永遠なる魂 第三章 石炭 1

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  ドアがガチャリと開き、将校と兵士が入ってきて銃を突きつけ、浅井に目隠しした。

 殺される!

「俺は外交官だぞ!」

 恐怖が沸騰し、浅井は将校に向かってドイツ語で叫んだ。

「外交官を死刑にしたら、おまえらは重大な処分を受けるぞ」

 ドイツ語が通じるはずはないとわかっていても、心が暗黒の闇に埋没しそうなのを食い止めるには、大声でわめきたてるしかなく、無意味と知りながら浅井は続けざまに叫んだ。

 将校が大声で何やら怒鳴った。騒ぐのをやめさせようとしたのかもしれなかったが、死刑を執行されるとなるとそんな思惑など構っていられず、浅井は上着のポケットからパスポートを取り出し、ディプロマと赤い大きな文字で記されている場所を開いて突きつけた。

 将校が沈黙し、パスポートをひったくり、兵士をつれて部屋から出ていった。

 ディプロマは外交官のことで、浅井は日米開戦の前に満州重工業開発に入社し、パスポートは外交官用のものが発行されていた。日産コンツェルンが発展改組し、国策会社になっていたから、ドイツでの浅井の身分は外交官扱いだった。

 パスポートを渡したのが効果があったのかなかったのか、ドアは閉じたまま二時間ばかり経過した。外交官のパスポートは無力だったのか、死刑は避けられないのかと諦めかけたころ、ドアが突然開き三人の兵士が入ってきた。

 これまでかと浅井は体が凍ったが、兵士たちはそれを無視して木箱を独房に運び込み、中へ入れと身振りで命令した。

 こんな箱では窒息するのではないかと怯えたが、小さな風穴が空けてあった。

 浅井が入った箱は乱暴に車に積まれ、二時間ばかり走ったと思ったら運び下ろされ、さらに違う場所へ積み込まれた。どうやら飛行機に乗せられたらしく、激しい揺れがしばらく続き、着地のショックがあった後、箱は再び移し変えられて小刻みに揺れはじめた。

 ドレスデンの監獄から運び出されてどれだけの時間がたったのか、真っ暗闇の箱の中に閉じ込められた浅井には見当もつかない。あまりの窮屈さに手足が痺れて痛んだが、身動きならないとあってはひたすら耐えるしかなかった。

 時間の感覚は失われ、どこへ連れていかれ何をされるのかもわからず、車が目的地に到着したら処刑されるのか、それとも助かるのかと心は千々に乱れ、エリカや子供たちの顔が浮かび上がっては消え、消えては再び浮かび上がる。自分はとっくに殺され、魂だけが家族を求めてさまよっているのではないかとも疑われ、その証拠に肉体は一切の感覚さえなくなったと思ったりする。

 だが生きている証拠に、腕を動かせば強張った筋肉が痛み、渇きと飢えが耐えがたい。車が止まれば殺されるかもしれないのに、どんな時でも食欲はなくならないものだと、浅井は体の正直な反応に呆れた。

 車がぶるっと震えて止まった。目的地に着いたらしい。吉と出るか凶と出るか、皆目見当がつかないが、狭い箱から解放されるだけでもありがたい。

 地面に箱が下ろされ、次に蓋が乱暴に開けられた。痺れた手足を励まし箱から出ると、暗がりに慣れた目には眩し過ぎる太陽が輝いていた。大きな監獄の中庭のようで、浅井の周りを取り巻いた制服姿の男たちの雰囲気に、いつか写真で見たことがある、モスクワのゲー・ペー・ウー本部らしいと直観した。

 浅井は兵士三人に囲まれ、正面に聳え立つ濃緑色の建物の地下室に連れ込まれた。浅井が入れられたのは窓一つなく、小さな電灯がついているだけの薄暗い部屋で、兵士たちは格子の鉄扉を閉め、さらに分厚い鋼鉄の扉を閉ざした。

 一人にされた浅井は、これからどうなるのか不安になった。ドレスデンの監獄から連れ出されたところをみると、死刑にはされないらしいが、一生をこの密室に監禁されるのかもしれない。故国や家族のだれ一人知る者がないまま、ここで朽ち果てるのかと恐れ、不安でじっとしていられない。

