巻の六 秘められた奇跡の道は禊から

 現代は第三次宗教ブームだと言われているが、自己を内省し精神を高みに導くべき宗教でも思考停止が起きている。いや、宗教だからこそと言うべきか。

 鰯の頭も信心からというが、傍から観れば首を捻る教祖の言動でも、信者が頭から信じてしまうのが宗教だ。宗教をなまじかじると思考停止に陥り、周りが観えなくなる例がいくらでもある。

 信教の自由があるからといって、悪神や悪霊、悪魔を信じれば魂や身の破滅だ。おのれだけの不幸で済めばまだしも、善良な青人草=国民を苦しめてしまうことになりかねない。地下鉄サリン事件を思い浮かべれば一目瞭然である。

 大半の宗教団体が教祖や教義を疑うことなく信じ、他者の批判を受け付けようとしない。場合によっては社会に牙を剥き、権力をつかもうとするのは、古代から宗教の歴史が物語っている。国家にとって、宗教は諸刃の剣なのである。

 一口に宗教といっても、ピンからキリまである。宗教を語るうえで最も大切なことは、教団が最高神や本尊とする神や仏の「格」であると肝に銘じなければならない。

 神信仰は、浄(きよ)く明(あか)く正(ただ)しく直(なお)く、爽やかさを感じさせるものである。爽快感がない宗教団体は、我が国伝統の神祭りとは無縁である。思考停止していると、そのあたりの判断ができなくなり、妄信してしまう。

思考停止から脱し、自分の頭で考え判断できるようになるには、伏流水となって伝えられている正しい神道を、まず知ることが肝要である。

 

 ヒ 歪んだ宗教政策

 

 近年の第一次宗教ブームは、幕末から明治にかけて起きた。すでに述べたように、明治十五年の神職と教導職の分離をきっかけに、教派神道十三派など多くの宗教団体が設立され、明治政府に認可されなかった宗教団体は、十三派の傘下に入って活動を維持した。

 第二次宗教ブームは戦後すぐの昭和二十年から始まった。戦前は大本教事件に象徴されるように、軍部を中枢とする政府が、さまざまな宗教団体を治安維持法不敬罪などで弾圧した。その反動で、敗戦を機に鳴りを潜めていた宗教団体が次々と息を吹き返した。

 そして現在の第三次宗教ブームで、雨後の竹の子のように宗教団体が発生している。玉石混淆というのならまだしも、真理を求める本物の宗教団体が、いったいどれだけあるのかと首を捻るばかりだ。自己満足に留まる宗教なら無益というぐらいで済むが、オーム真理教のような犯罪者集団となると、由々しき問題になる。

 ほかにも似たような宗教団体が多く存在する。血分け(教祖が若い女性信者全員と交わる性儀式)や全財産の強制寄付、悪質霊感商法などなど、反社会的な教団は少なくない。

 これらの多くが、オーム真理教裁判で明らかにされたように、さまざまな洗脳技術を駆使し、信者に思考停止を起こさせ、教義に疑問を持たせなくしている。

 集団の中にいると、その場の雰囲気で暗示にかかりやすくなる。集団暗示は新興宗教だけでなくさまざまな教団や政治団体が、熱烈な信者や賛同者をつくるために採用する洗脳手法だ。社会問題化した宗教団体絡みの事件は、マインドコントロールによって理性を失った信者たちが起こしたものがほとんどである。洗脳されたら抜け出すことは容易ではない。

 なぜ、簡単にと言ってもいいほどに洗脳されてしまうのだろうか。いつの時代でも、漠然とした社会への不安は存在するが、物質文明が高度に発達した現代、心の安定を求めて神や仏、霊的なものを求める人々が多くなっている。それが第三次宗教ブームになっているのだが、神霊についてあまりに無知な故に、深い考えもなく教団に接触し、信者にされてしまう。

 無知の最大の原因は、明治政府の神職と教導職の分離に始まり、大東亜戦争の敗戦によってGHQの占領政策、とりわけ神道指令で国の伝統と歴史を否定され、政教分離政策が採られたからにほかならない。

 政教分離政策は神道だけに厳しく、ほかの宗教には甘いという矛盾がはなはだしいにもかかわらず、独立回復後も政府はそのまま受け継いでしまった。そして、信教の自由への抵触をタブー視するあまり、宗教と呼べない代物まで野放しにした。

