講演は天皇の象徴という問題に絞って行われた。戦後の昭和天皇、平成時代、令和と天皇は意識して象徴務めていると言うのである。
この象徴という言葉だが、準教授は行幸啓を通じて象徴となっていったとしていた。
戦後の焼け野原、平成の天災などに行幸啓することで、国民が天皇に感謝し、親しみを覚え、象徴という存在になった。それは天皇や皇太子(当時の上皇)の国民の人気から察せられるという。
そして、人気の消長を通じて象徴となる努力を続け、現在の象徴天皇が出来上がったとする。
国民の人気が象徴のバロメーターになっているようで、違和感を感じるが、メールでの遣り取りの続きを紹介しよう。
2 天皇は、戦後の昭和天皇や上皇陛下の天皇時代だけでなく、戦国時代や後醍醐天皇時代を除き、戦前もふくめで常に象徴だったと考えますがいかがでしょうか。
准教授
上皇さんは皇太子時代の1987年12月の会見で、「中大兄皇子があれだけ長い間政治をされたわけですし、聖徳太子もそうですしね。上皇の院政が始まる前の時代にも、そういう時代はあります。それは日本の非常に発展した時期でもあるわけです」と答えられています。
つまり、古代の天皇が政治を実際に行う存在であったと規定されています。また、同年9月の会見でも、「明治憲法下の戦前・戦中と、現在の憲法下の戦後日本では、天皇観に明確な相違があります」「戦時と戦後の天皇観における違いは憲法の条文の違い以上に明白でした」と答えられています。
これらを総合して言えば、古代の天皇は親政であったこと、(その後の後醍醐天皇が異質であったことも述べられています)、戦前においても現在の象徴とは違った天皇観であった(ただし明治天皇などが古代のような親政であったかどうかは別)というのが皇室においても一般的な見解であるようです。
ですから、常に象徴であったというのはやや異なるのではないかと思います。なお、私の『近代天皇制から象徴天皇制へ』(吉田書店)という本のなかでも、象徴の胎動は20世紀に入ってからあったことを明らかにしました。ご参照いただけましたら幸いです。
千代田再質問と主張
実は後醍醐天皇の前に、古代天皇という言葉を入れたつもりでしたが、失念してしまったようです。
古代天皇は祭政一致の親政でしたから、説明という余計な労をとっていただきまことに恐縮です。
私がいいたかったのは、天皇は祭祀を司る祭祀王で、神々と民草(たみくさ)を取り持つ役割を果たしていますから、民草からすれば神々を象徴しているように見えるということです。
天皇は親政時代を除けば祭祀王そのもので、象徴といってもいいのではないでしょうか。
もっとも、日本国憲法という憲法典の時代の象徴天皇とは異なっているのは事実でしょう。
天皇祭祀は精神的肉体的に実に厳しいものがあります。例えば新嘗祭は宵と深夜、寒さが募る初冬に暖房もなく、天皇お一人で天照大御神に相対します。
新嘗祭当日だけでなく、前日には石上神宮の鎮魂を受け、さらにそのもっと前には御禊をして身を清められます。
現代はどうなっているか分かりませんが、御禊は河か海で行われました。
新嘗祭以外の祭祀でも、当日を迎える前に、清めや鎮魂、調息などで身を慎まれます。
こうした祭祀のための前修神事は生易しいものではありません。前修神事や祭祀が、果たして女性でできるかどうか疑問です。
神事は穢れを嫌います。女性の場合、月のものがありますし、もし妊娠すれば出産して体力が回復するまで神事を行うことはできなくなります。
だからこそ、8方10代の女性天皇は、未亡人か未婚だったのではないでしょうか。
明治時代初期、欧米の求める信教の自由に対応するため、神社から宗教性をなくせばいいだろうと、神社神道と宗教活動をする教導職を拙速に分離し、神祇伯を廃止するなど、官僚神道が国体をいびつなものにしてしまいました。
このため、天皇の前修神事も歪められた可能性があります。しかし、内掌典を長く務められた高谷朝子氏によれは、陛下はもちろん内掌典や掌典職も厳しいく節制をされているといいます。
こうした前修神事や祭祀を司る天皇は、ある意味で国体の象徴といえるのではないでしょうか。