巻の七 前編 あるべき国の姿を求めて

 自虐史観の蔓延で思考停止に陥った我が国の指導者や国民は、近隣諸国の顔色を窺い、不要な謝罪を繰り返す情けない国をつくってしまった。毅然とした姿勢を取り戻さなければ、世界に媚を売るだけの、自尊心を失った軟弱国家が続き、いずれ滅びかねない。

 国を危機に直面させている思考停止から脱却するために、伝統に則った日本の国のあるべき姿、すなわち国体を明徴にする必要がある。国の姿を描けなければ、他の国と何ら変わらない欲望国家になるからだ。

 本来、有識者が思考停止からの脱却を声高に叫ばなければならない。しかし、テレビ出演や著作の多い高名な学者が、我が国の伝統とはまったく異なったことを、あたかも伝統らしく装って世間を欺いている。

 例えば、伊勢神宮の参拝は外宮先祭といって、外宮が先で内宮が後だ。外宮の祭神の豊受大神穀物の神で、いわば物質の世界を司っていて、神界の最高神である天照大御神に仕えている。豊受大神は臣下として大御饌(おほみけ)を天照大御神に捧げているわけで、物質界から神界へ参拝をするのが決まりである。

 それなのに、驚いたことにある高名な学者は、参拝は内宮が先で外宮が後だとある本に書いていた。伊勢神宮の説明でも外宮が先で内宮が後となっているのに、この学者氏はどういうつもりでこんな間違いを犯しているのか不思議でならない。こんな人物が、よく学者として通用するものである。

 さらにある学者は、神葬祭では一拝するだけで柏手は打たないと書いていた。さらに二拝二拍手一拝の最初の二拝は軽いお辞儀、最後の一拝は深い礼としていた。

 神葬祭では、音が出る柏手は打たないが、通常の参拝と同様に二拝してから、忍び手といって音が出ないように二度柏手を打って一拝する。そして、最初の二拝はもちろん深い礼である。この学者氏は本当に神道のことを知っているのだろうか。

 また、民主党びいきのある政治学者はテレビの討論番組で、今上陛下(当時)のことを「平成天皇」と呼んだ。「平成天皇」は諱(いみな)、諡(おくりな)である。政治学者ともあろう人間が、諱、諡が死後の尊称だということを知らないらしい。あるいは何らかの意図があって諱、諡を口にしたのなら、許しがたい人間である。こんな学者に教えられる学生は悲劇だし、正確な日本語を話せない政治学者を、討論番組に何度も出演させるテレビ局の見識のなさには呆れるばかりである。

 これらの学者諸氏は、日本の伝統を尊ぶと言いながら、実際には神道祭祀を破壊しようと、ひそかに画策しているのではないかと疑いたくなる。

そうではなく、書いたこと言ったことが本当に正しいと思い込んでいるのなら、無知を恥じてただちに学者の肩書きを返上し、職を辞すべきである。

 日本のあるべき国の姿は、記紀に明確に示されている。日本は神代から神々とともにある国である。そして今も、人々が意識するにしろしないにしろ、神々は我々とともにある。

 頭をわずかに切り替えれば、神々の世界は戻ってくる。記紀によって国の姿を明らかにし、国民が実現を図れば、思考停止に陥らない平和で安らかな世界が訪れるだろう。

 

 ヒ 神々の会議

 

 古事記の神代巻には次のようにある。

 

 高天原皆暗く、葦原中国(なかつくに)悉に闇(くら)し。此(ここ)に因りて常夜(とこよ)往(ゆ)きき。是に萬(よろず)の神の聲(こえ)は、狭蠅那須(さばえなす)満ち、萬の妖(わざはい)悉に發(おこ)りき。是を以ちて八百萬の神、天安(あめのやす)の河原(かわら)に神集(つど)ひ集ひて、高御産巣日神の子、思金(おもいかね)神に思はしめて……

 

