巻の四 後編 記紀以前の書はあったか?

 イ 古語拾遺が古代文字を否定?

 

 歴史の教科書には、古事記は「語り部の阿礼が誦んだものを、安萬侶が書き記した」と一般に書かれている。古事記を解説した諸々の書物も、ほとんど同じ意味合いで序文を解説しているが、ここで疑問に感じることはないだろうか。

 稗田阿礼古事記序文に「目に渡れば口に誦み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき」とある。「誦む」とは、声を出し節をつけて詠(うた)うことである。阿礼は目にすれば詠うことができ、聞けば記憶に残せたというのだ。

 この部分は、阿礼の読解力と記憶力の確かさについて述べている。それなのに、稗田阿礼が「目に渡れば口に誦」んだとわざわざ記しているのは、節をつけて詠う口誦(こうしょう)をしたということを強調したかったのだろうか。それとも、阿礼が読める文章を、大学者の太朝臣安萬侶が読めなかったから注記したのだろうか。

 普通に考えれば、当時の最高の知識人である安萬侶が、読めないわけがない。

安萬侶が読め、阿礼も読めるのに、「目に渡れば口に誦み」と特記したのは、何らかの理由があったからに違いない。

 聞いたことを記憶するのは、猿媛(さるめ)君氏出身で神懸かり能力を持った語り部・阿礼の特殊能力である。そして記憶した文章を阿礼が文字にすれば、安萬侶を頼らずに一人でまとめることもできた。稗田阿礼一人でも、古事記を編纂する能力があったはずなのに、二人が必要だったのはなぜなのかという疑問が生じる。

 大胆に推理すれば、安萬侶は阿礼が誦む文字を読むことができず、逆に阿礼は中国伝来の漢字に精通していなかったと考えれば、漢文に精通した大学者と、神懸かりの語り部の二人でなければ,古事記を編纂できなかった理由がわかる。

 では、阿礼が誦んだ文字とは何か。それは、神代文字とか古代文字といわれる日本固有の文字、古代和字だと思われる。

 多くの言語学者は日本固有文字の存在を否定している。そして、その論拠の一つが、斎部広成が自家に伝わる伝承に基づいて書いた古語拾遺に「蓋(けだ)し聞く。上古の世、文字あらざるなり」という記述である。

 古語拾遺は西暦八〇七年に成立したもので、古事記日本書紀など、国の公式書物から漏れた重大な事柄を、拾い集めたとされている。

 筆者の斎部広成は、邇邇藝(ににぎ)命の天孫降臨に従った五伴緒(とものお)の一柱である布刀玉(ふとだま)命の子孫で、天照大御神が岩屋戸に閉じ込もった際、「種種(くさぐさ)の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて、天兒屋命、布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷き白(ほぎまほ)して」と、岩屋戸開けで重要な役割を果たしている。

 簡単に言えば、布刀玉命が根こそぎに抜いた榊に勾玉と鏡を付けた神籬(ひもろぎ)を捧持し、天兒屋命が祝詞を奉上し、ほかの神々の働きもあって、岩屋戸が開かれたのである。

 そして天兒屋命の子孫は中臣(なかとみ)氏で、朝廷の祭祀では中臣氏が祝詞を奏上、忌部氏=斎部氏が神籬を捧持した。

 時代が下がって大化改新中臣鎌足が権力を握り、その後、中臣氏は最有力の祭祀氏族になった。相対的に斎部氏の地位が下がり、祭祀の中心から外されるようになる。

 中臣氏と斎部氏は、伊勢神宮の奉幣使の役職について、長年にわたって裁判で争うなど、祭祀をめぐってさまざまな揉め事があった。神事に携わる名門同士の壮絶な争いがあったのだろう。

 そして、祝詞奏上は主に中臣氏の役割とはいえ、一部を斎部氏が担っていたが、それすら除外された不満が斎部氏に渦巻き、古語拾遺という形で持論を発表したといわれている。 

 こうした背景で書かれたのが古語拾遺で、問題になるのが「上古之世、未有文字、貴賤老少、口口相傳」という一文。上古の世は文字がなく、尊い人も卑しい人も、老いも若きも語り伝えたという意味である。この記述が、後の世に大きな影響を与える事になった。

