永遠なる魂 第三章 石炭 2

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 浅井が学生に訴えた十日後、ついにその日がやってきた。日本はポツダム宣言を受諾し、正午から天皇玉音放送が行われた。

「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え 」

 ラジオから流れる玉音放送を聞いても、浅井は格別な感慨は浮かんでこなかった。日本の敗戦は避けられなかったのである。

 これから国の復興のために何をなすべきか。浅井の思考はそこに集中していったが、考えがまとまらないうちに予期せぬ訪問者がやってきた。

 終戦詔勅が下った翌日の午後、弟の疎開先に居候している浅井のもとへ、泥だらけの国民服を着た東大生三人が姿を現したのである。充血した真っ赤な目は憑かれたように浅井を見据え、だれ一人として視線を動かそうとしない。

終戦詔勅を聞いてなにも考えられなくなり、わけがわからないまま皇居にたどりつきました。宮城前の広場には老若男女が地にひれ伏して泣き叫び、軍人が割腹して白い砂を血に染めていました。自分たちはそんな情景をただ眺めるだけで、なんの感慨も起きてきませんでした。虚脱状態で、すべての思考が停止してしまったのです」

 及川と名乗った小柄な学生が、瞬きもせず浅井を見つめて話し続けた。色黒と精悍な感じの学生だった。

「その時、戦争に破れた、諸君はすぐに始めなければならない仕事があるという声が、どこからか耳に囁きかけてきました。それはあなたが我々に演説した言葉です。あの場に居合わせた事務員があなたの名前を知っていて、そこら中を散々捜し回ってここへたどり着きました。さあ、自分たちはなにをしたらいいのですか」

 据わった眼で問いかけられ、浅井は言葉に詰まった。何かしなければならないと腹で思っているが、これといって具体的な考えはなく、いきなり詰め寄られても答えられない。

「少し時間をください。あすの午後にお答えましょう」

 てこでも動きそうにない学生たちをなだめて帰したが、彼らの求めにこたえるには、何をなすべきか結論を出さなければならない。浅井は一晩中眠らず、考えに考え抜いた。

 弟の寝息が聞こえる暗闇の中で座禅を組み、これから何をなすべきかを思考しているうち、第一次世界大戦に破れたドイツが、どうやって復興を果たしたかに意識が集中していった。

 ドイツは何度も敗戦を経験し、第一次世界大戦さえものともせず、不死鳥のように甦った。その要はどこにあったのか?

 はたと思いついたのは、敗戦の度にドイツは最初に科学の復興を死に物狂いでやったという事実である。

 第一次世界大戦後のドイツは、農業で肥料が年間八十万トン必要だったが、原料の石油はなく、海外から輸入しようにも支払う外貨は払底していた。インフレが亢進し失業者が町にあふれたが、戦勝国は支援しようとせず、経済的にも政治的にもどん底にあった。

 だが、リンデ、ハーバーの二人の研究者が、空気中の窒素を取り出し、アンモニアをつくる空中窒素固定技術を実用化した。わずかな期間でロイナ工場を建設し、ドイツの窒素肥料の需要を賄い、大量の海外輸出を実現したのである。

 さらに石炭を乾留してできるコールタールから薬品や染料を開発、製鉄工場では錆びない鋼を製造し、急増する世界の需要にこたえた。

 それらの新技術が、第一次大戦後のドイツを短期間で復興させたのだった。

 座禅を組みながらそこまで考えたとき、一つの結論が閃いた。世界のエネルギー源は石炭が中心で、一国の産業水準は、その国の石炭産出高で判定されていた。浅井はさいわいにもベルリンの工科大学で石炭学を専攻した。

 石炭技術の復興を始めるしかない。浅井はそう結論した。

 翌日の午後、約束通り東大生が浅井のもとへやってきた。我々は何をなすべきかと浅井に激しく迫った及川ら七人で、皆よれよれの国民服姿で顔色が青いが、生きる目的を見つけ出せるかもしれないと、目だけは異様なほどぎらついていた。