 天照大御神が天石屋戸に籠もり、さまざまな災いが起きた時、八百万の神々が集まって相談し、思金神に方策を考えさせたのである。

 八百万神が集いに集うということは、すべての神々が一同に会して議論するという、極限すれば全員参加型の直接民主主義を意味する。八百万神が一致団結して思金神に知恵を絞らせたというのだから、代表に権限を与え、方策を任せたということになる。

 思金神は後に、天照大御神から「前(みまえ)の事を取り持ちて、政爲(まつりごとせ)よ」と命じられた政治の神である。

 最も古い祝詞である延喜式大祓詞には、次のようにある。

 

 高天原に神留(つま)ります、皇親(すめむつ)神ろぎ神ろみの命もちて、八百萬の神等(たち)を神集へに集へたまひ、神議(はか)りに議りたまひて、我が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせと事依さしまつりき。

 

 大祓の祝詞には、八百万神が集まって話し合い、「吾が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の國を、安國と平らけく知ろしめせ」とある。すなわち、邇邇藝命は日本の国を平和な国として治めよと、一致して結論し命じたと述べている。

 日本は神代の時代から、大切なことを決めるときには神々が集まって、「神議り」という神々の会議を開いていたのだ。天照大御神高御産巣日神、あるいはほかの神が、独裁的に物事を決めていたのではない。

 こう考えると、理想的な直接民主主義そのものだが、人の世になり、道教儒教、仏教などの外来思想が入ってくると上下意識が台頭し、主従関係ができあがった。しかし、封建主義や独裁主義は、日本の本来のあり方ではない。

 民主主義と言っても、戦後民主主義を指しているのではない。戦後民主主義の根底にある日本国憲法は、基本的人権主権在民で国民の権利意識だけを煽り、勝手な自己主張を正義とした。それは民主主義ではなく、利己主義、自己中心主義そのものだから、まともな世ができるはずがない。

 自分さえよければいいという憲法を担いでいては、目的のためには手段を選ばないエゴイズムに国民が陥るのは必然である。金権主義の政治家、国への忠誠心を失った官僚、儲け至上主義の経営者、自分の利益だけを求める大衆などなど、我が国は末期症状を呈している。その最大の原因が日本国憲法である。

 ちなみに日本国憲法は、占領されている時代に作られたため、国民の意識は反映されていない。もっと正確に言えば、ポツダム宣言の受託で「休戦」を受け入れたが、講話条約を結んでいない戦争中に力で押し付けられたものである。

 戦争中に勝者から押し付けられた憲法や法律は、独立後は無効になる。したがって、現実的にはともかく、日本国憲法廃棄が手続き上は正しい。

 エゴイズムの「けがれ」に満ちた日本国憲法を大祓に祓って、浄く明く正しく直き豊葦原瑞穂国を取り戻すべき秋(とき)がきている。

 

 フ 大祓

 

 国や青人草の大祓は、六月と十二月の晦(つごもり)に行われる。宮中の大祓は節折(よおり)という。

 節折は荒節(あらよ)、和節(にこよ)の竹枝を折り、天皇の身長を測って祓いをする。竹を折ることから、節を折ると名付けられている。さらに生絹(すずし)(練っていない絹)で織った和妙(にぎたえ)、麻布で織った荒妙(あらたえ)でそれぞれ作った御服(みそ)に、天皇が息を吹き掛け、祓(はらへ)つ具(もの)として川に流す。これが天皇の大祓だ。

 念をこめて息を吹き掛けることで御服に御魂が付き祓つ具になる。それを祓い清め川へ流して大祓がなされる。

 私たちが神社で玉串を奉奠(ほうてん)する場合も、念をこめて息を吹き掛け、魂を榊につける。それを神に捧げることで、魂と魂が「串刺し」になって一つに結ばれ(産巣日)、玉串となる。

 だから、玉串奉奠は単に玉串を神前に奉じる形式的な動作ではない。

 息を吹き掛けることは、天照大御神と速須佐之男命が、天安河原で「宇氣比(うけひ)」するところからきている。互いに相手の持ち物を受け取り「佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て、吹き棄(う)つる氣吹(いぶき)の狭霧(さぎり)」に神が成る。念をこめた息は神に通じることを示している。

