中韓ODAの闇 3(了)

「優遇しすぎの対中ODA」

 外務省によって公表されている2015年度までの対中ODAは円借款3兆3164億8600万円、無償資金協力1575億700万円、技術協力1839憶6万円の巨額になっている。

 反中感情の強い人は無償資金協力がケシカランなどと批判するが、全体からみれば大した金額ではない。一番の問題は3兆円を超える円借款である。

 対中ODAの特徴は、中共の5か年計画に従って円借款を供与してきたことである。最初の第1次円借款は1979年12月に大平首相が表明、1979年度から83年度までの5年で、総額3309億円、金利3%で10年据え置き、30年償還というものだった。主に、石炭の輸送路整備が中心で、鉄道、港湾、ダムなど6案件が対象だった。

 第2次円借款は1984年に中曽根首相が表明、1984年度から89年度の6年間で、16案件5400億円、金利は2.5―3.5%で、やはり10年据え置き、30年償還となっている。

 第3次円借款は1988年に竹下首相が表明、1990年度から95年度までの6年間で40案件総額8100億円、金利2.5%で10年据え置き、30年償還だった。

 1989年には天安門事件が発生しているにもかかわらず、翌年から8100億円という巨額の円借款が行われた。わが国政府は大弾圧を厳しく非難して円借款を中止すべきだったのに、先進国の対中制裁をいち早く解除してしまった。媚中外交そのものである。

 第4次借款は村山首相が1994年12月に表明、1996年度から2000年度までの5年間で68案件9700億円、金利1.8-2.3%。10年据え置きの30年償還である。

 第5次円借款は時の小泉総理が消極的だったこともあり、総額4409憶900万円と大幅に減少した。中共は当時の温家宝首相が反発したが、沿岸部のインフラ整備はほぼ完成していたこともあり、最後の円借款となった。靖国神社参拝を激しく攻撃されては、小泉総理としては支援する気など起きるはずもなかっただろう。

 この時、以前は5か年計画分を規定路線として計上していたが、単年度査定に変えたことも円借款減少の要因になっている。

 対中円借款の終了に反対する声も日本国内にあった。中共円借款を確実に返済しており、元利が確実に戻ってくる優良融資だとか、中共に対する数少ない外交カードだというものである。

 中共が経済発展して以降、円借款外交カードなどになり得ないし、優良債権という主張も的外れもいいところである。

 例えば1兆円の円借款金利3%、10年据え置きで30年償還としよう。1979年当時、銀行が企業に貸し付ける長期プライムレート(最優遇貸出金利)は8.1%、80年3月1日には8.8%となり、さらに4月1日には9.5%と上昇している。

 世の中は高金利時代だった。企業は長期資金を借りるのに、おそらく9%を超える金利を支払っていたのではないか。

 また国の借金である10年物長期国債の利率は、1979年には9.15%、80年は8.86%、81年は8.12%となっており、対中円借款の利率よりはるかに高い。自国が高金利で資金調達し、はるかに低い金利円借款するとは本末転倒である。

 日本国内の高金利に対し、対中円借款は最貧国へのODAだとしてもわずか3%で、長プラとの金利差は6%もある。

 1兆円を1年借りた金利相当分は、企業では9%で900億円、中共は3%300億円ですみ、その差はなんと600億円になる。

 返済を10年据え置き、企業が金利9%で融資を受ければ、9000億円の金利を支払わなければならない。これに対し中共は、10年分の金利3000億円で済む。企業融資だとすれば金利差分の6000億円もの金額が、中共に贈与されたことになる。

 また、企業融資との金利差が6%を考えよう。30年償還は複雑な複利計算になるが、金利差分だけで借款額1兆円を大きく上回る。

 この計算を対中円借款3兆3000億円(丸めた数字)に当てはめると、10年据え置き分だけで、企業融資の9%と円借款3%の金利差6%分の1兆9800億円が贈与されたことになる。

 さらに30年の長期返済で、企業融資と円借款金利差分に当たる円借款3兆3000億円と同額の負担金利が贈与れたとみなすと、合計で実に5兆2800億円もの巨額が贈与された計算となる。

 もっとも金利は上下しているし、近年は低下傾向にあるから、計算通りの数字にはならないだろうが、それでも数兆円を上回る金額が、わが国から中共に流れ込んだことになる。

円借款の踏み倒し」

 韓国には1965年に戦後処理として支払ったもの以外として、ODAによる円借款が6455億円あり、中共には3兆6500億円の円借款を行った。

 これらは順調に返済されているのだろうか。

 まず韓国の6455億円だが、ほぼ償還された。今後は韓国に經濟危機が訪れ、支援を懇請されても、対日姿勢が尋常ではない韓国には、借款はもちろん、金融危機のセーフガードであるスワップ協定なども締結すべきではない。静かに外交を細めていくのが利口である。

 中共円借款も滞ることなく返済されており、最近は年間1000億円ほどが償還されている。2015年度で借款残高は9210億円となっているから、全額が償還されるのは時間の問題だろう。

 だが、″中国″には円借款を踏み倒した前科があるから、油断は禁物だ。

 国家間の条約や契約は、政権が代わっても継続されるのは、国際法に照らしても当然である。韓国のように「不可逆かつ最終的」に合意したことを反故にするような態度は、明らかに国際法違反である。

 さて、辛亥革命によって清から中華民国へと政権が変わり、段祺瑞が総理時代の1917年(大正6年)、寺内正毅首相の側近だった西原亀三が中心になって対中円借款を行った。

 西原借款といわれるもので、日本興業銀行朝鮮銀行(のちの日本債券信用銀行=現あおぞら銀行)、台湾銀行が資金拠出し、1917年から18年にかけ、総計1億4500万円を供与した。

ほかにも政治借款といわれるものがあり、総額は3億円、現在価格にすると3兆円もの巨額になる。

 ところが中華民国は、1923年の関東大震災から支払い遅延を起こし、1933年に発生した三陸地震の4か月後に返済をストップした。日本の国難に乗じて頬被りしようとする卑劣さである。

 1933年7月30日付の大阪朝日新聞は「3億の対支債券 実力で回収を決意」という見出しで、「対支借款はいわゆる西原借款などの政治借款と称されるものを合算すれば今や元利合計10億円にも達しているが、この政治借款について南京政府は全然責任なきが如く態度を執っており」と報じている。

 この当時、日本の軍部は担保の差し押さえ、最悪の場合は実力行使を検討していたが、満州事変、上海事変支那事変へと戦局が拡大する過程でうやむやにされた。踏み倒されたのである。

 経済がグローバル化した現在、借金を踏み倒せば貿易を直撃するから簡単にできるものではないが、中共共産主義体制が崩壊し、旧ソ連のように分裂国家が成立したら、「北京政府」がどう出るかは予測もつかない。返済繰り延べ要求をし、それに応じている間に、支払い遅延を起こし、なし崩しにしようとするかもしれない。

 中華民国が踏み倒す直接のきっかになったのは、当時の総理・段祺瑞が失脚したからである。国家主席の任期を廃止した中共で、国内不満から習近平が失脚し、国家分裂につながるようなことがあれば、支那大陸の政府は間違いなく踏み倒そうとするだろう。

「近代都市・北京は円借款が造った」

 中共の首都・北京市は地下鉄が縦横に走り、道路網も整備された近代都市である。

 北京市の地下鉄建設計画が具体化したのは1988年、日本の円借款25億1000万円が供与されたことに始まる。翌年89年には14億9000万円が供与され、第1期工事が終了した。

 第2期建設計画は91年に32億8100万円の円借款がなされたことで開始された。翌92年には62億3500万円、93年は38億1900万円、94年には23億4300万円が供与された。

 北京市の地下鉄には円借款が196億7800万円も投じられており、地下鉄建設すべての費用を賄ったわけではないが、大きな支援になったのは疑いない。

 鉄道建設にも巨額の円借款が投じられている。中共幹部が夏に集まり秘密会議を開催する北戴河は、河北省の渤海湾に面する秦皇島市にある。北京から東へ280キロ、温暖な気候のリゾート地で、石炭の積出港としても知られている。

 円借款によって北京と秦皇島間の鉄道拡充計画が始まったのは1980年、25億円が最初に供与され、同じ年に112億円、81年に92億円、82年に309億円、83年に332億円が投下された。

 北京―秦皇島の鉄道拡充計画に総計870億円の円借款が供与されたのである。

 また、2000年には北京都市鉄道建設事業に141億1100万円、01年に88億6300万円の計229億7600万円を円借款した。

 鉄道拡充に並行して秦皇島港の拡充計画が始まった。1980年には49億1500万円と137億7000万円、81年には91億円、84年に46億3100万円、85年に37億2300万円、86年に70億1100万円、87年に34億5100万円、88年に31億8400万円、合計497億8500万円が円借款で賄われた。

 さらに秦皇島港の石炭バース第4期建設計画として1993年に39億4400万円、94年に71億7800万円の計111億2200万円を支援している。

 北京市民の生活に密接な上下水道の整備も円借款で行われた。1988年に上水道整備計画で106億1400万円、下水処理場建設計画に26億4000万円、89年に上水道整備で48億6600万円、96年に浄水場建設に146億8000万円が円借款で投じられた。

 また、都市間の長距離電話網にも円借款が使われている。1993年に北京・瀋陽・ハルピンの電話網に31億4500万円と40億5500面円が投じられた

 参議院の調査団が問題にした北京首都空港の整備では、1993年に81億600万円、95年に134億2500万円、96年に84億5900万円の合計299億9000万円を支援した。北京首都空港は日本が丸抱えで建設したようなものである。

 ちなみに、上海浦東国際空港は1997年に400億円の円借款をして建設された。

 こうして見てくると、北京の主だったインフラのほとんどに円借款が投入されていることがわかる。円借款がなかったら、今日の大都市・北京は存在しないといっても過言ではない。

 最初のころの円借款は鉄道、港湾、発電所など大型インフラ整備が中心だった。

港湾では秦皇島港だけでなく、石臼所港、連雲港拡充、青島港拡充などに円借款が行われた。

 鉄道は兗州―石臼所間鉄道建設、衡陽―広州間鉄道拡充、鄭州―宝鶏間鉄道電化、大同―秦皇島間鉄道建設、神木―遡県鉄道建設、衡水―商丘鉄道建設などなど、数えるときりがないほどである。

 国民生活に不可欠な電力確保のための発電所は、天生橋水力発電、五強渓ダム建設、観音閣多目的ダム建設、北京十三陵揚水発電所建設、上海宝山発電所、湖北火力発電所、江西九江火力発電所三河火力発電所、山西河津火力発電所、韓城第二火力発電所、山西王曲火力発電所、などなど、100億円から300億円が各発電所に投じられ、円借款で建設された。中共の電力は日本の援助がなければ供給できなかったのが実情だ。

