永遠なる魂  第六章  あすに向かって 4

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 浅井は昭和五十七年初頭、GE-一三二の新薬承認を厚生省に申請した。あとは薬事審議会の審議を待つばかりである。

「やっとここまでこぎつけられたな」

 認可申請の書類が受理された当日の夜。浅井は自宅へ柿本を招き、エリカの料理でねぎらった。寒い日で、リビングには石油ストーブがたかれていたが、浅井は寒くてならなかった。

 七十四歳の浅井は、このところ疲れが抜けなくなっていた。GE-一三二を飲んでも、以前ほど効き目は顕著に感じられず、疲労気味だった。

 思い起こせば生死の境をさまよったドイツ時代から始まり、焦土の祖国に帰国してからは、貧乏と気苦労で休まる暇がなかった。六年前に喉頭癌が発見され、医者から治ったと太鼓判を押されていたが、手術のダメージはそれなりに残っているのかもしれない。

 GE-一三二が新薬として承認されれば大勢の人々を救えるが、認められなければ、一般大衆に行き渡らせられるよう、再び手段を講じなければならない。GE-一三二は無許可薬品として薬事法で厳しい規制を受け、あまりにも自由が利かなさ過ぎる。

 白血病の子供を抱えた母親、癌で苦しんでいる親を持つ子供たち、こうした人々からGE-一三二を分けてほしいと懇願され、あまりの不自由さに胸が張り裂けそうになる。どうやったら苦しむ人たちを救えるのか、GE-一三二を自由に投与する方法はないのかと嘆息するばかりである。

 浅井は今回の認可申請にすべてを懸けていた。無機ゲルマニウム半導体レーザー光線に使われるため、米国は軍需品として買い占め、価格は上がるばかりである。資金力のない一個人研究所が、医薬品の原料として安定的に購入するには、いささか厳しいものがある。新薬として承認されなければ、いずれ行き詰まるのは必至である。

 国防には莫大な軍事費が投入され、医薬品業界では十兆円もの資金が動いている。その一部がGE-一三二の研究のために投じられれば、国民の健康や福祉にどれだけ役立つかわからない。国家事業としてGE-一三二を取り上げ、人類の幸福のために研究を仕上げてもらいたいと願う。

 それはかならず実現すると浅井は信じて疑わない。

 浅井は居間に掲げてある自筆の書を見上げた。信念や自信、希望があれば若く、疑惑や恐怖、失望を抱けば老いると、自らを戒めた座右の言葉とともに愛誦している水五訓である。

             水五訓

 一、自ら活動し他を働かしむるものは水なり

 二、常に己の進路を求めやまざるものは水なり

 三、障碍に遇い激して力を百倍にし得るものは水なり

 四、自ら清くして他の汚を洗い

   清濁あわせ容るるの量あるものは水なり

 五、洋々として大洋を充たし

   発しては蒸気となり雨となり雲と変じて霧と化し

   凝っては玲瓏たる氷となり

   而してその性を失わざるものは水なり

 水五訓は中国の思想家、王陽明が言ったとも、戦国武将の黒田如水(官兵衛)の言葉ともいわれる、水の心を心として生きる教えである。

 水のように生きてきただろうか。自身の本質を変えず、精いっぱい物事にぶつかったきただろうか。浅井は人生を振り返り、いささかも恥じるところはなかった。

 これからもGE-一三二を認めさせるため、私心を捨ててあたらなければならない。それが難病に苦しむ人々を救う道である。

「お疲れの様子ですよ。認可申請したのですから、もう所長が先頭に立たれる必要はありません。しばらく休養なさってください」

 柿本が浅井の顔色に眉をひそめた。

「私のゲルマニウムが大衆の手に安く広く行き渡るのを見るまで、のうのうと休んでなどいられない」

「顔色が良くありません」

「書類作りで忙し過ぎたからな。だがあすからは解放されるから、元気が戻ってくるだろう」

「ここまでくれば、所員で進められます。審議には時間がかかりますから、気長に待ちましょう。所長もたまには気を抜いてください」

 柿本が落ち窪んだ目を浅井に向けた。書類作りで研究所の主だった所員は寝る間もない忙しさで、柿本の顔に疲れが出ていた。

 柿本が研究所に入ってきた時は、溌剌とした青年だったが、痩せた顔に皺が深く刻まれ、髪も白くなっている。大学を出てすぐ浅井と研究に専念したから、人生そのものがゲルマニウムとの付き合いだったことになる。わずかな報酬で良くここまでついてきてくれたと感謝に耐えない。

