中西旭氏の「神道の理論」(たちばな出版)を読む
神道界の巨人・中西旭氏の「神道の理論」(たちばな出版)を再読した。戦後の神職のテキストとして採用された著作である。
やはり難解だった。
この本を理解しなければ神職になれないとしたら、私には務まりそうにない。
中西氏は会計学の権威で、中央大学の名誉教授を務め、川面凡児が創設した禊流神道の稜威会(みいつかい)会長、神道国際学会会長を終生務めた。
川面凡児は奈良朝以前の神道を標榜し、川や海での禊を復活させた。
それまで、神職は禊と称し、風呂に入って体の汚れを落とし、神前に向かっていた。いまでもそうだが、私がある有名な神社に泊まって朝の神事を見学させて貰ったとき、風呂に入るよう促された。
神宮奉賛会の会長だった今泉定助は、風呂で温まれば心身が弛緩し集中力が損なわれる。水で心身を引き締めなければ神の存在は感じられないと指摘。還暦で川面凡児の禊会に参加した。
当時の還暦といえば、いまの80歳にも相当する老人で、神宮教教主とでもいう神宮奉賛会会長の重職にあったから、神道界に与えた影響は大きかった。
禊は後の大政翼賛会に採用されたため、戦後、川面凡児は軍国主義者と汚名を着せられたが、見当違いも甚だしいとしかいいようがない。
中西氏とはお目にかかったことはないが、私が通っていた筑波山の古神道の道場「とほかみ社」と浅からぬ縁があった。
昭和15年に神祇院が再興され、安井英二内務大臣が総裁を兼任した。だが、神祇院を復興させたはいいが、何をすべきか皆目見当がつかず、頼ったのが東京・麻布にあった梅田伊和麿翁が主催する祭政一致教学道場だった。
道場を視察したのは安井大臣のほか副総裁の飯沼一省、厚生大臣の吉田茂(後の総理とは別人。戦後、神社庁第五代事務総長)、内務省顧問・考証官の宮地直一博士(全国の社格を決める立場で、権威は絶大だった)、神祇伯15代の白川資長(白川家最後の当主)、神道家の住田平彦(当時の神道修行法研究の第一人者)らだった。
そこで伊和麿翁の祭祀、修行法などを視察し、近衛文麿の意向で白川家の施設と梅田道場で政府要人らの指導を行うことになった。
この道場には植芝盛平合気道開祖などさまざまな人が訪れていて、台湾総督府国民精神研修所指導官だった中西旭氏は、本国へ出張のたびに台湾の学生を何人か伴って修行に訪れた。
中西氏は道場の道彦=指導者を務め、当時の心霊研究家だった小田秀人も道彦として名前を連ねている。
こんな理由から、当時の梅田道場のことが書いてあるかと中西氏の本を読んだのだが、途中で放り出したくなったほど難しかった。
神道の考えや、修行から受ける感覚などを、古今東西の先哲、聖人の著書や言葉を縦横に引用して説明するのだから、浅学の私などには手に負えない。
中西氏は世界の成り立ちは対立ではなく、産霊(ムスビ)によっていると指摘する。
産霊とは蒸す、息子、娘のむす、万物を結びつけて生成、発展させるの結びである。
いうならば宇宙の生成、成長、発展の根本である。産霊の力がなければ世界は存在しない。
産霊に従うことが「神ながら」であり、産霊の力の根源は魂である。だから人は禊で罪穢れを祓い、魂を清浄無垢にして、神祭に臨まなければならない。それが神ながら生活だとする。
禊祓いや神祭の前の鎮魂は生易しいものではなく、実行しなければ神々と通じることはできない。
人の親、さらにその親と辿っていくと遠い祖先、すなわち祖神(オヤガミ)にいきつく。祖神を拝み感謝することが神祭に他ならないとする。
新興宗教などは教祖に神が降臨したことで始まることが多いが、「高貴の神名を名乗り出る者は、必ずしもかゝる正神には非ず否その殆どが邪霊とさるべきであろう」と指弾。
「常識的にも、大神が俗生活の情実の些事等に干渉する筈が無い」と喝破している。
中西氏はいわゆる神懸かりについて、高級な神々ではなく邪霊が憑いていることがほとんどだと断定している。
もっとも、魑魅魍魎等で邪霊でも人間の世界とは次元が違うから、予言や透視力を発揮し、人々を惑わせる。だが、そんな神がかりは、高級神霊の前では霊力を失い、こそこそと逃げてしまうという。
神々への祈願にしても、個人の願いを祖神が一人ずつ聞き入れるわけもないから、神前では願うのではなく報恩を感謝することが大切だとしている。
さまざまな新興宗教は現世利益をうたうが、それがいかに報恩感謝から離れ、世迷いごとにすぎないことがよく分かる。
さて、明治維新で「惟神之大道」が宣布され、行政組織の太政官の上に神祇官が再興されて神道は国教化された。いわゆる国家神道である。
だが、それは形式的なもので、神道は規制好きな官僚たちによって「政治的に利用」されたと中西氏は批判する。