 居候している農家の納屋では狭いので、浅井は七人を近くの野原に連れ出し、車座になって考え抜いた計画を話しはじめた。

「国の基本は石炭と言われています。石炭技術を復興させれば日本の国は立ち直ることができます。石炭の研究をしようではありませんか。皆さんも研究者として信念を持ち、まず石炭の勉強から始めましょう」

 一同は石炭の研究という思いがけない話に面食らったようだが、聞いているうちに全員の目が輝いてきた。

 翌日から学生たちは浅井のもとへ通いはじめた。実態は何もないが、石炭綜合研究所と名付け、浅井が持ち帰ったドイツ語の石炭の専門書で、熱心なゼミナールを開始した。

 だが、石炭を本格的に研究するには、実験のできるきちんとした設備が必要である。顕微鏡はもちろん、試験管やフラスコ、試薬がなければ、石炭の本質を探ることなどできない。何もない農家の納屋を研究所と呼んでも、自己満足にすぎないのである。

 研究員たちも浅井の講義を聞き議論しているうちに、是が非でも実験したいと熱望してくる。そのためには研究所を貸してくれるところを探さなければならないが、おいそれと見つかるはずもない。どうしたらいいのか?

 思い悩んだすえ、浅井は思いついた。

「この際だから、母校の研究室を無断使用するしかない。使っていないんだから、文句もでないだろう」

「それは名案です」

 及川を筆頭に研究員たちは愁眉を開き、さっそく翌日から東大理学部で実験を始めた。敗戦で生きる目的を失い、国民が右往左往していれば、母校の実験室を無断使用しても、どこからも文句をつけられることはなかった。

 研究員に実験を進めさせると同時に、浅井は石炭綜合研究所を財団法人にしようと動きだした。石炭で産業復興する計画は、私益ではなく公益で、それなら公益法人の性格を持たなければならないと考えたのである。

 その相談に商工省を訪ね、浅井は不思議な光景を目撃した。役所が集中する霞が関界隈のあちこちで、黒い煙がもうもうと立ち上っている。

 不審に首をかしげ商工省へ着いたが、そこでも中庭から黒煙が空へ噴き上げている。

 何事が起こっているのかと様子を探った浅井は、職員たちから漏れ伝わってくる話から、進駐してくるアメリカ軍から証拠隠滅を図るため、書類を燃やしている最中だとわかった。

 商工省も敗戦による混乱状態で、財団法人の認可申請に来たと伝えても、どこで相談すればいいのか明確な答えは返ってこない。証拠隠滅で書類を燃やしている時に、研究所を設立するから認可してほしいと申し出ても、職員としては驚くしかなかったのかもしれないが、役所仕事の典型であちこちをたらい回しされた。

 認可申請の窓口は不明で、事務処理の責任者もだれだかわからないとあっては手続きが進むはずもないが、浅井は書類を手にして日参し、十月に入ってやっと担当者をつかまえた。

 正常時なら煩瑣な手続きで認可に時間がかかっただろうが、審査しようにも態勢が整っていないのは明らかで、申請して一カ月もたたない十月末、十一月一日付で設立を認可すると通達された。

 そうなると、いつまでも母校の実験室を無断使用しているわけにはいかず、浅井はあらゆるつてを頼って研究所探しに奔走した。

「みつかったぞ!」

 足を棒にして捜し回ったおかげで、研究所を貸してくれる企業が見つかり、浅井は勇んで研究所代わりにしている、東大の実験室に駆け込んだ。幸いにも満州重工業の関係で、東京目黒にある三井化学研究所に話がつき、研究所の一室を使わせてもらえるようになったのである。

「やった!」

 研究員たちが飛び上がって歓声を上げた。手放しの喜びようである。母校の実験室を無断使用しているという肩身の狭さから解放され、これから大手を振って実験できるとなれば、夢は無限に膨らんでいく。

