巻の5 後編  本つ教えの本質歪めた明治政府

ミ 復古神道の爆発

 

 吉田神道垂加神道の流れを汲み、仏教や儒学の影響を排除し、古事記万葉集などの、我が国固有の古典に忠実に従おうとしたのが国学者たちだった。

 その先兵となったのが、京都の伏見稲荷大社の神官の家に生まれた荷田春満(かだあづままろ)(一六六九~一七三六)で、神職を弟に譲り、国学を研究し、我が国固有の道を説くことに専念した。

 荷田家の神道吉田神道の流れを汲み、さらには山崎闇斎の門弟が伏見稲荷大社の神官に就いていたことから、春満は幼年時代から神道中心の考え方を持っていた。

荷田春満国学復古神道の先駆者で国学四大人(うし)の一人と言われ、賀茂真(ま)淵(ぶち)(一六九七~一七六九)に大きな影響を与え、それが本居宣長(一七三〇~一八〇一)、平田篤胤(一七七六~一八四三)の国学運動へとつながっていく。

 加茂真淵は遠州静岡県)浜松の加茂神社の社家出身で、荷田春満の門下で万葉集を研究した。真淵の影響を受けたのが伊勢国三重県)松坂に生まれた本居宣長である。宣長は医学を学ぶが、僧契沖(一六四〇~一七〇一)の学問に触れて国学に興味を持ち、さらに松坂で加茂真淵に会ってから万葉集古事記などの古典研究に没頭した。

 宣長は日本文学の基本を「もののあはれ」に求め、古事記の精神に基づき「漢(から)意(ごころ)」を排除して、神道がすべての大本であることを説き、大部の「古事記伝」を執筆して国学研究の姿勢を確立した。

 宣長の没後の門人である平田篤胤は、秋田久保田藩藩士の子供として生まれ、備中国松山藩の平田家の養子になり、宣長の著書に触れて国学に開眼した。

 宣長、篤胤ともに天照大御神を太陽そのものと唯物的に判断したのは、神道の真髄を理解できなかったからで、国学の限界を示したといえよう。

 篤胤は宣長の学風を受け継いでいるが、大きな違いは神霊や霊魂、神仙、さらには神代文字などの存在を肯定しているところである。

 篤胤の前に突如姿を現した、仙界を知るという天狗小僧寅吉から聞き取りして「仙境異聞」を著し、「勝五郎再生記聞」では人の生まれ変わりを論じた。篤胤は伯家神道吉田神道の古学教授を委嘱され、神道の行にも深い興味を示した。

 篤胤の最大の功績は、黒船の来航で国家存亡の危機にあって、幕末から明治にかけ維新運動を推進した勤皇の志士たちに、思想的な影響を与えたことである。だが、明治新政府は当初こそ平田門下生を重用したが、政教分離政策によって政府中枢から放逐していった。

 

ヨ 近世二度の埋没

 

 明治維新政府は明治元年に「祭政一致ノ詔」を発し、祭政一致の道を目指した。さらに神祇官制度を復活させ、同三年には、宣教師を任命して大教(神道精神)を国民に布教する「大教宣布ノ詔」が下された。

 神仏判然令(分離令)を拡大解釈した排仏棄釈などの行き過ぎもあったが、維新をなし遂げた志士たちの思いが実行に移されたといっていい。

 しかし、世襲制を否定する神祇官制度の導入によって、八二三年に及んだ白川神祇伯は廃止された。白川家は明治初めまで皇室祭祀を司り、天皇や摂政にさまざまな手振り=作法を伝授していたにもかかわらず、新政府は存在を否定したのである。同時に、吉田神道神職免許の授与権を剥奪された。

 吉田家や白川家を排除したのは、「岩倉具視ら政府首脳らの総意の反映で、『白川氏などこれまで神祇に関係していた人々は一切採用しない』ことが、岩倉具視と神祇事務局総督の鷹司輔熙の間で確認されていた」(女性神職の近代 小平美香 ぺりかん社)からである。