「君にも苦労をかけた。きっと私のゲルマニウムの研究を仕上げてもらいたい」

「気弱なことを言わないでください。所長がおられなかったら、ここまでくることはありませんでした。GE-一三二が脚光を浴びるまで、所長には元気でいてもらわなければなりません」

「そうだな」

 浅井は水割りを口に運んで微笑んだ。気持ちだけは元気だが、体はいうことを利かなくなっている。口にこそ出さないが、疲労困憊している、というのが浅井の本音だった。

 浅井の体調を心配した柿本は、エリカの心尽くしの料理を平らげ、早々に帰っていった。若い頃は腹がくちると徹夜で熱っぽく議論したものだが、もやはそれだけの元気はない。

 寝るには早かったが、浅井はGE-一三二を飲んでベッドにもぐり込んだ。疲労が体の奥底にへばりついているようだった。

「忙し過ぎたから、これからはゆっくり休むべきよ」

 浅井の早い就寝に、心配して様子を見にきたエリカが、額に手を置き優しく言った。

 浅井と愛し合ったばかりに、エリカは祖国を捨てた。戦時下の疎開、そしてドイツを命からがら脱出して来日し、やっと親子六人が一緒に暮らせるようになったが、それからの生活も楽ではなかった。

 食うや食わずの貧乏に耐え、エリカは一言も不満を漏らすことなく、研究しか頭にない浅井を陰ながら支えてくれた。糟糠の妻とはいうが、エリカにはどれだけ感謝しても足りない。

 子供たちも道に外れることなく、立派に育ってくれた。博和は父親が青春を燃やしたドイツに身を埋める覚悟のようで、医師としての使命を果たしている。長女の佐智子、二女の宏子、三女の照子も文句のない連れ合いを見つけ、それぞれ幸せに暮らしている。父親としてこれほど幸福なことはない。

 これでGE-一三二が新薬として認められれば、この世に生を受けた使命を果たせたと言えるのではないか。

 新薬として承認されてほしい。浅井の思いはそこに行き着き、いつしか眠りに引き込まれていた。

 翌日から浅井は熱を出して寝込んだ。原因は不明で、長年にわたって蓄積された疲労が、一気に噴き出したのかもしれなかった。

 熱は三日で収まったが、体のだるさは抜けず、浅井が研究所へ顔を出したのは一週間後だった。通常の勤務をこなすのに支障はなかったが、気力がいまひとつ湧いてこず、体力も衰えが目立ってきたようだった。

 それでも浅井は、ゲルマニウムの研究に気力を振り絞って情熱を燃やし、薬事審議会の審議が終わるのを待った。役所仕事の例に漏れず、審議会は長々と議論を続け、いつ結論が出るのか見当さえつかない状態だった。

 もっとも薬事審議会が新薬を承認するには、二年とか三年かけて審議すると聞いており、書類を提出したからといって、すぐに結論が出るものではなかった。

 だが、ひたすら待つというのは辛いもので、死刑執行を前にした死刑囚の気持ちに匹敵するのではないかとさえ思えた。

 浅井の好きな春が過ぎ、鬱陶しい梅雨が来て、もうすぐ軽井沢へ逃げ込む季節だと山荘行きを心待ちにしていた時、浅井は厚生省から呼び出しを受けた。

 薬事審議会の結論が出たに違いなく、浅井は勇躍して霞が関の厚生省に出掛け、担当者に会った。

「新薬の認可申請の件ですが、臨床例が不足していて認められないという結論が出ました。提出書類に不備も散見されます」

 度の強い眼鏡を掛けた中年の担当官は、大部屋の机の前で向かい合った浅井に、感情を交えない淡々とした表情で、冷酷に宣告した。

「有効性が認められなかったのですか」

「そうは申しておりません。書類の不備と臨床例不足で、実質的な審議に入ることができませんでした」

 浅井は耳を疑った。書類を提出して半年もたっている。それなのに書類の不備で審議さえ行われなかったというのはどういうことか。門前払い同然の役所の態度に怒りが沸き立つのを抑え、浅井は言葉を選んで尋ねた。

「書類を整えれば審議していただけるのですね」

「そういうことになりますが、慣れない方が書類を作成すると、どうしても不備が出てきます。手慣れた人の協力を求められたらいかがですか」

「製薬メーカーに頼めということでしょうか」

「それも一つの方法ではあります。それから臨床例のことですが、症例が絞られていないので、審議のしようがありません。癌の新薬として申請されるなら、ほかの疾患を臨床例として提出されるのは好ましくありません。少なくとも癌の臨床例を倍増し、それから再提出してください」