 日本の神々を国民が理解できない状態になってしまったのだ。

 とはいっても、この狭い国土に神社本庁傘下の神社が八万社近くもある。正月には初詣に行き、安産祈願や生まれた赤ちゃんのお宮参り、厄払い、受験生の合格祈願などなど、日本人は常に神々とともにある。少し意識して回りを見れば、身近なところに神社がいくつもある事実に気づくだろう。やはり日本は、神々とともにある国なのだ。

 問題は、戦前の軍部の歪んだ神道解釈や、神道を否定する戦後の政教分離政策で、人々が神道本来の姿を見失ってしまったことだ。

 神々の世界には、侵すことのできない上下関係がある。そして神道は、八百万神とは言いながら、天照大御神という唯一絶対の最高神が存在している。

 これに対し、宗教が最高神として祭る神は、大半が八百万神の一柱で、教祖や開祖に降(くだ)ったとされる神である。絶対最高の神でもなければ、唯一の神でもない。自教団の神を最高とする誤った神観が、世を乱れさせる原因だと言ったら、言い過ぎだろうか。

 一世を風靡した神道家の修行法を知れば、現代の宗教家のそれがいかに危険で薄っぺらなものか判断できる。まず、本物を知ることである。

 これから具体的な修行法を紹介するが、見よう見まねで行を修すると、危険を招きかねないから、しっかりした道彦に先達してもらわなければならない。

 具体的な鎮魂行法について述べられた書物は、門外不出ということもあるだろうが、意外に少ない。ここでは川面凡児、本田親徳など神道家の実践行と、埋没した白川伯家神道、明治に復活した石上神宮の修行法から、神道の本質を探る。

 

フ みそぎ

 

 神道の基本は、心身を清める禊(みそぎ)である。

 黄泉の国から還った伊邪那伎大神が、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門の阿波岐原(あわぎはら)で、身についた穢れを清めたのが禊の始まりである。

 古事記日本書紀には、大祭の前に天皇が御禊を行ったという記録が随所に出てくる。古代、十一月下旬の卯(う)の日に行われる新嘗祭(にひなめさい)は、天皇践祚(即位)した後を特に大嘗祭(おおなめさい)といい、一月(ひとつき)前の十月に加茂川で御禊を行ったと記録がある。

 社家や宮廷人も禊をしたに違いないが、いつのころからか行われなくなった。願い事をする人々の水垢離や、修験道行者の修行などに、わずかな名残が伝えられてきただけである。埋没したといわれるゆえんだ。

 神代からの禊を復活させたとされるのが川面凡児である。

 川面凡児は大分県出身で、宇佐神宮の東南にある馬城峰(まきのみね)にたびたび登り、斎籠修行中に六百九十七歳と自称する仙人に出会い、さまざまな神秘的な教えを受けたという。このときの斎籠行が川面凡児の原点となっている。

 一時は蓮華法印の名前で仏教界で活躍、後には「大日本世界教稜威会本部」を創設、神奈川県の片瀬海岸で毎年、大寒禊を行った。

 川面凡児は社家などから「行者」と蔑まれたが、神宮奉斎会会長の今泉定助が寒中禊に参加するにいたって、禊は一気に神社界に広がった。

 厳格な禊を指導することで有名な日本大学今泉研究所の礎を築いた今泉定助は、仙台の白石で生まれ、平田篤胤の弟子だった丸山作(さらく)に師事、国学院大学の基となる皇典講究所の講師などを経て神宮奉斎会会長になった神道界の重鎮である。

 その重鎮が、還暦近い年齢で禊行に参加して以降、川面凡児を全面的に支持するようになる。当時の還暦といえば長老で、それが一人の求道者として、文字通り裸になって寒中禊を行ったのである。

 今泉定助を川面凡児に紹介したのは福岡県福岡市の筥崎(はこざき)宮の社家だった葦津(あしず)耕次郎で、昭和の神道思想家として名高い葦津珍彦(うずひこ)の父親である。

