巻の六 後編 息吹永世が現代人を救う

ヨ 神霊のざわめき

こうした神懸りという神霊との接触は、先達の指導なく無闇に行うと、危険を伴うことは言うまでもない。命を落としたり、精神に異常を来たすこともある。

例にするのは恐れ多いが、神功皇后の神憑りでは、仲哀天皇崩御されている。

神懸りは、古くは琴を奏でて神を降ろしていた。古事記の帯中日子(たらしなかつひこ)天皇仲哀天皇)の項に「天皇御琴を控(ひ)かして建内宿禰大臣沙庭(さにわ)に居て、神の命(みこと)を請(こ)ひき。是に大后神を歸(よ)せたまひて」とある。大后は息長帯日賣(おきながたらしひめ)命、神功皇后である。

 神功皇后に降りた神は、西の方にさまざまな宝を持った国があり、その国を服従させて与えようと仲哀天皇に伝える。しかし天皇は、高いところに登って西の方を見ても国土は見えず、ただ大海があるだけだと「詐(いつはり)を為(な)す神」と決めつけて、琴を引くことを止めてしまう。

 怒った神は「凡そ茲(こ)の天の下は、汝(いまし)の知らすべき国に非ず。汝は一道へ向かひたまへ」と宣告する。一道とは死への道のことで、仲哀天皇はその場で息絶えてしまう。

 その後、日本書紀によれば、建内宿禰が琴を引き、中臣烏賊津使主(いかつおみ)を審神者にして、神功皇后に降りた神が底筒男、中筒男、上筒男の住吉に祀る三神などであることがわかる。

 降りた神を信じなかったために、仲哀天皇は亡くなってしまった。神懸った神の力は、天皇でさえも容赦しない恐るべきものである。ここで古事記は初めて「罪」という言葉を使い、国の大祓を行っている。

 三島由紀夫の作品に「浅春のある一夕、私は木村先生の帰神(かむがかり)の会に列席して、終生忘れることのできない感銘を受けた」から始まる「英霊の聲」がある。「英霊の聲」は、二二六事件や五一五事件、さらには大東亜戦争で散った戦士たちの霊が、川崎重男という二十三才の盲目の青年神主に懸かる帰神の会で、霊たちの怨念が噴出する様を、迫力ある筆致で描いている。

 神主の「川崎君」に、審神者である「木村先生」が石笛を吹き鳴らし、帰神をさせる。そして川崎神主は、懸かった夥(おびただ)しい霊の力にもみくちゃにされ、全身の力を消耗して息絶える。「英霊の聲」は最後を次のように結んでいる。

 

 死んでいたことだけが、私どもをおどろかせたのではない。その死顔が、川崎君の顔ではない、何者とも知れぬと云おうか、何者かのあいまいな顔に変容しているのを見て、慄然としたのである。

 

「何者かのあいまいな顔」という描写は、背筋が寒くなる表現である。そして、夥しい霊が三島由紀夫本人に依(よ)り憑(つ)き、この作品を書かせたのではないかと戦慄するほど、真に迫っている。

 神主と審神者だけで神懸りを行えば、この作品のように危険な状況になることが往々にしてある。それを三島由紀夫は、作家の創造力と筆力で描きだしてしまった。三島由紀夫自身に霊が懸かるのは避けられないところである。

 作品の主人公・川崎君のようにならないために、神懸りを行う場合、審神者は求める神や霊以外は懸からないようにする能力がなければならないが、力不足だったり、一人で行うなどの危険な神懸りが世に広まってしまった。

 その最大の原因は明治十五年、神職と教導職の兼務を禁止し、教派神道を認可した明治政府の神道政策にある。そして、教派神道の多くは、教祖が神懸りで神意を受けた。

 神懸りになった教祖は、審神者もいなければ先達もおらず、神社の門前で祈っているとき、死の病に苦しんでいるとき、貧困に喘いでいるときなどに、突然の神懸りで神の声を聞けるようになった、あるいはそう思い込んだのである。

 そうした教団では、教祖の体験を基に、信者が神懸り行を修行しただろう。そして、何人もの信者が、神懸り状態になったのは、想像に難くない。

 三島由紀夫は「英霊の聲」の参考文献として大正時代から昭和初期に活躍した神道家、友清歓真(ともきよよしさね)の著書「霊学筌蹄(せんてい)」挙げている。

 友清歓真は最初、弾圧事件で有名な大本教に入った後、鎮魂帰神法を確立した本田親徳の霊学継承者、長沢雄楯(かつたて)に入門し、霊的国防論を唱える神道天行居(てんこうきょ)という教団を開いた。本田霊学が「英霊の声」に影響を及ぼしているといっていいだろう。

