巻の九 後編 忘れがたい体験の数々

 ヨ 再びの雪

 食を絶ってから、最も飢餓感が高まるのは二日目から三日目。空腹で胃が痛いほどで、作業をしていても力が出ない。修行ではなく、どこかの無人島に置き去りにされている状況なら、木の根を掘ってでも口に入れようと思ったに違いない。

 さらに、宿便が下痢のように流れ、悪臭に辟易とした。道場へ近寄ると息が詰まるようだったとは、斎籠行の後の美保師の弁である。

 それでも、日待ちなど朝の一連の行事や磐座行、神籬神事を受けている間は雑念を忘れられる。行を修することで研ぎ澄まされていく全身の感覚、透明な爽快感、善言美詞を唱える声の変化、自分が存在するこの世とは違う、神々の世界があるという確信などなど、喜びの方が大きいのだ。

 飢餓感が最も募る四日目は中日(なかび)である。朝、寝袋から出て日待ち行事のために外へ出ると、一面の雪化粧だった。熱になる食物をとっていないので、体が震える寒さだが、息吹永世をしながらフツ、フツと息を吐き、朝の行事を修しているうちに体が温かくなって震えが止まっていく。

 一連の行が終わった後、無事に四人の斎籠行事が終了しますようにと中日祝詞を奉じる。残念ながら、京都から来た後輩は初日に断食を中止した。断食だけだと思って来たら神道の行があり、それに違和感を覚えたためだった。彼は神道に縁がなかったのだろう。

 祭儀の後は直会(なおらい)で、断食中だから食物をとることはできないが、お神酒(みき)をかわらけに一口だけいただいた。神酒は文字通り神がきこしめした酒であると同時に、八俣遠呂智のような邪や魔が寄ってくる存在でもある。神がきこしめしたか、それとも邪や魔が寄ったかで、お下がりの神酒の味が旨くも不味くもなる。だから、聞き酒。幸いにして甘露なお神酒だった。

 さて、ある日、堀越俊彦さんという一年先輩の同年齢の友人が、神籬に向かって頭を深々と下げ、涙を流しているところを目撃した。堀越さんは以前から胃の調子が悪く、神楽をしていても胃液が込み上げてくるほどだった。近くで作業をしていた大工さんたちが、死相が表れているから止めさせた方がいいと、美保師に何度も忠告したという。

 具合が悪くて泣いているのか、それとも断食を止めたいが仲間の手前言い出せなくて泣いているのか、何しろ無言の行だから聞くことができない。不安は募るが、見守っているに違いない神々にお任せするしかない。

 しかし、その日を境に、堀越さんの具合が良くなっていった。神籬に向かって泣いていたとき、きっと何かが起きたのだろう。

 ご本人の了解を得たので、手記から引用する。

 

六日目、もう起き上がるのもやっとだった。脈が、手の指先から足のつま先まで全身で打っている。健康体なら、沈み込むように打つ脈が、体の表面にまで浮き出てきている。浮脈というものだそうだ。これが始まると生命の危険に繋がる兆候だ。このとき初めて(わたしは、死ぬかもしれない)、と思った。

 

七日目、絶望感とも諦めともつかない感覚がじわじわと体を覆い始めていた。わたしは必死に祈った。何のために、だれに、何に祈ったのだろうか。気がついたとき、大粒の涙が頬を伝わっていた。ほんの一瞬だったと思うが、わたしの目の前にぼんやりと、旭日の兜が見えた。その残像がまだ消えない。正確にいうと、わたしは目をつぶっていたから、見えたのではなく、感じただけだ。そのとき(わたしは、生きられる)、そう確信した。

 

 堀越さんは、旭日の兜が現れ、自然に頭が下がり、涙が流れて止まらなかったと記されている。目を瞑っているから見たのではなく、感じたと堀越さん述懐している。

 もちろん、一緒だった私たちに、旭日の兜が見えるはずもない。私たちの目に入ったのは、友人が頭を下げて涙を流している姿だけだった。

 ちなみに堀越さんは大学を卒業後、広島県江田島海上自衛隊幹部候補生学校に入り、自衛官に任官した。最初の勤務艦は香取で、配属当日に香取神宮宮司から祝電が届いたという。香取神宮は断食修行のあと巡拝した由緒ある神宮で、祝電は美保師の計らいだったと思われる。

 堀越さんは任務を果たした後、一等海佐で定年退官。一般大学から幹部候補生学校に入り、自衛官に任官するのは、体力的にも気持ちの持ち方にしても、並大抵のことではない。国防に身を呈した生き方には頭が下がるばかりだ。

