巻の十 特異な日本人の脳

 虫の音を美しいと感じる秋となったが、そう感じるのは日本人だけらしい。雨の降る音、特に春雨や時雨れに、日本人は特別の情緒を感じる。

 しとしとぴっちゃん、と歌ったのは子連れ狼の主題歌だった。幼い大五郎の孤独、寂しさ、父の拝一刀への信頼、さまざまな感情が入り混じり、独特の雰囲気を盛り上げている。

 そう感じるのが日本人だけだとしたら、なぜそんなことが起きるのか?

 日本語にはオノマトペ、「にこにこ」とか「さらさら[とか「はらはら」とか、いわゆる擬声語や擬態語が多い。世界の言語に詳しいわけではないが、日本ほどオノマトペが多い国は珍しいのではないか。

 これが日本人の風流心、四季をそれぞれ讃え、犬や猫、虫、自然の音まで語りかけてくると感じる独特の情緒を育んでいる。

 東京医科歯科大学の教授を務めた角田忠信氏によれば、日本人の情操を育んできた大本は、脳の独特の働きにあるという。

 日本語の受け皿になる脳は、科学的実験によって、他国の人と大きな違いがあるという驚くべき事実が解明されたのである。

ヒ 言語と感じるか雑音と判断するか

 角田氏は耳鼻咽喉科の医師で、機能障害の治療のため、まずは正常な器官や脳の機能を調べた。脳に故障があれば器官にも故障が起きることに着目したのである。

 研究の過程で思いがけないことが判明した。ツノダテストという角田氏が開発した独特の実験方法で、日本人と外国人の左右の脳の使い方が異なっていたのである。

 ツノダテストでは純音(雑音)、各種言語とその母音、コオロギの鳴き声、西洋楽器と邦楽器の音色などを左右どちらの脳で処理しているかを調べた。

 その結果、日本人以外では各種言語は左脳、他の音と母音は右脳で処理していることが判明した。

 これに対し日本人は、言語はもちろんだが、母音、コオロギ音、邦楽器の音は左脳、純音や洋楽器の音は右脳で処理していた。

 左脳は言語脳だから、日本人は邦楽器の調べやコオロギ音を言語と認識していたのである。

 そして母音だが、日本人は左脳で処理するが、それ以外の国の人は右脳で処理していた。

 この場合、母音は発音の後に長く伸ばす。例えば、素盞鳴尊奇稲田姫を娶るときに詠んだ、日本最古といわれる和歌。

 八雲立つ、出雲八重垣 妻ごみに

 八重垣つくる その八重垣を

 八雲は「やあー ぐうー もおー・・・」というように発音する。毎年、正月に行われる皇居での歌会始のうたい方と思えばいい。

 日本語は子音ブラス母音で成り立ち、さらにあいうえおなど母音だけにも意味がある。「あ」は吾や驚いたときの「あっ」、「い」は胃や井や亥、というように、それぞれが意味を持っているから、一つの母音だけ、例えば「あ」を理解するには文脈で判断する。

 これに対し大半の外国語は、子音が中心で母音は付け足しという形をとっている。例えば英語は、書かれた単語から母音を抜いても意味が通じる。

 例えばfrendの「e」を抜いても「frnd」で理解できる。このため、速記では母音を省略しているそうだ。

 日本人以外の場合、母音だけだと右脳へいくが、子音に混じって単語になると左脳で処理している。母音単独だと、どうやら言葉として認識できないらしい。

 つまり「母音に対しては西洋人すべてが全部機械的な音と同じような情報の処理の仕方をする」(角田忠信著 『日本人の脳』 大修館書店)という。

 この実験は多くの人種民族に共通し、日本に距離的に近い中国でも同じ結果だった。

 さらに、日本人と同じになるのではと予測されたお隣の韓国人も、欧米人などと同様に、母音の処理は日本人とは異なり、擬態語擬音語も右脳で雑音として処理していた。

 日本人はすべて母音を左脳で処理するのか? 外国人ならすべて右脳で処理するのか? そんな疑問に答えるため゜角田氏は海外で生まれて育ち、生活する日本人二世、日本国内で生まれて育ち、生活する外国人二世に協力を求めて実験を行った。

 すると、日本人二世は欧米型、外国人二世は日本人型と判明した。つまり人種や民族に関係なく、日本で生まれ育ち生活する人と、海外で生まれ育ち生活する人とでは、母音の処理脳が異なっていることが判明したのである。

 外国人でも日本で生まれ10歳ぐらいまで育った人、日本人で海外で生まれ同じく10歳ぐらいまで育った人は、左脳と右脳の働きが生まれ育った土地のパターンになる。

 なぜそうなるかといえば、四季折々の情緒豊かな日本の風土もあるが、最大の原因は日本語、それも母音にあると結論付けられる。

 

フ やまと言葉が日本人脳を形成

 

 日本語がどうして母音中心の言葉になったのかは、そもそも日本語の成立過程すら不明だから分からない。だが、歴史時代に入って、近畿地方で使われていた「やまと言葉」が、現代日本語の基となったのは疑いない。

 では、やまと言葉とはどういうものかといえば、古事記日本書紀に歌謡が頻繁に出てくることからみても、日常生活に密着した歌が大本にあるといえるのではないか。

 素盞鳴尊の「八雲・・・」はいうに及ばず、六世の孫とされる大国主命が越の国で沼河姫に求婚したときの「八千矛の・・・」という長歌神武天皇が長脛彦を撃つ時の「みつみつし・・・」という長歌は、歌会始のようにゆっくりと語尾を伸ばして発声したことだろう。

 その名残が和歌の朗詠であり、謡などの歌曲につながっている。いずれも発音を明確にし、言葉の最期を長く伸ばすことが共通している。

 こうした歌謡が庶民にまで行き渡っていたのは、万葉集に防人の歌として収録されていることからも分かる。

 常陸国風土記には筑波山の中腹で歌垣(かがい)が行われたと伝えられている。歌垣は春や秋に穀物の豊作を祈り、収穫を感謝する農耕儀式だが、それ以上に若い男女の出逢いの場として活用された。

 歌垣という言葉から分かるように、歌を贈りあい、愛を確かめ、夫婦の契りを結んだ。農耕を営む庶民の生活の場は狭いから、異なる場所でそれぞれ生活する男女の出逢いの場は、無くてはならないものだった。

 古事記日本書紀に歌謡が多いのも、膨大な歌集である万葉集が組まれたのも、日本が古代から歌の国である証拠である。そして歌は、ゆっくりと長く語尾を明確にして謡われた。母音が耳を通じ、言葉として頭の中に蓄積されたことだろう。

 左脳で母音を処理するゆえんである。

 古代には、歌謡だけでなく、朝廷の祭り、氏の祭り、村の祭り、家々の祭りがあった。神々に向かって祈る祝詞は、ゆっくりと語尾を明確に発声し、母音がはっきりと発音される。

 つまり、すべての言葉の最期は母音になっている。

 例外は「ん」だが、実は古代、日本には「ん」という言葉はなかった。古事記日本書紀万葉集には「ん」に該当する万葉仮名は存在していない。

 子音+母音という独特の日本語が、母音を左脳で処理するという、世界でも珍しい脳の働きにつながっている。

 さて、神社で唱えられる祝詞だが、最近では早口言葉ではないかと疑うことがある。特に「大祓詞」がそうで、口の中でごにょごにょと、なにやらよその国の呪文のように感じることがある。

 調べてみると、どうやら神職の試験で、大祓詞を一字一句、間違いなく唱えなければならないため、早口で何度も暗唱する癖がついてしまったらしい。祝詞本来の唱え方ではないから、暗記するときはともかく、神前では強い声ではっきりと母音を発音してもらいたいものだ。

 歌謡、祝詞は日本独自の発声方法だが、歌謡の場合、一人で朗詠するものではなく、歌垣のように大勢の集まりで披露された。

 恋の歌、相聞歌でさえ、人が集まった場所で朗詠された。

 例えば、大海人皇子(後の天武天皇)と額田王の一行が、薬狩で標野を訪れた際、宴会の席上で遣り取りした有名な歌がある。

 額田王

 あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき

 野守は見ずや 君が袖ふる

 大海人皇子

 紫草の にほへる妹を 憎くあれば

 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

 薬狩で標野へ大勢で出かけたとき、大海人皇子額田王を恋しくて何度も手を振るから、そんなことをしたら野守に見られますよという、一種のからかいを込めた座興の歌だ。

 額田王大海人皇子の妻だったときに子供をもうけていたが、天智天皇に請われて妻になっていたから人妻である。それにもかかわらず好意を露骨に示す大海人皇子を、親しみを込めてからかったわけである。

 それに対し大海人皇子の返歌は、紫草のように美しい額田王を憎いと思っているなら、人妻だから恋い慕うわけがありません。憎くないからこそ恋い慕っているのですと、強調した相聞歌だ。

 天智天皇も同席したといわれる宴会で、過去のいきさつがあるにもかかわらず、堂々と心情を吐露した遣り取りに、宴会に参加した人たちから喝采を浴びたという。上代の人々は、おおらかであけっぴろげだったらしい。

 そしてこれらの歌は、現代の歌会始と同様、ゆったりとしたリズムで朗詠された。参加者の共通意識にすると同時に、長く尾を引く母音が人々の胸に刻み込まれたのである。

 同様の集まりは貴族階級だけでなく、筑波山の歌垣のように、各地で行われていた。だから、防人の歌のように、農民の優れた歌が残され、母音脳という日本人独特の左脳の働きができたのだろう。

 それが優れているとか、劣っているとかいうつもりはないが、日本人の脳の働きとして認識しておく必要がある。

 風や雨の音、川のせせらぎ、犬や猫、虫の鳴き声、木々の揺れるささやくような音、私たち日本で生まれ育った人間は、豊かな情操を風土や言葉に育まれ、同胞を愛する心、生まれ育った土地を慕う望郷心、さらには他人の幸せや国の平和を祈る心を作り上げてきた。

 日本語がなくなれば、民族の情緒を持った日本人はいなくなる。それは日本国家の消滅を意味する。

 わりと近い過去に、漢字を無くしてローマ字にしようとか、国語を英語やエスペラントにしようという主張が一部でなされた。日本語を失いかねない国家存亡の危機が明らかにあったのである。

 それを先人は乗り越え、日本語、すなわち日本人と日本国家を存続させた。

 カタカタ言葉の多い現代、母音中心のやまと言葉を見なすべきである。

 だが、除夜の鐘の音が煩いと中止を求めたり、幼稚園や保育園の児童の声が喧しいと、文句をつけるクレーマーが少なからずいる。

 鐘の音で行く年来る年の区切りの心構えをなし、子供たちの騒ぐ声で、自分もそんな時代があったなと懐かしむ心は、こうしたクレーマーにはない。

 もっとも、この人たちが鐘や子供の声を右脳で、すなわち日本人以外の方法で処理しているとしたら、話は別である。
 そんな人間が多くなれば、伝統文化が破壊され、子供たちが健全な成長を妨げられる。

 日本国憲法の異常なほどに強い人権意識が、自己中心の人間を作ってしまったのかもしれない。

 哀しいことだ。

 

巻の九 後編 忘れがたい体験の数々

 ヨ 再びの雪

 食を絶ってから、最も飢餓感が高まるのは二日目から三日目。空腹で胃が痛いほどで、作業をしていても力が出ない。修行ではなく、どこかの無人島に置き去りにされている状況なら、木の根を掘ってでも口に入れようと思ったに違いない。

 さらに、宿便が下痢のように流れ、悪臭に辟易とした。道場へ近寄ると息が詰まるようだったとは、斎籠行の後の美保師の弁である。

 それでも、日待ちなど朝の一連の行事や磐座行、神籬神事を受けている間は雑念を忘れられる。行を修することで研ぎ澄まされていく全身の感覚、透明な爽快感、善言美詞を唱える声の変化、自分が存在するこの世とは違う、神々の世界があるという確信などなど、喜びの方が大きいのだ。

 飢餓感が最も募る四日目は中日(なかび)である。朝、寝袋から出て日待ち行事のために外へ出ると、一面の雪化粧だった。熱になる食物をとっていないので、体が震える寒さだが、息吹永世をしながらフツ、フツと息を吐き、朝の行事を修しているうちに体が温かくなって震えが止まっていく。

 一連の行が終わった後、無事に四人の斎籠行事が終了しますようにと中日祝詞を奉じる。残念ながら、京都から来た後輩は初日に断食を中止した。断食だけだと思って来たら神道の行があり、それに違和感を覚えたためだった。彼は神道に縁がなかったのだろう。

 祭儀の後は直会(なおらい)で、断食中だから食物をとることはできないが、お神酒(みき)をかわらけに一口だけいただいた。神酒は文字通り神がきこしめした酒であると同時に、八俣遠呂智のような邪や魔が寄ってくる存在でもある。神がきこしめしたか、それとも邪や魔が寄ったかで、お下がりの神酒の味が旨くも不味くもなる。だから、聞き酒。幸いにして甘露なお神酒だった。

 さて、ある日、堀越俊彦さんという一年先輩の同年齢の友人が、神籬に向かって頭を深々と下げ、涙を流しているところを目撃した。堀越さんは以前から胃の調子が悪く、神楽をしていても胃液が込み上げてくるほどだった。近くで作業をしていた大工さんたちが、死相が表れているから止めさせた方がいいと、美保師に何度も忠告したという。

 具合が悪くて泣いているのか、それとも断食を止めたいが仲間の手前言い出せなくて泣いているのか、何しろ無言の行だから聞くことができない。不安は募るが、見守っているに違いない神々にお任せするしかない。

 しかし、その日を境に、堀越さんの具合が良くなっていった。神籬に向かって泣いていたとき、きっと何かが起きたのだろう。

 ご本人の了解を得たので、手記から引用する。

 

六日目、もう起き上がるのもやっとだった。脈が、手の指先から足のつま先まで全身で打っている。健康体なら、沈み込むように打つ脈が、体の表面にまで浮き出てきている。浮脈というものだそうだ。これが始まると生命の危険に繋がる兆候だ。このとき初めて(わたしは、死ぬかもしれない)、と思った。

 

七日目、絶望感とも諦めともつかない感覚がじわじわと体を覆い始めていた。わたしは必死に祈った。何のために、だれに、何に祈ったのだろうか。気がついたとき、大粒の涙が頬を伝わっていた。ほんの一瞬だったと思うが、わたしの目の前にぼんやりと、旭日の兜が見えた。その残像がまだ消えない。正確にいうと、わたしは目をつぶっていたから、見えたのではなく、感じただけだ。そのとき(わたしは、生きられる)、そう確信した。

 

 堀越さんは、旭日の兜が現れ、自然に頭が下がり、涙が流れて止まらなかったと記されている。目を瞑っているから見たのではなく、感じたと堀越さん述懐している。

 もちろん、一緒だった私たちに、旭日の兜が見えるはずもない。私たちの目に入ったのは、友人が頭を下げて涙を流している姿だけだった。

 ちなみに堀越さんは大学を卒業後、広島県江田島海上自衛隊幹部候補生学校に入り、自衛官に任官した。最初の勤務艦は香取で、配属当日に香取神宮宮司から祝電が届いたという。香取神宮は断食修行のあと巡拝した由緒ある神宮で、祝電は美保師の計らいだったと思われる。

 堀越さんは任務を果たした後、一等海佐で定年退官。一般大学から幹部候補生学校に入り、自衛官に任官するのは、体力的にも気持ちの持ち方にしても、並大抵のことではない。国防に身を呈した生き方には頭が下がるばかりだ。

 イ 燎原の火

 断食中は無言の行だから、個々人が何を経験したか知ることはできない。行が終ってから仲間に話せばわかるが、口にしなければ、その個人の記憶に留められ、永遠に知られることはない。

 実は私も、ある神秘的な体験をした。道場で息吹永世の瞑想をするのに飽き、寒さに耐えて広場の巨岩=磐座に座ったことがある。岩の上に敷いた円座に座り、裸足を夜の寒気に曝すと凍えるから下半身を寝袋に入れ、足の裏を合わせた安座で目を半眼に閉じ、息吹永世をして瞑想に入った。

 美保師によると、午前二時から四時までが、最も神霊の気が強い時間帯だという。伊和麿翁は筑波山に入山してから毎日、帰幽する寸前まで、払暁二時から四時間もの修行に明け暮れたそうである。とても真似のできることではないが、せめて断食中に少しでもやってみようと、磐座に座り瞑想を試みた。

 磐座から南を向けば関東平野が広がり、北を臨めば筑波山の樹木が生い茂っている。関東平野を見下ろす南に向かうほうが気分爽快だろうが、あえて北を向いて座った。というのは、北斜面を少し登ると赤い鳥居があり、その奥に稲荷石と名付けられた巨岩があったからだ。

 この稲荷石は、仙人の岩という地元の言い伝えがあり、伊和麿翁が初めてこの地へ入ったとき、仙人の姿を拝したと聞いた。胡蘭成氏は、笠間稲荷神社の塙宮司さんが「稲荷石を祓ひ、祝詞を唱へられると、ほんたうに岩が瑞気を生ずる」(建国新書)と書いているが、神秘的な巨岩だった。

 稲荷石の方角へ向かって安座し瞑想した。しんしんと冷えた夜気に、剥き出しの頬は切れるほどに冷たく、吐く息は白いものの、息吹永世のおかげで、体は腹の奥底から温まってくる。凛冽とした大気が心地好く、夜明け前の静寂の時間を、神々の瑞気が漂い始めたように思われた。

 どれくらいの時間、瞑想していただろうか。神気はますます強まり、寒さとは違う痛みが皮膚に走り、体の毛穴という毛穴が収縮するように感じられた。

 その時だった。

 竹や生木を折る際に鳴る、「パキッ、パキッ」という、神経を突き刺すような鋭い音が、続けざまに鳴り響いた。

 風に樹木が立てる音かと、生い茂る木々の枝に目を向けても、揺れている気配はない。風はそよとも吹いていない。だが、周りを探るうちにも、音は「パキパキッ、パキパキッ」とだんだん大きく激しくなっていく。

 驚愕に息が詰まり鼓動が急激に高まった。金縛りとは違うのだが、なぜか瞑想を解こうにも解けない。呆然としながら、霊動の一種かもしれないと、フツッフツッと息を強く吐いて気力を高め、息吹永世で丹田に力を入れて鎮魂を試みていると、思わぬ光景が目に飛び込んできた。

