巻の四 中編 古事記はビッグバンを示唆

ミ アマかマノかマガか

 

 こう書くとまるでナゾナゾだが、言霊にとって実に重大な事柄を含んでいる。

「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神

 言霊の宝庫・古事記の本文冒頭には、こう書かれている。

「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天原に成(な)れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)神」と読み下す。(岩波書店日本古典文学体系による)

 ここに記されている高天原という言葉が、「タカアマハラ」「タカマノハラ」「タカマガハラ」と三通りに読まれている。

 読みは一つのはずなのに、どうしてそんなことになるのだろうか。そして、どれが正しいのだろうか。

 古事記は小文字による分注が次のように続く。

「訓高下天云阿麻。下效此」

「高の下の天を訓みてアマと云ふ。下は此に效(なら)へ」と日本古典文学体系は読み下している。

 つまり古事記は冒頭で、高天原を「タカアマハラ」と読めと、わざわざ分注を加えているのである。

 おそらく、古事記編纂当時には、氏族によっていろいろな読み方があったのだろう。そして、そうした混乱を統一するのが、古事記の狙いであった。

 日本は「言霊の幸はふ国」だが、言霊は正確に発音しないと発動しない。だからこそ、乱れた言葉を正すために、古事記は編纂された。

 古事記は神々の名前について、いたるところで「音を以(もち)ゐよ」と指定している。神々の名前を正確に発声しなければ、神威が働かないからにほかならない。

 タカマノハラは「タカアマノハラ」と読み、タカの「ァ」音とアマの「ア」音が同音だとして、「ア」を省略したのだろうが、「アマ」と古事記がわざわざ分注で指定しているのにかかわらず、どうしてそんな省略をしなければならないのか? もし「タカマノハラ」と読めというなら「訓高天云高麻(高天を訓みてタカマという)」という分注があるはずである。

 タカマガハラにいたっては、古代、接続詞は「之」が使われていたから、「ガハラ」とは決して読まず、論外というしかない。

 釈日本紀には「高天原」について「多加阿万乃波良 弘仁」と記されている。弘仁三年(八一二年)の日本紀講義での読み方で、多加阿万乃波良(たかあまのはら)と明確に示している。

 我が国最古の漢字で記録された文献・古事記すら、正しい読みがなされていないのは悲しむべきである。これでは言葉が乱れるのは避けようがない。

 勝手な読み方をしている人たちは、上代の言葉について、古事記の編纂者より、自分の方が詳しいとでも考えているのだろうか。何か思惑があってわざと読みを変えているのか、違うことを口にすることで目立とうとでもしているのか。

 分注で指定している訓(よ)みを無視したら、古事記そのものを理解できなくなる。後世の浅知恵で判断するのではなく、序文に「上古の時、言意並びに朴にして」とあるように、古事記に記されていることを素直に受け取るべきなのだ。

 高天原を分解すると「タカァ」「カァマ」「アマ」「ハラ」となる。

 葉室氏は、「ハラ」の「ハ」は葉で葉緑素を作り生命を生み出し、「ハハ」と二つ重なって母になる。さらに「ラ」は「ぼくら」などの「たち」という意味で、「ハラ」は多くのものを生み出す生命の源のことであると本質を喝破している。

 まさしく「ハラ」は生む腹であり、生命が誕生した海原(うなばら)である。外来の漢字を当てはめ「原」としために、本来の言霊がわからなくなってしまったのだ。

 昭和十五年に神祇院が復活した際、朝廷の祭祀を司っていた白川家最後の当主白川資長から、正しい神道行法だと認定され、政府高官の指導を委託された神道家の梅田伊和麿(いわまろ)翁は、天地開闢(かいびゃく)の時、「タカアマハラ」という言霊が鳴り響き、タカァ=高御産巣日(たかみむすび)神、カァマ=神(かみ)産巣日神、アマ=天之御中主神造化三神がハラ=成ったと断じている。

