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浅井は明治四十一年三月、満州の大連で生まれた。父親は日露戦争で荒廃した満州を再建し、平和に治めるには、武器より教育が必要だと考え、中国人子弟の教育のため公学堂と呼ぶ学校を大連に創設した。公学堂を創るに当たって日本政府と激しいやり取りがあったようだが、父親は愚痴をこぼさず、中国人子弟の教育に黙々と取り組み、献身的に努力した。
浅井はその姿を見て育ったせいか、あるいは父親に躾けられたせいなのか、他人が苦しみ悲しんでいる姿を見ると憤然としてくる。困っている人には手を差し伸べずにはおられず、たとえ損とわかっていても協力を惜しまない性格に育った。
厳寒の地、満州から浅井が帰国したのは十歳の時で、牛込の市ヶ谷に落ち着いた。平屋で四部屋ある家は、両親と姉、弟と妹の五人暮らしには十分な広さだったが、父親の関係で常に来客があり、浅井たち兄弟は奥の部屋へ追いやられていた。
集まって来るのは主義主張に厳しい人たちばかりで、浅井はそんな生活の中で自然と自立心を養い、物事を恐れない性質に育っていった。
高等学校は旧制水戸高に進み多感な少年時代を送ったが、水戸学が伝えられる反骨精神の旺盛な土地柄で、浅井は多くの友人を得た。寮生活だったから、助けたり助けられたりで、友人とはいやがうえにも絆が深まっていった。
浅井が東京帝国大学法学部在学中に満州事変が勃発した。東北地方は冷害による大凶作で娘を身売りしなければ生きていけない悲惨な状況に陥っていた。さらに昭和四年十月二十四日、暗黒の木曜日のニューヨーク株式市場の大暴落から始まった米国の金融恐慌は、世界的な大不況の嵐を巻き起こし、失業者は巷に溢れ、日本は不景気のどん底で喘いでいた。
当時の国民がどれだけ困窮していたかは、浅井が友人たちと箱根の歴史調査で小田原から強羅、芦ノ湖と足を伸ばした時、身を詰まされて思い知らされた。
「あの人たちはなんだろう」
浅井は友人たちと小声でささやきあった。調査旅行の間中、大勢の人々と出会ったが、みんな青ざめて着ているものは見すぼらしく、足を引きずってとぼとぼと歩いていたのである。
「君たち、食べるものを持っていないか。あったらなんでもいいから分けてくれないか」
ぼろをまとった何人もの年配者が、浅井たちを学生と認めて懇願してきた。
何がどうなっているかその時はわからず、小田原へ戻った足で警察署を訪ねた。
「あの人たちは、どこへ行こうとしているんですか」
「君らは特権階級だね」
警官は浅井たちの頭の先から足の先までじろじろと眺め、厭味に言った。
「どういうことですか」
浅井はむっとして聞き返した。
「東京にいては餓死するしかないと、縁故を頼って静岡県や愛知県、遠くは岐阜県を目指している人たちだ。君らのように物見遊山する余裕などかけらもない」
警官の説明に、浅井は言葉に詰まった。浅井たちが目撃したのは、農村にいれば餓死することはないと、生死ぎりぎりの境で必死に生にしがみついている人々の姿だった。
不景気とインフレ、失業者の群れ、農村大不況のさなかに、陸軍の暴走で満州国が建国された。生活の困窮を打開するため、政治改革を求める声が日ごとに強くなり、井上日召率いる血盟団が、前蔵相の井上準之助と三井合名理事長の団琢磨を相次ぎ暗殺し、さらには右翼と組んだ一部軍人が犬養毅首相を殺害するなど、世情は騒然としていった。
浅井が東京帝大を卒業した昭和七年はそんな時代だった。帝大を卒業したからといって勤め先など容易に見つかるはずもなく、困った浅井は、高等文官試験で外交官試験に合格すれば就職間違いなしと聞き、試験勉強に専念することにしたが、参考書の多さにため息をついた。座って参考書を積み上げると頭の高さまであり、それを一ページずつ片っ端から頭の中に詰め込むのだから、苦痛以外の何物でもない。