例えば、明治3年に唯一の官立「大学校」が、「皇学」を中心に「洋学」「漢学」を両翼として開設されたが、1年もたたないうちに閉鎖命令を受けた。
最高位の大博士だった平田鉄胤等が排除され、最大の私学だった「平田塾」は突然の閉鎖命令で解散させられた。
神祇官で要職にあった白川資訓(代々の神祇伯)と平田延胤(平田派の総帥)が罷免され、神道学者や神職が次々と放逐されていった。
そして全国の官国弊社の社職は「官吏待遇」とされ、当局の辞令一本で任免されるようになった。官僚が神社の人事権を握ったのである。
神社で伝統的な祭祀を行う社家とは別に、事務官僚や軍人などが宮司に任命された。
明治22年には神社は宗教でないと公示し、神事も全国画一に統一する内務省告示が出された。
神前で2拝2柏手1拝するのもこのときに決められた。もっとも出雲大社のように独自の参拝方法として2拝4柏手を貫いた神社もある。
神社数は19万3千余社から11万社ちかくに整理された。
規制を好む官僚のいかにもやりそうなことである。
中西氏は当時の政治と神道に関わる状況を、次のように嘆いている。
「神武創業の始に基づき諸事一新」の維新制度の立案者たる玉松操(大国隆正門下)も、それと前後して侍講より隠退し、「孺子(岩倉具視を指す)に全く騙された」と慨嘆して突如死亡した。否暗殺されたと云われる。
玉松操は戊辰戦争の際、錦旗を考案して官軍に勝利をもたらした功労者である。
文明開化による西洋礼賛で、神道勢力を邪魔者と考えた政官界は、維新に功のあった社家や国学者を政府から放逐、次々と捕縛、投獄したと中西氏は指摘する。
このあたりは秘本といわれた常世長胤の「神祇官沿革物語」と「神教組織物語」に詳しいという。
ネットで両本の断片だけ入手したことがあるが、いずれも漢文の白文で、私には手におえなかった。
神道家の弾圧は、長らく朝廷の神祇官を務めた白川伯王家やその弟子らにも及んだ。
白川資国は神祇官大副を罷免され、伯家神道(白川神道)の塾頭だった高浜清七郎は暗殺の危険から逃げるよう促され、逃亡せざるを得なかった。
明治15年に「自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃」すると決定、神社神道と宗教的な普及・指導を分けた。神道から宗教性を除けば祭祀は形骸化する。
この神社神道がいわゆる国家神道で、政治家や官僚が自分たちの都合でいいように運営、昭和にいたって国家の進路を誤った。
昭和15年に国民の要請もあって設立された神祇院は、内務省下の外局となり、官僚の行政対象になった。
神道はますます規制が強まり、官僚神道になったと中西氏は慨嘆する。
明治の神職と教導職の分離で神社から宗教性が抜け落ちたため、神道13派など新宗教が続出した。
そして、大東亜戦争の敗戦で宗教活動が自由になり、さらに雨後の筍のように多くの宗教団体が発生。難病治療、その他さまざまな奇瑞など、現世利益を求める新宗教が勢力を拡大した。
この原因は官僚神道への反発もあるが、「神道家の教化力に欠如する所がある」と中西氏は指摘。さらに神道界が「伝統的な祭祀の神事は、すべて秘伝」として、すぐれた神道家を「蔑視」したためと指弾している。
例えば本田親徳(ちかあつ)、友清歓真(よしざね)などの優れた神道人は当局が採用することなく、神道学会からも「無視乃至黙殺された」と当時の状況を嘆息している。
本田親徳の弟子の長沢雄楯(かつとし)から指導を受けたのが大本教教祖の出口王仁三郎で、大本教の信者たちから生長の家や世界救世教などの新興宗教が発生した。
本田親徳と並ぶ双璧ともいう神道家が川面凡児で鎮魂の本田、禊の川面と、神道界に二つの巨峰を築いた。
本田の鎮魂はいわゆる神がかり法で、かならず実力のある審判者(さには)
を立てなければならないとする。
川面のが復活させた禊は、現在の神道界に受け継がれている。
中西氏は禊や鎮魂(みたましずめ)や振魂(みたまふり)を通じて「人をしてまことの人(霊ト)たらしめ」、「学問、道徳、芸術等々の一切文化も弥々精錬せしめられてやまざる」と断じている。
川面神道では、人間に霊=魂が宿ったのが人=霊止(ひと)とし、修業が不可欠としている。
中西氏は2005年、数え101歳で帰幽。筑波山「とほかみ社」の梅田美保師にお別れの会開催の連絡があったが、数え99歳になる美保氏は膝が悪くて行くことができず、弟子が代理出席した。
出席した弟子氏は、2000人の参加者の前でいきなり挨拶を求められ、何の用意もしていなかったので頭が真っ白になったと述懐していた。
中西氏の「神道の理論」は古本屋でしか手に入れられないが、神道がいかに奥深いものか、一読をお勧めする。(了)