 だが、どれだけ叫んでも鋼鉄の扉から声は外へ聞こえそうになく、かといって次に来る運命を静かに待つほどの胆もない。浅井は部屋の中を意味もなくうろついた。やがて歩くのにも疲れ、部屋の隅に置かれた木製の椅子に腰を下ろした。木箱に閉じ込められてからの疲労が一気に押し寄せ、浅井はいつのまにか眠りに誘い込まれていった。

 夢の中でドアが開いたような気がして浅井は目を開いた。ドアの外から士官風の軍人が出てこいと手招きしている。処刑されるのかと身構えたが、士官からそんな素振りはうかがえず、浅井は指示されるまま男の後について足を踏み出した。

 エレベーターに乗せられ、何階かわからないが上階のフロアへつれていかれ、厚い絨毯が敷かれた広い部屋に案内された。太陽が注ぐ窓際に立派な執務机が置かれ、部屋の中央に大きな丸テーブルがあり、ベルリンで遭遇した兵士や将校たちとは比較にならないほど風采のいい将校が五人座っていた。

「ドイツであなたがしていたことを話してください」

 テーブルの前に立った浅井に、一人の将校が流暢なドイツ語で話しかけてきた。また軍事裁判かと絶望しかけたが、ドイツ語が通じるなら言い分が通るかもしれない。浅井はこの時とばかりドイツに滞在していた理由を説明した。

 五人の将校はしきりにうなずき、時々、肩をすくめた。言葉が通じないまま軍事裁判にかけられ、ドレスデンの監獄に連行されたと話したところで、五人の中で最も階級が上らしい、口髭を蓄えた将校が口を開いた。

「あなたを勾留したのは大変な間違いでした。まことにお気の毒で、謝罪します。後ほど日本大使館へお連れしますが、食事をしてゆっくり休んでください」

 事の成り行きを浅井は信じられなかった。だが、スパイの疑いは晴れたらしく、急に空腹が募ってきた。

 将校用の食堂へ連れていかれ、ボルシチと固いステーキにパンの食事をあてがわれ、苦いだけのコーヒーを啜っていた浅井を、将校が迎えに来た。指示されるまま軍の車に乗り込み、着いたのは日本大使館だった。将校は浅井を大使館員に引き渡し、何事か説明して戻っていった。

「こちらへどうぞ」

 痩せ型の大使館員から話しかけられ、二度と生きて日本語を聞くこともできないと諦めていた浅井は、懐かしさのあまり涙を滲ませた。

 案内されたのは客用らしい小奇麗な洋間で、椅子に座るよう促された。案内した大使館員は部屋から出ていくとお茶を運んできた。まさかと思ったが日本茶で、学生時代は飲みもしなかったのに、渋い味に故国の香りを嗅ぎ、全身から緊張が解けていった。

「大使が戻るまでお待ちください」

 大使館員が去り、浅井は一人で放置された。大使はなかなか戻って来ず手持ち無沙汰だったが、日本大使館に入った以上は命を奪われる心配はなく、退屈よりも喜びが勝った。

 どれだけ待っただろうか、ぼんやり部屋を見回していると、紺のスーツを着た年配の紳士が部屋に入ってきた。どうやら大使のようで、浅井に微笑みを投げかけてきた。

「大使の佐藤ですが、どういう経緯でここへ?」

 小柄で髪の半ばが白い大使は浅井の正面に座り、安心させようとするのか穏やかな笑みを浮かべた。

 簡単に説明した浅井に大使は目をみはり、ドイツへ渡った目的や就いていた仕事、さらには日本の家族のことを話すよう求めた。

 浅井は石炭研究に携わった経緯を話した。大使は真剣な光を目にたたえ、静かに聞いていたが、説明が終わると長い息を吐き出した。

「ゲー・ペー・ウーの地下室から出られた人は、あなたが最初で最後でしょう。とにかく無事で良かった。ドイツでソ連軍に捕まった人たちが、何人も大使館へ送り届けられてきて、シベリア鉄道で帰国の途に着いています。今夜はゆっくり休み、準備が出来次第、あなたも帰国してください」

