巻の五前編 国の危機に甦る地下清流「本つ教」

 

 私たちの住む町や村には、少し目を周りに向けるとさまざまな神社があり、祭りが行われている。春は豊作を祈って田植えをし、秋には収穫を感謝し、国や地域の安全を祈り、子供が生まれればお宮参りで健康に育つよう祈り、初詣でや受験の合格祈願、交通安全や家内安全などなど、日本は神々とともに人々が暮らす国である。

 そして神祭りは、個人の願いより全体の平安を祈る心を優先している。

だが、神々の存在は長い歴史の中で、国民精神の荒廃や物質至上主義の蔓延で希薄になり、戦前の軍部独裁で歪められ、さらにGHQの神道指令で大きく捻じ曲げられた。特にGHQは日本人の精神的支柱を破壊するため、いわゆる国家神道なるものを禁じ、我が国の弱体化を推し進めた。今や神々の本来の姿が失われようとしている。

   その結果、自己を優先させて他人を思いやらず、国家の安泰などどこ吹く風という利己主義が蔓延し、国中にはびこった。国民が義務を忘れて権利を主張するだけでは、国は成り立っていかない。

   だが、我が国の根底には神ながらの清流が流れ続け、国の精神的危機が訪れるたびに奔流となって甦り、神々が復活する。平成二十五年の伊勢神宮遷宮は、日本人に神々の存在を思い出させる最高の機会だった。そっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

   そっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

 しかし、黙って傍観していたのでは、神々は甦るどころかそっぽを向いてしまいかねない。そうなれば、物質至上主義、経済至上主義の諸国と何ら変わりのない、民族の魂を失った情けない国になる。国民の精神が腐敗すれば、国が滅びるのは世界の歴史が示している。

   混迷に満ちた今の世を、豊かで平和な国にするには、一人ひとりが神々と真正面から向き合い、国民(くにたみ)安らけく弥(いや)栄えませと真摯に祈りを奉げ、伝統と歴史に則った生き方を実践しなければならない。

 

ヒ 神祭り

 

 神道というと、GHQの占領政策で悪いイメージが植えつけられ、拒否反応を示す人もいるだろう。そこでまず、我が国の根底に流れる清流、神道の歴史を概観しよう。

 天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭るのが神道だが、神代から神道という言葉があったわけではない。仏教が入ってきて、それと区別するために「神の道」という言葉が使われるようになった。つまり、仏教が入ってくるまでは、神祭りの理屈をこねることなく、豊作を祈り収穫を感謝する、自然の姿勢で神々に奉仕していたのである。神々の御心のままに祭りに奉仕することを神ながらという。

 神道という言葉が最初に表れるのは、日本書紀の第三十一代用明天皇の項で、「天皇仏法を信(うけ)けたまひ、神道を尊びたまふ」と、仏法と対応させている。

 次が第三十六代孝徳天皇のくだりで、「仏法を尊び、神道を軽(あな)どりたまふ」とある。

 用明天皇神道を尊び、孝徳天皇は軽んじたというのである。日本書紀のすばらしさは、朝廷にとって益にならない出来事でも、平然と記録に残していることである。

 実は、神道という言葉は他には使われておらず、古事記では「本(もとつ)教(おしへ)」や「神(かむ)習(ならい)」、書紀では「神教」「徳教」「大道」などと表現されている。古代、神祭りはわが国の日常の中にあり、ことさらに神道という言葉を使うことはなかった。

   そもそも「しんとう」という読み方自体が中国語読みで、鎌倉期以降に使われるようになった。本来は「もとつおしへ」や「かみのみち」と言い表すべきだろう。

   本教は神代からの神祭りで、現在まで綿々と伝わっているが、長い歴史の中で、さまざまな外(とつ)国(くに)の宗教とかかわりを持ってきた。最初の外来宗教は道教で、次いで入ってきた仏教が、物部氏蘇我氏の争いを招き、世に騒乱を起こした。

   仏教が広く普及したのは、大僧正の称号を朝廷から初めて与えられた行基(ぎょうき)(六六八~七四九年)が、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説を唱えてからだった。インドが本地で、インドの仏が日本では神となって現れたと説いた。

   仏を敬ったら神の怒りに触れるのではないかと恐れていた大衆は、インドでは仏と言い大和では神と言う説に安心し、仏教を信じるようになった。

   これなど三百代言、デマゴーグの典型だが、そういう意味で行基は天才だった。宣伝工作とは恐ろしい力を持っている。

   神祭りは本来、春に豊作を祈り秋に収穫を感謝し、国家や民の繁栄を祈るもので、個人の利益を願うものではない。無私の心で国家安泰と国民の平和を祈る格調高いものである。そこが、個人の救済を目的とする宗教と、神道が根本的に異なるところである。

