跋 葦牙のごと萌え騰がれ

 私たちが思考停止に陥れさせられた最大の原因は、自虐教育と一部マスコミの偏向したヒステリックなキャンペーンにある。

 自虐教育によるいびつな拝外思想の誤りは、遺伝子考古学や分子人類学の発達で正され、古典史料を忠実に解釈することで、古代史の真実も明らかになった。さらに言霊や神道の実相から日本のあるべき姿も明確になった。ここまでくれば、思考停止からの脱却は間近い。

 では、どうやって思考停止から目覚めるかだが、もっともらしい主張にまず疑問を持つことだ。特に、耳あたりのいい言葉には要注意である。

 どういうことかと言えば、平和が大切、隣国とは仲良くしなければならない、話し合えば解決できる……などなど、誰が聞いてもうなずける抽象的な発言には、思考停止のワナが仕掛けられているからである。

 思考停止から抜け出すためには、こうした主張を俯瞰してまず全体像を把握し、疑問を投げ掛ける必要がある。大疑は大悟に通じるから、何事も疑問を抱くことである。

 例えば、もっとも耳あたりのいい「平和憲法」の内容をまず把握し、世界情勢と照らし合わせて、絶対に守るべきものかどうかを検討することから始めよう。「平和」という言葉に惑わされず、自分の頭で考え判断するのである。

 平和憲法といわれるゆえんの日本国憲法前文(ぜんぶん)には次のようにある。最も議論となる部分だ。

 

 日本国民は、平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 

 この部分を一読して、おかしな文章だと感じる人が大半ではないだろうか。そして、すぐに理解でき、名文だと受け取る人が何人いるだろうか。

 憲法などの法律用語が難解だからわかりづらいのではなく、英文の直訳だから理解しにくい文章になっている。例えば、「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とはいったい何を指すのか、あまりにも抽象的で意味不明である。

 そして最大の疑問は、「平和を愛する諸国民」とはどの国を指しているのか、まったく不明な点だ。日本を占領した米国なのか、連合軍の一員の英国やソビエト(ロシア)、それとも中共なのか?

 米国は広島と長崎に原爆を投下、東京を大空襲で焼け野原にし、沖縄の多くの非戦闘員を殺害した。いずれも非戦闘員を対象にした殺戮で、明らかな国際法違反である。そして近年では湾岸戦争イラク戦争を起こした。

 ロシアは日ソ相互不可侵条約を一方的に破棄して満州に攻め込み、大勢の同胞をシベリアへ抑留し、国後、択捉など北方領土を占領した。そして今、ロシアはウクライナを一方的に侵略、暴虐の限りを尽くしている。

 そして中共チベットへ侵攻し、ウイグルなど多くの少数民族を弾圧してきた。尖閣諸島の領有権を主張して領海侵犯を繰り返し、ベトナムフィリッピンの海域では威嚇行動を頻繁に起こし、いつ戦争に突入してもおかしくない危険な状況にある。国際世論が批判すれば、平然と開き直る傲慢さだ。自国だけが正しく、他は従うべしという中華思想が、現代になっても続いている。

 いったいどこに「平和を愛する諸国民」が存在するのだろうか。あえていえば、「平和を愛する」のは「日本国民」ということになる。

 こうした前文を基に第九条が作られている。

 

①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇叉は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 これもおかしな日本語だが、それよりなにより、どこかの国が攻めてきたらどうするのかという観点に欠けている。諸国民が文字通り平和を愛せばいいが、日本の周りだけをみてもそうではないことが明らかである。攻められたら、何もしないで黙って指をくわえて見ていろとでもいうのか。

 それでは生存権の放棄である。元寇のように一方的に侵略されて大勢が虐殺され、何人もが奴隷として連れ去られたらどうするのか。大勢の国民がシベリアへ抑留され、寒さと飢えで死んでいったらどうするのか。

 もし、どこかの国に攻められたら、平和憲法を護れといっている人たちは、人柱になって国を守ってくれるのか。平和憲法があるから攻められはしないというのなら、コトダマ教の思考停止「患者」としかいいようがない。

 国の根幹をなす憲法でさえ、前文と九条だけでこれだけの疑問がでてくる。疑問を持つことが、いかに大切か明らかである。

 憲法九条があれば平和が守れるというコトダマ教のワナに陥ったら、あとは一瀉千里に思考停止の果てしない荒野に迷い込む。平和は誰でも求めるが、言葉だけで実現すれば、何の努力もいらない。世界情勢を観れば、言葉で平和がもたらされないのは明らかである。