 前方の一点に、透明に近い青と桃色がかった火が燃え立ち、それが急に左右へ広がり、パキパキ、パキパキという音とともに、座っている磐座に向かって一気に押し寄せてきた。

 あと少しで火の海に呑み込まれる。冷静に瞑想を続けているべきだったのだろうが、本能的な恐れから息吹永世をやめ、瞑想を解いた。

 その瞬間。燃える火はかき消えた。星空が青く瞬き、風一つない静寂に戻っていた。

 何が起きたのか理解できず、逃げるように道場へ帰って寝袋に潜った。いつまでも歯の根が合わなかった。

 今から考えると、「パキパキ」という生木が折れるような音は、神霊が現れる寸前に鳴ると言われる「ラップ音」だったのだろうと推察できる。薄い青と桃色の火も、ラップ音と同じで、何かが現れる兆候だったのではないか。

 もっとも、空腹や寒さなどがもたらした幻想かもしれないが、私にとっては重大な経験としか言いようがない。

 斎籠行が終わり、無言の行を解いてから、美保師に音と火のことを話すと、「お釈迦様は、現れた獅子が食べようとする口の中に、自ら身を投じて悟りを開いた。せっかくの好機だったのに、なぜ火に身を任せなかったのか」と厳しく指摘された。

 たしかにあの時、瞑想を続けていれば、かけがえのない経験をしていたかもしれない。梅田筵は美保師が祓いに祓い、清めに清めている聖域だから、魔が現れる心配などなく、神霊の御姿を拝めていたかもしれない。

 斎籠行の後、残念なことをしたという悔いと、拝まなくて良かったという安堵感とが、胸に交差した。

 神霊と対面するということは、大変な勇気とエネルギーを必要とする。押し寄せる火に飛び込めなかったのは、それだけの覚悟ができていなかったからにほかならない。

 もし、再び、同じ場面に遭遇したらどうするかと問われたら、正直に言って、わからないと答えるしかない。

 神々との対面は、命懸だからである。

 ム うけひ

 中日の翌日は空が晴れ渡り、冬から春へと移り変わる際の、ときおり見られる強い日射しが梅田筵を包んでいた。朝の行と磐座行事を終え、息吹永世で調息し、美保師の神籬神事が始まった。

 美保師の張りのある若々しい声が修行生を包む。唱えられる祝詞の響きに、体全体が反応して、一つ一つの細胞が振動しているような感覚を覚える。雑念を消して無心になろうと、祝詞の言葉に精神を集中する。

 三種祓詞から始まった神籬神事の祝詞は中程を過ぎ、ヒフミヨ……と布留部詞に到り、「フルベユラユラ」の後に、「アッ」と気合がかかった。

その瞬間――。

 静かだった大気が、竜巻に直撃されたように吹き荒(すさ)び、晴れ渡っていたはずの空が、にわかにかき曇ったのが、目を閉じていてもわかった。轟々と渦巻く風に呼応するかのように、晴天だったはずの空から大粒の雨が落ち、道場の屋根に激しい雨音を立てる。

 さらに……、ゴーという地鳴りが響いて道場が激しく揺れ、今にも壊れるのではないかと思われるほどミシミシと音を立てる。

 強烈な恐怖心に襲われながら、息吹永世を続けていると、美保師が「イェーッ」と切り込み「エィーッ」と持ち上げた。

 するとどうだろう。嵐と地震がぴたりと収まり、地は盤石の大地に戻った。

 最後の「タァー」という発声が終わり、何もなかったかのように、美保師の祝詞は次の「日文(ひふみ)詞」に移っていった。

 神籬神事が終わった後、道場から外へ出ると、空は真っ青に晴れ上がり、雲一つない。さっきの嵐は夢か幻だったのかと訝(いぶか)しみ、地面に目を移すと、雨に濡れた跡が歴然と残っていた。

 嵐と地震がいきなり起きたことは疑いなかった。

 しかし、無言の行だから、本当に異変があったのかどうか、修行生は話し合えない。一人一人が胸に納め、予定の作業や行を、淡々とこなした。

 その翌日。神籬神事が終わった後に、「最後の一人の産土神が、払暁に挨拶に来られた。これで全員が産土神と一体になりました」と、美保師が嬉しそうに言われた。

 そう言われても実感はないが、きのうの天変地異を経験した後だけに、なるほどとうなずけるものがあった。

 断食の最終日の朝、目覚めると梅田筵は再び白く雪で化粧されていた。断食入り当日、中日、そして満願の日と、筑波山は雪で覆われたのだった。

 雨の少ない筑波山に雪が降って歓迎されたのか、それとも雪でなければ祓えないほど罪穢れが身を覆っていたのか。三度にわたる雪の洗礼は、斎籠行を試みた私たちへの、神々からの祈請(うけひ)だったのに違いない。修行生の罪穢れを祓い、「かむながら」の人となれという諭しだったと、ありがたく受け取っている。

 満願にあたり、神々が降臨した神籬に神行事終祝詞(みわざをへのりと)を唱える。

 これで斎籠での断食行は終わった。次に降神していただいていた神々に、昇神詞(かむかえりのことば)を唱えてお帰りを願う。

 警蹕とともに神々が神籬から昇神し、断食行は終わった。あとは食事を徐々に普通に戻し、普段の体に回復させるだけだ。これがなかなか大変なのだが……。

 ナ ほころび

 斎籠による断食行で、それぞれが貴重な体験を得た。しかし、一週間の断食で、胃や腸は働きをやめ、体は衰弱している。食事を元へ戻さなければならないが、いきなり固いものを食べるのは、健康を害するから禁物だ。

 最初に口にしたのは、小さな杯に入った水のように薄い重湯だった。手伝いに来ていた女子大の三人の修行生が作ってくれたもので、口に含んだとき、おいしさに唾液が溢れた。瑞穂国に伝えられた稲穂のありがたさを、この時ほど強く感じたことはない。

 わずかな食事をするたびに、体に力が戻ってくる。一日の行動は日待ちから磐座行事、神籬神事、作業奉仕と断食中とまったく同じで、食物で体力が回復すれば、修行に力が入り作業もはかどる。

 だが、今度は耐えがたい飢餓感に襲われた。断食による空腹感とは異なり、体がエネルギーを欲するのだ。わずか一杯の薄い重湯が、押し込めていた生存本能を目覚めさせたとでもいうのだろうか、とにかく、物を口にしたくてならない。自分たちで食事の管理をしていたら、無闇に食べて体を壊してしまったかもしれない。

 ここで、私たちは大きな失敗を犯した。無言の行を解いてしまったのだ。

 言葉は、善言美詞にもなれば、悪魔の囁きにもなる。そして人間は、わずかな隙でもつくれば、悪魔の囁きに魅入られる。無言の行を解いたために、張り詰めていた気が緩み、凡人の弱さを露呈してしまったのだ。

 長い歴史を経て話す能力を得た人間は、他人と言葉を交わして意思疎通を図る楽しさが、本能や遺伝子に刻み込まれているのかもしれない。無言だったことが、本能の噴出に輪を掛けてしまったのだろう。

 今から思えば、恥ずかしいとしか言いようがないが、暇な時間に雑談を始めると、話が食べ物のことになってしまう。あれが食べたい、これが食べたいと、話すことは食欲を満たすことばかり。さらには、お汁粉や羊羹の作り方まで話題になった。

 餓鬼道に陥ってしまったのである。

 もし斎籠を止めて普通の生活に戻っていたらと思うとぞっとする。幸いにも美保師の指導や、女子大生の食事管理のおかげで、理性を失うことはなかった。

 堤防は蟻があけた小さな穴から水漏れが起きて崩壊する。城郭はわずかでも破られたら兵が乱入してくる。肝心なところで一歩を引けば、それが敗北につながりかねない。

 物事には、譲ってはならない一線がある。それを断食で思い知らされた。

 凡人の弱さを露呈した断食だったが、やがて餓鬼道の醜さに気付き、さすがに口を慎んだ。

 断食行から数日たち、ほぼ普通の食事に戻った。かといって、まだ胃腸が本格的に働いていないので、消化に良いものを中心にした食べ物ばかりだった。

 断食が明けてから、従来の食事に戻すには、少なくとも断食期間と同じ日数、できれば倍の日にちが必要とされている。いきなり普通の食事をとると体が受け付けず、胃けいれんや腸捻転を起こし、重症の場合は死に到ることもあるという。私たちは若かったこともあり、比較的短時日で元に戻したが、食事のとり方は赤ん坊に離乳食を与えるように、細心の注意が必要である。

 一週間の断食で減った体重は、わずか二キログラムほどだった。当時の私は体重が五三キログラムだったが、意外に少ない減少である。参加したほかのメンバーも、多かれ少なかれ似たような減り方だった。そして、断食最終日になっても、それほど体力気力が落ちたとは感じなかった。

 健康な人でも、何も食べられない状態に置かれると、一週間で餓死することもある。例えば山での遭難。夏で気温がさほど低くなくても、わずかな日数で亡くなったりする。新聞などに「五日ぶりに生還」などと見出しが踊るのは、山での遭難がどれほど生命を脅かすかを物語っている。

 断食中の筑波山は三度の雪に見舞われるほど寒く、体力的にきつい磐座行事だけでなく、作業奉仕も行った。雨露をしのげる道場に泊まっていたとはいえ、暖房があるわけではなく、寝袋での生活だった。ちょっとした装備を持った遭難者が、山小屋に閉じこもっているのとあまり変わらない状況である。わずかな日数でも遭難者によっては餓死したり、低体温症で瀕死の状態になる。その差はどこにあるのだろう。

 おそらく精神状態の違いだろう。張り詰めた緊張や焦り、生きて帰れないかもしれないという不安などが脳波を乱す。遭難者は生命の危機感を覚えて強い精神的ストレスを受け、肉体を激しく消耗させる。遭難者の脳波は、緊張を高めるアドレナリンやノルアドレナリンが脳内に大量に分泌されるガンマ波だと推測され、それが肉体の消耗に拍車を掛け、衰弱していくのではないか。二、三日の遭難で亡くなることがあるのも、ストレスによる消耗のために違いない。

 それに比べ、思い立っての断食行は、さまざまな行を通じて脳波が安定していたのだろう。座禅を組む禅僧の脳波は、安定したアルファ波だというが、それと同じ状態だったため消耗が少なく、わずかな体重減少で済んだのだのに違いない。

 ヤ 純白の神苑

 断食行の終了を記念して笠間稲荷神社鹿島神宮香取神宮を巡拝し、下界に戻った。大学四年を目前にして、そろそろ就職先を考えなければならない時期になっていた。

 三年生のうちに内々定が出る今とは違って、当時の就職試験の解禁は四年生の九月以降だった。まだ時間的には余裕があったが、どういう職業を選ぶかを早く決めて、試験を受ける準備をしなければならない。

 物理学科卒となると、就職先は企業の研究所や理科の教員、あるいは大学院への進学などだ。だが、学園紛争という大嵐に曝されて、象牙の塔に集う教員たちの無力さや無能さ、嫌らしさをいやというほど目撃し、物理学を学ぶ気持ちはなってしまった。

 バリケード封鎖や無期限ストライキには反対しながら、活動家学生たちの主張に同調し、自分たちが学生だったら、率先してストに参加したそうな若い教員たち。封鎖学生たちが参加したクラス討論会で、彼らの思想の間違いを正そうともしないで、「出てきなさい」としか呼び掛けられない無能な教員。バリケード封鎖を解くために、日共系学生と手を組もうと画策する理事。

 さらには、無期限ストライキに賛成しておきながら、卒業が迫ってくると、掌を返すようにスト解除に回る、いわゆる一般学生といわれる存在。そんな学生に、活動資金と称して資金を渡す理事と、それをためらいもなく受け取る学生。

 象牙の塔のはずの大学は、そんな教員や理事ばかりで、世間とは隔絶した異様な世界だった。

 そうした実情に、物理と関係する道を進む気持ちは失せていた。就職先を考えなければならないが、かといって、大学で学んでいるのは物理学で、卒業するためには四年のゼミを取らなければならず、今更進路を変えることもできない。

 いろいろと悩みながら、名古屋の実家へ帰省して伊勢神宮を参拝することにした。清らかな気持ちで行く末を考えようと思ったのである。

 

 なにごとの、おあしますかは 知らねども

 ありがたなさに、涙こぼるる

 

 西行法師が詠んだ有名な和歌だが、当時の僧は内宮に近々と額ずくことはできなかった。西行が内宮を拝んだのは、おそらく五十鈴川の対岸からだろう。それでも、和歌に詠まれたほどの感激を覚えたのだ。

 英国の歴史学者トインビーは、内宮に参拝して「すべての宗教の原型を見た」と言ったそうだ。

 西行もトインビーも、感激を素直に言葉にしたのだろう。二人とも感受性の強い人だったのに違いない。

 伊勢神宮を参拝するに当たり、美保師が神宮司庁の幡掛正浩教学部長(当時)に紹介状を書いてくれた。幡掛部長は後に少宮司を務められた神道界の重鎮で、九十二才の天寿をまっとうされた。

 美保師の紹介状を片手に、軽い気持ちで伊勢を訪ねた私は、幡掛部長がそんな偉い人とは思っていなかった。無知と、学生だったが故の無鉄砲さで、帰省して電話を掛け、美保師の紹介だと伝えると、「外宮に参拝してから神宮司庁へ訪ねてきなさい」と指示された。

 近鉄名古屋駅から伊勢の宇治山田駅まで約二時間。外宮に参拝してから内宮へ向かった。

 余談だが、伊勢神宮の参拝は外宮先祭といって、外宮が先で内宮が後だ。外宮の祭神の豊受大神穀物の神で、いわば物質の世界を司っていて、神界の最高神である天照大御神に仕えている。豊受大神は臣下として大御饌を天照大御神に捧げているわけで、物質界から神界へ参拝をするのが決まりである。

 俗な言い方をすれば、部下である豊受大神に挨拶してから上司の天照大御神に参拝するということだ。役所や会社組織でも、いきなりトップに会うことはできない。位の低い人間に挨拶してからトップに見合わされるのが組織である。

 それなのに、驚いたことには、ある高名ともいえる学者が、参拝は内宮が先で外宮が後だとある本に書いていたことだ。伊勢神宮の説明でも外宮が先で内宮が後となっているのに、この学者氏はどういうつもりでこんな間違いをしているのか不思議でならない。こんな人物が、よく学者として通用するものだと首を捻ってしまう。

 さらにある学者は、神葬祭では一拝のお辞儀をするだけで柏手は打たないと、ある本に書いていた。さらに二拝二拍手一拝の最初の二拝は軽いお辞儀、最後の一拝は深い礼としていた。

 神葬祭では、音が出る柏手は打たないが、通常の参拝と同様に二拝してから、忍び手といって音が出ないように二度柏手を打って一拝する。そして、最初の二拝はもちろん深い礼である。この学者氏は本当に神道のことを知っているのだろうかと呆れるばかりだ。

 また、ある政治学者はテレビの討論番組で、今上陛下(現上皇陛下)のことを「平成天皇」と言っていた。「平成天皇」は諱(いみな)、諡(おくりな)である。政治学者ともあろう人間が、諱、諡が死後の尊称だということを知らないのかと、激しい憤りを覚えた。あるいは何らかの意図があって諱、諡を口にしたのなら、許しがたい人間といわざるを得ない。こんな学者に教えられる学生は悲劇だし、正確な日本語を話せない政治学者を、討論番組に何度も出演させるテレビ局の見識のなさにはあきれるばかりである。

 これらの学者諸氏は、日本の伝統を尊ぶと言いながら、実際には伝統ある神道祭祀を意図的に破壊しようと、ひそかに画策しているのではないかと疑わざるを得ない。そうでなく、本当に書いたことを正しいと思い込んでいるのなら、ただちに学者の名前を返上して、職を辞するべきである。

 さて、伊勢神宮は梅田筵で神道の行を始めてから、帰省するたびに参拝していた。外宮から内宮まで歩くと二時間ほどの道のりで、途中の月読宮や倭姫宮猿田彦神社などを巡拝することができる。しかし、幡掛部長を訪ねるのが目的だから、バスで内宮へ向かった。

 神宮司庁の受付で名前を名乗って目的を伝えると、ご本人がいきなり現れ、「まず参拝しましょう」と先に立って歩き始めた。自己紹介もしていないので、戸惑いながら後に続き、神域に入る。何度来ても、内宮の清々しさには感動するばかりだ。

 内宮の参拝は、石段を登ったところの大前(おおまえ)で行う。大前には白い大きな幕が垂れ、奥に白い玉砂利が敷き詰められ、鳥居があって正殿へと続く。正殿には神職を除いて天皇陛下しか入ることができない。

 白い幕は微かに透き通っているが、普通の参拝では正殿を正面から直接拝むことはできない。

 胡蘭成氏は「建国新書」の中で次のように書いている。

 

私は美保姫のおともをして伊勢参宮した。先に二見ケ浦海辺に降りて禊祓いをうけて、外宮に参拝すると、大前に垂れてある高さ丈余、幅一間余りもあらう白い布の幕が、すうとゆらゆらと波を打って二人の頭上へ掲げられ、真正面の奥が見えた。神に対面する感激が深く、美保姫は額づいて手を合わせて祈祷を念ずる。私はただ合掌する。とばりは悠悠と下りる。二人の頭にふれるようだ。さあッと静かに完全に下りて垂れてゐる。それから五十鈴川に下りてみそぎして、内宮に参拝した。私が気がついて見れば、美保姫が膝を折り蹲り拝んでいる頭上へ、内宮の白い布の幕は、すうと波打って掲げられたのである。

 微風があったかといふに、神の境で動く霊気なのであらう。

 

 大前から真正面の奥を拝めることなどまずあり得ない。胡蘭成氏が指摘したように、神の境で動く霊気が、白い布の幕を動かしたのだろう。

 第六十二回ご遷宮で、ご神体が新しい宮に入ろうとするとき、舞い上がるような風があたりを清めたと感じた人が何人もいたらしいが、神域と人の世の境には、神気が漂っているのだろう。

 幡掛部長に伴われて内宮に着いた時、大前で参拝するのだと思っていたが、案内されたのは神職が立っている左脇の入口だった。中へ入ったところでお祓いを受け、通路に従って奥へ歩いて右に折れ、正殿手前の鳥居へ向かう。

 足元の真っ白な玉砂利を踏む足が震えた。頭の中は玉砂利以上に真っ白で、思考は蒸発した。鳥居で正殿に向かい、一揖二拝二拍手一拝一揖すると、嬉しさ、懐かしさ、尊さ、喜び、それらの感情がない混ぜになり、すべてが一度に押し寄せてきて目が潤んだ。