 担当官は事務的に説明するだけで、薬事審議会で審議された内容は一言も話してくれなかった。書類不備による門前払いだったのか、それともわずかでも臨床例の内容が検討されたのか、浅井の質問に担当官は答えられないと言っただけだった。

 厚生省から雨に濡れて湿気った街路に出た時、浅井は目眩がしてよろけた。

 門前払いだと。そんな馬鹿なことがあっていいのか 。

 怒りがふつふつとたぎってきたが、審議会の結論を変えさせる方法はない。担当官が指示したように、臨床例を増やして出直すしかない。

 だがそれまで、生命の炎を燃やし続けることができるだろうか。最近の気力体力の衰えは著しく、そろそろ迎えが近づいているのではないかとさえ思えてくる。七十五歳という年齢にしては他人が驚くほどの元気さだが、生命の火は尽きようとしているのではないか。

 今の今まで、浅井はおのれの死というものを、頭の片隅でさえ考えたことはなかったが、唐突に襲ってきた死の予感に不吉を覚えた。

 死ぬのが恐ろしいとは思わないし、全身全霊を投入して生きてきた人生を振り返って悔いはない。だが、GE-一三二を新薬として認めさせる使命がまだ残っている。それを果たさなければ死ぬわけにはいかない。

 新薬として承認されなかったショックが気弱にしているだけだ。今から書類を再提出するための仕事が待っている。GE-一三二が新薬承認されるのをこの目で見るまで、命の炎を燃やし続けなければならない。難病に苦しむ大衆を救うのが、おのれに課せられた使命なのだから 。

 浅井はそう自分に言い聞かせ、気力を振り絞って足を踏み出した。まだ目眩は収まっていなかったが、それに挑戦するように敢然と前を見据え、かならず承認させると声に出して呟いた。

 研究所へ帰った浅井は、所長室の椅子に寄り掛かるように体を沈めた。徒労感と疲労で体を動かすのも億劫だった。

「結果はいかがでしたか」

 浅井が戻ったのを聞きつけた柿本が部屋に飛び込んできた。GE-一三二が認可されることに疑いを持っていないようで、目と顔を輝かせている。そんな柿本に事実を知らせるのは忍びがたかったが、浅井は厚生省の役人に伝えられたことを説明した。

 柿本の顔が、形容しがたい表情に歪んだ。唇をきつく結んで一言も話さず、目を涙の幕が覆った。

「出直そう。書類さえ整えれば、私のゲルマニウムはかならず認可される」

「努力が足りませんでした。申し訳ありません」

「そうじゃない。薬事法という法律が、大企業のためにあるようなものだからだ。委員が患者のことを真剣に考えているなら、臨床例が少なくても、きちんと審議したはずだ。君たちのせいでは決してない」

「さっそく書類を整理して作り直します。ゲルマニウム研究会に要請し、まだ発表されていない臨床例を報告してもらいます」

「そうしてくれ。私のゲルマニウムはかならず認可される。人類のためにも、そうならなければならないのだ」

 柿本の前では気丈に振る舞ったが、一人になると体の力が急に抜けた。指揮官がこれではいけないと思うのだが、一度なえた気力は奮い立たず、動く気力さえ湧かない。

 所員は前にもまして書類作成に熱心に取り組むだろうが、どんなに臨床例を増やそうと、結果は同じではないかと浅井は思えてきた。現行の薬事法がある限り、一個人の力で新薬を承認させるのは不可能なのではないか。大山が断言したように、GE-一三二が新薬として認められる日はこないのではないか。

 弱気になってはいけないと自らを叱咤するが、日がたつにつれ、浅井の予感は確信に変わっていった。

 それを裏付けるように、ゲルマニウム研究会の代表幹事である武藤が、怒りをあらわに研究所を訪ねてきた。普段は温厚で冷静さを失わない武藤だが、所長室で浅井の顔を見るなり激しい言葉を吐き出した。

「新薬承認されなかったのは、製薬メーカーの陰謀です。薬事審議会のメーカー側委員が、GE-一三二を認可しないよう働きかけたのです」

「公正な審議会で、そんなことが許されるのですか」

「事実です。実は、審議会の心ある委員から内情を教えてもらいました。GE-一三二を審議会で取り上げるのに反対したのは、委員の池田です」

「どうしてそんなことを?」

「GE-一三二が認可されたら、自分たちが申請した抗ガン剤が使われなくなるからでしょう」

 池田や伊藤は三度目に出した特許を、裁判中にもかかわらず大手製薬メーカーに売り、新薬として承認させようと動いていた。

 武藤の指摘に、浅井はなるほどと思った。GE-一三二が認められれば、池田たちが申請した新薬が特許からみで問題になる。それを察して、大山はGE-一三二を手中に取り込もうと訪ねてきたのに違いない。池田たちの新薬とGE-一三二を手中に収めれば、自社製品として病院へ高額で卸すことができる。薬の値段などあってなきに等しいから、原価の何百倍もの値段で販売する計画だったのに違いない。

