巻の九 前編 断食斎籠行私記

 私が体験した断食行の具体的な内容を述べる前に、当時の世相を記しておこう。

 一九七〇年直前、日米安保条約改定反対や大学臨時措置法反対で、全国の大学は全共闘系学生によるバリケード封鎖、共産党青年組織の民青系学生による無期限ストライキで、荒れに荒れていた。学園紛争の洗礼を受けなかった大学は皆無だったと言っていいだろう。高校や中学にすら、紛争が燎原の火のように広がったのである。いわばイデオロギーの時代だった。

 六〇年安保は「民青にあらずんば学生にあらず」、七〇年安保は「全共闘にあらずんば学生にあらず」とばかり、全国の大学は左翼学生が跋扈(ばっこ)し、猖獗(しょうけつ)極まった。

 全共闘東京大学安田講堂バリケード封鎖し、機動隊によって実力解除されたのは六九年一月十九日。私が在籍した大学も、同じ年の九月に全共闘系学生にバリケード封鎖され、さらに学生自治会を牛耳っていた民青系学生が無期限ストライキへと突入した。

 こうした左翼学生の跳梁は手がつけられない激しいものだったが、それでも全国の大学で、全国学生協議会や日本学生同盟などの学園正常化を目指す良識派学生や、日本の伝統文化を大切にしようという民族派学生が、彼らに反対の声を上げはじめた。私たちの仲間もその一角を担っていた。

 相手は何しろ、学内での言論の自由さえ認めない暴力独裁学生だから、反対するのには勇気が要った。彼らとの対決は、ゲバルトによる生命の危険すらも覚えるほどの緊迫した状況だった。

 私が在籍した大学では、全共闘学生がシンパも入れて百人、民青系学生が同じく百人、彼らに反対する私たちの仲間が最大時でもわずか二十人。全共闘学生の暴力的な脅迫で、脱落していった仲間も大勢いる。

 そんな状況の中で、私たちの心の支えとなったのが、理系の大学だったこともあり、数学者の岡潔先生だった。

 ヒ 葦牙のごと

 当時の岡先生は、国を憂えて全国で活発な講演活動をされていたから、東京で講演会があるたびに、仲間と一緒に聴講に出掛けた。岡先生は日本の国を守るために、精神的な支柱をつくろうと葦牙(あしかび)会を提唱された。葦牙は古事記に次のようにある。

 

 國稚(わか)く浮きし脂(あぶら)の如くして、久羅下那州(くらげなす)多陀用弊流(ただよへるる)時、葦牙の如く萌え騰がる物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志(うまし)阿斯訶備(あしかび)比古遲(ひこじ)神、次に天之常立神

 

 日本は豊葦原水穂国というように葦が多い国で、牙は芽のことである。葦牙は水辺の泥の中から勢いよく成長する。そんな葦牙のように、日本を憂える有志が現れてほしいという願いをこめて、葦牙会と名付けられた。

 葦牙会の発起人は岡先生を始め、日本浪漫派文学者の保田與重郎氏、荒木駿馬京都産業大学総長、中国汪兆銘政府の法制局長官を務め、日本へ亡命していた胡蘭成氏、神道伝承者の梅田美保師の五人。

 葦牙のように全国各地から萌え上がろうというので、これといった組織はなかったが、岡先生は著書の「曙」(講談社現代親書)で、連絡先として筑波山の梅田開拓筵を指定した。これが、私が筑波山を訪れるようになったきっかけである。

 ここで五人の発起人について、簡単に記しておこう。

 岡潔先生(一九〇一~七八)は多変数解析関数論で世界最高峰の数学者となったが、後年は日本民族の情緒の大切さを随筆で訴え、数学者を超えて偉大な思想家として一世を風靡した。日本が陥った蔓延する利己主義に、本質的な鋭い警告を発し、講演で全国を飛び回った。私と同年輩の方で、岡先生の講演を聞き、著書に触れた人は多いだろう。

 毎日新聞連載の随筆「春宵十話」で一躍有名になった岡先生は、数学者というよりは偉大な思想家で、全国各地で開催される講演会はいつも満員だった。

 岡先生はあいまいな妥協を許さず、とことん真理を求めた。著名人との対談でも、それは徹底していた。対談集が何冊も出ているが、相手が間違ったことを言えば、頭から叱る。対談相手が反発して口論になることもたびたびだったらしい。ある編集者から、対談が対談にならず、本にまとめるのに大変な苦労をしたと聞いたことがある。

