永遠なる魂 第4章 奇跡の水 2

              2

 管の好意で研究所を得た所員の意気は上がり、水に溶ける有機ゲルマニウムの合成は成功していなかったが、石炭に関する研究は順調に進んだ。そのおかげで、浅井は昭和三十四年秋に発明および新技術開発で社会に貢献した功績を認められ、政府から紫綬褒章を授与され、三十七年三月には京都大学工学部から工学博士の学位を与えられた。

 並行してゲルマニウム有機化の研究は進み、及川がフェノールと結合させた有機化合物をつくり上げた。

「やっと有機ゲルマニウムの合成に成功しました。治療に使うことが可能でしょうか」

 浅井は出来たばかりの有機化合物を手にし、勇躍して国立癌センター研究所の中原所長を訪ねた。

 中原は理化学研究所で、後に日本医師会の会長になる武見太郎とともに、医薬用ゲルマニウムの研究をしていたことがある。酸化ゲルマニウムは毒性が強いというので研究を断念したが、ゲルマニウムに理解があった。

「それは水に溶けるのでしょうね」

「いえ」

「それじゃ、治療に使いようがありません。水に溶けなければ生化学的な効果は期待できませんから」

 中原所長の厳しい宣告だった。指摘されてみればその通りで、水に溶けなければ血液に溶けず、体内に蓄積してしまうばかりである。

 だが、研究を続ければかならず水に溶ける有機ゲルマニウムができ、人類の難病を放逐することができる。浅井はそう信じてやまなかった。

 順風満帆の航海 が続くと確信していた浅井に、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。石炭にあらずば産業にあらずとばかり、繁栄を謳歌していた石炭産業の凋落が、昭和三十四年ごろから顕著になったのである。

 掘れば掘るほど儲かると、「月が出た出た」とまで歌われた石炭業界は、昭和二十八年ごろから不況風が吹き出した。産業界が国際競争力をつけるため、エネルギーを石炭から石油に転換し、政府もこれを積極的に推進する政策を打ち出したのが打撃となったのである。

 昭和二十九年一月に四百二十あった九州の中小炭坑は、十月にはわずか二百八十七に減少し、この年だけで坑夫の失業は六万人に及んだ。

 年をふるごとに石炭不況は深刻化し、国内最大の三井三池炭坑で、指名解雇をめぐって労使紛争が勃発した。指名解雇には大勢の労組幹部が含まれていたから、組合側は全面無期限ストライキに突入、会社側はロックアウトで応じ、労使は全面対決に突き進んだのである。

 三池争議が起こった三十五年は六十年安保改定の年でもあった。安保闘争の盛り上がりは、三池労組の支援につながり紛争が拡大、安保自然承認の後には石炭搬出庫の立入禁止をめぐり激突寸前にまで過激化していった。

 七月七日に石炭搬出庫の立入禁止の仮処分が決定し、会社側は警官一万人を配置、労組側も総評のピケ隊一万人を含む二万人を動員、二十日には石炭搬出庫の争奪で全面激突の危機に陥ったのである。

 労使決戦の二日前に発足した池田内閣は、初閣議で三池の紛争解決を決定し、石田博英労相が労使双方に異例の斡旋に乗り出し、中央労働委員会に調停を白紙委任させることに成功した。これがきっかけで三池紛争は解決に向かい、二百二十六日にも及んだ空前絶後の大争議は終結したのだった。

 三池争議に代表されるように石炭業界の不況は深刻で、そうなると企業が真っ先に行うのは、寄附金や研究費の削減である。石炭会社から入っていた技術料は、構造不況の進展とともに大幅に削られ、それを補うため父親から残された世田谷区成城の五百坪の土地と自宅、軽井沢の別荘を担保に入れて銀行から金を借り研究を続けていたが、私財の提供も限界になり、研究所を維持するのは極めて困難になってしまった。

 研究費は底をつき、それどころか三十数人の所員の給料さえ払えない。

 落ち目になると、不思議なほど悪いことが重なるものである。東京電力川崎発電所の総務部長から呼び出しを受け、何事だろうと出向いた浅井を待っていたのは残酷な言葉だった。