そんな試験勉強が功を奏して浅井は外交官試験に合格したが、外務省係官の信じられないミスで不合格となってしまった。当時は官報が最終決定という権威を持っていたが、係官が浅井の名前を官報の合格者名簿に載せるのを漏らす前代未聞のミスを犯し、合格はうやむやにされてしまったのである。
脇目も振らず試験勉強に専念したのに、ミスで不合格にされては泣くに泣けないが、できてしまったことは仕方ないと浅井は自分を納得させた。
外務省には入れなかったが、父親の縁故で財閥商社の大倉組に入社し、二十六歳になった昭和九年の春、商事部からドイツ駐在員としてベルリンへ派遣された。ドイツ語が堪能とはいえない浅井に、なぜベルリン駐在の白羽の矢が立ったかわからないが、前途を夢見る青年にとって、ドイツという見知らぬ国は光り輝いていた。
だが、交通機関が発達していない当時の欧州行きは船旅しかなく、二度と親兄弟と生きて会えないかもしれないと不安が胸を締めつけた。
浅井は三月二十五日、横浜港から靖国丸でドイツへ向けて出発した。見送りにきた両親や兄弟、友人たちと手を振り合い、テープを握って別れを告げたが、船が岸壁を離れテープが切れたとたん心細くなった。
家族や親しい人たちとの別離が、これほど寂しいものかと驚いたが、若さもあってマルセーユまで四十五日もかかる船旅にすぐ慣れ、退屈するばかりだった。
浅井がベルリンに赴任した当時のドイツは、前年にヒトラー政権が生まれ、国全体がゲルマン民族の未来に輝かしい夢を抱き、青年たちは理想に燃えていた。
浅井が落ち着いたのは、ベルリンのティアガルテンの鬱蒼とした森の北端にある、ブランデンブルグ凱旋門の近くにあるアパートだった。日本大使館が近くにあり、浅井はベルリンの中心部にある大倉組の駐在員事務所まで、毎日その前を通って出勤した。
大倉組の事務所は古いレンガ作りのビルで、所長と五人の同僚という小所帯だった。浅井の仕事は情報収集が主で、それにはドイツ語に堪能でなければならない。多少のドイツ語は勉強していたが、赴任したばかりでは理解できるはずがなく、英語には不自由しなかったから、ドイツ語と英語のわかる通訳兼秘書を募った。それに応募してきたのが、五歳年下のエリカで、浅井のドイツ語の勉強に力を貸してくれた。
エリカは色白で面長のほっそりした体格、艶やかな焦げ茶色の髪を肩で切りそろえ、笑顔が素敵なドイツ人女性だった。二人は会って間もなく恋に落ち、浅井が二十八歳の春に結婚した。
エリカの母親を引き取っての生活だったが、若い二人には甘過ぎるほどの新婚生活で、結婚した翌年に長男が生まれた。
ベルリンの日本大使館には大学時代の友人が何人も赴任していて、情報収集という仕事がら、浅井も外交官気取りで付き合っていたが、日がたつにつれ、胸に虚しさが巣くっていった。情報収集は是が非でもやりたい仕事というわけでなく、日々の生活に流されているうち、これでいいのか、俺の生きる使命は何なのだと、胸のうちで囁くものがある。
情報という実態のないものを、翻訳して右から左に本国へ流すだけの仕事は、虚業ではないかと思いだしたのである。
「最近、顔色が良くないわ。どこか悪いのじゃない?」
エリカが浅井の様子を心配したが、妻に説明のしようがなく、仕事が忙しいからだと誤魔化した。
自分は何をなすべきなのか。このまま漫然と日を過ごしていいのか。答えの出ない命題を考え続けているうち、気力は湧かず、目眩と下痢が襲ってきた。
「こんな仕事をやっていて、何になるんだ」
わずかなことで怒りが爆発し、すぐ怒鳴りたくなる。そんな浅井を同僚は腫れ物に触るように扱うが、それがまた面白くなくて癇癪を爆発させる。浅井は自身でも嫌な人間だと思ったが、苛立ちはどうしようもなかった。日を追って浅井の症状は深刻になっていった。
そんな時、仕事で知り合った鉱山会社の青年技師、オットー・ウェバーが浅井を訪ねてきた。
「ちょっと付き合ってほしい」
