永遠なる魂 第一章 命の水 3

 

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 浅井はある患者のことがずっと気掛かりで、研究所の運営が楽になっても心楽しまなかった。

 その患者の父親と初めて会ったのは一年半ほど前だった。野村という六十歳近い老紳士で、浅井がある新聞に「ゲルマニウムにとりつかれて二十余年」と題して寄稿した記事を見て、新聞社に自宅の住所を問い合わせ訪ねてきたのだった。接客するには粗末な居間に招き入れた野村は、挨拶もそこそこに浅井の顔を見つめて話しはじめた。

「先生。十九歳になる娘が脳腫瘍で激痛に苦しんでいます。脳腫瘍は再発で、医者から見放されてしまいました。ゲルマニウムでなんとか助けていただきたいのです」

 十九歳と聞いて胸が痛んだ。脳腫瘍は不思議に二十歳前の乙女に多く、まさしく難病中の難病だった。

「詳しい病歴を話してください」

「二年前のことです。娘が激しい頭痛を訴えたので、東大の脳神経外科で診察を受けました。結果は脳腫瘍で、手術しましたが、病院ではあと二年と宣告されました」

「それが再発したのですね」

「病院では、手術をするしかないが、命は保証できないと 。危険は冒せないので手術はやめたのですが、頭痛は酷くなる一方で、可哀そうで見ていられません。なんとかならないでしょうか」

 成年に達しようとする娘が、不治の病に侵された親の心境はいかばかりか、察するに余りある。何の罪もない乙女を連れ去ろうとしている死神に、浅井は激しい怒りを覚えた。

「これは私が合成した有機ゲルマニウムの〇・二パーセント水溶液です。お帰りになったらすぐお嬢さんに四十cc飲ませてあげてください。毎日四十ccずつ、朝、昼、晩の三回、食前に服用してください。ただ、ゲルマニウムの効力を発揮させるため、血液を酸性にしないよう、食事に十分に気をつけてください。病院の薬は一切やめて、ゲルマニウムを信じて服用することが大切です。子供の場合は両親の精神的な影響が非常に大きいので、絶対に治ると祈りを込めてお嬢さんに接してください」

 野村は畳に頭を擦りつけるようにして礼を言い、有機ゲルマニウムの水溶液を押し抱いて帰っていった。

 その翌日の夕方だった。研究所から帰宅し寛いでいた浅井に、野村から電話があった。

「娘の頭痛が嘘のようになくなりました。そして食欲が凄いのですが、食べさせてもいいのでしょうか」

 訪ねてきたときとは違って父親の声は弾み、症状を聞かなくても有機ゲルマニウムが強力な効き目を発揮したのを物語っていた。

「それは良かった! 肉類などの酸性食品は避けて、豆腐とか新鮮な野菜をどんどん食べさせてください」

 野村が電話の向こうで何度も頭を下げているのが様子でわかった。このまま有機ゲルマニウムを服用すれば、娘の脳腫瘍は驚異的な快復を見せるに違いない。二年の命という医師の宣告を、有機ゲルマニウムはきっと打ち負かすだろう。

 浅井は三日後、有機ゲルマニウムの水溶液五百ミリリットルを入れた瓶を五本持ち、東京・品川にある野村の家を訪ねた。敷地面積が五十坪ほどの平屋の家で、病人は家の中で一番広い八畳の和室に横たわっていた。

 長患いの病人がいる家は、見舞いに行くたびに独特の暗さを感じるが、やはりこの家も、湿っぽい空気が全体に充満し、浅井は息苦しさを覚えた。

「気分が良くなったそうだね。これを飲み続ければきっと全快する。かならず健康になると念じて飲むんだよ」

 やせ細った少女の手を握りしめ、浅井は有機ゲルマニウムの効用を熱心に説明した。長い髪の少女は目鼻だちが整い、やつれていなければ美しいに違いなかった。元気なら友人と手を取り合ってはしゃいでいるはずで、一日も早く健康を取り戻させてやりたかった。