 だが浅井は大山の申し入れを、独力で申請するからと素っ気なく断った。浅井ゲルマニウム研究所を傘下に治められないと悟った大山たちは、多くの患者がGE-一三二を求めているのを知りながら、自社の利益を守るために、新薬として承認させないよう画策したのに違いない。患者の求めを無視し、GE-一三二を闇に葬り去ろうとした彼らは、人間の屑以下だ。

「負けはしません。所員が書類を作り直しています」

「こうなったからには、どの委員も文句のつけようがない臨床結果を突きつけるしかありません。ゲルマニウム研究会の参加者を督促して、臨床例をもっと集めさせましょう」

 薬事審議会で、懸念した通りのことが起こっていたと、浅井は悟った。彼らの行為は許されるものではなく、できればマスコミに伝え、大々的に取り扱ってもらいたかった。

 だが、薬事審議会で議論された内容は非公開で、たとえマスコミに訴えても、事実は漏れてこないだろう。池田や大山の暗躍が、白日の下に晒されることはない。

 浅井は激しい徒労感に襲われた。薬事審議会の委員は、患者を救うために新薬を承認するのが使命のはずなのに、彼らはそこから外れ、資本主義の権化としてメーカーの利益しか念頭にない。だから患者の苦痛を考えず、癌細胞だけを狙い撃ちするような薬剤を、平気で承認する。彼らが人の心を失った人間の集まりなのは、今に始まったことではない。

 真相を知らされた浅井は、張り詰めていた気力が、穴のあいた風船のようにしぼんでいくのを感じた。

 GE-一三二をどれだけ飲んでも、浅井の気力は戻らず、食欲は失せていった。

 軽井沢の山荘にこもり、思索に耽ろうとしたが、以前のように意識が集中できない。散策に出るのさえ億劫である。

 鬱々していたある日、浅井は大量に吐血した。すぐに病院へ運ばれたが、着いたとき車の助手席は血の海だった。

 入院した浅井は、絶対安静を言い渡され、どれだけ頼んでもGE-一三二を飲ませてくれなかった。GE-一三二を治療に使っている開業医が、胃潰瘍に投与すると好転反応で吐血することがあると説明しても、病院では理解しようとしなかった。

 所員が入れかわり立ちかわり見舞いにきたが、言葉を口にするのも億劫で、簡単な受け答えしかする気にならない。

「なんだ。おれは死ぬのか」

 カナダにいた娘が見舞いに来たのを見て、浅井は寿命が尽きようとしているのを悟った。

 七年前に喉頭癌が見つかり、GE-一三二のおかげでここまで生きてこられた。現代医学では、癌に罹かり五年以上生存したら完全治癒と認められるが、浅井はその期間をはるかに上回って元気だった。GE-一三二の効果を身を持って証明したのである。

 だが、長年の心労や過労は、確実に浅井の肉体を蝕んでいて、さしものGE-一三二も力尽きたのかもしれなかった。

 ましてや、入院先の病院がGE-一三二の投与を認めないとあっては、浅井は天命を待つしかない。

 伊藤たちとの裁判の行方が気掛かりだったが、動けぬ身としては成す術がない。あとは柿本たち所員に任せ、勝訴を願うばかりだった。

「きっと私のゲルマニウムを新薬として承認させてほしい」

 臨終間際、駆けつけてきた柿本に、浅井は最後の気力を振り絞って遺言した。柿本は頬に涙を滴らせ、唇をきつく結んで何度もうなずいた。

 浅井はベッドの脇で見つめているエリカに目を向けた。苦労をともにした妻を、一人残して旅立つのは心残りだが、あの世があるとすれば、いつか再会できるだろう。

 二人の魂は時空を超越して結ばれている。

 浅井はエリカのほっそりした顔を見つめた。その顔が霞んでいき、何も見えなくなった時、浅井の前に卒前として真っ白に輝く光が現れた。

 光の中で先に旅立った大勢の人が、笑みを浮かべて浅井を招いているのが見えた。

 その光に照らされた瞬間、浅井からすべての苦痛が消え去った。体が急に軽くなり、心身ともに爽快になったと思ったら、いつのまにか白光に呑み込まれていた。白い光に優しく包まれた浅井は穏やかに微笑んだが、それもやがて光に溶け込み、眩く輝く光だけの世界に入っていった。