 国民生活に密接なものとして北京だけでなく、各都市の上下水道や都市ガス整備が行われた。

 インフラが整備されるに伴い、文化大革命などで傷んだ農業を支援するため渭河内蒙古雲南、鹿、九江などの化学肥料工場を建設、食糧増産を支援した。

 中共の空港建設に円借款が使われ始めたのは1990年の武漢天河空港の建設からである。これには62億7200万円の円借款が行われた。

 93年に北京首都空港の建設計画が持ち上り、続いてウルムチ空港拡張、蘭州中川空港拡張、上海浦東国際空港の建設へと進んでいく。ご丁寧なことに、民間航空管制システムの近代化に177億4600万円もが注ぎ込まれている。

 こう見てくると、北京市の近代化、鉄道網や港湾、空港、ダム、火力発電所、道路、電話通信網、各都市の上下水道、都市ガス整備、食糧増産のための化学肥料工場など、中共国民の生活を豊かにするインフラの大半に円借款が利用されていることがわかる。

 呆れた支援には、国家経済情報システムに115億5200万円や輸出基地開発計画に700億円なども円借款で整備されている。

 観光で有名な海南島に234億円、青島に602億円を円借款、開発・インフラ整備は、日本の丸抱えで行ったようなものである。

 中共の近代化、経済発展に日本がいかに貢献してきたか、これらの事実だけでも明らかである。国家の基盤を円借款で建設してきたと言っても過言ではないだだろう。

「無償で病院など建設」

 無償資金協力は発展途上国の要望で国民生活に密接な関係のある事業に対し、返却なしの資金援助をするものである。対象国からの要望を審議し、日本からの資金援助を受けて、対象国自らが整備する方式である。

 中共への最初の無償資金極力は中日友好病院の建設で、4度にわたり164億3000万円の供与がなされた。緊急入院した市民が回復し、日本からの支援で造られた病院だと知り、感謝する声もあるが、名前の示す通り中日友好病院だから、中共政府が隠すこともできなかったのだろう。

 無償資金協力も最初は大型物件のハコ物が主体で、中国肉類食品総合センター(27億円)、北京郵電訓練センター(22億円)などのほか、鉱産物検査研究センター、国家標準物資研究センター、肢体障碍者リハビリテーション研究センター、日中青年九尾流センター、北京淡水魚要職センター、上海医療器械検査センター、ホータン市児童福祉教育センター、日中友好環境センター、敦煌石窟文化財保存研究・展示センターなどの拠点が次々と造られた。

 日中友好環境センターには101億9700万円が投じられ、中共の環境汚染対策を支援している。

 こうした拠点の建設とともに、さまざまな分野での機材整備も無償資金協力の対象として進められた。

 経済発展を推進するインフラ整備、国民生活に密接な関係のある環境対策などの拠点つくりや資材の整備と、日本の対中ODAは至れり尽くせりのきめ細かさで行われた。

 習近平中共政府は、それに感謝するどころか、国民には日本の援助を極力隠し、愛国心教育反日感情を煽り、さらには尖閣諸島や沖縄への領土的野心を高め、領海侵犯を繰り返している。

 韓国とともに付き合い方を真剣に検討すべき国である。

 中共の陰湿さを示す出来事に、戦争賠償の放棄をしているのにもかかわらず、商船三井の輸送船を差し押さえた事件があった。商船三井は40億円の供託金を払い、差し押さえを解除した。賠償請求の対象が日支事変の前の船舶賃貸契約だからというのだが、それなら日本も日支事変前に中華民国が踏み倒した3億円の円借款返済を求めるべきである。

 日本側が甘い顔をしていれば、どこまでも増長するのが中共である。

 また、国営新華社は賠償放棄について、「民間・個人の請求権は含まない」と報じた。民間に日本企業相手に提訴しろとそそのかしているのも同然である。

 それなら、日本国民が放棄したことになっている在中資産の返還を求めるべきだ。

 現在ポーランドになっている土地に住んでいた旧ドイツ国民は、ポーランド政府に資産の返却を求める裁判を起こし、資産返却が行われ始めた。

 日本人は満州国に住み、多額の資産を残し、着の身着のままで帰国した。ドイツとポーランドの例をみれば、国際常識的には国民が満州に残してきた資産の返還を要求していいということになる。

 韓国にも同じことが言えるが、自国は被害者だという「歴史認識」が、国際的にみていかに違うかを明確に認識させる必要がある。

 ちなみに、ナチスドイウに併合されたオーストリアの例をみよう。オーストリアは1938年にナチスドイツに併合された。そして、80万人の兵士を動員し、ドイツとして戦い約30万人が戦死した。

 戦後、米、英、仏、ソに領土を分割統治され、1955年に主権を回復し、永世中立国となった。

 連合国によって併合は無効と認定されたが、万人単位のユダヤ人虐殺の事実が発覚、ユダヤや国際社会から非難が巻き起こり、フラニッキー首相がイスラエルを訪問して謝罪した。

 ナチスドイツに併合された被害者から、一転して加害者に変わったのである。

 韓国の場合はどうか。朝鮮は1910年(明治43年)に大日本帝国が併合し、日本となった。そして、枢軸国・日本として大東亜戦争を戦った。

 朝鮮人の軍人・軍属は24万人を超え、靖国神社には2万1000柱の英霊が祀られている。

 韓国併合オーストリアのように無効を宣言されているわけではなく、敗戦時には日本そのものだった。

 国際的な見地から歴史を見つめれば、韓国はオーストリア同様に被害者ではなく、大東亜戦争の″加害者″ということになる。ならば″加害者″韓国は、日本に戦争責任を求めるどころか、インドネシアベトナムミャンマーなどに謝罪しなければならなくなる。

 日本の外交当局は、韓国と交渉する場で、当時は日本だった韓国の戦争責任を明確にするよう求めるべきである。

 韓国が国際問題で最も恐れているのはオーストリア問題であり、交渉を有利に進めるには、相手が嫌がる急所を巧みに突く必要がある。

 攻められるだけでなく、攻めることも外交だと、政府は自覚すべきである。

 さて、中共北朝鮮共産国家でありながら、韓国と同様に儒教を信じている。上限関係を明確にするにはもってこいの宗教だが、これらの国々が日本に難癖をつけてくるのは、儒教が恨み辛みという嫉妬の宗教だからでもある。繁栄する日本が、憎くてならないのだ

 孔子は聖人とされているが、どこへも士官できず、一生を浪人で終わった。周礼の権威と称しながら、実は詳しいことを知らず、したがって見る者が見て議論すれば、底の浅さが露呈してしまう。

 だから、どの国でも召し抱えようとしなかったのだが、孔子本人は大権威だと思い込んでいて、採用しない国々の王は無能だと蔑み、自分より無能と思われる者が召し抱えられると憎しみを燃やした。

 嫉妬と憎しみの宗教である儒教を信奉する国々と、罪穢れを祓って清らかに生きる日本の国柄が、かみ合うはずがないと肝に銘じるべきである。

  

 

中韓ODAの闇 2

「膨大な中共へのODA」

 中共が濡れ手に粟で手にした日本の在中資産は2386億円強、現在価格40兆円もの巨額なものだった。このうち、満州があった東北地方には1465億円もの在満資産があり、満州国を独立国家として育てようと、日本がいかに多額の投資をしたかがうかがわれる。 欧米の植民地のように搾取するのではなく、資本投下で満州国の発展を支援したのは明らかである。

 中共が手にした日本の在中資産や、戦後処理として行われたODAが、中共国民に知らせられることはまったくなかった。 それを裏付けるように、中共で1億5000万人の読者を持つニュースアプリの今日頭条は「日本が中国に30年以上にわたって莫大な支援をしていたとは、まったく知らなかった」と驚きの記事を掲載した。

 記事は、日本が1979年から中共に対し「大規模な支援」を行ってきたことは中国人が知らないこと」と指摘。上海の浦東空港や北京の首都国際空港は、いずれも日本からの資金援助で建設され、蘭州や武漢西安などの空港も同様に日本からの援助を受けたと正確に伝えた。

 さらに、北京と河北省秦皇島市を結ぶ鉄道や、北京市にある中日友好病院、地下鉄1号線など、日本からの資金が一部でも投下されたプロジェクトは数多く存在すると強調した。 結びとして、中国は資金的に困ることはなくなったが、日本は今も技術や人材の点で中国への支援を継続しており、中国人民はこうした事業が存在することを客観的に知っておくべきであると伝えている。

 ずいぶんまともなメディアだが、報道の後、どうなったかは伝わってこない。中共のことだから、厳しい制裁を受けている可能性を否定できない。

「対中共ODAの始まり」

 対中ODAの供与を大平正芳総理(当時)が表明したのは、日中平和友好条約が締結された翌年、1979年だった。12月に訪中した大平総理は中共の改革・解放政策を積極的に支援すると表明した。

 この当時、欧米諸国とA.S.E.A.N.(東南アジア諸国連合)は共産国家・中共ODAの対象にすることに難色を示していた。にもかかわらず、大平総理が対中ODAに踏み切ったのだが、宏池会の政治家は、昔も今も中共に甘いらしい。

 日本は中共の要請に500億円の円借款と、無償資金協力による北京での病院建設を支援した。西側諸先進国の対中ODAの始まりである。  だが、中共ODAを戦後補償の代替と認識、平成12年5月に来日した唐家セン外相は、日本記者クラブでの講演で「中国に対するODAは、戦後賠償に代わる行為である」と決めつけた。ありがたみなど、かけらも感じていないのは明確である。

 円借款が供与されるまで、中共国内には高速道路はなかったが、借款によって道路が整備され、大きな経済成長をもたらすインフラとなった。

 79年に円借款が開始されてから、わが国は対中ODAを増やし続け、1982―86年の間、中共はわが国の第一位の援助国となった。

 だが、1989年6月4日の学生や市民を大弾圧した天安門事件で、第三次円借款凍結などの経済制裁を行い、平成元年度には大幅減少した。

 そのままODAを自粛していればよかったのだが、平成2年(1990年)11月にわが国政府は他国に先駆け第三次円借款の凍結を解除、対中包囲網の解消へとつながってしまった。海部内閣の軟弱外交である。

 平成7年には中共が数度の地下核実験を行い、わが国政府は無償資金協力を凍結したが、包括的核実験禁止条約に中共が調印したことから凍結を解除した。 まるで解除が前提の凍結である。

 こうした軟弱外交が、わがもの顔にふるまう中共を増長させ、その後も同じ轍を踏むことになる。 平成10年(1998年)江沢民中共の主席として初めて来日したとき、「歴史認識」で激しい日本批判を繰り返し、日本国民の怒りを買ったにもかかわらず、対中ODAは増加し続けた。

 その結果、平成12年(2000年)には供与額が2270億円を超え、過去最大となった。

 江沢民が訪日した当時と、最大の供与額を記録した時の総理は小渕恵三で旧田中派田中角栄媚中外交を受け継いでいる。田中派といい宏池会といい、親中派は対中軟弱外交に甘んじ過ぎている。

 平成12年5月には訪日した唐家セン外相に、河野洋平外相が13年度(2001年度)以降は円借款を見直すことを伝え、やっと無尽蔵に増え続ける対中支援のピリオドを打った。時の総理は森喜朗で、媚中派河野洋平も、対中ODA批判の国民の強い声には抗しきれなかった。

 対中経済協力計画の見直しもあって、平成13年度の対中円借款は前年度比25%減少、平成15年度(2003年度)には1080億円と、ピーク時の半分以下になった。 円借款の減少で、平成16年(2004年)には元利合計の償還額が初めて供与額を上回ることになった。

