永遠なる魂  第二章 ベルリン 2

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 戦況は日に日にドイツに不利になり、国内で不満が渦巻き始めていた。ヒトラー政権では敗戦必至で、祖国が壊滅しかねないと危機感を抱いたドイツ陸軍の一部将校は、一九四四年七月二十日、司令部に時限爆弾を仕掛け、作戦会議中のヒトラー総統暗殺を図った。有名なシュタウフェンベルク大佐事件で、ヒトラー暗殺と同時にゲッペルスを逮捕、ラジオ局占拠というクーデター計画だったが、未遂に終わった。

 首謀者のシュタウフェンベルク大佐は言うに及ばず、加担した将校は全員が銃殺された。さらに激怒したヒトラーは、クーデター派に少しでも関係する人間は全員逮捕しろと、ゲシュタボに厳命したのである。

 この関係者の中に、浅井が親しく付き合っていた友人がいた。浅井がベルリンに赴任して最初に仲良くなった友人で、第一次世界大戦の時、タンネンベルグの戦いでロシアの大軍を殲滅した、プロイセン貴族出身のハンマーシュタイン将軍の息子である。

 ドイツに赴任した当時、浅井は独り住まいの寂しさもあって、ベルリン郊外のダーレムにある、将軍の質素な家に何度も遊びに行き、五人の子供たちから歓迎された。ホームシックだった浅井は彼らに慰められ、ドイツでの仕事を続けられたといってもいいほどだった。

 ヒトラーの権力が巨大化すると同時に、国民的英雄のハンマーシュタイン将軍に圧力がかかりはじめた。将軍はプロイセン出身の正規軍に影響力が強く、反乱を恐れたヒトラーが動きを封じ込めようとしたのである。

 ヒトラーに睨まれれば失脚は逃れられず、将軍のもとを訪れる人は極端に少なくなっていった。浅井が将軍の夫人から電話を受けたのはそんな時だった。将軍が危篤に陥り、病床で浅井に会いたいとしきりに言っているというのである。ヒトラーソ連を侵略する二カ月ばかり前のことだった。

 浅井は取るものも取らず駆けつけた。

「日本とドイツは、絶対にソ連と戦争してはいけない。それをよく記憶しておいてくれ」

 将軍は苦しい息の下から、浅井に言い残したのだった。タンネンベルグの戦いで、帝政ロシアの大軍を湿原に追い込んで殲滅した将軍は、最後には懐の深いロシアに敗北したことを悟っていたからに違いなかった。

 そのハンマーシュタイン将軍の息子が、暗殺事件に関係していたのである。

 逮捕を厳命されたゲシュタボが必死に捜索したが、友人の行方はつかめなかった。ヒトラーの命令が指示通りに実行されなければ、命令された本人が厳罰を受ける。弱り切ったゲシュタボは、苦し紛れに、家に残っていた将軍の夫人、二十三歳と十五歳になる娘を人質に取り、凶悪殺人犯を収容するベルリンのモアビットの牢獄に監禁し、息子に出てくるよう新聞で呼びかけたのだった。

 それを読んだとき、浅井はゲシュタボの卑劣さに、全身から熱い汗が噴き出した。人間性を無視した野蛮極まる行為は絶対に許せない。何としてでも不当行為を止めさせなければならないと、浅井は日本大使館に駆け込み大使に面会を求めた。

「こんな野蛮行為をするドイツ政府に、日本として厳重に抗議してください。哀れな人質を少しでも早く解放させなければなりません。日独軍事同盟を締結した大使にはそれができるはずです」

「ドイツの内政問題だから、日本大使館がとやかく言う筋合いはありません」

 元陸軍武官で親独家の大島大使に強談判したが、大使は気弱に首を振るだけで、同調する気配すらなかった。

「しかし、関係のない人間を人質にし、身内に出頭するよう求めるのは、卑劣そのものです。そんな国と軍事同盟を結んでいるなんて、武士道精神が泣きます」

「あまりはやらない方がいい。日本でスパイのドイツ人ゾルゲが死刑された。そんな時期だからゲシュタボは神経過敏になっている。こんなことで騒ぐと、どんな処罰を受けるかわからない」

 大島大使はそう警告し、浅井の懸命な申し入れを取り上げようとはしなかった。

 日本大使館が軟弱だからといって、親しい人たちが苦境に陥っているのを放置しておくことはできない。自己の利益を考えれば、知らないふりをするのが賢明かもしれないが、体の底から突き上げてくる憤りが、浅井を傍観者にするのを許さなかった。