 浅井はそれから月に一度、有機ゲルマニウムを持って少女を見舞い、麻痺している左足をさすったり、舌のもつれを取るために歌を合唱した。少女の快復は浅井でさえ目をみはるほどで、病床から起きて縁側で日向ぼっこしたり、家族と一緒にテーブルで食事できるまでになった。

 そのまま順調に快復するかと思われた少女の具合が悪くなったのは、有機ゲルマニウムを服用しはじめてから一年半後の最近だった。二年の命と宣告され、すでにその時間は過ぎていて、これならと思った矢先である。

 少女の後頭部がコブのように盛り上がったのである。それに呼応するように少女は元気がなくなり、寝た切りになってしまった。

「手術の状況を詳しく話してくれませんか」

 ある日、少女を見舞った後、野村に聞いてみた。

「癌の位置が深く、取り切れませんでした。その癌が脊髄の髄液の出口を塞いでいるので、管を脊髄に入れて髄液が流れるようにしてあるそうです」

 馬鹿な! と浅井は思った。そんな手術では一時しのぎのごまかしにすぎず、いずれ癌は成長して少女の生命を奪う。医者の無責任さに、浅井は握った拳を震わせた。

「死んだ癌細胞が出口を求めているのです。すぐ取り去らなければなりません。病院で相談なさってください」

 有機ゲルマニウムの効果で、癌細胞が壊れ赤い膿血になるのを、浅井は何度も経験してきた。癌細胞はたんぱく質だから、腐敗すれば毒素が発生する。少量なら自然排泄されるが、この少女のように大量だと無理で、早急に取り出さなければならない。膿血を除去して治癒した同じ症状の患者が何人もいる。

「手術などしません」

「なぜですか。今、膿を取らなければ危険です」

「どうせろくな手当てもできず、娘を苦しめるだけです」

「癌を切除するのではありません。死んだ癌細胞が毒素を発生するので、それを取り除くだけです」

「病院は信頼できません」

 野村の医者への不信感は拭いがたいようで、浅井がどれだけ誠意を込めて説得しても承知しようとしなかった。

 体の中の異物を取り除くだけだと、その後も浅井は説得したが、野村はかたくなに拒否するばかりだった。少女を何もせず放置すれば、死んだ癌細胞の毒素が全身を蝕み、いずれ命の火が消える。何とかそれを食い止めたいと、浅井は服用させる有機ゲルマニウムの量を増やした。

 毒性はまったくないとわかっているし、浅井自身も大量に服用して副作用はなかった。そして、有機ゲルマニウムを飲めば飲むほど体の新陳代謝が高まるから、死んだ癌細胞の膿血を自然排泄してくれるのではないかと期待したのである。

 少女の病状は良くもならず悪くもならず、小康状態を保っていたが、膿血は自然排泄される様子もなく、何度も手術するよう話したが野村は首を横に振るだけで、執拗な説得に漢方薬へ切り替えるとまで言いだし浅井を慌てさせた。こうなっては手の打ちようがなく、有機ゲルマニウムの服用を続けさせるのが精いっぱいだった。

 浅井は少女のことが気掛かりだったが、あまりしつこく手術を勧め、野村が有機ゲルマニウムの服用をやめさせたら最悪の事態になると、訪ねるのを遠慮していた。

 そろそろ見舞いに行かなければと浅井が思いはじめたころ、前畑が一人の男を研究所につれてきた。

「ご紹介します。医学博士の李大起先生です」

 紹介された李は四十代半ばで細面、意志の強そうな眼差しで、理知的な顔をしていた。ストレス学説で有名になったカナダのモントリオール大学医学部のセリエ教授の指導で学位を取り、東大医科学研究所に招かれて来日中ということだった。

「ご専門の研究はなにをなさっているのですか」

イタイイタイ病水俣病など、重金属が人体に及ぼす影響と治療法を研究しています」

 ソファの正面に座った李は、整った顔を真っ直ぐ浅井に向け、堅苦しい言葉づかいで言った。少し冷たい顔つきが気になったが、日本の生活に慣れていないせいだろうと、浅井は好意的に受け取った。