 イ 燎原の火

 断食中は無言の行だから、個々人が何を経験したか知ることはできない。行が終ってから仲間に話せばわかるが、口にしなければ、その個人の記憶に留められ、永遠に知られることはない。

 実は私も、ある神秘的な体験をした。道場で息吹永世の瞑想をするのに飽き、寒さに耐えて広場の巨岩=磐座に座ったことがある。岩の上に敷いた円座に座り、裸足を夜の寒気に曝すと凍えるから下半身を寝袋に入れ、足の裏を合わせた安座で目を半眼に閉じ、息吹永世をして瞑想に入った。

 美保師によると、午前二時から四時までが、最も神霊の気が強い時間帯だという。伊和麿翁は筑波山に入山してから毎日、帰幽する寸前まで、払暁二時から四時間もの修行に明け暮れたそうである。とても真似のできることではないが、せめて断食中に少しでもやってみようと、磐座に座り瞑想を試みた。

 磐座から南を向けば関東平野が広がり、北を臨めば筑波山の樹木が生い茂っている。関東平野を見下ろす南に向かうほうが気分爽快だろうが、あえて北を向いて座った。というのは、北斜面を少し登ると赤い鳥居があり、その奥に稲荷石と名付けられた巨岩があったからだ。

 この稲荷石は、仙人の岩という地元の言い伝えがあり、伊和麿翁が初めてこの地へ入ったとき、仙人の姿を拝したと聞いた。胡蘭成氏は、笠間稲荷神社の塙宮司さんが「稲荷石を祓ひ、祝詞を唱へられると、ほんたうに岩が瑞気を生ずる」(建国新書)と書いているが、神秘的な巨岩だった。

 稲荷石の方角へ向かって安座し瞑想した。しんしんと冷えた夜気に、剥き出しの頬は切れるほどに冷たく、吐く息は白いものの、息吹永世のおかげで、体は腹の奥底から温まってくる。凛冽とした大気が心地好く、夜明け前の静寂の時間を、神々の瑞気が漂い始めたように思われた。

 どれくらいの時間、瞑想していただろうか。神気はますます強まり、寒さとは違う痛みが皮膚に走り、体の毛穴という毛穴が収縮するように感じられた。

 その時だった。

 竹や生木を折る際に鳴る、「パキッ、パキッ」という、神経を突き刺すような鋭い音が、続けざまに鳴り響いた。

 風に樹木が立てる音かと、生い茂る木々の枝に目を向けても、揺れている気配はない。風はそよとも吹いていない。だが、周りを探るうちにも、音は「パキパキッ、パキパキッ」とだんだん大きく激しくなっていく。

 驚愕に息が詰まり鼓動が急激に高まった。金縛りとは違うのだが、なぜか瞑想を解こうにも解けない。呆然としながら、霊動の一種かもしれないと、フツッフツッと息を強く吐いて気力を高め、息吹永世で丹田に力を入れて鎮魂を試みていると、思わぬ光景が目に飛び込んできた。

 前方の一点に、透明に近い青と桃色がかった火が燃え立ち、それが急に左右へ広がり、パキパキ、パキパキという音とともに、座っている磐座に向かって一気に押し寄せてきた。

 あと少しで火の海に呑み込まれる。冷静に瞑想を続けているべきだったのだろうが、本能的な恐れから息吹永世をやめ、瞑想を解いた。

 その瞬間。燃える火はかき消えた。星空が青く瞬き、風一つない静寂に戻っていた。

 何が起きたのか理解できず、逃げるように道場へ帰って寝袋に潜った。いつまでも歯の根が合わなかった。

 今から考えると、「パキパキ」という生木が折れるような音は、神霊が現れる寸前に鳴ると言われる「ラップ音」だったのだろうと推察できる。薄い青と桃色の火も、ラップ音と同じで、何かが現れる兆候だったのではないか。

 もっとも、空腹や寒さなどがもたらした幻想かもしれないが、私にとっては重大な経験としか言いようがない。

 斎籠行が終わり、無言の行を解いてから、美保師に音と火のことを話すと、「お釈迦様は、現れた獅子が食べようとする口の中に、自ら身を投じて悟りを開いた。せっかくの好機だったのに、なぜ火に身を任せなかったのか」と厳しく指摘された。

