巻の四 前編 言霊と古代和字の神秘

 

巻の四 言霊と古代和字の神秘

 思考停止は日常の言葉をも汚染し呪縛している。自らの主張に魂が入っていなければならない政治家の多くが、上滑りて使い古した言葉ばかりだ。それを正さなければならない知識人といわれる人々にも、正確な言葉を遣えない人間が増えている。

 日本語は現代の言語学では明確な起源がわからず、世界の言葉と共通することもなく独自に発達し、孤峰を保っている日本語はどこから来たのか、ほとんど不明といっていい。

 そんな状況の中で、言葉には魂があるという考え方、すなわち言霊(ことだま)が形成された。

 アルファベットを組み合わせて単語をつくる英語などと違い、古代の日本では「吾」を「あ」、「汝」を「な」と発言し、「あ、い、う、え、お」などの一つひとつの言葉に意味があった。

 ところが、漢字が日本に入ってきて日本語に当てはめたため、時代が下るにつれ本来の意味がわからなくなった。さらに思考停止のせいで、言葉は空虚なものに堕落し、言霊は力を失った。このままでは、言葉はますます薄っぺらになり、単なる音声記号に成り下がってしまう。

 だが、言葉を正確に発声し、正しい遣い方をすれば、言霊が甦り、思考停止の暗幕は雲散し、日本は本来の姿を取り戻せるだろう。

 

ヒ 妄りなコトアゲ

 

 歴史小説作家の井沢元彦氏が著書の「言霊」(祥伝社)で、日本はコトダマが支配する国だとして、次のように興味深いことを述べている。

 

 言葉と実体がシンクロする、というのがコトダマの基本原理である。そしてコトダマを発動させるためにはコトアゲすればいい。

 簡単に言えば、雨を降らせたいと思ったら、「雨が降る」と言えばいい。これは、必ずしも命令形でなくてもよい。逆に、実現しないでほしいと思ったことは、絶対に口にしてはいけない。「あの飛行機は落ちる」などとは絶対に口にできない。私は「墜落せよ」と言った覚えはないと、抗弁してもだめである。命令形でなくてもコトアゲした以上は、効力があるのだから。

 こういう世界では、言葉をうっかり口にできない。口に出すということは、コトアゲをしたということになるからだ。したがって、普通に使っている言葉も、状況によっては使えなくなる。

 

 井沢氏は具体的な例として鎌倉時代年代記吾妻鏡」の承元二年(一二〇八年)正月十一日の記事を紹介している。

 

晴る、御所の心経会(しんきょうえ)なり。去(い)ぬる八日式日たりといへども、将軍家御歓楽(ごかんらく)によりて、延びて今日に及ぶ。

 

 心経会が延期になったのは、将軍源実朝(みなもとのさねとも)の「歓楽」が理由だという。歓楽の意味は今も昔も「喜び楽しむ」ことである。実朝が楽しく遊び歩いたために心経会が延期になったとしたら、将軍として失格だが、実は歓楽の意味がまったく違って使われている。

 心経会の時、実朝は病気だったのだが、コトダマの原理によって、不吉な言葉を使うと不幸な事態がやってくるから、言い換えたというのである。

 結婚式のスピーチで「別れる」とか「割れる」と言うのは禁忌で、披露宴は「終わり」ではなく「お開き」という慣習と同じだというのだ。

 もっとも、めでたい席で縁起の悪いことを口にすべきでないのは、人々の祝い心に水を差すから、どこの国でも同じだろう。また、「将軍歓楽」のように、重要な人物の病状を隠すのは、症状が重ければ重いほど当然である。まして要人の逝去は国家の最高機密で、後の体制が整うまで隠されるのは、外国にも多くの例がある。

 もう一つの実例として、井沢氏は「太平記」をあげている。「太平記」は南北朝の抗争を扱った「戦乱物語」なのに、なぜ「太平」と題されたのかと問いかけている。

 

もし「戦乱記」とでも名付ければ「戦乱」という言葉の霊的作用(つまりコトダマ)によって本当に戦乱を呼んでしまうからだ。将軍の病気を「歓楽」と表現するのと同じ精神構造のなせる業なのである。(中略)