 文字通りに受け止めれば、上古は文字がなかったことになる。これが、古代和字の存在を否定する一つの根拠になっている。

 

 ム 上代特殊仮名遣が神代文字を否定

 

 古代和字の存在を否定する大きな根拠は、奈良時代以前の上代は八母音で八十七音節(八十八音節説もある)あったという上代特殊仮名遣である。

 上代が八母音八十七(八十八)音節だったとしたら、古代和字は五十音ないしはいろは四十七文字で表されるから、明らかに矛盾する。したがって、古代和字は五十音図やいろは四十七文字が作られた平安時代以降に創作された文字で、上代の文字ではないというのである。

 しかし、言語学の素人の私でも、八母音説に大きな疑問を覚えるところがある。

キ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの十三音節は確かに書き分けられ、母音が二種類あったように感じられる。しかし、肝心の母音イエオは、なぜ甲イエオと乙イエオとに書き分けられなかったのか。

 音節は、例えば子音kと母音iの結合でki=キと発音される。キに甲乙の違いがあるなら、そもそもの母音にも甲乙の違いがなければならない。にもかかわらず、母音イには甲乙の別が存在していないのである。

 さらに、平安時代になって、上代特殊仮名遣が廃れたのは、ひらがなが急速に普及したからだというが、甲音乙音があったのなら、ひらがな自体に「き甲」「き乙」のように書き分けがなされてしかるべきである。にもかかわらず、k・i のひらがなは「き」一つしかないのはなぜなのかという疑問が生じる。

 そうした疑問に真正面から挑んだのが、金沢大学の松本克己教授(当時)と、奈良女子大学の森重(もりしげ)敏(さとし)教授(同)だった。

 上代日本語の語彙すべてを調べ上げた松本氏は、「古代日本語母音論」(ひつじ書房)の中で、「母音の相違というよりも、むしろ先行する子音に付随する音声的特徴に基づくと見る方が自然な解釈といえよう」とし、音韻的には同じ音だが、環境によって違った発音になるにすぎないと結論づけた。

 奈良時代以前の漢字の執筆者は、多くが帰化した中国人だった。中国語はわずかな音の違いで意味が異なる。音に敏感な中国人が、日本人の発音を聞いて文字にしたのが万葉仮名で、必要以上に発音の差を聞き分け、万葉仮名を書き分けたというのが本当のところだろう。

 松本氏は「日本語固有の文字体系からも、また諸方言の比較研究によっても、古い時期の日本語に5母音とは違った母音体系の存在を推定することは困難である」(古代日本語母音論)と指摘し、「奈良時代のいわゆる『8母音』なるものは、書記法の作り出した「虚像」にすぎない」(同)とまで断定している。

 松本氏が論文を発表したのと時を同じくするように、森重氏は文法論と語構成の観点から上代特殊仮名遣を調べ、八母音八十七(八十八)音節を否定した。森重氏の著書「上代特殊仮名音義」(和泉書院)などによると、「イ列、エ列、オ列の乙類音はすべて、母音ウ・ア・オのそれぞれに、語をひきしめる接辞イ(「イ行く」「或イは」などのイ)が連接して生まれたもので、独立の母音ではなく、臨時の合成音とみるべきだ」と、乙類母音の存在を否定した。そして、「平安時代に入ると、接頭語イが蔭を消し、文字も渡来人の手による録音的な万葉仮名から、日本人の手による音韻的な仮名文字に移る。これらと同時に、上代特殊仮名遣が消滅するのは、偶然の暗号ではない」と指摘した。

 松本、森重両氏とも、日本人の発音を聞いた帰化人が、そのまま万葉仮名を遣って筆記したために、あたかも八母音あるように記録されたという点で一致、万葉時代の母音の数は、現代と同じ五つだ」(古代日本語母音論)と結論づけている。