 川面凡児を高く評価した今泉定助は、神職に禊行を普及して全国に広まり、今では神社界で広く行われている。

 川面凡児の禊行は後に大政翼賛会が国民精神高揚に取り入れたため、一大国民運動となっていく。このため、川面凡児や今泉定助を軍国主義の権化のように言う人間がいるが、表面だけ見て禊の何たるかを知らない不心得者である。

 川面凡児は、本居宣長平田篤胤の系統ではなく、さらに白川流、吉田流、さまざまな流派の神道でもなく、奈良朝よりはるか以前の神代の教えだと主張した。奈良朝の神祭りは、すでに道教や仏教の影響を受けていたから、それ以前の純粋な神道だと言いたかったのだろう。

 その川面凡児を、白川子爵が大正元年十月に稜威会へ訪ねた。金谷真(かなやまこと)の「川面凡児先生傳」(みそぎ会正座聯盟)によると、川面凡児は子爵から由緒正しい白川家の傳をうけ、その門に入るよう勧められたが断ったとある。そしてあるとき、白川子爵が「川面は実におかしなことに、宮中以外に知られぬことまで知っている」(川面凡児先生傳)と述懐したという。

 これを裏付けるように、川面凡児は昭和三年の昭和天皇の御即位御大礼にあたり、大嘗祭の主基(すき)田が福岡県に決まった際、天地鎮祭や鏑(かぶら)矢を射る蟇目(ひきめ)神事などの祭事指導を行った。白川伯家神道を学んだことのない川面凡児が、宮中に伝わる秘儀に精通していたとは不思議である。

 川面凡児は本居宣長平田篤胤国学神道とは趣を異にしていると、自ら宣言しているが、不思議な関わりもある。川面凡児全集一巻に、「聖徳太子以前の事が認めてある寫本(しゃほん)」を平田篤胤が京都の書肆(しょし)で見つけ、財布を宿に忘れていたので持って戻ってくると、すでに筑紫の人が買ってしまっていたということが書かれている。この筑紫の人というのが、川面凡児の祖父だというのである。

 この「寫本」は神代から応神天皇までの公の歴史を記した「フミ」と、随筆様の「真魂」で、大和の神代文字は五十韻の文字とあり、今でいう片仮名だと川面凡児は判断している。

 もっとも、この「寫本」は公開されておらず、真書か偽書か判断することはできない。

 川面凡児の祖父が「寫本」を手に入れた時期は、尊皇思想が高まってはいたが、徳川幕府が長く続き、公家たちは生活に困窮していた。だから、代々伝わる書物を、書肆に売って生活の足しにした公家もいたことだろう。「寫本」の出所はおそらくそうした公家たちで、秘められた書であったことは間違いない。

 川面凡児の熱心な崇拝者に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公、日露戦争バルチック艦隊撃滅に大きな貢献をした秋山真之(さねゆき)がいる。また川面凡児は南極大陸を探検した白瀬矗(のぶ)中尉に、霊視によって作成した大陸の地図を出発前に渡し、探検隊が遭難したとき、その地図によって助かったなど、多くのエピソードを残している。

 禊祓いは、さまざまな行や祭事の前に、必ずやらなければならない大切な行事である。何を禊祓うかといえば、もちろん罪と穢れだ。

 では、罪とは何だろうか。穢れとは何だろうか。

 罪は罪悪の罪であり、犯罪の罪でもあるため、不法行為というイメージが湧いてくる。また穢れは汚いものと受け取られている。

 だが、本来の意味はまったく違う。「つみ」や「けがれ」という言葉に「罪」と「穢」という漢字を当てはめてしまったために、時が経つにつれ、表意文字の意味が、一般に定着してしまったのだ。

 実は、古事記日本書紀の神代巻には、「つみ」という言葉はない。「つみ」が明確に記されているのは、中臣家に伝わった大祓詞である。速須佐之男命が高天原で犯した狼藉を天津罪、人間が犯す過ちを国津罪と、「つみ」を二つに分け、それぞれ具体的に記している。こういうことをしてはならないという、一種の倫理規定として取り上げたのではないかと思われる。

 さて、春日大社宮司を務めた葉室頼昭氏は「つみ」という言葉について、「み」を「つつむ」意味だと指摘している。どういうことかといえば、「つつむ」は「包む」で覆う意味、「み」は「身」で体、体を不要なものが包むのが「つみ」であるというのである。

