巻の5 後編  本つ教えの本質歪めた明治政府

ミ 復古神道の爆発

 

 吉田神道垂加神道の流れを汲み、仏教や儒学の影響を排除し、古事記万葉集などの、我が国固有の古典に忠実に従おうとしたのが国学者たちだった。

 その先兵となったのが、京都の伏見稲荷大社の神官の家に生まれた荷田春満(かだあづままろ)(一六六九~一七三六)で、神職を弟に譲り、国学を研究し、我が国固有の道を説くことに専念した。

 荷田家の神道吉田神道の流れを汲み、さらには山崎闇斎の門弟が伏見稲荷大社の神官に就いていたことから、春満は幼年時代から神道中心の考え方を持っていた。

荷田春満国学復古神道の先駆者で国学四大人(うし)の一人と言われ、賀茂真(ま)淵(ぶち)(一六九七~一七六九)に大きな影響を与え、それが本居宣長(一七三〇~一八〇一)、平田篤胤(一七七六~一八四三)の国学運動へとつながっていく。

 加茂真淵は遠州静岡県)浜松の加茂神社の社家出身で、荷田春満の門下で万葉集を研究した。真淵の影響を受けたのが伊勢国三重県)松坂に生まれた本居宣長である。宣長は医学を学ぶが、僧契沖(一六四〇~一七〇一)の学問に触れて国学に興味を持ち、さらに松坂で加茂真淵に会ってから万葉集古事記などの古典研究に没頭した。

 宣長は日本文学の基本を「もののあはれ」に求め、古事記の精神に基づき「漢(から)意(ごころ)」を排除して、神道がすべての大本であることを説き、大部の「古事記伝」を執筆して国学研究の姿勢を確立した。

 宣長の没後の門人である平田篤胤は、秋田久保田藩藩士の子供として生まれ、備中国松山藩の平田家の養子になり、宣長の著書に触れて国学に開眼した。

 宣長、篤胤ともに天照大御神を太陽そのものと唯物的に判断したのは、神道の真髄を理解できなかったからで、国学の限界を示したといえよう。

 篤胤は宣長の学風を受け継いでいるが、大きな違いは神霊や霊魂、神仙、さらには神代文字などの存在を肯定しているところである。

 篤胤の前に突如姿を現した、仙界を知るという天狗小僧寅吉から聞き取りして「仙境異聞」を著し、「勝五郎再生記聞」では人の生まれ変わりを論じた。篤胤は伯家神道吉田神道の古学教授を委嘱され、神道の行にも深い興味を示した。

 篤胤の最大の功績は、黒船の来航で国家存亡の危機にあって、幕末から明治にかけ維新運動を推進した勤皇の志士たちに、思想的な影響を与えたことである。だが、明治新政府は当初こそ平田門下生を重用したが、政教分離政策によって政府中枢から放逐していった。

 

ヨ 近世二度の埋没

 

 明治維新政府は明治元年に「祭政一致ノ詔」を発し、祭政一致の道を目指した。さらに神祇官制度を復活させ、同三年には、宣教師を任命して大教(神道精神)を国民に布教する「大教宣布ノ詔」が下された。

 神仏判然令(分離令)を拡大解釈した排仏棄釈などの行き過ぎもあったが、維新をなし遂げた志士たちの思いが実行に移されたといっていい。

 しかし、世襲制を否定する神祇官制度の導入によって、八二三年に及んだ白川神祇伯は廃止された。白川家は明治初めまで皇室祭祀を司り、天皇や摂政にさまざまな手振り=作法を伝授していたにもかかわらず、新政府は存在を否定したのである。同時に、吉田神道神職免許の授与権を剥奪された。

 吉田家や白川家を排除したのは、「岩倉具視ら政府首脳らの総意の反映で、『白川氏などこれまで神祇に関係していた人々は一切採用しない』ことが、岩倉具視と神祇事務局総督の鷹司輔熙の間で確認されていた」(女性神職の近代 小平美香 ぺりかん社)からである。

 岩倉具視は白川家などの神祇家を目の敵にしていた節がある。敬神の念の強い孝明天皇が、公武合体と攘夷を強く求めた原因は、神道の影響があったからだと考えていたからである。

 吉田神道は神社を保有していたから細々とではあるが生き残ったが、白川神祇伯は固有の神社を持たず、皇室にだけ奉仕していたから、神祇伯を廃止されては、権威を失い没落していくしかなかった。

 岩倉を筆頭とする新政府の重鎮が、神道政策を歪めた責任は大きい。

 明治四年には、神社はすべて国家の宗祀(そうし)とされ、これによって神社独自の祭祀が禁じられ、国の祭祀方式に統一された。例えば、柏手は出雲では四開手(よひらて)、神宮では八起拝(やおきはい)八開手(やひらて)だったのに、一律に二拝二拍手一拝と定められた。もっとも、これに従う由緒ある神社は皆無で、独自の祭祀が続けられた。

 さらに神官の世襲制と社家制度が、人材登用のため廃止された。復活した神祇官もすぐに廃され、翌年には神官や国学者から登用されていた宣教師制度も廃止され、僧侶も就任できる教導職制度が導入された。宣教師や教導職はキリスト教の布教に対抗し、神道精神を普及するための職制であるにもかかわらず、僧侶を登用したところに政府の見識のなさが表れている。

 そして明治十五年、神官の教導職兼任が禁止され、国家の宗祀としての神社と、教導職が普及する宗教活動とが、完全に分離されてしまった。

簡単に言えば、神社は宗教性を持ってはならないと規定されたのである。この神社神道がいわゆる国家神道と言われるものだ。神社から宗教性や神秘性を排除してしまっては、神の道とはならないから、明らかに時の政府の失政である。

 この分離政策で、葬式は宗教性があるからという理由で、神官は例外を除いて神葬祭を禁じられた。明治維新で一千年以上にわたる神仏混交に終止符を打ち、やっと神葬祭が復活したのに、神社と教導職の分離が、再び歪んだ姿にしてしまったのだ。

 神葬祭を禁じて宗教性を排除すれば、先祖の霊を祭る「みたままつり」まで否定することになる。これでは、皇霊殿で歴代天皇の御霊を祭る皇室の神事すら否定しかねない。明治政府の政治家や官僚は、口では敬神を唱えながら、実際には神をも恐れぬ無神論者ばかりだったのである。神道は時の政府や官僚に利用されて意図的に埋没させられ、ここに「いわゆる国家神道」という「官僚神道」が出来上がった。

 それを推し進める方策が、いかに激烈であったかは、神道国際学会会長を務めた中西旭氏が「神道の理論」(たちばな出版)で次のように述べている。

 

 又、「神武創業の始に基づき諸事一新」の維新制度の立案者たる玉松操(大国隆正門下)も、それと前後して侍講より隠退し、「孺子(岩倉具視を指す)に全く騙された」と慨嘆して突如死亡した、否暗殺されたと云われる(明治五年二月)

 

 玉松操は錦旗を作り、薩長土肥を官軍に仕立て上げた立役者だが、そんな人物すらも要職から追われ、暗殺されたのである。そして、神道行事が軽視されていく。

 宮内庁が昭和、平成と、天皇陛下のご高齢を理由に皇室神事を簡略化しようと画策する動きは、神道行事軽視の当時とよく似ているのではないだろうか。

 

イ 意図した脱神道

 

 明治維新直後の神道行政を担ったのは、長州藩に隣接する津和野藩藩主の亀井茲(これ)監(み)と、藩士の大国隆正や福羽美静(よししづ)などの津和野派といわれる神道家たちだった。

 津和野藩は「明治維新以前に神仏分離を実行したり神葬祭を実行したりした」(国家神道と日本人 島園進 岩波新書)ほどの、熱狂的な国学派だった。

 そして維新政府内で「津和野派の影響力は平田派を圧倒し、一八六八年頃には彼らが神道事務局を動かし、行政の主導権を握るようになった」(同)ため、平田学派は急速に力を失い、神社行政は彼らが目指した理想とは程遠いものになっていった。

 津和野派と平田学派の対立は、平田学派の神職重鎮である常世長胤(とこよながたね)が書いた「神教組織物語」(日本近代思想大系五 岩波書店)に詳しい。

 平田学派が没落していくさまは、島崎藤村の小説「夜明け前」が、発狂して死ぬ主人公の青山半蔵の眼を通して、当時の状況を生き生きと描いている。ちなみに、青山半蔵のモデルは藤村の実父である。

 岩倉らは長く続いた神祇家を排除したが、維新政府の神祇官だけで祭祀を行うには、知識や経験の不足で無理があった。「大祓」や「祈年祭」「新嘗祭」などで白川家や吉田家に頼らざるを得ず、明治四年には「いったん排除されたはずの白川資訓、吉田良義が『掌典』に任命されることによって両氏の神祇官復活が実現」(女性神職の近代)したのである。

 伝統ある神祇家を排除し、次には頼らざるを得ない維新政府の神祇行政は、右往左往するだけの場当たり的で混乱を極めた。

 さて、大東亜戦争に負け、GHQの神道指令でいわゆる国家神道軍国主義の原因にされたため、明治維新神道復活を進めた平田学派がファシズムの根源だと非難されている。しかし神道政策の歴史をみれば、維新政府は平田学派を排除しているから、この主張がいかに的外れかわかる。

 では、なぜ維新政府は神社から宗教性を排除する神道政策を取ったのか。一つには、鎖国から開国へと外交の舵を切った維新政府が、欧米諸国から信教の自由の確立、すなわちキリスト教の自由な布教を強く求められたからである。

 このため維新政府は浅はかにも、国家祭祀から宗教性を排除すれば、神道は宗教ではなくなるから、神社を国家護持しても欧米諸国から批判されなくて済むと考え、神社と宗教的な神秘性が不可分なのにもかかわらず、教導職の導入で神社から宗教性を分離した。

 この「官僚神道」が国家政策を大きく歪める結果となった。

 欧米の帝国主義国家が、他国を侵略するときに、先兵としてキリスト教を布教させるのは歴史が証明するところだ。だから、宣教師にしろ教導職にしろ、キリスト教にいかに対抗して神道を国民に普及するかが最大の課題であった。

 しかし、神道を普及する教導職に僧侶を加えるなど、政府の神道政策は支離滅裂だった。ものの本質をわきまえない官僚の姑息な政策が、神道を誤った方向へ導き、国民に誤解を与えてしまったのだ。

 さらに、鹿鳴館に代表されるように、「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開花の音がする」と庶民から揶楡(やゆ)された西洋化政策が、神道軽視に拍車をかけた。我も我もと西洋かぶれし、伝統を棄てるのが進歩人とでもいう風潮が蔓延していった。思考停止が起こったのである。

 この時代も、官僚が国の政策を誤らせた。米国に追従し、中国に媚を売るのが得という人間ばかりの現代と、そっくりではないだろうか。いつの世にも、深く物事を考えない外国崇拝者(かぶれ)の軽薄な人間がいるものだ。

 そういう精神的な危機は、古事記の編纂時のように、日本を何度も襲っている。そのたびに、時の天皇が祭祀の必要性を説かれている。

 

 わが国は 神のすゑなり 神まつる

 昔のてぶり 忘るなよゆめ

 

 とこしえに 国まもります 天(あめ)地(つち)の

 神のまつりを おろそかにすな

 

 明治天皇御製である。明治天皇伯家神道の行に熱心だったといわれ、神道関係の資料が残されていないか、襖の下張りまで探されたというほど敬神の念が強かった。御製から、政府によって神祭りがおろそかにされていくことへの、強い懸念が読み取れる。

 神祇伯の廃止で、政府は白川伯王家に代々伝わった、皇室のさまざまな作法などを記した有職故実(ゆうそくこじつ)の返却を求め、伯家神道の存在価値を失わせた。神祇伯が廃止された後も、しばらく白川伯王家は子爵として続くが、貴族の例外に漏れず没落、さらに跡継ぎに恵まれず、ついに断絶した。その結果、伯家神道は民間に埋もれることを余儀なくされた。

 それでも伯家神道は、断片が教派神道や民間修行者に細々と伝わっていった。伯家神道最後の学頭だった高濱清七郎(たかはま・せいしちろう)が宣教師となり、全国布教に携わったから、行を継承した有志がいたに違いない。

 民間に埋没した伯家神道は、後に「霊学中興の祖」といわれている本田親徳(ちかあつ)(一八二二~八九)らに一部が伝えられ、本田の鎮魂法が大正、昭和と大弾圧された大本教に受け継がれ、さらには大本教から派生した多くの新興宗教へと流れていった。

 

ム 神道十三派

 

 明治十五年の神官と教導職の分離で、宗教性=神秘性が認められない神社神道を嫌った多くの神官は、辞任して教導職になっていった。そうした動きが、教派神道という新宗教の設立につながっていく。

 教派神道が成立する土台はすでに徳川時代からあった。幕末期は長い徳川家支配で制度疲労を起こし、武家社会は豪商から借金をしなければなり行かず、農民や大衆は貧困に喘いでいた。貧富の差が著しく拡大したのである。さらには黒船の来航は幕府だけでなく、国民に恐怖と混乱を招いた。

 社会不安が強まると、いつの時代でも大衆はすがるものを求める。そして、大衆の求めに呼応するように、新しい宗教が産声をあげ、虐げられた大衆に浸透していく。徳川時代の末期は新宗教が次々と産声を上げた黎明期であった。

 さらに尊王攘夷意識の高まりは新宗教にも影響を与え、眠っていた日本古来の神々を目覚めさせたとでもいうように、神道系の教団が相次いで誕生した。それに拍車を掛けたのが神職と教導職の兼務禁止で、教導職が新宗教に流れ込み、教派神道が独立し、神道十三派が明治政府から順次公認された。

 黒住教(明治九年)

 神道修成派(同)

 出雲大社教(十五年)

 扶桑教(同)

 実行教(同)

 神道大成教(同)

 神習教(同)

 御嶽教(同)

 神道大教(十九年)

 神理教(二十八年)

 禊教(同)

 金光教(三十三年) 

 天理教(四十年)

これら以外に神宮を中心にした神宮教(初代管長は時の神宮大宮司田中頼(より)庸(つね))が認められていたが、神宮は宗派を超えた存在だとして宗教団体の性格を改め、明治三十二年に財団法人神宮奉斎会へと改組した。

 教派神道黒住教金光教天理教のように教祖の神憑り体験を基に作られた教団や、修験道のような山岳宗教、さらには尊王運動の中から生まれてきた教団などさまざまだった。金光教天理教は幕末から活動していたにもかかわらず認可が遅れたのは、教義が国家の宗祀に合わなかったためで、教義を作り変えてやっと認可された。

 

ナ 帰神法

 

 この時代、宣長や篤胤の感化をうけて国学復古神道に人材が湧出し、新宗教も活発になったが、後世に大きな影響を残す鎮魂帰神法を復活させたのが、明治維新前後に活動した「霊学中興の祖」といわれる本田親徳である。本田親徳は薩摩出身の神道家で、水戸学の会沢正子斎に師事、白川神祇伯の最後の学頭だった高濱清七郎から教えを受けたといわれている。

 本田親徳が霊学研究を始めたきっかけは、京都の藩邸で狐憑(つ)きの少女の憑依(ひょうい)を見てからだった。今では狐憑きなどというと首を捻る向きが大半だろうが、物質文明が発達する以前の素朴な生活環境にあっては、憑依現象は稀なものではなかった。

 本田親徳が再興した霊学は神主に神霊を懸(か)からせるいわゆる神懸(かみがか)り行で、さらに審神者(さには)が神霊の善悪や区分などを判定する審神法、懸かった神霊を鎮める鎮魂法などからなっている。

 本田が平田篤胤を厳しく批判したことから、外務卿などを務めた明治の元勲の一人、副島種臣(一八二六~一九〇五)らの弟子たちが平田門下生の報復を恐れ、著作を世間に発表させなかったという。さらに代表的な著作の「難古事記」が完成した明治十六年は、自由民権運動などの弾圧が起こり、副島らは本田霊学が政府から危険思想とみなされることを恐れて発表を見合わせさせた。

 本田親徳の数百人の弟子の中で、正統な後継者とみなされているのが門下生一千人を超えた長沢雄楯(かつたて)(一八五七~一九四〇)である。長沢雄楯は静岡県の御(み)穂(ほ)神社社司で、月見里(やまなし)神社の神主でもあった。月見里神社は御笠稲荷神社とも呼ばれ、御笠稲荷講社として県の認可を得て、本田霊学の神懸り行を布教した。

 この稲荷講社を訪ねたのが上田喜三郎、後の大本教の聖師となる出口王仁三郎(おにさぶろう)(一八七一~一九四八)である。

 大本教は大正十年と昭和十年の二度にわたって官憲の弾圧を受け、大東亜戦争の敗戦で自由の身となったが、弾圧される過程で分かれていった幹部たちが、世界救世教生長の家など、現在でも活発に活動している多くの新宗教を設立した。大本教は今なお宗教界に大きな足跡を残している。

 

ヤ 近世の言霊学

 

 鎮魂帰神法の本田親徳に先立ち、平田篤胤と同世代の神道家で、近世言霊学再興の祖といわれるのが、山口志(し)道(どう)(一七六五~一八四二)と中村孝(たか)道(みち)(不明~一八三七)の二人である。

 二人の活動は、本居宣長平田篤胤国学復古神道を提唱した時代と重なっており、この時期は長い間埋もれてきた神道や言霊学が、一斉に甦りを果たした復活のときだったと言えよう。

 山口志道は現在の千葉県鴨川市豪農出身で、代々伝えられた古文書「布斗麻邇御霊(ふとまにみたま)」の解明を進めているうち、荷田春満の後裔から伏見稲荷神社に伝わっていたとされる「稲荷古伝」を伝授され、著書「水穂伝」を完成した。志道の言霊学は、すべてのものは「火」と「水」で成り立っており、「火(い)水(き)の発現である言霊によって天地が動く」とし、独特の五十音図を作り上げた。

 中村孝道の言霊学は「ますみの鏡」という七十五音図(濁音を含めた音図)の中心に「す」音を配し、七十五音すべてに解説をつけた。特に「す」音は「天(すめら)皇(みこと)」や「統(す)べる」の「す」であり、すべてを統一する働きがある中心音としている。

 中村孝道の言霊学は高弟の望月幸知から孫の望月大輔に引き継がれ大成した。望月家は滋賀県甲賀の在で、祖は大伴氏にさかのぼる名家とされている。望月大輔は後に近代言霊学中興の祖といわれる大石凝真素美(おおいしごり・ますみ)(一八三二~一九一九)である。

 古代から伝わってきた鎮魂帰神法や言霊学、禊行は、行基以来の神仏混淆により、いずれも歴史の闇に埋没したが、国が危機に陥るたびに甦り、幕末から明治維新の激動の中でも復活した。あたかも時代に意志というものがあるかのようである。

 それら神々の業(わざ)は、神道に対する明治政府の失政や西洋化の推進、昭和の軍部主導の誤った思想弾圧で再び地下に埋没し、さらにGHQが神道軍国主義の基となった国家神道だと誤認、抹殺しようとしたところから、国民が精神的支柱を失った現在の悲劇がある。