ウェバーは浅井の腕をつかんで外へ連れ出した。どこへ行くのか、何をするのか尋ねても、黙ったまま浅井の腕を引っ張っていく。ウェバーが何をしようと考えているのか不安だったが、すべて投げやりになっていた浅井は、友人に体をゆだねた。
駅へ連れていかれて汽車に乗せられたが、ウェバーは一言も口を開かず、ハノーバーを経由し、ドイツ有数のルール工業地帯の中心地にある炭鉱都市、エッセンへ着いたときには六時間が過ぎ去っていた。
迎えにきていた車に乗せられて三十分ばかり走り、掘り出された黒い石炭が山と積み上げられた炭鉱に到着した。車を降りると粉臭い空気に包まれ、なぜこんなところへ連れて来たのかとウェバーの顔をうかがったが、言葉に代えて革製のヘルメットを差し出された。乗せられたトロッコはゆっくりと地下へ向かって走り出し、連れていかれたのは、地下六百メートルの採炭現場だった。
安全灯に照らしだされた採炭現場はもうもうと炭塵が立ち込め、灰色のもやがかかったようである。その中で真っ黒に汚れた炭鉱夫の顔は汗にまみれ、必死の形相でハンマーを握りしめ、炭層に打ちつけている。ハンマーが炭層に当たるたびに、地の底から不気味な音と振動が響き、あたりに形容しがたい異様な臭いが充満し、見学している浅井の体にしみ込んでくる。
何も言葉に出せず、自然と人間が一体になってうごめく様を見ていて、浅井は体の奥底から震えがきた。名状しがたい熱が、腹から噴き上がり、全身をなめつくしていった。
二時間ほども呆然と採炭作業を眺めていただろうか。気がつくとウェバーが肩をたたき、指を上に向けていた。促されるまま坑外へ出て、きれいとは言えない汲み置きの水で体を洗い、殺風景な作業小屋でビールを振る舞われた。
一息に飲むビールはうまく、渇きが癒されると地獄の地の底から這いだしてきたという実感が湧いてきた。炭鉱夫が脇目も振らず炭層に挑む様は、必死で仕事に打ち込む人間の力強い美しさに満ち溢れていた。それに引き換え目的を失ってくよくよ悩んでいた自分は、何と卑小で醜い存在か 。
「君は今まで情報収集という訳のわからない仕事をしていて、自分がなすべき対象がはっきりしていないから、ノイローゼなんかになったんだ」
ビールを飲み干したウェバーは、容赦なく吐き捨てた。言葉は辛辣だったが、軽蔑のニュアンスはかけらもなく、友人を深く案じての言葉に違いなかった。
言われてみれば、浅井がやっている仕事は、情報という実態のないものを集めるだけで、雄大な自然を相手にしたものではない。だが、今見てきた坑内は、人間が全身を石炭にぶつけ、わずかな気の緩みさえ許されない厳しい環境下にあった。炭塵で黒く汚れた彼らは、人一倍の情熱を燃やして炭層に挑んでいた。
自分が求めていたのはこれではないか。工業になくてはならない石炭に、いや大いなる自然に、正面から全身全霊を込めてぶつかることだったのではないか。
気づいた浅井の頬に涙が溢れた。
「会社を辞めて、研究したいことがあるんだ」
エッセンからベルリンに戻った浅井は、エリカに切り出した。浅井は妻と息子一人、娘二人、さらに同居している妻の母親を養っていたが、仕事を辞めればすぐに食べていくのに困る。さぞかしエリカが反対するだろうと覚悟していたが、予想外の答えが返ってきた。
「あなたを信頼しています。思う通りにしてください」
浅井の決心を聞いたエリカは、一言も反対せず励ましてくれた。日本では内助の功と言うが、エリカの心意気にはいくら感謝してもし足りないと頭が下がった。
浅井は大倉組に退職届けを提出し、友人の外交官たちとも付き合いをやめ、ドイツの日本人社会で孤立した生活を始めた。日本人との交遊が続けば、いつかまた目的を失った生活に戻ってしまうと恐れたのである。
だが、家族を路頭に迷わせるわけにはいかず、通訳と翻訳で収入を得ながら、石炭の勉強を始めた。
研究といっても独学でできるはずはなく、大学へ入らなければと思い立ち、ベルリン工科大学を目指したが、果して入学できるかどうか心もとなかった。