 だから、思考停止から脱却するには、平和憲法金科玉条とする一部新聞や政党に、まず大きな疑問を持つことが肝要である。そして、それら一部マスコミや政党が、平和を実現するためにどういう政策を提唱しているのかをしっかりと見極めれば、抽象的なことしか言っていないこと明確になり、彼らが無責任なコトダマ教信者にすぎないことが明瞭になる。

 耳に痛いことや嫌だなと思うことでも、理由を明確に示して主張するのが、政治家やマスコミに課せられた役割であり義務である。大衆に迎合するだけがオピニオンリーダーではない。

 南京大虐殺従軍慰安婦や強制連行など、日本を貶める一方的で声高な弾劾には、隠された意図があると疑おう。日本を卑屈にさせて自らの利益にしようという中共や韓国の思惑があり、外交カードの政治宣伝だと認識すべきである。

 それに同調する政党やマスコミは、完全に思考停止していると考えて間違いない。中共や韓国の「ため」にする主張を、朝日新聞などの偏向マスコミが盲信し、意図的に大きな記事にしたから、当該国がさらに居丈高になったのである。もめる原因を作ったのは日本の偏向マスコミにある。

 新聞が中立で公正であるべきとされるのは、影響力の大きさと、記者に特権があるからである。新聞記者は一般人が立ち入れない場所、例えば総理大臣の記者会見などに出席できる。その記者が、悪意を持って総理大臣を傷つけようとすれば、容易にできる機会を得る。だから新聞記者は、人格高潔とまではいわないが、自己規制して中正を保つよう努力しなければならない。

 しかし、特に朝日新聞毎日新聞など一部偏向マスコミの記者の多くは、自虐的かつ反日的な社内教育を施され、売国的記事を平然と意図的に書く。

 さらに記者は、自分が書いた記事を大きく扱われたいという功名心が強いから、閣僚のどうということのない失言を、敵対国の政府要人に質問する形でぶつけ、マッチポンプで煽り、問題を大きくする。

 一段のベタ扱いにしかすぎない記事を、コップ酒を一杯飲めば二段になり、二杯飲めば三段と大きくなる……という冗談がある。記者の気持ち次第で記事が大きくもなれば小さくもなり、さらに扱われないこともあるというブラックユーモアである。

 だから、新聞の「主張」を読者は鵜呑みにしてはいけない。信じていいのは、淡々とした短い事実関係、五W一Hの部分だけである。長い記事や解説になると、記者の主観が入ってくるから、頭から信用してはならない。

 特に社説やコラムは主観そのものだから、見向く必要もないが、もし読むとしても眉に唾つけるべきである。

 もちろん、テレビのワイドショーなどを信じてはいけない。テレビは言いっぱなしの無責任さがあるし、ドキュメンタリー番組などを見ると、NHKやTBS、テレビ朝日など一部のテレビ局には、あまりにも反日的な記者や制作者、キャスターが多いことに愕然とする。

 記事の主張なり解説をまず疑ってかかり、さらに他の意見を調べれば、何が真実か見えてくる。そうして初めて、思考停止から脱却する下地ができる。

 さて、本格的に思考停止から目覚めるにはどうしたらいいかだが、GHQの占領政策の逆をやればいい。

 GHQは我が国の伝統や文化を否定した。特に神道に目くじらを立てた。だから、逆は新なりで、まず神社詣でから始めることだ。できればご遷宮のあった神宮に参詣し、本当の清浄さを全身で受け止めてみることである。得がたい経験となって、心を洗われるだろう。

 神宮まで行く余裕がなければ、まず近くの有名神社に参詣しよう。東京圏なら東京大神宮や明治神宮愛宕神社など、少し足を伸ばせば千葉県の香取神宮茨城県鹿島神宮など、清浄感溢れる神社がいくつもある。

 近畿圏なら三輪神社や石上神宮など由緒ある神社が多く存在する。これらの神域は、今はやりの言葉で言えば強力なパワースポットである。神域で静かに佇み、神気を全身で受け止めようとすれば、かならず何かを感じるはずである。

 こうした有名神社に行く余裕がなければ、自宅近くの氏神に参拝しよう。多くの氏神は、今でも鎮守の森とまでいかなくても緑を豊かに残し、静かに鎮まっている。月に一度でいいから参詣すれば、神々の存在を感じ取れるようになるだろう。