 そして、神道が埋没した間隙を縫って、宗教とも言えない代物が、人々の不安を煽って謳歌している。あるいは、物質至上主義の刹那的唯物論が大手を振っている。

 だが、我が国が存亡の危機に直面すると、埋没し伏流水となっていた神道は必ず甦り、国を正しい道へと導く。平成二十五年の神宮ご遷宮は、国民の心を洗い、神々の世界へと意識を向けさせた。人々の意識が思考停止から甦る秋(とき)は近い。

巻の五前編 国の危機に甦る地下清流「本つ教」

 

 私たちの住む町や村には、少し目を周りに向けるとさまざまな神社があり、祭りが行われている。春は豊作を祈って田植えをし、秋には収穫を感謝し、国や地域の安全を祈り、子供が生まれればお宮参りで健康に育つよう祈り、初詣でや受験の合格祈願、交通安全や家内安全などなど、日本は神々とともに人々が暮らす国である。

 そして神祭りは、個人の願いより全体の平安を祈る心を優先している。

だが、神々の存在は長い歴史の中で、国民精神の荒廃や物質至上主義の蔓延で希薄になり、戦前の軍部独裁で歪められ、さらにGHQの神道指令で大きく捻じ曲げられた。特にGHQは日本人の精神的支柱を破壊するため、いわゆる国家神道なるものを禁じ、我が国の弱体化を推し進めた。今や神々の本来の姿が失われようとしている。

   その結果、自己を優先させて他人を思いやらず、国家の安泰などどこ吹く風という利己主義が蔓延し、国中にはびこった。国民が義務を忘れて権利を主張するだけでは、国は成り立っていかない。

   だが、我が国の根底には神ながらの清流が流れ続け、国の精神的危機が訪れるたびに奔流となって甦り、神々が復活する。平成二十五年の伊勢神宮遷宮は、日本人に神々の存在を思い出させる最高の機会だった。そっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

   そっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

 しかし、黙って傍観していたのでは、神々は甦るどころかそっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

 

ヒ 神祭り

 

 神道というと、GHQの占領政策で悪いイメージが植えつけられ、拒否反応を示す人もいるだろう。そこでまず、我が国の根底に流れる清流、神道の歴史を概観しよう。

 天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭るのが神道だが、神代から神道という言葉があったわけではない。仏教が入ってきて、それと区別するために「神の道」という言葉が使われるようになった。つまり、仏教が入ってくるまでは、神祭りの理屈をこねることなく、豊作を祈り収穫を感謝する、自然の姿勢で神々に奉仕していたのである。神々の御心のままに祭りに奉仕することを神ながらという。

 神道という言葉が最初に表れるのは、日本書紀の第三十一代用明天皇の項で、「天皇仏法を信(うけ)けたまひ、神道を尊びたまふ」と、仏法と対応させている。

 次が第三十六代孝徳天皇のくだりで、「仏法を尊び、神道を軽(あな)どりたまふ」とある。

 用明天皇神道を尊び、孝徳天皇は軽んじたというのである。日本書紀のすばらしさは、朝廷にとって益にならない出来事でも、平然と記録に残していることである。

 実は、神道という言葉は他には使われておらず、古事記では「本(もとつ)教(おしへ)」や「神(かむ)習(ならい)」、書紀では「神教」「徳教」「大道」などと表現されている。古代、神祭りはわが国の日常の中にあり、ことさらに神道という言葉を使うことはなかった。

   そもそも「しんとう」という読み方自体が中国語読みで、鎌倉期以降に使われるようになった。本来は「もとつおしへ」や「かみのみち」と言い表すべきだろう。

   本教は神代からの神祭りで、現在まで綿々と伝わっているが、長い歴史の中で、さまざまな外(とつ)国(くに)の宗教とかかわりを持ってきた。最初の外来宗教は道教で、次いで入ってきた仏教が、物部氏蘇我氏の争いを招き、世に騒乱を起こした。

   仏教が広く普及したのは、大僧正の称号を朝廷から初めて与えられた行基(ぎょうき)(六六八~七四九年)が、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説を唱えてからだった。インドが本地で、インドの仏が日本では神となって現れたと説いた。

   仏を敬ったら神の怒りに触れるのではないかと恐れていた大衆は、インドでは仏と言い大和では神と言う説に安心し、仏教を信じるようになった。

   これなど三百代言、デマゴーグの典型だが、そういう意味で行基は天才だった。宣伝工作とは恐ろしい力を持っている。

   神祭りは本来、春に豊作を祈り秋に収穫を感謝し、国家や民の繁栄を祈るもので、個人の利益を願うものではない。無私の心で国家安泰と国民の平和を祈る格調高いものである。そこが、個人の救済を目的とする宗教と、神道が根本的に異なるところである。

   仏教はまさしく個人の救済を求める宗教だから、当時の苦悩を持った大衆に急激に広まっていった。大衆が仏教に現世利益を求めたのである。

   こうして奈良時代末に神仏混淆が始まり、明治初めの神仏分離まで長く続いた。そして仏教は、わが国の先祖祭りと融合し、日本で独自の発展をなした。

   しかし、どんなに仏教が普及しても、本教を凌駕することはできず、神の道を己の教義に組み込んでいかざるを得なかった。それが、最澄(七六七~八二二)と空海(七七四~八三五)が唱えた山王(さんのう)一実(いちじつ)神道と両部(りょうぶ)神道である。

   山王は中国では天台山、インドでは霊鷲山(れいしゅうさん)に祭られており、法華経の守り神とされる。これに倣って、最澄比叡山に山王を祭った。

   山王の由来は、最澄比叡山の山に三つの月光を見て不思議に思ったところ、一人の童子が現れ、三つの光は釈迦と薬師と弥陀で、自分の名前であると言って、縦三本に横一本、横三本に縦一本の線を書いて消え去ったところから、山王と名付けたとされている。

   また、空海が唱えた両部神道は、伊勢神宮の内宮と外宮を真言宗金剛界胎蔵界に重ねた神仏習合説の典型で、天照大御神大日如来とすらした。

    山王一実神道両部神道も、我田引水、牽強付会の論としか言いようがないが、日本で仏教を布教するには、本教を取り入れ、融合しなければならなかった。

逆説的にいえば、仏教が本教に呑み込まれていったのである。

 

フ 社家神道の勃興

 

   仏が元で、姿を変えたのが神という、神仏混淆本地垂迹説の仏教中心の考え方に対し、異を唱えたのが一つの神社に代々仕える家柄の社家だった。社家が唱えた神道を社家神道というが、その代表的なものが、伊勢神宮外宮の神官だった渡会(わたらい)氏が唱えた神道論で、伊勢神道とか、度会神道と呼ばれている。

   神宮の祭神は内宮が天照皇大御神、外宮が大御神の食事のお世話をする神饌都(みけつつ)神の豊受(とようけ)大神である。だが外宮神の豊受大神記紀にわずかな伝承しかなく、由緒が明らかでない謎の大神である。そこで、祭神についてさまざまな主張がなされるようになる。

   神宮の神官は、内宮を荒木田氏、外宮を渡会氏が代々継いできた。そして渡会氏は、常に外宮が内宮の風下に立たされるのを厭(いと)い、独自の神道説を唱えた。

 その典型が、外宮の祭神の豊受大神は、日本書紀に最初に現れる国常立(くにとこたち)神だとし、さらには古事記の最初の神、天之御中主あめのみなか(ぬし)神が姿を変えたのだとか、月神であると主張した。日本の神は一柱でいくつもの名前を持っており、外宮の祭神も同体異名で複数の名前があるというのである。

 実は、内宮と外宮には、天照大御神豊受大神だけでなく、相殿(あいどの)神が祭られている。内宮には岩屋戸に隠れた天照大御神を招き出した天之手力男(あめのたぢからを)神と、邇邇藝(ににぎの)尊の母である栲幡千千姫(よろづはたちぢひめ)命が祭られている。

 一方、外宮には「相殿に坐す神三坐」とあるだけで、神名が不明である。この相殿神が神官にさまざまな憶測を呼び、国常立神であるとか、天之御中主神であると主張する原因ともなっている。

 さて、外宮神を月神とする思想は、両部神道書の「中臣祓訓解」に記されている「実相真如の日輪は、生死長夜の闇を明らかにし、本有常住の月輪は、無明煩悩の雲を掃ふ〈日輪は則ち天照皇大神、月輪は則ち豊受皇大神〉。両部不二なり」という記述に影響されている。

 この言葉は、聖武天皇の勅命で、行基が神宮に仏舎利を献じたとき、神殿の中から大声で響いた大神宮の「御託宣」といわれるものである。だが、あまりにも都合のいい神託といわざるを得ず、権威付けるために勝手に作り上げた類だろう。

 さて、伊勢神道の思想の本となったのが、古代から外宮に代々伝えられたという、伊勢両宮の由緒を記した神道五部書で、門外不出とされた。

 

天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第

伊勢二所皇太神宮御鎮座傳記

豊受皇太神御鎮座本紀

造伊勢二所太神宮寶基本紀倭姫命世記

 

 この五部書の奥書には、撰述が奈良朝以前だとか、雄略天皇の勅令によるとか、天孫降臨で道案内をした猿田彦命の子孫の大田命が、五十鈴川皇大神を迎えたなどと記されている。いずれも古代に作られたとするもので、六十歳以上の長老でなければ読んではならない秘伝の書とされた。

 だが、江戸時代の神道学者で熱田神宮の神官だった吉見幸和(よしみゆきかず)(一六七三~一七六一)によって偽書と指弾された。

 これら五部書の成立は古代ではなく、「鎌倉中期、文永・弘安頃であろうということで大方の意見の一致をみている」(伊勢神道の成立と展開 高橋美由紀 ぺりかん社)が、実際には定まった学説はない。しかし、外宮の神官だった度会行忠(ゆきただ)(一二三六~一三〇五)が多くかかわったのではないかという点ではほぼ一致している。

 五部書は吉見幸和らによって偽書とされたが、まったくの捏造ではなく、「散逸してしまった伊勢神宮内部の古伝承を断片的に伝えるものだともいわれている」(神道の逆襲 菅野覚明 講談社現代新書)のが最近の研究である。

 五部書はいずれも神宮の縁起書で、正史にはない外宮神豊受大神の独自の伝承を少なからず伝えていると考えられる。しかし、権威付けるために、古代の撰述としたところに、勇み足があったといえよう。

 伊勢神道神道を本として仏教に対抗してはいるが、逆に大きな影響をも受けてもおり、道教儒教の説も取り入れている。純粋な神道と言うには、外来思想に影響され過ぎているが、仏教全盛期に日本の神々を本とした神道思想を甦らせた功績は大きい。

 伏流水となっていた清流が、国を誤った方向へ導きかねない仏教全盛期に、顕在化したのである。

 伊勢神道が確立できたのは、神宮が古代からの祭祀を純粋に守り、仏教の影響を受けなかったためである。

 神宮は天照大御神を祭る神域であるが故に、厳しく不浄を忌み、仏教に関するものを一切受け付けなかった。仏教にかかわる言葉を口にすることすら嫌い、寺を瓦葺、僧侶を髪長などと呼び習わすほどで、神宮は古来からの伝統を純粋に受け継いでいた。

 天照大御神豊受大神に奉仕するために、古代から祭りを続けてきたからこそ、仏教の攻勢にも惑わされなかったのである。

 世界の歴史をみると、世界宗教の進出によって、地域宗教は淘汰される運命にある。キリスト教イスラム教はもちろんだし、仏教も多くの地域宗教を席巻した。それが世界宗教の影響力である。小さな宗教など、貪欲に呑み込んでしまう。

 にもかかわらず、日本が仏教に蹂躙されることなく、伊勢神道が勃興したのは、世界の宗教史でも珍しい現象である。伝統を守り続けることが、いかに大切かを如実に物語っている。

 神宮が二十年に一度の遷宮を行うのは、建物の改築や装束の新調で昔からの伝統を守るだけでなく、付随するさまざまな儀式をも伝えていく智恵である。

 内宮の少宮司を務めた幡掛正浩(はたかけまさひろ)氏は「私本 式年遷宮の思想」(神社新報社)で、遷宮は「この制度が定められた上世の当時において広く行はれてゐた権威ある知識に根拠があったものと考えられる」と指摘、「元旦と立春が二十年に一度重なる(正確には十九年七ヶ月)という説」を推している。

 つまり、元旦と立春が重なることで、新たな十九年七ヶ月が始まると上代の人々は考えたというのである。約二十年ごとに世の中の「気」が変わり、新しい時代が始まるという再生の思想が、遷宮に伏在していると考えられる。

 さて、伊勢神道神道中心の思想は、南北朝時代吉野朝廷に仕えた北畠親房に大きな影響を与え、「神皇正統記」を生み出した。さらに神皇正統記は、水戸光圀が編纂させた「大日本史」へとつながり、幕末の尊王攘夷運動の思想的背景となった。

 国家動乱時には、このように本つ教=神道がかならず甦る。

 伊勢神道の影響を受け、京都の吉田神社の神官・吉田家によって説かれたのが吉田神道で、卜部神道とか、元本宗源神道唯一神道などとも呼ばれている。

 朝廷の神祇に携わるのは、神祇伯の白川家、次に中臣家、斎部家、卜部家で、神祇の四姓と呼んだ。

 白川家は第六十五代花山天皇の皇子清仁(すみひと)親王から始まった家柄で、第七十代後冷泉天皇の寛徳三年(永承元年=一〇四六年)に親王の王子延信(のぶざね)王が神祇伯に任じられ、世襲神祇伯として皇室に仕えた。神祇伯は中臣、忌部、橘などの氏族が任じられていたが、この時から白川伯王家世襲となった。

 卜部家は占いである亀卜を司り、神祇四姓の中で最も低い家柄だったが、後に京都の吉田神社の神官になって吉田神道を唱えてからは、神祇伯の白川家をも凌駕する勢力を持つようになった。

 吉田神道が勢力を得たのは、吉田兼倶(かねとも)(一四三五~一五一一)が応仁の乱(一四六七~七七)後の世の乱れに乗じて、公卿や幕府に取り入り、自ら神祇管領長上と名乗って、政治的に自説を広めたからだった。

 吉田神社はそもそも藤原氏氏神である春日大社の分霊を祭っていた。吉田兼倶はある夜、「伊勢神宮の神霊が吉田山に飛び移った」と宣言し、境内に日本最上神祇斎場を創設し、内宮、外宮だけでなく、延喜式内社の三千百三十二座の神々をすべて祭った。

 この当時、飛び神明といって、全国で光る神が飛んだと盛んにうわさされていたから、それに便乗したのにほかならない。

 吉田兼倶は延徳元年(一四八九)、光る霊物=神器が吉田山に降臨したと天皇に密奏した。「神器が伊勢神宮の神体との触れこみで叡覧に供されたことを窺わせる」(神道思想史研究 高橋美由紀 ぺりかん社)もので、天皇が「この神器なるものが伊勢神宮の神体に相違なしと認める」(同)宣旨を下し、延徳密奏事件といわれた。

 もちろん邪説、妄説だと非難されたが、兼倶は政治力で押し切り、神道の総本山だと主張した。

 自分が創設した宗教が最高だと他を非難し、勢力を拡大する新興宗教と、どこやら似ているのではないだろうか。ひいき目にみても兼倶の主張は強引過ぎるが、それでも儒教や仏教が全盛時代に、神道をすべての根本とする神道説を確立した功績は大きい。

 吉田兼倶が朝廷に大きな影響力を行使できたのは、一族の出身者が円融天皇の女御となって皇子を生み、一条天皇となったからだった。「一条天皇が即位した寛和二(九八六)年には、国家が祭る神社に位置づけられ、翌年からは国費での祭礼が行われるようになった」(吉田神道の四百年 井上智勝 講談社選書メチエ)ほどである。

 江戸時代になると幕府の神社政策もあって、吉田家は神職免許を授与するようになり、明治まで続いた。

 吉田神道の流れを受け、将軍綱吉の時代に公儀神道方に任じられた吉川惟足(これたり)(一六一六~九五)は、朱子学や武士道精神を加えた神道説を提唱し、幕府や諸大名に普及した。吉川神道とか理学神道と呼ばれている。

 他にも赤穂浪士の吉良邸討ち入りで打ち鳴らされた、山鹿流陣太鼓で有名な兵学者で儒者山鹿素行は、天皇を仰ぎ、君臣の別を明らかにするところに神道の根本があると、独自の神道説を唱えた。

 吉川神道吉田神道を学んで垂加(すいか)神道を確立したのが、門弟六千人を誇ったという儒学者山崎闇斎(あんさい)(一六一八~八二)だった。垂加という名前は、吉川惟足神道五部書倭姫命世記」の「神垂(しんすい)は祈祷を以て先とし、冥加(みょうが)は正直を以て本とす」の「垂」と「加」から取って、山崎闇斎垂加儒者という号を授けたことに由来する。

山崎闇斎」(澤井啓一 ミネルヴァ書房)や「今泉定助(いまいずみさだすけ)先生研究全集」(日本大学今泉研究所刊)によれば、闇斎はある時、大勢の弟子を前に「今若(も)し支那の国が孔子を大将とし、孟子を副将として、数万の兵を率ゐて、我が国を攻めて来たならば、孔孟の道を学んでゐる者として如何に処すべきか」と問うたところ、誰一人として答えるものがなかった。そこで闇斎は「若しそのやうなことがあったならば、身に甲冑を帯び武器を手にとってこれと一戦し、孔孟を生捕にして、国難に報ずべきである。これが真の孔孟の道である」と教えたという。

気迫の大切さは昔も今も変わらないと、現代の為政者は肝に銘じるべきである。

巻の四 後編 記紀以前の書はあったか?

 イ 古語拾遺が古代文字を否定?