「日本へ帰れるのですか」

「シベリア経由だから時間はかかりますがね。疲れているでしょうから、今夜は官邸に泊まって英気を養ってください」

 地獄に仏とはこのことで、命拾いした上に帰国できるとは、何と幸運かと浅井は目を輝かせた。

 久しぶりに風呂に入り、日本食の夕食を御馳走になり、広い寝室で柔らかいベッドにもぐり込んだ。捕らわれの身で地下室を転々とし、コンクリートの床に横になっていたから、ベッドとは夢のようで、疲れですぐにも眠りに落ちるかと思ったが、頭は冴えていくばかりだった。

 ベルリンを脱出しようとしてからの運命の激変は、神ならぬ身では予期すらできず、いたずらに翻弄され続け、やっと平穏な世界にたどり着いたが、そうなると心の奥底に押し込めていた欲求が噴出し身を激しく焦す。

 エリカや子供たちに会いたい。疎開先は英米軍が攻め込んで戦場となったはずである。無事だろうか。生きているなら家族と一緒に帰国したい。

 身を焼く思いでベッドに横になっていられず、起きて部屋を歩き回るが噴き出した激情は静まらず、空が白々と明けるまで一睡もできなかった。

 大使の執務時間が始まるのを待ち、浅井は執務室を訪れた。

「よく眠られましたか」

 大使が聞いたが、温情に礼を言う余裕もなく、浅井は直立不動で佐藤と向かい合った。

「ドイツに残した妻子が心配でなりません。私はソ連から無罪放免されたのですから、もう捕らえられる恐れはありません。妻子の生死を確かめるため、巡礼になってドイツへ戻りたいと思います」

「それは無理です。たとえ巡礼姿になっても目的地へ到達するのは不可能です」

「ですが、自分だけこうして助かり、妻子を危険な場所に放っておくことはできません。行かせてください」

「あなたは石炭についての貴重な研究をされた。今は危険に向かうより、帰国してお国のために働いていただかなければならない」

 大使の言葉は理に適っていたが、苦境にある妻子を放置し、自分だけ安全に故国に帰るなど思いもよらない。行く手に死が待っているかもしれないが、浅井はおのれに妥協を許さなかった。

「しかし、ドイツが戦争に破れ、妻子がどれだけ心細がっているかわかりません。私が迎えに行くのを待っているんです」

「ドイツにおられたのなら、戦争で日本が苦境に立たされているのはご存知のはずだ。だからこそ、あなたのように石炭の専門知識を持った人が必要です。早く帰国してお国のために尽くしていただかなければ困る」

「占領されたドイツに妻子を残して帰ることなどできません。巡礼なら危険も少ないはずです」

 強情に言い張る浅井に、大使は困惑した面持ちになったが、激昂することなく穏やかな声でなだめた。

「あなたは生死の境に置かれ続け、神経が高ぶっているようです。赤い目から察し、昨夜は眠られなかったようだし、一度、部屋へ戻って休んでから出直してください」

 そうまで言われては無理に言い募ることはできず、浅井は渋々部屋に戻った。だが、妻子を迎えに行きたいという欲求は強まるばかりで、すぐさま大使の執務室へ戻りたくなったが、休息しろと命令されていてはそれもかなわず、浅井は一時間ばかり部屋の中をうろつき回った。

 時間がたてばたつほど妻子への思いは募り、何が何でも大使を説得し、認められなければ独力でドイツへ向かおうと悲壮な決意を固め、再度、大使室へ赴いた。

 大使は浅井の顔を見るなり立ち上がり、何通かの電報の写しを持って近づいてきた。

「あなたの気持ちは痛いほどわかりました。スイス、スウェーデンノルウェーデンマークの元首宛に、あなたの家族の救出と保護を依頼しました。私は長く大使を務めていますが、一私事で他国の元首にお願いの電報を打ったのは初めてです」

 浅井は我が耳を疑い、大使の好意に頭を下げることしかできなかった。

「そこまでしていただけるとは思いもしませんでした。一刻も早く帰国し、日本のために死力を尽くします」

 深々と頭を下げた浅井は、顔を上げた時、佐藤が泣いているのを見た。妻子を残して帰国しなければならない心情を思いやってか、それとも祖国のために死力を尽くそうという決意にうたれたのか、浅井にはわからなかったが、佐藤の姿に鼻の奥が熱くなり、奥歯を噛みしめ涙を懸命にこらえた。