   仏教はまさしく個人の救済を求める宗教だから、当時の苦悩を持った大衆に急激に広まっていった。大衆が仏教に現世利益を求めたのである。

   こうして奈良時代末に神仏混淆が始まり、明治初めの神仏分離まで長く続いた。そして仏教は、わが国の先祖祭りと融合し、日本で独自の発展をなした。

   しかし、どんなに仏教が普及しても、本教を凌駕することはできず、神の道を己の教義に組み込んでいかざるを得なかった。それが、最澄(七六七~八二二)と空海(七七四~八三五)が唱えた山王(さんのう)一実(いちじつ)神道と両部(りょうぶ)神道である。

   山王は中国では天台山、インドでは霊鷲山(れいしゅうさん)に祭られており、法華経の守り神とされる。これに倣って、最澄比叡山に山王を祭った。

   山王の由来は、最澄比叡山の山に三つの月光を見て不思議に思ったところ、一人の童子が現れ、三つの光は釈迦と薬師と弥陀で、自分の名前であると言って、縦三本に横一本、横三本に縦一本の線を書いて消え去ったところから、山王と名付けたとされている。

   また、空海が唱えた両部神道は、伊勢神宮の内宮と外宮を真言宗金剛界胎蔵界に重ねた神仏習合説の典型で、天照大御神大日如来とすらした。

    山王一実神道両部神道も、我田引水、牽強付会の論としか言いようがないが、日本で仏教を布教するには、本教を取り入れ、融合しなければならなかった。

逆説的にいえば、仏教が本教に呑み込まれていったのである。

 

フ 社家神道の勃興

 

   仏が元で、姿を変えたのが神という、神仏混淆本地垂迹説の仏教中心の考え方に対し、異を唱えたのが一つの神社に代々仕える家柄の社家だった。社家が唱えた神道を社家神道というが、その代表的なものが、伊勢神宮外宮の神官だった渡会(わたらい)氏が唱えた神道論で、伊勢神道とか、度会神道と呼ばれている。

   神宮の祭神は内宮が天照皇大御神、外宮が大御神の食事のお世話をする神饌都(みけつつ)神の豊受(とようけ)大神である。だが外宮神の豊受大神記紀にわずかな伝承しかなく、由緒が明らかでない謎の大神である。そこで、祭神についてさまざまな主張がなされるようになる。

   神宮の神官は、内宮を荒木田氏、外宮を渡会氏が代々継いできた。そして渡会氏は、常に外宮が内宮の風下に立たされるのを厭(いと)い、独自の神道説を唱えた。

 その典型が、外宮の祭神の豊受大神は、日本書紀に最初に現れる国常立(くにとこたち)神だとし、さらには古事記の最初の神、天之御中主あめのみなか(ぬし)神が姿を変えたのだとか、月神であると主張した。日本の神は一柱でいくつもの名前を持っており、外宮の祭神も同体異名で複数の名前があるというのである。

 実は、内宮と外宮には、天照大御神豊受大神だけでなく、相殿(あいどの)神が祭られている。内宮には岩屋戸に隠れた天照大御神を招き出した天之手力男(あめのたぢからを)神と、邇邇藝(ににぎの)尊の母である栲幡千千姫(よろづはたちぢひめ)命が祭られている。

 一方、外宮には「相殿に坐す神三坐」とあるだけで、神名が不明である。この相殿神が神官にさまざまな憶測を呼び、国常立神であるとか、天之御中主神であると主張する原因ともなっている。

 さて、外宮神を月神とする思想は、両部神道書の「中臣祓訓解」に記されている「実相真如の日輪は、生死長夜の闇を明らかにし、本有常住の月輪は、無明煩悩の雲を掃ふ〈日輪は則ち天照皇大神、月輪は則ち豊受皇大神〉。両部不二なり」という記述に影響されている。

 この言葉は、聖武天皇の勅命で、行基が神宮に仏舎利を献じたとき、神殿の中から大声で響いた大神宮の「御託宣」といわれるものである。だが、あまりにも都合のいい神託といわざるを得ず、権威付けるために勝手に作り上げた類だろう。

 さて、伊勢神道の思想の本となったのが、古代から外宮に代々伝えられたという、伊勢両宮の由緒を記した神道五部書で、門外不出とされた。

 