 天皇の節折が終わると青人草=国民の大祓を行う。延喜式大祓詞の冒頭には「集侍(うごな)はれる親王(みこたち)・諸王(おおきみたち)・諸臣(まえつきみたち)・百(もも)の官人(つかさびと)等、諸(もろもろ)聞しめせと宣(の)る」とある。「宣る」は天皇の命令を宣する宣命(せんみょう)体(たい)で、集まっている人々に謹んで聴けと命じている。

 天皇は自らの大祓に続き、国民の大祓をなして、「天の下四方(よも)には、今日より始めて罪といふ罪はあらじと……」と、国中のすべての罪を祓い清め、浄く明く正しく直き国になれと祈られている。

 大祓詞の最後には、「四國(よくに)の卜部(うらべ)等(ども)、大川道(ぢ)に持ち退(まか)り出て、祓へ却(や)れと宣る」とあり、祓つ具を川に流し去れと命じている。上代はさまざまな祓つ具が、人々の罪を負って川に流されていた。

 個人の六月と十二月の大祓は、大祓詞を唱えた後、人の形に切った紙=人形(ひとがた)に念をこめて息を吹きつけ、御魂代(みたましろ)として川に流す。罪穢れがなくなった清らかな意識、新たな意識で物事に向き合うというのが大祓の意味である。

 祓つ具を川に流すのは、古い時代からなされてきた。それが仏教などの宗教と結びついて灯籠流しや船流しになっていった。外来宗教の独自行事と考えられているものに、神道儀式は多くの影響を与えている。

 大祓詞は、高天原八百万の神々が会議を開いて議論し、皇孫命は豊葦原瑞穂の国を治(し)らせと決定したところから始まる。そして、荒ぶる神たちを言向け和(やわ)し、岩や木立、草などの自然も静まってから皇孫命が天降ったと、天孫降臨神話を再現している。

 さて大祓詞は、国中に現れた「あめのますひとら=国民」が、犯すであろう天つ罪と国つ罪を列挙し、「ここだくのつみいでむ」と未来推量形を使っている。実際に罪を犯したという過去形ではなく、「罪が出るだろう」という推量にしているところに注目しなければならない。

 こうして罪が現れたなら、「あまつのりとの、ふとのりとごとを、のれ」と宣告している。この詞の後、神主は低頭し、しばらく間を置いてから「かくのらば」と続ける。この低頭している間に、神主は何事かを小さな声で唱えるとされている。

 この天津祝詞が何を指すのかは昔から議論があり、神道家はそれぞれ秘伝の唱え言葉を天津祝詞の太祝詞だとして伝えてきた。

 ちなみに延喜式巻の八では「鎮火(ほしづめ)の祭」「道の饗(あえ)の祭」「伊勢の大神の宮六月(みなつき)の月次(つきなみ)の祭」「同じ神嘗(かむにへ)の祭」の四つの祝詞が、その祝詞自身を「天津祝詞の太祝詞事」だと記述している。

 同様の考えに立ったのが本居宣長で、大祓詞そのものを天津祝詞の太祝詞だとした。また、川面凡児や今泉定助は「ひふみの祓」を候補に上げ、白川伯家神道は三種祓詞を唱えるとしている。

 低頭して一呼吸入れるところで願い事を祈るという説もあり、何かを唱えたのかどうか明確ではない。さらに、現在行われている一呼吸だが、古代からそうだったのかどうかも不明である。古代はもっと長い時間、低頭していたのかもしれないし、頭を下げるだけで一呼吸入れなかったのかもしれない。

 もし、長く低頭していたのなら、禊祓詞のような長い祝詞を唱えることも可能だし、一呼吸入れないなら、何も唱えなかったことになる。一呼吸入れて低頭するという儀式が残っているだけで、実際のところは不明である。