 たしかにあの時、瞑想を続けていれば、かけがえのない経験をしていたかもしれない。梅田筵は美保師が祓いに祓い、清めに清めている聖域だから、魔が現れる心配などなく、神霊の御姿を拝めていたかもしれない。

 斎籠行の後、残念なことをしたという悔いと、拝まなくて良かったという安堵感とが、胸に交差した。

 神霊と対面するということは、大変な勇気とエネルギーを必要とする。押し寄せる火に飛び込めなかったのは、それだけの覚悟ができていなかったからにほかならない。

 もし、再び、同じ場面に遭遇したらどうするかと問われたら、正直に言って、わからないと答えるしかない。

 神々との対面は、命懸だからである。

 ム うけひ

 中日の翌日は空が晴れ渡り、冬から春へと移り変わる際の、ときおり見られる強い日射しが梅田筵を包んでいた。朝の行と磐座行事を終え、息吹永世で調息し、美保師の神籬神事が始まった。

 美保師の張りのある若々しい声が修行生を包む。唱えられる祝詞の響きに、体全体が反応して、一つ一つの細胞が振動しているような感覚を覚える。雑念を消して無心になろうと、祝詞の言葉に精神を集中する。

 三種祓詞から始まった神籬神事の祝詞は中程を過ぎ、ヒフミヨ……と布留部詞に到り、「フルベユラユラ」の後に、「アッ」と気合がかかった。

その瞬間――。

 静かだった大気が、竜巻に直撃されたように吹き荒(すさ)び、晴れ渡っていたはずの空が、にわかにかき曇ったのが、目を閉じていてもわかった。轟々と渦巻く風に呼応するかのように、晴天だったはずの空から大粒の雨が落ち、道場の屋根に激しい雨音を立てる。

 さらに……、ゴーという地鳴りが響いて道場が激しく揺れ、今にも壊れるのではないかと思われるほどミシミシと音を立てる。

 強烈な恐怖心に襲われながら、息吹永世を続けていると、美保師が「イェーッ」と切り込み「エィーッ」と持ち上げた。

 するとどうだろう。嵐と地震がぴたりと収まり、地は盤石の大地に戻った。

 最後の「タァー」という発声が終わり、何もなかったかのように、美保師の祝詞は次の「日文(ひふみ)詞」に移っていった。

 神籬神事が終わった後、道場から外へ出ると、空は真っ青に晴れ上がり、雲一つない。さっきの嵐は夢か幻だったのかと訝(いぶか)しみ、地面に目を移すと、雨に濡れた跡が歴然と残っていた。

 嵐と地震がいきなり起きたことは疑いなかった。

 しかし、無言の行だから、本当に異変があったのかどうか、修行生は話し合えない。一人一人が胸に納め、予定の作業や行を、淡々とこなした。

 その翌日。神籬神事が終わった後に、「最後の一人の産土神が、払暁に挨拶に来られた。これで全員が産土神と一体になりました」と、美保師が嬉しそうに言われた。

 そう言われても実感はないが、きのうの天変地異を経験した後だけに、なるほどとうなずけるものがあった。

 断食の最終日の朝、目覚めると梅田筵は再び白く雪で化粧されていた。断食入り当日、中日、そして満願の日と、筑波山は雪で覆われたのだった。

 雨の少ない筑波山に雪が降って歓迎されたのか、それとも雪でなければ祓えないほど罪穢れが身を覆っていたのか。三度にわたる雪の洗礼は、斎籠行を試みた私たちへの、神々からの祈請(うけひ)だったのに違いない。修行生の罪穢れを祓い、「かむながら」の人となれという諭しだったと、ありがたく受け取っている。

 満願にあたり、神々が降臨した神籬に神行事終祝詞(みわざをへのりと)を唱える。

 これで斎籠での断食行は終わった。次に降神していただいていた神々に、昇神詞(かむかえりのことば)を唱えてお帰りを願う。

 警蹕とともに神々が神籬から昇神し、断食行は終わった。あとは食事を徐々に普通に戻し、普段の体に回復させるだけだ。これがなかなか大変なのだが……。

 ナ ほころび

 斎籠による断食行で、それぞれが貴重な体験を得た。しかし、一週間の断食で、胃や腸は働きをやめ、体は衰弱している。食事を元へ戻さなければならないが、いきなり固いものを食べるのは、健康を害するから禁物だ。

 最初に口にしたのは、小さな杯に入った水のように薄い重湯だった。手伝いに来ていた女子大の三人の修行生が作ってくれたもので、口に含んだとき、おいしさに唾液が溢れた。瑞穂国に伝えられた稲穂のありがたさを、この時ほど強く感じたことはない。