 造化三神は「成(な)」れる神と古事記にはある。ナルは鳴るで、雷鳴のように言霊が鳴り響いたのだろう。そして、天之御中主神をすべての中心として、高御産巣日神神産巣日神のムスヒ(結び)の働きで宇宙が造られ、太陽系ができ、地球と月が生まれ、八百万の神々や人類が誕生したという、壮大な宇宙創成神話が古事記の神代巻なのである。これに対し、日本書紀は地球が創生された以降の歴史を語っているといえよう。

 葉室氏は古事記の冒頭部分を、大宇宙が誕生したビッグバンを描写していると明快に指摘している。

高天原の原は腹や肚と発音が同じである。肚が据わった人とか、肚の太い人というように、人の精神のあり方をも示している。

 腹は人間の体の真ん中にあり、手足を広げて横に回転すれば、臍を中心に回る。

 武道や禅の修行では、腹すなわち臍下丹田(せいかたんでん)(気海(きかい)丹田ともいう)に気を入れることを重視する。声楽でも腹から声を出せと指導する。

 腹から出した声は小さくても遠くへ通る。鶏の鳴き声は、近くで聞くとさほど大きくはないが、驚くほど遠くまで届く。

 声楽家がマイクなしで歌っても広い会場全体に行き渡り、武道の達人が気合を掛ければ空飛ぶ鳥さえ落とす。生命の中心から気が出ているからである。

 スポーツではオノマトペといって、「声を出すと記録が良くなる」(スポーツオノマトペ 藤野良孝 小学館)ことが、最近の研究でわかってきた。ハンマー投げ室伏広治選手が、手を離す瞬間に叫ぶのは、そのいい例である。

 丹田に気をこめ、それを発すれば、偉大な力が発揮される。ハラという生命の中心から出るからである。

 では、丹田は臍の下のどこにあるのかと言えば、二つの考え方がある。一つは臍の下の下腹部、もう一つは、臍から体の奥へ入った内部にあるというものだ。

 この二つの考え方は、丹田が持つ一面を、別々の方向からみている。本来、丹と田は分けて考えるべきものである。

 丹は真心という意味がある。仙人は丹を練るという。また胆を練るという言葉もある。この場合の胆は気力や「きもったま」だ。胆は肝臓のことだから、丹は体の内部にある経絡上の壺、田は気を溜める腹だとわかる。

 では、誰でも丹田に気をこめれば、偉大な力を発揮できるかといえば、そう単純なものではなく、何事にも鍛練が必要なことは言うまでもない。

 丹を練りに練り、田に気をいっぱいに溜めて、言霊が響き渡る言葉を発声できるようにする行が、我が国には古来、伝わっている。一般には知られていないが、日本古来の神道には、腹を練るさまざまな修行法がある。その代表的なものが、白川伯家(はっけ)神道の修行法の一つ、息吹永世(いぶきながよ)という呼吸法で、思考停止から抜け出す重要な実践法である。

 

 ヨ 古事記は黙示録

 

現代の言葉の乱れは、古事記の編纂を指示した、天武天皇時代に似ている。

 天智天皇崩御後、圧倒的に不利だった大海人皇子は壬申(じんしん)の乱で劇的に状況を逆転、即位して天武天皇となり、飛鳥の清原(きよみはら)を都として天の下を治(しら)しめた。この時代、仏教をめぐる物部氏蘇我氏の対立、蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)の専横、大化の改新壬申の乱を経て国は乱れ、「諸家のもたる帝紀および本辞、既に正實(せいじつ)に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ」(古事記)状況になっていた。

 このため天武天皇は「今の時に當(あた)りて、其(そ)の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年も経ずして其の旨滅びなむとす」と憂え、古事記の編纂を命じた。つまり、各々の氏族に伝わる天皇や国に関する歴史や出来事に間違いがあり、嘘も書き加えられているから、今のうちに正しておかないと、事実が失われてしまうと、危機感を持たれたのである。

