永遠なる魂 第二章 ベルリン 3

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 どれだけ気を失っていただろうか。気がつくと見知らぬベッドに横たわっていた。起き上がろうとして右の太股に激痛が走り、助けを求めるように周りに目を走らせた浅井に、白衣の看護婦が駆け寄ってきた。

「動いてはいけません。すぐ先生が来ます」

 浅井はうなずいたが、何がどうなっているのかさっぱりわからず、怪我をして病院へ運ばれたらしいことだけは理解できた。

 ほどなく長身の医師が大股で部屋に入ってきて、ベッドの脇に立ち浅井を見下ろした。

「ここは陸軍病院です。大腿骨を折っているので手術しなければなりません」

「一緒だった少女は?」

「奇跡的に怪我がなかったそうです」

「どうしてここへ?」

「軍の退役した将軍から連絡が入り、衛生兵が運び込みました」

「将軍?」

「詳しいことはわかりませんが、あなたが四階から飛び下り気絶したところを見ていて、軍に連絡したようです」

 根掘り葉掘り聞いても、医師は言葉通り詳しいことを知らないらしかった。

 医師の説明では、飛び下りた時の衝撃で右の大腿骨が折れたので、ステンレス鋼のかすがいを入れて固定するということだった。どうやら大手術のようで、一つ間違えば歩けなくなるかもしれないという不安があったが、浅井には成す術もなく、医師にすべてを任すしかなかった。

 衛生司令部に連絡してくれた将軍にはどれだけ感謝しても足りないが、医師に問いただしてもそれがだれなのか知らないようで、お礼の言いようがない。礼を失するのは浅井の本意ではないが、動けぬ身としては胸のうちで感謝するしかなかった。

 手術は予想通り大手術だったようで、折れた骨が完全に接着するまで二カ月はかかり、治るまで入院するよう医師に言い渡された。石炭の研究が頓挫してしまうが、立って歩けない身ではベッドに寝ているしか方法はなく、このまま退院しても、空襲されれば逃げる手だてはなく、医師の指示に従うしかなかった。

 病院も決して安全ではなく、英米軍の爆撃機が襲いかかってきた。病院と知ってか知らずでか空襲は執拗で、避難しようにも歩けないとあっては、ベッドに寝たまま爆撃が終わるのをひたすら待つしかない。爆撃の衝撃で病棟が揺れる度に、ここで死ぬのかと観念する。

 医師や看護婦の話では、再三の爆撃で入院患者の多数が死傷しているようで、いずれ無事では済まないと浅井は臍を固めた。空襲警報が鳴る度に、もはやこれまでかと何度も覚悟したが、幸いなことに、度重なる空襲でも浅井が入院している病棟は無傷だった。

 だが、毎日のように空襲が続いてはあまりに危険で、日ならずしてベルリンから遠く離れた病院へ疎開することになった。

 歩けない浅井は担架でトラックに運び込まれ、三時間近く揺られて森の中にある病院へ到着した。運搬される間、横たわったままの浅井はどこへ向かっているのか確認しようがなく、病院へ到着してもこれといって説明はなかった。

 担架でトラックから下ろされた時、浅井は首をねじって周りの様子をうかがった。あたりは鬱蒼と茂る木々ばかりで、ここなら爆撃機の標的にされることはあるまいと胸を撫で下ろした。

 命が惜しくて臆病になっているわけではないが、身動きできず、すべてを医師や看護婦に任せている身としては、空襲があれば避難するにも他人の手を煩わせなくてはならず、それがなくなるだけでも精神的な負担は軽くなる。

 ベルリンの陸軍病院と違い、今度の病院は英米機の爆音に脅かされることもなく、浅井の怪我は順調に回復していった。あと一週間もすれば軽いリハビリに入れると医師から伝えられ、その日が来るのを楽しみに浅井はベッドの上で過ごした。

 ある朝のこと、長身の担当医が顔を紅潮させ、浅井のベッドに走り寄ってきた。今日からリハビリが始まるのかと期待したが、医師がそんなことで興奮するはずもなく、何事が起こったのかと、鼻の高い意志的な顔を浅井はベッドから見上げた。