 浅井は大使の警告を無視し、翌日ウンターデンリンデン通りにあるゲシュタボ本部を訪問した。幸いにも門前払いされず、ゲシュタボの幹部三人と面会できた。軍事同盟を締結した同盟国の訪問者を、無下には断れなかったのに違いない。

 通されたのは殺風景な会議室で、いかにも秘密警察らしく壁に装飾一つなかった。浅井は三人と会議用のテーブルで向かい合って座った。

「昔の日本は、罪は一家眷属に及び、犯人の妻や子供まで処刑されました。しかし、明治維新後は、主にドイツの法律を参考にして法治国家となり、そのような残酷なことはなくなりました」

 そこまで言って浅井は言葉を区切り、三人に順に目を移していった。三人の幹部は何も言わず、冷たい目で見返してきたが、浅井はここが正念場だと下腹に力を込めて続けた。

「あなたがたがハンマーシュタイン家に取った仕打ちは、日本人が考えていた法治国ドイツではなく、封建時代の無法国がやることです。これでは、日本の国民としてドイツを同盟国と考えるわけにはいきません。私は外交官ではありませんが、一人の日本人として、祖国にいる多くの友人に、政治や外交を離れて、この非人道的な行為を伝えざるを得ません」

 浅井は口を閉ざして返事を求めたが、三人は眉間に深い縦皺を刻み、唇をきつく結んで押し黙っていた。苦虫を噛みつぶした顔とはまさしく三人のそれで、ゲシュタボも非人道的とわかっているから、正面切って正論をぶつけられては答えようがなかったに違いない。

「総統暗殺未遂の罪があるのは子息一人だけで、母親や妹たちには何の咎もありません。将軍の家族を即座に釈放すべきです」

「それはできません。我々にはそんな権限はありません」

「すると、ヒムラー長官の指令ということですか」

「そういうわけではありませんが」

「しかし、幹部の皆さんに権限がないとなると、長官の指示としか考えられません。ゲシュタボの方針として非人道的なことを行ったということですね」

「長官が率先してこうした行動を指令したとなると、同盟国の人間として、ますます失望せざるを得ません。日本人がこれを聞けば、さぞかしドイツへの信頼を失うことでしょう」

「そう言われても、将軍の息子は実際に犯罪を犯したのだし」

「それが家族に何の関係があるのでしょう。計画に加担していたというならともかく、まったく知らないうちに事件が起こったのでは、責任の取りようがないではありませんか。皆さんの親兄弟がどこかで重大犯罪を犯した場合、あなたがたは責任を取れますか。身内が罪を犯したからといって、皆さんまで罰せられるとなったら、どんな気持ちになりますか」

「それはそうだが 」

「皆さんに権限がないというなら、ヒムラー長官に釈放を進言すべきではないでしょうか」

「釈放うんぬんはともかくとして、長官と相談してみます」

「返事はいただけるのですね」

 三人が黙ってうなずいたのを目でしっかり確認し、早急に返答がほしいとくどいほど念を押し、浅井はゲシュタボ本部を出た。怒りで興奮してはいたが、悪名高いゲシュタボの幹部を前にしても不思議に緊張はせず、言い残したことは一つもなかった。

 返事がいつ来るかと心待ちにしたが、一週間たっても音沙汰ない。物資は乏しくなっていたが、浅井は闇でパンとバターを買ってゲシュタボ本部へ押しかけ、釈放するまで食料を差し入れるよう申し入れた。一般市民は食料難に喘ぎ、まして牢獄では満足な食事さえ与えられないに違いないと懸念したからだが、先日会った幹部は困惑して拒絶した。

 だが浅井は持ち前の粘り強さでしつこく食い下がり、渋々ながらも相手に差し入れを承諾させた。

 差し入れは認められたものの、家族が釈放される気配はなく、浅井は毎日欠かさず食料を持ってゲシュタボ本部に押しかけた。それに根負けしたのか、二十三歳の娘が釈放され、これで夫人と末娘も自由の身になると喜んだのも束の間、ゲシュタボは重大な裏切り行為をした。

 息子を誘い出すために人質は手放せないとだれが判断したのか、長女が釈放されて浅井の気が緩んでいる間に、ゲシュタボは将軍の夫人と末娘を、ベルリンから遠く離れたワイマールのブーヘンワルド強制収容所に移してしまったのである。

 それを知った浅井は、再びゲシュタボ本部に押しかけたが、今度はだれも会おうとすらせず門前払いされた。ゲシュタボは浅井のしつこさに音を上げ、長女の釈放で顔を立てたつもりだろうが、鬼畜にも劣る振る舞いを平然とするようでは、ドイツの命運も極まったと嘆息するしかなかった。