 

 歴史の教科書には、古事記は「語り部の阿礼が誦んだものを、安萬侶が書き記した」と一般に書かれている。古事記を解説した諸々の書物も、ほとんど同じ意味合いで序文を解説しているが、ここで疑問に感じることはないだろうか。

 稗田阿礼古事記序文に「目に渡れば口に誦み、耳に拂(ふ)るれば心に勒(しる)しき」とある。「誦む」とは、声を出し節をつけて詠(うた)うことである。阿礼は目にすれば詠うことができ、聞けば記憶に残せたというのだ。

 この部分は、阿礼の読解力と記憶力の確かさについて述べている。それなのに、稗田阿礼が「目に渡れば口に誦」んだとわざわざ記しているのは、節をつけて詠う口誦(こうしょう)をしたということを強調したかったのだろうか。それとも、阿礼が読める文章を、大学者の太朝臣安萬侶が読めなかったから注記したのだろうか。

 普通に考えれば、当時の最高の知識人である安萬侶が、読めないわけがない。

安萬侶が読め、阿礼も読めるのに、「目に渡れば口に誦み」と特記したのは、何らかの理由があったからに違いない。

 聞いたことを記憶するのは、猿媛(さるめ)君氏出身で神懸かり能力を持った語り部・阿礼の特殊能力である。そして記憶した文章を阿礼が文字にすれば、安萬侶を頼らずに一人でまとめることもできた。稗田阿礼一人でも、古事記を編纂する能力があったはずなのに、二人が必要だったのはなぜなのかという疑問が生じる。

 大胆に推理すれば、安萬侶は阿礼が誦む文字を読むことができず、逆に阿礼は中国伝来の漢字に精通していなかったと考えれば、漢文に精通した大学者と、神懸かりの語り部の二人でなければ,古事記を編纂できなかった理由がわかる。

 では、阿礼が誦んだ文字とは何か。それは、神代文字とか古代文字といわれる日本固有の文字、古代和字だと思われる。

 多くの言語学者は日本固有文字の存在を否定している。そして、その論拠の一つが、斎部広成が自家に伝わる伝承に基づいて書いた古語拾遺に「蓋(けだ)し聞く。上古の世、文字あらざるなり」という記述である。

 古語拾遺は西暦八〇七年に成立したもので、古事記日本書紀など、国の公式書物から漏れた重大な事柄を、拾い集めたとされている。

 筆者の斎部広成は、邇邇藝(ににぎ)命の天孫降臨に従った五伴緒(とものお)の一柱である布刀玉(ふとだま)命の子孫で、天照大御神が岩屋戸に閉じ込もった際、「種種(くさぐさ)の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて、天兒屋命、布刀詔戸言(ふとのりとごと)祷き白(ほぎまほ)して」と、岩屋戸開けで重要な役割を果たしている。

 簡単に言えば、布刀玉命が根こそぎに抜いた榊に勾玉と鏡を付けた神籬(ひもろぎ)を捧持し、天兒屋命が祝詞を奉上し、ほかの神々の働きもあって、岩屋戸が開かれたのである。

 そして天兒屋命の子孫は中臣(なかとみ)氏で、朝廷の祭祀では中臣氏が祝詞を奏上、忌部氏=斎部氏が神籬を捧持した。

 時代が下がって大化改新中臣鎌足が権力を握り、その後、中臣氏は最有力の祭祀氏族になった。相対的に斎部氏の地位が下がり、祭祀の中心から外されるようになる。

 中臣氏と斎部氏は、伊勢神宮の奉幣使の役職について、長年にわたって裁判で争うなど、祭祀をめぐってさまざまな揉め事があった。神事に携わる名門同士の壮絶な争いがあったのだろう。

 そして、祝詞奏上は主に中臣氏の役割とはいえ、一部を斎部氏が担っていたが、それすら除外された不満が斎部氏に渦巻き、古語拾遺という形で持論を発表したといわれている。 

 こうした背景で書かれたのが古語拾遺で、問題になるのが「上古之世、未有文字、貴賤老少、口口相傳」という一文。上古の世は文字がなく、尊い人も卑しい人も、老いも若きも語り伝えたという意味である。この記述が、後の世に大きな影響を与える事になった。

 文字通りに受け止めれば、上古は文字がなかったことになる。これが、古代和字の存在を否定する一つの根拠になっている。

 

 ム 上代特殊仮名遣が神代文字を否定

 

 古代和字の存在を否定する大きな根拠は、奈良時代以前の上代は八母音で八十七音節(八十八音節説もある)あったという上代特殊仮名遣である。

 上代が八母音八十七(八十八)音節だったとしたら、古代和字は五十音ないしはいろは四十七文字で表されるから、明らかに矛盾する。したがって、古代和字は五十音図やいろは四十七文字が作られた平安時代以降に創作された文字で、上代の文字ではないというのである。

 しかし、言語学の素人の私でも、八母音説に大きな疑問を覚えるところがある。

キ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの十三音節は確かに書き分けられ、母音が二種類あったように感じられる。しかし、肝心の母音イエオは、なぜ甲イエオと乙イエオとに書き分けられなかったのか。

 音節は、例えば子音kと母音iの結合でki=キと発音される。キに甲乙の違いがあるなら、そもそもの母音にも甲乙の違いがなければならない。にもかかわらず、母音イには甲乙の別が存在していないのである。

 さらに、平安時代になって、上代特殊仮名遣が廃れたのは、ひらがなが急速に普及したからだというが、甲音乙音があったのなら、ひらがな自体に「き甲」「き乙」のように書き分けがなされてしかるべきである。にもかかわらず、k・i のひらがなは「き」一つしかないのはなぜなのかという疑問が生じる。

 そうした疑問に真正面から挑んだのが、金沢大学の松本克己教授(当時)と、奈良女子大学の森重(もりしげ)敏(さとし)教授(同)だった。

 上代日本語の語彙すべてを調べ上げた松本氏は、「古代日本語母音論」(ひつじ書房)の中で、「母音の相違というよりも、むしろ先行する子音に付随する音声的特徴に基づくと見る方が自然な解釈といえよう」とし、音韻的には同じ音だが、環境によって違った発音になるにすぎないと結論づけた。

 奈良時代以前の漢字の執筆者は、多くが帰化した中国人だった。中国語はわずかな音の違いで意味が異なる。音に敏感な中国人が、日本人の発音を聞いて文字にしたのが万葉仮名で、必要以上に発音の差を聞き分け、万葉仮名を書き分けたというのが本当のところだろう。

 松本氏は「日本語固有の文字体系からも、また諸方言の比較研究によっても、古い時期の日本語に5母音とは違った母音体系の存在を推定することは困難である」(古代日本語母音論)と指摘し、「奈良時代のいわゆる『8母音』なるものは、書記法の作り出した「虚像」にすぎない」(同)とまで断定している。

 松本氏が論文を発表したのと時を同じくするように、森重氏は文法論と語構成の観点から上代特殊仮名遣を調べ、八母音八十七(八十八)音節を否定した。森重氏の著書「上代特殊仮名音義」(和泉書院)などによると、「イ列、エ列、オ列の乙類音はすべて、母音ウ・ア・オのそれぞれに、語をひきしめる接辞イ(「イ行く」「或イは」などのイ)が連接して生まれたもので、独立の母音ではなく、臨時の合成音とみるべきだ」と、乙類母音の存在を否定した。そして、「平安時代に入ると、接頭語イが蔭を消し、文字も渡来人の手による録音的な万葉仮名から、日本人の手による音韻的な仮名文字に移る。これらと同時に、上代特殊仮名遣が消滅するのは、偶然の暗号ではない」と指摘した。

 松本、森重両氏とも、日本人の発音を聞いた帰化人が、そのまま万葉仮名を遣って筆記したために、あたかも八母音あるように記録されたという点で一致、万葉時代の母音の数は、現代と同じ五つだ」(古代日本語母音論)と結論づけている。

 松本氏の論文は昭和五十年十二月一日付の毎日新聞学芸欄で紹介され、言語学会に大きな衝撃を与えた。それはそうだろう。橋本進吉以来、上代の日本語は八母音あったということが定説となり、どこからも異論はでてこなかったのだから、松本論文と森重論文は日本語学会に破壊的な爆弾を投げ込んだのと同じだった。

 毎日新聞の報道をきっかけに、八母音説の推進者である大野晋氏や、言語学の第一人者 の服部四郎東大名誉教授などを巻き込んで、「母音論争」が巻き起こった。いまだ議論の過程だから、どちらが勝ちという決着がついたわけではないが、八母音説を教条的に支持すべきでないことだけは明らかになった。

 松本、森重両氏の後も、何人もの言語学者が八母音説に疑問を投げ掛け、母音論争は百家争鳴の状態が続いている。しかし、母音イエオの乙音が万葉仮名で書き分けられていないことを説明できないのは、八母音説の致命傷といえよう。

 万葉仮名に書き分けがあることを最初に発見した本居宣長は、「皇国ノ古言ハ五十ノ正音ヲ出ズ」と明言していることを忘れてはならない。

 上代特殊仮名の八母音説が揺らいだ以上、古代和字を否定する言語学的根拠が失われたと言っていい。

 日本は縄文時代から弥生時代に、土器から推察できるように、高い文化を誇ってきた。高文化の国では、文字が発生するのが常識である。

にもかかわらず、古代和字の存在を比定するのは、日本が古代から高い文化を維持してきたことを否定したいためではないか。

 

ナ 古代文字考

 

 古代和字を肯定する人々は、古語拾遺のいう「文字」を漢字のことだとし、漢字が伝わらなかった時代のことを指していると主張する。しかし、そう解釈すると、漢字が伝わるまで「貴賎老少 口口相傳」していたということになる。古代和字が存在すれば、口伝えする必要はないから、肯定論者が存在を否定する論理矛盾に陥る。

 古語拾遺の作者である斎部広成は、稗田阿礼が語った歴史や物語を、太朝臣安萬侶が初めて漢字で記した古事記の序文を、当然のことながら読んでいたはずだ。神事に携わる氏族として、古事記日本書紀の成立の事情に精通していたのは確実である。そして、もし「文字」が「漢字」を意味するのなら、斎部広成は「未有漢字」(いまだ漢字あらざるなり)と記したに違いない。

 したがって、上古は文字がなかったという意味は、漢字はもちろん、何らかの文字もなかった時代、非常な太古を指していると解釈するのが普通だろう。文章通りに解釈すればいいのである。

 時代が下るにつれ古代和字が発生し、そして後に漢字が入ってきた。そう考えると、古語拾遺の一文をもって、漢字以前の文字はなかったと断定することには躊躇せざるを得ない。古語拾遺は日本固有文字の存在を、否定してはいないのである。

 さらに、さまざまな遺物から複数の古代和字が発見されたとする学説もあり、存在を肯定する地道な研究が進められている。

 古代和字といわれるものには、阿比留(あびる)文字、阿比留草文字、出雲文字、物部文字、カタカムナ文字、ヲシテなど、多くの種類があるとされる。

 もっとも、いつの時代でも物事を捏造する人間がいることを考えれば、これまでに発見されたすべての古代和字が本物であるとは言い切れない。

 古代和字で書かれたとされる文書も上記(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)、竹内文書富士古文書など、さまざまなものがあるが、これらのすべてが実在したかといえば、首を捻らざるを得ない。明らかに偽書と思われるものもある。

 こうした古史古伝の特徴は、日本に超古代文明があったと記されていることだ。例えば、天孫降臨した邇邇藝(ににぎ)命の孫で神武天皇の父にあたる日子波限)建(なぎさたけ)鵜草葺不合(うかやふきあえず)命は一人のことではなく、何人もが同じ名前を名乗った鵜草葺不合朝のことだとしている。従って、神武天皇以前に、鵜草葺不合朝が何代も続き、何万年もの歴史を持っているというのである。

 神武以前の歴史がないはずはないが、見てきたような歴史として物語を整然と記載してしまったところに、古史古伝の勇み足がみられる。偽書とされる所以だ。

 だが、すべてを否定するのはどうだろうか。たとえ後世に作られたものだとしても、何らかの真実は含まれているものだ。偽書といわれる書物でも、伝承を土台にして書かれていることが往々にしてある。

 古代和字の研究は、平田篤胤の「神字(かむな)日文傳(ひふみでん)」や、伊勢神宮禰宜(ねぎ)だった落合直澄の「日本古代文字考」(一八八八)が有名である。最近、といってもすでに故人だが、宮崎小八郎の「神代の文字」(霞ヶ関書房)は一読に値する。

 漢字以前の文字があったことを裏付けるように、日本書紀欽明天皇二年に一書(あるふみ)云わくとして「帝王本紀に、多(さわ)に古き字(みな)ども有りて、撰(えらび)集むる人……」とある。帝王本紀は古事記序文にいう帝王日継のことで、天皇家の系譜を記したものである。そういう権威ある記録に「古き字」があったというのだが、それが何を指しているのか、古代和字の否定論者は明確な答えを示してくれない。

 古代和字が存在したことは、記紀に示唆されている。古事記上巻の国生み神話では、水蛭子(ひるこ)や淡島が生まれたことで、伊邪那岐命伊邪那美命は「今吾が生める子良からず」と、高天原に上り、天つ神に相談する。そして「天つ神の命以ちて、布斗麻邇爾(ふとまに)に卜相(うらな)」ったとある。

 天照大御神が天の岩窟に籠もられたときには、天の香山の真男鹿(まおしか)の肩を内抜きに抜きて、「占合(うらな)ひ麻迦那波(まかなは)しめて」とある。

 布斗麻邇は鹿の肩甲骨を焼き、表れたひびで神意を判断する占いで、割れたひびから審神者が神意を読み取るのだが、勝手に判断するわけではない。ひびの読み方に一定の法則がなければ、審神者によってまちまちの判断になってしまう。

 中国では亀甲(きっこう)を焼いて占いをした。いわゆる亀卜(きぼく)で、そこにも読み方があり、文字が発生している。

 つまり、占いの読み方に一定の法則があれば、そこには文字があったと考えるのが妥当である。

 古代和字は神事に密接に関係していた。そして神事は、朝廷で執り行うだけではなく、有力氏族などもそれぞれの氏神を祭っていた。中臣氏は天兒屋命を、斎部氏は布刀玉命を、猿女君氏は天宇受賣命を、物部氏は邇藝速日(にぎはやひ)命をというように、氏々は独自の神々を祭っていた。

 それぞれの有力氏族が、神事から発生した文字を持ち、故事来歴を記録していたとしても不思議ではない。古代和字は神事の秘事だから、氏族が違えば、簡単には読めない。そして、自分の氏族がいかに由緒正しいかを強調するあまり、「諸家のもたる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ」という状況になってしまったのではないか。

 古史古伝超古代文明の存在が記されているのは、氏族が自己の歴史の長さを誇るため、創作=偽造したからではないだろうか。大和朝廷を快く思わない氏族が、別の王朝があったと作為をもって記録することもあっただろう。さらには、後世の人間が捏造したものもあるに違いない。

 このため「偽りを削り實を定め、後葉(のちのよ)に流(つた)へむ」ことになったが、記録する文字を統一する必要性に迫られ、採用されたのが乱立する古代和字ではなく、中国から入ってきた漢字だったと思われる。

 漢字は第十五代応神天皇の時代に、百済和邇吉師(わにきし)が、論語十巻、千字文一巻の合計十一巻を朝貢して伝わったとされている。

 それ以前にも、四代前の第十一代垂仁天皇時代に、百済の国主の子、天之日矛(ひぼこ)の来日が伝えられているから、古い時代から漢字は少しずつ入ってきていたと考えられる。漢字を使用する下地はすでにできていた。

 そして、明治の文明開花ではないが、和邇吉師の朝貢で中国ブーム、漢字ブームが起き、漢字が定着していった。漢字は氏々に伝わる古代和字と違い、統一された中国の国語だから、古事記を編纂するにあたり、漢字が重んじられたのは無理もない。

 稗田阿礼が氏々の古代和字を読み、言い伝えを記憶し、それを漢文に精通した太朝臣安萬侶が、原文の意味を違えないよう、細心の注意を払って纏めたのが古事記なのである。

 古事記の序文を後世の偽作としたのは加茂真淵で、安萬侶を架空の人物とした学者もいた。さらに、古事記そのものを偽書とする見方もある。

 古い時代の物事を、現代人のわれわれが、完全に解き明かすことは容易ではない。それを承知で異論を唱えるのは、自己アピールとしか思えない。大学者の加茂真淵がそうだとは言わないが、現実に存在しているものを、どうして否定したがるのだろうか。

 蛇足だが、安萬侶架空説は昭和五十四年、奈良市の茶畑から太朝臣安萬侶の墓が発見され、骨や木櫃、墓誌が出土し、完全に否定された。その後は、辻褄合わせで序文だけが後世の偽作という主張に変わってきた。

 これだけをみても、古事記や序文の存在を、素直に受けとるべきだろう。

 ドイツのシュリーマンが伝説的な詩人ホメロスの詩を元に、トロイやミケーネの遺跡を発掘し、エーゲ文明の存在を証明したように、いわゆる伝説や神話は、事実を物語っていることが往々にしてある。

 古事記序文によれば、安萬侶は大変な努力をして古事記を編纂している。

「上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構うること、字に於いて即ち難し」

 とあるように、漢文ですべてを表すことはできないと正直に述べている。そして、漢字の音訓を交え、可能なかぎり上古の言葉に近づくよう書いたのである。

 ちなみに、古事記の序文は純粋な漢文体(つまり中国語)、古事記本文は漢文と仮名の交じった変態の漢文体、歌謡は一音節一字の仮名と、はっきりと書き分けられ、さらに、読みを明確にするため、注表記がなされている。

 古事記が非常に言葉を大切にしていることがわかる。

 だが古事記日本書紀を、まったくの架空物語であるとか、「征服王朝」側から書いた一方的な歴史書だと、存在価値を否定する学者や文化人がいる。

 恐ろしいのは、古代和字らしいものが発見されても、「権威ある知識人」や郷土史家などが、よく調べもしないで「偽物」「捏造」だと心ない断定をして破壊されかねないことである。発見されながら、偽物だから不要だと判断され、闇に葬られた遺跡が数多あるに違いない。

 それは日本人のアイデンティティを崩壊させることにつながりかねないから、不用意な発言をしてはならないと肝に銘じてほしい。

 

 ヤ 日本書紀以前の書

 

 欽明天皇紀にある「古き字」はどのようなものだったのだろうか。現物が残っていないから断定できないが、日本紀私記や扶桑略記釈日本紀などから類推することは可能だ。

 日本紀私記は奈良時代から平安時代にかけ、七回にわたって行われた日本書紀の講義録である。養老五年(七二一年)、弘仁三年(八一二年)、承和十年(八四三年)、元慶二年(八七八年)、延喜四年(九〇四年)、承平六年(九三六年)、康保二年(九六五年)の各回で、日本紀の成立直後から講義が行われていたことになる。それぞれの講義録を私記といい、弘仁私記や承平私記などと呼ぶ。

 仮名で書かれたという日本紀について詳しい記録を残しているのは釈日本紀で、日本書紀の講義録を卜部兼方鎌倉時代にまとめたものである。まとめた時期が後世ということで、資料的な価値の問題があるが、示唆に富んだ書物である。

 この中の巻第一「開題」の部分で、仮名日本紀という単語が頻繁に出てくる。最初に読み下し文を、後に現代語訳を示す。

 

問。此の書を考え読むため何の書を以って其の調度として備ふべきか。

答。師の説では、先代旧事本紀上宮記古事記、大倭本紀、仮名日本紀など是なり。

又問。仮名日本紀は何人の作るところで、又此の書の先後如何と。

答 師の説では、元慶の説に云ふ此の書を読まんが為に私に注出する所なり、作者未だ詳らかならず。

又問 仮名本は元より在るべし。其の仮名を嫌ふが為に、養老年中に更に此の書を選ぶ。然るに則ち、此の書を読まんが為に、私に記すと謂ふべからず。

答 疑うところ理あり。ただ未だその作者を見ざるなり。今按ずるに仮名本は世に二部有る。其の一部は和漢の字相雑へて之を用ひ、其の一部は専ら仮名、倭言の類を用ひて居る。上宮記の仮名は已に旧事本紀の前にあつた。古事記の仮名も亦此の書の前にあつた。仮名の本は此の書の前にあつたと謂ふべきである。或る書に云ふ養老四年安萬侶等をして日本紀を選み録さしむ。之の時古語、仮名の書数十家に有りしと雖も勅語をもつて先と為す。然る時は則仮名の本は此の前にあったことは確かである。