 さらにわが国の国家財政の悪化や反中感情の高まりもあって、平成18年(2006年)には新規の一般無償資金協力が、翌年の平成19年(2007年)には新規の円借款がいずれも停止された。

 それでも継続する事業への円借款が続き、終了したのは平成29年(2017年)とごく最近のことである。

 対中円借款は367件の事業に3兆3650億円が実施され、中共各地の空港や港湾、高速道路、鉄道、ダム、都市の上下水道などなど、幅広いインフラ整備に利用された。

 円借款がなければ、中共の改革・開放路線や近代化は成功せず、対外拡張野心も起きなかっただろう。中共が関係する国際紛争を、日本が間接的に支援してきたのも同然である。

 ちなみに中共は、日本のODAを受け入れながら、東南アジアやアフリカの発展途上諸国に多額の援助を行っている。 1998年から2003年までの6年間で、中共は271憶元、邦貨換算4150億円もの多額な対外援助を行っている。日本が中共の5か年計画に対応して供与している円借款に匹敵する金額である。

 日本からのODAによる資金が、回り回って世界にばらまかれ、中共シンパを作る皮肉な結果となっている。 こうしたさまざまな問題から対中ODAは一部を除いて終了したが、問題だらけの支援だった。

 というのは、まず中共の国民は日本が多額の資金援助をしてきた事実を知らされていない。知ろうにも知る機会がないのである。

 インフラ整備を共産党政権の成果とし、さらに親日感情を国民が持たないようにする姑息な政策を取っているからである。

 それを象徴するように、平成16年11月に公表された「第1回参議院政府開発援助調査―派遣報告書―」によると、「有償案件として実施された北京首都空港整備事業についての感謝プレートは、一般国民が立ち寄ることのないルームに向かうエスカレーターの頭上に掲示されている。中国の一般国民は、我が国からの229.8億円に上る資金援助を知る由もないであろう」と、怒りを込めて指摘している。

 万事が万事この調子で、中共は口先ではわが国に対し感謝の念を伝えることがあるが、自国民には隠し続けてきた。これではどれだけ日本が経済援助をしても親日感情が芽生えるはずもなく、少し扇動すれば反日感情が沸騰して大規模な暴動につながるわけである。

 さらに円借款を受けた事業の運営のいい加減さもある。北京首都空港の株式が日本に何の相談もなく外資に売却されたり、北京の日中交流センターの施設内で風俗店が営業するなどの不祥事もある。 資金援助した施設で何が行われているか不透明といわざるを得ない。

中韓ODAの闇 1

「打ち出の小槌にされた日本」

 戦争に負けるということは悲劇である。戦った世代だけでなく、後世にも戦争賠償などで重い負担となる。戦争はよほどのことがない限りやるべきないが、やるからには負けてはならない。

 わが国は大東亜戦争で負け、GHQ(連合国軍総司令部)に国土を占領され、さらには戦犯を一方的に裁く違法な東京裁判を押し付けられ、さまざまな分野で自虐史観を植え付けられた。

 幸いだったのは、後世の負担となる巨額な戦争賠償を、一部を除いて連合国が放棄したことである。

 ドイツが第一次世界大戦の敗北で巨額な戦争賠償を科せられ、それに反発したドイツ国民がナチスを支持し、再び第二次世界大戦という壊滅的な戦争を引き起こした反省から、主要国が戦争賠償を放棄したのである。

 ドイツの場合、戦争相手国への賠償は支払っておらず、今でも続いている賠償はナチスによって虐殺されたユダヤ人に対してである。

 わが国の場合はドイツとは異なる。連合国55か国のうち、サンフランシスコ講和条約の締結で47か国が賠償請求を放棄し、放棄しなかったフィリッピンベトナムには賠償金を支払った。講和しなかった国々も2国間講和を結び、インドネシアビルマには賠償した。インドは個別平和条約で賠償請求権を放棄した。

これらの賠償は、敗戦後の貧しい国民生活の中、乏しい国家予算をやり繰りして支払われたことを忘れてはならない。

 戦争賠償については講和条約によって完全に解決されたが、問題は戦勝国ではない中華人民共和国中共)や、戦争当時は日本国だった大韓民国(韓国)が、戦争賠償とは異なる名称で多額の戦後補償を受けたことである。

 日本の戦争相手国は蒋介石が率いる中華民国であり、大東亜戦争後の1949年に建国宣言を行った毛沢東中共ではない。中華民国から中共に政権が移ったのは、支那国家の内政問題であり、国家としての条約は引き継がれるものである。

 蒋介石の国民党政府は、支那を代表する政府はどこかという大国間の思惑で、サンフランシスコ講和条約には参加できなかったが、大陸国家を代表する立場で日本と二国間講和を結び、米国の圧力もあって戦争賠償を放棄した。「以徳報怨」で蒋介石が積極的に賠償請求放棄したとされているが、最後まで要求していたのは外務省の記録から明確である。

 内戦によって大陸の実権を握った中共は、当然だが国際条約としての日華条約を継続しなければならない。公式にではないが周恩来総理が、田中総理訪中の前に「台湾の蒋介石はすでにわれわれより先に賠償を放棄した。共産党の度量は、蒋介石より広くなければならない」と発言し、戦争賠償を放棄している。

 さらに、昭和47年(1972年)の日中共同声明、昭和53年(1978年)の日中平和友好条約で「戦後処理」がなされ、請求権などについて共同声明で「中華人民共和国は、日中人民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明記されている。

 また、日本国の一員だった韓国は、サンフランシスコ講和条約への参加を求めたが、戦争相手国でないばかりか、日本国として連合国と戦ったのだから、当然ながら認められることはなかった。

 中共へも韓国へも、日本は戦争賠償を支払っていないが、韓国には戦後補償とODA(政府開発援助)、中共にはODAとして巨額の資金援助を行った。両国とも戦争賠償ではないが、それに代わるものと認識しているから、ありがたみを感じるどころか、さらに日本から資金を引き出そうと、あの手この手で要求してくる。

 中共に対しては日本の国内世論の反発を受け、ODAの主力だった円借款は終了し、無償資金協力もNGOなどの草の根協力に制限され、技術協力もわが国に関係する環境や人道にかかわるものだけに絞られている。

 その後、中共へのすべての援助は打ち切られた。遅きに失した感がある。

 だが、これまでの有償、無償、技術協力は中共の経済力を大きく発展させ、結果的に軍備拡大、拡張主義に協力してしまった。

 中共と韓国に、日本がいかに巨額の援助をしてきたか、明確にしよう。

「賠償について」

 サンフランシスコ平和条約による戦後処理は、フィリッピンに5億5000万ドル、ベトナムに3900万ドルの賠償を行い、ほかの条約当事国は日本への賠償請求権を放棄した。

 条約締結国ではないビルマインドネシアは2国間条協定でビルマ2億ドル、インドネシア2億2300万ドルを賠償した。

 いずれも1ドル=360円換算で、総額は約10億1200万ドル、円換算では約3643億5000万円だった。

 ほかにも日本が占領していた地域の国々、ラオスカンボジアシンガポールなどの8か国に対し、合計約606億円の賠償がなされている。

 日本は戦後処理として誠実に、きめ細かく賠償をしている。中韓に賠償不足と非難されるいわれはない。

「在外資産放棄」

 賠償請求の放棄に伴い、日本は条約当事国に「日本の在外資産の処分権」、すなわち没収を認めた。在外資産の総額は外務省の調査によると、1945年8月現在で3794億9900万円にも達するとみられている。

 これらはすべてサンフランシスコ平和条約14条により、当該国に没収された。賠償金額を少なくして敗戦国の負担と反発を少なくし、できる限り在外資産の没収で賠償を賄おうとする方針からだった。

 また、日本国内にある軍需工場の機械などを連合国に移転、譲渡することを中間賠償というが、軍需工場にあった4万台を超える機械類約1億6500万円分が中華民国フィリッピンなどに引き渡されている。機械類を没収することで、日本の再軍備を抑える意味合いもあった。

 日本は敗戦前、満州朝鮮半島支那大陸に官民ともに進出していたから、巨額の在外資産があった。

 これらは対象国がサンフランシスコ平和条約を締結していないので、日本が在外資産の返還を求めることはできた。しかし、GHQの圧力や相手国の国民感情などに配慮し、わが国は返還請求を断念した。

 ちなみに戦争賠償を放棄した中華民国も在外資産での賠償は受けている。蒋介石政権が賠償を完全放棄したわけではない。

 外務省の調査では、1945年8月時点で以下の在外資産があった。

朝鮮

702億5600万円

台湾(中華民国)

425億4200万円

中国

東北

1465億3200万円

華北

554億3700万円

華中・華南

367億1800万円

その他の地域(樺太、南洋、

その他南方地域、欧米諸国等)

280億1400万円

合計

3794億9900万円

 

総合卸売物価指数で比較すると、現在価格は約200倍となるから、70兆円を大きく上回る。

 在外資産の調査はほかにもGHQや日銀、大蔵省(当時)が行っており、調査対象の違いから数値はまちまちだが、巨額であることは間違いない。

 本来は支那歴代王朝の勢力範囲ではない満州をも含め、中共は日本国保有の在外資産、2386億8700万円を居ながらにして手に入れた。物価比較200倍として40兆円を上回る巨額な資産である。

日本軍とまともに戦わずして得た資産は、中共にとってこの上ないご馳走だったに違いない。

「膨大な韓国支援」

 一方、韓国には在外資産の日本の放棄のほか、1965年の日韓基本条約と請求権・経済協力協定の締結で、無償3億ドル=1080億円、有償2億ドル=720億円の経済援助がなされた。

 さらに民間借款が3億ドル=1080億円なされたから、経済援助は8億ドルにも達する。

これに在韓資産の700億円強、現在価格200倍の14兆円の放棄が加わるのだから、天文学的な数字といってよい。

 8億ドルという金額は韓国の当時の国家予算の2.3倍で、韓国が日本の戦後補償でいかに潤ったかを物語っている。漢江の奇跡といわれた韓国の経済発展は、ひとえに日本の戦後補償がもたらしたものだった。

 この協定には、一切の請求権に関する戦後処理は、「完全かつ最終的に解決された」と明記されている。

 いまだに韓国が要求する架空の「従軍慰安婦や徴用工強制」の戦後補償は、仮にあったとしても、完全に解決済みなのは言うまでもない。

 ちなみに、GHQの調査では、昭和20年8月15日現在で朝鮮半島に残された日本の在外資産は、全体で891億円、韓国429億円、北朝鮮462億円だった。

 現在価格では朝鮮半島全体で17兆8200億円、韓国8兆5800億円、北朝鮮9兆2400億円という巨額になる。さらに個人資産が約5兆円残されたから、22兆円近い資産が半島全体で没収されたことになる。

 1949年3月に韓国政府が米国務省に提出した「対日賠償請求調書」によると、金や美術品など現物返還要求をしているものを除き、要求総額は314億円(1ドル=15円)で、現在価格換算6兆2800億円だった。