 それを物語るように、英米軍の空襲は一段と激しくなっていった。一九四三年を境に戦況はドイツ不利になり、翌年の秋にはほとんど絶望的な状況に追い込まれていた。ドイツ国民はもちろん、浅井も死の恐怖に怯え、その日の糧を確保するだけの生活に追われるばかりだった。

 空襲に逃げまどうばかりで研究はいっかな進まず、苛立ちが頂点に達したとき、思い出したのはデュラー教授だった。学問への真摯で厳しい姿勢、豊かな人間性、学生への愛情、どれだけ教えられるところがあったことか。

 戦況がもっと悪化すれば、デュラー教授に二度と会うことはできなくなる。浅井はいても立ってもいられなくなり、日本大使館と交渉し、四十時間のスイス滞在許可を得た。

 ベルリンからスイスへ向かう列車は、何度も英米機の銃撃を受け、生きた心地もしなかったが、スイス国境のリンダウ市に無事到着したのは真夜中だった。

 リンダウ市は風光明媚なドイツの古都だが、灯下管制で町は暗黒に包まれ、敵機の来襲を恐れ息を潜めていた。しかし、国境を一つ隔てた目の前のスイスは、点々と連なった灯火がボーデン湖に映り、まるで別世界である。

 ドイツ側の町々は空襲に脅え、暗黒の世界にじっと身を隠しているのに、一歩スイスへ足を踏み入れれば輝く明かりの下で人々が笑いさざめきあっている。あまりにも対照的な光景に、戦争の愚かさをつくづくと感じざるを得なかった。

 税関を抜けスイスの列車に乗った時、浅井はほっと息を吐き出した。もはや空襲を受ける恐れはなく、地獄から天国へ生まれ変わったような安堵感に包まれた。

 浅井はチューリッヒで列車を乗り換え、デュラー博士の住むゲラフィンゲンという小さな町に着いたのは昼を過ぎていた。博士はこの町の郊外にあるスイス最大の製鉄工場、ロルシェンの専務で、チューリッヒ大学で冶金科の教授を兼務していた。

「よく無事に到着したね」

 自宅を訪ねた浅井を、デュラー博士は満面に笑みを浮かべ、手を力強く握って歓迎してくれた。博士は多忙にもかかわらず、浅井のために一晩の時間を割いてくれたのだった。

 夜になると博士は、二頭立ての馬車で、近所の由緒正しいレストランへ案内してくれた。土地特有の料理を御馳走になり、夜が更けるのも忘れ、ベルリン時代の思い出や博士のスイスでの生活、ドイツの戦況を語り合った。

 認められたスイス滞在期限はあっというまに過ぎ去った。博士に駅まで送られ、今生の別れになるかもしれない思いに、鼻の奥が熱くなった。

 デュラー博士はそんな浅井の肩を左手でたたき、真剣な光を青い目に浮かべて励ました。

「これで当分、会えないでしょう。しかし君は当然、祖国に帰るに違いない。君の母国は世界でまだ未開発のアジアにある。これから発展する地域で優れた技術を最初から打ち立てるように。では健在なれ」

 別れ際の博士の言葉に、浅井は体が震えた。どんな困難があろうと、正しいと信じた道を突き進む博士の姿は、浅井の胸に深く刻まれた。博士の生きざまは、何事にも全力でぶつかり、妥協してはならないと教えていた。

 ドイツに戻った浅井は再び空襲に怯える生活に戻ったが、戦況が枢軸国側に有利になる気配はまったくなかった。

 ドイツで生活していれば、スイス経由で太平洋戦争の真実の戦況が入ってくる。真珠湾攻撃に成功し破竹の勢いだった日本軍は、ミッドウエー海戦で敗北し、それからは各地で玉砕するばかりで、日本国存亡の危機が近づいていた。

 異国で独り暮らす浅井は悲壮な思いにとらわれたが、毎日のように激しい空襲に見舞われ、生き延びるだけで精いっぱいだった。

 一九四四年十一月二十二日、例年より早く冬が訪れ、ベルリンは朝から濃い霧に包まれていた。その霧に、市民はだれもが今夜は空襲がないと安心していたが、ベルリンは猛烈な空襲を受けたのだった。爆撃機が市街地上空に侵入しても、迎え撃つドイツ空軍機はなく、英米軍は何の抵抗も受けず焼夷弾をまき散らした。