 戦後の混乱期は国民の大半が虚脱状態だったが、信念と勇気を持って事に当たれば、資金などなくても大抵のことは可能な時代だと、浅井は実感した。

 研究所では石炭の本質解明と利用加工の二つの研究を行った。本質解明というのは石炭の物理化学的性質を究明するもので、そこから利用加工する方向が見えてくる。日本の石炭の成分分析、炭層の年代、炭質の解析など、国内に埋蔵されている石炭の実態、つまり戸籍調べである。日本では過去に石炭の根本的な調査が行われたことはなく、研究所の最初の仕事として選んだのだった。

 石炭は太古の植物が大地の沈下で海水に浸され、空気から遮断されて炭化したものである。石炭組織学では黒い石炭の塊からビトリットと呼ぶ木質部分、クラリットという小枝や木の皮、葉っぱが混ざった部分、さらにジュリットという種子や胞子が固まった部分を区別して定量し、石炭全体の性質を判定する。

 それがわかれば、最も効率のいい石炭の利用方法を見つけ出すことができる。そこから、浅井は日本復興の道を探り出そうとしたのだった。

 しかし、実験を進めるには器材が必要である。浅井は市ヶ谷の土地を売り、実験に必要な材料を購入してきたが、私財は底をつき、まさしく無一文の状態では、どうあがいても研究を続けることはできない。

 そこで研究員たちと、何とか金を稼ぐ方法を見つけようということになった。所員と相談した結果、砂糖不足で人々は甘いものに飢えているからとサッカリンの密造を始め、フケ取り香水や防虫剤も作ったが、商売などしたこともない研究員ばかりとあって、いずれも失敗してしまった。

 失敗したのは、石炭研究の応用で収入の道を探すのが本筋だと、天が指し示したのに違いない。目先の利益に目を眩ましていては、肝心の石炭研究は脇道に逸れ、産業復興の名目は失われてしまうと浅井は思い当たった。

 それなら何をすればいいかと思い悩んでいる時、新聞で佐藤大使がソ連抑留から釈放され、浦賀に送還されたことを知った。五月末のうららかな季節のことで、浅井はさっそく佐藤の自宅を調べ訪ねていった。佐藤の自宅は東京世田谷区の成城で、空襲の被害も受けず、庭付きの立派な家は、新緑の緑の匂いが包んでいた。

「ご無事でお帰りになり、安心しました。モスクワでは一方ならぬお世話になりました」

 八畳の座敷に通され、めっきり髪が白くなった佐藤と対面した。モスクワ抑留の苦しさは漏れ聞いていたが、さぞかし苦労されたに違いなく、浅井は一年ぶりに会う佐藤の艶のない顔に胸を打たれた。佐藤がいなければ、浅井が無事に帰国できたかどうかわからず、いわば命の恩人で、怪我一つない帰国を心から喜んだ。

「戦争に負けて、あなたの知識を生かせなくなってしまいましたね。だが、あなたがドイツで学んだことは、いつか国の役に立ちます。それを忘れず、励んでください」

 佐藤は感慨深そうに物静かな口調で浅井を力づけた。

「国のために役立てという、あの時の大使のお言葉は忘れていません。今は若い人たちを集めて研究所を作り、石炭の研究をしています」

「ほう。それは素晴らしい。具体的にはどのようなことをなさっているのですか」

「資金がないので満足な研究はできませんが、日本の石炭の戸籍調べとでもいうようなことを進めています」

「それはどのようなことを?」

 佐藤の問いに、浅井は研究所が進めている研究について説明した。

「日本の石炭ではコークスができないというので、外国炭を輸入していますが、研究が足りないからです。私の研究では、日本の石炭でも十分にコークスを作ることができますが、残念ながら、どの石炭会社も耳を貸してくれません」

 日本には粘結炭が埋蔵されていないので、コークスは作れないというのが石炭業界の常識だった。だが浅井は、日本の石炭の成分を分析するうち、乾留のやり方によっては十分にコークスができると見込んでいた。

「それが事実だとしたら、研究を是非とも完成させていただかなければなりません。石炭は日本に存在する唯一の天然資源ですから、それからコークスが作れるとなれば、輸入に頼る必要がなくなります。あなたの研究は、祖国を復興させる大きな役割を果たすに違いありません」