 韓国内の日本の在外資産8兆5800億円から引くと2兆3000億円で、日本がもし残した在外資産の返還を求めると、韓国は2兆3000億円を支払わなければならなくなる。

 北朝鮮にしても同様で、もし2国間で平和条約を結び、戦後処理がなされることになっても、北朝鮮に残した在外資産の方が賠償請求額より大きくなるのは確実のため、北朝鮮の賠償請求の放棄、ODAなどの2国間の経済援助という形になるだろう。

韓国は日本の在韓資産の活用、戦後処理としての無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの支援で、漢江の奇跡といわれる経済発展をなした。

だが、歴代韓国政府は、ドイツがユダヤ人の被害者個人に賠償しているように、被害を受けた韓国国民に渡すべき戦後補償を、黙って国家運営やインフラ整備に使い、国民には事実を伝えないできた。

それが反日教育とともに、日本への敵対心を煽っている。

だが現実には、韓国の重要インフラは日本のODAや民間借款によって形成されている。

韓国の首都・ソウルの地下鉄は、日本による円借款や技術指導、鉄道要員の研修で、5号線まで拡張した。1972年に272億円、1990年に720億円のODAによる低利かつ長期償還の優遇資金援助がなされている。

また、ソウル市や他都市の上下水道、各都市を結ぶ高速道路、各地河川のダム建設、通信施設、医療や農業分野でも多額の資金援助を行った。

民間部門でも1973年竣工の浦項総合製鉄は、新日本製鉄からの借款と技術提供を受けて建設された。現代自動車三菱自動車の技術指導で設立されたし、造船技術も提供している。

日本の金融機関から融資を受けた韓国企業は、主だったものでも韓国ガラス、韓国アルミ工業、韓国ベアリング、大韓造船、連合鉄鋼工業、韓国肥料、双龍セメントなど数多い。

さらに、1997年の通貨危機に伴う韓国政府の財政破綻の危機には、先進各国が救済の必要性を認めなかったのに、韓国ウォンを日本が保証し、IMF国際通貨基金)と協力して100億ドルの金融支援を行った。

感謝されこそすれ、そしられるいわれはない。一部の親北勢力が反日活動で猛威を振るい、国民を扇動して日韓関係を深刻化させているのは、国民に援助事実を知らせないできた歴代韓国政府にも責任がある。(続く)

著者あとがきと参考文献

 著者後書き

 一九九七年四月九日、厚生省は浅井ゲルマニウム研究所が薬事法に違反していると警視庁に告発した。行政指導も何もなく、いきなりの告発で、異例中の異例だった。

 告発を受けた警視庁薬物対策課は翌日、浅井ゲルマニウム研究所など全国の関連施設を家宅捜索した。

 生命の元素、GE-一三二は、薬事法という鉄壁に跳ね返され、大衆に安く渡そうとした浅井の夢はついえ去った。浅井ゲルマニウム研究所はすべての製品の回収を命令された。厚生省は浅井ゲルマニウム研究所を潰そうと意図したのである。

 回収でパニックに陥った利用者が、製品を継続して手に入れられるようにと、膨大な嘆願書を浅井ゲルマニウム研究所や厚生省に送ったが、薬事法を盾に認められなかった。

 一九九一年にGE-一三二の特許権は切れ、だれでも製造が可能になった。米国では、GE-一三二の効果に注目した大手の健康食品メーカーが相次いで製品化に参入した。製品の説明には浅井の著作を引用して有機ゲルマニウムの効用をうたっている。広く大衆に行き渡るようにしたいという浅井の夢が、皮肉なことに日本ではなく海外でかなえられたのである。

 そして浅井ゲルマニウム研究所は、医薬品として大衆に広めるという浅井の志とは異なるが、厚生省が健康補助食品として認めたことから、GE-一三二をサプリメントに衣替えして生き残っている。薬事法違反の責任を取って研究所を辞めた柿本は、支援者を得てGE-一三二の研究を続け、新たな研究成果を織り込んで有機ゲルマニウムの製造に取り組んでいる。

 生命の元素で難病に苦しむ多くの患者を救うために 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 参考文献

 ゲルマニウムと私(浅井一彦著 玄同社)

 ゲルマニウム讃歌(浅井一彦著 玄同社)

 ゲルマニウムとわが人生(浅井一彦著 玄同社)

 ゲルマニウム療法(甲斐良一著 日貿出版社)

 ゲルマニウムパラドックス(永田孝一著 緑書房

 ゲルマニウム・光(紀野一義編 漆山欣志監修 玄同社)

 驚異の有機ゲルマニウムの効用(山根勝亮著 バンガード社)

 有機ゲルマニウム化合物の研究(柿本紀博 バンガード社)

 月刊バンガード(一九九九年五月号、九月号)

 別冊バンガード(二〇〇二年四月発行)

永遠なる魂  第六章  あすに向かって 4

             4

 浅井は昭和五十七年初頭、GE-一三二の新薬承認を厚生省に申請した。あとは薬事審議会の審議を待つばかりである。

「やっとここまでこぎつけられたな」

 認可申請の書類が受理された当日の夜。浅井は自宅へ柿本を招き、エリカの料理でねぎらった。寒い日で、リビングには石油ストーブがたかれていたが、浅井は寒くてならなかった。

 七十四歳の浅井は、このところ疲れが抜けなくなっていた。GE-一三二を飲んでも、以前ほど効き目は顕著に感じられず、疲労気味だった。

 思い起こせば生死の境をさまよったドイツ時代から始まり、焦土の祖国に帰国してからは、貧乏と気苦労で休まる暇がなかった。六年前に喉頭癌が発見され、医者から治ったと太鼓判を押されていたが、手術のダメージはそれなりに残っているのかもしれない。

 GE-一三二が新薬として承認されれば大勢の人々を救えるが、認められなければ、一般大衆に行き渡らせられるよう、再び手段を講じなければならない。GE-一三二は無許可薬品として薬事法で厳しい規制を受け、あまりにも自由が利かなさ過ぎる。

 白血病の子供を抱えた母親、癌で苦しんでいる親を持つ子供たち、こうした人々からGE-一三二を分けてほしいと懇願され、あまりの不自由さに胸が張り裂けそうになる。どうやったら苦しむ人たちを救えるのか、GE-一三二を自由に投与する方法はないのかと嘆息するばかりである。

 浅井は今回の認可申請にすべてを懸けていた。無機ゲルマニウム半導体レーザー光線に使われるため、米国は軍需品として買い占め、価格は上がるばかりである。資金力のない一個人研究所が、医薬品の原料として安定的に購入するには、いささか厳しいものがある。新薬として承認されなければ、いずれ行き詰まるのは必至である。

 国防には莫大な軍事費が投入され、医薬品業界では十兆円もの資金が動いている。その一部がGE-一三二の研究のために投じられれば、国民の健康や福祉にどれだけ役立つかわからない。国家事業としてGE-一三二を取り上げ、人類の幸福のために研究を仕上げてもらいたいと願う。

 それはかならず実現すると浅井は信じて疑わない。

 浅井は居間に掲げてある自筆の書を見上げた。信念や自信、希望があれば若く、疑惑や恐怖、失望を抱けば老いると、自らを戒めた座右の言葉とともに愛誦している水五訓である。

             水五訓

 一、自ら活動し他を働かしむるものは水なり

 二、常に己の進路を求めやまざるものは水なり

 三、障碍に遇い激して力を百倍にし得るものは水なり

 四、自ら清くして他の汚を洗い

   清濁あわせ容るるの量あるものは水なり

 五、洋々として大洋を充たし

   発しては蒸気となり雨となり雲と変じて霧と化し

   凝っては玲瓏たる氷となり

   而してその性を失わざるものは水なり

 水五訓は中国の思想家、王陽明が言ったとも、戦国武将の黒田如水(官兵衛)の言葉ともいわれる、水の心を心として生きる教えである。

 水のように生きてきただろうか。自身の本質を変えず、精いっぱい物事にぶつかったきただろうか。浅井は人生を振り返り、いささかも恥じるところはなかった。

 これからもGE-一三二を認めさせるため、私心を捨ててあたらなければならない。それが難病に苦しむ人々を救う道である。

「お疲れの様子ですよ。認可申請したのですから、もう所長が先頭に立たれる必要はありません。しばらく休養なさってください」

 柿本が浅井の顔色に眉をひそめた。

「私のゲルマニウムが大衆の手に安く広く行き渡るのを見るまで、のうのうと休んでなどいられない」

「顔色が良くありません」

「書類作りで忙し過ぎたからな。だがあすからは解放されるから、元気が戻ってくるだろう」

「ここまでくれば、所員で進められます。審議には時間がかかりますから、気長に待ちましょう。所長もたまには気を抜いてください」

 柿本が落ち窪んだ目を浅井に向けた。書類作りで研究所の主だった所員は寝る間もない忙しさで、柿本の顔に疲れが出ていた。

 柿本が研究所に入ってきた時は、溌剌とした青年だったが、痩せた顔に皺が深く刻まれ、髪も白くなっている。大学を出てすぐ浅井と研究に専念したから、人生そのものがゲルマニウムとの付き合いだったことになる。わずかな報酬で良くここまでついてきてくれたと感謝に耐えない。

「君にも苦労をかけた。きっと私のゲルマニウムの研究を仕上げてもらいたい」

「気弱なことを言わないでください。所長がおられなかったら、ここまでくることはありませんでした。GE-一三二が脚光を浴びるまで、所長には元気でいてもらわなければなりません」

「そうだな」

 浅井は水割りを口に運んで微笑んだ。気持ちだけは元気だが、体はいうことを利かなくなっている。口にこそ出さないが、疲労困憊している、というのが浅井の本音だった。

 浅井の体調を心配した柿本は、エリカの心尽くしの料理を平らげ、早々に帰っていった。若い頃は腹がくちると徹夜で熱っぽく議論したものだが、もやはそれだけの元気はない。

 寝るには早かったが、浅井はGE-一三二を飲んでベッドにもぐり込んだ。疲労が体の奥底にへばりついているようだった。

「忙し過ぎたから、これからはゆっくり休むべきよ」

 浅井の早い就寝に、心配して様子を見にきたエリカが、額に手を置き優しく言った。

 浅井と愛し合ったばかりに、エリカは祖国を捨てた。戦時下の疎開、そしてドイツを命からがら脱出して来日し、やっと親子六人が一緒に暮らせるようになったが、それからの生活も楽ではなかった。

 食うや食わずの貧乏に耐え、エリカは一言も不満を漏らすことなく、研究しか頭にない浅井を陰ながら支えてくれた。糟糠の妻とはいうが、エリカにはどれだけ感謝しても足りない。

 子供たちも道に外れることなく、立派に育ってくれた。博和は父親が青春を燃やしたドイツに身を埋める覚悟のようで、医師としての使命を果たしている。長女の佐智子、二女の宏子、三女の照子も文句のない連れ合いを見つけ、それぞれ幸せに暮らしている。父親としてこれほど幸福なことはない。