 松本氏の論文は昭和五十年十二月一日付の毎日新聞学芸欄で紹介され、言語学会に大きな衝撃を与えた。それはそうだろう。橋本進吉以来、上代の日本語は八母音あったということが定説となり、どこからも異論はでてこなかったのだから、松本論文と森重論文は日本語学会に破壊的な爆弾を投げ込んだのと同じだった。

 毎日新聞の報道をきっかけに、八母音説の推進者である大野晋氏や、言語学の第一人者 の服部四郎東大名誉教授などを巻き込んで、「母音論争」が巻き起こった。いまだ議論の過程だから、どちらが勝ちという決着がついたわけではないが、八母音説を教条的に支持すべきでないことだけは明らかになった。

 松本、森重両氏の後も、何人もの言語学者が八母音説に疑問を投げ掛け、母音論争は百家争鳴の状態が続いている。しかし、母音イエオの乙音が万葉仮名で書き分けられていないことを説明できないのは、八母音説の致命傷といえよう。

 万葉仮名に書き分けがあることを最初に発見した本居宣長は、「皇国ノ古言ハ五十ノ正音ヲ出ズ」と明言していることを忘れてはならない。

 上代特殊仮名の八母音説が揺らいだ以上、古代和字を否定する言語学的根拠が失われたと言っていい。

 日本は縄文時代から弥生時代に、土器から推察できるように、高い文化を誇ってきた。高文化の国では、文字が発生するのが常識である。

にもかかわらず、古代和字の存在を比定するのは、日本が古代から高い文化を維持してきたことを否定したいためではないか。

 

ナ 古代文字考

 

 古代和字を肯定する人々は、古語拾遺のいう「文字」を漢字のことだとし、漢字が伝わらなかった時代のことを指していると主張する。しかし、そう解釈すると、漢字が伝わるまで「貴賎老少 口口相傳」していたということになる。古代和字が存在すれば、口伝えする必要はないから、肯定論者が存在を否定する論理矛盾に陥る。

 古語拾遺の作者である斎部広成は、稗田阿礼が語った歴史や物語を、太朝臣安萬侶が初めて漢字で記した古事記の序文を、当然のことながら読んでいたはずだ。神事に携わる氏族として、古事記日本書紀の成立の事情に精通していたのは確実である。そして、もし「文字」が「漢字」を意味するのなら、斎部広成は「未有漢字」(いまだ漢字あらざるなり)と記したに違いない。

 したがって、上古は文字がなかったという意味は、漢字はもちろん、何らかの文字もなかった時代、非常な太古を指していると解釈するのが普通だろう。文章通りに解釈すればいいのである。

 時代が下るにつれ古代和字が発生し、そして後に漢字が入ってきた。そう考えると、古語拾遺の一文をもって、漢字以前の文字はなかったと断定することには躊躇せざるを得ない。古語拾遺は日本固有文字の存在を、否定してはいないのである。

 さらに、さまざまな遺物から複数の古代和字が発見されたとする学説もあり、存在を肯定する地道な研究が進められている。

 古代和字といわれるものには、阿比留(あびる)文字、阿比留草文字、出雲文字、物部文字、カタカムナ文字、ヲシテなど、多くの種類があるとされる。

 もっとも、いつの時代でも物事を捏造する人間がいることを考えれば、これまでに発見されたすべての古代和字が本物であるとは言い切れない。

 古代和字で書かれたとされる文書も上記(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)、竹内文書富士古文書など、さまざまなものがあるが、これらのすべてが実在したかといえば、首を捻らざるを得ない。明らかに偽書と思われるものもある。

 こうした古史古伝の特徴は、日本に超古代文明があったと記されていることだ。例えば、天孫降臨した邇邇藝(ににぎ)命の孫で神武天皇の父にあたる日子波限)建(なぎさたけ)鵜草葺不合(うかやふきあえず)命は一人のことではなく、何人もが同じ名前を名乗った鵜草葺不合朝のことだとしている。従って、神武天皇以前に、鵜草葺不合朝が何代も続き、何万年もの歴史を持っているというのである。