天照大御神の存在を実感した。

巻の九 前編 断食斎籠行私記

 私が体験した断食行の具体的な内容を述べる前に、当時の世相を記しておこう。

 一九七〇年直前、日米安保条約改定反対や大学臨時措置法反対で、全国の大学は全共闘系学生によるバリケード封鎖、共産党青年組織の民青系学生による無期限ストライキで、荒れに荒れていた。学園紛争の洗礼を受けなかった大学は皆無だったと言っていいだろう。高校や中学にすら、紛争が燎原の火のように広がったのである。いわばイデオロギーの時代だった。

 六〇年安保は「民青にあらずんば学生にあらず」、七〇年安保は「全共闘にあらずんば学生にあらず」とばかり、全国の大学は左翼学生が跋扈(ばっこ)し、猖獗(しょうけつ)極まった。

 全共闘東京大学安田講堂バリケード封鎖し、機動隊によって実力解除されたのは六九年一月十九日。私が在籍した大学も、同じ年の九月に全共闘系学生にバリケード封鎖され、さらに学生自治会を牛耳っていた民青系学生が無期限ストライキへと突入した。

 こうした左翼学生の跳梁は手がつけられない激しいものだったが、それでも全国の大学で、全国学生協議会や日本学生同盟などの学園正常化を目指す良識派学生や、日本の伝統文化を大切にしようという民族派学生が、彼らに反対の声を上げはじめた。私たちの仲間もその一角を担っていた。

 相手は何しろ、学内での言論の自由さえ認めない暴力独裁学生だから、反対するのには勇気が要った。彼らとの対決は、ゲバルトによる生命の危険すらも覚えるほどの緊迫した状況だった。

 私が在籍した大学では、全共闘学生がシンパも入れて百人、民青系学生が同じく百人、彼らに反対する私たちの仲間が最大時でもわずか二十人。全共闘学生の暴力的な脅迫で、脱落していった仲間も大勢いる。

 そんな状況の中で、私たちの心の支えとなったのが、理系の大学だったこともあり、数学者の岡潔先生だった。

 ヒ 葦牙のごと

 当時の岡先生は、国を憂えて全国で活発な講演活動をされていたから、東京で講演会があるたびに、仲間と一緒に聴講に出掛けた。岡先生は日本の国を守るために、精神的な支柱をつくろうと葦牙(あしかび)会を提唱された。葦牙は古事記に次のようにある。

 

 國稚(わか)く浮きし脂(あぶら)の如くして、久羅下那州(くらげなす)多陀用弊流(ただよへるる)時、葦牙の如く萌え騰がる物に因(よ)りて成れる神の名は、宇摩志(うまし)阿斯訶備(あしかび)比古遲(ひこじ)神、次に天之常立神

 

 日本は豊葦原水穂国というように葦が多い国で、牙は芽のことである。葦牙は水辺の泥の中から勢いよく成長する。そんな葦牙のように、日本を憂える有志が現れてほしいという願いをこめて、葦牙会と名付けられた。

 葦牙会の発起人は岡先生を始め、日本浪漫派文学者の保田與重郎氏、荒木駿馬京都産業大学総長、中国汪兆銘政府の法制局長官を務め、日本へ亡命していた胡蘭成氏、神道伝承者の梅田美保師の五人。

 葦牙のように全国各地から萌え上がろうというので、これといった組織はなかったが、岡先生は著書の「曙」(講談社現代親書)で、連絡先として筑波山の梅田開拓筵を指定した。これが、私が筑波山を訪れるようになったきっかけである。

 ここで五人の発起人について、簡単に記しておこう。

 岡潔先生(一九〇一~七八)は多変数解析関数論で世界最高峰の数学者となったが、後年は日本民族の情緒の大切さを随筆で訴え、数学者を超えて偉大な思想家として一世を風靡した。日本が陥った蔓延する利己主義に、本質的な鋭い警告を発し、講演で全国を飛び回った。私と同年輩の方で、岡先生の講演を聞き、著書に触れた人は多いだろう。

 毎日新聞連載の随筆「春宵十話」で一躍有名になった岡先生は、数学者というよりは偉大な思想家で、全国各地で開催される講演会はいつも満員だった。

 岡先生はあいまいな妥協を許さず、とことん真理を求めた。著名人との対談でも、それは徹底していた。対談集が何冊も出ているが、相手が間違ったことを言えば、頭から叱る。対談相手が反発して口論になることもたびたびだったらしい。ある編集者から、対談が対談にならず、本にまとめるのに大変な苦労をしたと聞いたことがある。

 講演会でもそうだった。当時はいま騒ぎになっている旧統一教会が、市民大学講座と名乗って世間的には名前を隠し、保守系思想家や岡先生の講演会を全国各地で企画、開催していた。岡先生は講演の後、聴講者から質問を受け、それが意に反したもの(主催団体の意図的な質問)だと、「君は原理か。原理は間違っている」と、叱りつけた。原理というのは統一原理研究会のことで、統一教会の大学サークルのことだ。

 普段は温厚な岡先生の剣幕の凄さに、会場は凍り付くような沈黙に閉ざされたものだ。もっとも、岡先生は誰でも叱るわけではなかった。真摯な質問なら、相手が誰でも懇切丁寧に説明された。

 ところで、岡先生が一度だけ叱ったのは間違いだったと謝ったことがある。胡蘭成氏は著書「自然学」(筑波山梅田開拓筵)で次のように記している。

 

 和歌山の座談会で、岡潔先生が自分は何神であるといったのに対し、美保姫が古事記を引用して、命と神には区別があって、生きている人間は神とはいえないでしょう、と確かめると、岡先生は怒って、古事記をそんな読み方をするなら読まない方がいいと叱った。しかし保田與重郎先生も命と神との称号に区別があると言った。あとで岡先生は美保姫に対し、わかりましたとあやまった。(中略)岡先生があやまったのはこの一回だけである。

 

 さぞかし迫力のある議論だったに違いない。

 この話は、岡潔集(学研)第五巻の別冊月報にも、「岡先生の葦牙会発想」と題して胡蘭成氏が推薦文の中で紹介している。

 同じ月報に、春宵十話を誕生させた毎日新聞記者、松村洋氏の次のような思い出話が載っている。

 

 鋭い人という印象を裏書きしてくれたのは、当時女子大理学部で岡さんの同僚であった植物学者の小清水卓二博士(現在同大学名誉教授)である。小清水さんの研究室に入りこんで雑談しているうち、たまたま岡さんの話が出ると「直観というのか、ひらめきのすごい人ですねえ」と歓声をもらされた。大学構内に二本のイチョウだかケヤキだかの大樹があって、どちらも同じ種類の樹だとみんな思いこんでいたのだが、岡さんがある日「この二本は種類が違う。輝き方が違うから」と小清水さんにいわれたので、調べてみると果たして違っていたという。

 

 松村氏は岡先生の初対面の印象を「鋭い風貌。だが目は柔和。そして邪気というものがまるで感じられないことに強い印象を受けたことを、いまだにはっきり覚えている」と書いている。

 岡先生がいつも厳しかったかと言うと、決してそうではない。昭和四十五年秋に講演のため、岡先生は夫人と一緒に梅田筵を訪れた。聴講者は神道修行者など梅田筵に出入りしている十数人とこじんまりした会だった。

 岡先生は多くの講演会で、話をしている間にタバコに火をつけ、一口吸ってはすぐに消されていた。話をわかってくれない聴講者へのいらだちを、タバコで抑えようとされていたのではないかと推察している。

 しかしこの時は、よほど気持ちが和やかだったのか終始ご機嫌で、手に持った一本のタバコをくるくるともてあそびながら、話が終わるまで火をつけることはなかった。普段の講演会とは大きな違いだった。

 最近になって岡先生の評伝が何冊も上梓されているのは、乱れに乱れるこの国の若者へ、岡先生の憂国の念が、帰幽後も訴えかけているからではないだろうか。

 胡蘭成氏(一九〇六~八一)は中国浙江省の生まれで、汪兆銘政府の法制局長官を務めた。後に汪兆銘と意見対立して辞職、漢口大楚報という新聞社を経営。中共政権の樹立に伴って「私は終戦武漢地域でしばらく独立し、国民政府にも中共政府にも抗争しようとはかった」(自然学自序)が断念し、一九五〇年に日本へ亡命した。「心経随喜」(筑波山梅田開拓筵)や「建国新書」(東京新聞出版局)、「自然学」(筑波山梅田開拓筵)などの著書で独特の文明論や政治論を展開した。

 胡蘭成氏が梅田筵を訪れるようになったのは、東京新聞の与良ヱ(よらあいち)社長の紹介である。 

 胡蘭成氏は汪兆銘と意見対立して袂を分ったが、講話の中で尊敬の念をたびたび口にしていた。さらに、中共政府を倒すためには大陸反攻をしなければならないから、義勇軍の創設や自衛隊の協力が必要だと、近しい人には漏らしていた。

 さらに、世直しのために神道を基本にした「天下英雄会」の設立を提唱した。もっとも、天下英雄会は人と人との結びつきだとして、組織にはしなかったから、葦牙会と同様な発想だったと言っていいだろう。

 保田與重郎氏(一九一九~八一)は日本浪漫派の中心的な文学者で、文芸評論家として多くの著作を出している。大東亜戦争を肯定したとして戦後に公職追放されたが復権、日本の美を追求した文章は華麗である。胡蘭成氏の心経随喜や建国新書に華麗で格調高い文章で序を寄せている、

 荒木駿馬氏(一八九七~一九七八)は天文学者として有名だが、保守論壇の論客としても活躍した。後に京都産業大学の初代総長に就任、岡先生を教養論の教授として招くなど、独特の学生教育を行った。惑星論で有名な天文学者の宮本正太郎は弟子の一人で、教え子には湯川秀樹や友永振一郎のノーベル物理学者を輩出している。

 そして、梅田伊和麿翁の夫人、美保師である。

 梅田筵では月に一度、胡蘭成氏による般若心経や文明論の講義があった。最初はそれに仲間と参加していたのだが、ある時、午前中に神道の行が行われていると知り、二人の仲間と受けさせてほしいと願った。

「本当にできますか」

 美保師は心の奥底まで見通すような鋭い視線と声で問い質した。妥協を許さない迫力だった。体が凍り付く思いだったが、口にしたからには引き下がれない。凄まじい圧迫感を感じながら、やります、と答えたことを覚えている。

 こう書くと、美保師はずいぶん恐ろしい人のように思われてしまうが、道を求める若人を、親身に導こうという優しさに溢れていた。明治四十年生まれだから、当時すでに六十代半ばのお歳だったが、声は二十歳で通る若い澄んだ声で、何も知らずに電話をした人が、若い女性が住んでいると勘違いするほどだった。

 こうして私たちは神道の修行を始め、胡蘭成氏の講義がある前々日の金曜日か前日の土曜日に、泊まり掛けで梅田筵を訪れ、朝の神事を受けるようになった。

 修行生はさまざまだった。住み込んでいる学校の先生、仕事を持っていて休みに通う上場企業の幹部社員、若い企業戦士や学生など、立場の異なる多くの人たちが、岡先生の著書に導かれ、神道修行を志したのだった。

 フ 春の雪

 春三月の筑波山は、日中は新しい生命が息吹く新緑の爽やかな匂いに胸を膨らませ、朝晩は思わず身を縮めるような冬の名残の寒さに震え上がる。冬から春へと移り変わる境は、神々の戯れの季節かもしれない。

 私を含め五人が断食行に入ったのは、昭和四十六年三月初めだった。

 参加者は大学から私を入れて三人、岡先生が京都産業大学で教鞭を執るというので、私たちの大学を中退して産大へ転じた一年後輩、さらに梅田筵の修行生が一人の、計五人である。

 産大の後輩によると、岡先生の講義は大教室で行われ、立ち見どころか部屋から溢れ出るほどの人気だったという。

 断食の二、三日前から食事の量を徐々に減らし、行入りから一週間は水だけの生活。さらに同じ期間をかけて、水のような重湯から食事を元へ戻していく。

 食事をしないのだから体は痩せ、体力は衰えていく。文字通り、身を削ぐのである。

 泊まるのは道場で、各自が寝袋を持ち込み、板間に筵を敷いた床に寝た。

  断食入りの当日の朝、目覚めると筑波山は真っ白な雪に覆われ、震え上がる寒さだった。

 筑波山はあまり雨が降らない。このため、訪れた際に雨が降ると、土地の神々に歓迎されていると言われる。

 雨が歓迎なら雪は大歓迎? とばかり、それぞれが気持ちを奮い立たせた。

 日待ちと鳥船行、振り魂を広場で行じ、道場へ入って磐座神事を終えると九時ころになる。美保師が住居の「梅の家」から上がってきて、起(た)てた神籬の祓いの後、降神詞(かみくだりのことば)を唱えて天つ神、国つ神、八百万の神々の降臨を願う。

 祝詞の後に「ををー」という神々の降臨を表す警蹕(けいひつ)が続く。降神の場合、警蹕の声は初め小さく、徐々に大きくなって、神籬に降(くだ)ったときが最大になる。高天原という無限の遠方から神降るわけだから、降臨の際の音、すなわち警蹕の声は、遠くから聞こえて大きくなるように臨場感が込められている。昇神の場合は、逆に始め大きく、次第に小さくなり、やがて高天原へ消えていく。

 神籬は古伝に倣って鏡と珠、垂(しで)が取り付けてられている。不思議なもので、降神祭が終わると、道場全体に凛とした気配が張り詰めたように感じられた。

 続いて神行事(みわざ)始(はじめ)祝詞で神々に断食行の成功を祈る。

 断食中は無言の行で、祝詞などの善言美詞以外は声を出してはいけない。これが意外と辛く、日常の生活に言葉がいかに大切か、身を持って体験した。

 行は朝の日待ち、鳥船、振り魂、発声(気合)の鍛練から始まり、神籬神事、磐座神事、瞑想、神楽、礼法などを行う。

 礼法といっても本格的にやったわけではないが、梅田筵にたまに来られていた坂寄(さかより)紫香(しこう)という小笠原流礼法の最高師範に、座り方、立ち方、歩き方、お辞儀の仕方などを教わり、それを行の一つとして実践した。

 坂寄師の紫香は号、本名・美都子、後に「せつ」と改名した。礼法の最高師範であると同時に、薙刀香道の達人で、小柄だが修練のたまものか、いまは廃線となった関東鉄道筑波山入り口駅でホームから転落した際、くるっと回転して立ったといい、駅員が女天狗だと呆れたそうだ。八十歳を超えた年齢のときだから、奇跡としかいいようがない。

 また、寺社への参拝で長い階段を登るとき、手を引かれるのを嫌ったといい、最期の数十段では若い人がへばってしまうのに、軽々と登ったという。本人曰く、「最期のところに来ると、誰かが上へ引っ張り上げてくれているようだ」と平然としていた。

 坂寄師は実践女学校(現実践女子大)を創立した下田歌子の側近で、海外留学生の寮の舎監をしていた。その当時の坂寄女史を、歴代総理の相談役、ご意見番といわれた安岡正篤が、最高の日本女性と絶賛したと伝えられている。

 八十代半ばなのに、正座の姿勢は背筋がすっきり伸び、清楚さと不思議な色気は、美しいというしかなかった。

 何度も顔を合わせているのに名前を覚えてもらえず、悔しいこと甚だしいが、「雀の顔の違いが分かりますか」とはご本人の弁。

 さて、まず正座からの立ち方だが、両手を軽く握って両股の上に乗せ、丹田に力を入れる。そして、足首を曲げて親指を立て、踵に腰を落として体重を掛ける。その時、背筋を真っ直ぐ伸ばし、目は前方をしっかりと見つめる。立てた親指に体重を掛けるのは、痺れた足に血を通わせ、粗相なく立ち上がれるようにするためだという。

 次に右膝を立てて立ち上がり、両足を揃えて両腕は体の横に伸ばす。

 歩き方は足の親指を少し反らせ、小股にして擦り足で進む。次に立ち止まり、両足を揃えてから左足を少し後ろへ引き、立ち上がった時と同じように、親指を立てて曲げた足首に腰を落とし、一呼吸置いてから足首を伸ばして座る。両手は両股の上で軽く握る。

 軽いお辞儀の揖は、そのままの姿勢で背筋を伸ばして上体を傾ける。深い礼は、正座から少し前かがみになり、両手の掌を体の横の床に付け、息を吐いて体を深く折り曲げながら、両手を床の上を滑らせて、お辞儀した顔の前で揃える。これが最敬礼で、礼の軽重によって体の傾きを三分や七分にする。

 たったこれだけの動作だが、動きと呼吸がすべて関連していて、満足のできる立ち居振る舞いはできなかった。何事も奥が深いと実感した。

 一連の行は朝の六時くらいから始まり、お昼ころには終わる。

 断食をするのだから、あまり体を動かさないのだろうと思う人がいるかもしれないが、そうではない。行が終わると、次は作業奉仕。道場の横手に記念碑を造る計画があり、その場所の整備を行った。しかし、エネルギーの元となる食事をしていないのだから体に力が入らず、作業は遅々として進まない。後から断食中にした仕事量を見て、あまりの少なさに呆れたものだ。

 そして夕方になると、午前中と同じように一時間ほどかけて磐座神事を行う。これで一日の行はほぼ終わりだが、無言の行なので参加者と雑談をすることはできない。それぞれが思い思いに時間を使う。

 食事をとらないと睡眠時間が少なくて済むというので、無言に加え寝ずの行もやったらどうかと、寝袋に下半身を入れて瞑想を試みた。しかし、息吹永世をしても、筑波山の夜の冷え込みは尋常でなく、寒さを凌ぐために全身を寝袋に入れると眠ってしまうという状況だった。

 ミ おたけび

 初日は降神式などがあったから、翌日からが本格的な斎籠行である。夜明け前に起きて、道場の近くにある広場で日待ちから一日の行が始まる。その中で、発声(気合)について特記しておこう。

 気合は武道にとって非常に重要なもので、攻撃に「気」の発現を合わせ、肉体的な力だけでなく、全身全霊で相手に打撃を与えるために発する。気と物理力が合致したとき、凄まじい攻撃力が生まれる。

 神道では気合を雄叫建(おたけび)、雄誥(おたけ)びと言って、祓いや清めの重要な神業としている。梅田筵では二種類の気合を掛けていた。

一つは「エイ」「ヤァー」「トォー」で、直心影流の免許皆伝だった伊和麿翁が、剣の打ち込みから考案したものである。右手の人さし指と中指を伸ばし、親指と薬指、小指を折って指刀をつくり剣に見立てる。この指の形を、天沼矛(ぬぼこ)と名付ける神道家もいる。

