永遠なる魂 第五章 余命2年 3

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 ドイツとはよほど深い縁があるようで、息子の博和が住んでいるのはドルトムント市で、四十年前に浅井和彦が青春を燃やし、人生の方向を決めた、忘れようのない国にある。あの当時は第二次世界大戦末期で、空襲でいつ命を失うかもしれない緊迫した状況だったが、息子夫婦に孫二人と夕食の席で談笑できるとは、何と平和なことか。ずっと一家団欒という言葉とは程遠い生活を送ってきただけに、浅井はこの幸福感を大切にしたいとしみじみ思う。

 ダイニングテーブルの正面に座った博和が、わずかに首をひねり眉をひそめた。医者という職業柄、人前で顔を曇らせることのない博和にしては珍しいことだった。

「その声はいつから?」

「一カ月ほど前から調子が悪くなった。すぐ治ると思っていたんだが、声が出なくて学会で説明するのに苦労したよ」

「明日、僕と一緒に病院へ行きましょう」

 三十八歳になる博和は慶応大学医学部を卒業し、五年ほど前にドイツに渡り、ドルトムントの公立病院で整形外科の医長をしている。

「心配することはない。本の原稿執筆で疲労がたまっているだけだ。疲れが抜ければ元に戻る」

「でも、一カ月も治らないというんだから、専門家に診てもらうべきです」

 博和はドイツで生まれ育ったせいか、少年の頃からはっきりものを言う性格で、正しいと信じて口にした言葉は決して引っ込めようとしない。日本での病院勤めが嫌になってドイツへ渡ったのも、正しいはずの自分の主張が医療制度や派閥に阻まれて否定され、嫌気がさしたからだと浅井はみていた。

「そうだな。君が勤める病院を見に行くのも悪くはないな」

「それじゃ、朝の早い時間に診てもらうよう手配しておきます」

 博和の眉間の皺が緩み、口元に笑みがこぼれた。浅井は長男の博和を筆頭に一男三女に恵まれ、全員が独立した家庭を営んでいるが、やはり一人息子の言うことには弱い。

 翌早朝。浅井は博和の運転する車で病院を訪れた。ドイツのどこの病院も日本の病院など比較にならない清潔さだが、ドルトムント病院は特に手入れが行き届いていた。待合室の喧騒はなく、ここで静養すればどんな病気でも回復は早いに違いないと思えるほどだった。

 博和に二階の耳鼻咽喉科へ案内され、立派な体格で口髭をはやした医長に紹介された。診察室は日本の病院のように乱雑ではなく、整理が行き届いていた。

 浅井は診察用の椅子に座り、医長と向かい合った。博和は医長の後ろの椅子に腰掛け、瞬きもせず診察の様子を見つめている。

 医長は口を大きく開くよう指示し、浅井の舌を指でつまんで引っ張り、診察用の小型電灯で喉の奥を照らしてのぞき込んだ。

「こりゃ大変だ」

 医長が博和を振り返り、目を剥いて叫んだ。博和が反射的に立ち上がり、医長の顔を凝視した。

「よくもまあ、生きていたものだ。気管の上に親指より大きなポリーブが被さっている。窒息寸前の状態だよ」

「えっ!」

 博和が目を飛び出させそうに見開き顔を強張らせた。みるみるうちに頬から血の気が失われていき、唇が紫色になった。

 医長の大げさな言い方に浅井は首をひねった。窒息寸前だと言われても、呼吸は楽にできるし、体調も悪くないから、とても信じられない。だが専門医の診察に誤りがあるはずもなく、それで声が出づらかったのかと納得した。

 医長はすぐ入院して手術するよう勧め、浅井はそんな大げさな症状ではないと言葉を濁し博和の家に戻ったが、妻を交えて大騒ぎになった。

「窒息してしまったらどうするんですか。大げさな言い方が大嫌いなあの先生が断言したんですから、大変なことになっているのは間違いありません。手術すべきです」

 博和がそう主張すれば、めったに逆らうことのないエリカも同調して引き下がらない。

「耳だれが出たり、声が出なくなったり、ずっと体調が悪かったんですから、博和の言うことを聞いてください」

 体調はすこぶる良かったが、家族全員に責めたてられてはむげに拒否することもできない。確かに声は出づらいし、耳だれが出たあとから耳が聞こえづらくなっていたので、皆が安心するならと浅井は渋々うなずいた。

 博和はすぐ病院へ電話して、翌日一番の手術を予約した。日本なら病室が空くまで待たされるところだろうが、整形外科の医長が息子とあって便宜を図ってくれたのか、それともドルトムント病院が迅速を旨としているのか、博和の要望通り翌朝に手術を受けることになった。

