巻の十 特異な日本人の脳

 虫の音を美しいと感じる秋となったが、そう感じるのは日本人だけらしい。雨の降る音、特に春雨や時雨れに、日本人は特別の情緒を感じる。

 しとしとぴっちゃん、と歌ったのは子連れ狼の主題歌だった。幼い大五郎の孤独、寂しさ、父の拝一刀への信頼、さまざまな感情が入り混じり、独特の雰囲気を盛り上げている。

 そう感じるのが日本人だけだとしたら、なぜそんなことが起きるのか?

 日本語にはオノマトペ、「にこにこ」とか「さらさら[とか「はらはら」とか、いわゆる擬声語や擬態語が多い。世界の言語に詳しいわけではないが、日本ほどオノマトペが多い国は珍しいのではないか。

 これが日本人の風流心、四季をそれぞれ讃え、犬や猫、虫、自然の音まで語りかけてくると感じる独特の情緒を育んでいる。

 東京医科歯科大学の教授を務めた角田忠信氏によれば、日本人の情操を育んできた大本は、脳の独特の働きにあるという。

 日本語の受け皿になる脳は、科学的実験によって、他国の人と大きな違いがあるという驚くべき事実が解明されたのである。

ヒ 言語と感じるか雑音と判断するか

 角田氏は耳鼻咽喉科の医師で、機能障害の治療のため、まずは正常な器官や脳の機能を調べた。脳に故障があれば器官にも故障が起きることに着目したのである。

 研究の過程で思いがけないことが判明した。ツノダテストという角田氏が開発した独特の実験方法で、日本人と外国人の左右の脳の使い方が異なっていたのである。

 ツノダテストでは純音(雑音)、各種言語とその母音、コオロギの鳴き声、西洋楽器と邦楽器の音色などを左右どちらの脳で処理しているかを調べた。

 その結果、日本人以外では各種言語は左脳、他の音と母音は右脳で処理していることが判明した。

 これに対し日本人は、言語はもちろんだが、母音、コオロギ音、邦楽器の音は左脳、純音や洋楽器の音は右脳で処理していた。

 左脳は言語脳だから、日本人は邦楽器の調べやコオロギ音を言語と認識していたのである。

 そして母音だが、日本人は左脳で処理するが、それ以外の国の人は右脳で処理していた。

 この場合、母音は発音の後に長く伸ばす。例えば、素盞鳴尊奇稲田姫を娶るときに詠んだ、日本最古といわれる和歌。

 八雲立つ、出雲八重垣 妻ごみに

 八重垣つくる その八重垣を

 八雲は「やあー ぐうー もおー・・・」というように発音する。毎年、正月に行われる皇居での歌会始のうたい方と思えばいい。

 日本語は子音ブラス母音で成り立ち、さらにあいうえおなど母音だけにも意味がある。「あ」は吾や驚いたときの「あっ」、「い」は胃や井や亥、というように、それぞれが意味を持っているから、一つの母音だけ、例えば「あ」を理解するには文脈で判断する。

 これに対し大半の外国語は、子音が中心で母音は付け足しという形をとっている。例えば英語は、書かれた単語から母音を抜いても意味が通じる。

 例えばfrendの「e」を抜いても「frnd」で理解できる。このため、速記では母音を省略しているそうだ。

 日本人以外の場合、母音だけだと右脳へいくが、子音に混じって単語になると左脳で処理している。母音単独だと、どうやら言葉として認識できないらしい。

 つまり「母音に対しては西洋人すべてが全部機械的な音と同じような情報の処理の仕方をする」(角田忠信著 『日本人の脳』 大修館書店)という。

 この実験は多くの人種民族に共通し、日本に距離的に近い中国でも同じ結果だった。

 さらに、日本人と同じになるのではと予測されたお隣の韓国人も、欧米人などと同様に、母音の処理は日本人とは異なり、擬態語擬音語も右脳で雑音として処理していた。

 日本人はすべて母音を左脳で処理するのか? 外国人ならすべて右脳で処理するのか? そんな疑問に答えるため゜角田氏は海外で生まれて育ち、生活する日本人二世、日本国内で生まれて育ち、生活する外国人二世に協力を求めて実験を行った。

 すると、日本人二世は欧米型、外国人二世は日本人型と判明した。つまり人種や民族に関係なく、日本で生まれ育ち生活する人と、海外で生まれ育ち生活する人とでは、母音の処理脳が異なっていることが判明したのである。

 外国人でも日本で生まれ10歳ぐらいまで育った人、日本人で海外で生まれ同じく10歳ぐらいまで育った人は、左脳と右脳の働きが生まれ育った土地のパターンになる。

 なぜそうなるかといえば、四季折々の情緒豊かな日本の風土もあるが、最大の原因は日本語、それも母音にあると結論付けられる。

 

フ やまと言葉が日本人脳を形成

 

 日本語がどうして母音中心の言葉になったのかは、そもそも日本語の成立過程すら不明だから分からない。だが、歴史時代に入って、近畿地方で使われていた「やまと言葉」が、現代日本語の基となったのは疑いない。

 では、やまと言葉とはどういうものかといえば、古事記日本書紀に歌謡が頻繁に出てくることからみても、日常生活に密着した歌が大本にあるといえるのではないか。

 素盞鳴尊の「八雲・・・」はいうに及ばず、六世の孫とされる大国主命が越の国で沼河姫に求婚したときの「八千矛の・・・」という長歌神武天皇が長脛彦を撃つ時の「みつみつし・・・」という長歌は、歌会始のようにゆっくりと語尾を伸ばして発声したことだろう。