 わずかな食事をするたびに、体に力が戻ってくる。一日の行動は日待ちから磐座行事、神籬神事、作業奉仕と断食中とまったく同じで、食物で体力が回復すれば、修行に力が入り作業もはかどる。

 だが、今度は耐えがたい飢餓感に襲われた。断食による空腹感とは異なり、体がエネルギーを欲するのだ。わずか一杯の薄い重湯が、押し込めていた生存本能を目覚めさせたとでもいうのだろうか、とにかく、物を口にしたくてならない。自分たちで食事の管理をしていたら、無闇に食べて体を壊してしまったかもしれない。

 ここで、私たちは大きな失敗を犯した。無言の行を解いてしまったのだ。

 言葉は、善言美詞にもなれば、悪魔の囁きにもなる。そして人間は、わずかな隙でもつくれば、悪魔の囁きに魅入られる。無言の行を解いたために、張り詰めていた気が緩み、凡人の弱さを露呈してしまったのだ。

 長い歴史を経て話す能力を得た人間は、他人と言葉を交わして意思疎通を図る楽しさが、本能や遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。無言だったことが、本能の噴出に輪を掛けてしまったのだろう。

 今から思えば、恥ずかしいとしか言いようがないが、暇な時間に雑談を始めると、話が食べ物のことになってしまう。あれが食べたい、これが食べたいと、話すことは食欲を満たすことばかり。さらには、お汁粉や羊羹の作り方まで話題になった。

 餓鬼道に陥ってしまったのである。

 もし斎籠を止めて普通の生活に戻っていたらと思うとぞっとする。幸いにも美保師の指導や、女子大生の食事管理のおかげで、理性を失うことはなかった。

 堤防は蟻があけた小さな穴から水漏れが起きて崩壊する。城郭はわずかでも破られたら兵が乱入してくる。肝心なところで一歩を引けば、それが敗北につながりかねない。

 物事には、譲ってはならない一線がある。それを断食で思い知らされた。

 凡人の弱さを露呈した断食だったが、やがて餓鬼道の醜さに気付き、さすがに口を慎んだ。

 断食行から数日たち、ほぼ普通の食事に戻った。かといって、まだ胃腸が本格的に働いていないので、消化に良いものを中心にした食べ物ばかりだった。

 断食が明けてから、従来の食事に戻すには、少なくとも断食期間と同じ日数、できれば倍の日にちが必要とされている。いきなり普通の食事をとると体が受け付けず、胃けいれんや腸捻転を起こし、重症の場合は死に到ることもあるという。私たちは若かったこともあり、比較的短時日で元に戻したが、食事のとり方は赤ん坊に離乳食を与えるように、細心の注意が必要である。

 一週間の断食で減った体重は、わずか二キログラムほどだった。当時の私は体重が五三キログラムだったが、意外に少ない減少である。参加したほかのメンバーも、多かれ少なかれ似たような減り方だった。そして、断食最終日になっても、それほど体力気力が落ちたとは感じなかった。

 健康な人でも、何も食べられない状態に置かれると、一週間で餓死することもある。例えば山での遭難。夏で気温がさほど低くなくても、わずかな日数で亡くなったりする。新聞などに「五日ぶりに生還」などと見出しが踊るのは、山での遭難がどれほど生命を脅かすかを物語っている。

 断食中の筑波山は三度の雪に見舞われるほど寒く、体力的にきつい磐座行事だけでなく、作業奉仕も行った。雨露をしのげる道場に泊まっていたとはいえ、暖房があるわけではなく、寝袋での生活だった。ちょっとした装備を持った遭難者が、山小屋に閉じこもっているのとあまり変わらない状況である。わずかな日数でも遭難者によっては餓死したり、低体温症で瀕死の状態になる。その差はどこにあるのだろう。

 おそらく精神状態の違いだろう。張り詰めた緊張や焦り、生きて帰れないかもしれないという不安などが脳波を乱す。遭難者は生命の危機感を覚えて強い精神的ストレスを受け、肉体を激しく消耗させる。遭難者の脳波は、緊張を高めるアドレナリンやノルアドレナリンが脳内に大量に分泌されるガンマ波だと推測され、それが肉体の消耗に拍車を掛け、衰弱していくのではないか。二、三日の遭難で亡くなることがあるのも、ストレスによる消耗のために違いない。