 後の大本教の聖師となる出口王仁三郎も長沢に師事し、故郷で御笠稲荷講社の支部を作り鎮魂帰神の修行を行った。

 大本教は大正十年、不敬罪と新聞紙法違反で、昭和十年にはクーデタを計画しているという疑いで、それぞれ京都府警によって厳しく弾圧され、本部や神殿などがすべて破壊された。

 宗教学者の津城寛文氏は「鎮魂行法論」(春秋社)で、「第一次大本事件前の警察記録をみると、この鎮魂帰神による精神障害その他の弊害が当局の注目する所になっていたことがわかる」と記している。憑霊現象を軽々しく扱うことの危険性を示唆したものだ。

 また同氏は、東洋大学神道を講義した神道学者の田中治吾平(一八八六~一九七三)の行法を取り上げ、「修行者に都合のよいものではなかった」と不都合が発生したことを次のように指摘している。

 

 不都合とは、修行者(これを命人(みことびと)と称する。これに対して鎮魂行法の指導者を柱人(はしらびと)と称する)の中に精神の異常をきたすものが出たことをさしており(後略)

 

 このため田中治吾平は、行法を変更せざるを得なかった。そのあたりについては森佐平の「小説すめらみこと」(霞ヶ関書房)に詳しい。

 京都大学助教授で作家だった高橋和己は、一九七〇年を前にした大学紛争で全共闘系学生をいち早く支持したことで有名な人物である。彼の著書「邪宗門」は、ある教団の信者が修行中、何人もが精神異常になったと記している。事実に基づいた記述だったのであろう。

 さて、ある教団の幹部信者が書いた本に、二人の最高幹部に天照大御神須佐之男命がそれぞれ神懸り、教団の運営方針について激しい議論をしたとあった。

 本気でこれを書いているとしたら、正気の沙汰とは思えない。天照大御神須佐之男命が、一教団の運営方針ごときの議論で、都合よく神憑りすることなどあり得ない。幹部同士の芝居、狂言だと気がつかないとしたら、完全な思考停止、洗脳されているとしか言いようがない。

 神道国際学会会長を務めた中西旭氏は「神道の理論」(たちばな出版)で次のように指摘している。

 

 高貴の神名を名乗り出る者は、必ずしもかゝる正神には非ず、否その殆どが邪霊とさるべきだろう。常識的にも、大神が俗生活の情実の些事等に干渉する筈が無い。

 

 記紀を読めば、天照大御神が神降るのは天皇以外にないことがわかる。それも、神憑り状態になるのではなく、夢による神託などで神意を受けている。

 天皇は皇孫であるから天照大御神の神託が得られるのであって、一般の人間が、たとえ宗教家だとしても、神降ることはあり得ない。

 本田親徳の鎮魂行法は掌を合わせて指を組み合わせ、人差し指を立てた独鈷印を胸の前に置く。大本教や田中治吾平などの鎮魂行法の独鈷印は、指の組み合わせに違いはあるが、本田の鎮魂行法と共通している。

 前に手を胸より上にすると危険だと指摘したが、本田親徳らの鎮魂行法は逆に胸から上へ積極的に上げている。神懸りをしやすくするためだろうが、よほどの神霊力がある先達が一緒でないと、危険極まりないから、軽々しく行うべきものではない。

 大本教や田中治吾平の詳しいことは他の研究書に譲るとして、友清歓真神道天行居谷口雅春(まさはる)の生長の家、中野与乃助の三五(あなない)教、手かざしで浄霊をする岡田茂吉世界救世教などの諸教団が大本教から派生した。

 変わったところでは、大本教から離れて心霊科学協会を設立し、オカルト研究の先駆者になった浅野和三郎がいる。彼は英文学者で、大本教が買収した大阪の日刊紙「大阪日日新聞」の社長になり、一時は社会的に大きな影響力を手にした。

 大本教の隆盛に共振するように、いわゆる心霊科学や超能力の研究が盛んになっていった。中でも、東京帝国大学の福来(ふくらい)友吉や京都帝国大学の今村新吉などの学者が、千里眼や念写の能力を持っているという御船(みふね)千鶴子や長尾郁子を実験台にした公開実験は、世間に大きな反響を呼んだ。