ヒトラー総統からこれが贈られてきました。剣付鷲十字章の勲章です。フォルクスワーゲン一台もプレゼントされました」

 医師は手にした箱の蓋をうやうやしく開き、大きな勲章を取り出し、浅井に手渡した。

「勲章?」

「ドイツ軍人に与えられる最高の勲章です」

「どうしてそれが私に」

「あなたが四階から飛び下りて気絶したのを、軍の将軍が目撃していたと以前にお話ししましたね」

「お礼を言いたいと、ずっと思っていました」

「将軍は、あなたがたった一人で少女を救出し、アパートに落ちる焼夷弾を消す姿を、一部始終見ていたのです。将軍があなたの勇敢さに感激して司令部に報告し、総統が勲章を贈るよう指示されたようです」

 剣付鷲十字章はドイツ軍人のみに与えられる勲章で、日本の金鵄勲章に相当する最高の栄誉である。それが日本の一民間人に授与されるというのは異例中の異例だった。

「私はあなたのような患者を持って幸せです。完全に回復されるまで、どうか十分に休養をお取りください」

 医師は赤らんだ頬を輝かせ握手を求めたが、軍人に与えられる最高の勲章と聞いても、浅井はさほど感激しなかった。勇気があったから少女の救出や消火活動に当たったのではなく、地下室で取りすがった婦女子の懇願に心を動かされたためで、正直に言えば渋々というのが本音だった。

 少女は助けられたが、アパートは三階から燃え上がったところから察すると焼夷弾から守ることはできなかったに違いなく、大怪我で入院では内心忸怩たるものがあった。住民たちの安否も気掛かりだった。

「アパートの地下室にいた人たちは?」

「焼け落ちる前に全員が逃げ出して無事でした」

 それを聞いて浅井は安心した。娘を助けてと涙をあふれさせて取りすがった若い母親、青ざめて恐怖に震える老婦人、爆撃の音に怯えて母親にしがみつく子供たち、彼女らが無事であれば怪我したかいもある。

 浅井に体力があったせいか、怪我の回復は早く、一カ月半後にベルリンへ戻って仕事に復帰した。仕事といっても、連日のように繰り返される爆撃で落ち着いて研究するどころではなく、全員が命を守るのに精いっぱいだった。ドイツの敗北は近いと思いはじめた頃、ソ連軍がベルリンへ向かって進撃してきた。

 その報を聞いた浅井は、贈られたフォルクスワーゲンで妻子のいる南ドイツへ向け逃げ出した。だが、ソ連軍は怒濤の勢いでベルリンに襲いかかってきた。硝煙と埃にまみれた戦車の進撃は急で、動くものがあれば容赦なく銃撃してくる。妻子の疎開先に行き着くには車が不可欠だが、戦車に狙われては危険この上なく、浅井はやむなく車を捨て、ベルリン西端のフリーデナウ区の知人の家の地下室に身を隠した。車を乗り捨てた時、硝煙がきな臭く漂い、目に滲みるほどだった。

 地下室には男の老人三人と婦女子が十人ほどいたが、全員が蒼白になって震えていた。地下室に身を潜めていても、ソ連軍の銃撃の音が腹に響いてくる。地下室の上部にある窓から外をうかがうと、道路をゆっくり進んでくるソ連軍の戦車が、建物一軒一軒の窓に戦車砲を打ち込み、殲滅戦に出ている。いずれ浅井が隠れている建物にも砲弾が打ち込まれそうである。

 浅井は目に飛び込んできた光景に、はっと息を呑んだ。ヒトラーユーゲントの少年兵が、進撃してくる戦車に一団となって飛び掛かっていく。手には銃があるだけで、とても戦車に通用しそうにないが、それでも構わず突っ込む。

 そのヒトラーユーゲントを狙って機銃が掃射され、少年兵たちがばたばた倒れる。銃などあっても戦車相手では裸も同然で、少年兵たちがいたずらに命を捨てていく地獄絵に、もうやめればいいのにと浅井は胸を痛めた。