 私財は底をつき、資金稼ぎも失敗続きだったが、佐藤に激励され、石炭の利用加工で収入を図るべきという思いを強くした。

 散々知恵を絞った結果、戦後の材木不足で、炭坑で使う坑木が足りないことに目をつけた。坑木は坑内で支柱や梁に使われているが、取り外しができないので、石炭の切羽、つまり切り出しが進めば坑内に取り残され、埋められてしまう。材木不足の時代に、大量の坑木をみすみす失うのは巨額の損失で、それに代わる支柱や梁を開発すればいいと思いついた。

 ドイツの炭坑は伸縮自在の鋼支柱を使っていた。伸縮すれば取り外しでき、坑内の石炭切羽が進むにつれ支柱を外せば再使用が可能で、坑木の節約は採炭のコストダウンにつながる。

 浅井はドイツ時代に使っていた鋼支柱の形を思い出しながら、所員たちと頭をひねって設計し、炭鉱業界に提案した。

 肝心の炭鉱業界の反応はいま一つだったが、製鉄業界に大きな反響が巻き起こった。製鉄業界は敗戦で作るものがなくなり、鍋や釜、鋤や鍬を作ってかろうじて生き延びている状態だった。そこに浅井が鋼支柱の提案をしたのだから、製鉄業界は新たな需要先が見つかったとばかり飛びついたのである。

 さらに浅井は坑内の天井を支える坑木に代わり、鉄製の梁を開発し、大幅な経費削減をもたらした。

 鋼製の支柱や梁は評判がよく、多くの炭鉱から引き合いがきて、浅井は重い鋼支柱や梁を担ぎ、九州の三池炭鉱などの三井財閥系の炭坑を訪れ使い方を指導して回った。慌ただしい忙しさだったが、石炭業界の復興はすなわち国の復興につながると信じ、苦にもならなかった。

 鋼支柱と梁を石炭業界に提案したおかげで、補助金や寄附金が得られるようになり、満足とは言えないまでも実験を支障なく続けられる収入のめどがたった。

 研究所が軌道に乗り精神的な余裕が出てくると、ドイツに残してきた妻子のことが心配でたまらなくなってくる。仕事に没頭していても妻子のことを忘れたことはないが、疎開先はドイツ軍と英米軍の激戦があったところである。その後はソ連軍が占領して鉄のカーテンを下ろし、過酷な占領政策が行われていると伝え聞き、不安が不安を呼び、研究所でじっとしていられなくなる。

 佐藤大使は中立国に妻子の保護を依頼してくれたが、マッカーサーによる日本占領後一年たっても音沙汰はなく、浅井は妻子の消息を確かめるため、外務省や国際赤十字社など考えられる限りの場所を駆けずり回った。その結果、三月になって国際赤十字社が、妻子が東ドイツの田舎で生存していることを確かめてくれたのである。

 妻子の消息がはっきりしては座していられない。浅井は重大決心をして東京日比谷の第一生命相互ビルを訪れた。堀端に立つビルは占領軍が徴用し、マッカーサー元帥が君臨する米軍の聖域である。

 普通の人間なら気後れして押しかけようとなどしないが、浅井は違った。思い込んだら自分の不利になっても突き進むのが信条で、そこに道が開けると信じていた。信念の人、デュラー博士に学び、ベルリン陥落で生死の境をさまよった経験が、何事も恐れない気概を練り上げていた。

 あるいは、引いている戦国武将の浅井長政の血が、そうした行動に駆り立てるのかもしれなかった。長政は同盟を結んでいた朝倉勢を助けるため、不利とわかっていながら姉川織田信長と戦い大敗した。姉川の戦いから二年後、居城の小谷城を攻められた長政は、妻だった信長の妹、お市の方と三人の娘を送り返し、城に火をつけて自刃した気性の激しい人物だった。

 中へ入ろうとした浅井に、黒人のMP二人が飛んできて銃を突きつけた。不審人物と判断したに違いなく、強引に押し通ろうとすれば撃たれるかもしれない不安はあったが、浅井は腹に力を入れ、英語で叫んだ。

