に合致すると考えたのであろう。

 伝聞と推測、さらに中華思想が入り混じって邪馬台国の位置を示しているのだから、距離や方角をどう検討しても、正確な場所がわかるはずがない。魏志倭人伝からは、邪馬台国は不弥国の南ということしか読み取ることができないのである。

 では、九州なのか近畿なのかの議論にどう答えるかだが、魏志倭人伝を素直に読めば明確である。邪馬台国卑弥呼論争が長期間にわたって混乱してきたのは、最初から九州山門(やまと)にあるとか、近畿の大和地方にあるという前提を基に、邪馬台国の場所を求めたからにほかならない。そして、倭という文字を「やまと」と読んでいいのかという疑問もある。

 魏志倭人伝には、女王国の東、海を渡って千里のところに国があり、すべて倭種であると記載されている。海を渡るとは、海岸にそって航行するのではなく、文字通り渡海することである。

 魏志倭人伝帯方郡から狗邪韓国まで海岸に沿って水行と記したあと、始めて海を渡って対馬国に着き、さらに渡海して一大国、末慮国へ至っている。海岸に沿った水行(川を遡るのも水行)と、渡海とを明確に区別している。

 不弥国から投馬国、女王国まで水行だから、海は渡っていない。九州から大和へ行くには海を渡らなければならない。つまり女王国は、到着した地域から渡海していないのだから、具体的な場所はともかく、九州以外にあるはずがない。そして、海を渡って千里にある倭種の国が大和ということになる。

 邪馬台国が九州、それも海岸や川に近いところにあることを示す表現が、魏志倭人伝にある。

 

男子は大小と無く、皆鯨面(げいめん)文身(ぶんしん)す。(中略)今、倭の水人、沈没して魚蛤(ぎょかう)を捕らふるを好む。文身するも亦(ま)た以って大魚水禽(すいきん)を厭(おさ)へんとすればなり。後に稍(やうや)く以って飾りと為す。諸国の文身は各々異なり、或いは左に或いは右に、或いは大に或いは小に、尊卑差有り。(訳 倭国の男子は大人も子供も顔や体に入れ墨をして、水にもぐって魚や蛤を取っていた。入れ墨をするのは巨大な魚や鳥などからの害を避けるためだったが、後に飾りになり、身分によって差ができた)

 魏志倭人伝の時代、海岸沿いの倭国の国々の男たちは、こぞって入れ墨をしていたのだろう。魚蛤を捕らえるとあるように、入れ墨をするのは温暖な地域に住む海洋族の習性だった。

 ところで、儒教の経典である「礼記(らいき)」には、東方に住んでいる者を夷(い)といい、身体に入れ墨をする、南方を蛮といい、額に入れ墨をするとある。魏志倭人伝礼記を典拠としており、鯨面文身は東夷と南蛮の習俗を兼ねた表現になっている。

 渡邉(わたなべ)義浩(よしひろ)氏によれば、「倭人は、中国の東南にいる。したがって、顔面(南)と身体(東)の両方に入れ墨をしているべきである。これが儒教の理念であり、『三国志』に著された時代の世界観であった」(魏志倭人伝の謎を解く 中央新書)。つまり、陳寿は事実を事実として書いているのではなく、帯方郡の東南にいる倭人は、顔と体の両方に入れ墨がなければならないという思想によっていることがわかる。

 ところで、古事記には神武天皇が皇后を選定するとき、使者に立った大久米(おおくめ)命の顔の入れ墨に、皇后となる伊須気余理比売(いすけよりひめ)が不審を覚え、「など鯨(さ)ける利目(とめ)」と詠って聞いたという問答がある。

 ここから、大和に住んでいた伊須気余理比売にとって、入れ墨は見たことがない不審なものだったことがわかる。大久米命は海人族だから入れ墨をしていたのだろうが、神武天皇やほかの人々には入れ墨はないから、大久米命の「鯨ける利目」が強調されたのであろう。

 大和地方は海洋国ではないから入れ墨の習慣はなかった。後に装飾として入れ墨が登場しても、罪人や特殊な職業の人物(馬曳き、力士、武人)に限られた。

 これらから、男子全員が鯨面文身していたのは、大和国家ではあり得ないことになる。となると、九州の玄界灘に面する国々が倭国となる。

 では、邪馬台国はどこかだが、具体的な場所を特定することは難しい。だが、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里とあり、道程を計算すると、帯方郡から奴国までは一万六百里、不弥国まで一万七百里である。

 不弥国が魏の使者が足を踏み入れることができる限界だったと思われる。その不弥国を基点として邪馬台国へ向うとしよう。帯方郡から邪馬台国までの一万二千里から、不弥国までの一万七百里を引くと千三百里。一里四〇メートルとして約五〇キロメートル、一里七〇メートルとして約九〇キロメートルとなる。

