巻の八 前編 再興された昭和神祇院
中国戦線が泥沼化し、日独尹三国同盟の調印で緊迫化する世界情勢の中で、明治初めに廃止された神祇院が、昭和十五年十一月に再興された。政府は神祭りが重要だと認識を新たにしたのだろうが、「官僚神道」を主導してきた当時の政府は、神祇をどう扱っていいのか見当すらつかない状態だった。
そこで白羽の矢が立ったのが、祭政一致を唱える祭政会麻布道場だった。神祇院総裁を兼務する安井英二内務大臣や、白川伯家最後の当主となる白川資長らが修行法を検分し、政府要人の修行や家庭祭祀の指導を仰いだのである。
公にすべきではない秘史かもしれないが、まず祭政会がどのようなものだったのかから記述していこう。
ヒ 祭政一教学道場
祭政会を設立したのは、元代議士の梅田伊和麿翁である。伊和麿翁の著書「皇国の本義(古事記謹解総論)」の後書きを、神道行事の相伝を受けた故高堂良夫氏が書いている。それらから伊和麿翁の歩んだ人生を簡単に紹介する。
梅田伊和麿翁は本名梅田寛一、明治十年十一月十日、広島県深安郡御幸村に生まれ、十六歳から剣道の修行に志し、日本大学法科に入学して卒業するまで、直心影流の剣道を榊原鍵吉、山田次郎吉に学び、免許皆伝を受けた。榊原鍵吉は「天覧兜割り」で有名な剣道家で、山田次郎吉は道場継承者である。
しかし、修行が激し過ぎたせいか血を吐き、郷里で養生することになった。そして二十四歳のとき、仏典の奥義に大悟するところがあり、日連宗修養の水行実修で健康を回復、二十八歳で四ケ村組合村長に就任した。
ここから伊和麿翁の政治家人生が始まり、町会議員や県会議員を経て、大正十三年に政友本党の推薦で広島県第十三区から出馬、衆議院議員に当選した。
出馬の目的は、父祖伝来の郷土で、毎年のように人命をも損なう大水害を起こす芦田川の、根本的な大改修だった。時の浜口内閣は、この種の公共工事は全面中止の緊縮政策だったが、伊和麿翁らの熱意や努力で、富山の神通川と共に大改修工事の国庫補助が国会を通過した。この改修工事では、川幅を広げるため、川辺にある自分の家を率先して犠牲にする無私の奉仕が行われた。
伊和麿翁は農村の復興と人材養成を国政の根本に置かなければならないと常々主張していた。そして所属する政友本党は、教育費国庫負担と自作農地租全免を二大政策として掲げていた。
しかし、政友本党と憲政会の提携問題が起こり、この二大政策は骨抜きにされる。これに怒った伊和麿翁は、政友本党に所属しながら、その無節操さを弾劾する国会演説をぶち上げた。速記による議事録を読むと、ところどころ「議場騒然聴取する能はず」などと書かれ、議会がいかに大荒れしたかが察しられる。
国会は伊和麿翁の除名、懲罰動議騒ぎになったが、憲政の神様と言われた尾崎行雄代議士(一八五八~一九五四)が応援演説に立ち、事なきを得た。
二大政党による憲政の常道の確立と政界の浄化を志した伊和麿翁は、同志の政治節操のなさに、信なき者と天下国家は語れぬと、昭和三年の衆議院解散と同時に政界を引退し、過去の名利をすべて打ち捨て、一切の公職を絶ち、政治の根源である惟神(かんながら)の大道究明に入った。伊和麿翁が五十三歳のときだった。
国会議員の地位に恋恋とする政治家に、爪の垢を煎じて飲ませたいところだ。
京都に移住した伊和麿翁は、全国の由緒深い神社で神官と国体の本義や国家祭祀を語り合い、さらには大本教などさまざまな宗教の門を訪ねて諸行事を実修し、惟神の道の研究に専念した。
伊和麿翁は昭和八年、伊勢神宮五十鈴川でみそぎし、玉砂利に座して、大願成就の早からんことを祈祷した。このとき、伊和麿翁は神憑りになり、祭政一致の神威、国の大道を悟ったという。