 岩倉具視は白川家などの神祇家を目の敵にしていた節がある。敬神の念の強い孝明天皇が、公武合体と攘夷を強く求めた原因は、神道の影響があったからだと考えていたからである。

 吉田神道は神社を保有していたから細々とではあるが生き残ったが、白川神祇伯は固有の神社を持たず、皇室にだけ奉仕していたから、神祇伯を廃止されては、権威を失い没落していくしかなかった。

 岩倉を筆頭とする新政府の重鎮が、神道政策を歪めた責任は大きい。

 明治四年には、神社はすべて国家の宗祀(そうし)とされ、これによって神社独自の祭祀が禁じられ、国の祭祀方式に統一された。例えば、柏手は出雲では四開手(よひらて)、神宮では八起拝(やおきはい)八開手(やひらて)だったのに、一律に二拝二拍手一拝と定められた。もっとも、これに従う由緒ある神社は皆無で、独自の祭祀が続けられた。

 さらに神官の世襲制と社家制度が、人材登用のため廃止された。復活した神祇官もすぐに廃され、翌年には神官や国学者から登用されていた宣教師制度も廃止され、僧侶も就任できる教導職制度が導入された。宣教師や教導職はキリスト教の布教に対抗し、神道精神を普及するための職制であるにもかかわらず、僧侶を登用したところに政府の見識のなさが表れている。

 そして明治十五年、神官の教導職兼任が禁止され、国家の宗祀としての神社と、教導職が普及する宗教活動とが、完全に分離されてしまった。

簡単に言えば、神社は宗教性を持ってはならないと規定されたのである。この神社神道がいわゆる国家神道と言われるものだ。神社から宗教性や神秘性を排除してしまっては、神の道とはならないから、明らかに時の政府の失政である。

 この分離政策で、葬式は宗教性があるからという理由で、神官は例外を除いて神葬祭を禁じられた。明治維新で一千年以上にわたる神仏混交に終止符を打ち、やっと神葬祭が復活したのに、神社と教導職の分離が、再び歪んだ姿にしてしまったのだ。

 神葬祭を禁じて宗教性を排除すれば、先祖の霊を祭る「みたままつり」まで否定することになる。これでは、皇霊殿で歴代天皇の御霊を祭る皇室の神事すら否定しかねない。明治政府の政治家や官僚は、口では敬神を唱えながら、実際には神をも恐れぬ無神論者ばかりだったのである。神道は時の政府や官僚に利用されて意図的に埋没させられ、ここに「いわゆる国家神道」という「官僚神道」が出来上がった。

 それを推し進める方策が、いかに激烈であったかは、神道国際学会会長を務めた中西旭氏が「神道の理論」(たちばな出版)で次のように述べている。

 

 又、「神武創業の始に基づき諸事一新」の維新制度の立案者たる玉松操(大国隆正門下)も、それと前後して侍講より隠退し、「孺子(岩倉具視を指す)に全く騙された」と慨嘆して突如死亡した、否暗殺されたと云われる(明治五年二月)

 

 玉松操は錦旗を作り、薩長土肥を官軍に仕立て上げた立役者だが、そんな人物すらも要職から追われ、暗殺されたのである。そして、神道行事が軽視されていく。

 宮内庁が昭和、平成と、天皇陛下のご高齢を理由に皇室神事を簡略化しようと画策する動きは、神道行事軽視の当時とよく似ているのではないだろうか。

 

イ 意図した脱神道

 

 明治維新直後の神道行政を担ったのは、長州藩に隣接する津和野藩藩主の亀井茲(これ)監(み)と、藩士の大国隆正や福羽美静(よししづ)などの津和野派といわれる神道家たちだった。

 津和野藩は「明治維新以前に神仏分離を実行したり神葬祭を実行したりした」(国家神道と日本人 島園進 岩波新書)ほどの、熱狂的な国学派だった。

 そして維新政府内で「津和野派の影響力は平田派を圧倒し、一八六八年頃には彼らが神道事務局を動かし、行政の主導権を握るようになった」(同)ため、平田学派は急速に力を失い、神社行政は彼らが目指した理想とは程遠いものになっていった。