 ところが、コトダマの支配下にある日本人は、言葉と実体の間に相関関係があることを信じている。そこで実体を改革するのに何らかの困難や不都合がある時、言葉のほうだけ言い換えることによって、実体を改革したような気になって、安心してしまうという悪い性癖がある。

 

 確かにある種の人々にはその傾向がある。

 鳩山由紀夫元総理の普天間基地海外移転原子力に強いと自ら喧伝し、訳のわからない空虚な政策を次々と打ち出した菅直人元総理。二人とも何もやっていないのに、言葉を先行させてやったと思い込んでしまっているのは、コトダマ信仰の故であろう。

 コトダマ教の最たる例は、軍隊を自衛隊と言い換え、戦争を放棄した日本国憲法第九条を守れば、世界に平和がくるという「迷信」であり「妄信」である。

 旧社会党時代に、女性で初代衆議院議長を務めた故土井たか子などは、コトダマ教信者の最たる人物である。

 迷信を信じる人々にとっては、現実がどうあろうと何の関係もなく、平和に反することを言葉や文字にしなければ、平和が実現するはずなのである。

 では、こうした「平和主義」の標榜者たちは「自分は平和を求めている」から、強盗が入ったり、暴漢に襲われたりすることはないと信じ、家に鍵を掛けず、玄関を開き放しにしているのだろうか。もしそうだとしたら見上げたものだが、現実は「平和憲法」を守れと主張している政党や人物ほど、本部や自宅のガードが固く、警戒を怠っていない。

 ウクライナへのロシアの侵略を見れば、平和を求めるという言葉が、いかに無意味が分かる。

 主張する言葉と現実の行動がいかに違うか、コトダマ教信者の面目躍如たるところである。

 井沢氏は実にユニークな視点で日本人を分析しているが、この論が本当の言霊ではなく、「妄りなコトアゲ」を俎上に載せていることに気づいているだろうか。

 万葉集の「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰く」に言霊を詠(うた)った長歌反歌が載っている。国文学者の中西進氏の著作「柿本人麻呂」(筑摩書房)から引用する。

 

  柿本朝臣人麻呂の歌集に曰く

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国

しかれども 言挙ぞわがする 言幸く 真幸くませと

恙(つつみ)なく 幸くいまさば 荒磯波 ありても見むと

 百重波 千重しきに 言挙すわれは 言挙すわれは

  反歌

敷島の 大和の国は 言霊の 幸(さき)はふ国ぞ 真幸くありこそ

 

 敷島の瑞穂の国は神の御心のままに言葉に表さない国だが、あえて無事にと私は言挙げをします。ご無事でおられたら、荒い波が打ち寄せてきても、後にお目にかかれると、百重波、千重波が寄せてくるように、私は何度も重ねて言挙げします、というものだろう。人麻呂は無事を祈って「あえて」言挙げしているのである。

 言葉には霊魂、すなわち言霊が宿っていて、言霊によって言挙げすれば、神々の加護が得られて実現するというのが日本古来の信仰だが、言挙げすれば何でもかなえられるというものではない。言葉に研ぎ澄まされた霊力を持っている天才宮廷歌人の人麻呂だからこそ、祈りをこめて言挙げしてもいいのである。

 人麻呂は、太平記とか、将軍の歓楽とか、「平和憲法」などのように、無闇にコトアゲをしているわけではない。妄りなコトアゲをすると、現実から目を逸らせ、かえって悪影響を及ぼしてしまうのは、元総理二人の言動を見るだけで明らかだろう。

 妄りなコトアゲではなく、願いを込めた言葉と考えるべきではないだろうか。戦乱が続くから「太平」であってほしい、病気が回復して「歓楽」してほしい、戦争が起こらない「平和」であってほしい、と祈っていると受け取るのが真意ではないのか。

 井沢氏は悪意で言葉を持ち遊んでいるとしか思えない。小説の中での事柄ならともかく、歴史と名付けた以上は正しい認識をしてもらいたい。

 

 フ 祈りの力

 

 コトダマ教が我が国で蔓延したのはなぜなのだろうか。それは、練り上げられた言葉にはまさしく言霊が宿っていて、祈りが実現するからである。

 こう書くと、「そんな馬鹿な」と、すぐさま否定する人たちがいるだろうが、祈りには奇跡的な力が秘められている。特定の宗教団体の祈祷を指しているのではなく、だれもがする祈りそのものに、神秘的な力があることに気づかなければならない。

