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翌日の月曜日。午前十時に東京都調布市の浅井ゲルマニウム研究所へ出勤した浅井に、待っていたように小柄で小太りの及川浩と、ほっそりした柿本紀博が走り寄ってきた。及川は山登りと蝶々の収集が趣味で、外歩きばかりしているので肌は焼けて浅黒く、普段は精悍な顔つきの男だったが、頬が青ざめ目が異様に鋭くなっている。
及川は二十年以上も浅井と苦楽をともにしてきた優秀な研究者で、今は東洋大学で教鞭を執るかたわら、浅井ゲルマニウム研究所の所員の相談に乗っていた。水に溶ける有機ゲルマニウムの合成に成功したのは、及川の研究を発展させた柿本で、彼らの功績が今の研究所の礎になっていた。
「所長。大変なことになりました」
柿本がせき込んで言った。
「慌ててどうした」
「警察から呼び出しがきました」
「理由は?」
「薬事法違反の疑いがあるから、所長から事情を聴きたいと」
「やれやれ、またか。それで、いつ出頭しろと?」
「きょう中に来いと強硬です」
「今から行ってこよう。出頭を求めてきたのは、どの担当だ?」
「薬物対策課です。私もご一緒しましょうか」
「薬事法に触れるようなことはしていないから、心配することはない。おおかた、研究所を中傷する投書が舞い込んだんだろう」
不安な面持ちの及川に笑いかけ、有機ゲルマニウムの合成に取りかかっている柿本に目でうなずき、浅井は警視庁を目指した。
警視庁から出頭を命じられても、浅井はわずかな動揺もなかった。金儲けのために悪事を働いているわけではなく、難病に苦しんでいる人たちを救おうと努力していることの、どこが悪いのか。浅井は疚しい気持ちなどかけらもなかったから、警察だろうが厚生省だろうが、正面から対決するのをためらったことはない。正々堂々と正論を主張すれば、かならず報いられるというのが、浅井がこれまでの六十二年間の波瀾に満ちた人生で学んだことだった。
「あなたが医師法や薬事法に違反しているという投書がたくさんきています。有機ゲルマニウムを無許可で患者に投与していますね」
警視庁薬物対策課に出頭した浅井は、狭い殺風景な取調室の簡易テーブルに座らされ、向かい合った刑事に鋭い視線で見据えられた。
「お調べになればわかりますが、違反したことなどありません」
「だが投書は、あなたが患者に有機ゲルマニウムの投与を指示していると指摘しています。患者から事情聴取しましたが、あなたから有機ゲルマニウムを買ったと何人もが証言しています。明らかに医師法と薬事法に違反しています」
やはり投書が発端だったかと浅井は納得した。浅井ゲルマニウム研究所を設立したのは二年前の昭和四十三年だが、有機ゲルマニウムの効果が人づてに広まり、大勢の難病患者が訪れるようになっていた。そして、医者に見放された病人が次々と治っていき、有機ゲルマニウムは生命の元素だとますます確信を強めていた。
だが、それに伴って有機ゲルマニウム治療に医者や薬品会社の反発が強まり、新聞や雑誌にインチキ薬を認めるなと何度も投稿された。彼らはそれだけでは飽き足らず、警視庁や厚生省に医師法や薬事法違反だと、中傷する投書を送ったのに違いなかった。実際、浅井が警視庁や厚生省に呼び出されたのは、きょうが初めてではない。呼び出しには応じざるを得ず、その度に刑事や役人と激論になるが、不愉快極まりないことである。
人はなぜ、目障りな相手がいると、陰でこそこそ足を引っ張ろうとするのか。浅井は怒りを禁じえない。
「有機ゲルマニウムは体内の酸素を増やすだけで無毒無害です。それに短時間に体外に排出され、副作用はまったくないので、医薬品ではありません。それなのに、どうして医師法や薬事法の違反に問われなければならないのですか」
「有機ゲルマニウムは化学合成品ですね。そして薬効をうたっている」
「私は病気を治すなどと言ったことはありません。人間の病気は酸素不足から起こります。酸素欠乏が癌などの病気を発生させます。有機ゲルマニウムは欠乏した酸素を補充し、結果として病気が治っていくと話しているのです」
「それを薬効をうたっていると言うのです。そして大勢の人に投与している。医師法違反、薬事法違反です」
「特定の病気を指して治ると言えば、刑事さんのおっしゃる通りでしょうが、酸素不足を解消するというのが、どうしていけないのでしょうか。それから、不特定多数の患者さんに販売したことは一切ありません。難病に苦しむ人たちから懇願されて分けているのであって、大勢の患者さんから感謝されています。救いを求める人たちを助けてはいけないのですか」