「石炭協会から、もう家賃の負担はできないと言ってきました。どうされますか?」

「えっ?」

 太った総務部長が何を言っているのかまったく理解できず、浅井は口をぽかんと開けて相手の顔をまじまじと見た。

「もしお宅のほうで月三十万円の使用料を払えないのなら、立ち退いてもらいたいのです。あとは当社の社宅に使用する考えです」

「使用料というのはどういうことでしょうか」

「聞いておられなかったのですか」

「なにも」

「関係のない業界のために、当社が無償で建物を供与していたと、考えていたのではないでしょうね」

「違うのですか。管社長は自由に使っていいからとおっしゃっていましたが」

「石炭の研究をする研究所に、どうして当社が便宜供与しなければならないのですか」

「それは管社長が 」

「石炭の研究をするのだから、石炭業界が費用を受け持つのが当然ではないでしょうか。これまで石炭協会は使用料を払っていましたが、もう払えないと言ってきたのですから、立ち退いてもらうのは当たり前です」

 研究所は管が社長当時に肝入りで建て、東電の好意で供与されていると考えていたが、寝耳に水の話だった。昭和四十年春のことである。

 東電の申し入れは強硬で、これにはさしもの浅井も驚き慌て、事情を調べて見ると、石炭綜合研究所は石炭業界の研究所だからと、東電は石炭協会から家賃を取っていたのである。石炭協会は研究所に研究費を一銭も出さない代わりに家賃を支払っていたが、不況の深刻化とともに支払いを打ち切ってしまったのだった。

 東電や石炭協会にとって家賃など大した額ではないはずだが、四十年不況が重なり、担当者はしゃかりきに不要不急の出費を抑えようとしていたから、金を生み出さない研究所の存在が邪魔になったのに違いなかった。東電、石炭協会とも家賃を槍玉に上げ、石炭綜合研究所を潰しにかかったのである。

 嘆願書を持って石炭協会会長を何度も訪れたが、まったく相手にされず、金にもならないゲルマニウムの研究などやめてしまえ、と逆襲される始末だった。

 何がなんでも研究費を稼がなければならない。浅井は石炭の利用加工の研究を中断し、超音波を利用した重油の改質や脱硫などの新技術の研究に大半の所員を振り向けた。超音波による洗浄装置や微粒子を分離する装置など、少しでも収入を得るためにあらゆる方策を講じたのである。

 そうして得たわずかな収入で家賃を支払い、乏しい研究費で研究所を何とか維持していった。

 だが、それも限界で、研究所は破産寸前に追い込まれていった。破産すれば抵当に入れてある自宅は取られてしまい、家族が身を寄せる場所がなくなる。

 それ以上に、破産すれば浅井を信じて研究に打ち込んできた所員や、支援してくれた人々への不義理は図り知れない。

 死をもってすれば償えるか。浅井はある日、思い詰めて東京タワーに上り、展望台から下を見下ろした。ここから飛び下りれば楽に死ねる。そんな誘惑が浅井を襲ったが、死ねばエリカは異国で一人残され、迷惑をかけてきた友人の行為を踏みにじってしまう。生き抜かなければならないと浅井は唇を血が出るほど噛んだ。

 だが、行くもならず引くもならず、荒れ狂う風雨の中で断崖絶壁に立たされ、落ちまいと必死に耐えることしか浅井にはできなかった。

「とても酷い顔色をしているわ。どこか悪いんじゃない」

「忙しくて疲れているだけだ」

 エリカが何度も心配そうに尋ねたが、浅井は取り合わなかった。実際のところ心身ともに疲れ果てていたが、弱気を見せれば所員が動揺すると、浅井は自らに鞭打って元気を装った。

 気力も体力も限界にきていたが、それでも浅井はゲルマニウムの研究はやめなかった。やめろと何度も警告を受けたが、ゲルマニウムは必ず人類に貢献すると信じ研究を続けた。

 昭和四十二年四月に入ったばかりの春だった。前の年に奇な縁で研究所に入社した柿本が所長室に入ってきた。

 浅井は神田にある易者を良く訪ねていたが、そこに柿本の母親が息子の相談に行っていて、紹介されたのだった。柿本は実家が薬局で薬学部へ進んだが、画家志望で大学を卒業しても製薬会社に就職せず、当時はアルバイトで生計を立てるというフリーター生活をしていた。