 ベルリンには十三歳から十七歳の少年兵が十万人いると聞いていたが、玉砕した日本の白虎隊を何百倍にも拡大した凄惨な戦いである。

 戦車はヒトラーユーゲントたちの死体を踏みにじり、新たな獲物を求めて突き進んでいく。鼓膜が破れるのではないかと思われるほどの、戦車砲と機銃の轟音が町を埋め尽くし、一九四五年五月一日、ベルリンは陥落した。

 浅井が地下室に逃げ込んでどれだけの時間がたったのだろうか、ふと気がつくと銃声が小止みになっていた。戦闘は終わったらしく、ドイツが敗北したのは明らかだった。

 ソ連軍がベルリンを占領しては、妻子がいる南ドイツへたどり着くのはもはや絶望的で、できるのは地下室にじっと身を潜めていることだけである。だが、いずれソ連兵がすべての建物を点検にやってくる。戦闘の後には略奪と暴行がつきまとっているのはいつの時代も同じで、命長らえるのも難しい状況に追い込まれるかもしれなかった。

 地下室のドアが乱暴に開き、泥にまみれたソ連軍の兵士が五人、足音高く踏み込んできた。目は真っ赤に充血し、赤ら顔は仁王か鬼のようで、とても同じ人間とは思えない。兵士の乱入に避難していた全員が息を呑み、声を出さずに震えはじめた。

 一人の兵士が浅井に近づき、腕を捕まえて腕時計を指さした。時計を寄越せと言っているのだろうが、ロシア語では何を言っているか理解できず、浅井はドイツ語で、私は日本人でしかも外交官である、と叫んだが、それも通じるはずはなかった。

「ヤパンスカ!」

 兵士の一人が浅井の顔を見て大声で叫んだ。顔から日本人と判断したらしかったが、それがどういうことになるのか見当もつかず、浅井は黙って兵士たちの行動を眺めているしかない。

 兵士が何事か命令し、銃で浅井を小突いた。外へ出ろと言っているらしく、浅井は小突かれるまま地下室から外へ出た。

 ベルリンの町はまだ市街戦の真っ最中だった。戦車砲が発射され、砲弾が建物のあちこちに命中し、凄まじい轟音を上げ、道路のそこら中に血だらけの人間が倒れている。とてもこの世のものとは思えない惨劇で、この場で転がっている死体の仲間入りをさせられるのかもしれないと浅井は恐れた。

 だが予想は外れ、銃弾が飛び交う中を浅井は腕を引っ張られ、それほど破壊されていない建物に連れていかれた。入った部屋にいた将校が、何やらロシア語でわめきたてた。

「これからあなたの戦時裁判を行います」

 一人のソ連軍人がドイツ語に通訳したが、なぜ自分が裁判にかけられなければならないのか理解できず、ドイツ語で抗議したがロシア語に通訳してはくれなかった。

 ドイツ語を話す軍人は弁護士だと言い、裁判官と検事を指さしたが、全員が軍人とあっては公正な裁判など期待できるはずもない。容疑はと問うと、弁護士役の軍人がドイツ語で説明した。

「あなたがウクライナで暗躍したスパイだと証言する人が現れました。スパイ容疑での裁判です」

「馬鹿な! ウクライナなど行ったことはないし、ましてやスパイなど働いた覚えもない」

「ですが、証人がいます」

「その人間と対決させてください」

「いいでしょう」

 浅井の要求に一人の兵士が現れた。

 スパイは全員が銃殺、と滞在中に聞かされていたから、浅井は必死に違うと弁解したが、証人と称する兵士に言葉は通じず、相手の主張もロシア語では理解できないとあっては、ひたすら証人を睨み付けるしかない。