 津和野派と平田学派の対立は、平田学派の神職重鎮である常世長胤(とこよながたね)が書いた「神教組織物語」(日本近代思想大系五 岩波書店)に詳しい。

 平田学派が没落していくさまは、島崎藤村の小説「夜明け前」が、発狂して死ぬ主人公の青山半蔵の眼を通して、当時の状況を生き生きと描いている。ちなみに、青山半蔵のモデルは藤村の実父である。

 岩倉らは長く続いた神祇家を排除したが、維新政府の神祇官だけで祭祀を行うには、知識や経験の不足で無理があった。「大祓」や「祈年祭」「新嘗祭」などで白川家や吉田家に頼らざるを得ず、明治四年には「いったん排除されたはずの白川資訓、吉田良義が『掌典』に任命されることによって両氏の神祇官復活が実現」(女性神職の近代)したのである。

 伝統ある神祇家を排除し、次には頼らざるを得ない維新政府の神祇行政は、右往左往するだけの場当たり的で混乱を極めた。

 さて、大東亜戦争に負け、GHQの神道指令でいわゆる国家神道軍国主義の原因にされたため、明治維新神道復活を進めた平田学派がファシズムの根源だと非難されている。しかし神道政策の歴史をみれば、維新政府は平田学派を排除しているから、この主張がいかに的外れかわかる。

 では、なぜ維新政府は神社から宗教性を排除する神道政策を取ったのか。一つには、鎖国から開国へと外交の舵を切った維新政府が、欧米諸国から信教の自由の確立、すなわちキリスト教の自由な布教を強く求められたからである。

 このため維新政府は浅はかにも、国家祭祀から宗教性を排除すれば、神道は宗教ではなくなるから、神社を国家護持しても欧米諸国から批判されなくて済むと考え、神社と宗教的な神秘性が不可分なのにもかかわらず、教導職の導入で神社から宗教性を分離した。

 この「官僚神道」が国家政策を大きく歪める結果となった。

 欧米の帝国主義国家が、他国を侵略するときに、先兵としてキリスト教を布教させるのは歴史が証明するところだ。だから、宣教師にしろ教導職にしろ、キリスト教にいかに対抗して神道を国民に普及するかが最大の課題であった。

 しかし、神道を普及する教導職に僧侶を加えるなど、政府の神道政策は支離滅裂だった。ものの本質をわきまえない官僚の姑息な政策が、神道を誤った方向へ導き、国民に誤解を与えてしまったのだ。

 さらに、鹿鳴館に代表されるように、「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開花の音がする」と庶民から揶楡(やゆ)された西洋化政策が、神道軽視に拍車をかけた。我も我もと西洋かぶれし、伝統を棄てるのが進歩人とでもいう風潮が蔓延していった。思考停止が起こったのである。

 この時代も、官僚が国の政策を誤らせた。米国に追従し、中国に媚を売るのが得という人間ばかりの現代と、そっくりではないだろうか。いつの世にも、深く物事を考えない外国崇拝者(かぶれ)の軽薄な人間がいるものだ。

 そういう精神的な危機は、古事記の編纂時のように、日本を何度も襲っている。そのたびに、時の天皇が祭祀の必要性を説かれている。

 

 わが国は 神のすゑなり 神まつる

 昔のてぶり 忘るなよゆめ

 

 とこしえに 国まもります 天(あめ)地(つち)の

 神のまつりを おろそかにすな

 

 明治天皇御製である。明治天皇伯家神道の行に熱心だったといわれ、神道関係の資料が残されていないか、襖の下張りまで探されたというほど敬神の念が強かった。御製から、政府によって神祭りがおろそかにされていくことへの、強い懸念が読み取れる。

 神祇伯の廃止で、政府は白川伯王家に代々伝わった、皇室のさまざまな作法などを記した有職故実(ゆうそくこじつ)の返却を求め、伯家神道の存在価値を失わせた。神祇伯が廃止された後も、しばらく白川伯王家は子爵として続くが、貴族の例外に漏れず没落、さらに跡継ぎに恵まれず、ついに断絶した。その結果、伯家神道は民間に埋もれることを余儀なくされた。