 神武以前の歴史がないはずはないが、見てきたような歴史として物語を整然と記載してしまったところに、古史古伝の勇み足がみられる。偽書とされる所以だ。

 だが、すべてを否定するのはどうだろうか。たとえ後世に作られたものだとしても、何らかの真実は含まれているものだ。偽書といわれる書物でも、伝承を土台にして書かれていることが往々にしてある。

 古代和字の研究は、平田篤胤の「神字(かむな)日文傳(ひふみでん)」や、伊勢神宮禰宜(ねぎ)だった落合直澄の「日本古代文字考」(一八八八)が有名である。最近、といってもすでに故人だが、宮崎小八郎の「神代の文字」(霞ヶ関書房)は一読に値する。

 漢字以前の文字があったことを裏付けるように、日本書紀欽明天皇二年に一書(あるふみ)云わくとして「帝王本紀に、多(さわ)に古き字(みな)ども有りて、撰(えらび)集むる人……」とある。帝王本紀は古事記序文にいう帝王日継のことで、天皇家の系譜を記したものである。そういう権威ある記録に「古き字」があったというのだが、それが何を指しているのか、古代和字の否定論者は明確な答えを示してくれない。

 古代和字が存在したことは、記紀に示唆されている。古事記上巻の国生み神話では、水蛭子(ひるこ)や淡島が生まれたことで、伊邪那岐命伊邪那美命は「今吾が生める子良からず」と、高天原に上り、天つ神に相談する。そして「天つ神の命以ちて、布斗麻邇爾(ふとまに)に卜相(うらな)」ったとある。

 天照大御神が天の岩窟に籠もられたときには、天の香山の真男鹿(まおしか)の肩を内抜きに抜きて、「占合(うらな)ひ麻迦那波(まかなは)しめて」とある。

 布斗麻邇は鹿の肩甲骨を焼き、表れたひびで神意を判断する占いで、割れたひびから審神者が神意を読み取るのだが、勝手に判断するわけではない。ひびの読み方に一定の法則がなければ、審神者によってまちまちの判断になってしまう。

 中国では亀甲(きっこう)を焼いて占いをした。いわゆる亀卜(きぼく)で、そこにも読み方があり、文字が発生している。

 つまり、占いの読み方に一定の法則があれば、そこには文字があったと考えるのが妥当である。

 古代和字は神事に密接に関係していた。そして神事は、朝廷で執り行うだけではなく、有力氏族などもそれぞれの氏神を祭っていた。中臣氏は天兒屋命を、斎部氏は布刀玉命を、猿女君氏は天宇受賣命を、物部氏は邇藝速日(にぎはやひ)命をというように、氏々は独自の神々を祭っていた。

 それぞれの有力氏族が、神事から発生した文字を持ち、故事来歴を記録していたとしても不思議ではない。古代和字は神事の秘事だから、氏族が違えば、簡単には読めない。そして、自分の氏族がいかに由緒正しいかを強調するあまり、「諸家のもたる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ」という状況になってしまったのではないか。

 古史古伝超古代文明の存在が記されているのは、氏族が自己の歴史の長さを誇るため、創作=偽造したからではないだろうか。大和朝廷を快く思わない氏族が、別の王朝があったと作為をもって記録することもあっただろう。さらには、後世の人間が捏造したものもあるに違いない。

 このため「偽りを削り實を定め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむ」ことになったが、記録する文字を統一する必要性に迫られ、採用されたのが乱立する古代和字ではなく、中国から入ってきた漢字だったと思われる。

 漢字は第十五代応神天皇の時代に、百済和邇吉師(わにきし)が、論語十巻、千字文一巻の合計十一巻を朝貢して伝わったとされている。

 それ以前にも、四代前の第十一代垂仁天皇時代に、百済の国主の子、天之日矛(ひぼこ)の来日が伝えられているから、古い時代から漢字は少しずつ入ってきていたと考えられる。漢字を使用する下地はすでにできていた。