又問 仮名字は誰人が作るところか。

答 大蔵省の御書の中に、肥人の字六七枚ばかり有り。先帝は御所に於いて其の字を写させたまふ。みな仮名を用ふ。(中略)

先師の説に云う。漢字が我が朝に伝来するは応神天皇の御宇なり。和字においては、其の起こり神代にあるべきか。亀卜の術は神代より起これり。所謂此の紀の一書の説に、陰陽二神蛭児生れます。天神太占を以って之を卜ひ、時日を卜ひ定めて降したまふ。文字無くんば豈に卜ひとなるべけんや。

 

現代語訳

問 この書(日本書紀)を読むのに、どのような書物を参考として備えるべきでしょうか。

答 師の説によると、先代旧事本紀上宮記(かみつみやのふみ)、古事記、大倭(おおやまと)本紀、仮名日本紀などです。

又問 仮名日本紀は誰が作ったのですか。また、日本書紀とどちらが先に作られたのですか。

答 師の説によると、元慶二年の講義では、仮名日本紀日本書紀を読むために、私的な注釈書として作られたものだとしています。作者はわかりません。

又問 仮名日本紀は以前からあったのではないですか。仮名であることを嫌って、養老年中にさらに日本書紀を選集したのではありませんか。日本書紀を読むために、私的に作った注釈書というのは間違いです。

答 疑問はもっともです。しかし、作者はわかりません。いま考えると、仮名日本紀は世の中に二部あります。その一部は和漢の文字が雑(ま)じったものです。もう一部はもっぱら仮名倭(やまと)言葉を用いています。上宮記の仮名本は旧事本紀ができる前にありました。古事記の仮名本も日本書紀の成立以前にありました。仮名日本紀日本書紀の成立前にあったと言うことができます。ある本によると、養老四年に安萬侶たちが日本書紀の撰録を命じられたときに、古語や仮名の書が数十の家にありましたが、みな勅語のほうを優先させました。したがって、仮名日本紀日本書紀成立以前にあったということはもっともなことです。

又問 仮名字はだれが作ったのですか。

答 師の説では、大蔵省の書の中に、肥人(ひのひと)の文字が六、七枚ほどあり、先帝が御所で写させられました。みんな仮名を用いていて、その字はまだ明らかになっていません。(中略)

 先師の説では、漢字が我が国に伝わったのは応神天皇の御世です。和字の起こりは神代にあるべきでしょうか。亀卜(きぼく)の術は、神代より起こっています。いわゆる日本書紀の一書の説に、陰陽二神(伊邪那岐伊邪那美の命)が蛭児(ひるこ)を産んだとき、高天原へ上がって天つ神に尋ねたので、天つ神が太占(ふとまに)をもってこれを卜(うらな)い、時と日にちを定めて地上へ降(くだ)されました。文字がなければ、どうやって卜いをなすことができるでしょう。

 

 釈日本紀のやり取りから、日本書紀ができる以前に仮名日本紀が存在しており、古事記上宮記も仮名で書かれたものがあったことがわかる。そして仮名文字は神代から伝わっていると判断している。

 釈日本紀以外にも仮名日本紀の存在を示唆する古書は、弘仁私記、承平私記、扶桑略記(一〇九四年頃に成立)など数多くある。

 弘仁私記に次のようにある。

 

 飛鳥岡本宮朝(皇極帝)の皇太子は漢風を好まれた。難波長柄宮朝(孝徳帝)、後の岡本宮朝(斉明帝)、近津大津宮朝(天智帝)の四代の間、文人学士は各競って帝紀、国記、および諸家記、氏々の系譜などを漢字を以って漫りに之を翻訳し、私意を加えて人を誣いす。殆ど先代旧事の本意が絶えん。

 

訳 皇極天皇の皇太子は大いに漢風を好まれ、孝徳天皇斉明天皇天智天皇の四代の間、文人学士はみな競って帝紀、国記、および諸家の記録や氏々の系譜をみだりに漢字に翻訳し、私意を加え、事実を曲げて人を騙し、ほとんど先代の旧事の本当のところが絶えようとしている。

 

 これを読むと、皇極天皇から天智天皇在世までの約三十年間、古代和字の記録を漢字に翻訳し、かつ勝手に書き換えていたことがわかる。漢字ブームが到来し、我先に記録を改竄していたのである。それを憂えた天武天皇が、事実を明確にし、後世に残そうとしたのが古事記であり、続く日本書紀だった。

 皇極天皇孝徳天皇斉明天皇天智天皇の御世は仏教勢力が盛大となり、さらに百済を支援した白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北し、世相が多いに乱れていた。漢字がもてはやされ、仮名(古代和字)=国字は軽んじられた。このため各氏族は、古代和字を漢字に訳し、氏族に都合のいいように改竄し、過去の歴史が捻じ曲げられ滅びようとした。そこで、天武天皇勅語をもって歴史を正したと推測できる。古事記序文に「諸家のもたる帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虚偽を加ふ」と記されたことがまさに起きていたのである。

 この時、各氏族に伝わる普遍性のない古代和字では統一することが難しく、漢字を統一文字としたため、古代和字は忘れ去られていく運命となった。さらに、漢字の国字化で、古代和字を使用することがはばかられ、消滅していったのではないか。

 古語拾遺を表した斎部広成の子孫・忌部正道は「神代巻口訣(くけつ)」で興味深いことを記している。

 

神代の文字は象形なり。応神天皇の御宇、異域より書始めて来朝す。推古天皇朝に至り聖徳太子漢字を以って日本字につける。後百有余歳、而して此の書となる。

 

訳 神代文字象形文字である。応神天皇の御世に漢字が伝わり、推古天皇の時代に聖徳太子が漢字を日本字の横に付した。それから百年以上がたち、此の書となった。

 

 さまざまな古代史料を検討してみると、古代和字が存在しなかったと断定することはとてもできない。中立な視点でこれらの史料を見れば、少なくとも奈良時代から、日本書紀を講義する学者たちは、漢字ではない文字、すなわち古代から伝わる和字があったと認識していたことは明らかである。

 日本の文物は大陸中国より後れていたという先入観があると、これらの貴重な史料を見落とすことになる。もっとも、自説を主張するため、意図的に無視しているのかもしれないが……。

 ちなみに韓国では、古代和字の一種である阿比留文字とハングルの形が似ているというので、ハングルを真似て神代文字を偽造したと主張する向きがある。この説の致命傷は、ハングルができたのが十五世紀、肥人の文(阿比留文字)について論じている釈日本紀の成立が十三世紀であることである。それだけでも年代的に二百年の差があるから、ハングルを真似て阿比留文字を作ろうにも作りようがない。

 自国の文化が高いと無理やり信じ込み、何でも自分たちが作ったと主張したがる朝鮮族の、子供っぽい自己中心の性癖が端的に現れている。

我が国の考古学者や歴史学者が先入観を払拭し、中立な目で遺物を調べれば、古代和字の存在は明確になるだろう。そうなる日を願ってやまない。

 

巻の四 中編 古事記はビッグバンを示唆

ミ アマかマノかマガか

 

 こう書くとまるでナゾナゾだが、言霊にとって実に重大な事柄を含んでいる。

「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神

 言霊の宝庫・古事記の本文冒頭には、こう書かれている。

「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時、高天原に成(な)れる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)神」と読み下す。(岩波書店日本古典文学体系による)

 ここに記されている高天原という言葉が、「タカアマハラ」「タカマノハラ」「タカマガハラ」と三通りに読まれている。

 読みは一つのはずなのに、どうしてそんなことになるのだろうか。そして、どれが正しいのだろうか。

 古事記は小文字による分注が次のように続く。

「訓高下天云阿麻。下效此」

「高の下の天を訓みてアマと云ふ。下は此に效(なら)へ」と日本古典文学体系は読み下している。

 つまり古事記は冒頭で、高天原を「タカアマハラ」と読めと、わざわざ分注を加えているのである。

 おそらく、古事記編纂当時には、氏族によっていろいろな読み方があったのだろう。そして、そうした混乱を統一するのが、古事記の狙いであった。

 日本は「言霊の幸はふ国」だが、言霊は正確に発音しないと発動しない。だからこそ、乱れた言葉を正すために、古事記は編纂された。

 古事記は神々の名前について、いたるところで「音を以(もち)ゐよ」と指定している。神々の名前を正確に発声しなければ、神威が働かないからにほかならない。

 タカマノハラは「タカアマノハラ」と読み、タカの「ァ」音とアマの「ア」音が同音だとして、「ア」を省略したのだろうが、「アマ」と古事記がわざわざ分注で指定しているのにかかわらず、どうしてそんな省略をしなければならないのか? もし「タカマノハラ」と読めというなら「訓高天云高麻(高天を訓みてタカマという)」という分注があるはずである。

 タカマガハラにいたっては、古代、接続詞は「之」が使われていたから、「ガハラ」とは決して読まず、論外というしかない。

 釈日本紀には「高天原」について「多加阿万乃波良 弘仁」と記されている。弘仁三年(八一二年)の日本紀講義での読み方で、多加阿万乃波良(たかあまのはら)と明確に示している。

 我が国最古の漢字で記録された文献・古事記すら、正しい読みがなされていないのは悲しむべきである。これでは言葉が乱れるのは避けようがない。

 勝手な読み方をしている人たちは、上代の言葉について、古事記の編纂者より、自分の方が詳しいとでも考えているのだろうか。何か思惑があってわざと読みを変えているのか、違うことを口にすることで目立とうとでもしているのか。

 分注で指定している訓(よ)みを無視したら、古事記そのものを理解できなくなる。後世の浅知恵で判断するのではなく、序文に「上古の時、言意並びに朴にして」とあるように、古事記に記されていることを素直に受け取るべきなのだ。

 高天原を分解すると「タカァ」「カァマ」「アマ」「ハラ」となる。

 葉室氏は、「ハラ」の「ハ」は葉で葉緑素を作り生命を生み出し、「ハハ」と二つ重なって母になる。さらに「ラ」は「ぼくら」などの「たち」という意味で、「ハラ」は多くのものを生み出す生命の源のことであると本質を喝破している。

 まさしく「ハラ」は生む腹であり、生命が誕生した海原(うなばら)である。外来の漢字を当てはめ「原」としために、本来の言霊がわからなくなってしまったのだ。

 昭和十五年に神祇院が復活した際、朝廷の祭祀を司っていた白川家最後の当主白川資長から、正しい神道行法だと認定され、政府高官の指導を委託された神道家の梅田伊和麿(いわまろ)翁は、天地開闢(かいびゃく)の時、「タカアマハラ」という言霊が鳴り響き、タカァ=高御産巣日(たかみむすび)神、カァマ=神(かみ)産巣日神、アマ=天之御中主神造化三神がハラ=成ったと断じている。

 造化三神は「成(な)」れる神と古事記にはある。ナルは鳴るで、雷鳴のように言霊が鳴り響いたのだろう。そして、天之御中主神をすべての中心として、高御産巣日神神産巣日神のムスヒ(結び)の働きで宇宙が造られ、太陽系ができ、地球と月が生まれ、八百万の神々や人類が誕生したという、壮大な宇宙創成神話が古事記の神代巻なのである。これに対し、日本書紀は地球が創生された以降の歴史を語っているといえよう。

 葉室氏は古事記の冒頭部分を、大宇宙が誕生したビッグバンを描写していると明快に指摘している。

高天原の原は腹や肚と発音が同じである。肚が据わった人とか、肚の太い人というように、人の精神のあり方をも示している。

 腹は人間の体の真ん中にあり、手足を広げて横に回転すれば、臍を中心に回る。

 武道や禅の修行では、腹すなわち臍下丹田(せいかたんでん)(気海(きかい)丹田ともいう)に気を入れることを重視する。声楽でも腹から声を出せと指導する。

 腹から出した声は小さくても遠くへ通る。鶏の鳴き声は、近くで聞くとさほど大きくはないが、驚くほど遠くまで届く。

 声楽家がマイクなしで歌っても広い会場全体に行き渡り、武道の達人が気合を掛ければ空飛ぶ鳥さえ落とす。生命の中心から気が出ているからである。

 スポーツではオノマトペといって、「声を出すと記録が良くなる」(スポーツオノマトペ 藤野良孝 小学館)ことが、最近の研究でわかってきた。ハンマー投げ室伏広治選手が、手を離す瞬間に叫ぶのは、そのいい例である。

 丹田に気をこめ、それを発すれば、偉大な力が発揮される。ハラという生命の中心から出るからである。

 では、丹田は臍の下のどこにあるのかと言えば、二つの考え方がある。一つは臍の下の下腹部、もう一つは、臍から体の奥へ入った内部にあるというものだ。

 この二つの考え方は、丹田が持つ一面を、別々の方向からみている。本来、丹と田は分けて考えるべきものである。

 丹は真心という意味がある。仙人は丹を練るという。また胆を練るという言葉もある。この場合の胆は気力や「きもったま」だ。胆は肝臓のことだから、丹は体の内部にある経絡上の壺、田は気を溜める腹だとわかる。

 では、誰でも丹田に気をこめれば、偉大な力を発揮できるかといえば、そう単純なものではなく、何事にも鍛練が必要なことは言うまでもない。

 丹を練りに練り、田に気をいっぱいに溜めて、言霊が響き渡る言葉を発声できるようにする行が、我が国には古来、伝わっている。一般には知られていないが、日本古来の神道には、腹を練るさまざまな修行法がある。その代表的なものが、白川伯家(はっけ)神道の修行法の一つ、息吹永世(いぶきながよ)という呼吸法で、思考停止から抜け出す重要な実践法である。

 

 ヨ 古事記は黙示録

 

現代の言葉の乱れは、古事記の編纂を指示した、天武天皇時代に似ている。

 天智天皇崩御後、圧倒的に不利だった大海人皇子は壬申(じんしん)の乱で劇的に状況を逆転、即位して天武天皇となり、飛鳥の清原(きよみはら)を都として天の下を治(しら)しめた。この時代、仏教をめぐる物部氏蘇我氏の対立、蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)の専横、大化の改新壬申の乱を経て国は乱れ、「諸家のもたる帝紀および本辞、既に正實(せいじつ)に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ」(古事記)状況になっていた。

 このため天武天皇は「今の時に當(あた)りて、其(そ)の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年も経ずして其の旨滅びなむとす」と憂え、古事記の編纂を命じた。つまり、各々の氏族に伝わる天皇や国に関する歴史や出来事に間違いがあり、嘘も書き加えられているから、今のうちに正しておかないと、事実が失われてしまうと、危機感を持たれたのである。

 ひるがえって現代は、「正しき伝統に則った教育を施し、自らを悪者とする自虐史観から脱却せずば、日本の本つ姿は滅びなむ」状態にある。

 壬申の乱を乗り切った天武天皇の御世(みよ)、仏教の伝来や漢字の普及で、言葉は現在と同様に乱れていた。それを憂えた天武天皇が、言葉や歴史、文化を正そうと編纂させたのが古事記である。

 そして、漢字を統一文字として古事記が撰録された。

 古事記天武天皇側近で二十八才の若き舎人(とねり)稗田阿礼(ひえたのあれ)が、天皇の命令で誦(よ)み習わした天皇家の系譜を記した帝王日継(ひつぎ)と、時代ごとの出来事である先代旧辞(くじ)を、太朝臣安萬侶(おおのあそみやすまろ)が編纂したものである。 阿礼は天宇賣(あめのうすづめ)命の後裔の猿媛(さるめの)君氏出身で、神懸(かみが)かり能力を持った語り部、安萬侶は漢文(中国語)の権威で、当時の最高の知識人である大学者だった。

 安萬侶が最も苦労したのは、古い言葉や意味を損なわないよう、漢字の音と訓を組み合わせ、筋道や論理が通らない語には「注」を施し、本来の意味や訓(よ)みを表すことだった。

 古事記の序文には「上古(じょうこ)の時、言(ことば)意(こころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字(じ)に於(お)きて即ち難(かた)し。すでに訓に因(よ)りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全(また)く音を以(も)ちて連ねたるは、事の趣更に長し」とある。

 訓では意味を正確に言い表せず、音だけでは長すぎる文になるというのである。漢字で「上古」からの歴史や物語を、他人がわかるように記録することが、いかに難しかったかを示している。

 古事記は神懸りの稗田阿礼が口述し、漢文の権威の太朝臣安萬侶が記述した、神伝の書である。そして古事記は、唯一絶対最高神の存在を示し、さらには神祭りこそが国家の礎だということを暗示的に述べている。古事記は文章と文章の間に国体のあり方を示した黙示録である。

 古事記の冒頭は次のように書かれている。

 

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。次高御産巣日神、次神御産巣日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隠身也。

次國稚如浮脂而、久羅下那州多陀用弊流時、如葦牙因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神。次天之常立神。此二柱神亦、獨神成坐而、隠身也。

 上件五柱神者、別天神

 

 日本古典文学大系の読み下し文を次に記す。

 

天地初發(はじめ)て發(ひら)けし時、高天原に成れる神の名(みな)は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神御産巣日神。此の三柱の神は、並(みな)獨(ひとり)神(かみ)に成り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき。

次に國稚く浮きし脂の如くして、久羅下那州(くらげなす)多陀用弊流(ただよへる)時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物によりて成れる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲(うましあしかびひこぢ)神。次に天之常立(あめのとこたちの)神。此の二柱も亦(また)、獨神に成り坐して、身を隠したまひき。

 上の件(くだり)の五柱の神は、別(こと)天つ神。

 

 この冒頭部分だけでもさまざまな解釈がある。前にも述べたが、高天原をタカマノハラやタカマガハラと歪めた読み方をする人がいる。古事記に分注があるにもかかわらず、独自の読み方をしているわけだが、「成る」という言葉を「産む」とこれも勝手に解釈する人がいる。「成る」は自然に現れる意、「産む」には両親が必要である。

 にもかかわらず、天之御中主神高御産巣日神や神御産巣日神を産んだとする解釈がある。最初に高天原に「成った」神が天之御中主神だから、次の二柱の産巣日神を産んだというのだ。

 そうなら、天之御中主神を生んだのはどの神なのかという問いが思い浮かぶが、明確な答は還ってこない。

 最初に成った天之御中主神と、伊勢神宮に祭られている天照大御神と、どちらが上位の神であるかは、昔から議論されている。ここでは、最高神を誤って解釈することが、国体を乱れさせている原因だと指摘しておくにとどめる。

 次に、「別天神」だが、特別の天つ神とか、天つ神とは別の天つ神と、ここでも解釈が分かれている。特別でも別でも構わないが、素直に読めば「天つ神」とは「異なる」神である。

 歴史書を読んでいると、よく天つ神系とか国つ神系という言葉が出てくる。天つ神系という言葉は、いわゆる「征服王朝」の大和朝廷の系統を、国つ神系とは「被征服王朝」の出雲系を指して使われている。しかし、古事記日本書紀には、天つ神「系」などという言葉はどこにも出てこない。後世の階級闘争史観の持ち主が、天皇を征服者と言いたいがためにつくり出した言葉だからである。