 ただ、神主が「宣れ」と命令しているから、大祓いを受けている人々が天津祝詞の太祝詞事を唱えたのではないかと考えられる。

 こうして、大祓で罪穢れを祓ったら、浄く明く正しく直き新しい世の中が再びやってくるから、心を新たにして物事に取り組むというのが、古代から綿々と続いている日本の国のあり方である。半年に一度、罪を流して新たな気持ちになれば、思考停止の穢れも祓われ、自らの頭で考えられるようになる。

 

 ミ 日を負ひて

 

 神々とともにあるとは、神祭りとともにあるということである。神祭りを忘れると、天皇といえども苦難に陥る。その典型例が、神武天皇が東征で長髄彦(ながすねひこ)(古事記では登美那賀須泥毘古と記す)に破れたことである。日本の敗戦は大東亜戦争だけではない。

 その戦いで神武天皇の長兄五瀬命は、長髄彦の痛矢串を負い、重体に陥る。記紀を組み合わせると、次のような状況だったと思われる。

「吾(あ)は日神(ひのかみ)の御子と為て、日に向かひて戦ふこと良からず。故、賤しき奴が痛手を負ひぬ。今者(いま)より行き廻(めぐ)りて、背(そびら)に日を負ひて撃たむ」(古事記

 五瀬命は、神である太陽に向かって戦ったから負けたので、逆に太陽を背にすれば勝てると迂回するが、途中で怪我のために亡くなってしまう。

 この後、神武勢は船で方向転換を試みるが、「暴風(あらしまかぜ)」が起こって行く手を遮ったため、神武天皇の兄である稲飯(いなひ)命と三毛入野(みけいりの)命が自らの生命を捨て、海に入って嵐を鎮める。鵜草葺不合命の御子は五瀬命稲飯命三毛入野命神武天皇の四人だが、兄三人が共に生命を失ってしまった。

 さらに、神武天皇が熊野から太陽を背にして攻めようとすると、今度は現れた大熊の毒気に中(あて)てられ、全員が倒れて動けなくなる。

 日の御子の聖征に、なぜこんな苦難が待ち受けていたのだろうか。

 それは、「日に向かひて戦ふこと良からず」という言葉に明確かつ端的に表れている。

 これが正しい判断なら、日=太陽を背にしようする動きは、日神の意思に基づいているのだから、妨げられるはずがない。しかし、方向転換すれば暴風に遭い、さらに日を背にしたのに、出現した大熊の毒気に絶体絶命の危機に陥った。日を背にすれば勝てるという判断が、間違っていたからにほかならない。

 致命的な過ちは、太陽を日神、すなわち天照大御神だと誤解したことだ。

 古事記では五瀬命が「日に向かひて……」、日本書紀では神武天皇が「日に向かひて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)れり。(中略)背に日神の威(みいきほひ)を負ひたてまつりて……」とのたまったとある。

 これらは、五瀬命神武天皇の代理の依り代の言葉だったと思われる。そして、神懸かり状態の言葉を判断するのは審神者(さには)である。布斗麻邇をしたのなら占いを司る卜部だ。これら審神者なり卜部が神意を間違え、太陽を天照大御神だと唯物的な判断をしたため暴風に遭い、さらには大熊の毒気にもあたり、絶体絶命の危機に直面したのである。

 本居宣長平田篤胤天照大御神を太陽と解釈しており、記紀に指摘された過ちを犯している。

 倒れた神武天皇の危機を救ったのは、建御雷之男神から布都御魂剣を預けられた高倉下(たかくらじ)で、剣を献納すると毒気が消え、伏していた軍勢も目覚める。そして八咫烏(やたからす)の導きもあって、神武勢は聖征を続けることができた。

 神武勢の苦難の原因は武力だけに頼ったことだ。自軍の圧倒的な武力に慢心し、神祭りを忘れていたのである。暴風も大熊も、慢心に対する天つ神の警告だったと考えられる。そして、審神者や卜部、さらには生命を失った三人の天つ神の御子と神武天皇さえもが、神意を正確に受け取れず誤ってしまったのだ。