 姿勢を正して立ち、左の腰に剣を帯びていると想定し、「エイ」で剣を抜き、一歩踏み込み「ヤァー」で相手目掛けて打ち下ろし、右足を下げて「トォー」で剣を右側に引いて残心する。

 武道は攻撃の後に必ず残心の体勢を取る。相手の反撃に対応するためだが、いつでも戦う用意があるということを相手に知らしめ、戦意を喪失させる効果もあるからだ。無用な戦いはすべきではないということだろう。

 もう一つの雄叫びは、「アッ」「イェーッ」「エィーッ」「タァー」で、こちらが神道の発声だと思われる。「アッ」は言霊五十音の最初の言葉、「イェーッ」で罪穢れを祓い、「エィーッ」で祓った罪穢れの霊位を昇格させる。「タァー」は天岩屋戸を押し開いた天手力男神の「タ」で、祓った相手の心の岩屋戸を開いて、天つ神から与えられた直霊を顕現させる。

 稜威会の川面凡児は、「雄健雄詰(おころび)」と名付けて、「エーイッ」「イーエッ」とことあるごとに気合を掛けていたと、「川面凡児先生傳」に記されている。川面凡児は雄詰という言葉を好んで使ったそうだが、大変な威力を発揮したという。

「川面凡児先生傳」には、稜威会のある幹部の自宅が関東大震災で火事になったとき、その人が雄健雄詰して燃え盛る家の中へ戻ると、行く手を阻む火が消えたとある。

 気合で火事が消えるなんて嘘に決まっていると思う人もいるだろうが、雄叫びは不思議な威力を発揮するものである。

 梅田筵でも同じようなことがあったそうだ。「そうだ」と伝聞にしたのは、私が目撃したからではないためで、その奇跡的な出来事を目の当たりにしたのは胡蘭成氏だった。

 梅田筵は敷地の山腹に梅木が何本も植えられていて、冬になると大地が枯れた雑草で埋まる。

 梅田筵は筑波山の麓から筑波山神社へ行く途中にあり、観光客がたまに紛れ込んで来ることがあった。車が入って来れば音で気付き、注意して帰ってもらうのだが、徒歩で入って来たのだろう。その時、梅田筵にいたのは、たまたま美保師と胡蘭成氏だけで、闖入(ちんにゅう)者に気が付かなかったらしい。

 突然、パチパチと火が跳ねる音がしたそうだ。驚いた美保師と胡蘭成氏が外へ出ると、枯れた下草が燃え上がって梅木に移り、山の下から上へと燃え移っていくところだった。おそらく闖入者のタバコの不始末だろう。

 放置すれば、筑波山は山火事を起こしてしまう。胡蘭成氏は慌てて消防署へ電話をと叫んだ。

 その声をよそに、美保師は燃え上がる火に向かって祝詞を上げると、「アッ」「イェーッ」「エィーッ」「タァー」と雄叫びをぶつけた。するとどうだろう。

「驚いたことに、上へ移っていく火が、逆に戻ってきた」

 後から私たち修行生に、胡蘭成氏がこう述懐していた。

 火が戻ってくるのを確認した美保師は、おもむろに消防署へ電話をした。しかし、消防車が駆けつけた時には火は完全に消えたおり、「どうしてだろうか?」と消防士が不思議がっていたという。

 この事件の後、私が梅田筵を訪れた際、梅木に焼けた跡が歴然と残っていた。梅木の火が消えなければ、大変な山火事になっていたに違いない。

 美保師によると、火事を消したのはこれ一度ではない。東京・麻布の現在のロシア大使館裏手の低地に麻布道場を構えていたとき、米軍の無差別空襲があった。今のロシア大使館がある場所は、当時も今も高台になっている。

「梅田道場なら安全だろう」

 とばかり、道場ゆかりの要人たちが、子女を預けていた。

 しかし、米軍機は容赦なく焼夷弾を無差別に落としていく。麻布道場の周りも焼夷弾でやられ、道場に火の手が近づき全員で高台へ逃げる。

 高台から見ていると、火が道場へ迫ってくる。火が道場の一帯を呑み込む寸前、美保師が祝詞を上げ気合を掛けると、迫っていた猛火はするすると後ろへ下がっていく。

 そんなことを何度か続け、麻布道場とその周りだけが焼け残ったという。

「火を消すには、水の神様をお招きすればいい」

 とは、美保師の冗談交じりの言葉だ。

 火に向かってどういう祝詞を上げたのかわからないが、十種瑞乃神宝と布留部詞だと推察される。というのは、神籬神事の際に、この二つの祝詞の後に気合が掛かるからである。

 さて、雄叫びだが、古事記では「伊都(いつの)男建(おたけび)」、日本書紀では「稜威)雄誥」とあり、速須佐之男命が高天原へ押し掛けたとき、天照大御神が雄雄しく迎えたのが始まりだ。日本書紀ではさらに「稜威の嘖譲(ころひ)を発(おこ)して、ただに詰り問ひたまひき」とある。「嘖」」譲」ともに「せめる」意味だ。川面凡児が気合を、雄健雄詰と名付けているのは、嘖譲からきたものだと推察される。

 気合は九字を切る修験道や仏教など多くの宗教が取り入れている。罪や穢れを祓い、魔を寄せつけないようにするのが狙いである。だが、祓っただけでは、罪穢れや魔がほかの人に憑(つ)いてしまう。これでは、自分だけよければいいという利己主義そのもので、まともな宗教とは言えない。

 祓った罪穢れ、さらには魔を、「エィーッ」で霊的に昇格させてやり、「タァー」で霊の岩屋戸開けをして、祓ったさまざまなものを神々の世界へ送るのが神道だ。罪穢れや魔の昇格がない宗教は、百害あって一利なしである。

 さて、修行生は毎朝、この発声をするのだが、断食しているので体に力が入らない。従って、声が普段より小さいのだが、続けているうちに腹から声を出せるようになり、近くで聞いているとさほど大きな声でもないのに、鶏の鳴き声のように遠くまで届くようになる。さまざまな行で、声が腹という生命の中心から出るようになったからだろう。

 断食の中日(なかび)を過ぎたころからだっただろうか。私は不思議なことに気がついた。

 気合を「イェーッ」と掛けると、空気の色が変わり、どこまで届いているかわかるようになったのだ。

 錯覚かもしれないが、こればかりは体験した人間でないと理解できないだろう。(続く)

 

巻の八 後編 古神道の実際の修行法

 イ しづめ

 直霊を発現するためには、禊祓いに加え、鎮魂行が必要である。罪穢れを禊祓っても、肝心の直霊が体から遊離していては発現できない。遊離している魂を腹に鎮魂(しづめ)て、初めて神人一体となる。

 鎮魂行の一つが神籬神事、あるいは「ふる行事」といわれるもので、「高天原の神秘を解し、魂気の実在とその作用を体得する」(梅田筵祝詞集)という行である。

 こう書くと、一般の読者は抽象的でよく理解できないだろうから、具体的にどのようなことをするのか、文章で説明するのは難しいが、一日の行を可能なかぎり再現してみよう。

 朝、日の出直前に起き、外で東に向かって立ち、右の掌を上に向け、下に向けた左の掌を交差させて被せて組み、玉を持つように膨らみを作って丹田の前に置き、祓いたまえ清めたまえと唱え、全身を揺すりながら手を上下に振り、陽が昇るのを待つ。いわゆる振り魂だ。

 陽が昇ったら、両手を高く上げて、太陽の「気」を全身で受け取るつもりでゆっくりと鼻から息を吸い、手を合掌して下ろし、腹の前で振り魂をして丹田に気を籠める。十分に気が籠もったら、体を前に傾けつつゆっくりと口から息を吐き、手が地に着いたところで息を吐き切る。この時、体にあるわずかな邪気をも、手と足の裏から地球の奥底へ吹き込んでやるという気持ちで、全身に残っている息をフツと吐く。フツと吐くことで、邪気を清めてやる。

 次は鳥船行事で、左足を一歩前に出し、腰を伸ばして両手を少し前へ出す。船の櫓を漕ぐ体勢だ。腰から下は動かさず、腹を中心にして腕と上半身で船を漕ぐ動きをする。この時、腹に気を籠(こ)め、エイィーッ、エイィーッと掛け声を上げながら、地球という船を漕いでいると想像する。次は右足を前に出して同じように行ずる。

 日待ちも鳥船も気を腹に溜め、体の中の邪気を吐き出すつもりで何度か繰り返す。続けると、冬でも全身が熱くなっていく。

 禊をして再び振り魂をして外での行を終る。

 道場に入り、安座の姿勢になり、息吹永世をしながら導師が現れるのを待つ。

 導師は道場の前方に鎮座する神籬を拝し、修行生を火打ち石で祓い清め、向かい合って座る。この時、修行生は息吹永世を続けながら、目を閉じ、合掌した手を顔の前に置く。

 修行生を前に、導師は祝詞をあげ、祓い清め、鎮魂を行う。祝詞は三種祓詞から始まる。梅田筵の祝詞集は、言霊という観点から、すべて「ひらがな」になっている。

 

 とほかみ ゑみため

 とふかみ ゑひため

 とをかみ いむため

 はらひたまひ きよめたまふ

 

 通常、三種祓詞は「とほかみ ゑみため」を三回唱えるとされているが、梅田筵では三回とも異なる言葉をあげていた。「とふかみ ゑひため」は古史古伝の「上記(うえつふみ)」にある言葉である。

 三種祓詞を重視したのは、国学四大人の後継者を任じた大国隆正だった。大国隆正は三種祓詞を次のように唱えていたそうである。

 

 吐普(とほ)加身依(かみえ)身多女(みため)

 寒(かん)言(ごん)神(しん)尊(そん)利(り)根(こん)陀(だ)見(けん)

 祓(はら)ひ玉(たま)ひ清(きよ)め給(たま)ふ

 

 いつの時代か、「吐普加身依身多女」を天津祓、「寒言神尊利根陀見」を国津祓、「祓ひ玉ひ清め給ふ」を蒼(あお)生(くさ)祓と呼び始めた。

 国津祓は八卦の天地万物のことで、八方位や八つの元素などを表しているといわれている。だが、「寒言神尊利根陀見」という言葉は、大和言葉ではあり得ない。易経八卦「乾(けん)兌(だ)離(り)震(しん)巽(そん)坎(かん)艮(ごん)坤(こん)」の文字と順番を入れ替えたものである。

 これでは伯家に伝わっていた三種祓詞そのものなのかという疑問を禁じえない。

 陰陽道に詳しい神道家の戸矢学氏は「陰陽道とは何か」(PHP研究所)で、「陰陽道で重んじる祓(はらえ)呪(しゅ)に『三種祓』がある」と述べている。「寒言神尊利根陀見」を含んだ三種祓詞は陰陽道や、それに影響された吉田神道で唱えられた詞のようだ。

 どれが本来の三種祓詞なのか明確ではないが、三種というくらいだから、三つの唱え詞があってしかるべきだろう。だがそれは、大和言葉だと考えるのが妥当ではないだろうか。

 とほかみえみための意味は不明だが、「遠つ神笑みたまへ」からきているとか、「とほ」を刀(とう)、「かみ」を鏡、「ため」を玉とする解釈がある。つまり、三種という言葉は、鏡、剣、玉の三種の神器を表しているというのである。

 三種祓詞は伯家神道、すなわち皇室で唱えられた門外不出の祝詞だったから、外部に伝わるにあたり、さまざまに変質した可能性がある。残念だが、伯家が断絶した今となっては確かめようがない。

 三種祓詞を宗教として世に広めようとしたのが、神道禊教の開祖といわれる井上正鐡(まさかね)(一七九〇~一八四九)である。井上正鐡は伯家に入門し、正式に神職となり、三種祓詞の言霊修行や鎮魂帰神、息吹永世を武士や大衆に指導し、「とほかみ神道」を唱えた。

 しかし、何人もの大名が井上正鐡の教えを受けたため、尊皇の志が広まるのを恐れた時の幕府が、天保十二年(一八四一年)に弾圧に乗り出し、翌々年には三宅島へ流された。天保時代は東北の大飢饉や大塩平八郎の乱などで世相が乱れ、幕府が神経質になっていた乱世であったから、井上正鐡のような弟子の多い人物は危険視された。

 三種祓詞は神籬神事のときに導師があげるだけでなく、修行生が大祓詞をあげるときや、後に述べる磐座行事という十種瑞御寳鎮魂行のときにも必ず唱える。

 その時、三十センチほどの金木(堅い木)に、細く割いた十五センチほどの長さのスゲを結び付けた祓い串を、一般の神主が持つ笏(しゃく)のように目の高さに取り持ち、「はらひたまひ きよめたまふ」の唱え詞のところで、天、地、人と祓う。

 この祓い串は、大祓詞の中程にある「天つ金木を本うち切り末うち断ちて、千座(ちくら)の置座(おきくら)に置きたらはして、天つ菅麻(すがそ)を本苅(か)り断ち末苅り切りて、八針に取り辟(さ)きて、天つ祝詞の太祝詞事を宣れ」とある金木と菅麻だ。

 前にも述べたように、大石凝真素美や川面凡児、今泉定助は金木と菅麻を占いの道具だとした。こうした権威ある先達に異を唱えるつもりはないが、大祓詞の文脈を素直に取れば、金木と菅麻は祓いの道具となるのではないか。

 細く割いた菅は「けがれを祓うためにまき散らす材料」(日本古典文学体系)であるから、それを金木に取り付けて祓い串にしたと考えるのが妥当だろう。現在でもスゲで作った輪を潜って祓う「茅の輪くぐり」の行事が各所で行われている。

 また大祓詞の「天つ祝詞の太祝詞事を宣(の)れ」と唱え、一拝し一呼吸置く場面では、梅田筵は伯家神道に倣って三種祓詞としていたが、大祓詞をあげるとき、実際に三種祓詞を声を出して唱えることはなかった。胸のうちで静かに唱えろということなのかもしれない。

 神籬神事では三種祓詞に続いて、祓禊詞、十種神寳祓詞、十種瑞乃神寳、布留部(ふるべ)詞、日文(ひふみ)詞、岩戸開、永世詞、三科(みしな)祓詞と、導師が鎮魂の祓詞を上げていく。

 この間、修行生は目を閉じ、合掌した手を胸より上に置き、静かに息吹永世を続ける。時間にして二十分ほどだ。

 導師のゆったりとした祝詞の声は、不思議なリズム感があって、詞一つ一つが、体の奥底の御霊を揺り動かすような体感があった。

 言霊を身に受けながら息吹永世を続けていると、合わせた掌が熱を持ってじっとりと汗ばんでくる。修行生によっては手が舞のように動いたり、ぶるぶると激しく震えることがある。その場合、祝詞の声に動きを委(ゆだ)ね、意識で動きを止めないようにする。

 合わせた掌が激しく震えるのは、ある種の霊動だ。「み」を「つつ」んでいた罪穢れが言霊で祓われ、修行生の守護神や産土(うぶすな)神、先祖霊、さらには憑依していたさまざまな「モノ」が浮き出してくるためである。

 一人で息吹永世をしていて霊動が現れた場合は、手を腹の前に下げて抑えなければならないが、神籬神事の場合は導師が鎮めてくれるので動くがままにする。

 神籬神事を受けた後は、身にまとわりついていた「つつむ」ものが、すべて祓い清められたという爽快な気分になる。

 熱いほどになった掌で、病気の箇所を撫でたり、怪我を覆うと、症状が改善するという。昔から病気を癒すことを「手当て」というが、掌から何んらかの力が出てくるのだろう。

 子供が転んで泣いたとき、打ったところを「痛いの痛いの飛んでいけ」と掌でさすったことは、多くの人が経験しているだろう。言葉の暗示と掌の力が、子供の痛みを軽減し、さらに怪我を治しているのに違いない。

 最近はハンドパワーとか、てのひら療法などという言葉をよく目や耳にする。MOA美術館で有名な世界救世教や、真光の名称のある複数の新興宗教は、「手かざし」で浄霊をする。掌にはそれだけの神秘な力があるからにほかならない。

 だが、誰でもハンドパワーで病気を治し浄霊ができるわけではない。厳しい修行を経て、初めてハンドパワーを身につけられるのである。ただ、ハンドパワーの取得だけが目的になると、悪霊が寄ることもあるから、安易な行動は慎むほうがいい。中には何の効果もないのに、ハンドパワーを得られるスクールなどと称し、多額の指導料を取る詐欺まがいもあるから気をつけなければならない、

 神籬神事の導師は、霊動を抑えられる行が進んだ人物でなければ、務めることはできない。さらにいえば、行の浅い導師だと、現れた霊を鎮めるどころか、自分に憑(つ)いてしまう。霊を祓い清め、霊位を上げることのできる力の持ち主でなければ、神籬神事を軽々しく行ってはならない。

 本来、神籬神事は鎮魂を受ける修行生を八人の先達が囲んで行ったそうだ。結界をつくり、外から悪しき禍津日(まがつひ)が寄らないようにしたのだろう。菅田正昭氏は御簾内の行は、八人の巫女、八乙女が回りを囲んだと記している。

 私が受けた神籬神事では、八人で結界をつくることはなかった。ただ、神懸かり行のときは、依(よ)り代(しろ)となる神主を禍津日から守るために、結界をつくるのだそうだ。残念ながら、私はそういう神事に参加する機会はなかった。

 結界をつくる八人は、それぞれ異なった霊力を持った人物ということだった。白川神祇伯時代に祭っていた八神殿の八神にちなんだもののようだ。この八神殿神祇伯の廃止で明治政府に返還、八神は現在、皇居神殿に祭られている。

 ム いわくら行

 神籬神事は導師が修行生の御魂を鎮魂(しづめ)めることから、他修鎮魂ともいった。これに対し、自ら丹田を練る行を磐座行事、あるいは「ふつ行事」、さらには自修鎮魂ともいう。

 磐座行事の目的は、正しい言霊を発声できるよう腹に気を溜めることである。言霊は誰でも発することができるわけではない。きちんとした修行で腹を練って、はじめて霊威が現れる。

 一般人がいきなりオペラ歌手になっても声が出ない。オペラ歌手は腹から声が出るように訓練しているから、マイクなしでも遠くまで声が通る。それと同じで、腹ができていない人間に言霊は出せない。言霊には、物理学的な音声の波動だけでは説明できない、深い神秘性が隠されている。