 ひるがえって現代は、「正しき伝統に則った教育を施し、自らを悪者とする自虐史観から脱却せずば、日本の本つ姿は滅びなむ」状態にある。

 壬申の乱を乗り切った天武天皇の御世(みよ)、仏教の伝来や漢字の普及で、言葉は現在と同様に乱れていた。それを憂えた天武天皇が、言葉や歴史、文化を正そうと編纂させたのが古事記である。

 そして、漢字を統一文字として古事記が撰録された。

 古事記天武天皇側近で二十八才の若き舎人(とねり)稗田阿礼(ひえたのあれ)が、天皇の命令で誦(よ)み習わした天皇家の系譜を記した帝王日継(ひつぎ)と、時代ごとの出来事である先代旧辞(くじ)を、太朝臣安萬侶(おおのあそみやすまろ)が編纂したものである。 阿礼は天宇賣(あめのうすづめ)命の後裔の猿媛(さるめの)君氏出身で、神懸(かみが)かり能力を持った語り部、安萬侶は漢文(中国語)の権威で、当時の最高の知識人である大学者だった。

 安萬侶が最も苦労したのは、古い言葉や意味を損なわないよう、漢字の音と訓を組み合わせ、筋道や論理が通らない語には「注」を施し、本来の意味や訓(よ)みを表すことだった。

 古事記の序文には「上古(じょうこ)の時、言(ことば)意(こころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字(じ)に於(お)きて即ち難(かた)し。すでに訓に因(よ)りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以(も)ちて連ねたるは、事の趣更に長し」とある。

 訓では意味を正確に言い表せず、音だけでは長すぎる文になるというのである。漢字で「上古」からの歴史や物語を、他人がわかるように記録することが、いかに難しかったかを示している。

 古事記は神懸りの稗田阿礼が口述し、漢文の権威の太朝臣安萬侶が記述した、神伝の書である。そして古事記は、唯一絶対最高神の存在を示し、さらには神祭りこそが国家の礎だということを暗示的に述べている。古事記は文章と文章の間に国体のあり方を示した黙示録である。

 古事記の冒頭は次のように書かれている。

 

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。次高御産巣日神、次神御産巣日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隠身也。

次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神。次天之常立神。此二柱神亦、獨神成坐而、隠身也。

 上件五柱神者、別天神

 

 日本古典文学大系の読み下し文を次に記す。

 

天地初發(はじめ)て發(ひら)けし時、高天原に成れる神の名(みな)は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神御産巣日神。此の三柱の神は、並(みな)獨(ひとり)神(かみ)に成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。

次に國稚く浮きし脂の如くして、久羅下那州(くらげなす)多陀用弊流(ただよへる)時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物によりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲(うましあしかびひこぢ)神。次に天之常立(あめのとこたちの)神。此の二柱も亦(また)、獨神に成り坐して、身を隠したまひき。

 上の件(くだり)の五柱の神は、別(こと)天つ神。

 

 この冒頭部分だけでもさまざまな解釈がある。前にも述べたが、高天原をタカマノハラやタカマガハラと歪めた読み方をする人がいる。古事記に分注があるにもかかわらず、独自の読み方をしているわけだが、「成る」という言葉を「産む」とこれも勝手に解釈する人がいる。「成る」は自然に現れる意、「産む」には両親が必要である。

 にもかかわらず、天之御中主神高御産巣日神や神御産巣日神を産んだとする解釈がある。最初に高天原に「成った」神が天之御中主神だから、次の二柱の産巣日神を産んだというのだ。

 そうなら、天之御中主神を生んだのはどの神なのかという問いが思い浮かぶが、明確な答は還ってこない。

 最初に成った天之御中主神と、伊勢神宮に祭られている天照大御神と、どちらが上位の神であるかは、昔から議論されている。ここでは、最高神を誤って解釈することが、国体を乱れさせている原因だと指摘しておくにとどめる。