「私はマッカーサー元帥に会いにきた」

 MPの顔に緊張が走り、突きつけていた銃を下ろし、中へ入れと促した。海外生活で身につけた英語が効いたのか、それとも浅井の気迫に押されたのか、身分証明書を見せろなどの面倒なことは言わなかった。

 天井の高い薄暗いビルに入ったが、マッカーサー元帥の部屋までどうやって行ったらいいのか見当もつかない。浅井は占領軍の受付らしいところで一人の士官に来意を告げた。

「ノー」

 士官は素っ気なく返事して横を向いた。ここで門前払いされては二度と妻子に会うことができなくなる。それに来意を告げているのに、詳しく聞こうともしないで拒否するのは許せない。

「あなたはどうして元帥に問い合わせもしないでノーと言うのですか。元帥が私の来意を聞いて会わないというなら仕方ありませんが、あなたが自分勝手に拒否するのは納得できません。元帥に都合を聞いてください」

 浅井は一歩も引き下がらず、強硬に食い下がった。士官は困惑した面持ちで部屋の奥へ引っ込んでいったが、しばらく待つと二人の兵士がやってきてついて来いと指示した。浅井の剣幕に驚いた士官が元帥に問い合わせたらしかった。これなら元帥に会って直訴できるかもしれず、浅井の胸に希望の光が微かに灯った。

 兵士にエレベーターに乗せられ、最上階に案内された。廊下には数メートルおきに銃剣を抱えた兵士が立ち、警戒ぶりから元帥の部屋があると確信した。

 ドアの両脇に兵士が立つ部屋に入った浅井を、背が高く気品のある将校が迎え、執務机の前に座れと指し示した。机の名札にはバンカー少佐と記され、マッカーサーの副官だろうと見当をつけた。

マッカーサー元帥は、キリスト教の精神と自分の良心とで、日本を統治すると声明されました。私はドイツの戦場で別れた妻子の生死を確かめるため、欧州に赴きたいと考えています。元帥の良心にすがって出国の許可をいただくため、直訴状を持ってうかがいました。元帥に是非、会わせていただきたい」

 浅井はバンカー少佐の青い目を真っ直ぐ凝視し、思いのたけを視線に込めて切り出した。バンカー少佐は眉根を寄せて唇をきつく閉ざし、当惑した表情になったが、浅井の顔をしばらく見つめてから口を開いた。

「あいにく、元帥は留守です。私からその直訴状を渡し、あなたの気持ちをよく伝えましょう。あなたは元帥に会わなくても、私と話すだけで十分です」

 元帥が不在と聞き浅井は肩を落としたが、バンカーは何を思ったのか立ち上がり、脇の扉を開いた。そこは元帥の執務室で、松の盆栽が幾つも飾られていた。元帥不在は嘘でないとドアを開いてまで証明するバンカー少佐の誠意に、浅井はそれ以上、粘ることはできなかった。

 だがバンカー少佐は浅井の失望を感じ取ったのか、心配することはないと何度も励まし、浅井をエレベーターまで見送り、一枚の紙を手渡した。

「これは元帥が最も好まれている言葉です」

 手渡された紙には、「青春」と題された英文がタイプライターで記されていた。

「青春とは人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」

 そう始まる詩は、元帥が心の拠り所として人生を築き上げてきた言葉に違いなく、浅井の琴線を強く揺さぶった。

 元帥の座右の銘を渡された浅井は、バンカー少佐に深く感謝し、占領軍司令部を後にした。彼なら嘘偽りなくマッカーサー元帥に伝え、便宜を図ってくれるに違いないという確信があった。

 浅井がバンカー少佐と会った三日後、外務省から研究所へ至急出頭するよう電話が入った。妻子の件だなと推察し、浅井は電話を受けた足で、桜田本郷に仮住まいしている外務省に走った。外務省は霞が関の庁舎を戦災で失い、まだ敗戦の混乱から抜け出せないようで、省内はざわめき雑然としていた。