 浅井は工学博士とはいえ薬学に明るくなく、化学合成に詳しい人材がほしいと思っていたところで、ためらわずに柿本を研究所へ引っ張った。

 当時の研究所は経営不振で、新入社員を採用する余裕などなかったが、給料さえもらえないかもしれないとわかっていて、柿本は浅井の元に来た。運命の出会いだった。

 柿本は白い粉末の入った試験管を親指と人指し指に挟み、捧げるように浅井に差し出した。

「所長。ご待望の水に溶ける有機ゲルマニウム三二酸化物ができました」

 頬がこけ不精髭を生やした柿本の顔は、自信と威厳に満ちていた。浅井は何も言う言葉が見つからず、唇に笑みを浮かべ、熱い涙をぽろぽろとこぼした。どれだけの時間、黙って涙を流していたかわからないが、突然、浅井の胸中から激しい衝動が噴き上げてきた。

「これで癌が治るぞ!」

 浅井は無意識に柿本に抱きつき叫んだ。なぜそんな言葉を口にしたのか、自分自身にも理解できず、柿本も不思議そうに浅井を眺めるばかりだった。

 だが理屈ではない何か、宗教的な啓示とでも言える絶対的な真理を、浅井はこのとき悟った。

 もう駄目かと思われた研究所は、幸いにもこれまで発明していた百件ほどの特許権を、友人のつてで日本碍子が買い取ってくれ、破産だけは何とか免れた。百件の中には柿本が合成に成功する前に、及川が設計した有機ゲルマニウムの製造特許出願権も入っていた。そして日本碍子は九日後の四月十二日、特許申請した。

 すべての特許を売却したのだから、有機ゲルマニウムの特許出願権も渡さなければならなかったが、かならず買い戻すからほかには売らないでくれと、浅井はくどいほど念を押した。いつの日か、この特許が人類を救うと、浅井は信じて疑わなかったためである。

 研究所が存続できたという気の緩みがあったのかもしれない。浅井は重い病に倒れてしまった。

 せっかく水に溶ける有機ゲルマニウムが完成したが、浅井は破産一歩手前の資金繰りに奔走したせいで、いつのまにか全身を蝕まれていたようである。

 医師は、長年の肉体的疲労と精神的ストレスで、全身の多発性リウマチに通風が加わり、治療不可能と診断した。体に力が入らず起き上がる気力さえ湧かず、浅井は病床に臥したきりの廃人状態になってしまった。

 肝心の所長が廃人同様では、研究所の先行きは覚束なく、日本碍子が経営のてこ入れに入ってきた。

「一緒に辞めよう」

 浅井は柿本を促した。浅井は当時、研究所の社長として日本碍子から月額三十万円の給料を保証されていたが、大企業の管理になれば、金にならない研究はできなくなる。柿本がやっと有機ゲルマニウムの合成に成功したのに、夢を断念しなければならなくなる。安定した身分より、有機ゲルマニウムの研究に浅井は自分の人生を懸けた。

 易者の紹介で入ってきた柿本が、わずか一年で有機ゲルマニウムの合成に成功したのに、浅井は運命的なものを感じていた。

 だが、柿本が辞めようとすると、研究所の所員がこぞって引き止めた。柿本が研究所に残れば、一人で飛び出した浅井は有機ゲルマニウムを作れなくなる。そうなったら、浅井が辞めようにも辞められなくなると所員たちが考えたのかもしれない。

 だが、柿本も浅井との出会いを運命的なものと受け取っていたのだろう。あるいは、理想のために身命を投げ打つ浅井の姿に、その人間性に魅了されていたのかもしれない。柿本は研究所を退職した。

 柿本は浅井と一心同体だったのである。

 浅井は研究所を辞め、融資の抵当に入れていた自宅は人手に渡った。エリカと二人で、手放した自宅近くの六畳と三畳の長屋に移り住んだ浅井は、寝たきりの生活になった。六十二歳の時だった。

「済まないな」

 看病に専念するエリカに、苦労ばかりさせると浅井は申し訳なさでいっぱいだった。金銭的に楽をさせた記憶はなく、今度も老母を長男夫婦に預けての、エリカと二人の闘病生活だった。