 講演会でもそうだった。当時はいま騒ぎになっている旧統一教会が、市民大学講座と名乗って世間的には名前を隠し、保守系思想家や岡先生の講演会を全国各地で企画、開催していた。岡先生は講演の後、聴講者から質問を受け、それが意に反したもの(主催団体の意図的な質問)だと、「君は原理か。原理は間違っている」と、叱りつけた。原理というのは統一原理研究会のことで、統一教会の大学サークルのことだ。

 普段は温厚な岡先生の剣幕の凄さに、会場は凍り付くような沈黙に閉ざされたものだ。もっとも、岡先生は誰でも叱るわけではなかった。真摯な質問なら、相手が誰でも懇切丁寧に説明された。

 ところで、岡先生が一度だけ叱ったのは間違いだったと謝ったことがある。胡蘭成氏は著書「自然学」(筑波山梅田開拓筵)で次のように記している。

 

 和歌山の座談会で、岡潔先生が自分は何神であるといったのに対し、美保姫が古事記を引用して、命と神には区別があって、生きている人間は神とはいえないでしょう、と確かめると、岡先生は怒って、古事記をそんな読み方をするなら読まない方がいいと叱った。しかし保田與重郎先生も命と神との称号に区別があると言った。あとで岡先生は美保姫に対し、わかりましたとあやまった。(中略)岡先生があやまったのはこの一回だけである。

 

 さぞかし迫力のある議論だったに違いない。

 この話は、岡潔集(学研)第五巻の別冊月報にも、「岡先生の葦牙会発想」と題して胡蘭成氏が推薦文の中で紹介している。

 同じ月報に、春宵十話を誕生させた毎日新聞記者、松村洋氏の次のような思い出話が載っている。

 

 鋭い人という印象を裏書きしてくれたのは、当時女子大理学部で岡さんの同僚であった植物学者の小清水卓二博士(現在同大学名誉教授)である。小清水さんの研究室に入りこんで雑談しているうち、たまたま岡さんの話が出ると「直観というのか、ひらめきのすごい人ですねえ」と歓声をもらされた。大学構内に二本のイチョウだかケヤキだかの大樹があって、どちらも同じ種類の樹だとみんな思いこんでいたのだが、岡さんがある日「この二本は種類が違う。輝き方が違うから」と小清水さんにいわれたので、調べてみると果たして違っていたという。

 

 松村氏は岡先生の初対面の印象を「鋭い風貌。だが目は柔和。そして邪気というものがまるで感じられないことに強い印象を受けたことを、いまだにはっきり覚えている」と書いている。

 岡先生がいつも厳しかったかと言うと、決してそうではない。昭和四十五年秋に講演のため、岡先生は夫人と一緒に梅田筵を訪れた。聴講者は神道修行者など梅田筵に出入りしている十数人とこじんまりした会だった。

 岡先生は多くの講演会で、話をしている間にタバコに火をつけ、一口吸ってはすぐに消されていた。話をわかってくれない聴講者へのいらだちを、タバコで抑えようとされていたのではないかと推察している。

 しかしこの時は、よほど気持ちが和やかだったのか終始ご機嫌で、手に持った一本のタバコをくるくるともてあそびながら、話が終わるまで火をつけることはなかった。普段の講演会とは大きな違いだった。

 最近になって岡先生の評伝が何冊も上梓されているのは、乱れに乱れるこの国の若者へ、岡先生の憂国の念が、帰幽後も訴えかけているからではないだろうか。

 胡蘭成氏(一九〇六~八一)は中国浙江省の生まれで、汪兆銘政府の法制局長官を務めた。後に汪兆銘と意見対立して辞職、漢口大楚報という新聞社を経営。中共政権の樹立に伴って「私は終戦武漢地域でしばらく独立し、国民政府にも中共政府にも抗争しようとはかった」(自然学自序)が断念し、一九五〇年に日本へ亡命した。「心経随喜」(筑波山梅田開拓筵)や「建国新書」(東京新聞出版局)、「自然学」(筑波山梅田開拓筵)などの著書で独特の文明論や政治論を展開した。