 人間は生きていくために、やむを得ず動植物の殺生をし、他人を傷つけたりもする。そうしたもろもろの悪しきこと、良くないことが身を包み、本来の清らかさが失われている。だから、身を包んだ余分なものを取り去り、本来の清らかな体に戻すのが禊祓いだというのである。

 川面凡児は「み」は「霊」であるとも語っている。となると、「つみ」は「霊」まで包み、心身ともに「つみけがれ」に覆われることになる。

 これでは浄く明く正しく直き神道の心とは程遠い人間になる。

 次に「けがれ」だが、最も近い漢字で書けば「気枯れ」である。つみが重なると気が枯れて、元気がなくなる。ため息ばかりついていると気が枯れ、ますます元気を失い、病気になりかねない。

 では、つみやけがれを無くすにはどうすればいいかだが、伊邪那岐命の禊祓いに倣って水を注ぐ。

 伊邪那美命を追って黄泉(よみ)の国へ行った伊邪那岐命は、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓いする。まず御杖など身につけている物を投げ棄て、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」として「中つ瀬に墮(お)り迦豆伎(かづき)て滌(すす)ぎ」たまう。

 そして水の底、中、上と「滌ぎ」、最後に「左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神、次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命、次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命」と、三貴神が成った。

「みそぎ」の語源は「水を注ぐ」だが、「つみ」を「そぐ」が「みそぎ」となったとも読める。

 川面凡児や今泉定助は「み=霊」を注ぐであるとも言っている。神聖な「み=霊」を注ぎ、自分の魂をいっぱいに満たし、つみけがれを弾き飛ばすのが「みそぎ」だというのである。

 また、みそぎという言葉は「身」を「削ぐ」という意味でもある。断食はまさしく「身を削ぎ」、肉体の死に一歩ずつ近づいていく、みそぎの最たる行だ。五感が敏感になり、いろいろと不可思議なことが起こる。

 伊邪那岐命のみそぎは、さまざまなことを暗示している。まず、体に付けているすべての物を捨て去ることから始まるが、これはモノに対する執着心を捨て去ることが、つみけがれを祓う大本だと指摘しているのではないだろうか。

 次に伊邪那岐命は、水の底、中、上と滌いでさまざまな神々を生み、最後の三貴子が成ったのは、水面が鼻先に触れた状況だったと推察される。つまり左右の目と鼻先が水面で一直線になり、波が静かに洗ったのだろう。

 禊をするのは、「み」についた「つみけがれ」を「そぎ」、神祭りをする清らかな「み」になるためである。禊で浄く明く正しく直き心身になり、神々に奉仕するのが、この国の本の姿である。

 禊をすることで、いわゆる超常能力を取得しようと考えたら、怪力乱神を求めるの類で、ある種の疑似宗教に堕ちかねないと、心しておくべきである。

 神々に仕える前の禊祓いがどれだけ厳しいものかは、宮中で賢所に奉仕していた内掌典の高谷朝子氏の著書「宮中賢所物語」(聞き手・明石伸子、ビジネス社刊)に詳しく紹介されている。賢所では、わずかな穢れも許されない清らかさが求められるのである。

 禊を行う水には不思議な力こめられている。川面凡児の海の大寒禊会では、病人が次々と治っていったという。

 ちなみに南フランスに、聖母マリアが現れて修道女に示したというルルドの泉がある。奇跡の湧き水といわれ、大勢の信者が集り、難病が癒されている。ローマ法王庁が奇跡確認所を設け、奇跡を認めているが、科学的に二つのことが解明されている。

 一つは、浅井ゲルマニウム研究所の故浅井一彦氏が発見した。同研究所の研究員だった柿本紀博氏が、世界に先駆けてゲルマニウム有機化し、サプリメントとして難病に絶大な効果のあることが、さまざまな臨床実験でわかっている。その快癒の仕方とルルドの泉の治り方が似ているというので調べたところ、「ルルドの泉の水には大量の有機化されたゲルマニウムが含まれていた」(永遠なる魂 千代田圭之 バンガード社)のである。

 もう一つは、九州大学大学院の白畑實隆教授(当時)が発見したもので、ルルドの泉には、万病のもとになる活性酸素を中和する大量の活性水素が含まれているという。ドイツのノルデナウの水など奇跡の水と言われる水には、活性水素が溶け込んでいるというのが白畑教授の持論である。