 まさしく絶望のどん底である。

 身動きは叶わず、快復も期待薄で、生活費にも窮する浅井にあるのは、柿本が開発した水に溶ける有機ゲルマニウムだけである。毎日のように瓶に入れた白い粉末を眺め、浅井はある日、この有機ゲルマニウムを自身の体で試してみようと思い立った。

 ゲルマニウム有機化研究に取り組んできたのは、高麗人参さるのこしかけのように、人間の体に好ましい影響を与えられると信じたからである。それなら、柿本がつくり出し有機ゲルマニウムも、それらの薬草と同じ効果を表すのではないか。

 目の前の瓶に入った粉末は、初めてできた化学合成品で、毒性があるかもしれなかったが、浅井は決心して粉末を水に溶かして飲んだ。藁をもすがる思いだったのかもしれない。

 酸っぱい味だったが不快感はなく、浅井は水に溶かした有機ゲルマニウムをグラスに何杯も飲んだ。ゲルマニウムについてのわずかな文献で、生化学的に毒性がないことを確信していたためでもある。

 有機ゲルマニウムの水溶液を飲み始めた浅井は、身動きならない病状が、日一日と薄紙を剥ぐように良くなり、十日後には病床から起き、杖をつけば散歩できるようになった。

 ゲルマニウムが生命の元素だという直観を、浅井は自らの体で証明したのである。

 エリカは浅井の散歩にいつもぴったりと寄り添い、貧乏だが束の間の平穏を楽しんでいるようだった。

 浅井はこのころ、現代医学が自分の病症にお手上げだったので、東洋医学にわずかな期待をかけ、漢方薬と鍼で治療していた。その鍼師が、鍼を打つ前に浅井の体を触診し、首をひねった。

「肌の弾力と色つやが変わってきました。ずいぶん良くなっているようです。なにか特別なことをなさっているのですか」

有機ゲルマニウムというものを飲んでいます」

「ほう! あれほど酷かった全身状態が、ほぼ健康人に近くなっています」

「自分でも体調が良くなったのを実感しています」

「驚異的な快復ですね」

 鍼師は鍼を打ちながら全身を観察し、感嘆の声を上げた。

「その有機ゲルマニウムを分けてもらえませんか。私のところに大勢の患者さんが来られますが、皆現代医学に見放された人たちばかりです。その方たちを少しでも良くしてあげたいのです」

 浅井は乞われるまま鍼師に有機ゲルマニウムを分け与えた。それから十日ほどして鍼師が浅井の家へ飛び込んできた。

「実に凄い。皆、治ってしまうんです」

 鍼師は癌や肝硬変などの難病で苦しんでいる患者に有機ゲルマニウムを飲ませたら、劇的に快復したというのである。鍼師が説明する患者たちの快復ぶりには、浅井も驚き呆れるしかなかった。

 だが、薬事法医師法の問題があり、有機ゲルマニウムが難病に効くとわかっても、それ以上のことを治療としてするわけにはいかない。

 柿本が合成した有機ゲルマニウムのおかげで、浅井は快復し、その素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいと思い立ったが、長屋に逼塞している身では動きが取れない。

 だが、いつの時代にも善意の主はいるもので、どん底生活の浅井に光がもたらされた。

「実は、先生が有機ゲルマニウムについて書かれた論文を読みました」

 裏ぶれた長屋に、小柄で口髭を生やした高田という紳士が現れたのは、浅井が病床から起き上がれるようになって一カ月ほどした時だった。高田は製薬会社を経営しているといい、思いがけない提案をした。

「論文といいますと?」

ゲルマニウムと共に二十年という論文です。医学月刊誌に発表なさいましたね」

「ずいぶん前のことですが」

「ずっと興味を持っていましたが、最近になり石炭綜合研究所の方から先生の近況を聞き、お訪ねしました。有機ゲルマニウムの研究を続けられるなら、ご支援させていただきたいと思います」