 証人が退出し、裁判官役の軍人が威儀を正し、浅井に何事か伝えた。弁護士役の軍人に何を言ったのかと尋ねたが、曖昧に首をひねっただけで、答えは何も戻ってこなかった。

 裁判が終わり、浅井は部屋から連れ出されてトラックに乗せられた。すでに十数人のドイツ人がトラックに積み込まれており、浅井が乗ると同時に動きだした。

 どこへ行くとも伝えられず、何時間も揺られ、日が落ちるとトラックは一軒の農家の前で停まった。銃を突きつけられ、乗っていた全員が地下室に押し込められ、食事はわずかなトウモロコシだけで、空腹を満たすこともできない。電灯はなく、粗末な食事を済ます頃には地下室はもう真っ暗で、疲れ果てた捕虜たちは倒れるように身を横たえた。

 ソ連に対し敵対行為などしたことはなく、ましてやスパイを働いたなど論外だが、言葉が通じないのでは弁解しようもなく、兵士の指示に従うしかない悔しさが胸のうちで渦巻いた。真っ暗な天井を目をかっと見開いて見つめ、これからどうなるのかと自問したが、答えが見つかるはずもなく、眠られないまま朝を迎えた。

 朝食は固いパンの一かけらと水だけで、空腹を満たすにはとても足りないが、兵士は食べられるだけでも有り難く思えという態度で、食べ終わると早々にトラックに積み込まれた。

 同行のドイツ人は全員が諦めの表情で、話しかけても返事はなく、黙ってトラックに揺られうなだれているばかりである。みんな死を覚悟しているのか、薄く開いた目に希望のひとしずくも見えなかった。

 夜はどこかの地下室に閉じ込められ、朝になれば再びトラックに詰め込まれる屈辱的な状態が三日三晩続き、トラックは高い塀で囲われた監獄らしい施設に到着した。

 銃を突きつけられてトラックから下りた時、隣にいたドイツ人が小さな声で何事か呟いた。

「えっ?」

 浅井は聞き返した。

ドレスデンの監獄だ。死刑囚を入れる有名な監獄だ」

 ドイツ人はかすれた声で、顔を引きつらせて答えた。

 浅井は一緒に連行されたドイツ人と離され、トイレがあるだけの狭い独房に放り込まれた。部屋は異臭が立ち込めてじめじめとしけり、薄暗い小さな電灯が一つ付いているだけである。

 死刑囚を収容する監獄なら、俺も死刑判決を受けたのかと考えると、体の奥底から震えがくる。

 身に覚えのない容疑で銃殺されるなど真っ平だが、日本語はもちろんドイツ語も通じないとあっては、死刑執行を待つしかなく、死ぬのは嫌だと叫んでみても、だれも聞く耳を持ってくれない。

 エリカと、生まれたばかりの照子を入れた四人の子供たちの顔が目に浮かび、生きてもう一度会いたいと願うが、死刑を待つ身にそんな望みがかなえられるはずもない。だが、死にたくないと身中から噴き出す叫びに身を焼かれる。

 夜になっても眠られず、このままでは発狂するばかりだと、浅井は足を結跏趺坐に組み、子供のころ習った腹式呼吸を繰り返す。座禅が珍しいのか、兵士が何人も入れかわり立ちかわり浅井の部屋をのぞきに来るが、浅井はそれを無視して瞑想に専念した。

 瞑想していれば精神錯乱に陥りそうにはないが、粗末な食事が差し入れられ、食べるために座禅を解くと、骨の髄から恐怖が噴き出してきて震えが止まらず、鼓動が高まって息苦しくなる。食べ終わるとすぐ座禅に戻るのだが、気持ちが落ち着くと周りの音がよく聞こえ、歩調を合わせた兵士の足音が気になる。

 足音が廊下に響く度に、だれか死刑にされるのだと妄想し、次は俺の番かと怯える。コツコツという軍靴の音は、コンクリート作りの監獄によく響き、鼓膜を突き抜け、恐怖を脳に直接運んでくる。独房に収容されて何日たったのか時間の感覚などとうに失い、発狂しないようひたすら座禅を組むが、それで得られる精神安定も限界に近づいてきた。

 もう耐えられない。このままでは精神錯乱に陥る。そう絶望したとき、歩調をそろえた軍靴の響きが浅井の独房に近づいてきて、ピタリと止まった。