 妻子を残して帰国するのに後ろ髪を引かれたが、佐藤大使の厚情を無にすることはできず、浅井は大使館員の手配でシベリア鉄道に乗った。

 シベリア鉄道はウラルのスベルドロフスクと日本海北岸のウラジオストクを結ぶ、全長七千四百キロメートルの長距離鉄道で、這うようにのろのろ走り、途中で何度も止まるので、ハバロフスクに着くのに一か月近くもかかった。

 ハバロフスクから満鉄で南下し、満州国の首都・新京に到着した時は七月に入っていた。新京はさすが首都らしく治安が保たれ、敗戦でソ連軍に蹂躪されたベルリンに比べると平和そのものだった。浅井は到着した足で満州重工業を訪れた。

 受付で鮎川義介総裁に面会を求めた浅井を、国民服姿の社員が胡散臭そうに目を細めた。モスクワの日本大使館で着替えの衣服を支給されていたが、長い列車の旅でよれよれになり、浮浪者同然の姿だったから、社員が不審人物と考えたのも無理はなかった。

 応対した社員と押し問答し、とにかく総裁秘書に連絡を取ってもらうよう頼んだ。鮎川に会って庇護を願い出る気持ちなど毛頭なく、ドイツ降伏でベルリンがソ連軍にいかに踏みにじられたかを、日本政府に伝えなければという思いでいっぱいだった。

 日本の戦況ははかばかしくなく、いずれ負けるのは目に見えている。もし徹底抗戦して本土決戦となれば、首都・東京は言うに及ばず、日本全土が英米軍に蹂躪され、国民は惨殺される。そうなる前に、我が身で体験したドイツの状況を政府要人に伝え、戦争を終わらせなければならない。

 だが、一介の民間人でそれも若造が、何をどう叫ぼうと政府が耳を貸すはずがなく、鮎川を動かし政府要人に戦争終結を進言しなければならないと思い詰めていた。

 鮎川は幸いにも在室で、浅井の名前を聞くとすぐ総裁室へ呼び入れてくれた。

「敗戦したドイツは生き地獄になっています。日本を同じ状況にしてはなりません」

 浅井は挨拶もそこそこに、生死の境をさまよったドイツの状況を報告し、戦争を終えるよう政府への進言を求めた。小柄な鮎川は浅井の話を最後まで聞き、身を持って経験した本人が政府に直言するのが最も有効だと判断し、帰国するよう促した。

 鮎川に関東軍参謀長の東条英樹、国務院総務長官の星野直樹、産業部次長の岸信介、満鉄総裁の松岡洋右は、実質的に満州国を動かす実力者で、二キ三スケと呼ばれた重鎮だった。

 鮎川総裁の威光は関東軍にも通じ、浅井が軍用機で帰国できるよう取り計らってくれた。羽田空港を目指して新京の飛行場を飛び立ったのは七月二十六日、日本海の上空に差しかかった時だった。

「くそっ!」

 パイロットが叫んだ。前方から米軍のグラマンが二機、浅井が乗った軍用機に襲いかかろうとしていた。

 パイロットはすぐさま機首を上げ、上方の厚い雲の中へ軍用機を突入させた。視界が失われ激しい振動が襲ってきて、あまりの揺れに飛行機が空中分解するのではと恐れた。雲から出れば哨戒しているグラマンに発見され、再び雲に隠れるという繰り返しで、生きた心地もしない。

 それでもパイロットの機転でグラマンを振り切り、まさに命からがら、九死に一生を得た思いで羽田空港に到着した。

 飛行機から降り立ち、十数年ぶりの東京に懐かしさがこみ上げてきたが、そんな感傷に浸っているどころではない。渡欧前に住んでいた牛込市ヶ谷に母親と弟夫婦がいるはずで、電車はいつ動くかわからぬとあって徒歩で向かったが、歩く先は一面の焼け野原。人の姿はほとんどない。

 歩いているうちに日が落ち、暗闇の焼け野原では方向も定まらず、しかたなく新京を出るとき渡された麦の握り飯で飢えをしのぎ野宿した。

 もう日本は敗戦したも同然だ。降伏したドイツより状況はひどい。このまま空襲が続けば日本全土が焦土と化し、罪もない大勢の国民が死んでいく。一刻も早く戦争を終結させ、平和を取り戻さなければならない。浅井は改めて決意した。