 そして、明治の文明開花ではないが、和邇吉師の朝貢で中国ブーム、漢字ブームが起き、漢字が定着していった。漢字は氏々に伝わる古代和字と違い、統一された中国の国語だから、古事記を編纂するにあたり、漢字が重んじられたのは無理もない。

 稗田阿礼が氏々の古代和字を読み、言い伝えを記憶し、それを漢文に精通した太朝臣安萬侶が、原文の意味を違えないよう、細心の注意を払って纏めたのが古事記なのである。

 古事記の序文を後世の偽作としたのは加茂真淵で、安萬侶を架空の人物とした学者もいた。さらに、古事記そのものを偽書とする見方もある。

 古い時代の物事を、現代人のわれわれが、完全に解き明かすことは容易ではない。それを承知で異論を唱えるのは、自己アピールとしか思えない。大学者の加茂真淵がそうだとは言わないが、現実に存在しているものを、どうして否定したがるのだろうか。

 蛇足だが、安萬侶架空説は昭和五十四年、奈良市の茶畑から太朝臣安萬侶の墓が発見され、骨や木櫃、墓誌が出土し、完全に否定された。その後は、辻褄合わせで序文だけが後世の偽作という主張に変わってきた。

 これだけをみても、古事記や序文の存在を、素直に受けとるべきだろう。

 ドイツのシュリーマンが伝説的な詩人ホメロスの詩を元に、トロイやミケーネの遺跡を発掘し、エーゲ文明の存在を証明したように、いわゆる伝説や神話は、事実を物語っていることが往々にしてある。

 古事記序文によれば、安萬侶は大変な努力をして古事記を編纂している。

「上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構うること、字に於いて即ち難し」

 とあるように、漢文ですべてを表すことはできないと正直に述べている。そして、漢字の音訓を交え、可能なかぎり上古の言葉に近づくよう書いたのである。

 ちなみに、古事記の序文は純粋な漢文体(つまり中国語)、古事記本文は漢文と仮名の交じった変態の漢文体、歌謡は一音節一字の仮名と、はっきりと書き分けられ、さらに、読みを明確にするため、注表記がなされている。

 古事記が非常に言葉を大切にしていることがわかる。

 だが古事記日本書紀を、まったくの架空物語であるとか、「征服王朝」側から書いた一方的な歴史書だと、存在価値を否定する学者や文化人がいる。

 恐ろしいのは、古代和字らしいものが発見されても、「権威ある知識人」や郷土史家などが、よく調べもしないで「偽物」「捏造」だと心ない断定をして破壊されかねないことである。発見されながら、偽物だから不要だと判断され、闇に葬られた遺跡が数多あるに違いない。

 それは日本人のアイデンティティを崩壊させることにつながりかねないから、不用意な発言をしてはならないと肝に銘じてほしい。

 

 ヤ 日本書紀以前の書

 

 欽明天皇紀にある「古き字」はどのようなものだったのだろうか。現物が残っていないから断定できないが、日本紀私記や扶桑略記釈日本紀などから類推することは可能だ。

 日本紀私記は奈良時代から平安時代にかけ、七回にわたって行われた日本書紀の講義録である。養老五年(七二一年)、弘仁三年(八一二年)、承和十年(八四三年)、元慶二年(八七八年)、延喜四年(九〇四年)、承平六年(九三六年)、康保二年(九六五年)の各回で、日本紀の成立直後から講義が行われていたことになる。それぞれの講義録を私記といい、弘仁私記や承平私記などと呼ぶ。

 仮名で書かれたという日本紀について詳しい記録を残しているのは釈日本紀で、日本書紀の講義録を卜部兼方鎌倉時代にまとめたものである。まとめた時期が後世ということで、資料的な価値の問題があるが、示唆に富んだ書物である。

 この中の巻第一「開題」の部分で、仮名日本紀という単語が頻繁に出てくる。最初に読み下し文を、後に現代語訳を示す。

 