 それに比べ、思い立っての断食行は、さまざまな行を通じて脳波が安定していたのだろう。座禅を組む禅僧の脳波は、安定したアルファ波だというが、それと同じ状態だったため消耗が少なく、わずかな体重減少で済んだのだのに違いない。

 ヤ 純白の神苑

 断食行の終了を記念して笠間稲荷神社鹿島神宮香取神宮を巡拝し、下界に戻った。大学四年を目前にして、そろそろ就職先を考えなければならない時期になっていた。

 三年生のうちに内々定が出る今とは違って、当時の就職試験の解禁は四年生の九月以降だった。まだ時間的には余裕があったが、どういう職業を選ぶかを早く決めて、試験を受ける準備をしなければならない。

 物理学科卒となると、就職先は企業の研究所や理科の教員、あるいは大学院への進学などだ。だが、学園紛争という大嵐に曝されて、象牙の塔に集う教員たちの無力さや無能さ、嫌らしさをいやというほど目撃し、物理学を学ぶ気持ちはなってしまった。

 バリケード封鎖や無期限ストライキには反対しながら、活動家学生たちの主張に同調し、自分たちが学生だったら、率先してストに参加したそうな若い教員たち。封鎖学生たちが参加したクラス討論会で、彼らの思想の間違いを正そうともしないで、「出てきなさい」としか呼び掛けられない無能な教員。バリケード封鎖を解くために、日共系学生と手を組もうと画策する理事。

 さらには、無期限ストライキに賛成しておきながら、卒業が迫ってくると、掌を返すようにスト解除に回る、いわゆる一般学生といわれる存在。そんな学生に、活動資金と称して資金を渡す理事と、それをためらいもなく受け取る学生。

 象牙の塔のはずの大学は、そんな教員や理事ばかりで、世間とは隔絶した異様な世界だった。

 そうした実情に、物理と関係する道を進む気持ちは失せていた。就職先を考えなければならないが、かといって、大学で学んでいるのは物理学で、卒業するためには四年のゼミを取らなければならず、今更進路を変えることもできない。

 いろいろと悩みながら、名古屋の実家へ帰省して伊勢神宮を参拝することにした。清らかな気持ちで行く末を考えようと思ったのである。

 

 なにごとの、おあしますかは 知らねども

 ありがたなさに、涙こぼるる

 

 西行法師が詠んだ有名な和歌だが、当時の僧は内宮に近々と額ずくことはできなかった。西行が内宮を拝んだのは、おそらく五十鈴川の対岸からだろう。それでも、和歌に詠まれたほどの感激を覚えたのだ。

 英国の歴史学者トインビーは、内宮に参拝して「すべての宗教の原型を見た」と言ったそうだ。

 西行もトインビーも、感激を素直に言葉にしたのだろう。二人とも感受性の強い人だったのに違いない。

 伊勢神宮を参拝するに当たり、美保師が神宮司庁の幡掛正浩教学部長(当時)に紹介状を書いてくれた。幡掛部長は後に少宮司を務められた神道界の重鎮で、九十二才の天寿をまっとうされた。

 美保師の紹介状を片手に、軽い気持ちで伊勢を訪ねた私は、幡掛部長がそんな偉い人とは思っていなかった。無知と、学生だったが故の無鉄砲さで、帰省して電話を掛け、美保師の紹介だと伝えると、「外宮に参拝してから神宮司庁へ訪ねてきなさい」と指示された。

 近鉄名古屋駅から伊勢の宇治山田駅まで約二時間。外宮に参拝してから内宮へ向かった。

 余談だが、伊勢神宮の参拝は外宮先祭といって、外宮が先で内宮が後だ。外宮の祭神の豊受大神穀物の神で、いわば物質の世界を司っていて、神界の最高神である天照大御神に仕えている。豊受大神は臣下として大御饌を天照大御神に捧げているわけで、物質界から神界へ参拝をするのが決まりである。

 俗な言い方をすれば、部下である豊受大神に挨拶してから上司の天照大御神に参拝するということだ。役所や会社組織でも、いきなりトップに会うことはできない。位の低い人間に挨拶してからトップに見合わされるのが組織である。

 それなのに、驚いたことには、ある高名ともいえる学者が、参拝は内宮が先で外宮が後だとある本に書いていたことだ。伊勢神宮の説明でも外宮が先で内宮が後となっているのに、この学者氏はどういうつもりでこんな間違いをしているのか不思議でならない。こんな人物が、よく学者として通用するものだと首を捻ってしまう。