 幕末から明治初期、明治後期から大正初期は、新興教団や超能力、心霊科学が盛んになった。幕末の動乱と明治維新による社会変化が大衆に大きな不安を与え、「すがるもの」を求めさせたのである。その社会不安に呼応するように、政府の神道政策で教派神道が続々と誕生し、近年の第一次宗教ブームとなった。

 大正時代は第一次世界大戦が大正三年(一九一四年)に勃発し、国民に不安が台頭した。大本教が躍進し、超能力などが話題になったのも偶然ではない。社会不安が強いと、人々は不可知なものに頼り、安寧を得ようとする。

 敗戦後の第二次宗教ブームは言うにおよばず、第三次宗教ブームとされる現在も、さまざまな意味で大衆が不安を抱いている時代である。物質文明が高度に発達し、経済至上主義が蔓延したあげく、バブル経済が破綻し、さらには東日本大震災が発生するなど、人々は心の拠り所を求めている。そして、「えっ!」と驚くような宗教団体が跋扈(ばっこ)している。まさに「鰯の頭も信心」状態になってしまった。

 現代社会は歪んだ精神状態にある。その最大の原因は、自分の頭で考えることを怠っているからにほかならない。

 言い換えれば、GHQに押し付けられた民主主義の美名の下に、日本の伝統を否定した戦後教育が人々の利己主義を増長させ、自分だけよければいいという社会を作りだしたからである。

 かといって、国民が政治に参加する「民主主義」を否定するわけではない。日本は神代から、「八百万の神を神集へに集ひて」(大祓詞)神々がこぞって祭政に臨んでいた国だったのだから。

 

イ 祝(はふ)りの神事

 

 皇室に長く伝わり、新宗教の底流に大きな影響を与えた白川伯王家神道に、十種神宝御法という修行法があったそうだ。「そうだ」と書いたのは、白川伯王家が消滅したため、直接確かめようがないからである。この修行法は、白川伯家神道について書かれた書物に垣間見られるくらいで、詳しいことはわかっていない。そして、白川伯家神道を継承しているといわれる人々も、どこまで正式なものを伝えられているのか定かではない。

 この御法は、祝殿(はふりでん)という建物で行われたので、祝の神事と呼ばれ、天つ神の御子の天皇が受ける行とも言われている。

 全国最小村の東京都青ケ島の役場職員を務め、島で最年少の社人とし神事に奉仕したジャーナリストの菅田正昭氏は、「古神道は甦る」(たま出版)で祝の神事について、「目をつぶったままで行う幽斎修行で、十種神宝を十個の徳目(とくもく)にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯(かいてい)を一歩ずつのぼっていこうというもの。また、御簾(みす)(神前などにある目の細かいすだれ)内(うち)で行われることから〈御簾内の行〉ともいわれている」と前置きして、具体的な内容を次のように記述している。

 

 修行じたいはひじょうに簡単で、まず正座をし、拍手を打ってから、右手の指が左手の指より前にくるように手を組み、両手の人差指だけはアンテナのように直立させ、目をとじ、あとは永世をしながら、八方からあがる独特の節回しの、お祓の声をただ黙って聴いておればよいのである。

 この行をするときには、一人以上の修行人のほか、周囲から祓詞を奏上する八人が必要だ。(後略)

 

 永世は長い呼吸のことで、正座か安座して行う。菅田氏は祓詞を奏上するのは八人の乙女だと書いているが、違う神霊能力を持った八人という説もある。

 八という人数は宮中の八神殿に祀られている神々の数で、八方の方位も表している。さらに「八」は「や」で、弥栄(いやさか)の「弥(いや)」に通じ、永久(とわ)にという意味合いを持っている。

 祝の神事の八乙女は、神懸り行をする場合に神を降ろす「神主」と、「神主」を神懸りさせる「祭主」、さらに降りた神がどういう神であるのか判断する「審神者」、そして荒ぶる霊が懸からないように結界をつくる八人が必要だと示唆している。

 菅田氏は、「古神道は甦る」で次のように記している。

 

 真ん中に、島でいうところのミケコのある社人・巫女の候補者を置き、その周りを巫女さんたちが祭文を唱えながら踊り回るのである。(中略)

 現在の青ケ島では、かならずしも八人で行なわれてはいないようだが、やはり理想としては八人、それも巫女八人である。

 