 磐座行は言霊を発現できるよう、ハラを練る行である。丹田に息を溜めて気を練り、生命の中心から声を出し、言霊を顕現させる。

 具体的にどのような行かといえば、神籬神事と同じで、言葉で説明することはなかなか難しいが、可能なかぎり記そう。

 初めに、息吹永世と同じように安座し、場所の神に修行の場をお借りする挨拶をする。これで行の妨げになる諸々のモノが、外部から近寄れないようになった。

 唱える神々は五種類あり、一番から五番まで、順に唱え、後半は逆に唱える。(道を行く 飯泉春長 非売品)より。 

 

 第一種 天照大御神、豊受の大神、代々(よよ)の御祖の神、八百万の神

 第二種 荒御、和御魂、幸御魂、奇御魂、大穴牟遅(おおあなむぢ)の神、大国主(おおくにぬし)の命(みこと)

 第三種 十種の神宝(おきつ鏡、へつ鏡、八束(やつか)の剣、生(い)く玉、まかる返しの玉、足(たる)玉、ちがえしの玉、蛇(おろち)のひれ、蜂のひれ、種種(くさぐさ)もののひれ)

 第四種 宮中八神と善導の二神(神産霊(かんむすび)、高み産霊(むすび)、生産霊(いくむすび)、足(たる)産霊、玉つめ産霊、大みやめ、みけつ神、事代主(ことしろぬし)、神直日(かんなおひ)、大直日(おおなおひ)の神)

 第五種 全国一の宮を念じ、六十四拍手

 

 第一種を唱え終わったら、息をゆっくり吸ってから合掌した手を高く上げ、腕を開いて体の横を下ろしながら息を吐いていく。そして、体を二つに折って指を開き、左右の人さし指と親指を合わせて床の上で揃え、出来たハート型に、腹に残っている最後の息を「フツ」と吐き切る。八俣遠呂智の命を断ったフツ音だ。

 左右の人さし指と左右の親指をそれぞれ合わせた指の印を、伯家神道では「太陽の印」と言ったようだが、どのような場面で印を結ぶのかは詳らかではない。

 次に両指を組み合わせ、腕を前方に伸ばし、掌で神宝をすくい取る気持ちで丹田に打ちつける。本当に打ちつけなくても、すくい取った神宝を丹田に鎮めるという意識を持つ。

 丹田に掌を打ちつけるたびに、オキツカガミ一つ、ヘツカガミ二つ……クサグサモノノヒレ十(とう)と、十種神宝を大きな声で唱える。

 打ちつけ終わったら両手を開いて前方斜め上に高く広げ、両手を振り魂の形にして息を鼻からゆっくり吸い、左手を上にして丹田の前に置き、しばらく気を溜めてから、最初のように合掌した手を上げながら細く息を吐き、さらに体側を通して体を折り曲げフツと息を吐き切る。

 次は、両腕を左右に開き、息を吸いながら体側を通って頭の上で合掌し、吸ったすべての息と気を丹田に鎮めるという意識を持って腹の前へ下ろす。この時、「このとくさのみたからを、そろヘて、ならべて、いつき、いまはり、さらに、たねちらさず、いはひ、おさめて、こゝろ、しづめて」と念じながら、振り魂の手の形を左上、右上、左上と変化させ、最後は指を組み合わせ、息を止めて胃に入った空気を抜き、腹に入った気を全身の力で丹田に納めるよう、「ウッ、ウッ、ウッ」と、小さい声を出して力を入れる。

 息が我慢し切れなくなったら、腕を思いっきり突き出して体を前へ倒し、組んでいた手を解いて広げる。この時、腹に溜めた気を、「アーッ」と気合をかけ、全身の力で一気に吐き出す。

 続けて、左、右、後ろ、前方真ん中と、十種神宝をすくい取る動作を繰り返す。腹を練り、気を丹田に納め、十種神宝を身に付ける行だ。正式な名称は、十種瑞御寳(みづのみたから)修法と言う。

 これで前半が終わり、三種祓詞と大祓祝詞をあげる。

 後半は第五種から唱え同じ動作を繰り返す。

 拙い説明を試みたが、神籬神事にしろ磐座行事にしろ、道彦の指導で体験してみないと、実際の動きがどういうものなのか、理解することはできないだろう。神道の行は学問とは異なり、体で覚えるしかないものである。

 梅田筵の十種瑞御寳修行法は、石上神宮に伝わっていた修行法に、極意を悟った伊和麿翁が独自に工夫した行法が加わり、前述の磐座行事になったようだ。

 神籬と磐座は神が宿る依り代、さらに磐座は神籬を支える土台でもある。神籬神事は天兒屋命が捧持して天孫と降臨し、磐座行事は天孫降臨に先立ち、十種瑞御寳修法として邇藝速日命が天降って石上神宮に伝えた。神籬神事と磐座行事がそろって、はじめて鎮魂行の体系が整うことになる。

 禊、祓い、清め、鎮魂は、神道の基本的な行である。そして、祭祀の前に執り行い、神々を祭る準備をするものである。

 祭祀というと神々へ奉仕する神事だけを思い浮かべがちだが、前修行事、つまり前もってこれだけの行があってこそ、はじめて神々を真正面から祭る資格が得られるのである。単に神々に仕える祭りをすればいいというものではない。

 伊和麿翁の生前最後の弟子で、筑波山神社宮司を務めた青木芳郎氏は「斯の道」(梅田伊和麿口述 梅田開拓筵刊)発刊に際し「梅田筵三十周年を迎えて」という文を寄せ、次のように述べている。

 

 この時参列者の一人から、梅田筵の神事は新興宗教や神社の神事とどう違うのかと問われた。私は「梅田筵の神事は、神社で行われている神事祭礼の原初の手振りと精神を承け継いでいるように思う。特に本番の祭りに入る前の神事が厳しく、形式化していないところが尊い」と答えた。

 

 中西旭氏は「神道の理論」で「祭祀する者は各自それに適(ふさ)はしき準備と資格があらねばならぬ。先づ、罪(つみ)穢(けがれ)あらざるべく更に神霊に共通し得る清浄の自我に到らねばならぬ」と前修行事の重要性を強調している。

 ナ 神楽

 さて、神楽は麻布道場時代に、伊和麿翁の幣祓いで女学生が無意識に踊った手振りからつくられた。神楽歌は独特の節回しで、舞は単純ながら深みのある手振りである。

 伊和麿翁は毎年夏、奥多摩の琴平滝近くの山荘に参籠し、二十余人を引率して玄米の粥に梅干、ゴマ塩の食事で滝修行をし、禊祓いを実践していた。胡蘭成氏の著書「建国新書」は次のように書いている。

 

 翁は剣道で神道を悟ったので、ぬさの祓ひ方は尋常の神職の比ではない。殊にその中の女学生数人の娘たちの頭上を祓ふと、娘たちの身体はすーと立ち上り、舞ひ出す。数人の娘たちはみな同じ手振りをして目は閉ぢたまま舞ふ。後できくと、この娘たちは曽て舞ったこともないのに、空中に鈴の音も聞え、絵にもない虹のような絹が漂ってくるので、自然に引かれて舞ひ出し、とても好い気分であった、といふ。

 

 麻布道場では、国を憂えるさまざまな人たちの子女を預かり、神道の指導を行っていた。禊に参加したのはそうした女学生たちで、「翁が幣で娘さんたちの頭上を祓うとみんな舞いだした。みんなきれいだった」と美保師は述懐していた。

 神楽は天照大御神が天岩屋戸に籠もったとき、天宇受賣命が神懸りして踊った古伝が基になっていて、岩戸神楽と名付けられている。

 古語拾遺天照大神が岩屋戸から現れたとき、神々が「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、をけ」と歌って踊ったと伝えている。この詞は、梅田筵では神籬神事の際、岩戸開という祝詞として唱えられていた。

 神楽は神懸りして楽しく嬉しく舞い踊り、天照大御神が岩屋戸を開いたように、人々の根本心である直霊を開発する。

 

一(ひいと)、二(ふうた)、三四(みひよ)、五六(いつむゆ)、七(なあな)、八九(やここの)、十(たあり)

はらひたまひ、きよめたまひ、さきはへたまへ、みおやの、みたま、

百(もーも)、千(ちーひ)、萬(よろず)

 

 この神楽歌は七五三のテンポになっている。最初の一から十までが七、はらひたまひからみたままでが五、百以下が三だ。

 一で左斜め上へ両手を動かして祓い、二で右斜め上、三四で左斜め下、五六で右斜め下、七で両手のひらを上にして体の前で上下させ、八九で開いた両手を前で回転させ十で合掌する。

 はらひたまひからみたままでは同じ手振りで、テンポが速くなる。最後の百は手のひらを上に向けてそれぞれの股の上で動かし、千で胸をさするようにし、萬で手のひらを上にして体の前で二度上下させて一揖する。

 言葉で書くとこんなふうになるが、舞を口で説明しても実際を理解することは不可能だ。道彦の指導で神楽を自分で行じるか、見るかしないと、本当の動きはわからないだろう。

 安座か正座をして無心にこの神楽歌と手振りをしていると、不思議に心楽しくなり、邪念がなくなっていく。単調な歌と手振りが、無我の境地へと誘うのかもしれない。

 このように、祭祀は天照大御神や八百万神をただ拝礼するのではなく、その前に厳しい前修行事が必要なことを知らなければならない。

 そして、「すめらみこと」はさまざまな行事を務め、祭祀に望まれている。そこには厳しい前修行事が存在していることを見逃してはならない。

 今上陛下(現上皇陛下)の御年齢や御体調を心配して、宮内庁は皇室祭祀を簡略化する傾向にあるが、簡略化するなら御公務を減らすべきである。にもかかわらず、祭祀の簡略化が進められているのは、宮内庁が皇室から神道という神秘的な神事を、信教の自由に反するとして、排除しようとしているとしか思えない。

 しかし、それは「すめらみこと」の「すめらみこと」たる前修行事まで簡略化され、皇室から神事の大切な伝統、神秘性が失われていくことにほかならない。

 明治三年に神祇伯が廃止されたため、「すめらみこと」が行ずる「祝(は)ふりの神事」が消失したとされている。それがどういうものか、断片的にしか伝わっていないが、天皇天皇である由縁の神事さえ、神の道を理解できない政治家や官僚のために、失われてしまったのである。

 明治天皇の御製を胆に命じなければならない。

 

 わが国は 神のすゑなり 神まつる

 昔のてぶり 忘るなよゆめ

 

 

 巻の八 前編 再興された昭和神祇院

 中国戦線が泥沼化し、日独尹三国同盟の調印で緊迫化する世界情勢の中で、明治初めに廃止された神祇院が、昭和十五年十一月に再興された。政府は神祭りが重要だと認識を新たにしたのだろうが、「官僚神道」を主導してきた当時の政府は、神祇をどう扱っていいのか見当すらつかない状態だった。

 そこで白羽の矢が立ったのが、祭政一致を唱える祭政会麻布道場だった。神祇院総裁を兼務する安井英二内務大臣や、白川伯家最後の当主となる白川資長らが修行法を検分し、政府要人の修行や家庭祭祀の指導を仰いだのである。

 公にすべきではない秘史かもしれないが、まず祭政会がどのようなものだったのかから記述していこう。

 ヒ 祭政一教学道場

 祭政会を設立したのは、元代議士の梅田伊和麿翁である。伊和麿翁の著書「皇国の本義(古事記謹解総論)」の後書きを、神道行事の相伝を受けた故高堂良夫氏が書いている。それらから伊和麿翁の歩んだ人生を簡単に紹介する。

 梅田伊和麿翁は本名梅田寛一、明治十年十一月十日、広島県深安郡御幸村に生まれ、十六歳から剣道の修行に志し、日本大学法科に入学して卒業するまで、直心影流の剣道を榊原鍵吉、山田次郎吉に学び、免許皆伝を受けた。榊原鍵吉は「天覧兜割り」で有名な剣道家で、山田次郎吉は道場継承者である。

 しかし、修行が激し過ぎたせいか血を吐き、郷里で養生することになった。そして二十四歳のとき、仏典の奥義に大悟するところがあり、日連宗修養の水行実修で健康を回復、二十八歳で四ケ村組合村長に就任した。

 ここから伊和麿翁の政治家人生が始まり、町会議員や県会議員を経て、大正十三年に政友本党の推薦で広島県第十三区から出馬、衆議院議員に当選した。

 出馬の目的は、父祖伝来の郷土で、毎年のように人命をも損なう大水害を起こす芦田川の、根本的な大改修だった。時の浜口内閣は、この種の公共工事は全面中止の緊縮政策だったが、伊和麿翁らの熱意や努力で、富山の神通川と共に大改修工事の国庫補助が国会を通過した。この改修工事では、川幅を広げるため、川辺にある自分の家を率先して犠牲にする無私の奉仕が行われた。

 伊和麿翁は農村の復興と人材養成を国政の根本に置かなければならないと常々主張していた。そして所属する政友本党は、教育費国庫負担と自作農地租全免を二大政策として掲げていた。

 しかし、政友本党と憲政会の提携問題が起こり、この二大政策は骨抜きにされる。これに怒った伊和麿翁は、政友本党に所属しながら、その無節操さを弾劾する国会演説をぶち上げた。速記による議事録を読むと、ところどころ「議場騒然聴取する能はず」などと書かれ、議会がいかに大荒れしたかが察しられる。

 国会は伊和麿翁の除名、懲罰動議騒ぎになったが、憲政の神様と言われた尾崎行雄代議士(一八五八~一九五四)が応援演説に立ち、事なきを得た。

 二大政党による憲政の常道の確立と政界の浄化を志した伊和麿翁は、同志の政治節操のなさに、信なき者と天下国家は語れぬと、昭和三年の衆議院解散と同時に政界を引退し、過去の名利をすべて打ち捨て、一切の公職を絶ち、政治の根源である惟神(かんながら)の大道究明に入った。伊和麿翁が五十三歳のときだった。

 国会議員の地位に恋恋とする政治家に、爪の垢を煎じて飲ませたいところだ。

 京都に移住した伊和麿翁は、全国の由緒深い神社で神官と国体の本義や国家祭祀を語り合い、さらには大本教などさまざまな宗教の門を訪ねて諸行事を実修し、惟神の道の研究に専念した。

 伊和麿翁は昭和八年、伊勢神宮五十鈴川でみそぎし、玉砂利に座して、大願成就の早からんことを祈祷した。このとき、伊和麿翁は神憑りになり、祭政一致の神威、国の大道を悟ったという。

 同じ年、伊和麿翁は加茂御祖神社で左文字の名刀(龍の彫り入り)を奉納した。当時の宮司は先祖が九条家の出である森倫雄(みちお)で、伊和麿翁と夫人の美保師が下加茂神社を参拝したとき、美保師が拝殿の御簾に霊眼で黄金の「鴨脚」の文字を見て、社務所に読み方を聞きにいったことで面識ができた。

 鴨脚は「いちょう」と読み、賀茂神社の代々の神職を務める家柄である。なぜいちょうと読むかといえば、鴨は水鳥のため、普通には足の形を見ることができないが、岡に上げて観察すると、銀杏の葉にそっくりな形をしてためだという。

 美保師は明治四十年島根県生まれで、子供のころから人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、他人に話せば幻だといわれ、悩みに悩んだという。霊感が鋭すぎたのである。

 自分にしか見えないものが何か知りたいと、奈良女子高等師範(現奈良女子大学)に進学したが解決できず、大正十一年にアインシュタインが来日したときには、宿泊先の奈良のホテルへ訪ねて疑問をぶつけた。美保師によれば、アインシュタインは科学では説明できない世界があると答え、音楽は世界の共通の言葉だと言って.ピアノを弾いてくれたという。

 森倫雄は後に石上神宮宮司となるが、参拝者の少ない神社への転任(当時の宮司は勅任だった)に不満を漏らしていた。

 これに伊和麿翁は、石上神宮天皇の祭祀を司る由緒ある神社で名誉だとして、参拝することを約束し、昭和九年正月に実現させ、そのまま立春まで美保師とともに斎籠行に入った。

 中国からの亡命政治家・胡蘭成氏は美保師から聞いた内容を、著書「建国新書」で次のように記している。

 

 昭和九年正月二日より立春までの寒三十日間、美保夫人と共に、大和布留石上神宮に参籠して、禊祓、鎮魂の修行をした。(中略)梅田翁はここに国家鎮護と聖寿を祈り、神魂との誓約に自分のいのちの次に大切にする愛刀の郷義弘を奉納する気になつた。その儀礼を行ふ祭典は夜半、宮司以下全神職が奉仕して、神前滅灯の広前拝殿で、翁は神さまに受太刀を願ひ、直心影流法定の型素振り一太刀、振るや忽ち、ビューン、フーッツ、いきなり全山鳴動する。神前はパッと明らかとなり、翁は即下に日本国皇祖以来の祭政一致之道の大教極意を悟った。体全身は飛び散った如く感興し、両腕は暫く自由もきかず、側近の書生羽原柔道五段は体ごと吹き飛ばされた感じといひ、宮司神職たちはガタガタと体の震動止まず、歯も合わず言葉も出ぬので、翁は「マコトわかりました」と奏上するや、静静鎮まった。

 

 さぞかし凄まじい神気が噴出したのだろう。「社務所から宿直の人が飛び出してきて、地震がありました。大丈夫ですか」と叫んだと、美保師は述懐していた。

 調べてはいないが、この時の全山鳴動は、局地的な地震発生と、地元の新聞に報じられたそうだ。

 書生羽原柔道五段というのは、後に広島県から代議士に選出された羽原桂治郎のことで、戦前、伊和麿翁の側近秘書筆頭だった。

 石上神宮での斎籠行で神道の奥義を体得した伊和麿翁は、政治家時代の同志だった政友本党の床次(とこなめ)竹二郎総裁に働きかけ、祭政会の創立を図ったが、床次は岡田内閣の逓信大臣就任中に急死してしまい、独力で祭政会を創始することとなった。

 翌年の昭和十年、伊和麿翁は東京へ移住し祭政一致の大道を説き始めた。

 フ 神祇院秘史

 昭和十五年十一月九日、第二次近衛内閣は内務省の中に神祇院を創設し、神祇院総裁を安井英二内務大臣が兼務した。しかし、神祇院が復興したとはいえ、何をどうやったらいいか皆目わからない状態だった。