 旅券課を訪ねた浅井に、薄汚れた国民服を着た、顔色の悪い係員が机の前に座るよう指示した。係員は眉間に深い皺を刻み、腰を下ろした浅井を、途方に暮れた目で見つめた。

「米軍司令部から、あなたの出国査証を直ちに発行しろという要請がありました」

 その言葉を聞いたとき、浅井の胸に喜びが広がった。これで妻子と会え、日本へ連れ帰ることができる。思わず破顔したとき、係員の次の言葉に浅井は笑顔を凍りつかせた。

「しかし、終戦で出国査証を発行する手続きの規則ができていないし、査証の書式もありません。かといって米軍司令部の指令は絶対ですし、どうすればいいか困っているのです」

 困ったのは係員より浅井で、出国査証がなければ渡欧することはかなわず、何かいい知恵はないかと、疲れた表情の係員と話し合った。

 その結果、以前の旅券を利用して「妻子を出迎え帰国するため、連合軍最高司令官の指令に基づき、この旅券を交付する」と但し書きを付けた旅券が出来上がった。

 だが旅券を受け取っても、日本の海外交通網は断絶し、欧州まで行く方法が見つからない。それでは旅券は宝の持ち腐れで、渡欧する道はないかと調べ回り、やっとアメリカからくる貨物船がインド洋経由で欧州へ回っていることを知った。

 だが、その貨物船がいつ日本に来るのか皆目不明で、胸を焦がして待った。

 旅券発行から三カ月ほどして、スイスの国際赤十字社から長文の電報が届いた。妻と子供たちは無事にスイスに救出され、大西洋回りの貨物船で日本へ向かったというのである。

 その電報を呼んだ時の喜びは筆舌に尽くしがたく、ひたすら佐藤大使とスイス当局、マッカーサー元帥やバンカー少佐に感謝するだけだった。

 妻子の到着を一日千秋の思いで待ち、七月半ばの午前中に横浜埠頭に着くと報せを受け、浅井は思わず万歳と叫んだ。妻子を疎開させてから四年ぶりの対面で、よくぞ日本にたどり着いたと感慨深く、浅井は鼻の奥が熱くなった。

 到着したのは蒸し暑い初夏の日で、浅井は友人からオンボロのフォードを借り、九時前に横浜埠頭の岸壁に乗り付けた。幸い空は晴れて見通しは良く、沖合に目を向けるとそれらしい船が一隻浮かんでいた。だが検疫に時間がかかっているのか、いつまでたっても動こうとせず、嬉しさと焦れったさで浅井は岸壁をうろうろと歩き回った。

 妻のエリカは言うにおよばず、子供四人も生まれて初めて日本の土を踏む。果して日本の風土にうまく溶け込めるのか、ドイツとの違いに戸惑いはしないかと、余計なことをあれこれ思い悩む。

 三時間以上も待たされただろうか、船はやっと岸壁に接岸された。浅井は下ろされたタラップを一気に駆け上がった。デッキで四人の子供を連れたエリカが、満面に笑みを浮かべ立っていた。ソ連の占領地から抜け出し、長い船旅でさぞかし疲れ果てているだろうと懸念していたが、血色は良く、晴々とした爽やかな笑顔で、神々しいほどだった。

「あなた!」

 笑いかけた浅井の胸にエリカが小さく叫んで飛び込んできた。

 久しぶりに胸に抱く妻の体は、痩せてはいたが痛々しいほどではなく、熱い血の温もりが生きているという実感を感じさせる。抱き合っている二人の周りに子供たちが駆け寄ってきた。

 十歳になる長男を筆頭に皆晴れやかな笑みを浮かべ、とりわけ生まれてわずか十日で別れた末娘は、初めて見る父親の姿に、恥ずかしそうに目を細めた。浅井はかがんで娘の顔をじっと見た。涙に顔が霞んだ。

 浅井は研究所が軌道に乗ってから世田谷区成城の借家に住んでいたが、さほど広くない家は妻子の到着でとたんに狭くなった。だが、家族水入らずで暮らせるとなれば不満があるわけはなく、やっと得られた平和な家庭の存在に、浅井は生きてきて良かったとつくづく思った。