中韓ODAの闇 1
「打ち出の小槌にされた日本」
戦争に負けるということは悲劇である。戦った世代だけでなく、後世にも戦争賠償などで重い負担となる。戦争はよほどのことがない限りやるべきないが、やるからには負けてはならない。
わが国は大東亜戦争で負け、GHQ(連合国軍総司令部)に国土を占領され、さらには戦犯を一方的に裁く違法な東京裁判を押し付けられ、さまざまな分野で自虐史観を植え付けられた。
幸いだったのは、後世の負担となる巨額な戦争賠償を、一部を除いて連合国が放棄したことである。
ドイツが第一次世界大戦の敗北で巨額な戦争賠償を科せられ、それに反発したドイツ国民がナチスを支持し、再び第二次世界大戦という壊滅的な戦争を引き起こした反省から、主要国が戦争賠償を放棄したのである。
ドイツの場合、戦争相手国への賠償は支払っておらず、今でも続いている賠償はナチスによって虐殺されたユダヤ人に対してである。
わが国の場合はドイツとは異なる。連合国55か国のうち、サンフランシスコ講和条約の締結で47か国が賠償請求を放棄し、放棄しなかったフィリッピン、ベトナムには賠償金を支払った。講和しなかった国々も2国間講和を結び、インドネシア、ビルマには賠償した。インドは個別平和条約で賠償請求権を放棄した。
これらの賠償は、敗戦後の貧しい国民生活の中、乏しい国家予算をやり繰りして支払われたことを忘れてはならない。
戦争賠償については講和条約によって完全に解決されたが、問題は戦勝国ではない中華人民共和国(中共)や、戦争当時は日本国だった大韓民国(韓国)が、戦争賠償とは異なる名称で多額の戦後補償を受けたことである。
日本の戦争相手国は蒋介石が率いる中華民国であり、大東亜戦争後の1949年に建国宣言を行った毛沢東の中共ではない。中華民国から中共に政権が移ったのは、支那国家の内政問題であり、国家としての条約は引き継がれるものである。
蒋介石の国民党政府は、支那を代表する政府はどこかという大国間の思惑で、サンフランシスコ講和条約には参加できなかったが、大陸国家を代表する立場で日本と二国間講和を結び、米国の圧力もあって戦争賠償を放棄した。「以徳報怨」で蒋介石が積極的に賠償請求放棄したとされているが、最後まで要求していたのは外務省の記録から明確である。
内戦によって大陸の実権を握った中共は、当然だが国際条約としての日華条約を継続しなければならない。公式にではないが周恩来総理が、田中総理訪中の前に「台湾の蒋介石はすでにわれわれより先に賠償を放棄した。共産党の度量は、蒋介石より広くなければならない」と発言し、戦争賠償を放棄している。
さらに、昭和47年(1972年)の日中共同声明、昭和53年(1978年)の日中平和友好条約で「戦後処理」がなされ、請求権などについて共同声明で「中華人民共和国は、日中人民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明記されている。
また、日本国の一員だった韓国は、サンフランシスコ講和条約への参加を求めたが、戦争相手国でないばかりか、日本国として連合国と戦ったのだから、当然ながら認められることはなかった。
中共へも韓国へも、日本は戦争賠償を支払っていないが、韓国には戦後補償とODA(政府開発援助)、中共にはODAとして巨額の資金援助を行った。両国とも戦争賠償ではないが、それに代わるものと認識しているから、ありがたみを感じるどころか、さらに日本から資金を引き出そうと、あの手この手で要求してくる。
中共に対しては日本の国内世論の反発を受け、ODAの主力だった円借款は終了し、無償資金協力もNGOなどの草の根協力に制限され、技術協力もわが国に関係する環境や人道にかかわるものだけに絞られている。
その後、中共へのすべての援助は打ち切られた。遅きに失した感がある。
だが、これまでの有償、無償、技術協力は中共の経済力を大きく発展させ、結果的に軍備拡大、拡張主義に協力してしまった。
中共と韓国に、日本がいかに巨額の援助をしてきたか、明確にしよう。
「賠償について」
サンフランシスコ平和条約による戦後処理は、フィリッピンに5億5000万ドル、ベトナムに3900万ドルの賠償を行い、ほかの条約当事国は日本への賠償請求権を放棄した。
条約締結国ではないビルマとインドネシアは2国間条協定でビルマ2億ドル、インドネシア2億2300万ドルを賠償した。
いずれも1ドル=360円換算で、総額は約10億1200万ドル、円換算では約3643億5000万円だった。
ほかにも日本が占領していた地域の国々、ラオス、カンボジア、シンガポールなどの8か国に対し、合計約606億円の賠償がなされている。
日本は戦後処理として誠実に、きめ細かく賠償をしている。中韓に賠償不足と非難されるいわれはない。
「在外資産放棄」
賠償請求の放棄に伴い、日本は条約当事国に「日本の在外資産の処分権」、すなわち没収を認めた。在外資産の総額は外務省の調査によると、1945年8月現在で3794億9900万円にも達するとみられている。
これらはすべてサンフランシスコ平和条約14条により、当該国に没収された。賠償金額を少なくして敗戦国の負担と反発を少なくし、できる限り在外資産の没収で賠償を賄おうとする方針からだった。
また、日本国内にある軍需工場の機械などを連合国に移転、譲渡することを中間賠償というが、軍需工場にあった4万台を超える機械類約1億6500万円分が中華民国、フィリッピンなどに引き渡されている。機械類を没収することで、日本の再軍備を抑える意味合いもあった。