李博士の実力は厚生省から高く評価されています。博士が有機ゲルマニウムの毒性を試験し、難病で臨床試験を行えば、薬事法の認可が得られるのは確実です」

 前畑が持ち上げたが、李はそれに取り合わず、表情に乏しい顔を浅井に向けた。

「論文を読ませていただきました」

 セリエ教授の門下生というだけあって李は博識で、胸を張って受け答えする自信満々の態度に、この人物が臨床試験を実施してくれれば、前畑が言うように薬事法の認可を得られるかもしれないと期待が膨らんでいった。

有機ゲルマニウムでどういう治療をなされるおつもりですか」

「重金属の中毒患者に服用してもらいます。有機ゲルマニウムは体内に蓄積した重金属と結びつき、排出させるのではないかと思われます」

「理論的にはそういうことになるでしょうね」

「蓄積した有害物が体外へ排出されれば、中毒症状が改善されると予想されます。いまのところイタイイタイ病水俣病は治療方法がありませんが、きっと素晴らしい改善が見られるのではないかと考えています」

「それは是非とも試みていただきたいものです」

「ついては、臨床試験のために有機ゲルマニウムを供給していただけませんか。残念ながら研究費が少ないので、実費にも満たない金額しかお支払いできませんが」

臨床試験に使っていただけるなら、費用はいりません。それより、患者さんの苦しみを少しでも和らげてあげてください」

 浅井は李の求めに快く応じた。だが、要求されたのは大量で、機械的に大量生産できないから、求められるだけの量を確保するのは容易ではない。

 有機ゲルマニウムは、金属ゲルマニウムと塩化水素ガスを、触媒と高温で反応させてつくる。反応は八百 千二百度の高温から始まり、炉の温度を一定にしなければならないが、当時は温度を高温に保つ装置などなかった。金属と気体の反応は時間がかかるから、始めると十二時間は目を離せない。量を確保しようとすれば、どうしても徹夜仕事になってしまう。

 しかし、薬事法の認可を得るためと思えば意欲が一段と増し、徹夜を重ねては作った製品を東京健康社に運び込んだ。原価にして二億円にはなる膨大な量だった。

「製造設備を拡大したいと考えているのですが、どうでしょうか。臨床試験を推進するには、もっと量が必要ですから」

 李が臨床試験を始めてから少しして、研究所を訪ねてきた前畑が提案した。

「ここでですか?」

 研究所は所狭しと製造設備や研究器材が並び、これ以上の器械を入れる余裕はない。

「新しく研究所を作り、ビルを購入しようと考えています。そこへ増産設備を設置したらどうでしょうか」

「ビルと言われたが、資金はどうされるのですか」

「私が顧問をしている会社に立て替えさせます」

「そこまでご迷惑をかけては」

「利益から返してもらいますからご心配には及びません。了解していただけますね」

 前畑の行動は迅速で、設備増設の話があってから一カ月もたたないうちに、小田急線沿線の鶴川に鉄筋コンクリート三階建てのビルを購入してしまった。浅井たちは調布市の研究所にあった有機ゲルマニウムの製造設備一式と研究器材、原料の金属ゲルマニウムを運び込んだ。これまでとは桁違いに広い研究所に、いよいよ正念場だという思いが噴き出し、浅井は興奮で身震いしたほどだった。

「いよいよ学会発表です」

 前畑から折に触れ電話で李博士の動向がもたらされていたが、四十五年の秋、臨床試験が終わったから、日本の総合医学会で発表講演すると連絡が入った。

有機ゲルマニウムの研究成果が公になるのですね」

「すでに臨床報告が先生のところへ届いていると思いますが、有機ゲルマニウムイタイイタイ病に驚異的な効果を示しました。この発表で、間違いなく新薬として承認されるはずです」