同じ年、伊和麿翁は加茂御祖神社で左文字の名刀(龍の彫り入り)を奉納した。当時の宮司は先祖が九条家の出である森倫雄(みちお)で、伊和麿翁と夫人の美保師が下加茂神社を参拝したとき、美保師が拝殿の御簾に霊眼で黄金の「鴨脚」の文字を見て、社務所に読み方を聞きにいったことで面識ができた。
鴨脚は「いちょう」と読み、賀茂神社の代々の神職を務める家柄である。なぜいちょうと読むかといえば、鴨は水鳥のため、普通には足の形を見ることができないが、岡に上げて観察すると、銀杏の葉にそっくりな形をしてためだという。
美保師は明治四十年島根県生まれで、子供のころから人には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、他人に話せば幻だといわれ、悩みに悩んだという。霊感が鋭すぎたのである。
自分にしか見えないものが何か知りたいと、奈良女子高等師範(現奈良女子大学)に進学したが解決できず、大正十一年にアインシュタインが来日したときには、宿泊先の奈良のホテルへ訪ねて疑問をぶつけた。美保師によれば、アインシュタインは科学では説明できない世界があると答え、音楽は世界の共通の言葉だと言って.ピアノを弾いてくれたという。
森倫雄は後に石上神宮宮司となるが、参拝者の少ない神社への転任(当時の宮司は勅任だった)に不満を漏らしていた。
これに伊和麿翁は、石上神宮は天皇の祭祀を司る由緒ある神社で名誉だとして、参拝することを約束し、昭和九年正月に実現させ、そのまま立春まで美保師とともに斎籠行に入った。
中国からの亡命政治家・胡蘭成氏は美保師から聞いた内容を、著書「建国新書」で次のように記している。
昭和九年正月二日より立春までの寒三十日間、美保夫人と共に、大和布留石上神宮に参籠して、禊祓、鎮魂の修行をした。(中略)梅田翁はここに国家鎮護と聖寿を祈り、神魂との誓約に自分のいのちの次に大切にする愛刀の郷義弘を奉納する気になつた。その儀礼を行ふ祭典は夜半、宮司以下全神職が奉仕して、神前滅灯の広前拝殿で、翁は神さまに受太刀を願ひ、直心影流法定の型素振り一太刀、振るや忽ち、ビューン、フーッツ、いきなり全山鳴動する。神前はパッと明らかとなり、翁は即下に日本国皇祖以来の祭政一致之道の大教極意を悟った。体全身は飛び散った如く感興し、両腕は暫く自由もきかず、側近の書生羽原柔道五段は体ごと吹き飛ばされた感じといひ、宮司神職たちはガタガタと体の震動止まず、歯も合わず言葉も出ぬので、翁は「マコトわかりました」と奏上するや、静静鎮まった。
さぞかし凄まじい神気が噴出したのだろう。「社務所から宿直の人が飛び出してきて、地震がありました。大丈夫ですか」と叫んだと、美保師は述懐していた。
調べてはいないが、この時の全山鳴動は、局地的な地震発生と、地元の新聞に報じられたそうだ。
書生羽原柔道五段というのは、後に広島県から代議士に選出された羽原桂治郎のことで、戦前、伊和麿翁の側近秘書筆頭だった。
石上神宮での斎籠行で神道の奥義を体得した伊和麿翁は、政治家時代の同志だった政友本党の床次(とこなめ)竹二郎総裁に働きかけ、祭政会の創立を図ったが、床次は岡田内閣の逓信大臣就任中に急死してしまい、独力で祭政会を創始することとなった。
翌年の昭和十年、伊和麿翁は東京へ移住し祭政一致の大道を説き始めた。
フ 神祇院秘史
昭和十五年十一月九日、第二次近衛内閣は内務省の中に神祇院を創設し、神祇院総裁を安井英二内務大臣が兼務した。しかし、神祇院が復興したとはいえ、何をどうやったらいいか皆目わからない状態だった。
これより前の昭和十三年、第一次近衛内閣当時、伊和麿翁は文部大臣の安井英二を訪ね、緊急に日本精神作興を行う必要があると力説し、面識ができていた。
そこで安井英二は麻布道場を訪れ、神祇院復活による具体的な教法をどうするかと相談を持ちかけた。