 手術が決まっても、浅井はこれといって動揺は感じなかった。原稿執筆で睡眠不足と煙草の吸い過ぎが祟り、喉に異変が起きたくらいにしか受け取っていなかった。

 だが、手術となれば体力を消耗する。浅井は海外旅行でも肌身から離したことがないGE-一三二を、前もって大量に服用した。手術や放射線治療の前に飲んでおけば、副作用や苦痛がないのは多くのケースで確かめられていた。

 翌朝。博和につれられて病院へ到着し、すぐ手術着に着替えさせられ、手術室でベッドに横になると全身麻酔をかけられた。どういう手術が行われたか覚えているはずもないが、病室で目覚めたときは痛みはわずかもなく、深い眠りから自然に醒めたように気分が良く、本当に手術したのかと疑うほどだった。

 口からポリーブを切除しただけだから、入院して手術後の回復を待つ必要はないと判断し、看護婦が呆れているのも構わず、浅井は自分で洋服に着替え、タクシーを呼んで博和の家に戻った。

 その三日後の夕方のことである。勤務から戻った博和が、リビングのソファでエリカと寛いでいた浅井に、暗い目の色で話しかけてきた。

「ポリーブの細胞検査をした結果、もう一度手術して完璧にしたいと病院では考えているんだけど」

「全部取り切れなかったのか」

「そういうわけじゃないけど、万全を期したほうがいいと思うんだ」

「癌なのか」

「そういうことじゃないけど」

 いつも歯切れのいい博和にしては、喉に骨でも刺さったような言い方で、浅井はピンときた。

「正直に言ってもらいたい。癌が確定的なら手術してもいいが、そうでないなら帰国して有機ゲルマニウムで治療する」

 瞬間、博和は顔を歪め、それが子供のころの泣き顔を思い出させた。博和はしばらく迷っていたが、ため息を一つ吐き出してうなずいた。

「細胞検査では、扁平上皮癌で声帯の周りに発生しているようなんだ。ポリーブは切除したけど、取り切れなかった部分が残っている。転移率が高い癌だから、放置しておけないと先生が言っているんです」

「どういう手術をするんだ」

「喉を外側から開き、切除したポリーブの周辺を徹底的に切り取るそうです」

「手術しなければどうなるって?」

「転移で癌が再発する可能性があると」

 浅井に精神的な衝撃を与えまいと考えているのか、博和の説明は明確でなく、それがかえって病状の深刻さをうかがわせた。浅井は無意識のうちに微笑みを浮かべていた。

「心配しなくていい。癌ならGE-一三二で自分で治す」

「それは無茶です。放置すれば、二年しか持たないと 」

 博和がはっとして口を閉ざした。

「ひっ!」

 浅井の隣で聞いていたエリカが小さく悲鳴を上げた。

「お願い。博和の言う通りにして」

 エリカが浅井の腕に手をかけ唇を震わせた。

「こんなに元気なんだし、ポリーブも取ったんだから、GE-一三二を飲んでいれば治ってしまう」

「あなたの言いたいことはわかるけど、もし手術しないで万一のことがあれば、わたしたちはどれだけ悔やむかわからない。博和だって苦しむはずよ」

「だが、君だって効果を知っているはずだ」

「GE-一三二に助けを求めてくるのは、手術や放射線治療などができなくて、医者に見放された人たちばかりよ。あなたは手術できるんだから、考えられる治療はすべてすべきよ」

「うむ」

 家族がこんなにも取り乱すとは思いもよらず、浅井は腕を組んで口を閉ざした。それを手術の拒否と受け取ったのか、エリカは目から大粒の涙を溢れさせ両手で顔を覆った。博和は唇をへの字にきつく結び、神経質に瞬きを繰り返している。

 浅井は癌と聞いてもショックはなかった。むしろ自分の体で、GE-一三二が癌にどれだけ効くか、試すのにいい機会だと闘争心が湧いてきた。

 だが、浅井が悪性の癌に罹っていると知った妻や息子の不安は尋常でなく、何度も手術を受けるよう懇願され、首を縦に振るつもりはなかったが、目の前で嘆き悲しまれれば、最愛の家族を苦しめていると自責の念にかられる。癌と宣告されたことより、家族思いの浅井にははるかに辛いことだった。