 さらにある学者は、神葬祭では一拝のお辞儀をするだけで柏手は打たないと、ある本に書いていた。さらに二拝二拍手一拝の最初の二拝は軽いお辞儀、最後の一拝は深い礼としていた。

 神葬祭では、音が出る柏手は打たないが、通常の参拝と同様に二拝してから、忍び手といって音が出ないように二度柏手を打って一拝する。そして、最初の二拝はもちろん深い礼である。この学者氏は本当に神道のことを知っているのだろうかと呆れるばかりだ。

 また、ある政治学者はテレビの討論番組で、今上陛下(現上皇陛下)のことを「平成天皇」と言っていた。「平成天皇」は諱(いみな)、諡(おくりな)である。政治学者ともあろう人間が、諱、諡が死後の尊称だということを知らないのかと、激しい憤りを覚えた。あるいは何らかの意図があって諱、諡を口にしたのなら、許しがたい人間といわざるを得ない。こんな学者に教えられる学生は悲劇だし、正確な日本語を話せない政治学者を、討論番組に何度も出演させるテレビ局の見識のなさにはあきれるばかりである。

 これらの学者諸氏は、日本の伝統を尊ぶと言いながら、実際には伝統ある神道祭祀を意図的に破壊しようと、ひそかに画策しているのではないかと疑わざるを得ない。そうでなく、本当に書いたことを正しいと思い込んでいるのなら、ただちに学者の名前を返上して、職を辞するべきである。

 さて、伊勢神宮は梅田筵で神道の行を始めてから、帰省するたびに参拝していた。外宮から内宮まで歩くと二時間ほどの道のりで、途中の月読宮や倭姫宮猿田彦神社などを巡拝することができる。しかし、幡掛部長を訪ねるのが目的だから、バスで内宮へ向かった。

 神宮司庁の受付で名前を名乗って目的を伝えると、ご本人がいきなり現れ、「まず参拝しましょう」と先に立って歩き始めた。自己紹介もしていないので、戸惑いながら後に続き、神域に入る。何度来ても、内宮の清々しさには感動するばかりだ。

 内宮の参拝は、石段を登ったところの大前(おおまえ)で行う。大前には白い大きな幕が垂れ、奥に白い玉砂利が敷き詰められ、鳥居があって正殿へと続く。正殿には神職を除いて天皇陛下しか入ることができない。

 白い幕は微かに透き通っているが、普通の参拝では正殿を正面から直接拝むことはできない。

 胡蘭成氏は「建国新書」の中で次のように書いている。

 

私は美保姫のおともをして伊勢参宮した。先に二見ケ浦海辺に降りて禊祓いをうけて、外宮に参拝すると、大前に垂れてある高さ丈余、幅一間余りもあらう白い布の幕が、すうとゆらゆらと波を打って二人の頭上へ掲げられ、真正面の奥が見えた。神に対面する感激が深く、美保姫は額づいて手を合わせて祈祷を念ずる。私はただ合掌する。とばりは悠悠と下りる。二人の頭にふれるようだ。さあッと静かに完全に下りて垂れてゐる。それから五十鈴川に下りてみそぎして、内宮に参拝した。私が気がついて見れば、美保姫が膝を折り蹲り拝んでいる頭上へ、内宮の白い布の幕は、すうと波打って掲げられたのである。

 微風があったかといふに、神の境で動く霊気なのであらう。

 

 大前から真正面の奥を拝めることなどまずあり得ない。胡蘭成氏が指摘したように、神の境で動く霊気が、白い布の幕を動かしたのだろう。

 第六十二回ご遷宮で、ご神体が新しい宮に入ろうとするとき、舞い上がるような風があたりを清めたと感じた人が何人もいたらしいが、神域と人の世の境には、神気が漂っているのだろう。

 幡掛部長に伴われて内宮に着いた時、大前で参拝するのだと思っていたが、案内されたのは神職が立っている左脇の入口だった。中へ入ったところでお祓いを受け、通路に従って奥へ歩いて右に折れ、正殿手前の鳥居へ向かう。

 足元の真っ白な玉砂利を踏む足が震えた。頭の中は玉砂利以上に真っ白で、思考は蒸発した。鳥居で正殿に向かい、一揖二拝二拍手一拝一揖すると、嬉しさ、懐かしさ、尊さ、喜び、それらの感情がない混ぜになり、すべてが一度に押し寄せてきて目が潤んだ。

天照大御神の存在を実感した。