 最初の三柱の神の「並獨神」という言葉も、「並」が「みな」とか「ならびます」と読まれている。「ならびます」と読むと、三柱の神は同格の神という意味合いになる。同格であれば、天之御中主神最高神ではない。

 獨神とは、夫婦神ではないということだ。五柱の次に成れる国之常立神豊雲野神も獨神で、五柱の神々とともに「身を隠したまひき」とある。

 身を隠すとはどういう意味か。大祓詞のように、祝詞には「あめのみかげひのみかげとかくりまして」という言葉がよく出てくる。現し身を持たず、「かげ」に隠れている存在という意味だろう。七柱の「身を隠したまひき」神々は、現実世界に現れることなく、国を守っているのである。

 国之常立神豊雲野神の次に、五代(いつよ)の夫婦神が成る。最後が国産み神話で知られている伊邪那岐(いざなぎき)神と伊邪那美(いざなみ)神で、国之常立神から伊邪那美神までを神代七代(ななよ)と言う。

 伊邪那岐神伊邪那美神は国土の修理固成を行うが、天つ神の命令によってだった。古事記は次のように記している。

 

是に天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)以(も)ちて、伊邪那岐命伊邪那美命、二柱の神に、是の多陀用弊流(ただよへる)国を修(おさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ、と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜ひき。

 

 この後、岐美二神が天の浮橋に立って国産みが始まるのだが、ここで出てくる「天つ神」とは、どういう神なのだろうか。前に成った「別天神」と同じなのだろうか。

 古典文学体系などは、「天つ神」を「別天神」と解説している。しかし、もしここで現れた「天つ神」が「別天神」のことなら、「別天つ神諸の命以ちて」と書くだろう。ここの部分の文章は、「天つ神」と「別天神」とは違うということを示しているのにほかならない。

 この場合の天つ神は、天照大御神のことを指している。それを裏付けるのが、古事記日本書紀天皇のことを「天つ神の御子」と明確に書いていることだ。天皇天照大御神の皇孫だからである。

 大祓祝詞には「あまつかみはあめのいはとをおしひらき」とある。天の岩屋戸に隠れたのは天照大御神で、別天神ではない。

 さらに、天皇別天神の御子ではない。もし別天神の御子なら、親が五柱もいることになってしまう。「天つ神」を「別天神」であるとする解説が、いかに的外れかわかる。

 別天神は成った神だが、天つ神は「成った」とは書かれていない。広辞苑は「成る」を、「無かったものが新たに形ができてあらわれる」「別の物・状態にかわる」などと解説している。

 この場合の「無かったもの」は「現実世界に無かった」という意味で、「新たに形ができてあらわれ」たのは現実世界にということである。つまり、どこか元になる世界から現実世界に現れることを「成る」と表現している。「別の物・状態にかわる」のは、元の物や状態があるから「変わる」ことができる。

 天つ神は「成った」神ではなく、最初から高天原に存在していた神、あるいは高天原そのものと言っていい。

 天つ神という原初の存在が、「高天原」という言霊を発し、天之御中主神高御産巣日神、神御産巣日神の造化三神を「成らせ」たのだから、天つ神は無始無終、唯一絶対の最高神ということができる。

 この天つ神が、伊邪那岐命の禊祓いで現実世界に降臨した。

 

是に左の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀(つくよみ)命。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男(たけはやすさのお)命。

 

 ここで天照大御神の御名が初めて登場するが、以後、天つ神という御名での活躍はなくなる。天つ神は天照大御神となって地上に降臨し、さらに伊邪那岐命の「汝(いまし)命は高天原を治らせ」とのことよさしによって高天原へ戻り、天上天下の唯一絶対最高神となったのである。

 それを裏付けるように、日本書紀の神代巻では、神という表現は天照大御神だけで、ほかの神々は「尊」か「命」と使い分けている。天照大御神が唯一絶対最高神であると、日本書紀は明確に記述している。

 日本書紀本文の最初に現れるのは「国常立尊」である。以後、成る神々はすべて「尊」という表現が使われている。「便(すなは)ち神と化為(な)る」とか、「凡(すべ)て三柱の神ます」というような抽象的な使い方はしているが、個別の御名では神を使っていない。神は天照大御神だけで、ほかの神々は尊であり命なのである。

 日本書紀には「至(いた)りて貴きをば尊(そん)と曰(い)ふ。自(これより)余(あま)りをば命(めい)と曰ふ。並(なら)びに美(み)挙(こ)等(と)と訓(い)ふ。下(しも)皆此れに効(なら)へ」とある。

 日本書紀の「至りて貴き」存在、つまり「尊」は、神々と天皇、太子(ひつぎのみこ)に限られている。あとは「命」とはっきりと区別をしている。

 そして古事記の冒頭に成った天之御中主神高御産巣日神も神御産巣日神も、日本書紀ではすべて尊と表現されている。つまり唯一絶対神天照大御神で、あとの神々は尊であり命なのだ。そう前提を置いたうえで、今後は古事記にならって神と表現する。

 日本書紀で尊と表現されている天之御中主神最高神なら、俗な言い方だが、規模が大きいもっとたくさんの神社が祭り、人々の尊崇を受けていてしかるべきだろう。しかし、天之御中主神を祭る神社は、安産祈願で有名な水天宮や北極星を祭神とする妙見神社、北星神社など数えるほどしかない。

 動かない北極星を宇宙の中心と考え、天之御中主神の御中主という言葉から、北極星天之御中主神と発想したのが妙見神社や北星神社である。神霊的にというより、論理的に導き出したのだろう。記紀に星神信仰はほとんど記載されておらず、道教陰陽道の影響でこれらの神社が創建されたと思われる。

 さて、尊も命も「みこと」と読み「御言」とも書く。「詔(みことのり)」の「みこと」だ。そして「みこと」は、言霊のことでもある。尊や命は、天つ神が言霊を発し、神々に与えた使命を表している。

 古事記の冒頭文は、すべての存在には御中主=中心があり、天地開闢の中心になったのが天之御中主神であると暗示している。

 天之御中主神の次は高御産巣日神と神御産巣日神の二柱の産巣日の神が成った。「むすひ」は「結ぶ」で、存在と存在を結び付ける言霊である。独立していた存在が結び付けば、新たな存在が発生する。産巣日という大切な作用、神霊的な遠心力と求心力を暗示したのが二柱の産巣日神である。物理学が物質の構成を示した、原子の回りを電子が回転する様(さま)に似ている。

 神々の世界には、私たちの目には見えないものの、厳然とした序列がある。下位の神を最高神と誤認してしまったら、秩序が崩れる。さまざまな宗教が自分の神なり仏なりを持つのは悪いことではないが、最高神仏ではなく、御守護(みまもり)の神仏だと、明確に認識しなければならない。

 古事記日本書紀は、絶対最高の神を天つ神=天照大御神であると、一貫して示していることを忘れてはならない。

 普段、私たちが何気なく遣っている言葉には、このように深い意味がこめられている。だからこそ、言葉を正しく遣い、祈りのこもった言霊を甦らせなければならない。

 

巻の四 前編 言霊と古代和字の神秘

 

巻の四 言霊と古代和字の神秘

 思考停止は日常の言葉をも汚染し呪縛している。自らの主張に魂が入っていなければならない政治家の多くが、上滑りて使い古した言葉ばかりだ。それを正さなければならない知識人といわれる人々にも、正確な言葉を遣えない人間が増えている。

 日本語は現代の言語学では明確な起源がわからず、世界の言葉と共通することもなく独自に発達し、孤峰を保っている日本語はどこから来たのか、ほとんど不明といっていい。

 そんな状況の中で、言葉には魂があるという考え方、すなわち言霊(ことだま)が形成された。

 アルファベットを組み合わせて単語をつくる英語などと違い、古代の日本では「吾」を「あ」、「汝」を「な」と発言し、「あ、い、う、え、お」などの一つひとつの言葉に意味があった。

 ところが、漢字が日本に入ってきて日本語に当てはめたため、時代が下るにつれ本来の意味がわからなくなった。さらに思考停止のせいで、言葉は空虚なものに堕落し、言霊は力を失った。このままでは、言葉はますます薄っぺらになり、単なる音声記号に成り下がってしまう。

 だが、言葉を正確に発声し、正しい遣い方をすれば、言霊が甦り、思考停止の暗幕は雲散し、日本は本来の姿を取り戻せるだろう。

 

ヒ 妄りなコトアゲ

 

 歴史小説作家の井沢元彦氏が著書の「言霊」(祥伝社)で、日本はコトダマが支配する国だとして、次のように興味深いことを述べている。

 

 言葉と実体がシンクロする、というのがコトダマの基本原理である。そしてコトダマを発動させるためにはコトアゲすればいい。

 簡単に言えば、雨を降らせたいと思ったら、「雨が降る」と言えばいい。これは、必ずしも命令形でなくてもよい。逆に、実現しないでほしいと思ったことは、絶対に口にしてはいけない。「あの飛行機は落ちる」などとは絶対に口にできない。私は「墜落せよ」と言った覚えはないと、抗弁してもだめである。命令形でなくてもコトアゲした以上は、効力があるのだから。

 こういう世界では、言葉をうっかり口にできない。口に出すということは、コトアゲをしたということになるからだ。したがって、普通に使っている言葉も、状況によっては使えなくなる。

 

 井沢氏は具体的な例として鎌倉時代年代記吾妻鏡」の承元二年(一二〇八年)正月十一日の記事を紹介している。

 

晴る、御所の心経会(しんきょうえ)なり。去(い)ぬる八日式日たりといへども、将軍家御歓楽(ごかんらく)によりて、延びて今日に及ぶ。

 

 心経会が延期になったのは、将軍源実朝(みなもとのさねとも)の「歓楽」が理由だという。歓楽の意味は今も昔も「喜び楽しむ」ことである。実朝が楽しく遊び歩いたために心経会が延期になったとしたら、将軍として失格だが、実は歓楽の意味がまったく違って使われている。

 心経会の時、実朝は病気だったのだが、コトダマの原理によって、不吉な言葉を使うと不幸な事態がやってくるから、言い換えたというのである。

 結婚式のスピーチで「別れる」とか「割れる」と言うのは禁忌で、披露宴は「終わり」ではなく「お開き」という慣習と同じだというのだ。

 もっとも、めでたい席で縁起の悪いことを口にすべきでないのは、人々の祝い心に水を差すから、どこの国でも同じだろう。また、「将軍歓楽」のように、重要な人物の病状を隠すのは、症状が重ければ重いほど当然である。まして要人の逝去は国家の最高機密で、後の体制が整うまで隠されるのは、外国にも多くの例がある。

 もう一つの実例として、井沢氏は「太平記」をあげている。「太平記」は南北朝の抗争を扱った「戦乱物語」なのに、なぜ「太平」と題されたのかと問いかけている。

 

もし「戦乱記」とでも名付ければ「戦乱」という言葉の霊的作用(つまりコトダマ)によって本当に戦乱を呼んでしまうからだ。将軍の病気を「歓楽」と表現するのと同じ精神構造のなせる業なのである。(中略)

 ところが、コトダマの支配下にある日本人は、言葉と実体の間に相関関係があることを信じている。そこで実体を改革するのに何らかの困難や不都合がある時、言葉のほうだけ言い換えることによって、実体を改革したような気になって、安心してしまうという悪い性癖がある。

 

 確かにある種の人々にはその傾向がある。

 鳩山由紀夫元総理の普天間基地海外移転原子力に強いと自ら喧伝し、訳のわからない空虚な政策を次々と打ち出した菅直人元総理。二人とも何もやっていないのに、言葉を先行させてやったと思い込んでしまっているのは、コトダマ信仰の故であろう。

 コトダマ教の最たる例は、軍隊を自衛隊と言い換え、戦争を放棄した日本国憲法第九条を守れば、世界に平和がくるという「迷信」であり「妄信」である。

 旧社会党時代に、女性で初代衆議院議長を務めた故土井たか子などは、コトダマ教信者の最たる人物である。

 迷信を信じる人々にとっては、現実がどうあろうと何の関係もなく、平和に反することを言葉や文字にしなければ、平和が実現するはずなのである。

 では、こうした「平和主義」の標榜者たちは「自分は平和を求めている」から、強盗が入ったり、暴漢に襲われたりすることはないと信じ、家に鍵を掛けず、玄関を開き放しにしているのだろうか。もしそうだとしたら見上げたものだが、現実は「平和憲法」を守れと主張している政党や人物ほど、本部や自宅のガードが固く、警戒を怠っていない。

 ウクライナへのロシアの侵略を見れば、平和を求めるという言葉が、いかに無意味が分かる。

 主張する言葉と現実の行動がいかに違うか、コトダマ教信者の面目躍如たるところである。

 井沢氏は実にユニークな視点で日本人を分析しているが、この論が本当の言霊ではなく、「妄りなコトアゲ」を俎上に載せていることに気づいているだろうか。

 万葉集の「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰く」に言霊を詠(うた)った長歌反歌が載っている。国文学者の中西進氏の著作「柿本人麻呂」(筑摩書房)から引用する。

 

  柿本朝臣人麻呂の歌集に曰く

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国

しかれども 言挙ぞわがする 言幸く 真幸くませと

恙(つつみ)なく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと

 百重波 千重しきに 言挙すわれは 言挙すわれは

  反歌

敷島の 大和の国は 言霊の 幸(さき)はふ国ぞ 真幸くありこそ

 

 敷島の瑞穂の国は神の御心のままに言葉に表さない国だが、あえて無事にと私は言挙げをします。ご無事でおられたら、荒い波が打ち寄せてきても、後にお目にかかれると、百重波、千重波が寄せてくるように、私は何度も重ねて言挙げします、というものだろう。人麻呂は無事を祈って「あえて」言挙げしているのである。

 言葉には霊魂、すなわち言霊が宿っていて、言霊によって言挙げすれば、神々の加護が得られて実現するというのが日本古来の信仰だが、言挙げすれば何でもかなえられるというものではない。言葉に研ぎ澄まされた霊力を持っている天才宮廷歌人の人麻呂だからこそ、祈りをこめて言挙げしてもいいのである。

 人麻呂は、太平記とか、将軍の歓楽とか、「平和憲法」などのように、無闇にコトアゲをしているわけではない。妄りなコトアゲをすると、現実から目を逸らせ、かえって悪影響を及ぼしてしまうのは、元総理二人の言動を見るだけで明らかだろう。

 妄りなコトアゲではなく、願いを込めた言葉と考えるべきではないだろうか。戦乱が続くから「太平」であってほしい、病気が回復して「歓楽」してほしい、戦争が起こらない「平和」であってほしい、と祈っていると受け取るのが真意ではないのか。

 井沢氏は悪意で言葉を持ち遊んでいるとしか思えない。小説の中での事柄ならともかく、歴史と名付けた以上は正しい認識をしてもらいたい。

 

 フ 祈りの力

 

 コトダマ教が我が国で蔓延したのはなぜなのだろうか。それは、練り上げられた言葉にはまさしく言霊が宿っていて、祈りが実現するからである。

 こう書くと、「そんな馬鹿な」と、すぐさま否定する人たちがいるだろうが、祈りには奇跡的な力が秘められている。特定の宗教団体の祈祷を指しているのではなく、だれもがする祈りそのものに、神秘的な力があることに気づかなければならない。

  祈りの力を科学的に研究したのは、世界的な遺伝子学者の村上和雄氏である。同氏は世界に先駆け、高血圧を引き起こす酵素レニンの遺伝子を解析、さらに稲ゲノムの全解読を行った。そして、複雑極まりない遺伝情報を作り上げた何ものかが存在するとして、サムシンググレートの概念を提唱している。また、笑いと糖尿病治療の研究を進め、笑うことで血糖値が下がることを実証している。

 村上氏は宗教学者の棚次正和氏との共著「人は何のために『祈る』のか」(祥伝社)で、「祈りには、病気を癒し、心身の健康を保つ大きな力が秘められていることが、科学的に明らかになりつつある」と、衝撃的な事実を明らかにしている。以下に著書から引用する。

 

 そうした例をひとつ挙げてみることにしましょう。アメリカの病院で行なわれた、祈りの効用に関する研究結果です。

 重い心臓病患者393名を対象に、一人ひとりに向けて回復の祈りを行ない、祈らないグループとの比較をしてみました。そうしたら、祈られたグループの患者群は、祈られなかったグループの患者より、明らかに症状が改善されていました。祈る事が、何らかの形で心臓病を患(わずら)った人たちに良い影響を及ぼしたと報告されたのです。

 

 このほかにも、アメリカのアイオワ州の農村地帯で、トウモロコシの「多収穫」の祈りを集団で行なったところ、ずっと不作だったのが、その年は思いがけないほど豊作だった例、などなどが記述されている。

 そして祈りは、「どんな宗教でも祈りの効果は得られるし、宗教を信じない人にも有効であるということがわかってきました」という。医学に慣れた現代人は迷信と考えるかもしれないが、祈りの力で病気を治す研究が実際に行われているのである。

 信じられないと思う人もあるだろうが、多くの宗教が最初は病気治しから始まっていることを忘れてはならない。

 ちなみに世界最大の信者数を誇る宗教はキリスト教だが、イエス・キリストは、らい病や中風、出血病、盲人、口のきけない人など、さまざまな病気を言葉で治している。

 村上氏は、「無意識の心で感じたものが意識に変換されるときには身体の動きとつながりますから、遺伝子も当然関係してきます。遺伝子には、太古からの人類の祈りが刻み込まれていると思われます。すべての人間が大昔から祈ってきた理由は、このへんにあるのかもしれません」(前掲書)と指摘。

 そして、病気の原因は「悪い遺伝子がオンになった状態と考えられます。ガンはガン促進遺伝子が活発に働いた結果、起きていることです。身体の中にはガン促進遺伝子だけでなく、ガン抑制遺伝子も備わっています。ふつうは、それがきちんと働いてくれるのです。それが、なぜか悪い遺伝子のほうがオンとなって、正義の味方のはずの抑制遺伝子がオフになってしまう。これを逆転させれば、ガンなど自然に治ってしまうのです」(同)と述べている。

 どうやって抑制遺伝子を活発化させるかだが、笑いが糖尿病患者の遺伝子にどう影響するか、「DNAチップ法」という検査法を使って検査した結果から、その方法を示唆している。

 それによると、笑いによってオンになる遺伝子四十七個、オフになる遺伝子八個が見つかった。さらに、動きが活発になった遺伝子は、いずれも免疫力向上に重要な役割を果たしているもので、活動が鈍ったのは、糖尿病による臓器疾患に関係する遺伝子だったという、驚愕的な研究結果が得られたのである。

 村上氏はDNAチップ法を使えば、笑いだけでなく、感謝でも祈りでも、どんな遺伝子がオンになり、オフになるかわかると結論づけている。

 では、祈ればすべてかなえられるかといえば、そんな都合のいいことはあり得ない。祈る人の真摯さや熱心さ、利己的か利他的か、継続した祈りか思いつきの祈りかなど、さまざまな祈りがあるからである。もっとも、真摯で熱心、継続的に利他的な祈りを奉げるからといって、すべてが実現するわけではない。