 前畑は発表内容が衝撃的だからマスコミが注目し、李の記者会見も予定されていると得意気に言った。

 李博士は、有機ゲルマニウムの毒性試験にマウスとラットを三千匹ずつ使ったといい、浅井は前畑を通じて代金を支払っていた。さらに、カドミウム公害によるイタイイタイ病の治療実験用として、三千万円に相当する有機ゲルマニウムも渡してあった。

 それへの義務とでもいうように、李博士は一カ月ごとに臨床試験の結果を律儀に送ってきて、それを読む限りでは、有機ゲルマニウムは重金属中毒に顕著な効き目を示していた。

 前畑の電話を受けた浅井は小躍りして喜んだ。有機ゲルマニウムの効果がやっと学術的に証明され、大勢の難病患者が救われる。浅井はこれまでの苦労が報われる日が来たのに胸を震わせた。

 李が学会発表すれば、イタイイタイ病の治療薬として厚生省が薬事法で認可すると期待され、これで有機ゲルマニウムは大手を振って医薬品の仲間入りできるに違いなかった。

 浅井は喜びの絶頂にあったが、自分自身が有機ゲルマニウムで病を克服した直後に訪れた、ある易者の言葉をときどき思い出すことがあった。

 その易者に会ったのは五月半ばで、旧制水戸高校時代の友人に、実に良く当たるからと紹介された。青山の友人の自宅で引き合わされたのだが、易者は浅井の生年月日を聞いてから、十数分も本をめくったり数字を計算したりと答えを出すのに四苦八苦し、突然、眉間に深い縦皺を刻み、唇をきつく結んで顔色を曇らせたのだった。

 悪い卦が出たのかと顔を凝視した浅井を、易者は手にしていた本を静かに机に置き見つめ返した。

「あなたが開発した有機ゲルマニウムは偉大なもので、全世界の注目を浴びるでしょう。しかし、その名声と富を、あなたは奪われてしまうかもしれません。今年中に起きることですから、十分に注意されるのがいいでしょう」

 百発百中の易者と聞いていても、今の浅井は名声と富を手にしているわけでなく、それが奪われると予言されても信用しようがない。当たるも八卦当たらぬも八卦だなと、そのときは大して気に止めなかったが、計画が予想以上に好調に進むのを見ていて、その予言がふっと頭に浮かんで不安になることがあった。

「学会発表は十月一日と決まりました。李博士臨床試験は順調に進んでいます。驚くべき発表内容になるでしょう」

 十月の半ばに前畑から連絡を受け、浅井はその日が来るのを一日千秋の思いで待った。

 李が学会で発表する日がいよいよあすに迫り、夕食を済ませた浅井は書斎に引きこもった。前畑と知り合って収入が安定したので、狭い借家から成城の一戸建てに移り、六畳の和室を書斎に使い、そこで静かに読書するのが趣味のない浅井の唯一の楽しみだった。

 床の間には、数週間前に姉の家で見つけて借りてきた掛け軸が掛けてある。掛け軸は青地に金文字で経文が書かれ、その下に観音菩薩の像が描かれ心が落ち着くものだった。

 浅井は最初に設立した石炭綜合研究所が破産状態になったころから、精神的ストレスを和らげるため般若心経の経文を肌身離さず、仏教世界に興味を持っていた。だから掛け軸を発見したとき、仕事がうまく軌道に乗るまで傍に置きたいと姉に願ったのだった。

 浅井は夕刊を手にして机に向かった。夜の八時頃だったろうか。

 バーン。

 突然、後ろで大きな音が響き、驚いて振り返ると、掛け軸が落ちて畳の上に丸まっていた。

    おかしいな 。

 地震は揺すっていないし、窓を開けていないから風が部屋に吹き込んでくるわけでもない。不思議に思って掛け軸の紐を掛けた釘を調べたがどこにも異常はなく、どうして落ちたのか見当さえつかない。