問。此の書を考え読むため何の書を以って其の調度として備ふべきか。

答。師の説では、先代旧事本紀上宮記古事記、大倭本紀、仮名日本紀など是なり。

又問。仮名日本紀は何人の作るところで、又此の書の先後如何と。

答 師の説では、元慶の説に云ふ此の書を読まんが為に私に注出する所なり、作者未だ詳らかならず。

又問 仮名本は元より在るべし。其の仮名を嫌ふが為に、養老年中に更に此の書を選ぶ。然るに則ち、此の書を読まんが為に、私に記すと謂ふべからず。

答 疑うところ理あり。ただ未だその作者を見ざるなり。今按ずるに仮名本は世に二部有る。其の一部は和漢の字相雑へて之を用ひ、其の一部は専ら仮名、倭言の類を用ひて居る。上宮記の仮名は已に旧事本紀の前にあつた。古事記の仮名も亦此の書の前にあつた。仮名の本は此の書の前にあつたと謂ふべきである。或る書に云ふ養老四年安萬侶等をして日本紀を選み録さしむ。之の時古語、仮名の書数十家に有りしと雖も勅語をもつて先と為す。然る時は則仮名の本は此の前にあったことは確かである。

又問 仮名字は誰人が作るところか。

答 大蔵省の御書の中に、肥人の字六七枚ばかり有り。先帝は御所に於いて其の字を写させたまふ。みな仮名を用ふ。(中略)

先師の説に云う。漢字が我が朝に伝来するは応神天皇の御宇なり。和字においては、其の起こり神代にあるべきか。亀卜の術は神代より起これり。所謂此の紀の一書の説に、陰陽二神蛭児生れます。天神太占を以って之を卜ひ、時日を卜ひ定めて降したまふ。文字無くんば豈に卜ひとなるべけんや。

 

現代語訳

問 この書(日本書紀)を読むのに、どのような書物を参考として備えるべきでしょうか。

答 師の説によると、先代旧事本紀上宮記(かみつみやのふみ)、古事記、大倭(おおやまと)本紀、仮名日本紀などです。

又問 仮名日本紀は誰が作ったのですか。また、日本書紀とどちらが先に作られたのですか。

答 師の説によると、元慶二年の講義では、仮名日本紀日本書紀を読むために、私的な注釈書として作られたものだとしています。作者はわかりません。

又問 仮名日本紀は以前からあったのではないですか。仮名であることを嫌って、養老年中にさらに日本書紀を選集したのではありませんか。日本書紀を読むために、私的に作った注釈書というのは間違いです。

答 疑問はもっともです。しかし、作者はわかりません。いま考えると、仮名日本紀は世の中に二部あります。その一部は和漢の文字が雑(ま)じったものです。もう一部はもっぱら仮名倭(やまと)言葉を用いています。上宮記の仮名本は旧事本紀ができる前にありました。古事記の仮名本も日本書紀の成立以前にありました。仮名日本紀日本書紀の成立前にあったと言うことができます。ある本によると、養老四年に安萬侶たちが日本書紀の撰録を命じられたときに、古語や仮名の書が数十の家にありましたが、みな勅語のほうを優先させました。したがって、仮名日本紀日本書紀成立以前にあったということはもっともなことです。

又問 仮名字はだれが作ったのですか。

答 師の説では、大蔵省の書の中に、肥人(ひのひと)の文字が六、七枚ほどあり、先帝が御所で写させられました。みんな仮名を用いていて、その字はまだ明らかになっていません。(中略)

 先師の説では、漢字が我が国に伝わったのは応神天皇の御世です。和字の起こりは神代にあるべきでしょうか。亀卜(きぼく)の術は、神代より起こっています。いわゆる日本書紀の一書の説に、陰陽二神(伊邪那岐伊邪那美の命)が蛭児(ひるこ)を産んだとき、高天原へ上がって天つ神に尋ねたので、天つ神が太占(ふとまに)をもってこれを卜(うらな)い、時と日にちを定めて地上へ降(くだ)されました。文字がなければ、どうやって卜いをなすことができるでしょう。

 