 五瀬命が傷を負ったとき、日神を太陽と即物的に考えず、祭りを忘れていると判断し、その場で祭祀を実行していれば、神武勢の苦難はなかっただろう。日の神を背にするというのは、太陽を背にすることではなく、神威を背に負うという意味だからである。

 日本書紀神武天皇の言葉は「影(みかげ)の随(まにま)に圧(おそ)ひ踏みなむには。此(かく)の如くせば、曾(かつ)て刃に血(ちぬ)らずして、虜自(おの)づからに敗(やぶ)れなむ」と続く。

 日の神の神威を背に敵に臨めば、血を見ることなく制圧できるというのだ。

 神武勢は賊の征伐を続けるが、八十梟帥に前途を遮られて身動きできなくなる。困り果てた神武天皇の夢に天つ神が現れて、「天香の社の中の土(はに)を取りて(中略)、天神地祇を敬(いやま)ひ祭れ。亦(また)厳呪詛(いつかしり)をせよ。如此(かくのごとく)せば、虜自づからに平(む)き伏(したが)ひなむ」と託宣する。神祭りをしろという神託が与えられたのである。

 神意を悟った神武天皇は「丹生(にふ)の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇を祭(いはひまつ)りたまふ」た。すると、抵抗していた八十梟帥は降伏し、最大の勢力だった長髄彦との戦いでは、金色の鵄(とび)が神武天皇の弓に止まり、稲妻のように光って敵軍の戦意を喪失させ征伐することができた。

 金色の鵄は寓話にすぎず、事実ではないと反論が出るかもしれないが、神祭りをしたことで神威が現れ、神武軍と敵軍にそう見えたのにほかならない。

 神祭りを忘れた結果が苦難であり、祭った後には大御稜威(みいつ)に助けられ、東征を果たすことができた。ちなみに御稜威は三(み)出(いつ)で、三種の神宝の神力が現れることをいう。

 神祭りのない武力だけの戦いは、敵と同等の戦いで単なる戦争にすぎないから、天つ神の大御稜威に助けられることはない。ひるがえってみると、果たして大東亜戦争に、神祭りがあっただろうか。

 

 四方(よも)の海、みな同胞(はらから)と 思う世に

 など波風の たち騒ぐらん

 

 昭和天皇は日米開戦に当たり、御前会議で明治天皇の御製を詠(えい)じ、戦争回避を求められた。しかし時の政府は耳を貸さず、戦争への道を突っ走った。天皇の御意向を無視しての開戦である。

 天つ神の皇孫である天皇は、政治家や軍人にとって、現人神(あらひとがみ)のはずだ。そう政府や軍部は国民を指導した。にもかかわらず、天皇の願いを踏みにじった政府・軍部は、神祭りを忘れたどころか、神に弓を引いたも同然である。神を敬う心など、どこにも存在していない。

 大東亜戦争のそもそもの発端となったのは、国民党軍の挑発から始まった支那事変だが、中国大陸での権益拡大にやっきとなった軍部の一部が、好機とばかり拡大させたことも原因している。そこには物質的な権益狙いがあっただけで、国民(くにたみ)安かれという天皇の祈りは、政策のどこにも存在していなかった。

 国が違っても、人々は天皇にとって大御宝である。中国人だろうと朝鮮人だろうと、さらに欧米人であろうと、地球という惑星に生きる人々は、皇孫命にとって、すべて大御宝である。

 天皇の祈りを無視し、神祭りを忌避した軍部に、大御稜威が働くわけもない。神祭りのない戦いは、物と物の戦いだから、戦争が長引けば、資源が豊富で産業力が優れている勢力が有利に決まっている。

 不利とわかっていても、戦わなければならないことがあるだろう。しかし、神を祭り、国民安らけくという祈りが根底にあれば、結果はおのずから異なってくる。