 ルルドの泉という一つの水から、まったく違う二つの結論が導き出されたことは実に興味深い。水の神秘性である。

 川面凡児は、夏は滝での禊、大寒は海での禊を提唱した。

 禊にあたっては、禊祓や祓禊の祝詞を唱え、右の掌を上にし、左の掌を十字にかぶせ、玉を持っているように膨らみを作る。そして、海での禊の場合は水の中で、滝での禊は打たれながら、それぞれ臍下丹田の前で、手の膨らみを「払いたまえ清めたまえ」と唱えながら上下に振り、振り魂行を行う。

 このとき、手を胸より上にしてはならない。罪穢れが祓われて敏感になっているから、思いがけない事態が起きることがある。信じられないかもしれないが、腕が激しく動く霊動が起きたり、手を何かの力で体ごと上へ持っていかれたりする。

 禊行にあたっては、手を必ず腹の前に置かなければならない。

 一人で禊行を行うのは危険だから、禊会に参加するのが望ましい。今では多くの神社で禊神事が行われているから、それに参加するのが最善だろう。

 こうした禊会に出られないときは、自宅で禊ぐことになる。水を溜めた水槽(浴槽)に蹲踞(そんきょ)して向かい、祓いたまえ清めたまえと祝詞をあげ、左足、右足、真ん中の順に水をかける。次に左肩、右肩、頭頂の順に、エイ、エイと気合をかけて水を叩きつけるようにかぶる。左右中心と水をかぶるのは、伊邪那岐命が左目、右目、鼻と洗った故事に倣っている。

 禊は何と言っても水によらなければならない。しかし、朝の祭祀に当たって水による禊をしている神社は少なく、多くが入浴で代替している。

 今泉定助はさまざまな著書で、神職が水で禊をせず、風呂に入っていると嘆いている。入浴して身体を温めれば細胞が弛緩し、緊張が薄れて集中力が失われる。神々の存在は、精神を張り詰め意識を集中しなければ感じる事ができないのに、逆のことをしていると批判している。

 神職の禊は、肉体を洗って体を清めばいいという、唯物論的な考えに基づいているのだとしたら、おぞましいことだ。

 

ミ 鎮魂帰神法

 

 後の世の新宗教に絶大な影響を与えた本田親徳の鎮魂帰神法は、自感法、他感法、神感法の三法あるが、ここでは一般に神懸り行といわれるものについて紹介する。

 これは神霊に憑依される神主と、どのような神霊が憑依したかを判定する審神者の二人で行じる。神主は掌を合わせて左指が上にくるように指を組み、胸の少し上で人差し指を伸ばす独鈷印(鎮魂印)を作る。審神者が神主に憑霊させるため岩笛を吹くと、やがて神懸りするというものである。

 本田親徳によって再興された神懸り行は、上代では珍しいものではなかった。

 古事記で最初に神懸りが記述されるのは、天照大御神が天岩屋戸に籠ったときのことである。天宇受賣命が岩屋戸の前に汗氣(うけ)(槽のこと)を伏せ、上に載って踏み轟かせて神懸りし、天照大御神が岩屋戸から覗き見るきっかけをつくったとある。

 また、日本書紀によると、第十代崇神天皇の御世、国内にさまざまな災害が起こったため占ったところ、大物主神が倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命に懸かった。さらに、古事記仲哀天皇の項に、住吉神社の神が神功皇后に神懸りしたと記されている。

 また、魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼は鬼道をよくしたとあり、卑弥呼が神懸りしたことを示唆している。ちなみに、倭迹迹日百襲姫命卑弥呼と比定する学者もいるが、先に述べたように、邪馬台国は九州の一地方国家だったから、あり得ない論である。

 本田親徳が再興した霊学には、帰神(かみがかり)で懸かった神霊を鎮める鎮魂法と、懸かった神霊の正邪を判定する審神(さにわ)法がある。そして帰神には審神者が不可欠とされている。過去にもさまざまな神道家や宗教家が神懸りや霊懸かりを実践したが、本田親徳が「学」という体系に纏めたので、霊学中興の祖と言われている。