天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第

伊勢二所皇太神宮御鎮座傳記

豊受皇太神御鎮座本紀

造伊勢二所太神宮寶基本紀倭姫命世記

 

 この五部書の奥書には、撰述が奈良朝以前だとか、雄略天皇の勅令によるとか、天孫降臨で道案内をした猿田彦命の子孫の大田命が、五十鈴川皇大神を迎えたなどと記されている。いずれも古代に作られたとするもので、六十歳以上の長老でなければ読んではならない秘伝の書とされた。

 だが、江戸時代の神道学者で熱田神宮の神官だった吉見幸和(よしみゆきかず)(一六七三~一七六一)によって偽書と指弾された。

 これら五部書の成立は古代ではなく、「鎌倉中期、文永・弘安頃であろうということで大方の意見の一致をみている」(伊勢神道の成立と展開 高橋美由紀 ぺりかん社)が、実際には定まった学説はない。しかし、外宮の神官だった度会行忠(ゆきただ)(一二三六~一三〇五)が多くかかわったのではないかという点ではほぼ一致している。

 五部書は吉見幸和らによって偽書とされたが、まったくの捏造ではなく、「散逸してしまった伊勢神宮内部の古伝承を断片的に伝えるものだともいわれている」(神道の逆襲 菅野覚明 講談社現代新書)のが最近の研究である。

 五部書はいずれも神宮の縁起書で、正史にはない外宮神豊受大神の独自の伝承を少なからず伝えていると考えられる。しかし、権威付けるために、古代の撰述としたところに、勇み足があったといえよう。

 伊勢神道神道を本として仏教に対抗してはいるが、逆に大きな影響をも受けてもおり、道教儒教の説も取り入れている。純粋な神道と言うには、外来思想に影響され過ぎているが、仏教全盛期に日本の神々を本とした神道思想を甦らせた功績は大きい。

 伏流水となっていた清流が、国を誤った方向へ導きかねない仏教全盛期に、顕在化したのである。

 伊勢神道が確立できたのは、神宮が古代からの祭祀を純粋に守り、仏教の影響を受けなかったためである。

 神宮は天照大御神を祭る神域であるが故に、厳しく不浄を忌み、仏教に関するものを一切受け付けなかった。仏教にかかわる言葉を口にすることすら嫌い、寺を瓦葺、僧侶を髪長などと呼び習わすほどで、神宮は古来からの伝統を純粋に受け継いでいた。

 天照大御神豊受大神に奉仕するために、古代から祭りを続けてきたからこそ、仏教の攻勢にも惑わされなかったのである。

 世界の歴史をみると、世界宗教の進出によって、地域宗教は淘汰される運命にある。キリスト教イスラム教はもちろんだし、仏教も多くの地域宗教を席巻した。それが世界宗教の影響力である。小さな宗教など、貪欲に呑み込んでしまう。

 にもかかわらず、日本が仏教に蹂躙されることなく、伊勢神道が勃興したのは、世界の宗教史でも珍しい現象である。伝統を守り続けることが、いかに大切かを如実に物語っている。

 神宮が二十年に一度の遷宮を行うのは、建物の改築や装束の新調で昔からの伝統を守るだけでなく、付随するさまざまな儀式をも伝えていく智恵である。

 内宮の少宮司を務めた幡掛正浩(はたかけまさひろ)氏は「私本 式年遷宮の思想」(神社新報社)で、遷宮は「この制度が定められた上世の当時において広く行はれてゐた権威ある知識に根拠があったものと考えられる」と指摘、「元旦と立春が二十年に一度重なる(正確には十九年七ヶ月)という説」を推している。

 つまり、元旦と立春が重なることで、新たな十九年七ヶ月が始まると上代の人々は考えたというのである。約二十年ごとに世の中の「気」が変わり、新しい時代が始まるという再生の思想が、遷宮に伏在していると考えられる。

 さて、伊勢神道神道中心の思想は、南北朝時代吉野朝廷に仕えた北畠親房に大きな影響を与え、「神皇正統記」を生み出した。さらに神皇正統記は、水戸光圀が編纂させた「大日本史」へとつながり、幕末の尊王攘夷運動の思想的背景となった。