 次に、「別天神」だが、特別の天つ神とか、天つ神とは別の天つ神と、ここでも解釈が分かれている。特別でも別でも構わないが、素直に読めば「天つ神」とは「異なる」神である。

 歴史書を読んでいると、よく天つ神系とか国つ神系という言葉が出てくる。天つ神系という言葉は、いわゆる「征服王朝」の大和朝廷の系統を、国つ神系とは「被征服王朝」の出雲系を指して使われている。しかし、古事記日本書紀には、天つ神「系」などという言葉はどこにも出てこない。後世の階級闘争史観の持ち主が、天皇を征服者と言いたいがためにつくり出した言葉だからである。

 最初の三柱の神の「並獨神」という言葉も、「並」が「みな」とか「ならびます」と読まれている。「ならびます」と読むと、三柱の神は同格の神という意味合いになる。同格であれば、天之御中主神最高神ではない。

 獨神とは、夫婦神ではないということだ。五柱の次に成れる国之常立神豊雲野神も獨神で、五柱の神々とともに「身を隠したまひき」とある。

 身を隠すとはどういう意味か。大祓詞のように、祝詞には「あめのみかげひのみかげとかくりまして」という言葉がよく出てくる。現し身を持たず、「かげ」に隠れている存在という意味だろう。七柱の「身を隠したまひき」神々は、現実世界に現れることなく、国を守っているのである。

 国之常立神豊雲野神の次に、五代(いつよ)の夫婦神が成る。最後が国産み神話で知られている伊邪那岐(いざなぎき)神と伊邪那美(いざなみ)神で、国之常立神から伊邪那美神までを神代七代(ななよ)と言う。

 伊邪那岐神伊邪那美神は国土の修理固成を行うが、天つ神の命令によってだった。古事記は次のように記している。

 

是に天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、伊邪那岐命伊邪那美命、二柱の神に、是の多陀用弊流(ただよへる)国を修(おさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ、と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。

 

 この後、岐美二神が天の浮橋に立って国産みが始まるのだが、ここで出てくる「天つ神」とは、どういう神なのだろうか。前に成った「別天神」と同じなのだろうか。

 古典文学体系などは、「天つ神」を「別天神」と解説している。しかし、もしここで現れた「天つ神」が「別天神」のことなら、「別天つ神諸の命以ちて」と書くだろう。ここの部分の文章は、「天つ神」と「別天神」とは違うということを示しているのにほかならない。

 この場合の天つ神は、天照大御神のことを指している。それを裏付けるのが、古事記日本書紀天皇のことを「天つ神の御子」と明確に書いていることだ。天皇天照大御神の皇孫だからである。

 大祓祝詞には「あまつかみはあめのいはとをおしひらき」とある。天の岩屋戸に隠れたのは天照大御神で、別天神ではない。

 さらに、天皇別天神の御子ではない。もし別天神の御子なら、親が五柱もいることになってしまう。「天つ神」を「別天神」であるとする解説が、いかに的外れかわかる。

 別天神は成った神だが、天つ神は「成った」とは書かれていない。広辞苑は「成る」を、「無かったものが新たに形ができてあらわれる」「別の物・状態にかわる」などと解説している。

 この場合の「無かったもの」は「現実世界に無かった」という意味で、「新たに形ができてあらわれ」たのは現実世界にということである。つまり、どこか元になる世界から現実世界に現れることを「成る」と表現している。「別の物・状態にかわる」のは、元の物や状態があるから「変わる」ことができる。

 天つ神は「成った」神ではなく、最初から高天原に存在していた神、あるいは高天原そのものと言っていい。

 天つ神という原初の存在が、「高天原」という言霊を発し、天之御中主神高御産巣日神、神御産巣日神の造化三神を「成らせ」たのだから、天つ神は無始無終、唯一絶対の最高神ということができる。