  祈りの力を科学的に研究したのは、世界的な遺伝子学者の村上和雄氏である。同氏は世界に先駆け、高血圧を引き起こす酵素レニンの遺伝子を解析、さらに稲ゲノムの全解読を行った。そして、複雑極まりない遺伝情報を作り上げた何ものかが存在するとして、サムシンググレートの概念を提唱している。また、笑いと糖尿病治療の研究を進め、笑うことで血糖値が下がることを実証している。

 村上氏は宗教学者の棚次正和氏との共著「人は何のために『祈る』のか」(祥伝社)で、「祈りには、病気を癒し、心身の健康を保つ大きな力が秘められていることが、科学的に明らかになりつつある」と、衝撃的な事実を明らかにしている。以下に著書から引用する。

 

 そうした例をひとつ挙げてみることにしましょう。アメリカの病院で行なわれた、祈りの効用に関する研究結果です。

 重い心臓病患者393名を対象に、一人ひとりに向けて回復の祈りを行ない、祈らないグループとの比較をしてみました。そうしたら、祈られたグループの患者群は、祈られなかったグループの患者より、明らかに症状が改善されていました。祈る事が、何らかの形で心臓病を患(わずら)った人たちに良い影響を及ぼしたと報告されたのです。

 

 このほかにも、アメリカのアイオワ州の農村地帯で、トウモロコシの「多収穫」の祈りを集団で行なったところ、ずっと不作だったのが、その年は思いがけないほど豊作だった例、などなどが記述されている。

 そして祈りは、「どんな宗教でも祈りの効果は得られるし、宗教を信じない人にも有効であるということがわかってきました」という。医学に慣れた現代人は迷信と考えるかもしれないが、祈りの力で病気を治す研究が実際に行われているのである。

 信じられないと思う人もあるだろうが、多くの宗教が最初は病気治しから始まっていることを忘れてはならない。

 ちなみに世界最大の信者数を誇る宗教はキリスト教だが、イエス・キリストは、らい病や中風、出血病、盲人、口のきけない人など、さまざまな病気を言葉で治している。

 村上氏は、「無意識の心で感じたものが意識に変換されるときには身体の動きとつながりますから、遺伝子も当然関係してきます。遺伝子には、太古からの人類の祈りが刻み込まれていると思われます。すべての人間が大昔から祈ってきた理由は、このへんにあるのかもしれません」(前掲書)と指摘。

 そして、病気の原因は「悪い遺伝子がオンになった状態と考えられます。ガンはガン促進遺伝子が活発に働いた結果、起きていることです。身体の中にはガン促進遺伝子だけでなく、ガン抑制遺伝子も備わっています。ふつうは、それがきちんと働いてくれるのです。それが、なぜか悪い遺伝子のほうがオンとなって、正義の味方のはずの抑制遺伝子がオフになってしまう。これを逆転させれば、ガンなど自然に治ってしまうのです」(同)と述べている。

 どうやって抑制遺伝子を活発化させるかだが、笑いが糖尿病患者の遺伝子にどう影響するか、「DNAチップ法」という検査法を使って検査した結果から、その方法を示唆している。

 それによると、笑いによってオンになる遺伝子四十七個、オフになる遺伝子八個が見つかった。さらに、動きが活発になった遺伝子は、いずれも免疫力向上に重要な役割を果たしているもので、活動が鈍ったのは、糖尿病による臓器疾患に関係する遺伝子だったという、驚愕的な研究結果が得られたのである。

 村上氏はDNAチップ法を使えば、笑いだけでなく、感謝でも祈りでも、どんな遺伝子がオンになり、オフになるかわかると結論づけている。

 では、祈ればすべてかなえられるかといえば、そんな都合のいいことはあり得ない。祈る人の真摯さや熱心さ、利己的か利他的か、継続した祈りか思いつきの祈りかなど、さまざまな祈りがあるからである。もっとも、真摯で熱心、継続的に利他的な祈りを奉げるからといって、すべてが実現するわけではない。

 村上氏は前掲書で、祈りは「最適解」の答えを出すと述べている。どういうことかといえば、心からの祈りは、たとえ実現しなくても、その時々の最もいい事態を招いている。祈った時には願いが適わなくても、後からもっと望ましい形で実現することがあるというのである。