 掛け軸を元に戻し、試しに落としてみたが、さっきのような大きな音はせず、丸まることもない。

 浅井は首筋に鳥肌が立ち、全身に悪寒が走って震えた。

 迷信深いわけではないが、浅井はわれを忘れて般若心経を唱えた。どれだけの時間、読経していたのか、やっと落ち着きを取り戻し机に向かったが、新聞に目を走らせても文字は一つも頭に入ってこなかった。

 翌朝六時に起きた浅井は、洗面して外へ出て、白々と明けた空に向かって大きく背伸びし、息を深々と吸い込んだ。きょうは李が日本総合医学会で浅井のゲルマニウムについて発表する日である。終戦から二十数年、一途にゲルマニウムの研究に打ち込んできたが、やっと陽の目を見る機会が訪れそうで、これまでの苦労もさしたることではないように思えてくる。浅井は学会での発表内容と学者たちの反響が待ち遠しく、一カ所にじっとしていられなくて、家から出たり入ったり落ち着かなかった。

「電話よ」

 浅井が何度目かに外へ出たとき、エリカが呼んだ。まだ八時前で、学会の発表が始まるには早かったが、李の問い合わせかもしれないと急いで受話器を取った。

「八雲だ」

 八雲は水戸高時代の友人で、体調を崩していたのを有機ゲルマニウムで治し、それから浅井の信者になっていた。

「Y新聞の社会面に、李博士の研究が顔写真入りででかでかと報道されている」

「やったか!」

「だが、聞いていた話と違うぜ」

「えっ? どういうことだ」

 浅井はA新聞しか取っておらず、Y新聞が何を報道しているか八雲に読むよう頼んだ。

「いいか。見出しは、世紀の大発見。カドミウム公害によるイタイイタイ病、水銀公害による水俣病の治療に、画期的な効果を表す有機クロム化合物発見。有機ゲルマニウムのことはどこにも触れられていない」

「なんだって! 本文にもないのか」

「ああ」

 嘘を言う友人ではないから、Y新聞が有機ゲルマニウムを扱っていないのは疑いなく、何がどうなっているのかさっぱり分からないので、受話器を置いた浅井はすぐさま前畑に電話した。

李博士の発表ですが、Y新聞では有機クロムとなっているそうですね。有機ゲルマニウムについて発表するという話はどうなってしまったのですか」

「ああ、その件ね。有機ゲルマニウムで実験はやったけど、事情があって、李博士有機クロムで発表することにしたんだ」

「事情というのは」

「さあね。李博士に聞いてもらわなければわからない」

李博士は、有機ゲルマニウムの発表をする気持ちはあるんでしょうね」

「本人に確かめてみたら」

 何をどう尋ねようと前畑の返事はあいまいで、口調は以前と打って変わって乱暴になっていた。もっと紳士的な話し方をする人物だったのに、浅井への応対はいかにも面倒くさそうで、言葉の響きも冷たい。

李博士の連絡先は?」

「東大にでも聞けばわかるんじゃないの」

「あなたは知らないのですか」

「大学の研究室にいる博士としか話していないからね」

「私のゲルマニウムの実験データは?」

「博士が持っているんじゃないの。忙しいからこれで」

 なおも尋ねようとする浅井の言葉を無視し、前畑は一方的に電話を切った。有機ゲルマニウムがなぜ有機クロムに代わってしまったのか。それに、前畑が態度を急変させたのはなぜなのか。わからないことばかりで、とにかく研究所へ出て事実関係を調べてみようと思い立った。

 浅井の不安を敏感に感じたエリカが、眉を曇らせ目で尋ねてきたが、答えようにも事情はまったくわからず、心配ないと声をかけて家を出た。

 電車に乗っている間も考えはまとまらず、鶴川に着いて研究所に入ろうとした浅井の前に、前畑と人相の悪い見慣れぬ男が立ちはだかった。

「あなたは解任しました。研究所への立入りを禁じます」

「なんだって?」

「先程、取締役会と株主総会を開き、あなたの代表取締役を解任し、私が後任に就任しました」

「なぜだ! どういうことか説明してくれ」

「説明の必要を感じません。あなたは研究所とは関係がなくなりました。研究所の責任者として、あなたの立入りを禁止します」

 事態はますますわからなくなる一方で、所員と話し合いたかったが、目の前に立ちはだかる前畑と屈強な男を、力ずくで押し退けて研究所へ入るには浅井は年を取り過ぎていて、成す術もなくすごすごと引き下がるしかなかった。