 村上氏は前掲書で、祈りは「最適解」の答えを出すと述べている。どういうことかといえば、心からの祈りは、たとえ実現しなくても、その時々の最もいい事態を招いている。祈った時には願いが適わなくても、後からもっと望ましい形で実現することがあるというのである。

 祈りは実現する力を持っているが故に、祈ったこと、言葉に出したことは、すべて実現すると思い込むのがコトダマ教である。そこには心の底からの祈りはなく、祈っておけばいい、あるいはコトアゲすればいい、という安易な気持ちしかない。

 言挙げしない国で、軽々しくコトアゲすれば、実現するどころか、逆の結果を招きかねないと肝に銘じるべきである。

 ちなみに鳩山元総理は、神前でやってはならない虚言を平然と口にした結果、政界引退を余儀なくされた。

 山村明義氏の「神道と日本人」(新潮社)によれば、後に天武天皇となった大海人(おおあま)皇子が、挙兵を決意する託宣を得たと由来が伝わっている奈良県吉野の古社「勝手神社」で、鳩山元総理が政権交代祈願を行った際のことである。勝手神社の社殿は、平成十三年九月に不審火で焼けてしまったので、宮司が冗談めかして寄付を願った。「神道と日本人」は次のように記している。

 

「ここは火事で焼けてしまったので、民主党が奉賛(寄付)してくださいよ」と嘆願すると、鳩山氏は、その場で「わかりました。それぐらいさせてください」と語ったという。ところが結局、寄付はおこなわれなかった。続けて鳩山氏は、「政権が取れたら、神社にお礼参りに参ります」と答えたが、まったく「お礼参り」には来る気配もない。

 

 鳩山元総理の虚言癖と「言葉の軽さ」が、神の御前でも同じとは呆れるかぎりである。妄りなコトアゲが災いし、神の怒りを買った人間の末路がどうなるか、鳩山元総理の引退が示唆している。神々を軽視する人間には悲劇が待っていたのである。いや、さらなる悲劇が待っているのかもしれない。

 言葉の大切さは、古今東西、どこでも同じである。世界の人口の三人に一人は信者といわれるキリスト教も例外ではない。旧約聖書の「創世記」冒頭を日本聖書協会の聖書から引用する。

 

 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。

 全知全能の神の言葉から、昼と夜が別れたというのである。以後、神が何かを言うたびに、言葉通りの事柄が実現していく。

 神の言葉による世界の発展を、新約聖書ヨハネ福音書は次のように記している。

 

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 

 キリスト教の「はじめにありき言葉」は、神が発した言葉だから、文章となっている。これに対し、日本の言葉は、人々が話す「あ、い、う、え、お」などの一つひとつに深い意味が含まれている。一音一義、一音万義である。

 それが我が国に伝わる言霊で、言葉は「神」だけのものではなく、人間とともにあることを忘れてはならない。

 

 言霊を忘れたわかりやすい例は「いのち」という言葉で分かる。「いのち」に「命」という漢字を当てはめたため、「命」は生命のこととなり、「いのち」に含まれた深い意味がわからなくなった。

 奈良春日大社宮司を務めた葉室頼昭氏は、形成外科の医師を定年退職して神主になった異色の経歴の持ち主で、神道に関する多くの本を出している。

 葉室氏は、「いのち」の「い」は生きる、「の」は接続詞、「ち」は知恵で、神に与えられた「生きる知恵」のことだと喝破している。

 人類が誕生して以来、体験したことが遺伝子に組み込まれ、「生きる知恵」となって子孫に伝えられていくのが「いのち」だというのである。もちろん、処世上の知識や技術を指しているのではない。

 ちなみに「いね=稲」は「いのちのね=命の根」で、私たちが何気なく使っている言葉には、深い意味があることがわかる。

 神々が人間に与えられた「いのち=いきるちえ」を伝えていくのが言葉だ。

 一つひとつに意味のある日本語の単語に、中国の表意文字を当てはめたのが漢字である。時代が下るにつれ、本来の意味が忘れられ、漢字の意味に振り回されるようになった。

 そして人々は、長い年月のうちに言霊の存在を忘れ、いわゆるコトダマを信じるようになり、コトアゲすれば実現したと思い込むようになった。鳩山由起夫菅直人など、歴代の多くの総理経験者、政治家や官僚は抽象的な言葉を駆使し、コトアゲすることで国民を欺くようになったのである。

 言葉が乱れに乱れた現在、わが国の伝統は失われようとしている。伝統を守るためには、国民一人ひとりが言葉を正確に発音し、祈りをこめて言霊を甦らせなければならない。

 

巻の三後編 小六なら解ける邪馬台国の位置

ミ 魏志倭人伝を正確に読む

 卑弥呼といえば魏志倭人伝魏志倭人伝といえば卑弥呼と、多くの人が反射的に言葉を思い浮かべるだろう。奈良県や九州北部で祭殿遺跡が発見されれば、卑弥呼の館ではないかと、大マスコミは大騒ぎする。過剰反応としか思えないが、その最大の原因は、魏志倭人伝の読み方にある。

 ともすれば邪馬台国はどこかとか、卑弥呼日本書紀に記された誰だとか、興味本位の扱い方をされるから、本当のところが見えてこない。

 さらに当時の魏の言葉(呉音)で邪馬台国ヤマタイ卑弥呼がヒミコと発音されていたかもどうかも明確ではない

 魏志倭人伝は、魏から倭国へ来た使者が実際に見聞きした体験と、現地へ行かずに耳にした伝聞と想像、さらに作者・陳寿の思想的な思惑が、魔女の鍋のようにごった煮になっている。使者の実際の「体験」と「伝聞」や「想像」、「陳寿中華思想」を区別しないと、複雑な迷路に踏み込むばかりである。

 まず、最初に押さえておかなければならないのは、倭人伝の冒頭の文章である。

 

倭人は帯方の東南たる大海の中に在り、山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国にして、漢の時に朝見する者有り。今、使訳(しえき)通ずる所三十国なり。

 

 ここで注意しなければならないのは、魏と使者が往来しているのは邪馬台国だけでなく、三十国あるという文章である。倭国という統一国家としてではなく、今でいえば村ともいえる当時の小さな国々が、魏と自分の国とを行き来していた。

 行き来するからには言葉が理解できなければならない。魏志倭人伝は三世紀の記録で、すでにこの頃、「使訳を通ずる」とあるから、中国語がわかる日本人通訳がいて、漢字も理解できたと推測できる。

 さて、魏志倭人伝を読むにあたり、作者・陳寿の思想を理解しておかなければならない。儒教の国である魏は男尊女卑で、世界の中心は中国という中華思想が根底にある。さらに白髪三千丈の例えではないが、物事を誇張する習癖がある。

 これらを前提にし、まず陳寿邪馬台国をどう見ていたかを俯瞰しよう。倭人伝は邪馬台国の位置を次のように記している。

 

其の道里を計るに、まさに会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし。

 

 会稽の東冶とは現在の福建省福州市のあたりで、日本列島よりはるか南、台湾に近い場所にある。その東には尖閣諸島があるが、あとは海ばかりである。つまり陳寿中華思想から、邪馬台国を南方の海に浮かぶ蛮国とみなしていたのである。

 陳寿倭人を蛮族と考えていたのは、ほかの文章にも見える。

 

女王国の東、海を渡ること千里に、復(ま)た国有り。皆倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千里なり。又、裸国(らこく)・黒歯(こくし)国有り、復た其の東南にあり。船行すること一年にして至る可(べ)し。

倭の地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り、或いは絶え或いは連なり、周旋五千余里可りなり。

 

 邪馬台国から渡海して東へ千里に倭種の国があるというのは、使者が倭人から聞いた伝聞だろう。

 問題はその次からである。女王国から四千里のかなたに小人の国があり、その東南に裸で暮らす国や歯が黒い国があるというのは、想像というよりは陳寿の思想を表している。中華思想は中国の首都から遠くへ離れれば離れるほど、文明から遠ざかると信じているから、小人の国があり、衣服を着ない国があり、白いべきである歯が黒い国があるとなる。

 後漢書には女性について次の文章が載っている。

 

叉た説くに、

「海中に女国有り。男人無し。或いは伝う、其の国に神井有り。これを闚(うかが)うに輒(すなわ)ち子を生めり」と。(訳 また、「海中に女の国があって、男は一人もいない。その国には神の井戸があって、これを覗き込むと子が生まれる」という)。

 

 荒唐無稽としかいいようがないが、これが中華思想である。中華の地から遠ざかるほど、「中国人の文明や常識ではとても理解しがたい制度や習俗をもった民族が存在したとしても、何ら異とするには当たらなかった」(卑弥呼誕生 遠山美都男 洋泉社)のである。

 さらに、「中国人にとって女性を王に戴くなどというのは、(中略)未開・非文明の象徴、その最たるものなのであった」(同)から、女王卑弥呼が君臨する倭国は、陳寿にとって野蛮な国にほかならなかった。

 魏志倭人伝にはこうした陳寿中華思想が存在していることと、千里とか四千里というように、数字にはさまざまな誇張があることを忘れてはならない。この前提を無視して魏志倭人伝に取り組むと、陳寿に翻弄されるだけである。

 魏志倭人伝の冒頭には、多くの研究者が意図的に無視しているのではないかと疑いたくなる重要な文が記録されている。

 

郡より倭に至るに、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸の狗邪(くや)韓国(かんこく)に到る。七千余里なり。(訳 帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに船で行き、韓国からは南や東に進み、「その」北岸の狗邪韓国に着く。帯方郡から狗邪韓国までは七千余里ある)

 文中にある「その」とは何を指しているのだろうか。ここの文章を素直に読めば、「その」とは倭国としか考えられず、朝鮮半島の南端は倭国だったことになる。

 これを裏付けるように、魏志倭人伝が載っている「三国志韓伝」には、「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」と書かれている。この文章も素直に読めば、韓国は海に隔てられることなく、陸続きで南で倭国と接しているとなる。

 さらに「弁辰」の条に、十二国ある弁辰の「瀆廬(とくろ)国は倭と境界を接する」とあり、やはり倭国と陸続きだったとある。

 研究者によっては「その北岸」を九州の倭国とし、海を通じて接していると解釈する向きがあるが、文献をなぜ 歪めて読んでしまうのか不思議である。

 朝鮮半島の南端に倭国があっては都合が悪く、歴史書の記載から目をそらしているのだろうか。

 魏志倭人伝の時代、倭人朝鮮半島南端と九州北部を一つの海洋圏として生活していた。いや、それよりはるか以前、縄文時代から半島と九州北部は一つの生活圏だった。

 朝鮮半島には独自の土器があったが、移住した倭人が作ったらしい縄文土器が半島南部で相次いで発見されている。さらに、狩猟具や漁労具に使う黒曜石が発見されているが、半島では産出されず、倭人が九州産の黒曜石を持ち込んだものである。

 このように、縄文時代から倭人半島人は互いに行き来して交易を行い、半島南端に倭人が住み着いていたのは疑いない。歴史を考えるにあたり、無視してはならない事実である。

 倭国の北岸の狗邪韓国を出発すると、いよいよ倭国への航海である。距離と戸数を抜粋する。

 

始めて一海を渡ること、千余里にして対馬国に至る。(中略)方(ほう)四百余里可(ばか)り、千余戸有る。

また南に一海を渡ること千余里、一大(いちだい)国(一支国)に至る。方三百里可り三千許(ばか)りの家有り。

また一海を渡ること千余里にして末慮(まつろ)国に至る。四千余戸有り。

東南に陸行すること五百里にして、伊都(いと)国に到る。千余戸有り。

東南百里で奴(な)国へ至る。二万余戸あり。

東へ百里で不弥(ふみ)国に至る。千余戸有り。

南に水行二十日で投(とう)馬(ま)国へ至る。五万戸可り。

南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月、七万余戸可り。

郡より女王国に至るまで万二千余里なり。

 

 なぜ数字を拾ったかというと、邪馬台国の位置を求めるのに必要なことと、魏志倭人伝の数字の扱いがかなり大雑把なこと、さらに使っている文字の違いで実際に使者が体験したのかそれとも伝聞かを区別するためである。

 邪馬台国の位置を推測するには、まず魏志倭人伝が使っている一里は何メートルなのかを求めなければならない。ところが、余里とあるように正確な数値ではないから、類推するしかない。

 さて、当時の魏の1里はいまの400メートルだから、記述通りに地図上をたどれば、倭国は九州のはるか南方となる。この記述が邪馬台国論のネックになり、世の学者諸氏を惑わせてきた。

 だが、何の先入観もない小学校六年生ぐらいの生徒に、魏の里を求めよという問題を出したら、簡単に計算できるのではないか。

 記事に記載されている魏里と、地図上の実測値を比較すれは、簡単に答えが出る。対馬壱岐の島の一辺を示してやれば、簡単に導けるだろう。いまの小学生ならスマホを使って両島のホームページにアクセスし、「方」を簡単に割り出すだろう。

 方可四百余里(方は四百里ばかり)とある対馬国は、対馬市のHPによると、南北八二キロメートル、東西一八キロメートルとなっており、壱岐の国だと思われる一大国は方三百余里で、南北一七キロ、東西一五キロ。

 方は一辺だから、対馬は南北が一里二〇五メートル、東西が四五メートル。壱岐は、南北五七メートル、東西五〇メートルと計算される。

 対馬壱岐の共通項から、1里は四五~五七メートルと推測できる。

 対馬から壱岐まで六八キロメートル、壱岐から東松浦半島呼子唐津市)まで二六キロメートル、唐津港まで四二キロメートルある。魏志倭人伝対馬から壱岐壱岐から末慮国まで、それぞれ千余里としているから、一千里として計算すると、対馬壱岐は一里六八メートル、壱岐呼子は二六メートル、壱岐唐津港は四二メートルとなる。

 このように、魏志倭人伝に書かれている距離は、正確な測量機器が当時あったわけではないだろうから、使者が実体験した場合でもかなり大雑把である。

 だが、数字のおおよその傾向から察するに、魏志倭人伝の使者は、一里を四〇メートルから七〇メートルと考えていたことがわかる。

 さて、彼の国には「白髪三千丈」という言葉があるように、物事を誇大に表現する癖がある。そして、露布(ろふ)といい、戦争など国外での出来事は、実際の数字を一〇倍して政府へ報告する習わしがあった。100人を殺せば1000人を殺したと報告するのである。

 それを勘案すれば、一万二千里は実際には一二〇里、つまり1里は400メートルの10分の一、40メートルとなる。

 数字のあやふやさ以外に、文中に出てくる「可」という文字の問題がある。通常は「ばかり」と訳されているが、「あるべしと推量」した表現である。

 この「可」という表現は、距離だけでなく戸数にも登場する。考古学者の森浩一氏は「倭人伝を読みなおす」(ちくま新書)で、「有る」と「可」の違いを明確に指摘した。

 

対馬国では「有千余戸」となり、一支国から不弥国までの国々の戸数も「有る」と断定していた。ところが投馬国では「可五万余戸」、つまりあるべしと推量の戸数であり、邪馬台国も「可七万余戸」と表現を変えている。可は副詞で「ばかり」と曖昧さのある語である。

 

 可が使われている部分は、使者が実測したものではなく、倭人から聞いた距離や戸数をそのまま書き記したか、あるいは耳にした情報を基に推測したかのどちらかだから、「有」と断定できなかったのだろう。おおよその意味で使われる「ばかり」は「許り」と表現され、「可」とは明確に区別されている。

 可が使われている部分が推量だとしたら、対馬国や一大国で「方」を実測してはおらず、現地の島人の説明を鵜呑みにしたのに違いない。

 同じことが、国々の戸数にも言える。投馬国の「五万戸」、邪馬台国の「七万戸」は「可」で表現されており、倭人から聞いた伝聞を基に推測が記録されていると考えられる。両国とも使者が実際に見聞きして戸数を調べたのではない。

 投馬国や邪馬台国に比べ、対馬国から伊都国までの国々は、国情が詳細に描写されている。実際にその地に足を踏み入れたからにほかならない。奴国、不弥国は戸数を「有」と断定しているが、ほかの描写はわずかである。「有」と書かれているから現地には赴いたのだろうが、国情を詳細に把握するほどの時間は与えられなかったに違いない。

 さて、一戸の人数を平均五人(当時はもっと多かったと思われる)として、投馬国の五万戸は二十五万人、邪馬台国の七万戸は三十五万人となる。人口三十五万人の国家となれば、今で言えば政令指定都市に相当する。投馬国の人口二十五万人にしても大国家である。三世紀にそれほどの巨大国家が、はたして存在したのだろうか。

 ほかの国と比べると、末慮国は四千余戸、伊都国は千余戸、奴国は二万余戸、不弥国は千余戸で、投馬国と邪馬台国は桁外れに大きい。

 投馬国五万戸、邪馬台国七万戸は、魏の使者というより、陳寿によって誇張された戸数なのではないか。魏の使者がわざわざ訪れる邪馬台国は、大国でなければならないから、戸数七万戸の巨大国家ということになったのだろう。

 可が推量で使われていることを明確に示すのが、「船行すること一年にして至る可し」と「倭の地を参問するに(中略)周旋五千余里可りなり」という部分だろう。魏の使者は、もちろん一年かけて裸国や黒歯国を訪ねてもいないし、倭の地の周りを廻ってもいない。すべて「参問」、つまり参考のために質問し聞いたことだと正直に記している。

 可の文字が推量であることは確実だが、となると、魏の使者は投馬国や邪馬台国まで、実際に行ったのかという疑問が出てくる。

 それを裏付けるように、魏志倭人伝は伊都国について記した部分で「郡使往来するに、常に駐(とど)まる所なり」と、伊都国に常駐したことを明確に記録している。

 魏の使者は倭国へ来ると伊都国に留まり、「戸有」という表現から、日帰りできる奴国や不弥国へ行くことはあったが、「可」と記録された投馬国や邪馬台国へは、実際には行くことがなかったのである。

 伊都国には魏の使者が常駐し、邪馬台国がほかの国々を監察するため派遣した一大率(だいそつ)もいる。倭国の諸国は一大率を恐れ、さらに一大率は魏と倭国を行き来する使者を港で臨検していた。このように、伊都国は重要な国であるにもかかわらず、ほかの国に比べて人口が少ないのはなぜなのか。

 魏の使者は友好使節団だとしても、倭国の国情を偵察に来たスパイでもある。そんな危険な使者を、倭国の中枢部まで案内しただろうかという疑問が起きる。だから、伊都国に倭国の監察と魏の使者を臨検する一大率を置いて特別行政地区とし、魏の死者にはそこから他国への訪問を禁じた。江戸時代にオランダ商館があった長崎の出島と同じ発想だったのではないだろうか。

 したがって、「水行二十日、五万戸」や「水行十日陸行一月、七万戸」という言葉は、「参問」して推測して書いたということになる。推測というより、ある意図を持って記載したというほうがいいかもしれない。