 祈りは実現する力を持っているが故に、祈ったこと、言葉に出したことは、すべて実現すると思い込むのがコトダマ教である。そこには心の底からの祈りはなく、祈っておけばいい、あるいはコトアゲすればいい、という安易な気持ちしかない。

 言挙げしない国で、軽々しくコトアゲすれば、実現するどころか、逆の結果を招きかねないと肝に銘じるべきである。

 ちなみに鳩山元総理は、神前でやってはならない虚言を平然と口にした結果、政界引退を余儀なくされた。

 山村明義氏の「神道と日本人」(新潮社)によれば、後に天武天皇となった大海人(おおあま)皇子が、挙兵を決意する託宣を得たと由来が伝わっている奈良県吉野の古社「勝手神社」で、鳩山元総理が政権交代祈願を行った際のことである。勝手神社の社殿は、平成十三年九月に不審火で焼けてしまったので、宮司が冗談めかして寄付を願った。「神道と日本人」は次のように記している。

 

「ここは火事で焼けてしまったので、民主党が奉賛(寄付)してくださいよ」と嘆願すると、鳩山氏は、その場で「わかりました。それぐらいさせてください」と語ったという。ところが結局、寄付はおこなわれなかった。続けて鳩山氏は、「政権が取れたら、神社にお礼参りに参ります」と答えたが、まったく「お礼参り」には来る気配もない。

 

 鳩山元総理の虚言癖と「言葉の軽さ」が、神の御前でも同じとは呆れるかぎりである。妄りなコトアゲが災いし、神の怒りを買った人間の末路がどうなるか、鳩山元総理の引退が示唆している。神々を軽視する人間には悲劇が待っていたのである。いや、さらなる悲劇が待っているのかもしれない。

 言葉の大切さは、古今東西、どこでも同じである。世界の人口の三人に一人は信者といわれるキリスト教も例外ではない。旧約聖書の「創世記」冒頭を日本聖書協会の聖書から引用する。

 

 はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。

 全知全能の神の言葉から、昼と夜が別れたというのである。以後、神が何かを言うたびに、言葉通りの事柄が実現していく。

 神の言葉による世界の発展を、新約聖書ヨハネ福音書は次のように記している。

 

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 

 キリスト教の「はじめにありき言葉」は、神が発した言葉だから、文章となっている。これに対し、日本の言葉は、人々が話す「あ、い、う、え、お」などの一つひとつに深い意味が含まれている。一音一義、一音万義である。

 それが我が国に伝わる言霊で、言葉は「神」だけのものではなく、人間とともにあることを忘れてはならない。

 

 言霊を忘れたわかりやすい例は「いのち」という言葉で分かる。「いのち」に「命」という漢字を当てはめたため、「命」は生命のこととなり、「いのち」に含まれた深い意味がわからなくなった。

 奈良春日大社宮司を務めた葉室頼昭氏は、形成外科の医師を定年退職して神主になった異色の経歴の持ち主で、神道に関する多くの本を出している。

 葉室氏は、「いのち」の「い」は生きる、「の」は接続詞、「ち」は知恵で、神に与えられた「生きる知恵」のことだと喝破している。

 人類が誕生して以来、体験したことが遺伝子に組み込まれ、「生きる知恵」となって子孫に伝えられていくのが「いのち」だというのである。もちろん、処世上の知識や技術を指しているのではない。

 ちなみに「いね=稲」は「いのちのね=命の根」で、私たちが何気なく使っている言葉には、深い意味があることがわかる。

 神々が人間に与えられた「いのち=いきるちえ」を伝えていくのが言葉だ。

 一つひとつに意味のある日本語の単語に、中国の表意文字を当てはめたのが漢字である。時代が下るにつれ、本来の意味が忘れられ、漢字の意味に振り回されるようになった。

 そして人々は、長い年月のうちに言霊の存在を忘れ、いわゆるコトダマを信じるようになり、コトアゲすれば実現したと思い込むようになった。鳩山由起夫菅直人など、歴代の多くの総理経験者、政治家や官僚は抽象的な言葉を駆使し、コトアゲすることで国民を欺くようになったのである。

 言葉が乱れに乱れた現在、わが国の伝統は失われようとしている。伝統を守るためには、国民一人ひとりが言葉を正確に発音し、祈りをこめて言霊を甦らせなければならない。