 その名残が和歌の朗詠であり、謡などの歌曲につながっている。いずれも発音を明確にし、言葉の最期を長く伸ばすことが共通している。

 こうした歌謡が庶民にまで行き渡っていたのは、万葉集に防人の歌として収録されていることからも分かる。

 常陸国風土記には筑波山の中腹で歌垣(かがい)が行われたと伝えられている。歌垣は春や秋に穀物の豊作を祈り、収穫を感謝する農耕儀式だが、それ以上に若い男女の出逢いの場として活用された。

 歌垣という言葉から分かるように、歌を贈りあい、愛を確かめ、夫婦の契りを結んだ。農耕を営む庶民の生活の場は狭いから、異なる場所でそれぞれ生活する男女の出逢いの場は、無くてはならないものだった。

 古事記日本書紀に歌謡が多いのも、膨大な歌集である万葉集が組まれたのも、日本が古代から歌の国である証拠である。そして歌は、ゆっくりと長く語尾を明確にして謡われた。母音が耳を通じ、言葉として頭の中に蓄積されたことだろう。

 左脳で母音を処理するゆえんである。

 古代には、歌謡だけでなく、朝廷の祭り、氏の祭り、村の祭り、家々の祭りがあった。神々に向かって祈る祝詞は、ゆっくりと語尾を明確に発声し、母音がはっきりと発音される。

 つまり、すべての言葉の最期は母音になっている。

 例外は「ん」だが、実は古代、日本には「ん」という言葉はなかった。古事記日本書紀万葉集には「ん」に該当する万葉仮名は存在していない。

 子音+母音という独特の日本語が、母音を左脳で処理するという、世界でも珍しい脳の働きにつながっている。

 さて、神社で唱えられる祝詞だが、最近では早口言葉ではないかと疑うことがある。特に「大祓詞」がそうで、口の中でごにょごにょと、なにやらよその国の呪文のように感じることがある。

 調べてみると、どうやら神職の試験で、大祓詞を一字一句、間違いなく唱えなければならないため、早口で何度も暗唱する癖がついてしまったらしい。祝詞本来の唱え方ではないから、暗記するときはともかく、神前では強い声ではっきりと母音を発音してもらいたいものだ。

 歌謡、祝詞は日本独自の発声方法だが、歌謡の場合、一人で朗詠するものではなく、歌垣のように大勢の集まりで披露された。

 恋の歌、相聞歌でさえ、人が集まった場所で朗詠された。

 例えば、大海人皇子(後の天武天皇)と額田王の一行が、薬狩で標野を訪れた際、宴会の席上で遣り取りした有名な歌がある。

 額田王

 あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき

 野守は見ずや 君が袖ふる

 大海人皇子

 紫草の にほへる妹を 憎くあれば

 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

 薬狩で標野へ大勢で出かけたとき、大海人皇子額田王を恋しくて何度も手を振るから、そんなことをしたら野守に見られますよという、一種のからかいを込めた座興の歌だ。

 額田王大海人皇子の妻だったときに子供をもうけていたが、天智天皇に請われて妻になっていたから人妻である。それにもかかわらず好意を露骨に示す大海人皇子を、親しみを込めてからかったわけである。

 それに対し大海人皇子の返歌は、紫草のように美しい額田王を憎いと思っているなら、人妻だから恋い慕うわけがありません。憎くないからこそ恋い慕っているのですと、強調した相聞歌だ。

 天智天皇も同席したといわれる宴会で、過去のいきさつがあるにもかかわらず、堂々と心情を吐露した遣り取りに、宴会に参加した人たちから喝采を浴びたという。上代の人々は、おおらかであけっぴろげだったらしい。

 そしてこれらの歌は、現代の歌会始と同様、ゆったりとしたリズムで朗詠された。参加者の共通意識にすると同時に、長く尾を引く母音が人々の胸に刻み込まれたのである。

 同様の集まりは貴族階級だけでなく、筑波山の歌垣のように、各地で行われていた。だから、防人の歌のように、農民の優れた歌が残され、母音脳という日本人独特の左脳の働きができたのだろう。

 それが優れているとか、劣っているとかいうつもりはないが、日本人の脳の働きとして認識しておく必要がある。

 風や雨の音、川のせせらぎ、犬や猫、虫の鳴き声、木々の揺れるささやくような音、私たち日本で生まれ育った人間は、豊かな情操を風土や言葉に育まれ、同胞を愛する心、生まれ育った土地を慕う望郷心、さらには他人の幸せや国の平和を祈る心を作り上げてきた。

 日本語がなくなれば、民族の情緒を持った日本人はいなくなる。それは日本国家の消滅を意味する。

 わりと近い過去に、漢字を無くしてローマ字にしようとか、国語を英語やエスペラントにしようという主張が一部でなされた。日本語を失いかねない国家存亡の危機が明らかにあったのである。

 それを先人は乗り越え、日本語、すなわち日本人と日本国家を存続させた。

 カタカタ言葉の多い現代、母音中心のやまと言葉を見なすべきである。

 だが、除夜の鐘の音が煩いと中止を求めたり、幼稚園や保育園の児童の声が喧しいと、文句をつけるクレーマーが少なからずいる。

 鐘の音で行く年来る年の区切りの心構えをなし、子供たちの騒ぐ声で、自分もそんな時代があったなと懐かしむ心は、こうしたクレーマーにはない。

 もっとも、この人たちが鐘や子供の声を右脳で、すなわち日本人以外の方法で処理しているとしたら、話は別である。
 そんな人間が多くなれば、伝統文化が破壊され、子供たちが健全な成長を妨げられる。

 日本国憲法の異常なほどに強い人権意識が、自己中心の人間を作ってしまったのかもしれない。

 哀しいことだ。