 これより前の昭和十三年、第一次近衛内閣当時、伊和麿翁は文部大臣の安井英二を訪ね、緊急に日本精神作興を行う必要があると力説し、面識ができていた。

 そこで安井英二は麻布道場を訪れ、神祇院復活による具体的な教法をどうするかと相談を持ちかけた。

 その直後、神祇院に関係する主だったメンバーが麻布道場を訪れ、行法を実見することになった。大臣が一般の民家を訪れるなど、当時としては前代未聞のことだった。

 参加者は内務大臣兼神祇院総裁の安井英二、神祇院副総裁の飯沼一省(かずみ)、米内内閣厚生大臣吉田茂(総理大臣となった吉田茂とは別人。戦後、神社庁第五代事務総長)、内務省顧問・考証官の宮地直一、神祇伯十五代の白川資長、神道家の住田平彦らだった。

 宮地直一(一八八六~一九四九)は内務省神社局に入局して神社考証を担当、明治神宮造営に深く関与し、大正時代には東京帝国大学史学科で始まった「神祇史」の講師を務め、大正十一年に発足した国学院大学で、当初から教授として「神祇史」の講義を行った。同十三年には神社局考証課長に就任、昭和四年に控えた第五十九回伊勢神宮式年遷宮で奉献される御装束神宝の古儀調査などを担当、神社行政や文化財保護行政の中心で活躍した。

 昭和十三年に東京帝国大学神道研究室の主任教授となって内務省を退官、麻布道場訪問当時は、全国の社格を決定する立場にあった。

 昭和二十四年に調査先の長野県穂高で急逝するまで、神社や神道の研究に尽力した神道史学の権威である。

 宮地直一は高知県生まれで、本家筋の社家には、神仙道で名高い宮地水位(すいい)、宮中掌典を務めた宮地厳夫(いつお)などがおり、幼少のころから神道に触れる機会が多かったようだ。

 住田平彦は神道法研究の第一者で、「敬神崇祖」などの著書がある。

 行法を実演したのは伊和麿翁で、手振りと立会い者への解説を美保師が行い、諸行法の審神者役を住田平彦が務め、筆記した。

 この結果、天照大御神を中心とし、称える神々も由緒正しく、最も正統な修行法であると、神道行法に理解の深い白川資長と住田平彦がお墨付きをだした。

 昭和十五年十月に大政翼賛会が発足していたが、各組織の利害対立もあって、日本精神を作興する教法は何もなかった。そこで、近衛文麿が梅田道場で大臣諸氏と局長以上が修業するよう提唱、白川家の施設と梅田麻布道場とを使い、伊和麿翁を指導者として修行を行うことになった。これが世間に広まり、多くの高位高官が受講を求めた。

 この時期、麻布道場を訪れたのは、安井英二ら以外に広田弘毅元総理大臣、日独伊三国同盟時の駐伊大使白鳥敏夫、谷正之外務大臣植芝盛平合気道開祖、哲学者の西田幾太郎、神道界の重鎮となった若きころの中西旭(あきら)、心霊研究家の小田秀人などなど、数えれば枚挙にいとまない。

 特筆すべきは当時の台湾指導官である中西旭(一九〇五~二〇〇五)で、毎月の本国への出張の際、二~三泊して修行し、特に許された台湾の学生二人を伴うこともあった。同氏は会計学の権威で中央大学の教授を務め、昭和五十八年に川面凡児が創設した稜威会の会長に推挙され、同六十年には神道宗教学会会長、同六十一年に国学院大学神道宗教学会会長、平成元年から神社本庁教学顧問、同六年に神道国際学会会長に就任するなど、神道界に大きな足跡を残した。

 このように、祭政一致教学道場には各界の重鎮だけでなく、後々神道界を指導する鬼才が集まってきた。さらに伊和麿翁は毎月一回、自ら大臣らの官邸に出向き、二時間の講義を行い、美保師は家庭祭祀を各大臣の夫人らに指導した。

 昭和十七年十一月に大東亜省が設置され、盛んに大東亜共栄圏が喧伝されたが、指導原理は明確ではなかった。

 無私無欲に神に仕え、国家安泰を祈るのが神道のあり方で、神祭りのない武力は、物質至上主義の諸外国の覇権主義と同じで、世界から敬服されることはないと伊和麿翁は危惧。政治の根本には不偏不党公平無私の信念が不可欠だからと、大東亜省へ直接出掛け、青木一男大東亜大臣に指導原理をどうするのかと質し、答えられないと机を叩いて怒ったという。

 戦争はあくまで相対界という肉体次元、物質次元での争いであり、「天つ神」の立場に立てば、国家の方針は敵味方を超えた絶対界次元での指導原理でなければならない、というのが伊和麿翁の信念だった。

 しかし時の政府は、「神の心」を理解しようとしないまま、諸外国と同じ意識水準で戦争に突入した。絶対界次元の指導原理であるべき「神祭り」を忘れて物質世界での戦いとなれば、産業力が勝っている方が有利になるのは必然である。日本が負けたのは、当時の政府や軍部の武力、物質至上主義がもたらした当然の帰結としか言いようがない。軍部の慢心が敗戦をもたらしたのである。

 神武東征時に、長髄彦に一度は敗れた教訓を生かせなかったのである。

 このころ、白鳥敏夫元駐尹大使は過労による精神疲労で極度の興奮状態に陥り、何日も寝ないで喋り通し、外交の機密を次々に口にする発狂状態で、病院に隔離されていた。外務省から依頼を受けた美保師が病室へ駆けつけ、白鳥敏夫が凄まじい形相で部屋から出せと騒ぐのをなだめ、鎮魂の祝詞を上げるうちに眠りについた。

 その後、美保師の鎮魂と祈祷で治療し、逗子の別荘で禊祓いと鎮魂行法で健康を回復、鹿児島県で執筆に専念していた伊和麿翁を訪ねて百日修行の指導を受けた。

 この当時、明治神宮宮司の有馬良橘(りょうきつ)海軍大将の使者が来訪、ヒットラーが精神修養に礼拝堂を作り、菜食で精進していて、鎮魂を日本から教えてほしいと要請があったと伝えてきた。

 修行に来ている人々は賛成だったが、伊和麿翁は神様に聴くとして美保師と共に斎戒沐浴し、美保師を巫女として麻布道場の神前で伺いを立てた。その結果、鎮魂のことを正しく語り伝えるは難しと託宣があり、要請に応えることはなかった。

 ミ 空襲された外宮

 大東亜戦争の末期、米軍の容赦ない攻撃は聖域にさえ迫り、ついに伊勢神宮外宮が空襲された。

 当時の伊勢神宮の祭主は梨本宮守正殿下だった。梨本宮は陸軍士官学校を卒業した武人で、昭和十八年に六十九歳で伊勢神宮祭主に就任。敗戦後、神宮祭主だったことから国家神道頭目とみなされ、皇族としてただ一人A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに投獄されたが、半年後に釈放される。戦後に皇籍を離脱、昭和二十六年に七十八歳で薨去した。

 昭和十八年は四月に海軍の山本五十六長官が戦死、五月にはアッツ島守備隊二千五百人が玉砕し、兵役法の改正でそれまで四十歳までだった徴兵を、四十五歳まで延長するなど、日本軍の配色が濃厚となってきた年だった。

 十一月には中国行政院長の汪兆銘自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース(オブザーバー)らが出席して六ヶ国による大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が採択されたが、実質的な問題は一つとして討議されなかった。もはや有効な打つ手がない状況だったのである。

 厳しい状況の中で祭主に就任された梨本宮は、高齢でありながら毎暁、水で禊祓いし、天皇御名代として伊勢神宮祭祀に慎み仕えた。そんな梨本宮にとって、外宮空襲はことのほか心痛で、眠られぬ夜々が続いたに違いない。

 昭和二十年二月三日、茨城県新治郡出島村志士庫の伊和麿翁の疎開先に来訪した警察官から、急ぎ上京し伊勢神宮祭主の梨本宮を訪れるよう指示された。空襲で外宮が焼けた直後のことだった。

 伊和麿翁と美保師が邸を訪ねると、侍従から、ご高齢なのに毎朝水垢離をとられており、それをどうかやめるようお願いしてほしいと頼まれた。

 伊和麿翁と美保師がお会いすると、梨本宮から外宮はどうして焼けたのかと神宮の安全について御下問があった。美保師が禊をして意識を集中すると、託宣があった。胡蘭成氏が「建国新書」に次のように書いている。

 

 たうとう伊勢外宮も空襲された。当時、斎宮梨本宮邸へ美保姫は迎へられ、禊するに、託宣があった。曰く「人間は争いもするが、高天原(神界)には戦は無い。外宮は政治の御気であり、爆撃は政事が悪いから祓ふて、為政者の反省を促す。内宮は祭であり、御鏡は絶対に守る」と。非常に激しい、かつ清純な強い御言であった。

 

 伊和麿翁は、外宮は豊受神で生活と政事の神であり、今の政治のやり方を爆撃されたので、御魂である内宮は絶対に守られます、と奉答した。

 このとき梨本宮は、陛下のご苦労を思うにつけ、何とか粗相のないようにと、せめて水なりともかぶらなくては申し訳ないという思いで務めている、それでよろしいか、と尋ねた。これに、侍従から止めるよう頼まれていたにもかかわらず、伊和麿翁は思わず、結構ですと答えてしまったという。

 敗戦前夜ともいえる昭和二十年七月、伊和麿翁は内閣要人と語らい、長野県の聖山にある川島浪速(なにわ)の別荘に籠り、天下泰平.の祈願で百日間参籠する。

 川島浪速は満蒙独立運動の先駆者で、男装の麗人で有名な川島芳子は養女である。

 この間、美保師は東京、茨城、聖山、御殿場を行き来する日々と大忙しだった。御殿場には右翼の大物、頭山満の別荘があり、精神過労で緎黙(かんもく)状態の松岡元外務大臣が滞在、回復祈祷を行うためだった。

 伊和麿翁が斎籠中にポツダム宣言の受諾で敗戦となったが、百日間の祈願を終えてからの下山となった。下山後は筑波山中腹の国有地を借りて開拓筵を造り、営農生活を行うとともに人材養成に専心、昭和三十年十一月十日の誕生日に八十歳で帰幽した。

 伊和麿翁の帰幽後は美保師が後進に神道の行法を伝授、多くの修行者が薫陶を受けた。

 ヨ 息吹永世

 伊和麿翁が創設した神道の修行法を紹介しよう。私自身が体験した行法に基づいているため、正確さに欠けるところはご了承いただきたい。

 前にも書いたが、禊や祓い、鎮魂で共通して行われるのが息吹永世という呼吸法である。伯家神道に伝わったとされる行で、水が体の外側を禊祓うのに対し、呼吸で体の中から禊祓う行である。

 やり方は、裸足の足の裏を合わせた安座または正座の姿勢(女性は正座)を取る。もっとも、息吹永世だけなら、正座でも椅子に座っていてもかまわない。

 安座して両手を体の前の床で揃え、円を描くように両腕を体の後ろへ回して手を合わせ、体の前へ両脇を通って戻す。そして一揖(ゆう)二拝二拍手一拝一揖し、神前でと同じように、安座している場所の神々に参拝し、修行の場を借りる挨拶をする。いわば結界をつくる。揖は軽いお辞儀で、拝は深い敬礼である。

 さて息吹永世だが、左指を上にして指を組み、人さし指だけ伸ばして合わせ、臍の前に置いて独鈷印を結ぶ。目を半眼に閉じ、鼻から息を吸って腹に溜め、少し息を止め、口からゆっくり細く長く吐く。吐き切ったら鼻からゆっくりと息を吸って止め、再び細く長く吐く。すった息の四割は丹田に残すと、美保師は指導していた。息を吸うときに腹を膨らませ、吐くときは引っ込める複式呼吸を意識して行う。

 息吹永世のことを、鉄砲洲神社名誉宮司の中川光正氏は息長、ジャーナリストの菅田正昭氏は永世と述べている。

 この場合、組んだ手を、胸から上へ上げてはいけない。滝行などで振り魂(たま)をするとき、両の掌を交差させて膨らみをつくり、腹の前で振るように動かすが、これも心臓より上へ手を上げてはならない。人によっては霊動が出て、危険な状態になることがあるからだ。

 どんな動きが出るのかというと、交差した手が激しく震えたり、無闇やたらに動いたりする。滝行では穢れが祓われて心身ともに敏感になり、さまざまなモノが憑依しやすくなっているので、振り魂をする腕が引っ張られ、体ごと思わぬところへ持っていかれることもある。

 霊動はいろいろなところで出てくるから、危険だと感じたら、すぐに手を臍の前で組み、腹に霊を鎮める。

 しっかりした指導者が不在で、一人で息吹永世を行じるときは、腹に気を鎮めるという意識を常に持っていなければならない。霊動が出て、神懸かったと喜んだら、とんでもない悪霊だったということになりかねない。ある種の宗教にはよくある話である。

 息吹永世を続けると、体全体が熱くなり、合わせた掌や人さし指がじっとりと汗ばんでくる。そういう状態になれば、息吹永世が正確にできている証拠である。

 息を吐くときに、体の中の罪穢れを細く長く吐いて清めてやるという意識を持つ。息吹永世を五分も続ければ、体の疲れが軽くなり、気力が出てくることに気づくだろう。「長い息」は「長生き」につながるから、息吹永世はストレスで難病に罹(かか)りやすい現代人の救世主でもある。

 逆に、「ハァ~」とため息のような息を吐くと、気力や体力が衰え、さらには罪や穢れがほかの人に憑(つ)いてしまうから、気をつけなければならない。

 息吹永世を続けても、衰えた気力が回復しない場合、息を細く長く吐いた最後に、すべての息を強く吐き切る。このとき、フツと音がするよう強く吐く。これを何度か繰り返すと、どういうメカニズムが働くのかわからないが、不思議に気力が湧いてくる。

 このフツという音は、速須佐之男命が八俣遠呂智を「切り散(はふ)りたまいし」とき、つまり物を断つ際に出た音とされている。そしてフツは石上神宮の祭神の一柱である「フツノミタマ」、香取神宮の祭神「フツヌシ」に通じる言霊を持っている。

 日本書記によれば、経津主神武甕槌神と共に、出雲の国へ大国主神との国譲りに出向いた正使の神である。

 さらに神武東征のおり、熊野で大熊が現れて天皇も軍勢も毒気にあたって病に伏し倒れたとき、高倉下が一ふりの横刀(たち)を持って駆けつけると病気が癒され、「荒ぶる神、自ずから皆切り仆(たお)さえ」た。この横刀は、古事記では建御雷之男神出雲国の国譲りに携行して「専(もはら)ら其の国を平(ことむけ)し横刀」で、布都(ふつ)御魂と分注している。

 これらから、フツは荒ぶる敵を平定する言霊と考えられ、フツと息を吐けば、気力が充満するのだろう。

 呼吸は人間に大きな影響を与える。ちなみに、仏教の日蓮宗と念仏をする宗派とでは、題目と念仏を唱える声の出し方が違う。日蓮宗は何妙法蓮華経と息を強く吐き出し、念仏は南無阿弥陀仏とこもるように唱える。声を強く吐くと気力が高まって攻撃的になり、こもらせると内省し深い洞察に向かう。

 日蓮宗では開祖の日蓮だけでなく、血盟団事件の首謀者だった井上日召、八紘一宇を唱えた国柱会の田中智学などのように、気性の激しい人物が多出している。これに対し、内省に向かう念仏は、浄土宗の僧侶で、日本人仏教徒として始めてインドの仏跡を巡り、光明(こうみょう)主義を開いた山崎弁栄(べんねい)上人のような高僧を生む。

 念のため一言付け加えると、八紘一宇という言葉は戦前の軍部が盛んに喧伝したが、古事記にも日本書紀にも記載されておらず、田中智学の造語である。日本書紀にあるのは「八紘為宇(はっこういう)」で、「世の中を宇(いえ)=家=となす」が本来の意味だ。「一」というから世界を統一して支配下に置こうとなってしまう。「家」ならさまざまな家族がいるわけで、唯我独尊の軍国主義にはならない。言葉は正確に使うべきである。

 さて、息吹永世の行が極限まで進むと、唇に二枚の紙を挟んで息を吐いても、紙が震える音がしない。こうなると仮死状態で、修行の極地だが、半端な努力では達せられない。(続く)

 

巻の七 後編 天皇の祭祀は民の幸せを祈る

ヨ すめらみこと

 

 天皇は祭祀王だとはよく言われるが、ただ祭祀を執り行われるだけではない。祭祀の前には禊祓いをし、さまざまな行を執行して身を慎んでから神々に奉仕される。

 祭祀の前に行われる天皇の厳しい行や禊祓いは、われわれ世俗の人間にはほとんど伝わってこないが、それなくして賢所にお祭りする天照大御神はもちろん、神殿の八百万神、皇霊殿の歴代天皇の御霊に奉仕することはできない。

 国民(くにたみ)安(やす)かれとお祈りになる天皇の祭祀は、一般国民が考えるほど安易なものではない。

 では、「祈り」とは何だろうか。言霊的に解釈すれば、「いのち」を「のる」で、「いのち」は前にも述べたが「生きる知恵」、「のる」は『宣言する』の「宣(の)る」である。つまり、生きる知恵を国民に伝え、さらには後代に伝えていくのが「祈り」である。村上和雄氏流にいえば、祈ることで、いい遺伝子をオンにするのである。

 古代、天皇は「すめらみこと」と発音された。通常、「すめら」は「統べる」の意で、「みこと」は御言や命と解されている。

 まず、「すめ」という言葉から考えよう。「皇」の字で中国の皇帝と同じように見られてしまいがちだが、「すめ」に該当する漢字がほかに見当たらなかったため、やむを得ず当てはめたのだろう。中国皇帝とはまったく異なるのは言うまでもない。

 さて、子供は「すうすう」と眠る。そして人は、眠っている間に疲れを癒し、体の機能を生命の中心=丹田に統一する。つまり「す」は統一音である。「め」はマ行で転じて「み」になり、人々の霊を指す。「ら」は「ぼくら」などの「ら」で多い意味。

 これを総合すると、「すめら」は「多くの霊を統一する」神聖な存在という意味になる。

 また天皇は、天照大御神の皇孫である「すめみまのみこと」でもある。「すめ」は霊を統一する神聖な存在、「みま」の「み」は「身」で「ま」は間であり孫。間は人々と神々の間、孫は皇孫である。つまり、「すめみま」は人々の霊を統一する神聖な体を持った皇孫で、民と神々の間を取り持つ仲立ち者という意味になる。それが建国以来、ずっと続いてきた国が日本である。

 こう考えると、「すめらみこと」という称号が、天帝の意思と称して支配者がころころ変わった中国の皇帝や、武力で国王に就いた海外の王制といかに異なるかがわかる。

 もっとも、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)は東征で武力を使ったではないかと反論する人もいるだろう。しかし神武東征は単純な武力制圧ではなく、常に神祭りと共にあった。そして、神祭りをおろそかにしたとき、熊野で登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の軍勢に破れた。