 鎮魂行の古い形が、世間から隔絶された青ケ島に残っているのかもしれない。

 

ム 「ふる」という神言葉

 十種神宝といえば、石上神宮に明治になって復活した鎮魂法が伝わっている。その由来を記しているのは、先代旧事本紀(せんだいくじほんき)で、物部一族が書いたと言われている。もっとも、学者によっては偽書とする人もいるが、記紀古語拾遺から引用したとみられる部分を除いて、独自の伝承と考えて問題ないだろう。九世紀初めから十世紀はじめの間に成立したとみられている。

 先代旧事本紀によると、邇藝速日(にぎはやひ)命は布都御魂(ふつのみたまの)神、布留(ふる)御魂神、布都斯(ふつし)御魂神を石上神宮に鎮め祭った。布都御魂神は建雷之命が大国主と国譲りしたときの剣、布留御魂神は天つ璽十種瑞御寶、布都斯御魂は速須佐之男命がおろちを退治したときの十握剣のそれぞれの神霊である。

 古事記では邇藝速日命はわずかしか登場しないが、日本書紀では天つ神の御子で、長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶り、可美真手(うましまで)命(古事記では宇摩志麻遅(うましまじ)命)をもうけたとある。

 この可美真手命が物部氏の先祖で、物部氏は傍流だが天つ神の血統ということになる。

 しかし、物部氏は大連(おおむらじ)だった物部守屋が崇仏派の蘇我馬子に滅ぼされ、政治の表舞台から姿を消す。このため、物部氏に伝わった祭祀や伝承が、蘇我氏によって抹殺された可能性が高い。それ故、天つ神の子孫だったのにもかかわらず、邇藝速日命は埋没してしまったと考えられる。

 邇藝速日命について詳しく記してあるのが先代旧事本紀と、石上神宮に伝わる十種神宝祓詞という祝詞である。

 天照大御神と速須佐之男命が天の真名井で「うけひ」して五男三女が生まれた。大御神の左の御美豆良(みみづら)に巻いた御須麻流(みすまる)の珠から生まれたのが太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかちはやひ)天之忍穂耳(あめのおしほみみ)命。次男神が天之菩卑能(あめのほひの)命で、その子孫が代々、出雲大社を務める千家(せんげ)家である。

 高円宮家の二女だった典子さんが嫁いだのが千家国麿氏で、天照大御神の長男神と二男神の子孫が結ばれたことになる。

 記紀によれば、天照大御神が最初に水穂国を知らすよう「言因(ことよ)さし賜(たま)ひ」たのが天之忍穂耳命。しかし、出雲國での大国主命の国譲りなど、水穂国を言向けやわしているうちに、天火明(ほあかり)命と邇邇藝命が生まれる。そして、邇邇藝命が降臨するのだが、長男神天火明命はどうしたのかという疑問が起きる。

 実は、この天火明命こそが邇藝速日命である。先代旧事本紀や十種神宝祓詞には、「あまてるくにてるひこ、あめのほあかり、くしだま、にぎはやひのみこと」と、明確に記されている。つまり天火明命、あるいは邇藝速日命は、天孫として降臨した邇邇藝命の兄神に当たる。

 邇藝速日命が降臨する時に、天照大御神から授けられたのが「すめかみのゐさせたまふ、とくさのあまつしるし、みづのみたから」の十種神宝だった。

 十種神宝を「一二三四五六七八九十」と唱えながら「ゆらゆらとふるへ」ば、「いやこころのたりて、まかれるひとも、さらに、かえりいきなむ」とされている。亡くなった人さえ生き返らせるというのだから、これに勝る奇跡はない。

 そして後世に伝えられたのが、十種瑞乃神宝を振るう「ふる」という神言葉である。先代旧事本記と石上神宮祝詞とでは、十種瑞乃神宝の順序が少し異なるが、ここでは先代旧事本記に倣って記す。

 

 十種瑞乃神宝

 瀛津鏡(おきつかがみ)一つ

 邊津鏡(へつかがみ)二つ

 八握剣(やつかのつるぎ)三つ

 生玉(いくたま)四つ

 死返玉(まかるがへしのたま)五つ

 足玉(たるたま)六つ

 道返玉(ちがへしのたま)七つ

 蛇比禮(おろちのひれ)八つ

 蜂比禮(はちのひれ)九つ

 品々比禮(くさぐさもののひれ)十

 