 翌朝は日の出とともに歩きはじめ、昼頃になって市ヶ谷に着いたが、町は跡形もなく消え、家の跡には庭に聳えていた大銀杏の木が、焼けぼっくいになっていた。家族の安否を尋ねようにも周りに家はなく、人もいないとあっては途方に暮れるしかないが、きっと戦火から逃れてどこかに疎開しているに違いないと思い直した。

 散々捜し回ったあげく、帰国して三日目に、市ヶ谷からさほど遠くない親戚に疎開していた弟をやっと見つけ、再会を喜びあったが母親の姿はなかった。

「お母さんは?」

「心配ない。郷里の親戚へ疎開させた」

 母が健在なことに浅井はほっとした。

 妻子の生死が不明のまま帰国してみれば、家族は離散、弟一家が住んでいるのは親戚の家の薄汚い納屋とあっては意気消沈するところだが、浅井は絶望しなかった。

 親戚に頼み込み、とりあえず弟のところに身を寄せ、ドイツの状況を政府に伝えるべく、翌日から浅井は接触を始めた。鮎川の紹介状を持っていたが、政府要人は会ってくれず、早くベルリンの惨劇を報告しなければと気は焦るが、伝えるべき手立てはない。

 浅井は連日、わずかなつてを頼って政府への進言を試みたが、引き返すことができない戦況とあっては、いまさらドイツ降伏の状況を聞いても意味がないとでもいうのか、たまに会えてもだれ一人として話を聞こうとしない。

 日本が実質的に戦争に負けたのは明らかで、本土決戦となればベルリンの惨劇を上回るに違いなく、それは絶対に避けねばならないと血を吐く思いだが、何の肩書もない三十代半ばの人間に打つ手はなかった。

 だが浅井は気を落とさなかった。疎開先での食事は三度できれば文句なく、たいていは朝晩の二度で、それも粟や稗ばかり、衣服も乞食同然のぼろだったが、いささかも苦にならなかった。

 戦争で負けたとしても、国の復興のためにできることがかならずある。何かはまだわからないが、敗戦から立ち直る素晴らしい仕事がきっと見つかるに違いない。今は雌伏していても、いずれ輝かしい未来が開けると信じ、浅井はそれに命を懸けるのだと自分に言い聞かせた。

 八月五日の暑い日の昼下がり、政府要人へのつてを探しに出た浅井は、行く先々で面会を断られ、仕方なく母校の東大を訪れた。銀杏並木は戦争の悲惨さなどどこ吹く風で、見事な枝を広げ、安田講堂に向かって青葉のトンネルを作っていた。並木道を進みながら、浅井は二十年前に胸を希望に膨らませ、同じように青葉のトンネルを、学生服を来た友人たちとそぞろ歩いたのを思い出した。

 だが、浅井の目に入ってくるのは、よれよれの汚れた国民服を着た、栄養不足で青白い顔の元気のない学生たちばかりだった。人生の目的を失い、ただ生きているだけという無気力な姿に、これが母校の後輩かと浅井は腹立たしくなった。

 浅井は体の底から噴き上げてきた悲憤に身をゆだねた。

「諸君! 集まりたまえ」

 居合わせた十数人の東大生を前に、浅井は大声を張り上げた。何事かと顔を向けた学生たちに、浅井は腹の奥底からほとばしり出る熱情をぶつけた。

「もう戦いは終わった。日本は破れたのである」

「非国民」

「バカヤロウ」

 学生たちが目を剥き猛然と野次を浴びせてきたが、浅井は構わず演説を続けた。

「だが、破れた日本にいる君たち若い諸君は、今からでもなすべき仕事がある。国の復興のために、若い力が必要とされているのである」

 野次は止まらず、学生たちは白い目で浅井を睨み付け、背を向けて歩き去った。学生たちは戦争の勝利を確信し、敗戦を口にするのさえ汚らわしいと思っているようで、浅井に投げかけられた非国民という言葉が、彼らの心理を明快に表していた。

 考えてみればずいぶん無茶な演説をしたもので、憲兵がいたら即刻逮捕されたに違いなかったが、浅井はそれでもいいと思った。

 この国を滅亡から救うには、青年の熱情が不可欠である。濃厚な敗色に意気消沈している学生たちの熱意を呼び起こし、国土再建に立ち上がらせなければならない。そのために捕らわれの身になろうと、いつかきっと日は照り輝く。