 これでGE-一三二が新薬として認められれば、この世に生を受けた使命を果たせたと言えるのではないか。

 新薬として承認されてほしい。浅井の思いはそこに行き着き、いつしか眠りに引き込まれていた。

 翌日から浅井は熱を出して寝込んだ。原因は不明で、長年にわたって蓄積された疲労が、一気に噴き出したのかもしれなかった。

 熱は三日で収まったが、体のだるさは抜けず、浅井が研究所へ顔を出したのは一週間後だった。通常の勤務をこなすのに支障はなかったが、気力がいまひとつ湧いてこず、体力も衰えが目立ってきたようだった。

 それでも浅井は、ゲルマニウムの研究に気力を振り絞って情熱を燃やし、薬事審議会の審議が終わるのを待った。役所仕事の例に漏れず、審議会は長々と議論を続け、いつ結論が出るのか見当さえつかない状態だった。

 もっとも薬事審議会が新薬を承認するには、二年とか三年かけて審議すると聞いており、書類を提出したからといって、すぐに結論が出るものではなかった。

 だが、ひたすら待つというのは辛いもので、死刑執行を前にした死刑囚の気持ちに匹敵するのではないかとさえ思えた。

 浅井の好きな春が過ぎ、鬱陶しい梅雨が来て、もうすぐ軽井沢へ逃げ込む季節だと山荘行きを心待ちにしていた時、浅井は厚生省から呼び出しを受けた。

 薬事審議会の結論が出たに違いなく、浅井は勇躍して霞が関の厚生省に出掛け、担当者に会った。

「新薬の認可申請の件ですが、臨床例が不足していて認められないという結論が出ました。提出書類に不備も散見されます」

 度の強い眼鏡を掛けた中年の担当官は、大部屋の机の前で向かい合った浅井に、感情を交えない淡々とした表情で、冷酷に宣告した。

「有効性が認められなかったのですか」

「そうは申しておりません。書類の不備と臨床例不足で、実質的な審議に入ることができませんでした」

 浅井は耳を疑った。書類を提出して半年もたっている。それなのに書類の不備で審議さえ行われなかったというのはどういうことか。門前払い同然の役所の態度に怒りが沸き立つのを抑え、浅井は言葉を選んで尋ねた。

「書類を整えれば審議していただけるのですね」

「そういうことになりますが、慣れない方が書類を作成すると、どうしても不備が出てきます。手慣れた人の協力を求められたらいかがですか」

「製薬メーカーに頼めということでしょうか」

「それも一つの方法ではあります。それから臨床例のことですが、症例が絞られていないので、審議のしようがありません。癌の新薬として申請されるなら、ほかの疾患を臨床例として提出されるのは好ましくありません。少なくとも癌の臨床例を倍増し、それから再提出してください」

 担当官は事務的に説明するだけで、薬事審議会で審議された内容は一言も話してくれなかった。書類不備による門前払いだったのか、それともわずかでも臨床例の内容が検討されたのか、浅井の質問に担当官は答えられないと言っただけだった。

 厚生省から雨に濡れて湿気った街路に出た時、浅井は目眩がしてよろけた。

 門前払いだと。そんな馬鹿なことがあっていいのか 。

 怒りがふつふつとたぎってきたが、審議会の結論を変えさせる方法はない。担当官が指示したように、臨床例を増やして出直すしかない。

 だがそれまで、生命の炎を燃やし続けることができるだろうか。最近の気力体力の衰えは著しく、そろそろ迎えが近づいているのではないかとさえ思えてくる。七十五歳という年齢にしては他人が驚くほどの元気さだが、生命の火は尽きようとしているのではないか。

 今の今まで、浅井はおのれの死というものを、頭の片隅でさえ考えたことはなかったが、唐突に襲ってきた死の予感に不吉を覚えた。

 死ぬのが恐ろしいとは思わないし、全身全霊を投入して生きてきた人生を振り返って悔いはない。だが、GE-一三二を新薬として認めさせる使命がまだ残っている。それを果たさなければ死ぬわけにはいかない。

 新薬として承認されなかったショックが気弱にしているだけだ。今から書類を再提出するための仕事が待っている。GE-一三二が新薬承認されるのをこの目で見るまで、命の炎を燃やし続けなければならない。難病に苦しむ大衆を救うのが、おのれに課せられた使命なのだから 。

 浅井はそう自分に言い聞かせ、気力を振り絞って足を踏み出した。まだ目眩は収まっていなかったが、それに挑戦するように敢然と前を見据え、かならず承認させると声に出して呟いた。

 研究所へ帰った浅井は、所長室の椅子に寄り掛かるように体を沈めた。徒労感と疲労で体を動かすのも億劫だった。

「結果はいかがでしたか」

 浅井が戻ったのを聞きつけた柿本が部屋に飛び込んできた。GE-一三二が認可されることに疑いを持っていないようで、目と顔を輝かせている。そんな柿本に事実を知らせるのは忍びがたかったが、浅井は厚生省の役人に伝えられたことを説明した。

 柿本の顔が、形容しがたい表情に歪んだ。唇をきつく結んで一言も話さず、目を涙の幕が覆った。

「出直そう。書類さえ整えれば、私のゲルマニウムはかならず認可される」

「努力が足りませんでした。申し訳ありません」

「そうじゃない。薬事法という法律が、大企業のためにあるようなものだからだ。委員が患者のことを真剣に考えているなら、臨床例が少なくても、きちんと審議したはずだ。君たちのせいでは決してない」

「さっそく書類を整理して作り直します。ゲルマニウム研究会に要請し、まだ発表されていない臨床例を報告してもらいます」

「そうしてくれ。私のゲルマニウムはかならず認可される。人類のためにも、そうならなければならないのだ」

 柿本の前では気丈に振る舞ったが、一人になると体の力が急に抜けた。指揮官がこれではいけないと思うのだが、一度なえた気力は奮い立たず、動く気力さえ湧かない。

 所員は前にもまして書類作成に熱心に取り組むだろうが、どんなに臨床例を増やそうと、結果は同じではないかと浅井は思えてきた。現行の薬事法がある限り、一個人の力で新薬を承認させるのは不可能なのではないか。大山が断言したように、GE-一三二が新薬として認められる日はこないのではないか。

 弱気になってはいけないと自らを叱咤するが、日がたつにつれ、浅井の予感は確信に変わっていった。

 それを裏付けるように、ゲルマニウム研究会の代表幹事である武藤が、怒りをあらわに研究所を訪ねてきた。普段は温厚で冷静さを失わない武藤だが、所長室で浅井の顔を見るなり激しい言葉を吐き出した。

「新薬承認されなかったのは、製薬メーカーの陰謀です。薬事審議会のメーカー側委員が、GE-一三二を認可しないよう働きかけたのです」

「公正な審議会で、そんなことが許されるのですか」

「事実です。実は、審議会の心ある委員から内情を教えてもらいました。GE-一三二を審議会で取り上げるのに反対したのは、委員の池田です」

「どうしてそんなことを?」

「GE-一三二が認可されたら、自分たちが申請した抗ガン剤が使われなくなるからでしょう」

 池田や伊藤は三度目に出した特許を、裁判中にもかかわらず大手製薬メーカーに売り、新薬として承認させようと動いていた。

 武藤の指摘に、浅井はなるほどと思った。GE-一三二が認められれば、池田たちが申請した新薬が特許からみで問題になる。それを察して、大山はGE-一三二を手中に取り込もうと訪ねてきたのに違いない。池田たちの新薬とGE-一三二を手中に収めれば、自社製品として病院へ高額で卸すことができる。薬の値段などあってなきに等しいから、原価の何百倍もの値段で販売する計画だったのに違いない。

 だが浅井は大山の申し入れを、独力で申請するからと素っ気なく断った。浅井ゲルマニウム研究所を傘下に治められないと悟った大山たちは、多くの患者がGE-一三二を求めているのを知りながら、自社の利益を守るために、新薬として承認させないよう画策したのに違いない。患者の求めを無視し、GE-一三二を闇に葬り去ろうとした彼らは、人間の屑以下だ。

「負けはしません。所員が書類を作り直しています」

「こうなったからには、どの委員も文句のつけようがない臨床結果を突きつけるしかありません。ゲルマニウム研究会の参加者を督促して、臨床例をもっと集めさせましょう」

 薬事審議会で、懸念した通りのことが起こっていたと、浅井は悟った。彼らの行為は許されるものではなく、できればマスコミに伝え、大々的に取り扱ってもらいたかった。

 だが、薬事審議会で議論された内容は非公開で、たとえマスコミに訴えても、事実は漏れてこないだろう。池田や大山の暗躍が、白日の下に晒されることはない。

 浅井は激しい徒労感に襲われた。薬事審議会の委員は、患者を救うために新薬を承認するのが使命のはずなのに、彼らはそこから外れ、資本主義の権化としてメーカーの利益しか念頭にない。だから患者の苦痛を考えず、癌細胞だけを狙い撃ちするような薬剤を、平気で承認する。彼らが人の心を失った人間の集まりなのは、今に始まったことではない。

 真相を知らされた浅井は、張り詰めていた気力が、穴のあいた風船のようにしぼんでいくのを感じた。

 GE-一三二をどれだけ飲んでも、浅井の気力は戻らず、食欲は失せていった。

 軽井沢の山荘にこもり、思索に耽ろうとしたが、以前のように意識が集中できない。散策に出るのさえ億劫である。

 鬱々していたある日、浅井は大量に吐血した。すぐに病院へ運ばれたが、着いたとき車の助手席は血の海だった。

 入院した浅井は、絶対安静を言い渡され、どれだけ頼んでもGE-一三二を飲ませてくれなかった。GE-一三二を治療に使っている開業医が、胃潰瘍に投与すると好転反応で吐血することがあると説明しても、病院では理解しようとしなかった。

 所員が入れかわり立ちかわり見舞いにきたが、言葉を口にするのも億劫で、簡単な受け答えしかする気にならない。

「なんだ。おれは死ぬのか」

 カナダにいた娘が見舞いに来たのを見て、浅井は寿命が尽きようとしているのを悟った。

 七年前に喉頭癌が見つかり、GE-一三二のおかげでここまで生きてこられた。現代医学では、癌に罹かり五年以上生存したら完全治癒と認められるが、浅井はその期間をはるかに上回って元気だった。GE-一三二の効果を身を持って証明したのである。

 だが、長年の心労や過労は、確実に浅井の肉体を蝕んでいて、さしものGE-一三二も力尽きたのかもしれなかった。

 ましてや、入院先の病院がGE-一三二の投与を認めないとあっては、浅井は天命を待つしかない。

 伊藤たちとの裁判の行方が気掛かりだったが、動けぬ身としては成す術がない。あとは柿本たち所員に任せ、勝訴を願うばかりだった。

「きっと私のゲルマニウムを新薬として承認させてほしい」

 臨終間際、駆けつけてきた柿本に、浅井は最後の気力を振り絞って遺言した。柿本は頬に涙を滴らせ、唇をきつく結んで何度もうなずいた。

 浅井はベッドの脇で見つめているエリカに目を向けた。苦労をともにした妻を、一人残して旅立つのは心残りだが、あの世があるとすれば、いつか再会できるだろう。

 二人の魂は時空を超越して結ばれている。

 浅井はエリカのほっそりした顔を見つめた。その顔が霞んでいき、何も見えなくなった時、浅井の前に卒前として真っ白に輝く光が現れた。

 光の中で先に旅立った大勢の人が、笑みを浮かべて浅井を招いているのが見えた。

 その光に照らされた瞬間、浅井からすべての苦痛が消え去った。体が急に軽くなり、心身ともに爽快になったと思ったら、いつのまにか白光に呑み込まれていた。白い光に優しく包まれた浅井は穏やかに微笑んだが、それもやがて光に溶け込み、眩く輝く光だけの世界に入っていった。