その直後、神祇院に関係する主だったメンバーが麻布道場を訪れ、行法を実見することになった。大臣が一般の民家を訪れるなど、当時としては前代未聞のことだった。
参加者は内務大臣兼神祇院総裁の安井英二、神祇院副総裁の飯沼一省(かずみ)、米内内閣厚生大臣の吉田茂(総理大臣となった吉田茂とは別人。戦後、神社庁第五代事務総長)、内務省顧問・考証官の宮地直一、神祇伯十五代の白川資長、神道家の住田平彦らだった。
宮地直一(一八八六~一九四九)は内務省神社局に入局して神社考証を担当、明治神宮造営に深く関与し、大正時代には東京帝国大学史学科で始まった「神祇史」の講師を務め、大正十一年に発足した国学院大学で、当初から教授として「神祇史」の講義を行った。同十三年には神社局考証課長に就任、昭和四年に控えた第五十九回伊勢神宮式年遷宮で奉献される御装束神宝の古儀調査などを担当、神社行政や文化財保護行政の中心で活躍した。
昭和十三年に東京帝国大学神道研究室の主任教授となって内務省を退官、麻布道場訪問当時は、全国の社格を決定する立場にあった。
昭和二十四年に調査先の長野県穂高で急逝するまで、神社や神道の研究に尽力した神道史学の権威である。
宮地直一は高知県生まれで、本家筋の社家には、神仙道で名高い宮地水位(すいい)、宮中掌典を務めた宮地厳夫(いつお)などがおり、幼少のころから神道に触れる機会が多かったようだ。
住田平彦は神道行法研究の第一者で、「敬神崇祖」などの著書がある。
行法を実演したのは伊和麿翁で、手振りと立会い者への解説を美保師が行い、諸行法の審神者役を住田平彦が務め、筆記した。
この結果、天照大御神を中心とし、称える神々も由緒正しく、最も正統な修行法であると、神道行法に理解の深い白川資長と住田平彦がお墨付きをだした。
昭和十五年十月に大政翼賛会が発足していたが、各組織の利害対立もあって、日本精神を作興する教法は何もなかった。そこで、近衛文麿が梅田道場で大臣諸氏と局長以上が修業するよう提唱、白川家の施設と梅田麻布道場とを使い、伊和麿翁を指導者として修行を行うことになった。これが世間に広まり、多くの高位高官が受講を求めた。
この時期、麻布道場を訪れたのは、安井英二ら以外に広田弘毅元総理大臣、日独伊三国同盟時の駐伊大使白鳥敏夫、谷正之外務大臣、植芝盛平合気道開祖、哲学者の西田幾太郎、神道界の重鎮となった若きころの中西旭(あきら)、心霊研究家の小田秀人などなど、数えれば枚挙にいとまない。
特筆すべきは当時の台湾指導官である中西旭(一九〇五~二〇〇五)で、毎月の本国への出張の際、二~三泊して修行し、特に許された台湾の学生二人を伴うこともあった。同氏は会計学の権威で中央大学の教授を務め、昭和五十八年に川面凡児が創設した稜威会の会長に推挙され、同六十年には神道宗教学会会長、同六十一年に国学院大学神道宗教学会会長、平成元年から神社本庁教学顧問、同六年に神道国際学会会長に就任するなど、神道界に大きな足跡を残した。
このように、祭政一致教学道場には各界の重鎮だけでなく、後々神道界を指導する鬼才が集まってきた。さらに伊和麿翁は毎月一回、自ら大臣らの官邸に出向き、二時間の講義を行い、美保師は家庭祭祀を各大臣の夫人らに指導した。
昭和十七年十一月に大東亜省が設置され、盛んに大東亜共栄圏が喧伝されたが、指導原理は明確ではなかった。
無私無欲に神に仕え、国家安泰を祈るのが神道のあり方で、神祭りのない武力は、物質至上主義の諸外国の覇権主義と同じで、世界から敬服されることはないと伊和麿翁は危惧。政治の根本には不偏不党公平無私の信念が不可欠だからと、大東亜省へ直接出掛け、青木一男大東亜大臣に指導原理をどうするのかと質し、答えられないと机を叩いて怒ったという。