「しかし、対価を取っている。販売していることにほかならないではありませんか」
「実費をもらわなければ研究所は成り立っていきません。だが、利益を得るために販売したことはありません。患者さんに聞けばわかることです」
「事実がないのに、多くの投書がなされるわけがない」
「投書が事実を指摘しているとは限りません。納得できないなら、逮捕するなり起訴するなりしてもらってけっこうです。裁判ですべてが明らかになるはずです」
今回の事情聴取は執拗で、浅井は言わずもがなのことを口にして正面の刑事を睨み据えた。
「否定されるのですね。言い逃れても、調べればすべてわかりますよ」
「私には疚しいところは一つもありませんから、どうぞご自由にお調べください。私のような善良な人間から事情聴取するより、でたらめを投書する人間を、名誉棄損で調べられたほうが、世のため人のためになるのではありませんか」
「捜査方針は警察が決めるもので、あなたにとやかく言われる筋合いはありません。きょうのところはあなたの主張を信じるとして、二度と不特定多数には販売しない、という内容の始末書を提出してください」
「それはできません」
「強制捜査することになりますよ」
「不特定多数に販売した事実はないと、さっき説明しました。捜査されようとどうしようと、嘘を文書にすることはできません」
「頑固な人だ。それなら、こうしましょう。今後は不特定多数への販売を自粛します、というのではどうですか」
「過去に一度も販売したことはないわけですから、それも事実ではありません。ですが、今後とも不特定多数への販売はしません、という誓約書なら書いてもかまいません」
「それで結構です。誓約書の内容は守っていただけますね」
「守るも何も、これまで売ったことはないわけですから、破りようがありません」
毅然とした姿勢を取り続ける浅井に根負けしたのか、刑事は誓約書を受け取り、取り調べから解放した。
桜田門の警視庁を出て、何度、同じことがあっただろうかと、浅井は厚い唇を結びため息をついた。人類の救済を願って開発した有機ゲルマニウムを、どうしてここまで目の敵にするのか。
浅井は終戦後間もなく、浅井ゲルマニウム研究所の基となる石炭綜合研究所を創設した。その時代から、利益追求だけを旗印にし、祖国や人類のためという理想を持たない会社の経営者や金亡者を、嫌というほど目にしてきた。彼らは自己の利益のためだけに汲々とし、人類のためという大儀を失っている。というより、持とうとしない。心の貧しさゆえだろうが、何とも情けないものである。
投書したのはそうした人間、製薬会社の関係者や医者に違いない。彼らこそ利潤追求から遠く離れ、患者の利益だけを願わなければならないのに、やっていることは正反対である。
研究所へ戻る道すがら、浅井は厚生省の役人に以前言われたことを思い出した。あのときも厚生省に投書が寄せられ、担当者がバラック同然の研究所へ来て浅井から事情聴取した。
担当者は浅井の説明に納得したものの、最後に口にしたのは、資本主義の権化のような言葉だった。
「あなたが言う通りの効果があるとしても、有機ゲルマニウムが薬事法で認可されることはあり得ませんね」
「最初から色眼鏡で見てほしくありません」
浅井はむっとして担当者の顔を睨み付けた。
「そういうことではなく、認可を受けるためには多額の資金と、何千枚にも上る膨大な書類が必要です。個人では不可能だと言いたいのです」
「ということは、どんなに効果があっても、個人が開発したものは認可されないということになりませんか」
「現在の薬事法ではそうなっています」
「それでは、薬事法は大企業のための法律ではありませんか。人類を救うためのものとは、とても言えません」
「法律がある限り、国民はそれに従わなければなりません。もし、あなたが本気で有機ゲルマニウムの製造認可を取り、患者のために使用したいと考えるなら、どこか力のある製薬会社に特許を売るべきです。普及させるにはそれが一番ではないでしょうか」
「私は難病患者を救いたいという一心で研究しているのであって、企業を儲けさせるために努力しているのではありません。人間のためにならない法律なら、改正すべきです」
浅井の剣幕に担当者は目を剥き、呆れたというように首を振って口を閉ざした。