永遠なる魂  第六章  あすに向かって 3

              3

 研究所を挙げて申請書類の作成に没頭している最中、大手医薬品メーカーの大山という役員が浅井を訪ねてきた。細面の大山は背が高く均整のとれた体格で、一目で高級とわかる紺のスーツ姿は切れ者という印象だった。

有機ゲルマニウムの研究がお進みになっているようで何よりです。私どもはご存じとは思いますが、医科向け医薬品ではトップメーカーで、新薬の認可申請に精通しております。私どもに有機ゲルマニウムを新薬として認めさせるお手伝いをさせていただけませんでしょうか」

 研究所の所長室で浅井と向かい合った大山は、挨拶の後、いきなり切り出した。

「手伝うとおっしゃると?」

 大山の狙いが何なのか見当がつかず、浅井は正面から整った顔を見つめた。

「これだけの効果がある薬を、治験薬の段階にとどめておいてはなりません。医薬品として厚生省に認めさせ、健康保険で大勢の人たちが使えるようにする必要があります」

「もちろんそのつもりで準備を進めております」

「臨床例は集まっておられますか」

ゲルマニウム研究会の参加者から、数多くの報告が届いています」

「毒性試験や副作用など、安全性確保の問題はクリアされていますね」

北里大学で完了しています」

ゲルマニウム研究会から治験薬としての臨床例が報告されていると察しますが、二重盲目試験は進められているのでしょうか」

 二重盲目試験は患者を二群に分け、新薬を投与するグループと、形状は同じだが新薬と偽って小麦粉のように効果のない物質を与え、治療の差を確認するものである。薬として渡されると、プラシーボ効果といって暗示で効き目が出ることがあり、患者を二群に分けることで新薬が実際に有効かどうか確かめるために行われる。

「まだゲルマニウム研究会から報告はありません」

「となると、新薬の認可申請は先になりますね」

「目下、粛々と進めているところです」

「しかし、二重盲目試験がまだでは時間がかかりますね」

 大山は黒縁の眼鏡の奥の目を鋭く光らせて浅井を凝視した。浅井は大山が何を言いたいのかわからず、黙って目を見返した。

「私どもから、一つの提案をさせていただきたいのです」

 大山は浅井の困惑を敏感に察したようで、目の光を和らげ唇に微かに笑みを浮かべた。

「どういうことでしょうか」

「大変失礼な言い方ですが、こちらのような研究所では、独力で新薬を承認させるのは容易ではありません。不可能というわけではありませんが、薬事審議会の承認を得るには、膨大な資料を規格通りにそろえなければなりません。それには大変な労力が必要で時間もかかります。せっかくいい薬を開発しても、患者さんが使えるようになるのはいつになるかわからないのでは、価値がないと言えるのではないでしょうか」

「大変なことは理解しておりますが、これまでも独力でやってきました」

「患者さんに早く使用してもらいたいと願っていらっしゃいますね」

「もちろんです」

「それで提案というのは、私どもに臨床試験をお任せ願えないかということです。新薬承認された場合は、私どもが独占販売権を持つということで。もちろん、パテント料は満足されるものをお支払いできると思います」

「要するに、GE-一三二の特許権を売れということですか」

「端的に申しますと、そういうことになります」

「せっかくのお申し出ですが、お断りさせていただきます」

「パテント料でご不満なら、これまでの研究開発費を当方が負担し、さらに特許が切れるまで、それなりの研究費を補助するということではいかがですか」

「以前にも同じような申し入れがありましたが、断らせていただきました。医薬品メーカーに権利を売るのも一つの考え方かもしれませんが、ゲルマニウム研究会で臨床試験が進んでおりますので、自分たちの力で新薬承認を得たいと思っております」

「先程は不可能ではないと申しましたが、歯に衣着せず言わせていただけば、薬事審議会に新薬を認めさせるのは、針を通す隙間もない狭き門です。有機ゲルマニウムを大衆が使えるように薬価収載するには、私どものようなメーカーと手を結ぶのが早道ではないでしょうか。それが患者さんたちの利益につながります」

認可申請の準備は進んでいます。私どもだけで承認を得る考えです」

「これだけお願いしても、ご了解いただけませんか」

「ありがたいお申し出ですが、最後までやり通すつもりです」

「残念ですね。患者さんのために、認可が得られることを祈らせていただきますが、特許権がある間に承認される望みはないでしょう。特許が無効になってから認可されたのでは、開発者の利得は失われてしまいますよ」

「私は儲けるためにゲルマニウムの研究を行ってきたのではなく、難病に苦しむ患者さんたちを救いたいという一心で、骨身を惜しまずここまできました。その決意に変わりはありません」

「そこまでおっしゃるなら、もうなにも言いません。ですが、後から後悔されても遅いとだけはご忠告させていただきます」

 大山は頬に薄笑いを浮かべ、冷やかな目で浅井を眺めた。素人に何が出来るとあざ笑っているようで、浅井は不快になったが、表情を変えることなく大山を送りだした。

 認可申請の書類作成は、大山に指摘されるまでもなく、少人数の研究所には荷が勝ちていたが、準備は遅々としながらも着実に進んだ。

 薬品メーカーに任せれば、準備がはかどっただろう。彼らが安い値段で大勢の人たちに供給する考えなら、浅井としても権利を譲っても構わない。だが特許権を売れば、彼らは先行投資を回収しようと、目の飛び出るような高額で独占販売するに違いない。

 それではだれもが簡単に使え、難病から解放される劇的な薬を患者に供給するという、浅井の信念と相いれない。

 それに浅井が考えているのは、発症した難病患者の治療だけではない。GE-一三二を常用すれば、酸素不足からくるさまざまな疾病が予防できるのは、これまでの経験から疑いない。病気に罹かってから治療するのではなく、予防医学の根底にGE-一三二を位置づけるべきだ。予防して難病を発症しなければこれに勝るものはなく、結果的に、年々増大していく治療費を抑制できる。健康保健を支払っている、すべての人々の利益につながるのである。

 浅井が書類の作成に没頭している間に、東北大学医学部細菌学教室は、「驚異の生体防衛 インターフェロンとガン 」と題し

た十六ミリカラー、四十二分の科学映画を作成した。試写会に招かれ映画を見た浅井は、よくぞここまでGE-一三二を研究してくれたと、鼻の奥が熱くなった。

 映画はインターフェロンが“夢の新薬”として脚光を浴びた場面から始まり、ウイルスの生態について説明し、インターフェロンが増殖を抑える効果を、わかりやすく鮮明な映像で追っていた。

 その後、マウスを二群に分け、一群にはGE-一三二を投与し、インフルエンザウイルスを感染させ、症状がどうなるか観察している。非投与群は短期間ですべて死亡したが、投与群の多くは生き残っていた。

 そして映画は、癌に対しても同様な実験を行っていた。マウスに腹水癌の細胞を接種して二群を観察し、非投与群は間もなくすべてが死んだのに、投与群は十匹中四匹が死んだだけで、残りの六匹は生存していた。GE-一三二が癌細胞にも顕著な効果を示すことが、明確に示されたのである。

 では、なぜ癌が抑えられるのか。映画はGE-一三二によってインターフェロンが誘発され、それがNK細胞やマクロファージを活性化させ、癌細胞を攻撃していく様をはっきり映し出していた。

 癌の中で最も悪性とされる、メラノーマ・癌細胞にGE-一三二を作用させ、インターフェロンを誘発し、免疫細胞がどのように闘うかを顕微鏡がしっかりとらえていた。

 オタマジャクシのように尻尾のあるNK細胞は、足を広げて癌細胞に吸着し、体を揺さぶるように攻撃をかけていく。そして、癌細胞は飛び散るように破裂した。殺し屋キラーの呼び名がふさわしい果敢な動きである。

 マクロファージも負けてはいない。活性化された貪食細胞は癌細胞を取り囲み、ラッフルという薄い幕を広げ攻撃目標と接触する。この接触でマクロファージは水解酵素を癌細胞に注入する。その酵素が癌細胞の細胞質を崩壊しているのか、攻撃目標は明らかな異常を見せはじめた。そしてメラノーマ・癌細胞は細胞質が崩れ落ちるように死んでいく。それをマクロファージが貪食し、次の獲物を求めて動きだす。

 映画は、癌細胞にNK細胞とマクロファージが共同で攻撃するところも映し出しているが、それぞれ単体で立ち向かうより、はるかに攻撃力は凄まじく、癌細胞が死滅していくのである。

 NK細胞とマクロファージが癌細胞を攻撃する場面が映像としてとらえられたのは世界初で、インターフェロン誘発剤のGE-一三二が癌治療に有効だということを、映像は明確に証明していた。

 映画は感動的なナレーションで終わっていた。

 これまでのガン治療の隘路は副作用にあった。

 しかし、これら免疫賦活剤(アサイゲルマニウム)は、生物が本来備えている生体防御機能や、インターフェロン・システムを、最大限に活用し、生体それ自身の力によって、ガンを制圧しようとするもので、画期的な意義をもつものといえよう。

 生体の持つ、驚くべき自己防衛の機構は、まことに生命の神秘を奥深いものにし、果てしないかに思える。しかし、現代の科学の進歩は、確実にその道程を前進している。

 

 人類のあすを目指して

 あすへの光を目指して

 

 GE-一三二が癌に顕著に効く理論的裏付けは、東北大学医学部が作成した映画で明確に示された。あとは臨床例を集めて新薬としての認可申請を行うだけである。

 そして臨床例は、ゲルマニウム研究会の参加医師から続々と寄せられ、短い期間に三百例を超え、それを分析して整理し、認可申請の規定に従って作った書類はレポート用紙五百枚にも上った。癌を中心にしたさまざまな難病治療で、GE-一三二が著しい効果を上げたという内容で、これだけの症例があれば新薬承認は間違いないと思われたが、惜しむらくは治療対象が一つの病症に絞られていないことだった。

 それでも癌患者の五割は進行が抑えられ、七割の患者の体調が改善され、亡くなった例でも二割近くが末期の苦しみから解放されていた。投与例の実に九割に何らかの効果があったわけで、これだけの実績があれば、どう間違っても、審議会で否決される恐れはなかった。

 

 

永遠なる魂  第六章  あすに向かって 2

              2

 悪いことばかりではなかった。新築の研究所は快適で、浅井を筆頭に柿本ら所員はGE-一三二を薬事法で認めさせるべく、ゲルマニウム研究会と並行して研究を進めていた。そして昭和五十六年に驚くべき事実がもたらされたのである。