 この天つ神が、伊邪那岐命の禊祓いで現実世界に降臨した。

 

是に左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀(つくよみ)命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男(たけはやすさのお)命。

 

 ここで天照大御神の御名が初めて登場するが、以後、天つ神という御名での活躍はなくなる。天つ神は天照大御神となって地上に降臨し、さらに伊邪那岐命の「汝(いまし)命は高天原を治らせ」とのことよさしによって高天原へ戻り、天上天下の唯一絶対最高神となったのである。

 それを裏付けるように、日本書紀の神代巻では、神という表現は天照大御神だけで、ほかの神々は「尊」か「命」と使い分けている。天照大御神が唯一絶対最高神であると、日本書紀は明確に記述している。

 日本書紀本文の最初に現れるのは「国常立尊」である。以後、成る神々はすべて「尊」という表現が使われている。「便(すなは)ち神と化為(な)る」とか、「凡(すべ)て三柱の神ます」というような抽象的な使い方はしているが、個別の御名では神を使っていない。神は天照大御神だけで、ほかの神々は尊であり命なのである。

 日本書紀には「至(いた)りて貴きをば尊(そん)と曰(い)ふ。自(これより)余(あま)りをば命(めい)と曰ふ。並(なら)びに美(み)挙(こ)等(と)と訓(い)ふ。下(しも)皆此れに効(なら)へ」とある。

 日本書紀の「至りて貴き」存在、つまり「尊」は、神々と天皇、太子(ひつぎのみこ)に限られている。あとは「命」とはっきりと区別をしている。

 そして古事記の冒頭に成った天之御中主神高御産巣日神も神御産巣日神も、日本書紀ではすべて尊と表現されている。つまり唯一絶対神天照大御神で、あとの神々は尊であり命なのだ。そう前提を置いたうえで、今後は古事記にならって神と表現する。

 日本書紀で尊と表現されている天之御中主神最高神なら、俗な言い方だが、規模が大きいもっとたくさんの神社が祭り、人々の尊崇を受けていてしかるべきだろう。しかし、天之御中主神を祭る神社は、安産祈願で有名な水天宮や北極星を祭神とする妙見神社、北星神社など数えるほどしかない。

 動かない北極星を宇宙の中心と考え、天之御中主神の御中主という言葉から、北極星天之御中主神と発想したのが妙見神社や北星神社である。神霊的にというより、論理的に導き出したのだろう。記紀に星神信仰はほとんど記載されておらず、道教陰陽道の影響でこれらの神社が創建されたと思われる。

 さて、尊も命も「みこと」と読み「御言」とも書く。「詔(みことのり)」の「みこと」だ。そして「みこと」は、言霊のことでもある。尊や命は、天つ神が言霊を発し、神々に与えた使命を表している。

 古事記の冒頭文は、すべての存在には御中主=中心があり、天地開闢の中心になったのが天之御中主神であると暗示している。

 天之御中主神の次は高御産巣日神と神御産巣日神の二柱の産巣日の神が成った。「むすひ」は「結ぶ」で、存在と存在を結び付ける言霊である。独立していた存在が結び付けば、新たな存在が発生する。産巣日という大切な作用、神霊的な遠心力と求心力を暗示したのが二柱の産巣日神である。物理学が物質の構成を示した、原子の回りを電子が回転する様(さま)に似ている。

 神々の世界には、私たちの目には見えないものの、厳然とした序列がある。下位の神を最高神と誤認してしまったら、秩序が崩れる。さまざまな宗教が自分の神なり仏なりを持つのは悪いことではないが、最高神仏ではなく、御守護(みまもり)の神仏だと、明確に認識しなければならない。

 古事記日本書紀は、絶対最高の神を天つ神=天照大御神であると、一貫して示していることを忘れてはならない。

 普段、私たちが何気なく遣っている言葉には、このように深い意味がこめられている。だからこそ、言葉を正しく遣い、祈りのこもった言霊を甦らせなければならない。