 釈日本紀のやり取りから、日本書紀ができる以前に仮名日本紀が存在しており、古事記上宮記も仮名で書かれたものがあったことがわかる。そして仮名文字は神代から伝わっていると判断している。

 釈日本紀以外にも仮名日本紀の存在を示唆する古書は、弘仁私記、承平私記、扶桑略記(一〇九四年頃に成立)など数多くある。

 弘仁私記に次のようにある。

 

 飛鳥岡本宮朝(皇極帝)の皇太子は漢風を好まれた。難波長柄宮朝(孝徳帝)、後の岡本宮朝(斉明帝)、近津大津宮朝(天智帝)の四代の間、文人学士は各競って帝紀、国記、および諸家記、氏々の系譜などを漢字を以って漫りに之を翻訳し、私意を加えて人を誣いす。殆ど先代旧事の本意が絶えん。

 

訳 皇極天皇の皇太子は大いに漢風を好まれ、孝徳天皇斉明天皇天智天皇の四代の間、文人学士はみな競って帝紀、国記、および諸家の記録や氏々の系譜をみだりに漢字に翻訳し、私意を加え、事実を曲げて人を騙し、ほとんど先代の旧事の本当のところが絶えようとしている。

 

 これを読むと、皇極天皇から天智天皇在世までの約三十年間、古代和字の記録を漢字に翻訳し、かつ勝手に書き換えていたことがわかる。漢字ブームが到来し、我先に記録を改竄していたのである。それを憂えた天武天皇が、事実を明確にし、後世に残そうとしたのが古事記であり、続く日本書紀だった。

 皇極天皇孝徳天皇斉明天皇天智天皇の御世は仏教勢力が盛大となり、さらに百済を支援した白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北し、世相が多いに乱れていた。漢字がもてはやされ、仮名(古代和字)=国字は軽んじられた。このため各氏族は、古代和字を漢字に訳し、氏族に都合のいいように改竄し、過去の歴史が捻じ曲げられ滅びようとした。そこで、天武天皇勅語をもって歴史を正したと推測できる。古事記序文に「諸家のもたる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ」と記されたことがまさに起きていたのである。

 この時、各氏族に伝わる普遍性のない古代和字では統一することが難しく、漢字を統一文字としたため、古代和字は忘れ去られていく運命となった。さらに、漢字の国字化で、古代和字を使用することがはばかられ、消滅していったのではないか。

 古語拾遺を表した斎部広成の子孫・忌部正道は「神代巻口訣(くけつ)」で興味深いことを記している。

 

神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域より書始めて来朝す。推古天皇朝に至り聖徳太子漢字を以って日本字につける。後百有余歳、而して此の書となる。

 

訳 神代文字象形文字である。応神天皇の御世に漢字が伝わり、推古天皇の時代に聖徳太子が漢字を日本字の横に付した。それから百年以上がたち、此の書となった。

 

 さまざまな古代史料を検討してみると、古代和字が存在しなかったと断定することはとてもできない。中立な視点でこれらの史料を見れば、少なくとも奈良時代から、日本書紀を講義する学者たちは、漢字ではない文字、すなわち古代から伝わる和字があったと認識していたことは明らかである。

 日本の文物は大陸中国より後れていたという先入観があると、これらの貴重な史料を見落とすことになる。もっとも、自説を主張するため、意図的に無視しているのかもしれないが……。

 ちなみに韓国では、古代和字の一種である阿比留文字とハングルの形が似ているというので、ハングルを真似て神代文字を偽造したと主張する向きがある。この説の致命傷は、ハングルができたのが十五世紀、肥人の文(阿比留文字)について論じている釈日本紀の成立が十三世紀であることである。それだけでも年代的に二百年の差があるから、ハングルを真似て阿比留文字を作ろうにも作りようがない。

 自国の文化が高いと無理やり信じ込み、何でも自分たちが作ったと主張したがる朝鮮族の、子供っぽい自己中心の性癖が端的に現れている。

我が国の考古学者や歴史学者が先入観を払拭し、中立な目で遺物を調べれば、古代和字の存在は明確になるだろう。そうなる日を願ってやまない。