 浅井は渋々手術に同意した。博和は気持ちが変わらないうちにと入院手続きを電話で済ませ、翌朝はまるで囚人のように病院へつれていかれた。

 手術着に着替えさせられ、すぐ手術室へ運ばれ全身麻酔をかけられた。最初の手術と同じで、目覚めたときは爽やかで、本当に喉頭癌の手術をしたのかと疑ったが、喉に大きなガーゼが巻き付けられていた。

 若い頃に大腿骨の手術をしたときは、麻酔が醒めると吐き気が激しく、手術箇所は痛みが絶え間なく続き、睡眠薬を飲んでも眠られないほどだった。

 しかし、今回は三時間の大手術にもかかわらず、痛みも苦しみもまったくない。GE-一三二の効果に違いなかった。

 それにしても皮肉なことである。世界自然療法学会で、GE-一三二が癌治療に絶大な効果を示すと発表し、大きな反響を呼んだのに、いつも服用している自分が悪性の癌細胞に取りつかれるとは思いもしなかった。

 思い起こせばこの八カ月間、無茶な生活を続けてきた。初めて世に出す著作の執筆で、毎晩寝るのは午前二時、三時。書いている間は気を紛らわすため大量の煙草を吸った。ゲルマニウムを毎日飲んでいても、執筆からくる激しいストレスと大量の煙草が、いつの間にか体を蝕んでいたのだろう。今度の手術は、GE-一三二を服用しているから病気になど罹からないという慢心への、警鐘にほかならないと浅井は感じた。

 浅井は訪ねてくる癌患者が、GE-一三二の服用で治癒し、苦しみが取り除かれるのを現実に見てきたが、それは思い込みで、間違って認識していたのかもしれない。

 だが、今度は自分自身が癌に罹かり、自らの体を使って効力を試すことができる。身をもっての生体実験で癌を治癒できれば、GE-一三二への信頼は絶大なものになる。

 ベッドに横たわった浅井は、闘志がふつふつとたぎってくるのを覚えた。

 浅井は周囲の反対を押し切り、二度目の手術から四日目に退院して博和の家に戻り、その五日後にエリカとともに東京へ飛び立った。博和はもっと静養してから帰国するよう何度も説得を試みたが、浅井は東京の自宅でGE-一三二で治療すると聞く耳を持たなかった。

 博和は親父の頑固さにはつくづく呆れたと、両手を広げ肩をすくめて見せたが、強いてとは言わなかった。

 浅井が帰国する前日、息子一家との最後の夕食で、博和は診察した耳鼻咽喉科の医長が漏らした言葉を、苦笑まじりに伝えた。

 「長年、癌患者と接してきたが、癌だと宣告されて微笑んだのは、君のオヤジが最初で最後だろう」

 医長はそう言って、感慨深そうに首を横に何度も振ったというのである。

 癌だと聞かされて嬉しいわけがないが、自分の体で生体実験ができると思い、知らず知らずのうちに喜んでいたのかもしれなかった。

 二カ月ぶりに帰国し自宅に落ちついたが、病気を知って駆けつけてきた、兄弟や研究所の所員の嘆きようは並大抵でなく、難病患者を持った肉親や周囲の悲しみを、浅井は改めて思い知らされた。

 難病患者本人を救うことはもちろん、家族や親しい人たちの悲しみを和らげるためにも、おのれの癌を征服し、GE-一三二を世に広めなければならない。浅井は改めて決意した。

 帰国した浅井に、日本の専門家に診てもらって放射線治療を受けるよう、博和が何度も電話してきた。それが妻の不安をあおり、さらに周囲の心配を高じさせ、いつものことだが嫌と言えなくなり、博和が卒業した慶応大学付属病院の耳鼻咽喉科で診察を受けた。

 浅井は煙草をやめ、食べ物も血液が酸性に傾かないよう注意し、毎日三グラムのGE-一三二を飲んでいたから、癌細胞はすべて死滅したと信じていたが、周りはそうは受け取らず、死に神に魅入られてしまったと思っているようだった。

 病院では、咽喉内の細胞検査が行われ、予想通り癌細胞はまったく見つからず、放射線治療の必要もないと診断され、無罪方面された。

癌は怖くない。

 浅井はそう叫びたかった。これから生き続ければ、転移率の高い扁平上皮癌を克服したことになり、癌に対する有機ゲルマニウムの有効性の証明になる。生命の元素の威力を説明する言葉に、おのずと重みが増していく。

 癌に代表される難病に、浅井が長い苦労をかけて開発したGE-一三二ウムは、最大の武器になる。もっと研究を深め、難病患者を救わなければならない。自らを実験台にして悪性の癌から生還した浅井は、GE-一三二を溶かした水溶液を見つめ、闘魂をみなぎらせた。