 国家動乱時には、このように本つ教=神道がかならず甦る。

 伊勢神道の影響を受け、京都の吉田神社の神官・吉田家によって説かれたのが吉田神道で、卜部神道とか、元本宗源神道唯一神道などとも呼ばれている。

 朝廷の神祇に携わるのは、神祇伯の白川家、次に中臣家、斎部家、卜部家で、神祇の四姓と呼んだ。

 白川家は第六十五代花山天皇の皇子清仁(すみひと)親王から始まった家柄で、第七十代後冷泉天皇の寛徳三年(永承元年=一〇四六年)に親王の王子延信(のぶざね)王が神祇伯に任じられ、世襲神祇伯として皇室に仕えた。神祇伯は中臣、忌部、橘などの氏族が任じられていたが、この時から白川伯王家世襲となった。

 卜部家は占いである亀卜を司り、神祇四姓の中で最も低い家柄だったが、後に京都の吉田神社の神官になって吉田神道を唱えてからは、神祇伯の白川家をも凌駕する勢力を持つようになった。

 吉田神道が勢力を得たのは、吉田兼倶(かねとも)(一四三五~一五一一)が応仁の乱(一四六七~七七)後の世の乱れに乗じて、公卿や幕府に取り入り、自ら神祇管領長上と名乗って、政治的に自説を広めたからだった。

 吉田神社はそもそも藤原氏氏神である春日大社の分霊を祭っていた。吉田兼倶はある夜、「伊勢神宮の神霊が吉田山に飛び移った」と宣言し、境内に日本最上神祇斎場を創設し、内宮、外宮だけでなく、延喜式内社の三千百三十二座の神々をすべて祭った。

 この当時、飛び神明といって、全国で光る神が飛んだと盛んにうわさされていたから、それに便乗したのにほかならない。

 吉田兼倶は延徳元年(一四八九)、光る霊物=神器が吉田山に降臨したと天皇に密奏した。「神器が伊勢神宮の神体との触れこみで叡覧に供されたことを窺わせる」(神道思想史研究 高橋美由紀 ぺりかん社)もので、天皇が「この神器なるものが伊勢神宮の神体に相違なしと認める」(同)宣旨を下し、延徳密奏事件といわれた。

 もちろん邪説、妄説だと非難されたが、兼倶は政治力で押し切り、神道の総本山だと主張した。

 自分が創設した宗教が最高だと他を非難し、勢力を拡大する新興宗教と、どこやら似ているのではないだろうか。ひいき目にみても兼倶の主張は強引過ぎるが、それでも儒教や仏教が全盛時代に、神道をすべての根本とする神道説を確立した功績は大きい。

 吉田兼倶が朝廷に大きな影響力を行使できたのは、一族の出身者が円融天皇の女御となって皇子を生み、一条天皇となったからだった。「一条天皇が即位した寛和二(九八六)年には、国家が祭る神社に位置づけられ、翌年からは国費での祭礼が行われるようになった」(吉田神道の四百年 井上智勝 講談社選書メチエ)ほどである。

 江戸時代になると幕府の神社政策もあって、吉田家は神職免許を授与するようになり、明治まで続いた。

 吉田神道の流れを受け、将軍綱吉の時代に公儀神道方に任じられた吉川惟足(これたり)(一六一六~九五)は、朱子学や武士道精神を加えた神道説を提唱し、幕府や諸大名に普及した。吉川神道とか理学神道と呼ばれている。

 他にも赤穂浪士の吉良邸討ち入りで打ち鳴らされた、山鹿流陣太鼓で有名な兵学者で儒者山鹿素行は、天皇を仰ぎ、君臣の別を明らかにするところに神道の根本があると、独自の神道説を唱えた。

 吉川神道吉田神道を学んで垂加(すいか)神道を確立したのが、門弟六千人を誇ったという儒学者山崎闇斎(あんさい)(一六一八~八二)だった。垂加という名前は、吉川惟足神道五部書倭姫命世記」の「神垂(しんすい)は祈祷を以て先とし、冥加(みょうが)は正直を以て本とす」の「垂」と「加」から取って、山崎闇斎垂加儒者という号を授けたことに由来する。

山崎闇斎」(澤井啓一 ミネルヴァ書房)や「今泉定助(いまいずみさだすけ)先生研究全集」(日本大学今泉研究所刊)によれば、闇斎はある時、大勢の弟子を前に「今若(も)し支那の国が孔子を大将とし、孟子を副将として、数万の兵を率ゐて、我が国を攻めて来たならば、孔孟の道を学んでゐる者として如何に処すべきか」と問うたところ、誰一人として答えるものがなかった。そこで闇斎は「若しそのやうなことがあったならば、身に甲冑を帯び武器を手にとってこれと一戦し、孔孟を生捕にして、国難に報ずべきである。これが真の孔孟の道である」と教えたという。

気迫の大切さは昔も今も変わらないと、現代の為政者は肝に銘じるべきである。