 もう一ヶ所、参詣を忘れてはならないのが、総理大臣の参拝に中韓が異常に反発する靖国神社である。A級戦犯が祭られているからと中韓は主張するが、本当にそれだけのことで反発しているのかを疑おう。そして、事実を見極めるために靖国神社を参拝し、中韓が罵るように軍国主義の総本山なのかどうか、自分の目で確かめよう。いかに彼らの反発が「ため」にするものか歴然とする

 もっとも、死者を許さないのが古代からの中華思想で、我が国が何を言っても反発は収まらないだろうから、放置するしかない。近い将来、中共が崩壊し、分裂国家ができれば反発が少しは収まるかもしれない。

 さて、神社を参拝するにあたり、守るべき心掛けがある。それは、自己の現世利益を願わず、無私の心で国の平安を祈るということである。思考停止の原因は、占領憲法によって自己中心の思想が植えつけられたせいだから、まず根本から改善しなければならない。

 神社参詣で、自己中心の利己主義を捨て、無心になって参拝すれば、かならず心が洗われる。願い事などしないで、神前で二拝二拍手一拝し、鎮座する神々に国家安泰を祈る。それが、神ながらの心である。

 これを続ければ、利己主義の醜い心が矯正され、やがて思考停止の暗幕が剥ぎ取られるだろう。

 最も日本的な風習、すなわち神社への真摯な参詣が、日本人の基本だと心に銘じておきたい。

 神社参詣と同様に大切なことは、個々人が心を鎮めて自らを省みることだ。そのためには、白川伯家神道の息吹永世が最適である。

 神道の行だといっても難しいことはない。安座か正座して独鈷印を丹田の前で組み、目を半眼にして一間ほど先を見つめ、鼻からゆっくりと息を吸い、口から細く長く息を吐く。瞑想は無心になるよう頭の中を空にしてもいいし、解決したい問題があればそれに意識を集中してもいい。

 一日に五分でいいから、意識して息吹永世を実践することだ。始めた当初は面倒で辛いかもしれないが、慣れるとやがて爽快感を得られる。そうなったら、思考停止はほとんど解けている。

 今から五十年近く前の一九七〇年直前は、日米安保条約改定反対や大学臨時措置法反対で、全国の大学は全共闘系学生によるバリケード封鎖、共産党青年組織の民青系学生による無期限ストライキで、荒れに荒れていた。学園紛争の洗礼を受けなかった大学は皆無だった。高校や中学にすら、紛争が燎原の火のように広がったのである。いわばイデオロギーの時代だった。

 六〇年安保は「民青にあらずんば学生にあらず」、七〇年安保は「全共闘にあらずんば学生にあらず」とばかり、全国の大学は左翼学生が跋扈(ばっこ)し、猖獗(しょうけつ)極まった。

 全共闘東京大学安田講堂バリケード封鎖し、機動隊によって実力解除されたのは六九年一月十九日。日本は革命前夜の様相を示していた。

 そんな中、世界最高峰の数学者で偉大な思想家だった岡潔氏が、国を守るために精神的な支柱をつくろうと、本文にも書いたが「葦牙会」を提唱された。葦牙は古事記に次のようにある。

 

 國稚く浮きし脂の如くして、久羅下那州多陀用弊流時、葦牙の如く萌え騰がる物に因りて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神、次に天之常立神

 

 日本は豊葦原水穂国というように葦が多い国で、牙は芽のことである。葦牙の泥の中から勢いよく成長する。そんな葦牙のように、全国津々浦々から日本を憂える有志が現れてほしいという願いをこめて、葦牙会と名付けられた。

 葦牙会の発起人は岡潔氏を始め、日本浪漫派文学者の保田與重郎氏、荒木駿馬京都産業大学総長、中国汪兆銘政府の法制局長官を務め、日本へ亡命していた胡蘭成氏、昭和十五年に復活した神祇院の流れを汲む、神道伝承者の梅田美保師の五人。自発的に萌え騰がった大勢の心ある老若男女が賛同した。

 ほかにも神道思想家の葦津珍彦、作家の林房雄、さらには自衛隊の市ヶ谷駐屯で割腹自決した三島由紀夫など、多くの心ある先人が、日本のあり方に警鐘を鳴らし、若人に葦牙の種を播いた。

 その種が、半世紀の長い潜伏期間を経て、いま一斉に芽生えてきた。子供や孫の次の年代に、日本を真剣に憂える志をつなげ、葦牙のように萌え騰がらせようとしている。国を正しい方向へ導く秋は目前にある。

 国民(くにたみ)安らけく平けく、いや栄えませ。幾久幾久.         (了)