戦争はあくまで相対界という肉体次元、物質次元での争いであり、「天つ神」の立場に立てば、国家の方針は敵味方を超えた絶対界次元での指導原理でなければならない、というのが伊和麿翁の信念だった。
しかし時の政府は、「神の心」を理解しようとしないまま、諸外国と同じ意識水準で戦争に突入した。絶対界次元の指導原理であるべき「神祭り」を忘れて物質世界での戦いとなれば、産業力が勝っている方が有利になるのは必然である。日本が負けたのは、当時の政府や軍部の武力、物質至上主義がもたらした当然の帰結としか言いようがない。軍部の慢心が敗戦をもたらしたのである。
神武東征時に、長髄彦に一度は敗れた教訓を生かせなかったのである。
このころ、白鳥敏夫元駐尹大使は過労による精神疲労で極度の興奮状態に陥り、何日も寝ないで喋り通し、外交の機密を次々に口にする発狂状態で、病院に隔離されていた。外務省から依頼を受けた美保師が病室へ駆けつけ、白鳥敏夫が凄まじい形相で部屋から出せと騒ぐのをなだめ、鎮魂の祝詞を上げるうちに眠りについた。
その後、美保師の鎮魂と祈祷で治療し、逗子の別荘で禊祓いと鎮魂行法で健康を回復、鹿児島県で執筆に専念していた伊和麿翁を訪ねて百日修行の指導を受けた。
この当時、明治神宮宮司の有馬良橘(りょうきつ)海軍大将の使者が来訪、ヒットラーが精神修養に礼拝堂を作り、菜食で精進していて、鎮魂を日本から教えてほしいと要請があったと伝えてきた。
修行に来ている人々は賛成だったが、伊和麿翁は神様に聴くとして美保師と共に斎戒沐浴し、美保師を巫女として麻布道場の神前で伺いを立てた。その結果、鎮魂のことを正しく語り伝えるは難しと託宣があり、要請に応えることはなかった。
ミ 空襲された外宮
大東亜戦争の末期、米軍の容赦ない攻撃は聖域にさえ迫り、ついに伊勢神宮外宮が空襲された。
当時の伊勢神宮の祭主は梨本宮守正殿下だった。梨本宮は陸軍士官学校を卒業した武人で、昭和十八年に六十九歳で伊勢神宮祭主に就任。敗戦後、神宮祭主だったことから国家神道の頭目とみなされ、皇族としてただ一人A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに投獄されたが、半年後に釈放される。戦後に皇籍を離脱、昭和二十六年に七十八歳で薨去した。
昭和十八年は四月に海軍の山本五十六長官が戦死、五月にはアッツ島守備隊二千五百人が玉砕し、兵役法の改正でそれまで四十歳までだった徴兵を、四十五歳まで延長するなど、日本軍の配色が濃厚となってきた年だった。
十一月には中国行政院長の汪兆銘、自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボース(オブザーバー)らが出席して六ヶ国による大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が採択されたが、実質的な問題は一つとして討議されなかった。もはや有効な打つ手がない状況だったのである。
厳しい状況の中で祭主に就任された梨本宮は、高齢でありながら毎暁、水で禊祓いし、天皇御名代として伊勢神宮祭祀に慎み仕えた。そんな梨本宮にとって、外宮空襲はことのほか心痛で、眠られぬ夜々が続いたに違いない。
昭和二十年二月三日、茨城県新治郡出島村志士庫の伊和麿翁の疎開先に来訪した警察官から、急ぎ上京し伊勢神宮祭主の梨本宮を訪れるよう指示された。空襲で外宮が焼けた直後のことだった。
伊和麿翁と美保師が邸を訪ねると、侍従から、ご高齢なのに毎朝水垢離をとられており、それをどうかやめるようお願いしてほしいと頼まれた。