 胡蘭成氏が梅田筵を訪れるようになったのは、東京新聞の与良ヱ(よらあいち)社長の紹介である。 

 胡蘭成氏は汪兆銘と意見対立して袂を分ったが、講話の中で尊敬の念をたびたび口にしていた。さらに、中共政府を倒すためには大陸反攻をしなければならないから、義勇軍の創設や自衛隊の協力が必要だと、近しい人には漏らしていた。

 さらに、世直しのために神道を基本にした「天下英雄会」の設立を提唱した。もっとも、天下英雄会は人と人との結びつきだとして、組織にはしなかったから、葦牙会と同様な発想だったと言っていいだろう。

 保田與重郎氏(一九一九~八一)は日本浪漫派の中心的な文学者で、文芸評論家として多くの著作を出している。大東亜戦争を肯定したとして戦後に公職追放されたが復権、日本の美を追求した文章は華麗である。胡蘭成氏の心経随喜や建国新書に華麗で格調高い文章で序を寄せている、

 荒木駿馬氏(一八九七~一九七八)は天文学者として有名だが、保守論壇の論客としても活躍した。後に京都産業大学の初代総長に就任、岡先生を教養論の教授として招くなど、独特の学生教育を行った。惑星論で有名な天文学者の宮本正太郎は弟子の一人で、教え子には湯川秀樹や友永振一郎のノーベル物理学者を輩出している。

 そして、梅田伊和麿翁の夫人、美保師である。

 梅田筵では月に一度、胡蘭成氏による般若心経や文明論の講義があった。最初はそれに仲間と参加していたのだが、ある時、午前中に神道の行が行われていると知り、二人の仲間と受けさせてほしいと願った。

「本当にできますか」

 美保師は心の奥底まで見通すような鋭い視線と声で問い質した。妥協を許さない迫力だった。体が凍り付く思いだったが、口にしたからには引き下がれない。凄まじい圧迫感を感じながら、やります、と答えたことを覚えている。

 こう書くと、美保師はずいぶん恐ろしい人のように思われてしまうが、道を求める若人を、親身に導こうという優しさに溢れていた。明治四十年生まれだから、当時すでに六十代半ばのお歳だったが、声は二十歳で通る若い澄んだ声で、何も知らずに電話をした人が、若い女性が住んでいると勘違いするほどだった。

 こうして私たちは神道の修行を始め、胡蘭成氏の講義がある前々日の金曜日か前日の土曜日に、泊まり掛けで梅田筵を訪れ、朝の神事を受けるようになった。

 修行生はさまざまだった。住み込んでいる学校の先生、仕事を持っていて休みに通う上場企業の幹部社員、若い企業戦士や学生など、立場の異なる多くの人たちが、岡先生の著書に導かれ、神道修行を志したのだった。

 フ 春の雪

 春三月の筑波山は、日中は新しい生命が息吹く新緑の爽やかな匂いに胸を膨らませ、朝晩は思わず身を縮めるような冬の名残の寒さに震え上がる。冬から春へと移り変わる境は、神々の戯れの季節かもしれない。

 私を含め五人が断食行に入ったのは、昭和四十六年三月初めだった。

 参加者は大学から私を入れて三人、岡先生が京都産業大学で教鞭を執るというので、私たちの大学を中退して産大へ転じた一年後輩、さらに梅田筵の修行生が一人の、計五人である。

 産大の後輩によると、岡先生の講義は大教室で行われ、立ち見どころか部屋から溢れ出るほどの人気だったという。

 断食の二、三日前から食事の量を徐々に減らし、行入りから一週間は水だけの生活。さらに同じ期間をかけて、水のような重湯から食事を元へ戻していく。

 食事をしないのだから体は痩せ、体力は衰えていく。文字通り、身を削ぐのである。

 泊まるのは道場で、各自が寝袋を持ち込み、板間に筵を敷いた床に寝た。

  断食入りの当日の朝、目覚めると筑波山は真っ白な雪に覆われ、震え上がる寒さだった。

 筑波山はあまり雨が降らない。このため、訪れた際に雨が降ると、土地の神々に歓迎されていると言われる。

 雨が歓迎なら雪は大歓迎? とばかり、それぞれが気持ちを奮い立たせた。

 日待ちと鳥船行、振り魂を広場で行じ、道場へ入って磐座神事を終えると九時ころになる。美保師が住居の「梅の家」から上がってきて、起(た)てた神籬の祓いの後、降神詞(かみくだりのことば)を唱えて天つ神、国つ神、八百万の神々の降臨を願う。