「素晴らしい結果が出ました。新しい発見です」

 四月に入ったばかりの時だった。ゲルマニウム研究会に参加している東北大学医学部の石田教授から、研究所の浅井に電話がかかってきた。石田は研究会の積極的なメンバーで基礎研究を受け持ち、浅井や柿本と親しい間柄である。

「どんな発見ですか」

 興奮気味の石田の声に、浅井は胸を高鳴らせた。

「GE-一三二は体内でインターフェロンを誘発するんです。これで癌が治る理論付けができます」

「万病に効く正体は、インターフェロンでしたか」

「春のゲルマニウム研究会で発表することになります。ただ、読売新聞が取材に来ましたので、近く載ることになると思います。それでご連絡をと思いまして」

「よくやってくださいました。これで新薬承認に一歩近づけます。私もゲルマニウム研究会の発表に出席させていただきます」

「新聞報道をお楽しみに。先生のご苦労がやっと実ります」

 電話を置いた時、熱くなった浅井の頭の中で、インターフェロンという言葉が渦巻いていた。

 そうだったのか。GE-一三二がインターフェロン誘発剤だとすれば、人間の自然治癒力を高め、免疫不全からくるあらゆる病気になぜ有効なのかが理解できる。インターフェロンはウイルス性疾患の夢の新薬と世間を賑わしているが、GE-一三二はまさしく夢の誘発剤だったわけである。

 インターフェロンが世間に知られたのは一九七七年で、スウェーデンのストランダー博士が研究成果を発表した。博士は一九七二年から、ヒトの骨肉腫の臨床例で、インターフェロン三百万単位を一カ月間、毎日注射し、さらに十七カ月間、週に三回の注射を続け、三十五人のうち半数の患者で癌の転移を防ぐことに成功した。この発表でインターフェロンは夢の新薬として脚光を浴びることになった。

 インターフェロンが発見されのは一九五七年で、ウイルスの干渉現象を研究していた英国のアイザックスとリンデンマンという二人の学者によってだった。ウイルスは地球上に存在する生物の中で最も小さく、組織は単純で、生きていくのに細胞に寄生してエネルギーを吸収し、増殖していく。ところが、一つの細胞に種類の異なるウイルスが感染すると、どちらか一方、あるいは両方とも増殖できないという現象が起こる。これがウイルスの干渉現象で、従来の免疫学では説明できなかった。

 それが解明されたのは、英国の二人の学者がニワトリの発育鶏卵を使って干渉現象を研究していた時で、ウイルス抑制因子の存在を発見し、インターフェロンと名付けた。インターフェロンはウイルスそのものを殺すのではなく、増殖を抑え、結果的にウイルスの活動を制止させるのである。

 細菌は抗生物質で殺すことができる。だが、ウイルスは細胞に寄生しているから、医薬品で殺そうとすれば、寄生された細胞そのものまで殺してしまう難しさがある。

 ウイルスに取りつかれた細胞は、自分を犠牲にしてエネルギーをウイルスに供給するから、ウイルスが増えると細胞は衰弱し、やがては死にいたる。そして宿主に見切りをつけたウイルスはほかの元気な細胞を見つけて感染する。

 ウイルス病にはウイルス性肝炎、ウイルス性皮膚疾患(ヘルペスやデング病など)、ラッサ熱のようなウイルス性出血熱群、狂犬病、インフルエンザなど八百種類あるといわれ、治療手段はまったくない。正常細胞には障害を起こさず、ウイルスだけを攻撃する薬品の開発ができなかったからである。

 だが、インターフェロンは正常細胞を傷つけることなく、ウイルスに細胞が無制限にエネルギーを補給することをやめさせ、その結果として増殖を抑える。

 インターフェロンのもう一つの働きは、免疫能力を高めることである。免疫細胞にはT細胞やB細胞、マクロファージがあり、インターフェロンは体内の異物を食べる貪食細胞といわれるマクロファージを活性化させ、免疫力を活発にする。マクロファージはウイルスや癌細胞などを食べ、殲滅してしまうのである。

 さらにインターフェロンは、リンパ球系細胞のナチュラル・キラー(NK)細胞を賦活する。NK細胞は癌細胞を直接攻撃する力があり、キラー(殺し屋)という呼び名がふさわしい存在である。

 つまりあらゆるウイルス性疾患や癌に有効ということだが、問題は体内でインターフェロンが蓄えられず、常時存在していないことである。

 それならインターフェロンを量産し、癌やウイルス性疾患に罹患した患者に投与すればいいことになるが、ここで問題が起こる。ワクチンのようにほかの動物で作ったインターフェロンは、人間にはまったく効かないのである。人間の体がつくり出したインターフェロンだけが人体に有効では、量産体制を確立するのが難しい。

 もし人間用のインターフェロンを量産できたとしても、それはほかの動物には効かないのだから、動物実験で効果を確かめることもできない。つまり薬事法の認可を得られないということになる。

 このため医学界では、インターフェロンを人体で生産させる何らかの方法がないかと研究を進め、ウイルスの干渉現象があることから、さまざまな毒性のある物質を注入して細胞を脅かせば、インターフェロンを分泌するのではないかと考えた。結果は、確かに細胞が反応しインターフェロンを分泌するのだが、刺激に使う薬剤に毒性があって、治療に使用できなかった。

 夢の新薬と言われながらインターフェロンを使えないということだが、そんな時に東北大学臨床試験の結果が出たのである。GE-一三二が副作用のないインターフェロン誘発剤と判明したことは、まさしく難病患者に福音をもたらせるものだった。

 癌やウイルス性疾患に罹患した患者にGE-一三二を投与すれば、体内でインターフェロンを生産、癌細胞を攻撃し、ウイルスの増殖を抑える。NK細胞やマクロファージを活性化し、体の免疫力を高め、難病を癒すことにつながるのである。

 石田から電話があって一週間ほど後、研究所へ出勤した浅井の部屋に、柿本が興奮して飛び込んできた。

「読売新聞を読まれましたね」

 顔を紅潮させた柿本が手にした新聞を広げ、社会面を指さした。そこにはトップでGE-一三二のことが載っていた。

 昭和五十六年四月十付読売新聞。

インターフェロン、誘発剤で“体内生産”

=価格は合成の十分の一=

副作用少なく、実用化メド 東北大チームが成功

[仙台]ガンやウイルス感染症に効く“夢の特効薬”インターフェロンは、現在、人体の外で合成したものを注射などで投与する方法が一般化しているが、東北大学医学部細菌学教室(石田名香雄教授)の海老名卓三郎助教授らのグループは、インターフェロンの誘発剤を投与することにより、体内でインターフェロンを自発的に“生産”させることに成功し、近く国内外の学会で発表する。この種の研究はこれまで、副作用の問題などで足踏み状態にあったが、同チームの発見した誘発剤は、臨床でも優秀な成果をおさめており、実用化への道を開いたものとして大きな期待を集めている。

 インターフェロンは「ナチュラル・キラー(NK)細胞」など人体の防御機能の活性を高め、ガン細胞、ウイルスなどの“侵入物”を駆除する働きがあるが、体外でつくったインターフェロンを注射しても、体内の酵素の働きなどで大半が分解されてしまい、また、インターフェロン自体高価で多量に投与できないという欠点を持っている。

 このため、同研究室では「人体に自分でインターフェロンを生産させる」誘発剤の研究に十年前から取り組んでいた。

 同チームが発見したのは・ピシバニール(ヨウレン菌をペニシリンで殺した菌体)・有機ゲルマニウム(カルボキシ・エチルゲルマニウム)・グリチルリチン(漢方薬甘草の主成分) にあるインターフェロン誘発剤としての特性。いずれも身の回りにある物質で、合成のインターフェロンに比べて価格も五分の一から十分の一以下と安い。

 これらを注射、もしくは経口投与で人体に与えると、「ピシバニール」「有機ゲルマニウム」の場合は、血液中に一cc当たり約五十単位、「グリチルリチン」の場合は同約百単位のインターフェロンが“生産”されていることが確認された。

 インターフェロンを人体につくらせることに成功したことは、誘発剤を使った治療法が実用化への第一歩を踏み出したことを意味している。さらに発熱、吐き気などの副作用がほとんどなく、また、ガン患者、健康な人間を問わずインターフェロンが生産されることもわかった。

 今後、投与量や投与方法などに課題が残るものの、従来の「体外」インターフェロン生産の方法と並行し「体内」でインターフェロンを生産する誘発剤の開発は新領域として大きな注目を集めそうだ。

「学会発表が楽しみだ」

 浅井の言葉に柿本がうなずいた。艱難辛苦をともにしてきただけに、喜びは言葉には言い表せず、熱い眼差しでお互いを見つめ合うだけだった。

 インターフェロン誘発剤としての研究が進めば、GE-一三二はきっと新薬として承認される。そうなれば、安い価格で大勢の難病に苦しむ患者たちが使用できる。その日が来るまで、浅井は頑張らなければならないと自分に言い聞かせた。

 それにしても、GE-一三二がインターフェロンを誘発するというのは驚きだった。これまで劇的な効果を表す原因を、体内酸素が豊富になるためと説明し、それにこだわってきた。だが効果の素晴らしさに、それだけでは物足りなさを覚えていたのは確かだ。

 ところが、東北大学の研究で、GE-一三二がインターフェロンという強力な武器を体内でつくり出すのがわかり、浅井は言うに言われぬ自信が身中から溢れてきた。インターフェロン自然治癒力の素で、それを生産するGE-一三二は、まさしく生命の元素であると確信したのだった。

 癌は手術で切除し、抗ガン剤で殺し、放射線で焼くという西洋医学の対症療法から、GE-一三二は完全に脱却できることを物語っていた。体内でインターフェロンを生産するなら副作用はなく、全身の免疫力を賦活させ、癌以外の難病にも効果が出る。GE-一三二の投与は全身療法で、難病治療の将来を明確に示したというべきではないか。

 欧米では代替治療とか相補治療、あるいはホリスティック(全身)医療という、近代医学に代わろうとする治療法が盛んになっているが、GE-一三二はその先端にあると断言できる。

 東北大学医学部の手で、GE-一三二のインターフェロン誘発剤としての効果が確かめられたのだから、今後は臨床例を集めてデータをそろえ、薬事法による新薬承認を厚生省に申請することが可能になる。それが浅井たちの夢である。

 浅井は新聞報道を眺めながら、あることを思い出した。それは昭和四十六年三月に成立したGE-一三二の特許申請の際、書類に添付した写真のことである。さっそく浅井は特許申請の書類を取り出した。

 写真はエールリッヒ腹水癌細胞にGE-一三二を作用させたところを写した、位相差顕微鏡写真である。写真には、癌細胞が爆発したように粉々になっているところが写っている。そして、癌細胞の周りから不思議な発光現象が起こっている。

「この写真と新聞記事を照らし合わせてどう思う」

 浅井は柿本に写真を見せた。柿本は眉間に皺を刻み写真を凝視していたが、やがて顔を上げ目を輝かせ、震える声で言った。

「癌細胞に取りついているのは、もしかするとNK細胞かマクロファージかもしれません」

「発光現象はどう説明する?」

「イオン活動ではないでしょうか」

「私もそう思う」

 癌細胞は通常細胞より高い電位を持っているが、それはイオン活動がほかより活発であることを意味し、結果として発光現象が起きる。その高い電位を狙い撃ちすれば癌細胞を殺すことが可能になる。