伊和麿翁と美保師がお会いすると、梨本宮から外宮はどうして焼けたのかと神宮の安全について御下問があった。美保師が禊をして意識を集中すると、託宣があった。胡蘭成氏が「建国新書」に次のように書いている。
たうとう伊勢外宮も空襲された。当時、斎宮梨本宮邸へ美保姫は迎へられ、禊するに、託宣があった。曰く「人間は争いもするが、高天原(神界)には戦は無い。外宮は政治の御気であり、爆撃は政事が悪いから祓ふて、為政者の反省を促す。内宮は祭であり、御鏡は絶対に守る」と。非常に激しい、かつ清純な強い御言であった。
伊和麿翁は、外宮は豊受神で生活と政事の神であり、今の政治のやり方を爆撃されたので、御魂である内宮は絶対に守られます、と奉答した。
このとき梨本宮は、陛下のご苦労を思うにつけ、何とか粗相のないようにと、せめて水なりともかぶらなくては申し訳ないという思いで務めている、それでよろしいか、と尋ねた。これに、侍従から止めるよう頼まれていたにもかかわらず、伊和麿翁は思わず、結構ですと答えてしまったという。
敗戦前夜ともいえる昭和二十年七月、伊和麿翁は内閣要人と語らい、長野県の聖山にある川島浪速(なにわ)の別荘に籠り、天下泰平.の祈願で百日間参籠する。
川島浪速は満蒙独立運動の先駆者で、男装の麗人で有名な川島芳子は養女である。
この間、美保師は東京、茨城、聖山、御殿場を行き来する日々と大忙しだった。御殿場には右翼の大物、頭山満の別荘があり、精神過労で緎黙(かんもく)状態の松岡元外務大臣が滞在、回復祈祷を行うためだった。
伊和麿翁が斎籠中にポツダム宣言の受諾で敗戦となったが、百日間の祈願を終えてからの下山となった。下山後は筑波山中腹の国有地を借りて開拓筵を造り、営農生活を行うとともに人材養成に専心、昭和三十年十一月十日の誕生日に八十歳で帰幽した。
伊和麿翁の帰幽後は美保師が後進に神道の行法を伝授、多くの修行者が薫陶を受けた。
ヨ 息吹永世
伊和麿翁が創設した神道の修行法を紹介しよう。私自身が体験した行法に基づいているため、正確さに欠けるところはご了承いただきたい。
前にも書いたが、禊や祓い、鎮魂で共通して行われるのが息吹永世という呼吸法である。伯家神道に伝わったとされる行で、水が体の外側を禊祓うのに対し、呼吸で体の中から禊祓う行である。
やり方は、裸足の足の裏を合わせた安座または正座の姿勢(女性は正座)を取る。もっとも、息吹永世だけなら、正座でも椅子に座っていてもかまわない。
安座して両手を体の前の床で揃え、円を描くように両腕を体の後ろへ回して手を合わせ、体の前へ両脇を通って戻す。そして一揖(ゆう)二拝二拍手一拝一揖し、神前でと同じように、安座している場所の神々に参拝し、修行の場を借りる挨拶をする。いわば結界をつくる。揖は軽いお辞儀で、拝は深い敬礼である。
さて息吹永世だが、左指を上にして指を組み、人さし指だけ伸ばして合わせ、臍の前に置いて独鈷印を結ぶ。目を半眼に閉じ、鼻から息を吸って腹に溜め、少し息を止め、口からゆっくり細く長く吐く。吐き切ったら鼻からゆっくりと息を吸って止め、再び細く長く吐く。すった息の四割は丹田に残すと、美保師は指導していた。息を吸うときに腹を膨らませ、吐くときは引っ込める複式呼吸を意識して行う。
息吹永世のことを、鉄砲洲神社名誉宮司の中川光正氏は息長、ジャーナリストの菅田正昭氏は永世と述べている。
この場合、組んだ手を、胸から上へ上げてはいけない。滝行などで振り魂(たま)をするとき、両の掌を交差させて膨らみをつくり、腹の前で振るように動かすが、これも心臓より上へ手を上げてはならない。人によっては霊動が出て、危険な状態になることがあるからだ。