 前畑の機嫌を損じるようなことを何かしただろうか? そんなことはないはずだ。ずっと誠意を持って付き合ってきた。それなのに、あの急変ぶりはどうしたことか。

 考えようにも頭の中は真っ白で、どこをどう歩いたのか記憶がないまま、気がついたら家の書斎にぽつねんと座っていた。お茶を運んできたエリカが目を潤ませて浅井の顔をのぞきこんだが、説明する気力も湧いてこない。

 どれだけの時間、虚脱状態に陥っていただろうか。だれかに呼ばれている声に気がつくと、エリカがすぐ横に座っていた。

「なにがあったの」

「わからないんだ」

「柿本さんが訪ねて来ているわ。ここへ通しますか」

「ああ」

 ものを言うのも億劫だったが、長年苦労をともにしてきた柿本なら、事情を知っているかもしれない。

「やられました」

 顔から血の気が失せた柿本は、浅井と向かい合って座るなり、震える声を絞り出した。

「君は事情を知っているのか」

「前畑が研究所を乗っ取ったんです」

「えっ?」

「私はクビになりました」

「ほかの所員たちはどうなった」

「根回しされていたようです。彼らは前畑の下で今後も研究を続けることになっています。前畑は計画的に研究所を乗っ取ったんです」

「あの四人がどうして前畑についていったんだ」

 有機ゲルマニウムの製造が軌道に乗った時、石炭総合研究所で研究に携わっていた四人の研究者を呼び寄せ、浅井は柿本の下につけていた。柿本とは気心が知れているはずだった。

「全員、私の先輩です。目障りだったんじゃないでしょうか」

「馬鹿な」

「前畑は以前から、有機ゲルマニウムはダイアモンドでいうと粗鉱のようなもので、磨かなければ輝かないと言っていました。それをやるのは自分で、所長にはできないと所員に言いふらしていました。所長が邪魔になったのです」

 浅井の全身からすうっと力が抜けていった。前畑を心底から信じ、誠意の限りをつくしてきたのに、有機ゲルマニウムが世に出られると最大の期待をかけていた当日に、こんなに手ひどく裏切られるとは、頭の片隅ですら予想していなかった。

「私たちの出発点になった調布市の研究所も、前畑に売られてしまいました」

「そうか 」

 浅井は何を口にする気力も失せ、他人事のように柿本の言葉を聞いていた。人を見る目がなかったと言ってしまえばそれまでだが、前畑は有機ゲルマニウムに惚れ込み、世の中に広く普及させなければならないと、真剣に語っていたではないか。あのときの前畑は、嘘偽りのない善意の人物としか思えなかった。

 だが、前畑は柿本の言葉を信ずれば、いや彼の今回の行動を見れば、最初から有機ゲルマニウムは金になると近づいてきたのは明らかだった。利益のためには人を平然と裏切る前畑のような人間を、どうして信じてしまったのか。悔やんでも悔やみ切れず、浅井は奥歯を痛いほど噛みしめた。

 この世はエゴイストと悪魔だけなのか 。

 恨み言を口にしようとしたとき、浅井は目眩がして意識がぼやけ、座っていられなくなって畳に倒れた。

「先生!」

 柿本が大声で呼びかけてきたが、どこか遠くで叫んでいるようにしか思えず、浅井の頭の中は白く蒸発していった。

「奥さん。大変です」

 柿本の悲鳴をかすかに聞いた覚えはあるが、自分のことを指しているとは理解できず、浅井の意識は薄れていった。