 日本の敗戦は大東亜戦争だけではなかったと前に書いた。そして大東亜戦争でわが国が負けたのは、神社から神秘性を取り除いた国家神道=官僚神道による、神祭りのない戦いだったからにほかならない。

 ゆめゆめ、神祭りを忘れるべからず。

 

 イ 神祭りの庭

 

 神道にとって神籬と磐境、磐座は最も神聖なものである。日本書紀には次のようにある。

 

 高皇産霊尊因(よ)りて勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「吾(あ)は則(すなわ)ち天津神籬及(また)天津磐境を起樹(た)てて、まさに吾孫(すめみま)の為(みため)に齋(いは)ひ奉(まつ)らむ。汝(いまし)天兒屋命太玉命、宜しく天津神籬を持(たもち)ちて葦原中国に降(くだ)りて、亦(また)吾孫の為に齋ひ奉れ」とのたまふ。

 

 神籬と磐境を、広辞苑は次のように解説している。

 神籬=(古くは清音)往古、心霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木(ときわぎ)を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ。後には、室内・庭上に常磐木を立て、これを神の宿る所として神籬と呼んだ。(以下略)

 磐境=(イハは堅固の意)神の鎮座する施設・区域。神代紀「天つ磐境を起こし樹てて」

 磐座=(イハは堅固の意)神の鎮座する所。天関(いわくら)。神代紀「天の磐座を離(おしはな)ち」・山中の大岩や崖。

 

 神が宿る所とか、神の鎮座する所というのでは、一般の人が言葉だけ読めば、神籬も磐境も磐座も、同じように受け取ってしまうのではないだろうか。

 このあたりから考えてみよう。神籬は「霊天降(ひあもる)木」であり、さらに「日守木」でもある。「霊天降木」は文字通り霊が降臨する木。そして「日守木」の「日」は「霊=神」で、「守」は文字通り「守る」、「木」は「気」となる。気は生き生きとした霊気、宿った神を溌剌とした霊気が守るという意味合いになる。溌剌とした気とは、罪穢れを禊祓いした直霊(なおひ)のことだ。

 罪穢れを禊に禊、祓いに祓うと、浄く明く正しく直き直霊が現れる。直霊は人々が持っている根本の御魂で、ある意味では神々そのものといえる。つまりすべての人々は、禊祓うことで神々となる資格を持っているのである。

 神籬には現在、榊に紙などを垂らした玉串を使っているが、そもそもは天岩屋戸開きの際の御幣(みてぐら)が本である。古事記には「布刀御幣」について次のようにある。

 

天の香具山の五百津(いほつ)真賢木(まさかき)を根こじにこじて、上枝(ほつえ)に八尺勾玉之御須麻流之玉を取り著(つ)け、中枝(なかつえ)に八咫(やた)鏡を取り懸け、下枝(しづえ)に白(しら)丹寸手(にぎて)、青丹寸手を取り垂(し)でて、此の種々(くさぐさ)の物は布刀玉命、布刀御幣と取り持たして、天兒屋命、布刀詔戸言(のりとごと)祷(ほ)ぎ白(まを)して

 

 この布刀御幣がそもそもの神籬である。「五百津真賢木」は栄える木で常緑樹、後の榊だ。「根こじにこじて」は根のまま掘り起こし、枯れないように天岩屋戸の前に樹(た)てたのだろう。白丹寸手は楮(こうぞ)の木の皮の繊維でつくった白い木綿(ゆう)、青丹寸手は麻の布で、青味がある色をしている。

 布刀御幣に取りつけた上枝の八尺勾玉と中枝の八咫鏡を外し、白丹寸手と青丹寸手を残したものが神籬である。後世には丹寸手が紙の垂(しで)となり、榊に取りつけられて現在の神籬となった。勾玉と鏡は、速須佐之男命が献納した草那藝の剣とともに、三種の神器となって天皇に伝えられている。

 さて、天岩屋戸開けでは、真賢木に取りつけた鏡に天照大御神が映し出される。すなわち真賢木の鏡に天照大御神が降臨したことにほかならない。

 これは神籬が、神が臨時に宿る媒体だということを意味する。神事を行う場合、榊に垂を取りつけた玉串=神籬を立て、そこに神々の降臨を願う。

 人間も禊に禊、祓いに祓えば神籬になり、神々が降るのである。

 

  ム 国のあり方

 

 我が国の成り立ちやあり方など、国体を明徴にしているのは、記紀に伝わる天つ神の神勅である。その一つ、天壌無窮の神勅は、戦前に国威高揚のため、盛んに喧伝されたから、軍国主義のスローガンのように受け取る向きがあるが、日本という国の形をこれほど明確にした神勅はない。

 

 天壌無窮の神勅

天照大神(あまてらすおおかみ)皇孫(すめはま)に勅(みことのり)して曰(のたまわ)く

 豊葦の千五百(ちいほ)秋(あき)の瑞穂の國(くに)は是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜(よろ)しく爾(いまし)皇孫就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさむこと當(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし。―日本書紀

 

 この神勅を、どうやったら軍国主義の権化と考えることができるのだろうか。天地(あめつち)と国が永遠に栄えるよう、天照大御神が皇孫のために、純粋に祈っているだけである。

 おそらく、特定のイデオロギーの持ち主たちは、皇孫=天皇が国を支配することを正当化する神勅と読んで、アレルギー反応を起こしているのだろう。

 もし、「治せ」ではなく、支配する意味の「うしはけ」という言葉が記されていたなら、彼らの主張は正しい。しかし、「治せ」とある通り、「聞こしめし、治(しろ)しめす」政(まつり)事(ごと)が我が国の国体であり政治体制であって、国王や皇帝の「うしはく」権力支配とは異なっている。

 特定のイデオロギーの持ち主たちは、日本という国の成り立ちや歴史を無視した、為にする主張をしているとしか思えない。最初から色眼鏡をかけないで、もっと素直にこの神勅を読んでもらいたいものである。

 ともすると彼らは、天皇支配を正当化するために記紀が作られたと主張する。そういう人々は記紀をきちんと読み、理解して発言しているのだろうかと、首を傾げざるを得ない。

 神武天皇が一度は登美能那賀須泥毘古に敗れたとか、武列天皇は残酷だったなど、記紀には朝廷にとって好ましくないことも多く記されているということを、彼らはどう受け止めるのだろうか。もし正当化するのなら、非の打ち所のない記録にするのではないか。

 古代の人々は、古事記序文にあるように「上古の時、言(ことば)意(こころ)並びに朴(すなほ)」だった。支配を正当化するような、自己中心的な人々ではなかった。自意識が強い現在の我々が、自分の考えや感覚を当てはめることは間違いである。

 自分の考えがこうだから、古代の人々もそうだと類推するのは浅はかで醜い。まず、自分の心に自己中心のさもしさがないかどうか、確かめてから発言すべきである。

 

 御鏡の神勅

 御鏡についての神勅は、古事記日本書紀にそれぞれ記されている。

 

天照大御神

是に其の遠岐斯(をきし)八尺の勾璁(まがたま)、鏡、及(また)草那藝の劔、亦(また)常世思金神、手力男神天石門別神を副(そ)へ賜ひて、詔りたまひしく、此れの鏡は、専(もは)ら我が御魂として、吾が前(まへ)を拜(いつ)くが如(ごと)伊都岐(いつき)奉(まつ)れ。次に思金神は、前(みまえ)の事を取り持ちて、政(まつりごと)為(せ)よとのりたまひき。―古事記

 

天照大神、手(みて)に寶鏡(たからのかがみ)を持ちたまひて天忍穂耳(おしほみみ)尊に授けて祝(ほ)ぎて曰(のたまは)く、吾(あ)が兒(みこ)、此(こ)の寶鏡を視(み)まさむこと、當(まさ)に吾(あれ)を視(み)るがごとくすべし。與(とも)に床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、齋鏡(いはいのかがみ)と為(な)すべしと。

又(また)勅(みことのり)して曰(のたま)はく、吾(あ)が高天原(たかあまはら)に所御(きこしめ)す齋庭(ゆには)の穂(いなほ)を以(も)て,亦(また)吾(あ)が兒(みこ)に御(まか)せまつるべしと。―日本書紀

 

 記紀ともに、鏡が天照大御神と同じ存在だと記していることに注目しよう。天皇の御鏡神事の淵源がここにあるからである。

 皇室の祭祀が、天皇陛下のご健康問題から簡略化され、あるいは廃止されてきている。国の存在を脅かす由々しき問題だが、詳しいことは斉藤吉久氏の「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか」(並木書房)や、中澤伸弘氏の「宮中祭祀―連綿と続く天皇の祈り」(展転社)などに譲り、「行」の面から宮中祭祀の重要な行事を考えよう。

 天皇の重要な儀式に「御鏡御拝」がある。御鏡を拝礼し、皇孫邇邇藝命、あるいは天照大御神と一体になる神事だと言われている。

 その通りなのだが、拝礼するだけで皇祖と一体化するわけではない。ここを間違えると、御鏡御拝の本来の意味がわからなくなる。

 御鏡御拝の淵源は天の石屋戸開けにある。速須佐之男命の狼藉で天照大御神は天の石屋戸に「刺許母理(さしこもり)坐(ま)しき。爾(ここ)に高天原皆暗く、葦原中国(なかつくに)悉に闇(くら)し」という状態になる。

 そこで八百万神が天の安の河原に集って思金神を中心に対策を考え、朝の到来を知らせる「常世の長鳴(ながな)き鳥を集めて鳴かしめ」、天照大神に岩屋戸から姿を現すよう促す。

 神籬を作って天宇受賣命が神楽を踊り、どよめき笑う神々に、何事かと天照大御神が石屋戸をわずかに開ける。そこで天兒屋命と布刀玉命が神籬の中枝に掛けた八咫鏡を見せ、天照大御神が不審に思っている間に、天手力男神が御手を取って招き出したと、古事記にはある。

 この部分について、大御神の御姿が鏡に映ったので、それを別の神と思われたとか、鏡は太陽の象徴なので、それを見られた大御神が、別に太陽神がいると思われた、などの解説がある。

 実に国語的な解釈だが、神道の行の面から考えるとまったく違う見方になる。

 天石屋戸に天照大御神が籠もられたのは、速須佐之男命の乱暴狼藉を止められなかった、自らの徳や力のなさを反省するためだった。そして天石屋戸で御魂鎮魂(みたましづめ)を行い、鏡に映ったおのれの顔が、邪気がなく清らかになったから天石屋戸から出たと解釈する。

 同様に、天皇の毎日の御鏡御拝は、天照大御神が天石屋戸から出た時の御尊顔のように、鏡に映った顔から邪気が失せ清らかになったことを確認し、それから政(まつりごと)に向かう重大な神事なのである。

 浄く明く正しく直き心身になったとき、天皇天照大御神と一体となり、さらに「此れの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝(いつく)くが如伊都岐(いつき)奉れ」と命じられた皇孫邇邇藝命とも一体となる。

 鏡を拝するだけで天照大御神や邇邇藝命と一体になれるという、そんな簡単な神事ではない。鏡に映した顔が清い顔になるために、天皇はさまざまな努力をされている。

 御鏡御拝には、もう一つの意味が隠されている。

 仏像などは、いわゆる第三の目といわれる眉間に、はっきりした印を付けている。ヨガではチャクラと名付けている。インド女性が額にビンディーという印を付けるのは、ヒンズー教からきている。そして、大脳下垂体にある松果体に第三の目があると考える宗教家もいる。

 目を半眼に閉じて前方に意識を集中すると、眉間がむず痒くなる感覚を覚える。松果体は血液が集まってくる場所なのだろう。

 修行が進んで第三の目が開発されると、古神道では「眉間に鏡が出る」とされている。鏡を出すための行を御鏡神事という。

 その鏡は、ありとあらゆるものを映し出し、居ながらにして国の状況を知ることができる。「知ろしめす」という天皇の「政(まつり)事(ごと)」の意味は、ここからきている。

 天皇の御鏡御拝が、単なる儀式でないことは明らかである。そして御鏡御拝だけでなく、さまざまな祭祀のために、天皇は常に努力をされている。

 神々を祭るためには、身を清らかにしなければならないから、祭祀の前に修めるべき行事がある。禊や祓いはもちろん、瞑想や鎮魂などなど、祭祀のために前もって行う行事は楽なものではない。厳しいと言った方が正確である。

 それらを天皇は、身を持って行じられている。国事行為や、国民の前でにこやかに手を振られるだけが、天皇のお仕事ではないことを、多くの人々、特に国政を預かる政治家には理解してほしい。

 天皇は「すめらみこと」で、青人草の多く(ら)の魂(め)を統一(す)し、国民の生活を居ながらにして知ろしめし聞こしめし、祭祀で国、民、安らけく平らけくとお祈りになる存在である。

 歴代天皇は祭祀を最も大切にされてきた。後鳥羽天皇の第三子で、鎌倉幕府を倒そうと承久の乱を起こし、佐渡島へ流された第八十四代順徳天皇は、著書「禁秘抄」で「凡そ禁中の作法、神事を先にして、他事を後にす」と、すべてに祭祀が優先すると明確に書き残されている。

 明治天皇は、政より祭祀が先であると、御製で何度も示されている。

 

 かみかぜの 伊勢の宮居を 拝みての

 後こそきかめ 朝まつりごと

 

 古事記の神勅で、御鏡が内宮に祭られ、さらに思金神が「政為よ」と命じられていることは、我が国の国体を明徴にしている。御鏡神事とともに政治を行えという意味で、祭政一致が我が国のあり方であると示していることにほかならない。

 また日本書紀では、天皇は御鏡と常に一緒であれと、同床共殿が示されている。これも祭政一致が我が国のあり方であると示している。

 日本書紀によると崇神天皇の御世、「其の神の勢(いきおひ)を畏(おそ)りて、共(とも)に住みたまふに安からず。故(かれ)、天照大神を以(も)ては、豊鋤入(とよすきいり)姫命に託(つ)けまつりて、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬひのむら)に祭」った。

 崇神天皇にとって、天照大神の同床共殿の神勅に反することだから、大きな決断だったに違いない。

 同床共殿の取りやめは、疫病で多くの国民が亡くなり、農民の流離や背反が相次ぎ、政治が乱れたことが原因だと一般には指摘されている。

 確かに、崇神天皇の時代は疫病がはやり、その原因が大物主神の祟りだったと、記紀ともに記している。そして、日本書紀によれば、大物主神が倭迹迹日百襲(やまとととびももそ)姫命に神懸り、神祭りを求めたとある。

 また、倭迹迹日百襲姫は不穏な童歌から、「武埴(たけはに)安彦が謀反(みかどかたぶ)けむとする表(しるし)ならむ」と反乱を予言した。

 このように、崇神天皇の御世は国内が大きく乱れたが、それが原因で同床共殿が取りやめられたとは考えにくい。国内の乱れを治めるには、いつでも神祭りできる同床共殿の方が望ましいからである。

 にもかかわらず、別殿で祭ることにしたのは、大勢の人間が出入りする宮殿では、安全に祭ることができない状態だったからではないかと推察する。

 当時の国内情勢は疫病や反乱があっただけでなく、中国大陸や朝鮮半島からさまざまな人間が流入していた。勝手な想像だが、中国大陸に成立した魏などの政権が、天照大御神の御鏡を手に入れ、日本を支配しようと狙っていたから、限られた人間しか出入りできない神域に移したのだろう。

 と同時に、宮中にあっては天皇お一人しか祭ることができないが、伊勢での御鎮座は「私幣こそ禁じられてゐたけれども、賢所と違って一般庶民の参拝は決して禁ぜられたことはなかった」(私本 式年遷宮の思想)から、国民と神宮の距離を大きく狭める役割を果した。

 さて、神勅は我が国の国体を明徴にしたうえで、国民の主食として高天原の稲穂を邇邇藝命に与えている。

「いね」は「いのちのね」で、「いのち」は「いきるちえ」だと前に述べた。つまり、「いね=いきるちえのね」を主食にし、知恵を遺伝子に蓄積して永遠に栄えよとなる。稲は米という単なる物質ではなく、神代からの「ちえ」を伝えていると認識すべきだろう。

 天壌無窮、御鏡の神勅とともに、我が国の国体を明確に示しているのが、先に述べた神籬磐境の神勅である。

 神籬は神々が降臨する依り代であり、磐境は神籬を安置する土台である。高皇産霊尊天津神籬及天津磐境を「起樹て」たのは、皇孫のために神々を祭る体制を高天原で作ったということにほかならない。そして、天兒屋命と太玉命に、天津神籬を奉じて、高天原でと同様に葦原の中つ国でも皇孫のために祭るよう命じている。

 天照大御神が天岩屋戸に閉じこもったとき、神籬を奉じたのが太玉命であり、祝詞を上げたのが天兒屋命だった。その功績ある天兒屋命と太玉命が皇孫とともに天下ったのは、高天原の岩屋戸開けに倣い、葦原の中つ国の岩屋戸開け、すなわち地上の岩屋戸開けに向けて神籬祭祀を行うためである。

 高天原(神霊界)は天照大御神が天岩屋戸に籠って鎮魂し、須佐之男命の荒ぶる魂も鎮まり、戦いのない調和世界となった。同様に人類も、戦いのない調和世界を、地球上に作り出す努力をしなければならない。その中心となるのは、高天原から天つ神籬を伝えられた日本であり、日本人であると、肝に銘じるべきである。その覚悟なくては、世界平和を叫んでも口先だけのコトダマ教になる。

 そして、日本人の自覚を得るために、理屈をこねることなく、神道の行を実践すべきである。禊で心身を清め、鎮魂行で物質界以外の世界があることを実感したとき、この世で何をなすべきかの使命を認識できるだろう。

 天壌無窮、御鏡、齋庭、神籬磐境の神勅は、日本の国のあり方、天皇を中心とした国体そのものを明示している。祝詞の多くに「下つ磐ねに宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて」とあるように、天皇は国の御柱であり、地球という現実世界と高天原とをつなぐ天の御柱でもある。

 禊、祓い、鎮めることで、国体が明確に認識されよう。

 

 巻の七 前編 あるべき国の姿を求めて

 自虐史観の蔓延で思考停止に陥った我が国の指導者や国民は、近隣諸国の顔色を窺い、不要な謝罪を繰り返す情けない国をつくってしまった。毅然とした姿勢を取り戻さなければ、世界に媚を売るだけの、自尊心を失った軟弱国家が続き、いずれ滅びかねない。