どんな動きが出るのかというと、交差した手が激しく震えたり、無闇やたらに動いたりする。滝行では穢れが祓われて心身ともに敏感になり、さまざまなモノが憑依しやすくなっているので、振り魂をする腕が引っ張られ、体ごと思わぬところへ持っていかれることもある。
霊動はいろいろなところで出てくるから、危険だと感じたら、すぐに手を臍の前で組み、腹に霊を鎮める。
しっかりした指導者が不在で、一人で息吹永世を行じるときは、腹に気を鎮めるという意識を常に持っていなければならない。霊動が出て、神懸かったと喜んだら、とんでもない悪霊だったということになりかねない。ある種の宗教にはよくある話である。
息吹永世を続けると、体全体が熱くなり、合わせた掌や人さし指がじっとりと汗ばんでくる。そういう状態になれば、息吹永世が正確にできている証拠である。
息を吐くときに、体の中の罪穢れを細く長く吐いて清めてやるという意識を持つ。息吹永世を五分も続ければ、体の疲れが軽くなり、気力が出てくることに気づくだろう。「長い息」は「長生き」につながるから、息吹永世はストレスで難病に罹(かか)りやすい現代人の救世主でもある。
逆に、「ハァ~」とため息のような息を吐くと、気力や体力が衰え、さらには罪や穢れがほかの人に憑(つ)いてしまうから、気をつけなければならない。
息吹永世を続けても、衰えた気力が回復しない場合、息を細く長く吐いた最後に、すべての息を強く吐き切る。このとき、フツと音がするよう強く吐く。これを何度か繰り返すと、どういうメカニズムが働くのかわからないが、不思議に気力が湧いてくる。
このフツという音は、速須佐之男命が八俣遠呂智を「切り散(はふ)りたまいし」とき、つまり物を断つ際に出た音とされている。そしてフツは石上神宮の祭神の一柱である「フツノミタマ」、香取神宮の祭神「フツヌシ」に通じる言霊を持っている。
日本書記によれば、経津主神は武甕槌神と共に、出雲の国へ大国主神との国譲りに出向いた正使の神である。
さらに神武東征のおり、熊野で大熊が現れて天皇も軍勢も毒気にあたって病に伏し倒れたとき、高倉下が一ふりの横刀(たち)を持って駆けつけると病気が癒され、「荒ぶる神、自ずから皆切り仆(たお)さえ」た。この横刀は、古事記では建御雷之男神が出雲国の国譲りに携行して「専(もはら)ら其の国を平(ことむけ)し横刀」で、布都(ふつ)御魂と分注している。
これらから、フツは荒ぶる敵を平定する言霊と考えられ、フツと息を吐けば、気力が充満するのだろう。
呼吸は人間に大きな影響を与える。ちなみに、仏教の日蓮宗と念仏をする宗派とでは、題目と念仏を唱える声の出し方が違う。日蓮宗は何妙法蓮華経と息を強く吐き出し、念仏は南無阿弥陀仏とこもるように唱える。声を強く吐くと気力が高まって攻撃的になり、こもらせると内省し深い洞察に向かう。
日蓮宗では開祖の日蓮だけでなく、血盟団事件の首謀者だった井上日召、八紘一宇を唱えた国柱会の田中智学などのように、気性の激しい人物が多出している。これに対し、内省に向かう念仏は、浄土宗の僧侶で、日本人仏教徒として始めてインドの仏跡を巡り、光明(こうみょう)主義を開いた山崎弁栄(べんねい)上人のような高僧を生む。
念のため一言付け加えると、八紘一宇という言葉は戦前の軍部が盛んに喧伝したが、古事記にも日本書紀にも記載されておらず、田中智学の造語である。日本書紀にあるのは「八紘為宇(はっこういう)」で、「世の中を宇(いえ)=家=となす」が本来の意味だ。「一」というから世界を統一して支配下に置こうとなってしまう。「家」ならさまざまな家族がいるわけで、唯我独尊の軍国主義にはならない。言葉は正確に使うべきである。
さて、息吹永世の行が極限まで進むと、唇に二枚の紙を挟んで息を吐いても、紙が震える音がしない。こうなると仮死状態で、修行の極地だが、半端な努力では達せられない。(続く)