 この夜の空襲がベルリンに与えた損害は、戦争中で最大で、四十五万人の市民が家屋を失い、三百人の邦人も焼け出された。

 浅井が住んでいるアパートの地域も激しく爆撃を受け、逃げるに逃げられない状態で、やむなく地下室に非難した。地下室へ飛び込んで驚いたのは、老人と婦人、子供が十五人ばかりいるだけで、壮年の男性は一人も見当たらないことだった。この地域の男性たちはすべて戦場に駆り出されたのに違いなかった。

 焼夷弾が爆発する大地の振動が遠くから近づいてきて、浅井が住んでいる四階建てのアパートも安全ではなくなってきた。アパートの屋上に焼夷弾が落ち、建物全体が大きく揺れる。このままではアパートが燃え上がり、地下室にいる全員が焼死するかもしれない。そんな不安にかられたとき、若い女性が悲鳴を上げた。

「娘がいない。屋上に残してきてしまった。だれか助けて」

 その女性は洗濯物を取り込みに屋上に上がったとき、空襲警報で慌てて逃げ出し、娘を置き去りにしてしまったらしかった。

 膝を抱えて震えていた老婦人が、浅井に向かって拝むように話しかけてきた。

「私たちは年寄りと女子供だけで、どうすることもできません。どうかこの人の娘さんを助けてください」

 蛮勇を振るっても、焼夷弾がひっきりなしに降ってくる外へ出る気にはならなかったが、ふと見回すと、その場にいる全員が拝むように浅井を見つめている。若い母親はおびただしい涙をあふれさせ、浅井に取りすがってきた。

 大変なことになったと浅井は腹の中でうなったが、少女を見殺しにすることはできない。それに屋上で炸裂する焼夷弾を放置すれば、アパートが焼け落ち、全員が焼死する恐れがある。拒絶すれば日本人の恥だと、浅井は勇気を奮い起こして立ち上がった。

 非常階段で屋上へ上がって周りを見渡した浅井の目に、町のあちこちで夜闇に赤い炎が立ちのぼっているのが映った。空はB二九の爆音に蹂躪され、爆撃機は我が物顔に振る舞っていた。焼夷弾が爆発し、夜空を紅蓮の炎が焦がす。

 焼夷弾が落ちてきたらどうやって消せばいいのか呆然とするばかりだったが、屋上に消火用の砂と水が用意されていた。空襲がひどくなるにつれ管理人が運び上げたのだろうが、こんなもので燃える焼夷弾を消し止められるのかと不安でたまらない。幸いにして命中した焼夷弾はすでに消えていたが、敵機は次々と爆弾を投下してくる。

 少女はどこだ!

 浅井が走らせた目に、屋上の隅で膝を抱え泣いている少女の姿が飛び込んできた。駆け寄って抱き上げたとき、焼夷弾がアパートの屋上に落ち、浅井は少女を胸にかばって本能的に体を伏せた。

 激しい爆発音とともに噴き上げた火は、周りをなめつくそうと広がっていく。着ている洋服が燃えそうで、浅井はあまりの熱に少女を抱いて火から逃げた。

 だが放っておけば焼夷弾の火がアパートに燃え移る。浅井は少女を火から遠ざけ、スコップをつかみ炎に向かって砂をすくい投げた。何度か繰り返すうち、さしもの焼夷弾も鎮火したが、ほっと息を抜く間もなく、次の焼夷弾が落ちてきた。

 四方八方から落ちてくる焼夷弾を懸命に消し止め、屋上に命中したものは何とか処理できたが、はっと気づくとアパートの三階が燃えている。

 階下から燃え上がってくるのでは手の施しようがない。このまま屋上にとどまれば焼け死ぬばかりである。

 どうやって脱出するかと逃げ道を探したが、あるのは非常階段だけで、その下からは赤い炎がめらめらと這い上がってくる。座していては焼死するばかりと、浅井は少女と非常階段を降りたが、下から上がってくる熱気に耐えられず、かといってほかに逃げ道もなく、万事休すかと思ったとき、二メートルばかり離れたところに四階のバルコニーがあるのが目に入った。

 そのバルコニー目掛け、浅井は勢いをつけて飛び移った。だが三階は火の海に包まれ、焼かれずに脱出することは不可能である。このままでは二人とも焼死する。

 ままよ!

 浅井は覚悟を決め、少女をきつく胸に抱きしめ、バルコニーから石畳の道路に飛び下りた。うまく足から着地できたと思った瞬間、衝撃の後に襲ってきた激痛に浅井は意識を失った。