法律は人間がより良く生活できるためにある。浅井は東大で法律を学んだが、薬事法なり医師法、いやすべての法律は、人間のためという根本精神を忘れ、法律のための法律になっている。それでは本末転倒である。
警察に事情聴取されたり厚生省の役人に訊問される度に、浅井は大学で受けた講義の内容を思い出し、白昼夢を見る。
ある講義のときに教授が雑談で話してくれたことだ。盗電をした男がいた。針金でメーターを避け、電気を使用していたのである。電力会社が告発したが、刑法第二三五条は、窃盗とは財物、つまり有体物を窃取したるときとあり、電気は財物すなわち有体物ではないから、窃盗ではないと犯人は主張した。
鰻屋の前で匂いを嗅いで飯を食べたら窃盗になるのかとか、隣の家の電灯で本を読んだら泥棒になるのかと、屁理屈だらけの議論が法廷で展開され、犯人は無罪になってしまったというのである。
これでは電力会社が困るというので、条文が急遽追加され、第二三五条で、電気は財物即ち有体物とみなす、と規定し、盗電を防ぐようになった。
冗談のような本当の話だが、薬事法に触れるというなら、有機ゲルマニウムは適用を受けないという条文を、どこかに一言入れれば済む。心ある政治家が議員立法でもなんでもいいから薬事法を改正してくれれば、気兼ねなく有機ゲルマニウムを難病患者の治療に使えるようになる。
そんな途方もない夢を思い浮かべるのだが、他人に頼らずこの手で有機ゲルマニウムを認めさせなければならない。有機ゲルマニウムを普及することは、天から課せられた使命だと浅井は信じて疑わない。研究のために一命を落としたとしても、それは使命を果たしたことになり、悔いはしないに違いない。
警視庁から研究所へ戻った浅井に、及川と柿本が不安をあらわに駆け寄ってきた。
「いかがでしたか」
及川が神経質そうに瞼を何度も瞬かせた。
「今後とも不特定多数には有機ゲルマニウムを販売しません。そういう念書を提出して終わりだ」
「販売したことなどありませんが」
「だから、今後とも、という表現にしたんだ」
「それじゃ、無罪方面ということですね」
「法律を犯していないのだから、無罪もなにもないさ」
「良かった!」
及川と柿本が顔を見合せ歓声を上げたとき、事務を任せている小村涼子が走り寄ってきた。
「お客さんがさきほどからお待ちです」
「患者さん?」
浅井は尋ね返した。研究所に難病患者が訪ねてくることはあるが、研究所には医師の資格を持った人間がいないから、治療の相談を受ければ医師法違反に問われる。だから、すべての所員に相談には乗らないよう周知徹底させていた。
「忘れていました。前畑という公認会計士です。帰るのは何時になるかわからないと伝えたのですが、待たせてくれと強引で」
柿本が頭をかいてバツの悪そうな顔をした。
「なんの用だろう」
「所長に直接お話ししたいことがあると言っていました。所長室に通してあります」
「とにかく会ってみよう」
公認会計士に知り合いなどいないから、浅井は首をひねって二階の所長室に向かった。所長室といっても、倉庫を改造した研究所の二階につくった小部屋で、もっぱら来客用に使っていた。
ドアをノックして部屋に入った浅井に、男が弾かれたように立ち上がって体を二つに折った。
「前畑と申します。お留守中にお邪魔して申し訳ありません」
前畑は四十代半ば、温和な顔で目の光は澄んでいた。
「どういうご用件でしょうか」
浅井はソファを勧め、前畑と向かい合った。
「先生のゲルマニウムが大勢の難病患者をお救いになっていると聞きました。世に広めるお手伝いをさせていただけませんでしょうか」
前畑は姿勢を正し、澄んだ目を真っ直ぐ浅井に注いだ。公認会計士が何を手伝いたいというのか理解できず、浅井は相手の顔をつくづくと眺めた。
「知人が先生のおかげで末期癌から生還しました。それを聞き、苦しんでいる難病患者のために、是非とも世に広めるお手伝いをしたいと思い立ちました」
「お知り合いというのは」
「福崎と言いまして胃癌でした。こちらで有機ゲルマニウムを分けていただき、半年ばかり服用して病院で検査したら、癌は跡形もなくなっていました。医者は奇跡だと首をひねっていたそうです」
その人物には覚えがあった。研究所へは毎日のように何人もの人が訪ねてくるから、一人一人の名前など正確には記憶していないが、福崎は浅井と顔を合わせるなり、助けてくれと土下座して訴えたのが印象に残っている。
「それは良かった。彼は治癒しましたか。しばらくお訪ねにならないので、どうされたかと心配していましたが」