 それでも伯家神道は、断片が教派神道や民間修行者に細々と伝わっていった。伯家神道最後の学頭だった高濱清七郎(たかはま・せいしちろう)が宣教師となり、全国布教に携わったから、行を継承した有志がいたに違いない。

 民間に埋没した伯家神道は、後に「霊学中興の祖」といわれている本田親徳(ちかあつ)(一八二二~八九)らに一部が伝えられ、本田の鎮魂法が大正、昭和と大弾圧された大本教に受け継がれ、さらには大本教から派生した多くの新興宗教へと流れていった。

 

ム 神道十三派

 

 明治十五年の神官と教導職の分離で、宗教性=神秘性が認められない神社神道を嫌った多くの神官は、辞任して教導職になっていった。そうした動きが、教派神道という新宗教の設立につながっていく。

 教派神道が成立する土台はすでに徳川時代からあった。幕末期は長い徳川家支配で制度疲労を起こし、武家社会は豪商から借金をしなければなり行かず、農民や大衆は貧困に喘いでいた。貧富の差が著しく拡大したのである。さらには黒船の来航は幕府だけでなく、国民に恐怖と混乱を招いた。

 社会不安が強まると、いつの時代でも大衆はすがるものを求める。そして、大衆の求めに呼応するように、新しい宗教が産声をあげ、虐げられた大衆に浸透していく。徳川時代の末期は新宗教が次々と産声を上げた黎明期であった。

 さらに尊王攘夷意識の高まりは新宗教にも影響を与え、眠っていた日本古来の神々を目覚めさせたとでもいうように、神道系の教団が相次いで誕生した。それに拍車を掛けたのが神職と教導職の兼務禁止で、教導職が新宗教に流れ込み、教派神道が独立し、神道十三派が明治政府から順次公認された。

 黒住教(明治九年)

 神道修成派(同)

 出雲大社教(十五年)

 扶桑教(同)

 実行教(同)

 神道大成教(同)

 神習教(同)

 御嶽教(同)

 神道大教(十九年)

 神理教(二十八年)

 禊教(同)

 金光教(三十三年) 

 天理教(四十年)

これら以外に神宮を中心にした神宮教(初代管長は時の神宮大宮司田中頼(より)庸(つね))が認められていたが、神宮は宗派を超えた存在だとして宗教団体の性格を改め、明治三十二年に財団法人神宮奉斎会へと改組した。

 教派神道黒住教金光教天理教のように教祖の神憑り体験を基に作られた教団や、修験道のような山岳宗教、さらには尊王運動の中から生まれてきた教団などさまざまだった。金光教天理教は幕末から活動していたにもかかわらず認可が遅れたのは、教義が国家の宗祀に合わなかったためで、教義を作り変えてやっと認可された。

 

ナ 帰神法

 

 この時代、宣長や篤胤の感化をうけて国学復古神道に人材が湧出し、新宗教も活発になったが、後世に大きな影響を残す鎮魂帰神法を復活させたのが、明治維新前後に活動した「霊学中興の祖」といわれる本田親徳である。本田親徳は薩摩出身の神道家で、水戸学の会沢正子斎に師事、白川神祇伯の最後の学頭だった高濱清七郎から教えを受けたといわれている。

 本田親徳が霊学研究を始めたきっかけは、京都の藩邸で狐憑(つ)きの少女の憑依(ひょうい)を見てからだった。今では狐憑きなどというと首を捻る向きが大半だろうが、物質文明が発達する以前の素朴な生活環境にあっては、憑依現象は稀なものではなかった。

 本田親徳が再興した霊学は神主に神霊を懸(か)からせるいわゆる神懸(かみがか)り行で、さらに審神者(さには)が神霊の善悪や区分などを判定する審神法、懸かった神霊を鎮める鎮魂法などからなっている。