 祝詞の後に「ををー」という神々の降臨を表す警蹕(けいひつ)が続く。降神の場合、警蹕の声は初め小さく、徐々に大きくなって、神籬に降(くだ)ったときが最大になる。高天原という無限の遠方から神降るわけだから、降臨の際の音、すなわち警蹕の声は、遠くから聞こえて大きくなるように臨場感が込められている。昇神の場合は、逆に始め大きく、次第に小さくなり、やがて高天原へ消えていく。

 神籬は古伝に倣って鏡と珠、垂(しで)が取り付けてられている。不思議なもので、降神祭が終わると、道場全体に凛とした気配が張り詰めたように感じられた。

 続いて神行事(みわざ)始(はじめ)祝詞で神々に断食行の成功を祈る。

 断食中は無言の行で、祝詞などの善言美詞以外は声を出してはいけない。これが意外と辛く、日常の生活に言葉がいかに大切か、身を持って体験した。

 行は朝の日待ち、鳥船、振り魂、発声(気合)の鍛練から始まり、神籬神事、磐座神事、瞑想、神楽、礼法などを行う。

 礼法といっても本格的にやったわけではないが、梅田筵にたまに来られていた坂寄(さかより)紫香(しこう)という小笠原流礼法の最高師範に、座り方、立ち方、歩き方、お辞儀の仕方などを教わり、それを行の一つとして実践した。

 坂寄師の紫香は号、本名・美都子、後に「せつ」と改名した。礼法の最高師範であると同時に、薙刀香道の達人で、小柄だが修練のたまものか、いまは廃線となった関東鉄道筑波山入り口駅でホームから転落した際、くるっと回転して立ったといい、駅員が女天狗だと呆れたそうだ。八十歳を超えた年齢のときだから、奇跡としかいいようがない。

 また、寺社への参拝で長い階段を登るとき、手を引かれるのを嫌ったといい、最期の数十段では若い人がへばってしまうのに、軽々と登ったという。本人曰く、「最期のところに来ると、誰かが上へ引っ張り上げてくれているようだ」と平然としていた。

 坂寄師は実践女学校(現実践女子大)を創立した下田歌子の側近で、海外留学生の寮の舎監をしていた。その当時の坂寄女史を、歴代総理の相談役、ご意見番といわれた安岡正篤が、最高の日本女性と絶賛したと伝えられている。

 八十代半ばなのに、正座の姿勢は背筋がすっきり伸び、清楚さと不思議な色気は、美しいというしかなかった。

 何度も顔を合わせているのに名前を覚えてもらえず、悔しいこと甚だしいが、「雀の顔の違いが分かりますか」とはご本人の弁。

 さて、まず正座からの立ち方だが、両手を軽く握って両股の上に乗せ、丹田に力を入れる。そして、足首を曲げて親指を立て、踵に腰を落として体重を掛ける。その時、背筋を真っ直ぐ伸ばし、目は前方をしっかりと見つめる。立てた親指に体重を掛けるのは、痺れた足に血を通わせ、粗相なく立ち上がれるようにするためだという。

 次に右膝を立てて立ち上がり、両足を揃えて両腕は体の横に伸ばす。

 歩き方は足の親指を少し反らせ、小股にして擦り足で進む。次に立ち止まり、両足を揃えてから左足を少し後ろへ引き、立ち上がった時と同じように、親指を立てて曲げた足首に腰を落とし、一呼吸置いてから足首を伸ばして座る。両手は両股の上で軽く握る。

 軽いお辞儀の揖は、そのままの姿勢で背筋を伸ばして上体を傾ける。深い礼は、正座から少し前かがみになり、両手の掌を体の横の床に付け、息を吐いて体を深く折り曲げながら、両手を床の上を滑らせて、お辞儀した顔の前で揃える。これが最敬礼で、礼の軽重によって体の傾きを三分や七分にする。