「今度会ったら、先生にお礼にうかがうよう伝えておきます」
「礼など必要ありません。私は困った人を助けるのが生きがいなのですから」
「先生。偉大な元素を知った人間は、それを世に知らしめる責務があるのではないでしょうか」
前畑が熱っぽい目を浅井に向けてきた。顔は輝き、全身から精気がみなぎり、いかにも行動的な人物らしい。
「そうしたいとは考えていますが、医師法や薬事法の壁があって、簡単ではありません」
「製品を不特定多数に販売しようとするから薬事法違反に引っ掛かるのです。会員組織を作り、特定の人たちだけに販売すれば、薬事法に触れることはありません」
「そんなものですか」
「考えてもごらんください。不特定多数への販売というのは、宣伝をしたり店頭に置いたりして、見ず知らずの人たちに売る行為です。しかし、会員が分けてほしいと頼んでくれば、対象は特定少数の人々になります。ですから、会員組織にすれば問題はありません。私は仕事がら、そうしたことには慣れていますので、お手伝いさせていただきたいのです」
浅井は前畑の言葉に心を動かされた。どんな形であれ、有機ゲルマニウムが世間に広まれば、大勢の難病に苦しむ患者が救われる。浅井には開発者として有機ゲルマニウムを普及する責務がある。前畑が主張する通りだった。
「会員組織が簡単にできるものでしょうか」
「有機ゲルマニウムの効果は噂で広がっています。募集すれば、すぐに何万人もの人が集まるはずです」
「そんなにうまくいきますか」
「会員の募集は私にお任せください。ただ、新しく会社を作って会員を組織するとなると、手続き上、さまざまな面倒が出てきます。ですが、休眠会社を利用すれば簡単です。その会社が有機ゲルマニウムの販売で収入を得て、その資金をもとに動物実験や臨床試験を行えば、薬事法の許可を取ることも可能になります。任せていただけば、最高の結果が出るよう努力します」
真剣な目で自信を持って言う前畑に、浅井はこの男に任せてみようとうなずいた。
しばらくして前畑はどうやって探し出したのか、東京健康社という休眠会社を復活させ、断ったのにもかかわらず浅井を代表権を持つ役員として登録した。それが前畑の誠意のように思われ、浅井は全面的に彼を信頼した。
前畑は浅井から有機ゲルマニウムの製品を受け取り、製造費になにがしかを上乗せして代金として支払ったから、研究所の資金繰りは目に見えて楽になっていった。浅井と所員は徹夜してでも、前畑の求めるだけの量の有機ゲルマニウムを製造し、東京健康社に収めた。
まったくの他人が研究所の仕事に関係するのを懸念していた柿本も、研究費が潤沢になると前畑を信じるようになっていった。
会員組織は順調に拡大しているようで、製造費の支払いは滞りなく、浅井の前畑への信頼は増していき、製品を作っては東京健康社に有機ゲルマニウムをせっせと運んだ。
もっとも、そうして得た金はすべて原料費や研究費に回ってしまい、所員の給料を支払えば後にはわずかな資金も残らない。
だが浅井は、金儲けのために有機ゲルマニウムを作っているのではなく、難病に苦しむ人を救うためと一途に思い込んでいたから、研究所開設で借りた金を返し、所員の給料を払えれば、手元に金が残らなくても苦にならなかった。
「できれば先生にもご出資いただくとありがたいのですが」
浅井が有機ゲルマニウムの粉末を東京健康社に運んだある日、前畑が遠慮気味に切り出した。代表取締役の出資金がゼロでは恰好がつかないというのである。
「申し訳ありませんが、資金の余裕がないので、ちょっと無理ですね」
前畑の誠意に報いたかったが無い袖は振れず、断るのが心苦しかった。
「そうですか 。出資していただけば、東京健康社の株式配当金をお支払いできるのですが」
「名前だけの社長ですから、配当金などいりません」
「先生のおかげで、東京健康社は順調に営業成績を伸ばしています。利益を研究所に還元したいのです」
「いまのままでも十分によくしていただいています。心配なさらないでください」
「それじゃ、こうしませんか。資金にゆとりがないということなので、研究所を現物出資していただき、東京健康社の名義に変えさせてください。代わりに株式をお渡し、配当金をお支払いします」
「それでよろしいなら」
東京健康社の利益を配分したいという好意を無下に断るわけにもいかず、浅井は前畑の提案を受け入れた。
「ありがとうございます。これで先生のご恩に報いることができます」