 魏志倭人伝の最初の部分に、中華思想により倭国は南方の遠隔地というニュアンスがこめられ、「会稽の東冶の東」にあると書かれていた。この大前提にしたがい邪馬台国の位置を記すとすると、「水行二十日」と「水行十日陸行一月」で「会稽の東冶の東」に合致すると考えたのであろう。

 伝聞と推測、さらに中華思想が入り混じって邪馬台国の位置を示しているのだから、距離や方角をどう検討しても、正確な場所がわかるはずがない。魏志倭人伝からは、邪馬台国は不弥国の南ということしか読み取ることができないのである。

 では、九州なのか近畿なのかの議論にどう答えるかだが、魏志倭人伝を素直に読めば明確である。邪馬台国卑弥呼論争が長期間にわたって混乱してきたのは、最初から九州山門(やまと)にあるとか、近畿の大和地方にあるという前提を基に、邪馬台国の場所を求めたからにほかならない。そして、倭という文字を「やまと」と読んでいいのかという疑問もある。

 魏志倭人伝には、女王国の東、海を渡って千里のところに国があり、すべて倭種であると記載されている。海を渡るとは、海岸にそって航行するのではなく、文字通り渡海することである。

 魏志倭人伝帯方郡から狗邪韓国まで海岸に沿って水行と記したあと、始めて海を渡って対馬国に着き、さらに渡海して一大国、末慮国へ至っている。海岸に沿った水行(川を遡るのも水行)と、渡海とを明確に区別している。

 不弥国から投馬国、女王国まで水行だから、海は渡っていない。九州から大和へ行くには海を渡らなければならない。つまり女王国は、到着した地域から渡海していないのだから、具体的な場所はともかく、九州以外にあるはずがない。そして、海を渡って千里にある倭種の国が大和ということになる。

 邪馬台国が九州、それも海岸や川に近いところにあることを示す表現が、魏志倭人伝にある。

 

男子は大小と無く、皆鯨面(げいめん)文身(ぶんしん)す。(中略)今、倭の水人、沈没して魚蛤(ぎょかう)を捕らふるを好む。文身するも亦(ま)た以って大魚水禽(すいきん)を厭(おさ)へんとすればなり。後に稍(やうや)く以って飾りと為す。諸国の文身は各々異なり、或いは左に或いは右に、或いは大に或いは小に、尊卑差有り。(訳 倭国の男子は大人も子供も顔や体に入れ墨をして、水にもぐって魚や蛤を取っていた。入れ墨をするのは巨大な魚や鳥などからの害を避けるためだったが、後に飾りになり、身分によって差ができた)

 魏志倭人伝の時代、海岸沿いの倭国の国々の男たちは、こぞって入れ墨をしていたのだろう。魚蛤を捕らえるとあるように、入れ墨をするのは温暖な地域に住む海洋族の習性だった。

 ところで、儒教の経典である「礼記(らいき)」には、東方に住んでいる者を夷(い)といい、身体に入れ墨をする、南方を蛮といい、額に入れ墨をするとある。魏志倭人伝礼記を典拠としており、鯨面文身は東夷と南蛮の習俗を兼ねた表現になっている。

 渡邉(わたなべ)義浩(よしひろ)氏によれば、「倭人は、中国の東南にいる。したがって、顔面(南)と身体(東)の両方に入れ墨をしているべきである。これが儒教の理念であり、『三国志』に著された時代の世界観であった」(魏志倭人伝の謎を解く 中央新書)。つまり、陳寿は事実を事実として書いているのではなく、帯方郡の東南にいる倭人は、顔と体の両方に入れ墨がなければならないという思想によっていることがわかる。

 ところで、古事記には神武天皇が皇后を選定するとき、使者に立った大久米(おおくめ)命の顔の入れ墨に、皇后となる伊須気余理比売(いすけよりひめ)が不審を覚え、「など鯨(さ)ける利目(とめ)」と詠って聞いたという問答がある。

 ここから、大和に住んでいた伊須気余理比売にとって、入れ墨は見たことがない不審なものだったことがわかる。大久米命は海人族だから入れ墨をしていたのだろうが、神武天皇やほかの人々には入れ墨はないから、大久米命の「鯨ける利目」が強調されたのであろう。

 大和地方は海洋国ではないから入れ墨の習慣はなかった。後に装飾として入れ墨が登場しても、罪人や特殊な職業の人物(馬曳き、力士、武人)に限られた。

 これらから、男子全員が鯨面文身していたのは、大和国家ではあり得ないことになる。となると、九州の玄界灘に面する国々が倭国となる。

 では、邪馬台国はどこかだが、具体的な場所を特定することは難しい。だが、帯方郡から邪馬台国まで一万二千里とあり、道程を計算すると、帯方郡から奴国までは一万六百里、不弥国まで一万七百里である。

 不弥国が魏の使者が足を踏み入れることができる限界だったと思われる。その不弥国を基点として邪馬台国へ向うとしよう。帯方郡から邪馬台国までの一万二千里から、不弥国までの一万七百里を引くと千三百里。一里四〇メートルとして約五〇キロメートル、一里七〇メートルとして約九〇キロメートルとなる。

 奴国からだと邪馬台国まで一万二千里引く一万六百里で千四百里、五六~一〇〇キロメートルとなる。

 末慮国は唐津、伊都国は糸島市、奴国は福岡市とほぼ特定されているが、不弥国は不明である。博多港から東へ少し行くと宇美川があり、ウミをフミと聞いた可能性はある。

 宇美川河口から五〇~七〇キロメートル、あるいは福岡市から五六~一〇〇キロメートルの円をそれぞれ書いた範囲に邪馬台国があることになる。不弥国から南という方角を信用すると、邪馬台国の位置は福岡県の内陸部、いまの八女市筑後市柳川市あたりになろうか。九州説の山門郡も有力な候補地になる。

 方角を考慮しないと、九州の東海岸の福岡県豊前市大分県宇佐市などが候補に上がる。

 魏志倭人伝邪馬台国の南に、対立して戦争となった狗奴国があると記している。狗奴国は熊本の熊で、熊襲にも通じる。

 また、魏志倭人伝は狗奴国に狗古智卑狗という官がいると記している。狗奴国の豪族の一人だろう。熊本県島原湾岸には菊池平野があり、福岡県へ向かって菊池川が流れている。狗古智卑狗を地方豪族の菊池彦とすれば、魏志倭人伝の記載そのものとなる。

 さて、もう一つの考え方は、対馬壱岐の「方」を計算入れるものである。半島南部から九州は南東にあたる。対馬壱岐を経るには島を半周することになる。対馬は「方」400里、壱岐は300里だったからそれぞれ半周すれば800里と600里、合計で1400里になる。つまり余りの1400里はなくなり、邪馬台国は奴国ということになる。

 倭人の代表である邪馬台国と、熊本以南の狗奴国=熊襲が戦ったというのが、魏志倭人伝の記録だろう。つまり、玄界灘に面した末慮国や奴国などの海岸諸国から、福岡県内陸部や有明海沿岸の邪馬台国、さらに南の狗奴国の物語が魏志倭人伝なのである。

 魏志倭人伝は改行や句読点がなく、漢字がズラズラ並ぶばかりで、実は明確に読みくだすことが難しい。例えば水行20日の投馬国は、伊都国から発して20日としているのか、それともほかに起点があるのか。邪馬台国は投馬国を起点にしているのか違うのか

 伊都国を起点とすれば投馬国も邪馬台国もはるか南方となるが、それでは陳寿のまやかしにまんまとはまるだけである。

 投馬国や邪馬台国の起点をそもそもの帯方群とすれば、一気に問題は解決する。郡から三千里で松浦国に着くから、それが水行10日とすると、郡から20日の水行では九州南部に到着する。南部、すなわち薩摩半島あたりで、「サツマ」という国名を使者が「ツマ」と聞いた可能性がある。

 問題は渡海しているのに水行と記していることだろう。

 松浦国から伊都国まで陸行1月とすると時間がかかりすぎている感じだが、国々で歓迎され国情を調査しての旅ならうなずける。

さて、卑弥呼とは誰なのか。記紀の誰かに相当するのだろうか。

 ここで注意しなければならないのは、古代、名前を知られれば身も心も支配されると考え、名前は極秘だったことである。

 万葉集最初の雄略天皇の求婚の歌は、乙女に向かって「名ら宣(の)らさね」と名前を問うている。名前を答えれば求婚を受け入れることになり、身も心も雄略天皇に委ねるという意味になる。

 このように、古代、名前は秘すべき大切なもので、海外の使者に伝えるものではないし、民が口にするものでもなかった。だから、卑弥呼も壱与(豊与)も、個人の名前ではなく、通称ということになる。

 古代は通称に地名を付けることが多かった。卑弥呼は古代の発音では.ピムカ、壱与はイヨ、豊与はトヨと呼ばれでいたと思われる。

 ピムカは漢字にすれば日の当たる場所である日向国、イヨは伊予国、トヨは豊国とそれぞれ地名であろう。

 卑弥呼を神に仕える「日の御子」とする解釈もあるが、それなら次のぷぷ壱与も「日の御子」で、壱与としているのは無理がある。

 卑弥呼は偉大なシャーマンとして倭国=九州北部に君臨していた。おそらく第12代景行天皇時代の人物で、狗奴国=熊襲との戦い間に帰幽した。女王国は景行天皇熊襲征討の際に崩壊した。

 倭国は北部九州の部族連合で、魏の使者が倭人の「我の国」という言葉を「倭国」という固有名詞ととらえ、さらに大和朝廷のヤマトという言葉を誤って倭国と同一視し、邪馬台国と名付けた。倭という漢字はどう読んでもヤマトとは読めず、誤解のまま倭国の部族連合の国名になったのが真相ではないか。

 邪馬台国論争は、魏が女王卑弥呼に贈ったとされる金印や、倭の使者に与えた銀印が発見されなければ、決着がつくことはないだろう。仮に発見されたとしても、奴国の金印のように偽造だと疑われ、果てしない論争が続くのは確実である。

邪馬台国女王卑弥呼は歴史のロマンとして、そっとしておくのがいいかもしれない。

巻の三前編 実在した神武天皇と神功皇后

 

ヒ 神武東征は歴史的事実

 日本書紀に記載されていることは、朝廷の権威を高めるための創作で虚構である。百歳を超える長命の天皇が何人もいるのは、朝廷の歴史を長くみせるためのでっち上げで、欠史八代天皇は存在せず、神武天皇神功皇后は架空の人物である。

 こうした、日本の歴史を陥れる、批判というより悪意ある中傷が、いまだに大手を振って世間を闊歩している。われわれの先祖は嘘を承知で、歴史書だと偽って日本書紀を創ったと、これらの批判者は心底から信じているのだろうか。

 朝廷の歴史を長く見せかけるなら、天皇の宝算を百歳超にするより、常識的な寿命の天皇の数を増やすほうが、はるかに信憑性が高まる。名前などいくらでも創作できるのだから、異常な長命にして疑いを招く愚を冒す必要はない。

 それとも批判者たちは、そんな単純なことにも気がつかないほど、日本書紀の選録者たちが無能だったと、考えているのだろうか。もしそうなら、彼らも無能な祖先の血を受け継ぎ、無能ゆえの批判をしていることになるのだが……。

 思考が停止すると、子供でもわかる論理が理解できなくなるのは、これらの例からでも明らかである。

 神武天皇は実在したのか。神武東征はあったのか。神功皇后は創作された人物なのか。

 特定のイデオロギーの持ち主たちは、記紀に記載されているこうした物語のすべてを虚構だと否定するが、先入観に毒されていると、事実を発見しても事実だと判断できなくなることを忘れてはならない。

 延長された紀年に惑わされず、特定の先入観を持たずに記紀を分析すれば、古代の真実は明確に見えてくる。

 なぜなら、皇紀や紀年と海外史料との比較だけでは明確にならなかった歴史的事実が、西暦(キリスト紀元)という第三者的な暦の普及で、客観的に判断することができるようになったからである。

 江戸時代はもちろん、明治、大正、敗戦前の昭和時代を通じて、一部の学者を除き西暦はほとんど使われてこなかった。敗戦によってGHQに西暦を押し付けられたが、それが第三の物差となって、歴史に新しい光を射し込んだのは不幸中の幸いといえよう。

 戦後に記紀批判が一斉に吹き荒れたのは、日本弱体化を狙ったGHQの占領政策によるものだが、西暦によって皇紀と海外史料との年代比較ができるようになったことは皮肉なものである。

 そして、敗戦直後から最近まで、西暦による皇紀と海外史料の分析は、自虐史観が底流にあったため、日本を貶める方向に走るばかりだった。

 だが、思考停止が弱まるにつれ、歴史的事実を客観的に捉えることができるようになってきた。那珂通世や津田左右吉史料批判も、思考停止が解けた目で見れば、また違ったものになる。

 六百年の紀年延長がなされていることで、神武元年は紀元前六〇年前後と推測できた。では、神武東征はあったのだろうか。

 東征したのは邪馬台国だとか、いやその前身国だとか、これもさまざまな議論がなされている。金印が見つかった倭の奴国や吉備国などというのならともかく、朝鮮半島や中国大陸から侵攻してきた外来民族などという、根拠のない奇想天外なものまである。これではあまりにもトンデモ説である。

 外来民族が大和を制圧したのなら、外来語も大和を制圧していなければならない。大陸や半島の言葉と、大和の言葉が同じであるべきだが、まったく共通点はない。これだけでも、外来民族の東征論が架空の産物であることがわかる。

 さて、神武東征を考えるにあたり、神武勢が難波から川を遡り、長髄彦(ながすねびこ)と遭遇するまでの日本書紀の記述をまず参照しよう。

 

 難波碕(なにわのみさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会(あ)ひぬ。名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。亦(また)浪花(なみはな)と曰(い)ふ。今、難波(なには)と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。遡流而(かはよりさか)上(のぼ)りて、径(ただ)に河内国(かふちのくに)の香草邑(くさかのむら)の青雲(あをくも)の白肩之津(しらかたのつ)に至ります。

 

 難波の碕に到着するとき、速い潮流があって、大変速く着いた。名づけて浪速国とした。今、難波(なにわ)というのは訛ったためである。川を遡って、河内国の香草村(日下村)の青雲の白肩之津に着いた、というのである。

 ここで注意しなければならないのは、「潮流」と「川を遡る」という二点である。潮流は海で起こるもので、川を遡るのは文字通り川の流れに逆らって上るのである。

 現在、難波は大阪市の内陸部にあり、日本書紀が選録された天武天皇時代も陸地だった。そこへ潮流に乗って速く着いたというのは海だったことを示しているが、当時の人はとても想像することはできなかっただろう。それでも潮流のことを記したのは、日本書紀の選録者が史料や伝承に忠実に従ったからにほかならない。

 選録者たちは生きている時代と地形が違うからといって、もっともらしく書き直すことはしなかったのである。

 では、神武天皇の東征時、大阪の内陸部は本当に海だったのだろうか。ここでは、神武天皇が橿原で即位した年代を、先に試算した紀元前六〇年前後として検討する。

 国土交通省の大阪湾環境データベースをみてみよう。

 

古代の大阪湾は、大阪平野の奥深くまで入り込み、東は生駒山西麓にいたる広大な河内湾が広がり、上町台地が半島のように突き出ており現在とは大きく趣が異なる地形だった。

この上町台地北側の砂州はその後も北へ伸び、縄文時代中期には潟の部分の淡水化が進んでゆき、弥生時代には大きな湖ができあがった。そして、古墳時代に入り、この湖は人間の手によって大きく変貌した。

 

 大阪湾環境データベースによると、今から七千~六千年前、大阪平野の奥、生駒山の麓まで、河内湾が広がっていたというのである。そして、河川が土砂を運び堆積させる沖積作用によって、三千~二千年前には河内潟ができ、千八百~千六百年前には潟の淡水化が進み、上町台地砂州が北へ伸びて潟を閉じ河内湖となった。

 仁徳天皇が行った堀江の開削は、潟が湖となって頻発する洪水を防止するためだった。そして、湖は埋め立てられていき、現在の大阪平野となったのが、大阪湾と大阪平野の歴史である。

 日本書紀の選録が始まった天武天皇時代はすでに平野になっていた。当時の人々は、そこが潟や湾だったことを、言い伝えで知っていたかもしれないが、実感はなかっただろう。ましてや、湾口に速い潮流があったことなど、思いも寄らなかったに違いない。

 さて、神武天皇の軍船は、潮流によって難波まで大変に速く着いた。湾口部は潮の満ち干によって速い潮流ができる。軍船は満潮に乗って思いがけない速さで難波に着いたのである。

 大阪湾の時代、海は生駒山の麓まで続いていたから、現在の日下まで海上を船で行けた。日本書紀にあるように、川を遡る必要はなかった。したがって、神武東征は河内湾の時代ではないことになる。

 一方、河内湖の時代になると、上町台地が北へ一段と伸び、大阪湾と河内湖を隔てているので、船で乗り入れることはできなくなっていた。

 神武東征の描写を信じるなら、それは河内潟の時代となり、三千~二千年前の出来事となる。

 大阪湾環境データベースは市原実氏と梶山彦太郎氏の論文によっており、二千年前というのは炭素14年代測定法の基準年となる一九五〇年からのことで、河内潟の時代は西暦紀元前一〇五〇年~同五〇年となる。したがって、神武東征は河内潟がある時代、誤差があるとしても、紀元前五〇年前後までには行われていることになる。

 速い潮流があったとか、川を遡ったという描写は、実際に経験した者でなければ記せない。河内湾が平野になった時代に、想像で描くことはまず無理である。これからだけでも、神武東征軍が難波から川を遡り、日下へ向けて進んだことが、実際の経験の伝承として残っていたことを物語っている。

 東征が行われたのが河内潟の時代だったことを念頭に、九州のどの勢力が進出したのかを考えよう。まず金印が与えられたといわれる奴国だが、後漢光武帝建武中元二年、西暦五七年に金印を下賜したとあり、奴国が東征するのには河内潟の時代より百年ばかり遅いことになる。もっとも、もっと古い時代に奴国が存在したとすれば、河内潟の時代に合致することはできる。

 邪馬台国はどうかといえば、魏志倭人伝にあるように、存在したのは三世紀初めから半ばにかけてだから、すでに河内湖が出来上がっており、河内潟の時代とは年代がまったく合わない。前邪馬台国とでもいうものが紀元前に存在していたと仮定すればあり得るが、「もともと百余国」(魏志倭人伝)に分かれていた倭国が、東征するほどの力を保有していたと考えるのは無理である。

 外来民族が東征した可能性はあるのだろうか。弥生文化をもたらしたのは彼らだという「定説」に従えば、弥生時代は紀元前三〇〇年頃からだから、年代的には河内潟の時代となる。しかし、前にも詳述したように、渡来人が弥生文化を日本に持ち込んだのではないから、これも的外れである。

 河内潟の時代に東征できた勢力は、日本書紀が明確に名前を記している神日本磐余彦天皇、実名は彦火火出見(ひこほほでみ)であった。日本書紀の一書では幼名を狭野(さの)尊とし、東征後に神日本磐余彦彦火火出見尊と名を加えたとある。