日本は敗戦前、満州や朝鮮半島、支那大陸に官民ともに進出していたから、巨額の在外資産があった。
これらは対象国がサンフランシスコ平和条約を締結していないので、日本が在外資産の返還を求めることはできた。しかし、GHQの圧力や相手国の国民感情などに配慮し、わが国は返還請求を断念した。
ちなみに戦争賠償を放棄した中華民国も在外資産での賠償は受けている。蒋介石政権が賠償を完全放棄したわけではない。
外務省の調査では、1945年8月時点で以下の在外資産があった。
朝鮮 |
702億5600万円 |
|
台湾(中華民国) |
425億4200万円 |
|
中国 |
東北 |
1465億3200万円 |
554億3700万円 |
||
華中・華南 |
367億1800万円 |
|
その他の地域(樺太、南洋、 |
280億1400万円 |
|
合計 |
3794億9900万円 |
総合卸売物価指数で比較すると、現在価格は約200倍となるから、70兆円を大きく上回る。
在外資産の調査はほかにもGHQや日銀、大蔵省(当時)が行っており、調査対象の違いから数値はまちまちだが、巨額であることは間違いない。
本来は支那歴代王朝の勢力範囲ではない満州をも含め、中共は日本国保有の在外資産、2386億8700万円を居ながらにして手に入れた。物価比較200倍として40兆円を上回る巨額な資産である。
日本軍とまともに戦わずして得た資産は、中共にとってこの上ないご馳走だったに違いない。
「膨大な韓国支援」
一方、韓国には在外資産の日本の放棄のほか、1965年の日韓基本条約と請求権・経済協力協定の締結で、無償3億ドル=1080億円、有償2億ドル=720億円の経済援助がなされた。
さらに民間借款が3億ドル=1080億円なされたから、経済援助は8億ドルにも達する。
これに在韓資産の700億円強、現在価格200倍の14兆円の放棄が加わるのだから、天文学的な数字といってよい。
8億ドルという金額は韓国の当時の国家予算の2.3倍で、韓国が日本の戦後補償でいかに潤ったかを物語っている。漢江の奇跡といわれた韓国の経済発展は、ひとえに日本の戦後補償がもたらしたものだった。
この協定には、一切の請求権に関する戦後処理は、「完全かつ最終的に解決された」と明記されている。
いまだに韓国が要求する架空の「従軍慰安婦や徴用工強制」の戦後補償は、仮にあったとしても、完全に解決済みなのは言うまでもない。
ちなみに、GHQの調査では、昭和20年8月15日現在で朝鮮半島に残された日本の在外資産は、全体で891億円、韓国429億円、北朝鮮462億円だった。
現在価格では朝鮮半島全体で17兆8200億円、韓国8兆5800億円、北朝鮮9兆2400億円という巨額になる。さらに個人資産が約5兆円残されたから、22兆円近い資産が半島全体で没収されたことになる。
1949年3月に韓国政府が米国務省に提出した「対日賠償請求調書」によると、金や美術品など現物返還要求をしているものを除き、要求総額は314億円(1ドル=15円)で、現在価格換算6兆2800億円だった。
韓国内の日本の在外資産8兆5800億円から引くと2兆3000億円で、日本がもし残した在外資産の返還を求めると、韓国は2兆3000億円を支払わなければならなくなる。
北朝鮮にしても同様で、もし2国間で平和条約を結び、戦後処理がなされることになっても、北朝鮮に残した在外資産の方が賠償請求額より大きくなるのは確実のため、北朝鮮の賠償請求の放棄、ODAなどの2国間の経済援助という形になるだろう。
韓国は日本の在韓資産の活用、戦後処理としての無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルの支援で、漢江の奇跡といわれる経済発展をなした。
だが、歴代韓国政府は、ドイツがユダヤ人の被害者個人に賠償しているように、被害を受けた韓国国民に渡すべき戦後補償を、黙って国家運営やインフラ整備に使い、国民には事実を伝えないできた。
それが反日教育とともに、日本への敵対心を煽っている。
だが現実には、韓国の重要インフラは日本のODAや民間借款によって形成されている。
韓国の首都・ソウルの地下鉄は、日本による円借款や技術指導、鉄道要員の研修で、5号線まで拡張した。1972年に272億円、1990年に720億円のODAによる低利かつ長期償還の優遇資金援助がなされている。
また、ソウル市や他都市の上下水道、各都市を結ぶ高速道路、各地河川のダム建設、通信施設、医療や農業分野でも多額の資金援助を行った。
民間部門でも1973年竣工の浦項総合製鉄は、新日本製鉄からの借款と技術提供を受けて建設された。現代自動車は三菱自動車の技術指導で設立されたし、造船技術も提供している。
日本の金融機関から融資を受けた韓国企業は、主だったものでも韓国ガラス、韓国アルミ工業、韓国ベアリング、大韓造船、連合鉄鋼工業、韓国肥料、双龍セメントなど数多い。
さらに、1997年の通貨危機に伴う韓国政府の財政破綻の危機には、先進各国が救済の必要性を認めなかったのに、韓国ウォンを日本が保証し、IMF(国際通貨基金)と協力して100億ドルの金融支援を行った。
感謝されこそすれ、そしられるいわれはない。一部の親北勢力が反日活動で猛威を振るい、国民を扇動して日韓関係を深刻化させているのは、国民に援助事実を知らせないできた歴代韓国政府にも責任がある。(続く)