 国を危機に直面させている思考停止から脱却するために、伝統に則った日本の国のあるべき姿、すなわち国体を明徴にする必要がある。国の姿を描けなければ、他の国と何ら変わらない欲望国家になるからだ。

 本来、有識者が思考停止からの脱却を声高に叫ばなければならない。しかし、テレビ出演や著作の多い高名な学者が、我が国の伝統とはまったく異なったことを、あたかも伝統らしく装って世間を欺いている。

 例えば、伊勢神宮の参拝は外宮先祭といって、外宮が先で内宮が後だ。外宮の祭神の豊受大神穀物の神で、いわば物質の世界を司っていて、神界の最高神である天照大御神に仕えている。豊受大神は臣下として大御饌(おほみけ)を天照大御神に捧げているわけで、物質界から神界へ参拝をするのが決まりである。

 それなのに、驚いたことにある高名な学者は、参拝は内宮が先で外宮が後だとある本に書いていた。伊勢神宮の説明でも外宮が先で内宮が後となっているのに、この学者氏はどういうつもりでこんな間違いを犯しているのか不思議でならない。こんな人物が、よく学者として通用するものである。

 さらにある学者は、神葬祭では一拝するだけで柏手は打たないと書いていた。さらに二拝二拍手一拝の最初の二拝は軽いお辞儀、最後の一拝は深い礼としていた。

 神葬祭では、音が出る柏手は打たないが、通常の参拝と同様に二拝してから、忍び手といって音が出ないように二度柏手を打って一拝する。そして、最初の二拝はもちろん深い礼である。この学者氏は本当に神道のことを知っているのだろうか。

 また、民主党びいきのある政治学者はテレビの討論番組で、今上陛下(当時)のことを「平成天皇」と呼んだ。「平成天皇」は諱(いみな)、諡(おくりな)である。政治学者ともあろう人間が、諱、諡が死後の尊称だということを知らないらしい。あるいは何らかの意図があって諱、諡を口にしたのなら、許しがたい人間である。こんな学者に教えられる学生は悲劇だし、正確な日本語を話せない政治学者を、討論番組に何度も出演させるテレビ局の見識のなさには呆れるばかりである。

 これらの学者諸氏は、日本の伝統を尊ぶと言いながら、実際には神道祭祀を破壊しようと、ひそかに画策しているのではないかと疑いたくなる。

そうではなく、書いたこと言ったことが本当に正しいと思い込んでいるのなら、無知を恥じてただちに学者の肩書きを返上し、職を辞すべきである。

 日本のあるべき国の姿は、記紀に明確に示されている。日本は神代から神々とともにある国である。そして今も、人々が意識するにしろしないにしろ、神々は我々とともにある。

 頭をわずかに切り替えれば、神々の世界は戻ってくる。記紀によって国の姿を明らかにし、国民が実現を図れば、思考停止に陥らない平和で安らかな世界が訪れるだろう。

 

 ヒ 神々の会議

 

 古事記の神代巻には次のようにある。

 

 高天原皆暗く、葦原中国(なかつくに)悉に闇(くら)し。此(ここ)に因りて常夜(とこよ)往(ゆ)きき。是に萬(よろず)の神の聲(こえ)は、狭蠅那須(さばえなす)満ち、萬の妖(わざはい)悉に發(おこ)りき。是を以ちて八百萬の神、天安(あめのやす)の河原(かわら)に神集(つど)ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金(おもいかね)神に思はしめて……

 

 天照大御神が天石屋戸に籠もり、さまざまな災いが起きた時、八百万の神々が集まって相談し、思金神に方策を考えさせたのである。

 八百万神が集いに集うということは、すべての神々が一同に会して議論するという、極限すれば全員参加型の直接民主主義を意味する。八百万神が一致団結して思金神に知恵を絞らせたというのだから、代表に権限を与え、方策を任せたということになる。

 思金神は後に、天照大御神から「前(みまえ)の事を取り持ちて、政爲(まつりごとせ)よ」と命じられた政治の神である。

 最も古い祝詞である延喜式大祓詞には、次のようにある。

 

 高天原に神留(つま)ります、皇親(すめむつ)神ろぎ神ろみの命もちて、八百萬の神等(たち)を神集へに集へたまひ、神議(はか)りに議りたまひて、我が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせと事依さしまつりき。

 

 大祓の祝詞には、八百万神が集まって話し合い、「吾が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ」とある。すなわち、邇邇藝命は日本の国を平和な国として治めよと、一致して結論し命じたと述べている。

 日本は神代の時代から、大切なことを決めるときには神々が集まって、「神議り」という神々の会議を開いていたのだ。天照大御神高御産巣日神、あるいはほかの神が、独裁的に物事を決めていたのではない。

 こう考えると、理想的な直接民主主義そのものだが、人の世になり、道教儒教、仏教などの外来思想が入ってくると上下意識が台頭し、主従関係ができあがった。しかし、封建主義や独裁主義は、日本の本来のあり方ではない。

 民主主義と言っても、戦後民主主義を指しているのではない。戦後民主主義の根底にある日本国憲法は、基本的人権主権在民で国民の権利意識だけを煽り、勝手な自己主張を正義とした。それは民主主義ではなく、利己主義、自己中心主義そのものだから、まともな世ができるはずがない。

 自分さえよければいいという憲法を担いでいては、目的のためには手段を選ばないエゴイズムに国民が陥るのは必然である。金権主義の政治家、国への忠誠心を失った官僚、儲け至上主義の経営者、自分の利益だけを求める大衆などなど、我が国は末期症状を呈している。その最大の原因が日本国憲法である。

 ちなみに日本国憲法は、占領されている時代に作られたため、国民の意識は反映されていない。もっと正確に言えば、ポツダム宣言の受託で「休戦」を受け入れたが、講話条約を結んでいない戦争中に力で押し付けられたものである。

 戦争中に勝者から押し付けられた憲法や法律は、独立後は無効になる。したがって、現実的にはともかく、日本国憲法廃棄が手続き上は正しい。

 エゴイズムの「けがれ」に満ちた日本国憲法を大祓に祓って、浄く明く正しく直き豊葦原瑞穂国を取り戻すべき秋(とき)がきている。

 

 フ 大祓

 

 国や青人草の大祓は、六月と十二月の晦(つごもり)に行われる。宮中の大祓は節折(よおり)という。

 節折は荒節(あらよ)、和節(にこよ)の竹枝を折り、天皇の身長を測って祓いをする。竹を折ることから、節を折ると名付けられている。さらに生絹(すずし)(練っていない絹)で織った和妙(にぎたえ)、麻布で織った荒妙(あらたえ)でそれぞれ作った御服(みそ)に、天皇が息を吹き掛け、祓(はらへ)つ具(もの)として川に流す。これが天皇の大祓だ。

 念をこめて息を吹き掛けることで御服に御魂が付き祓つ具になる。それを祓い清め川へ流して大祓がなされる。

 私たちが神社で玉串を奉奠(ほうてん)する場合も、念をこめて息を吹き掛け、魂を榊につける。それを神に捧げることで、魂と魂が「串刺し」になって一つに結ばれ(産巣日)、玉串となる。

 だから、玉串奉奠は単に玉串を神前に奉じる形式的な動作ではない。

 息を吹き掛けることは、天照大御神と速須佐之男命が、天安河原で「宇氣比(うけひ)」するところからきている。互いに相手の持ち物を受け取り「佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て、吹き棄(う)つる氣吹(いぶき)の狭霧(さぎり)」に神が成る。念をこめた息は神に通じることを示している。

 天皇の節折が終わると青人草=国民の大祓を行う。延喜式大祓詞の冒頭には「集侍(うごな)はれる親王(みこたち)・諸王(おおきみたち)・諸臣(まえつきみたち)・百(もも)の官人(つかさびと)等、諸(もろもろ)聞しめせと宣(の)る」とある。「宣る」は天皇の命令を宣する宣命(せんみょう)体(たい)で、集まっている人々に謹んで聴けと命じている。

 天皇は自らの大祓に続き、国民の大祓をなして、「天の下四方(よも)には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと……」と、国中のすべての罪を祓い清め、浄く明く正しく直き国になれと祈られている。

 大祓詞の最後には、「四國(よくに)の卜部(うらべ)等(ども)、大川道(ぢ)に持ち退(まか)り出て、祓へ却(や)れと宣る」とあり、祓つ具を川に流し去れと命じている。上代はさまざまな祓つ具が、人々の罪を負って川に流されていた。

 個人の六月と十二月の大祓は、大祓詞を唱えた後、人の形に切った紙=人形(ひとがた)に念をこめて息を吹きつけ、御魂代(みたましろ)として川に流す。罪穢れがなくなった清らかな意識、新たな意識で物事に向き合うというのが大祓の意味である。

 祓つ具を川に流すのは、古い時代からなされてきた。それが仏教などの宗教と結びついて灯籠流しや船流しになっていった。外来宗教の独自行事と考えられているものに、神道儀式は多くの影響を与えている。

 大祓詞は、高天原八百万の神々が会議を開いて議論し、皇孫命は豊葦原瑞穂の国を治(し)らせと決定したところから始まる。そして、荒ぶる神たちを言向け和(やわ)し、岩や木立、草などの自然も静まってから皇孫命が天降ったと、天孫降臨神話を再現している。

 さて大祓詞は、国中に現れた「あめのますひとら=国民」が、犯すであろう天つ罪と国つ罪を列挙し、「ここだくのつみいでむ」と未来推量形を使っている。実際に罪を犯したという過去形ではなく、「罪が出るだろう」という推量にしているところに注目しなければならない。

 こうして罪が現れたなら、「あまつのりとの、ふとのりとごとを、のれ」と宣告している。この詞の後、神主は低頭し、しばらく間を置いてから「かくのらば」と続ける。この低頭している間に、神主は何事かを小さな声で唱えるとされている。

 この天津祝詞が何を指すのかは昔から議論があり、神道家はそれぞれ秘伝の唱え言葉を天津祝詞の太祝詞だとして伝えてきた。

 ちなみに延喜式巻の八では「鎮火(ほしづめ)の祭」「道の饗(あえ)の祭」「伊勢の大神の宮六月(みなつき)の月次(つきなみ)の祭」「同じ神嘗(かむにへ)の祭」の四つの祝詞が、その祝詞自身を「天津祝詞の太祝詞事」だと記述している。

 同様の考えに立ったのが本居宣長で、大祓詞そのものを天津祝詞の太祝詞だとした。また、川面凡児や今泉定助は「ひふみの祓」を候補に上げ、白川伯家神道は三種祓詞を唱えるとしている。

 低頭して一呼吸入れるところで願い事を祈るという説もあり、何かを唱えたのかどうか明確ではない。さらに、現在行われている一呼吸だが、古代からそうだったのかどうかも不明である。古代はもっと長い時間、低頭していたのかもしれないし、頭を下げるだけで一呼吸入れなかったのかもしれない。

 もし、長く低頭していたのなら、禊祓詞のような長い祝詞を唱えることも可能だし、一呼吸入れないなら、何も唱えなかったことになる。一呼吸入れて低頭するという儀式が残っているだけで、実際のところは不明である。

 ただ、神主が「宣れ」と命令しているから、大祓いを受けている人々が天津祝詞の太祝詞事を唱えたのではないかと考えられる。

 こうして、大祓で罪穢れを祓ったら、浄く明く正しく直き新しい世の中が再びやってくるから、心を新たにして物事に取り組むというのが、古代から綿々と続いている日本の国のあり方である。半年に一度、罪を流して新たな気持ちになれば、思考停止の穢れも祓われ、自らの頭で考えられるようになる。

 

 ミ 日を負ひて

 

 神々とともにあるとは、神祭りとともにあるということである。神祭りを忘れると、天皇といえども苦難に陥る。その典型例が、神武天皇が東征で長髄彦(ながすねひこ)(古事記では登美那賀須泥毘古と記す)に破れたことである。日本の敗戦は大東亜戦争だけではない。

 その戦いで神武天皇の長兄五瀬命は、長髄彦の痛矢串を負い、重体に陥る。記紀を組み合わせると、次のような状況だったと思われる。

「吾(あ)は日神(ひのかみ)の御子と為て、日に向かひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。今者(いま)より行き廻(めぐ)りて、背(そびら)に日を負ひて撃たむ」(古事記

 五瀬命は、神である太陽に向かって戦ったから負けたので、逆に太陽を背にすれば勝てると迂回するが、途中で怪我のために亡くなってしまう。

 この後、神武勢は船で方向転換を試みるが、「暴風(あらしまかぜ)」が起こって行く手を遮ったため、神武天皇の兄である稲飯(いなひ)命と三毛入野(みけいりの)命が自らの生命を捨て、海に入って嵐を鎮める。鵜草葺不合命の御子は五瀬命稲飯命三毛入野命神武天皇の四人だが、兄三人が共に生命を失ってしまった。

 さらに、神武天皇が熊野から太陽を背にして攻めようとすると、今度は現れた大熊の毒気に中(あて)てられ、全員が倒れて動けなくなる。

 日の御子の聖征に、なぜこんな苦難が待ち受けていたのだろうか。

 それは、「日に向かひて戦ふこと良からず」という言葉に明確かつ端的に表れている。

 これが正しい判断なら、日=太陽を背にしようする動きは、日神の意思に基づいているのだから、妨げられるはずがない。しかし、方向転換すれば暴風に遭い、さらに日を背にしたのに、出現した大熊の毒気に絶体絶命の危機に陥った。日を背にすれば勝てるという判断が、間違っていたからにほかならない。

 致命的な過ちは、太陽を日神、すなわち天照大御神だと誤解したことだ。

 古事記では五瀬命が「日に向かひて……」、日本書紀では神武天皇が「日に向かひて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)れり。(中略)背に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて……」とのたまったとある。

 これらは、五瀬命神武天皇の代理の依り代の言葉だったと思われる。そして、神懸かり状態の言葉を判断するのは審神者(さには)である。布斗麻邇をしたのなら占いを司る卜部だ。これら審神者なり卜部が神意を間違え、太陽を天照大御神だと唯物的な判断をしたため暴風に遭い、さらには大熊の毒気にもあたり、絶体絶命の危機に直面したのである。

 本居宣長平田篤胤天照大御神を太陽と解釈しており、記紀に指摘された過ちを犯している。

 倒れた神武天皇の危機を救ったのは、建御雷之男神から布都御魂剣を預けられた高倉下(たかくらじ)で、剣を献納すると毒気が消え、伏していた軍勢も目覚める。そして八咫烏(やたからす)の導きもあって、神武勢は聖征を続けることができた。

 神武勢の苦難の原因は武力だけに頼ったことだ。自軍の圧倒的な武力に慢心し、神祭りを忘れていたのである。暴風も大熊も、慢心に対する天つ神の警告だったと考えられる。そして、審神者や卜部、さらには生命を失った三人の天つ神の御子と神武天皇さえもが、神意を正確に受け取れず誤ってしまったのだ。

 五瀬命が傷を負ったとき、日神を太陽と即物的に考えず、祭りを忘れていると判断し、その場で祭祀を実行していれば、神武勢の苦難はなかっただろう。日の神を背にするというのは、太陽を背にすることではなく、神威を背に負うという意味だからである。

 日本書紀神武天皇の言葉は「影(みかげ)の随(まにま)に圧(おそ)ひ踏みなむには。此(かく)の如くせば、曾(かつ)て刃に血(ちぬ)らずして、虜自(おの)づからに敗(やぶ)れなむ」と続く。

 日の神の神威を背に敵に臨めば、血を見ることなく制圧できるというのだ。

 神武勢は賊の征伐を続けるが、八十梟帥に前途を遮られて身動きできなくなる。困り果てた神武天皇の夢に天つ神が現れて、「天香の社の中の土(はに)を取りて(中略)、天神地祇を敬(いやま)ひ祭れ。亦(また)厳呪詛(いつかしり)をせよ。如此(かくのごとく)せば、虜自づからに平(む)き伏(したが)ひなむ」と託宣する。神祭りをしろという神託が与えられたのである。

 神意を悟った神武天皇は「丹生(にふ)の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇を祭(いはひまつ)りたまふ」た。すると、抵抗していた八十梟帥は降伏し、最大の勢力だった長髄彦との戦いでは、金色の鵄(とび)が神武天皇の弓に止まり、稲妻のように光って敵軍の戦意を喪失させ征伐することができた。

 金色の鵄は寓話にすぎず、事実ではないと反論が出るかもしれないが、神祭りをしたことで神威が現れ、神武軍と敵軍にそう見えたのにほかならない。

 神祭りを忘れた結果が苦難であり、祭った後には大御稜威(みいつ)に助けられ、東征を果たすことができた。ちなみに御稜威は三(み)出(いつ)で、三種の神宝の神力が現れることをいう。

 神祭りのない武力だけの戦いは、敵と同等の戦いで単なる戦争にすぎないから、天つ神の大御稜威に助けられることはない。ひるがえってみると、果たして大東亜戦争に、神祭りがあっただろうか。

 

 四方(よも)の海、みな同胞(はらから)と 思う世に

 など波風の たち騒ぐらん

 

 昭和天皇は日米開戦に当たり、御前会議で明治天皇の御製を詠(えい)じ、戦争回避を求められた。しかし時の政府は耳を貸さず、戦争への道を突っ走った。天皇の御意向を無視しての開戦である。

 天つ神の皇孫である天皇は、政治家や軍人にとって、現人神(あらひとがみ)のはずだ。そう政府や軍部は国民を指導した。にもかかわらず、天皇の願いを踏みにじった政府・軍部は、神祭りを忘れたどころか、神に弓を引いたも同然である。神を敬う心など、どこにも存在していない。

 大東亜戦争のそもそもの発端となったのは、国民党軍の挑発から始まった支那事変だが、中国大陸での権益拡大にやっきとなった軍部の一部が、好機とばかり拡大させたことも原因している。そこには物質的な権益狙いがあっただけで、国民(くにたみ)安かれという天皇の祈りは、政策のどこにも存在していなかった。

 国が違っても、人々は天皇にとって大御宝である。中国人だろうと朝鮮人だろうと、さらに欧米人であろうと、地球という惑星に生きる人々は、皇孫命にとって、すべて大御宝である。

 天皇の祈りを無視し、神祭りを忌避した軍部に、大御稜威が働くわけもない。神祭りのない戦いは、物と物の戦いだから、戦争が長引けば、資源が豊富で産業力が優れている勢力が有利に決まっている。

 不利とわかっていても、戦わなければならないことがあるだろう。しかし、神を祭り、国民安らけくという祈りが根底にあれば、結果はおのずから異なってくる。