 浅井は驚いて高田の顔を見つめた。すべてに行き詰まった浅井を、資金的に面倒を見ようと言ってくれているのだった。

 人の好意がこれほどまでに嬉しかったことはない。浅井は高田社長の好意をありがたく受け入れることにした。

 だが、研究を再開しようにも研究施設がない。浅井は地価が比較的安い東京都調布市に十三坪の建て売り住宅を見つけ、高田社長に頼んで購入資金を立て替えてもらった。そして、建物の畳をすべて剥がして床にし、有機ゲルマニウムを合成する設備を借金で買い、やっと研究を再開したのだった。

 狭いが楽しい我が家ではないが、自前の研究所を持てた喜びは大きく、それを増幅するように、ゲルマニウムの合成に成功した柿本が馳せ参じた。

 昭和四十三年三月末のことで、浅井は新たな研究所を「浅井ゲルマニウム研究所」と名付けた。

 浅井と柿本が合成に成功した水溶性の有機ゲルマニウムは、カルボキシ・エチル・ゲルマニウム三二酸化物で、分子式は(GeCH 2CH 2COOH) 2O 3。ゲルマニウムに三個の酸素が付いた網目構造で、強い水素結合があるはずであった。

 浅井は三月二十九日、カルボキシ・エチル・ゲルマニウム三二酸化物の完成された製法特許を、日本碍子が行った未完成出願とは別に、「生体内の異常細胞電位を変化させてその機能を停止させる作用を持つ化合物の製造法」と題して出願した。

 鋼支柱で懲りていたからだが、特許が得られれば有機ゲルマニウムの研究を浅井自身の手で思う存分にできることになる。

 ここでも浅井は友人たちに助けられた。水戸高の同級生だった根元が、トランジスタ工場から出る切り屑を集めて売っている会社から原料ゲルマニウムを継続的に入手できるようにしてくれた。根元は有機ゲルマニウムで虚弱体質を改善していたから、求められたのは返済ではなく、出来上がった製品だった。

 少人数ながら、やっと製品をつくり出せるまでになり、水溶性の有機ゲルマニウムが陽の目を見る日がきたのである。

 浅井と高田は、制ガン剤として特許を共同出願し、山口大学医学部で臨床試験に入り、九八パーセントの効果が認められたが、医薬品として世に出ることはなかった。

 高田は毒性試験や臨床試験の手続きを踏み、薬事法の認可を得ようとしていた。だが、薬品にすれば製品化した企業だけが莫大な利益になり、使用が限定され大勢の苦しむ人たちに行き渡らなくなると考える浅井が、衝突したためだった。

 浅井は面倒な手続きなどどうでもよく、病人を救うことしか念頭になかった。規則は人のためにあるのだから、邪魔をするなら無視してしまえばいいという考えだった。それでは製薬会社とうまくやっていけるはずはない。

 浅井が高田と袂を分かち、これからどうやって有機ゲルマニウムを普及していくか悩んでいたとき、前畑が現れたのである。

 浅井は研究を根こそぎ奪われ、失意から再び蘇るのだが、前畑とのかかわりは尾を引いた。

 前畑は日本碍子が出願して認可された特許を二百万円で買い取り、浅井を特許侵害で訴えたのである。

 日本碍子にはかならず買い戻すから売らないでくれと、あれほど頼んだのに、裏切られるとは思いもよらず、浅井は愕然とした。利益になるなら企業が売るのは当然ではあるが、信義を重んじる浅井には信じられない行為だった。

 前畑が手に入れた特許権が裁判で認められれば、浅井は有機ゲルマニウムを作れなくなり、人類のために普及する夢はかなわなくなる。

 目の前が真っ暗になるほどの危機だったが、前畑が入手した製造特許は、柿本が未完成と指摘し、浅井側が勝訴した。

 だが、前畑はそれでも諦めなかった。柿本が有機合成する半年前に、ソ連の学者ミノロフが有機ゲルマニウムの構造式を論文に発表し、アメリカで特許を取っていたのに目をつけたのである。前畑はその特許を買い、再び特許論争を仕掛けてきた。

 だが、ミノロフの論文も未完成で、構造式は発表されていても、物性や特性を証明する反応式が間違っていて、有機ゲルマニウムにならないことが柿本の研究でわかった。この特許論争にも、国際的な発表論文を否定するというおまけがついて、浅井側が全面勝訴したのだった。