 たったこれだけの動作だが、動きと呼吸がすべて関連していて、満足のできる立ち居振る舞いはできなかった。何事も奥が深いと実感した。

 一連の行は朝の六時くらいから始まり、お昼ころには終わる。

 断食をするのだから、あまり体を動かさないのだろうと思う人がいるかもしれないが、そうではない。行が終わると、次は作業奉仕。道場の横手に記念碑を造る計画があり、その場所の整備を行った。しかし、エネルギーの元となる食事をしていないのだから体に力が入らず、作業は遅々として進まない。後から断食中にした仕事量を見て、あまりの少なさに呆れたものだ。

 そして夕方になると、午前中と同じように一時間ほどかけて磐座神事を行う。これで一日の行はほぼ終わりだが、無言の行なので参加者と雑談をすることはできない。それぞれが思い思いに時間を使う。

 食事をとらないと睡眠時間が少なくて済むというので、無言に加え寝ずの行もやったらどうかと、寝袋に下半身を入れて瞑想を試みた。しかし、息吹永世をしても、筑波山の夜の冷え込みは尋常でなく、寒さを凌ぐために全身を寝袋に入れると眠ってしまうという状況だった。

 ミ おたけび

 初日は降神式などがあったから、翌日からが本格的な斎籠行である。夜明け前に起きて、道場の近くにある広場で日待ちから一日の行が始まる。その中で、発声(気合)について特記しておこう。

 気合は武道にとって非常に重要なもので、攻撃に「気」の発現を合わせ、肉体的な力だけでなく、全身全霊で相手に打撃を与えるために発する。気と物理力が合致したとき、凄まじい攻撃力が生まれる。

 神道では気合を雄叫建(おたけび)、雄誥(おたけ)びと言って、祓いや清めの重要な神業としている。梅田筵では二種類の気合を掛けていた。

一つは「エイ」「ヤァー」「トォー」で、直心影流の免許皆伝だった伊和麿翁が、剣の打ち込みから考案したものである。右手の人さし指と中指を伸ばし、親指と薬指、小指を折って指刀をつくり剣に見立てる。この指の形を、天沼矛(ぬぼこ)と名付ける神道家もいる。

 姿勢を正して立ち、左の腰に剣を帯びていると想定し、「エイ」で剣を抜き、一歩踏み込み「ヤァー」で相手目掛けて打ち下ろし、右足を下げて「トォー」で剣を右側に引いて残心する。

 武道は攻撃の後に必ず残心の体勢を取る。相手の反撃に対応するためだが、いつでも戦う用意があるということを相手に知らしめ、戦意を喪失させる効果もあるからだ。無用な戦いはすべきではないということだろう。

 もう一つの雄叫びは、「アッ」「イェーッ」「エィーッ」「タァー」で、こちらが神道の発声だと思われる。「アッ」は言霊五十音の最初の言葉、「イェーッ」で罪穢れを祓い、「エィーッ」で祓った罪穢れの霊位を昇格させる。「タァー」は天岩屋戸を押し開いた天手力男神の「タ」で、祓った相手の心の岩屋戸を開いて、天つ神から与えられた直霊を顕現させる。

 稜威会の川面凡児は、「雄健雄詰(おころび)」と名付けて、「エーイッ」「イーエッ」とことあるごとに気合を掛けていたと、「川面凡児先生傳」に記されている。川面凡児は雄詰という言葉を好んで使ったそうだが、大変な威力を発揮したという。

「川面凡児先生傳」には、稜威会のある幹部の自宅が関東大震災で火事になったとき、その人が雄健雄詰して燃え盛る家の中へ戻ると、行く手を阻む火が消えたとある。

 気合で火事が消えるなんて嘘に決まっていると思う人もいるだろうが、雄叫びは不思議な威力を発揮するものである。

 梅田筵でも同じようなことがあったそうだ。「そうだ」と伝聞にしたのは、私が目撃したからではないためで、その奇跡的な出来事を目の当たりにしたのは胡蘭成氏だった。

 梅田筵は敷地の山腹に梅木が何本も植えられていて、冬になると大地が枯れた雑草で埋まる。

 梅田筵は筑波山の麓から筑波山神社へ行く途中にあり、観光客がたまに紛れ込んで来ることがあった。車が入って来れば音で気付き、注意して帰ってもらうのだが、徒歩で入って来たのだろう。その時、梅田筵にいたのは、たまたま美保師と胡蘭成氏だけで、闖入(ちんにゅう)者に気が付かなかったらしい。