 一つ一つの神宝がどのようなものか、さまざまな解説があるが、行じることが大切だから、言葉の詮索はあまりしない方がいいだろう。

 十種瑞乃神宝を「ふるふ」ことで神威を発現させるのが、「布留部詞(ふるべのことば)」だ。

 

 一(ひ) 二(ふ) 三(み) 四(よ) 五(い) 六(む) 七(な) 八(や) 九(こ) 十(と) 乎(を)

 十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 伊

 瓊音布留部(にのおとふるべ)

 由良由良(ゆらゆら)

 由良由良布留部

 瓊(に)は玉という意味で、十種瑞乃神宝を玉を振るように、「ゆらゆら」と振るえば、「もろもろの、わざはひ、やみことは、すみやかに、はらひたまひ、いやしたまひ、いやこゝろのたりて、まかれるひとも、さらにいきかえらしめたまひ」て、正しき直き本(もと)の御魂を心の真中に鎮め、言霊が幸はうと、十種神宝祓詞は記している。

 さて、「ふる」という言葉だが、御魂を振って心身を活発化する振り魂の「ふり」であり、神の枕言葉とされる「千早振(ちはやふ)る」の「ふる」である。「千」は霊(ち)で、「早」は速く激しく、「振る」は御魂振りだ。つまり「千早振る神」とは、霊威が強大な神という意味になる。

 また、民俗学の礎を築いた折口信夫は、「ふる」は「増える」「恩顧(ふゆ)」の語源だとしている。

 振り魂は御魂の力を強大にするだけでなく、数も増やしてさらに霊威を高めるということになりそうだ。また、「御魂の恩顧をこうむりて」などと使われる「恩顧」は、「振ゆ」「殖(ふ)ゆ」で、御魂を増やす意味である。

 石上神宮に伝わった十種瑞御寳修行法は、物部氏が権力闘争に破れて祭政の中枢から外れたことで、だんだんと廃(すた)れていった。

 それが復活したのは明治の初めで、現在は神社本庁が神社の神職に自修鎮魂行として行うよう指定している。具体的には、息長(おきなが)という複式の長い息を鼻で行いながら祝詞を上げ、体を左右前後に振る行法だが、文献にこの行法の記録はなく、石上神宮の伝承によって復活されたものだろう。

 石上神宮の鎮魂法は皇室祭祀にも取り入れられている。新嘗祭の前日の晩、掌典職が御衣と玉の緒が入った箱を「ゆらゆら」と振るう天皇の鎮魂、魂振りが行われている。物部氏の祖である宇摩志麻治命が十種神宝で神武天皇の鎮魂を行ったのが始まりと日本書紀にある。

 さて、失われた「祝の神事」とは、石上神宮に伝わる自修鎮魂行と、菅田正昭氏が述べている八乙女の行を、一つにしたものではないかと思われる節がある。八乙女による鎮魂は他修鎮魂ともいうべきもので、自修鎮魂、他修鎮魂がそろってこそ、すめらみことの行である御簾内の行にふさわしいと考えられる。

 

ナ 息吹永世

 神社本庁の自修鎮魂行では呼吸法を息長としているが、白川伯家神道には息吹永世という呼吸法がある。禊や祓い、鎮魂で共通して行われる呼吸法で、水が体の外側を禊祓うのに対し、呼吸で体の中から禊祓う行である。

 まず裸足の足の裏を合わせた安座または正座の姿勢(女性は正座)を取る。もっとも、息吹永世だけなら、正座でも椅子に座っていてもかまわない。

 安座して両手を体の前の床で揃え、円を描くように両腕を体の後ろへ回して手を合わせ、体の前へ両脇を通って戻す。そして一揖(ゆう)二拝二拍手一拝一揖し、神前でと同じように、安座している場所の神々に参拝し、修行の場を借りる挨拶をする。いわば結界をつくる。揖は軽いお辞儀で、拝は深い敬礼である。

 さて息吹永世だが、左指を上にして指を組み、人さし指だけ伸ばして合わせ、臍の前に置いて独鈷印を結ぶ。目を半眼に閉じ、鼻から息を吸って腹に溜め、口からゆっくり細く長く吐く。吐き切ったら鼻からゆっくりと息を吸って止め、再び細く長く吐く。息を吸うときに腹を膨らませ、吐くときは引っ込める複式呼吸を意識して行う。