 本田が平田篤胤を厳しく批判したことから、外務卿などを務めた明治の元勲の一人、副島種臣(一八二六~一九〇五)らの弟子たちが平田門下生の報復を恐れ、著作を世間に発表させなかったという。さらに代表的な著作の「難古事記」が完成した明治十六年は、自由民権運動などの弾圧が起こり、副島らは本田霊学が政府から危険思想とみなされることを恐れて発表を見合わせさせた。

 本田親徳の数百人の弟子の中で、正統な後継者とみなされているのが門下生一千人を超えた長沢雄楯(かつたて)(一八五七~一九四〇)である。長沢雄楯は静岡県の御(み)穂(ほ)神社社司で、月見里(やまなし)神社の神主でもあった。月見里神社は御笠稲荷神社とも呼ばれ、御笠稲荷講社として県の認可を得て、本田霊学の神懸り行を布教した。

 この稲荷講社を訪ねたのが上田喜三郎、後の大本教の聖師となる出口王仁三郎(おにさぶろう)(一八七一~一九四八)である。

 大本教は大正十年と昭和十年の二度にわたって官憲の弾圧を受け、大東亜戦争の敗戦で自由の身となったが、弾圧される過程で分かれていった幹部たちが、世界救世教生長の家など、現在でも活発に活動している多くの新宗教を設立した。大本教は今なお宗教界に大きな足跡を残している。

 

ヤ 近世の言霊学

 

 鎮魂帰神法の本田親徳に先立ち、平田篤胤と同世代の神道家で、近世言霊学再興の祖といわれるのが、山口志(し)道(どう)(一七六五~一八四二)と中村孝(たか)道(みち)(不明~一八三七)の二人である。

 二人の活動は、本居宣長平田篤胤国学復古神道を提唱した時代と重なっており、この時期は長い間埋もれてきた神道や言霊学が、一斉に甦りを果たした復活のときだったと言えよう。

 山口志道は現在の千葉県鴨川市豪農出身で、代々伝えられた古文書「布斗麻邇御霊(ふとまにみたま)」の解明を進めているうち、荷田春満の後裔から伏見稲荷神社に伝わっていたとされる「稲荷古伝」を伝授され、著書「水穂伝」を完成した。志道の言霊学は、すべてのものは「火」と「水」で成り立っており、「火(い)水(き)の発現である言霊によって天地が動く」とし、独特の五十音図を作り上げた。

 中村孝道の言霊学は「ますみの鏡」という七十五音図(濁音を含めた音図)の中心に「す」音を配し、七十五音すべてに解説をつけた。特に「す」音は「天(すめら)皇(みこと)」や「統(す)べる」の「す」であり、すべてを統一する働きがある中心音としている。

 中村孝道の言霊学は高弟の望月幸知から孫の望月大輔に引き継がれ大成した。望月家は滋賀県甲賀の在で、祖は大伴氏にさかのぼる名家とされている。望月大輔は後に近代言霊学中興の祖といわれる大石凝真素美(おおいしごり・ますみ)(一八三二~一九一九)である。

 古代から伝わってきた鎮魂帰神法や言霊学、禊行は、行基以来の神仏混淆により、いずれも歴史の闇に埋没したが、国が危機に陥るたびに甦り、幕末から明治維新の激動の中でも復活した。あたかも時代に意志というものがあるかのようである。

 それら神々の業(わざ)は、神道に対する明治政府の失政や西洋化の推進、昭和の軍部主導の誤った思想弾圧で再び地下に埋没し、さらにGHQが神道軍国主義の基となった国家神道だと誤認、抹殺しようとしたところから、国民が精神的支柱を失った現在の悲劇がある。

 そして、神道が埋没した間隙を縫って、宗教とも言えない代物が、人々の不安を煽って謳歌している。あるいは、物質至上主義の刹那的唯物論が大手を振っている。

 だが、我が国が存亡の危機に直面すると、埋没し伏流水となっていた神道は必ず甦り、国を正しい道へと導く。平成二十五年の神宮ご遷宮は、国民の心を洗い、神々の世界へと意識を向けさせた。人々の意識が思考停止から甦る秋(とき)は近い。