 突然、パチパチと火が跳ねる音がしたそうだ。驚いた美保師と胡蘭成氏が外へ出ると、枯れた下草が燃え上がって梅木に移り、山の下から上へと燃え移っていくところだった。おそらく闖入者のタバコの不始末だろう。

 放置すれば、筑波山は山火事を起こしてしまう。胡蘭成氏は慌てて消防署へ電話をと叫んだ。

 その声をよそに、美保師は燃え上がる火に向かって祝詞を上げると、「アッ」「イェーッ」「エィーッ」「タァー」と雄叫びをぶつけた。するとどうだろう。

「驚いたことに、上へ移っていく火が、逆に戻ってきた」

 後から私たち修行生に、胡蘭成氏がこう述懐していた。

 火が戻ってくるのを確認した美保師は、おもむろに消防署へ電話をした。しかし、消防車が駆けつけた時には火は完全に消えたおり、「どうしてだろうか?」と消防士が不思議がっていたという。

 この事件の後、私が梅田筵を訪れた際、梅木に焼けた跡が歴然と残っていた。梅木の火が消えなければ、大変な山火事になっていたに違いない。

 美保師によると、火事を消したのはこれ一度ではない。東京・麻布の現在のロシア大使館裏手の低地に麻布道場を構えていたとき、米軍の無差別空襲があった。今のロシア大使館がある場所は、当時も今も高台になっている。

「梅田道場なら安全だろう」

 とばかり、道場ゆかりの要人たちが、子女を預けていた。

 しかし、米軍機は容赦なく焼夷弾を無差別に落としていく。麻布道場の周りも焼夷弾でやられ、道場に火の手が近づき全員で高台へ逃げる。

 高台から見ていると、火が道場へ迫ってくる。火が道場の一帯を呑み込む寸前、美保師が祝詞を上げ気合を掛けると、迫っていた猛火はするすると後ろへ下がっていく。

 そんなことを何度か続け、麻布道場とその周りだけが焼け残ったという。

「火を消すには、水の神様をお招きすればいい」

 とは、美保師の冗談交じりの言葉だ。

 火に向かってどういう祝詞を上げたのかわからないが、十種瑞乃神宝と布留部詞だと推察される。というのは、神籬神事の際に、この二つの祝詞の後に気合が掛かるからである。

 さて、雄叫びだが、古事記では「伊都(いつの)男建(おたけび)」、日本書紀では「稜威)雄誥」とあり、速須佐之男命が高天原へ押し掛けたとき、天照大御神が雄雄しく迎えたのが始まりだ。日本書紀ではさらに「稜威の嘖譲(ころひ)を発(おこ)して、ただに詰り問ひたまひき」とある。「嘖」」譲」ともに「せめる」意味だ。川面凡児が気合を、雄健雄詰と名付けているのは、嘖譲からきたものだと推察される。

 気合は九字を切る修験道や仏教など多くの宗教が取り入れている。罪や穢れを祓い、魔を寄せつけないようにするのが狙いである。だが、祓っただけでは、罪穢れや魔がほかの人に憑(つ)いてしまう。これでは、自分だけよければいいという利己主義そのもので、まともな宗教とは言えない。

 祓った罪穢れ、さらには魔を、「エィーッ」で霊的に昇格させてやり、「タァー」で霊の岩屋戸開けをして、祓ったさまざまなものを神々の世界へ送るのが神道だ。罪穢れや魔の昇格がない宗教は、百害あって一利なしである。

 さて、修行生は毎朝、この発声をするのだが、断食しているので体に力が入らない。従って、声が普段より小さいのだが、続けているうちに腹から声を出せるようになり、近くで聞いているとさほど大きな声でもないのに、鶏の鳴き声のように遠くまで届くようになる。さまざまな行で、声が腹という生命の中心から出るようになったからだろう。

 断食の中日(なかび)を過ぎたころからだっただろうか。私は不思議なことに気がついた。

 気合を「イェーッ」と掛けると、空気の色が変わり、どこまで届いているかわかるようになったのだ。

 錯覚かもしれないが、こればかりは体験した人間でないと理解できないだろう。(続く)