 この場合、組んだ手を胸から上へ上げると霊動が出ることがあるから、厳に慎まなければならない。霊動が出て、神懸かったと喜んだら、とんでもない悪霊だったということになりかねない。ある種の宗教にはよくある話である。

 しっかりした指導者が不在で、一人で息吹永世を行じるときは、腹に気を鎮めるという意識を常に持っていなければならない。

 息吹永世を続けると、体全体が熱くなり、合わせた掌や人さし指がじっとりと汗ばんでくる。そういう状態になれば、息吹永世が正確にできている証拠である。

 息を吐くときに、体の中の罪穢れを細く長く吐いて清めてやるという意識を持つ。息吹永世を五分も続ければ、体の疲れが軽くなり、気力が出てくることに気づくだろう。「長い息」は「長生き」につながるから、息吹永世はストレスで難病に罹(かか)りやすい現代人の救世主でもある。

 逆に、「ハァ~」とため息のような息を吐くと、気力や体力が衰え、さらには罪や穢れがほかの人に憑(つ)いてしまうから、気をつけなければならない。

 息吹永世を続けても、衰えた気力が回復しない場合、息を細く長く吐いた最後に、すべての息を強く吐き切る。このとき、フツと音がするよう強く吐く。これを何度か繰り返すと、不思議に気力が湧いてくる。

 このフツという音は、速須佐之男命が八俣遠呂智(やまたのをろち)を「切り散(はふ)りたまいし」とき、つまり物を断つ際に出た音とされている。そしてフツは石上神宮の祭神の一柱である「フツノミタマ」、香取神宮の祭神「フツヌシ」に通じる言霊を持っている。

 日本書記によれば、経津主神武甕槌神と共に、出雲の国へ大国主神との国譲りに出向いた正使の神である。

 さらに神武東征の折り、熊野で大熊が現れて天皇も軍勢も毒気にあたって病に伏し倒れたとき、高倉下が一ふりの横刀(たち)を持って駆けつけると病気が癒され、「荒ぶる神、自ずから皆切り仆(たお)さえ」た。この横刀は、古事記では建御雷之男神出雲国の国譲りに携行して「専(もはら)ら其の国を平(ことむけ)し横刀」で、布都御魂と分注している。

 これらから、フツは荒ぶる敵を平定する言霊と考えられ、フツと息を吐けば、気力が充満するのだろう。

 呼吸は人間に大きな影響を与える。ちなみに、仏教の日蓮宗と念仏をする宗派とでは、題目と念仏を唱える声の出し方が違う。日蓮宗は何妙法蓮華経と息を強く吐き出し、念仏は南無阿弥陀仏とこもるように唱える。声を強く吐くと気力が高まって攻撃的になり、こもらせると内省し深い洞察に向かう。

 日蓮宗では開祖の日蓮だけでなく、血盟団事件の首謀者だった井上日召、八紘一宇(はっこういちう)を唱えた国柱会の田中智学などのように、気性の激しい人物が多出している。これに対し、内省に向かう念仏は、浄土宗の僧侶で、日本人仏教徒として始めてインドの仏跡を巡り、光明(こうみょう)主義を開いた山崎弁栄(べんねい)上人のような高僧を生む。

 念のため一言付け加えると、八紘一宇という言葉は戦前の軍部が盛んに喧伝したが、古事記にも日本書紀にも記載されておらず、田中智学の造語である。日本書紀にあるのは「八紘為宇(はっこういう)」で、「世の中を宇(いえ)=家=となす」が本来の意味だ。「一」というから世界を統一して支配下に置こうとなってしまう。「家」ならさまざまな家族がいるわけで、唯我独尊の軍国主義にはならない。言葉は正確に使うべきである。

 現代人が思考停止から逃れ、自らの頭で考えるようにするには、息吹永世での瞑想が最適である。目を半眼にし、ゆっくりと息吹永世を繰り返しながら、解決したいことに意識を集中してもいいし、何も考えずに無心になってもいい。

 これを一日に五分でも十分でもいいから継続して行えば、深い洞察力が得られ、気力体力が充実してくるだろう。神道の鎮魂の業である。

 すべての神道の行を現代人が実践するのは、環境的にも時間的にも難しい。したがって、まず自分で簡単にできること、つまり息吹永世から始めて、機会があれば神社が主催する禊会に参加することである。禊の後の爽快感を体験すれば、積み穢れが祓われたと実感できるだろう。

 そのとき、思考停止は完全に解けているに違いない。