 奴国からだと邪馬台国まで一万二千里引く一万六百里で千四百里、五六~一〇〇キロメートルとなる。

 末慮国は唐津、伊都国は糸島市、奴国は福岡市とほぼ特定されているが、不弥国は不明である。博多港から東へ少し行くと宇美川があり、ウミをフミと聞いた可能性はある。

 宇美川河口から五〇~七〇キロメートル、あるいは福岡市から五六~一〇〇キロメートルの円をそれぞれ書いた範囲に邪馬台国があることになる。不弥国から南という方角を信用すると、邪馬台国の位置は福岡県の内陸部、いまの八女市筑後市柳川市あたりになろうか。九州説の山門郡も有力な候補地になる。

 方角を考慮しないと、九州の東海岸の福岡県豊前市大分県宇佐市などが候補に上がる。

 魏志倭人伝邪馬台国の南に、対立して戦争となった狗奴国があると記している。狗奴国は熊本の熊で、熊襲にも通じる。

 また、魏志倭人伝は狗奴国に狗古智卑狗という官がいると記している。狗奴国の豪族の一人だろう。熊本県島原湾岸には菊池平野があり、福岡県へ向かって菊池川が流れている。狗古智卑狗を地方豪族の菊池彦とすれば、魏志倭人伝の記載そのものとなる。

 さて、もう一つの考え方は、対馬壱岐の「方」を計算入れるものである。半島南部から九州は南東にあたる。対馬壱岐を経るには島を半周することになる。対馬は「方」400里、壱岐は300里だったからそれぞれ半周すれば800里と600里、合計で1400里になる。つまり余りの1400里はなくなり、邪馬台国は奴国ということになる。

 倭人の代表である邪馬台国と、熊本以南の狗奴国=熊襲が戦ったというのが、魏志倭人伝の記録だろう。つまり、玄界灘に面した末慮国や奴国などの海岸諸国から、福岡県内陸部や有明海沿岸の邪馬台国、さらに南の狗奴国の物語が魏志倭人伝なのである。

 魏志倭人伝は改行や句読点がなく、漢字がズラズラ並ぶばかりで、実は明確に読みくだすことが難しい。例えば水行20日の投馬国は、伊都国から発して20日としているのか、それともほかに起点があるのか。邪馬台国は投馬国を起点にしているのか違うのか

 伊都国を起点とすれば投馬国も邪馬台国もはるか南方となるが、それでは陳寿のまやかしにまんまとはまるだけである。

 投馬国や邪馬台国の起点をそもそもの帯方群とすれば、一気に問題は解決する。郡から三千里で松浦国に着くから、それが水行10日とすると、郡から20日の水行では九州南部に到着する。南部、すなわち薩摩半島あたりで、「サツマ」という国名を使者が「ツマ」と聞いた可能性がある。

 問題は渡海しているのに水行と記していることだろう。

 松浦国から伊都国まで陸行1月とすると時間がかかりすぎている感じだが、国々で歓迎され国情を調査しての旅ならうなずける。

さて、卑弥呼とは誰なのか。記紀の誰かに相当するのだろうか。

 ここで注意しなければならないのは、古代、名前を知られれば身も心も支配されると考え、名前は極秘だったことである。

 万葉集最初の雄略天皇の求婚の歌は、乙女に向かって「名ら宣(の)らさね」と名前を問うている。名前を答えれば求婚を受け入れることになり、身も心も雄略天皇に委ねるという意味になる。

 このように、古代、名前は秘すべき大切なもので、海外の使者に伝えるものではないし、民が口にするものでもなかった。だから、卑弥呼も壱与(豊与)も、個人の名前ではなく、通称ということになる。

 古代は通称に地名を付けることが多かった。卑弥呼は古代の発音では.ピムカ、壱与はイヨ、豊与はトヨと呼ばれでいたと思われる。

 ピムカは漢字にすれば日の当たる場所である日向国、イヨは伊予国、トヨは豊国とそれぞれ地名であろう。

 卑弥呼を神に仕える「日の御子」とする解釈もあるが、それなら次のぷぷ壱与も「日の御子」で、壱与としているのは無理がある。

 卑弥呼は偉大なシャーマンとして倭国=九州北部に君臨していた。おそらく第12代景行天皇時代の人物で、狗奴国=熊襲との戦い間に帰幽した。女王国は景行天皇熊襲征討の際に崩壊した。

 倭国は北部九州の部族連合で、魏の使者が倭人の「我の国」という言葉を「倭国」という固有名詞ととらえ、さらに大和朝廷のヤマトという言葉を誤って倭国と同一視し、邪馬台国と名付けた。倭という漢字はどう読んでもヤマトとは読めず、誤解のまま倭国の部族連合の国名になったのが真相ではないか。

 邪馬台国論争は、魏が女王卑弥呼に贈ったとされる金印や、倭の使者に与えた銀印が発見されなければ、決着がつくことはないだろう。仮に発見されたとしても、奴国の金印のように偽造だと疑われ、果てしない論争が続くのは確実である。

邪馬台国女王卑弥呼は歴史のロマンとして、そっとしておくのがいいかもしれない。