 古事記は神倭伊波禮毘古命の別名を若御毛沼(わかみけぬ)命、豊御毛沼命と記しており、幼名若御毛沼命が東征して大和を平定し、その土地の地名にちなんで日本書紀古事記ともイワレと名前に付けたのである。

 古代は言霊信仰で実名を呼ばれると支配されると考えられており、公にすることはなかった。だから、地名に美称や尊称を付けて名前とした。その典型的な名前の「カムヤマトイワレビコ」が資料の異なる記紀で一致しているのだから、実在したと考えていいだろう。

 古事記も神武東征を迫力ある筆致で描写しており、日本書紀古事記がそろって描く東征伝承を、虚構とすべきではない。

 ところで、神武東征を史実と考える物的な証拠として、滝川政次郎は「神武天皇紀元論」 (立花書房)で次のように述べている。

 

 神武天皇磯城の兄磯城、弟磯城、添の居勢祝、猪祝、宇陀の兄猪、弟猪、生駒の長髄彦等の大和の土豪等と戦つたいはゆる「聖蹟」が、例外なく昔あつた大和盆地湖の沿岸にあることである。大和平野を中心に五〇米等高線をつなげば、一世紀頃の盆地湖の形は略想見せられるが、「聖蹟」はすべて五〇米等高線の外にあり、且つその附近には必ず弥生式遺跡があつて、その地が古くから聚落のあつた場所であることが知られる。神武天皇紀が、津田史学の徒がいふ如く、飛鳥時代に作られたものであるとするならば、「聖蹟」の中に一つや二つは、飛鳥時代には既に陸地となってゐた大和平野中央部の地名が交じつてゐなければならない。従って、「聖蹟」が例外なく山添ひの高みにあることは、神武天皇紀の伝へが非常に古いものの証拠である。

 

 大和平野中央部には神武天皇が戦った「聖蹟」がなく、五〇メートル等高線の外、つまりすべてが上にあるということは、東征は盆地湖の水位がもっと高かった時代となる。

 それがどの時代だったかといえば、「大和に於ける、縄文式土器の分布を見ると、こゝに最も注意しなければならないことは、その出土地はいづれも標高七〇米線の上、叉はそれよりも高い山岳丘陵上であって、七〇米線以下の低湿平原からは発見されないことである」(神武天皇紀元論 樋口清之)から、縄文土器から五〇米線の弥生土器へと移り変わる寸前だったと考えられる。

 そして、「大和地方前期縄文式土器の分布が、吉野川渓谷から、宇陀に出、宇陀から三輪に止まってゐる点は、あたかも神武天皇入国説話と偶然にも一致してゐる」(同)ことから、神武東征の道筋は、日本書紀の選録者が勝手に創作したのではなく、伝承に基づいて記録したことがわかる。

 このように神武東征は、考古学や地理学の事実と一致し、架空の物語でないことは明らかである。日向から海沿いに北上し、大分県の宇佐から福岡県遠賀川河口付近の岡水宮へ着き、そこから東へ向けて出発し広島県の安芸、さらに岡山県の吉備などで勢力を蓄え、海路はるばる難波に着き、地元豪族の抵抗を退けて橿原で建国したのは、間違いのない事実と考えなくてはならない。

 これだけの証拠がありながら、神武東征は架空の出来事で、神武天皇は存在しなかったと、神話を全面否定する人々がいる。

 神武天皇が実在し、東征が事実であっては都合の悪いことがあるのだろうか。

 多くの否定論者は、実在した天皇崇神天皇からで、開化天皇以前は朝廷の歴史を長く見せるための創作だと主張する。

 だが、考えてもらいたい。記紀が成立した当時、大和朝廷の力は他の豪族に比べ歴然とした差があり、わざわざ創作してまで天皇の歴史を長くする必要はなかった。

 百歩譲って創作だとしよう。天皇の歴史を長くするためなら、神武天皇の前には邇邇藝尊、彦火火出見(ほほでみ)尊、鵜草葺不合尊が存在するから、三柱を神話の神々とはしないで歴史上の人物とすればよかった。

 神武東征否定論者たちが主張しているのは、否定するための否定でしかないことは明らかである。

 

フ 神功皇后と倭女王

 

 神武天皇と同様に伝説上の人物とされているのが神功皇后である。

 日本書紀巻九は神功皇后が摂政を務めたのは六十九年と記載している。時代が下れば何人もの女性天皇が誕生し、神功皇后は十分にその資格を持っていたのに、摂政にとどまったのはなぜかというのが疑問の一つである。

 もう一つの興味深い疑問は、古代の祭殿遺跡が発見されるたびに、邪馬台国の跡ではないかと騒がれ、大きな話題となる倭の女王卑弥呼と、神功皇后が同一人物なのかどうかである。

 日本書紀の執筆者が、海外史料を読み込んでいたのは明らかで、神功摂政紀には魏志倭人伝や「晋(しん)書」の「起居注」(中国皇帝の起居・動作を日記風に記録したもの)、百済本紀などからたびたび引用されている。

 その中で、倭女王についての引用を次に箇条書きに記す。いずれも小文字で分注と考えられるが、表示年は普通文字で正文がないため、本来はあった正文が欠如したのか、あるいは正文が小文字で写され分注となったのかは判然としない。ここでは、現代に伝わる日本書紀の表記に基づいて分注として扱う。

 

神功摂政三十九年。魏志に云(い)はく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の三年の六月、倭(わ)の女王(ぢょおう)、大夫(たいふ)難斗米等(ら)を遣(つかは)して、郡(こほり)に詣(いた)りて、天子に詣(いた)らむことを求めて朝献(てうけん)す。太守(たいしゅ)鄧夏、吏(り)を遣わして将(ゐ)て送りて、京都(けいと)に詣(いた)らしむ。

四十年。魏志に云はく、正始(せいし)の元年に建(けん)忠(ちう)校(かう)尉(ゐ)梯(てい)携(けい)等(ら)を遣(つかは)して、詔書(しょうしょ)印綬(いんじゅ)を奉(たてまつ)りて、倭(わの)国(くに)に詣(いた)らしむ。

四十三年。魏志に云はく、正始(せいし)の四年、倭王、復(また)使(つかひ)大夫(たいふ)伊声者掖耶約等(ら)八人を遣(つかは)して上献(しょうけん)す。

六十六年。是年(ことし)、晋(しん)の武帝(ぶてい)の泰初(たいしょ)の二年なり。晋の起居(ききょ)の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳(おさ)を重(かさ)ねて貢献(こうけん)せしむといふ。

 

 神功摂政三十九年は景初三年で西暦二三九年、四十年は正始元年で二四〇年、四十三年は正始四年で二四三年、六十六年は泰初二年で二六六年、計算すると神功摂政元年は二〇一年、末年の六十九年は二六九年となる。

 神功摂政紀には、海外史料と照らし合わせられる記述がほかにもある。

 

神功摂政五十五年。百済の肖古王(せいこわう)薨(みう)せぬ 

五十六年。百済の王子貴須(せしむくゐす)、立ちて王(こきし)と為(な)る。

六十四年。百済国の貴須王薨(みまか)りぬ。王子枕流王(とむるおう)、立ちて王と為る。

六十五年。百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(あか)王年少(としわか)し。叔父(おとおぢ)辰斯(しんし)、奪(うば)ひて立ちて王と為る。

 

 百済本紀によれば、近肖古王(肖古王)の在位は三四六~三七五年で、崩年は三七五年。近仇首王(貴須王)の在位は三七五~三八四年で、即位年は三七五年。日本書紀は貴須王の即位年を肖古王の崩年の翌年にしているが、前王の崩年を即位年とする当年称元法を採用したか、翌年を即位年とする越年称元法を採用したかの違いによるものだろう。

 貴須王の崩年と枕流王の即位年は三八四年で、神功摂政六十四年。枕流王の崩年は翌年の三八五年で、神功摂政六十五年となる。

これらから、神功摂政元年は三二一年、末年は三八九年と計算できる。

つまり、神功摂政元年は西暦二〇一年と三二一年、末年は二六九年と三八九年の二通りがあることになる。神功元年と末年のそれぞれの年を比較すると、元年は三二一年引く二〇一年で百二十年、末年は三八九年引く二六九年で百二十年の差がある。神功摂政元年を二〇一年とし、末年を三八九年とすると差は百八十九年。神功摂政は六十九年だから、百二十年分が加えられていることになる。

 一方、雄略五年と応神元年の間の実年は七十二年だったが、紀年は百九十二年経っており、百二十年分が短くなっている。逆に神功摂政紀は百二十年延長されており、短くなった百二十年が相殺されている。

 神功摂政紀で紀年延長がなされているとは本居宣長が指摘したことだが、倉西氏は百二十年の紀年が増減され相殺されていることを発見した。

 さて、神功皇后卑弥呼が同一人物であるかどうかを検討しよう。神功摂政末年を応神元年の前年の三八九年とすると、卑弥呼とは時代が異なるから、明らかに別人となる。

 では、神功摂政元年を二〇一年、末年を二六九年とした場合、年代的には合致するが、同一人物といえるかどうかである。

 卑弥呼が初めて登場する魏志倭人伝を参照しよう。

 魏志倭人伝によると、以前から邪馬台国の南にある狗奴(くな)国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)と不和だった卑弥呼は、正始八年に戦争となり、魏から黄幢(こうどう)(黄色の旗)と檄文がもたらされた。戦争が原因かどうかはわからないが「卑弥呼以死、大作冡」とあり、卑弥呼は亡くなり、大きな墓を作ったことになっている。その後、男王が即位したが国はまとまらず、卑弥呼の宗女の壱与(豊与)が十三歳で女王になった。

 卑弥呼の死が正始八年だとすれば、二四七年のことである。となると、神功摂政六十六年、泰初二年の二六六年に遣いを晋に送った倭女王は壱与となる。神功摂政は六十九年、二六九年まであるから、卑弥呼が死に壱与が女王になったとき、神功皇后は生存していたことになる。

 神功皇后卑弥呼と壱与の二人になることは不可能だから、倭女王は神功皇后とは別人という結論が導きだせる。

 もっとも、日本書紀には倭女王とあるだけで名前が記されていないから、編纂者が誤解して神功皇后に比定したとか、卑弥呼と壱与の二人と知っていながら、倭女王であるなら朝廷に存在する人物でなければならないと、あえて神功皇后に比定したなどの反論がでてこよう。

 しかし、日本書紀の編纂者は中国の文献に精通していたはずだから誤解することはあり得ないし、神功皇后に比定するなら、日本書紀の書き方から推測して、皇后が遣いを送ったという主体的な書き方になるはずである。

 倭女王に関する条はいずれも海外文献からの引用である。ほかの海外文献の引用はすべて分注扱いだから、年が正文(普通の文字の大きさ)で書かれていても、分注にほかならない。中国の文献に倭女王についての記事があるから、とりあえず引用しておこうという、伝聞扱いの編纂をしている。

 後世に倭女王と神功皇后を混同する研究者が現れたのは、中国と外交交渉を持ったのは大和朝廷という思い込みがあり、さらに「女王」とあるから朝廷の王という先入観が、卑弥呼神功皇后に比定することになったのであろう。

 神功皇后卑弥呼を混同する原因になったのは、応神元年と雄略五年の間の紀年が、実年より百二十年延長されているため、その分を遡らせた結果、神功摂政元年が二〇一年になった。そして卑弥呼の記事が魏志倭人伝に載っていたので、分注として引用したところ、後世に混同したというのが本当のところだろう。

 魏志倭人伝にある西暦二三九~二六六年の卑弥呼の時代が、B列による日本書紀の年代列でほかの天皇の御世となっていたら、そこに倭女王の記事が記載されたに違いない。神功皇后卑弥呼の混同は、百二十年という期間が過去へ遡ったため偶然に起きたいたずらである。

 神功皇后卑弥呼はまったく異なる人物にほかならない。

 さて、神功皇后摂政紀が六十九年と六十年を超え、薨去年齢は百歳となっており、紀年延長がなされていると考え一元六十年をそれぞれから引くと、摂政期間は九年、薨去年齢四十歳となる。

 日本書紀仲哀天皇在位を九年としているが、那珂説によると成務天皇崩御年は三五五年、仲哀天皇崩御は三六二年だから、仲哀天皇の在位は七年となる。

 仲哀天皇崩御年から神功末年の三八九年まで二十七年で、これが六十九年とされている神功皇后の摂政期間に相当する。

 神功皇后が三八九年に四十歳で薨去したとすると誕生は三四九年、仲哀末年の三六二年には十三歳、十分に出産できる年齢である。

 応神天皇の宝算は百十歳だから、一元六十年が加算されているとして、宝算を五十歳とする。宝算から日本書紀の在位期間四十一年を引くと九年で、一元を引いた神功摂政期間の九年と一致する。この場合、応神天皇が九歳で即位するまで、天皇不在のまま神功皇后が摂政を務め、その後は応神天皇を補佐したことになる。応神天皇が三七一年に九歳で即位したとすると、神功皇后薨去年三八九年には二十七歳、それまでの在位期間は十八年となる。

 これらから推測すると、仲哀天皇崩御直後は神功皇后が摂政を務め、新羅制圧による朝鮮半島情勢の収拾や、異母兄らの謀反制圧を終えると応神天皇が即位し、神功皇后が末年まで補佐したと考えられる。

 古事記日本書紀と違って神功摂政紀を立てていないのは、摂政期間が仲哀天皇応神天皇の治世に含まれていると考えたからだろう。それに対し日本書紀は、神功皇后が神憑り能力に優れていたから、祭祀を司るのは天皇に準じると考えて神功摂政紀を立てたのではないか。そして、ほかの天皇崩御と即位に倣い、神功皇后薨去した三八九年の翌年三九〇年を応神元年としたのではないか。

 一方、那珂説の応神末年三九四年にも問題がある。応神元年を三九〇年、崩御年を三九四年とすると、在位は五年となる。だが、日本書紀は応神八年に百済の王子直支の来日を、十六年には百済の阿花王の死去をそれぞれ伝えている。百済本紀によれば、直支王子が人質として訪日した年を三九七年、阿華王の崩年を四〇五年としている。いずれも応神元年が三九〇年となる根拠の出来事でもあり、百済本紀の記載を優先すれば、応神朝は少なくとも十六年まで続いたことになる。

 雄略五年から応神元年、神功摂政紀にかけて、実に複雑な操作が行われており、どれが正しいと後世の人間が結論することは不可能である。この期間は、断片的に残されたさまざまな史料と、讖緯説とを整合させる最も難しい場面だったのではないか。いうなれば、史料に基づいた歴史と、讖緯説により創作した神武紀元をどう融合するか、選録者たちを苦しめた期間だったと考えられる。

 さて、神功摂政紀は半島情勢の緊迫化を受けて、百済新羅にからむ記事が多く記載されている。神功摂政四十六年に百済の肖古王が日本と交流を望んだという記事があり、翌年の四十七年には百済王が久氐(くてい)ら三人の使者を送って朝貢した。この時、新羅の使いが一緒に来て、百済の貢物を奪い、新羅の貢と偽ったことが判明したことから、四十九年(西暦三六九年)に新羅を征伐した。

 この戦勝に感謝した百済が、日本へ使者を送った記事が次である。

 

五十二年の秋九月(ながつき)の丁(ひのと)卯(う)の朔(ついたち)丙子(ひのえね)に、久氐(くてい)等(ら)、千熊(ちくま)長彦(ながひこ)に従(したが)ひて詣(まうけ)り。則(すなわち)ち七枝刀(ななつさやのたち)一口(ひとつ)・七子(ななつこの)鏡(かがみ)一面(ひとつ)、及び種種(くさぐさ)の重宝(たから)を献(たてまつ)る。

 

 久氐らが七枝刀と七子鏡、さまざまな宝を献じたと記録されている。七枝刀は石上神宮に伝わる国宝で、金象嵌で「泰和四年」と文字が刻まれており、東晋の大和四年(三六九年)と考えられている。

これらから、新羅征伐に感謝した百済が、征伐年の泰和四年、すなわち三六九年に七枝刀を製造し、三年後の神功摂政五十二年、三七二年に朝貢したことがわかる。

 百済本紀には近肖古王(在位三四六~三七五年)、近仇首王(同三七五~三八四年)、枕流王(同三八四~三八五年)、辰斯王(三八五~三九二年)の即位年と末年が記されている。

 百済本紀と神功摂政紀の二つの記録は一致しており、歴史的事実だったことが確認できる。

 七枝刀が奉献された事実や、百済王の即位などの記事の一致は、神功皇后が実在したことを明確に示している。

 不思議に思うのは、神功皇后架空説の論者は、応神天皇の母親は誰だったと考えているのかということである。母親なくして子供が生まれないのは、大人なら誰だって知っている。応神天皇の母親が神功皇后でないというなら、実際の母親を特定するのが学問ではないだろうか。そうした裏づけもなく存在を否定するだけでは、それこそ根拠のない想像になり、科学的姿勢とはほど遠いものである。

 同様のことが、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣でもいえる。昭和五十三年に傷みが激しい鉄剣の保存処理とエックス線調査が行われ、刀の両面に文字が刻まれていることが判明した。

 

表の銘文。

辛亥(かのとい)の年七月中、記す。乎獲居(オワケ)の臣。上祖の名は意富比垝(オオビコ)。其(そ)の児(こ)、名は多加利足尼(タカリノスクネ)。其の児、名は弖已加利(テヨカリ)獲居。其の児、名は多加披次(タカヒシ)獲居。其の児、名は多沙鬼(タサキ)獲居。其の児、名は半弖比(ハヒテ)。

裏の銘文。

其の児、名は加差披余(カサヒヨ)。其の児、名は乎獲居の臣。世々、杖刀人(じょうとうにん)の首(おびと)と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)の大王の寺、斯鬼(シキ)の宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 

おおよその訳は、「辛亥の七月に記す。オワケの臣の古い先祖はオオビコで、代々武人である杖刀人の長をして今に至っている。ワカタケル大王の寺がシキの宮にあるとき、政治を補佐し、この百練の刀を作らせ、仕える根拠を記した」である。

 ワカタケル大王は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇雄略天皇)、意富比垝は大彦命のことである。辛亥の年は四七一年、雄略天皇の治世期間四五七~四七九年に含まれ、雄略十五年となる。

 日本書紀には、大彦命孝元天皇の長男で、開化天皇の実兄とある。そして、崇神天皇の十年に、東海(うみつみち)、西道(にしのみち)、丹波(たには)、北陸(くがのみち)の四道を制圧する四道将軍の一人として北陸へ出陣している。鉄剣に刻まれた銘文により、大彦命の実在は確実になったのである。

 大彦命がいれば当然ながら父がいて、兄弟もいるだろう。となると、父の孝元天皇と弟の開化天皇も存在したと類推できるが、両天皇欠史八代に含まれるため実在を認めようとしない学者諸氏がいる。

彼らが欠史という言葉を聞くだけで思考停止してしまうのだとしたら、とても学問にはならない。