 ところがゲルマニウム半導体で電子を取り込む性質から、イオン活動が盛んな場所に接すると、盛んに電子を吸収する。つまり癌細胞の高い電位に引き寄せられ、細胞から電子を奪って電位を下げるのである。

 体内に入ったGE-一三二は、癌細胞のような電位の高い箇所、すなわち病変を求めて集まる。そして電子を奪い、さらにインターフェロンを生産し、NK細胞やマクロファージを活性化させ、癌細胞を破壊する。いわば癌細胞に向けて誘導ミサイルを発射し、狙い通りに到達させてインターフェロンという武器をつくり出し総攻撃するのである。

 GE-一三二を特許申請した当時は、NK細胞もマクロファージも知られていなかった。だが分子生物学が発展し、ここにきてGE-一三二がそれらを活性化する存在であることが判明したのは大きな成果だった。

 新聞報道や海老名助教授の電話からだけでは臨床試験の詳しい内容がわからない。浅井はじれったい思いでゲルマニウム研究会の発表の日を待った。

 やっとその日がやってきて、都内のホテルで開かれたゲルマニウム研究会に浅井は出掛けた。発表は海老名助教授が行い、どこからも文句のつけようのない内容だった。

 ゲルマニウム研究会ではすでにマウスやラットでGE-一三二の抗腫瘍活性を確認している。GE-一三二投与後二十四時間でインターフェロンの誘発がピークになり、NK細胞やマクロファージが活性化され癌細胞を破壊していく。

 GE-一三二が人間の癌にも有効なら、体内でインターフェロンを誘発しなければならない、という仮定からなされたのが、健康人を対象にしたインターフェロン誘発能力の実験だった。

 東北大学の実験は、二十歳台から六十歳台までの健康な男女三十五人が対象で、GE-一三二の安全性、副作用、インターフェロン誘発能力について検討した。

 その結果は、副作用では軽い軟便になった対象者が二人いたが、下痢症状とは認められなかった。さらに自覚、他覚症状でゲルマニウムの影響を思わせるようなものはなく、生化学検査値(肝機能検査値など)や血液検査にも異常は認められなかった。

 実験で確認されたのは、注射、経口投与ともゲルマニウムの吸収は非常に速やかで、経口投与の場合、九時間で吸収したゲルマニウムが排泄された。つまり、ゲルマニウムは体内残留がなく、長期連用しても副作用の心配がないということを示している。

 問題のインターフェロン誘発能力だが、投与量に変化をもたせて行われ、量が多ければ多いほどインターフェロンの分泌が盛んになった。投与後三十時間でインターフェロンの分泌はピークになり、産生量は年齢や性別には関係がなかった。ただ、個人差が大きく、中にはまったく反応しない人もいたという。

 もっとも、薬の反応には個人差があり、効く人がいれば効かない人もいるのは常識で、一部の人にゲルマニウムインターフェロンを誘発できなかったといっても、その効力が否定されるものではない。

 東北大学医学部の報告は、ゲルマニウムが人間でも実験動物同様に優れた抗腫瘍性を発揮する可能性があり、基礎研究に加え、多くの臨床試験を早急に積み重ねる必要がある。さらにゲルマニウムインターフェロン誘発剤であることから考えると、種々のウイルス病や細菌感染症にも効果を表すことを示唆しており、この方面での研究の進展が望まれる、と結論していた。

 GE-一三二の効果が、医学会で初めて公式に認められた日だった。

 東北大学の発表はガン学会などに凄まじい反響を呼び起こした。GE-一三二が毒性も副作用もなく、インターフェロンを体内で分泌させるとなると、癌は不治の病ではなくなる。大学病院や研究施設、医療機関はこぞってGE-一三二を治験薬として治療に用いはじめた。

 浅井が最初の著書を出版した直後から、医者に見放された末期患者たちが、ゲルマニウム・クリニックに押し寄せるようになっていて、GE-一三二の劇的な治癒効果が口コミで多くの人々に広まっていた。著書は二冊目も好評で、浅井は三冊目の執筆に取りかかっていた。それには東北大学の研究結果を載せるから、読者はますますGE-一三二の効果を認識するはずだった。

 それは願ってもないことで、癌患者の熱い視線がゲルマニウムに向けられるのは当然だったが、困ったことが起こっていた。

 GE-一三二の効用に注目した健康食品業者らが、ゲルマニウム含有製品と銘打ってさまざまな製品を売りはじめたのである。

 患者にしてみれば、GE-一三二とほかのものとの区別はつかず、ゲルマニウムと銘打ってあれば飛びつく風潮が現れたのである。藁にもすがる思いの癌患者にしてみれば仕方ないことだが、それに乗じてニセ薬が横行するのは、GE-一三二の真摯な研究にマイナスと言わざるを得ない。

 だが、浅井にはそうしたニセ薬を取り締まる力はなく、せいぜい著書で「最近、有機ゲルマニウムと称するニセ物が多く出回っています。GE-一三二とは一切関係がありませんので、ご不審の折りはかならずゲルマニウム・クリニックにご照会ください」という注意を喚起するしかなかった。

 ニセ薬の販売業者は、東北大学医学部の研究発表を患者に見せ、ゲルマニウム含有食品を飲めば体内でインターフェロンを分泌し、難病が治るとあおり、患者は二酸化ゲルマニウム有機ゲルマニウムと名付けた多くのニセ薬を争うように求めだしたのである。

 いずれの製品も毒性試験や副作用の試験が行われておらず、まかり間違えば生命を脅かすものになりかねない。それが心配だった。難病が治るという宣伝文句につられ、飲んだら毒性や副作用で逆に命を縮めかねない。

 浅井は、ゲルマニウムが簡単に有機化されないことを、長い研究から知っている。有機化できたとしても、水に溶けなければ薬理効果は表れず、かえって副作用が心配される。浅井と柿本はさまざまなゲルマニウム有機化に取り組んできた。

 柿本は六百種類以上のゲルマニウム化合物を合成したが、水に溶け無害で薬効があるのはGE-一三二だけである。金属は化合物によっては人を即死させる毒物にもなり得る。

 浅井はゲルマニウム研究では世界で最高水準にあると自負している。そんな浅井や柿本でさえGE-一三二を上回るような有機物を合成できていない。

 いわんや、製薬会社や健康食品メーカーが簡単に合成できるものではない。

 それに二酸化ゲルマニウムの存在も憂慮すべきことだった。文献では赤血球を増やす効果があるとされているが、毒性が強く、不純物の混入が避けられず、飲めば副作用の心配がある。

 もしニセ薬で服用者が重大な副作用に遭えば、GE-一三二も同じ目で見られかねない。

 かといって、厚生省や警察に、薬事法違反ではないかと投書するなど卑怯な真似はしたくない。それでは製薬会社や一部の医師の卑劣さと変わりない。

 浅井ができることは、大衆に注意を呼び起こし、あとはゲルマニウム研究会での臨床試験が進むことを待つのみだった。

 東北大学の研究と並行し、全国の大学病院や医療機関でGE-一三二は治験薬として使われていた。そして、癌やほかの難治性疾患の症例が続々と発表され始めた。

 東北大学抗酸菌病研究所は、三年間で癌患者五十人以上にGE-一三二を投与し、そのうち四十七例(男性三十一例、女性十六例)について報告している。症例には肺癌、手術不能の胃癌、喉頭癌、再発した乳癌などが含まれ、GE-一三二の投与を開始して一年以上生存したものは九例(男性一例、女性八例)で、女性患者は半数に上った。

 兵庫医科大学第四内科では、五十四年七月からGE-一三二を臨床に使用し、癌だけでなく肝疾患やクローン病ベーチェット病などにも投与した。さらに、ゲルマニウムを投与することで、血液中のインターフェロン値と症状とに、どのような関連性があるかの研究を進めた。

 大阪大学衛生研究所は、十四例中十一例の血液中のインターフェロン力価を測定し、四例について増加を認めている。

 東海大学医学部では一年半ほどの投与で、肺癌や多発性骨髄腫、子宮癌など数例で著効が見られていた。

 鹿児島大学医学部腫瘍研究施設は、鹿児島地方に多発している悪性リンパ腫のうちT細胞系腫瘍で、四十二歳から六十二歳の男女九例(男性七例、女性二例)に抗ガン剤と併用でGE-一三二を投与した。結果は、完全に社会復帰できたのが五例、不完全復帰が二例という顕著な治療成績を上げた。

 このほかにも、国立東京第二病院、岡山大学医学部第二内科、東京医科歯科大学泌尿器科名古屋大学医学部第二外科、結核研究所付属病院、いわき共立病院呼吸器外科などから臨床報告がゲルマニウム研究会にもたらされた。

 だが、医療機関でのゲルマニウム治療は、抗ガン剤や放射線治療との併用が多く、浅井はそれが不満だった。癌治療に用いられる通常療法を行えば、それで患者の免疫力が落ち、GE-一三二の効果が薄れる。可能ならGE-一三二だけの投与で臨床試験が望ましかったが、それを大学病院や医療機関に求めるのは無理だった。

 抗ガン剤と併用するのは、GE-一三二の基本理念をわかっていないからにほかならない。GE-一三二は人体の免疫機能を強化するのに、抗ガン剤は癌細胞をたたくが逆に免疫力を低下させる。それではGE-一三二の効果は完全に発揮できないのである。

 相乗効果があったという報告もなされているが、抗ガン剤を使用しなければ、もっと効果があったのではないかと、患者のためにも不満が残る。

 治験薬だから、投与方法は担当医師の判断にまかせるしかないが、それではGE-一三二の真価はわからない。大製薬会社が資金力と組織力に物を言わせ、一定の条件下で新薬を投与するのと違い、何の力もない一個人が臨床例を集める難しさを実感せざるを得ない。

 癌以外の難治性疾患の症例も数々報告されている。てんかん自閉傾向、脳性マヒ、ダウン症、知恵遅れなどの脳障害児、眼科領域での眼底血圧、間接リウマチや肺炎、精神疾患、喘息、肝硬変、食道静脈瘤、胃潰瘍、胃カタル、糖尿病、子宮筋腫などで、いずれもGE-一三二の有効性が確認されていた。

 これだけの臨床例がそろえば薬事法による新薬承認が可能ではないか。浅井たちは続々と集まる臨床例を分析し、認可申請の準備を進めた。

 浅井は人々に安く普及できればそれだけでいいと胸の内で考えていたが、自らの癌をGE-一三二で治療している日本医師会会長の武見太郎の強い勧めで、新薬承認申請を行うことにした。

 武見はケンカ太郎とあだ名を付けられたほど厚生省の役人とぶつかったが、浅井には紳士的で理解があった。自身が理化学研究所ゲルマニウムの研究をしていたからかもしれないが、有機化とは思いつかなかったと、事あるごとに言っていた。

 新薬の申請は膨大な書類の量になるが、承認されれば多くの人々がGE-一三二で救われる。そう思えば浅井たち所員は、忙しさなど苦痛とは感じなかった。