ドイツでは大学へ入る資格が厳しく、日本の高等学校に近いジムナジウムを卒業し、アビトリウムという国家試験に合格しなければならない。浅井は高等学校では文科、大学は法科だったから、とても工科大学へ入れる資格はないと思い込んでいたが、人が道を求める時はかならず救いがあるもので、日独政府間で学術に関する文化協定が締結されていて、国立の高等学校を卒業していれば入学が許可されることになっていた。しかも、文科系と理科系に分けられてはおらず、文科出身の浅井でも工科大学への入学が可能だった。
高等学校から文科系だったから、石炭学を勉強する学力があるかどうか不安だったが、浅井は勇気を奮ってベルリンのシャロッテンブルグにある工科大学へ願書を提出した。希望と諦めは半分ずつだったが、入学を許可された。
志のあるところに道あり。
ドイツでよく言われる言葉だが、まさしく浅井の心境だった。
浅井が専攻したのは石炭とかかわりが深い鉱山冶金学で、言葉の壁と理系の知識が乏しいため、授業をこなすのは並大抵でない。
幸いにも担当教授のロバート・デュラー教授が、講義中の浅井の顔を見て話しかけてくれた。
「君はまったく理解できないという顔をしているね。私の家に来るなら補習をしてあげよう」
浅井はデュラー教授の温情に甘え、講義があった日は欠かさず自宅を訪ねた。
デュラー教授は信念の人で、さまざまな妨害を受けたのにもかかわらず、真実追求から外れようとしなかった。当時のドイツはヒトラー全盛期で、授業を始めるまえに「ハイル ヒットラー!」と挨拶することが義務づけられていた。だが教授は、ヒトラーに迎合する挨拶を絶対にしようとはしなかった。
教授の素晴らしさは、方程式や数字データがたくさん出てくる講義を、一切原稿なしで行うほど博識なことだった。知恵の泉から湧きだす知識を、聴講している学生に一語一語浴びせるように語る姿は、学究の権化そのものだった。
「新しい技術を創造するの大変苦しいことだ。自分の内面に向かって、ぎりぎり追い詰めていく。自分に対してゲヴァルト(暴力)を加えることだ。このことは楽しいに違いないが、楽なことではない」
デュラー教授は聴講する学生たちに語りかけた。
しかし、豊かなヒューマニズムを胸に抱くデュラー教授の思想が、独裁者ヒトラーに受け入れられるはずはなく、教授は身の危険を感じて一家全員でスイスへ亡命してしまった。
教授がいなくなり、浅井は胸に大きな穴があいたように思ったが、仲間の友情に支えられ、三年間で十五の単位を取り、一年間の実習を済ませることができた。
一九四一年七月、ヒトラーがソ連領内へ攻め込み、ドイツ人は次々と召集されていった。教授や助教授、助手、学生とみんな大学から姿を消し、学業どころではなくなっていった。だが浅井は卒業を諦めず、卒業論文の執筆に全力を投入した。
戦況の進展とともにドイツの敗色は濃厚となり、英米爆撃機のベルリン空襲は日を追って激しさを増していった。
「ベルリンにいては危険だ。空襲を受けないところへ疎開してほしい」
「あなた一人を危険な場所に残すわけにはいかないわ。全員一緒に死ぬなら本望よ」
浅井は妻子を避難させようとしたが、エリカは首を横に振るばかりだった。
「照子が生まれたばかりで、君の体は万全じゃない。大学にいても家族のことが心配で研究が手につかない。疎開してくれれば、安心して研究に打ち込める」
意を尽くした浅井の懇願に、エリカはやっとうなずいた。
浅井はドイツ人の知人を頼って家族全員をワイマール市に近い寒村に疎開させた。エリカや幼い子供たちと別れた浅井は、胸にぽっかり空洞ができたようで、論文執筆の意欲が萎えそうだったが、書き上げて卒業すれば、再び一緒に暮らすことができるとおのれを鼓舞し、最後の仕上げに専念した。
そのかいあって、浅井は一九四三年の春、シャロッテンブルグ工科大学を卒業、エッセン公立石炭研究所に入所し、石炭学の研究を続けられることになった。