巻の二 後編 60年が謎のカギ

ヨ 百歳を超える天皇が多い理由

 

 神武天皇紀元が西暦紀元前(BC)六六〇年に設定されたのはなぜなのか。百歳を超える長命の天皇が十一人、治世が六十年を超える天皇仁徳天皇以前に十人もいるのはなぜなのか。日本書紀にはさまざまな謎がある。

 それを解明するには、応神元年から雄略五年の間に、実年の七十二年に対し紀年が百二十年加算された理由を理解しなければならない。すでに明治時代に那珂通世が指摘したところだが、百二十年延 長の背後にある讖緯(しんい)思想を考慮しなければ、真実は見えてこない。

 讖緯とは予言のことである。いつの時代でも予言を好む人々はいるが、上代人は治世にあたり、十干十二支に易経陰陽道などを組み合わせた讖緯思想を重要視した。これらは当時の最高の先端科学ともいうべき思想で、特に聖徳太子は熱心だったといわれる。

 十干は甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)葵(き)で、十二支は子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い)。甲に子を、乙に丑をというように組み合わせていく。さらに十干に易経の五行の木火土金水を当てはめ、甲=木(き)の兄(え)、乙=木の弟(と)、丙=火(か)の兄(え)……と読んでいくと、六十年で最後の葵(みずのと)亥(い)となる。

 これを一元とし、二十一回廻った千二百六十年を一蔀(ほう)とし、例えば甲子(きのえね)の年は法律である令(りょう)が革(あらた)まる革令の年、辛酉(かのととり)は天命が革まる革命の年と考えるのが讖緯思想である。

 さて、日本書紀天皇の在位期間を網羅しているが、宝算については多くが抜け落ちている。これに対し、古事記は紀年が記されたのはわずかな代わりに、多くの天皇の宝算と、崇神天皇から推古天皇までの二十四代のうち、十五代について崩御年の干支を分注として記載している。

 これを分注崩年干支といい、干支を基に天皇の崩年を西暦に換算したのは那珂通世である。那珂説と日本書紀に記された天皇の末年とを比べると、二十七代安閑天皇が五三五年で一致し、三十代敏達天皇は那珂説が五八四年で一年少なく、次の三十一代用明天皇から以降は一致している。逆に代を遡るにつれて日本書紀天皇末年と那珂説は次第に差を大きくしていく。

 これらから、紀年延長とは関係のない古事記の分注崩年干支は、何らかの事実を伝えていると推測することができる。そして、代を遡るほど那珂説の崩御年と日本書紀の末年の差が大きくなっていくのは、日本書紀が「ある目的」を持って紀年延長を図ったことによると考えられる。

 この「ある目的」とは、神武紀元という最初の記念すべき年を、特別の干支の年に設定することである。

 ここで前提にしておきたいのは、日本書紀は正確な暦のなかった時代のことを讖緯説によって年紀を立て、月日も詳しく記載するなど、歴史書の体裁を無理して整えていることである。このため、実際の伝承と矛盾を生じることになった。

 百歳を超える天皇が非常に多く、世継ぎ誕生時の父天皇の年齢が六十歳以上になるなど、常識ではあり得ないことが記載されている。ほかにもさまざまな矛盾があるが、典型的なのが第十四代仲哀天皇の誕生である。

 仲哀天皇の宝算は、古事記日本書紀ともに五十二歳となっているが、これを基に誕生年を逆算すると、叔父の成務天皇十九年となる。しかし、父親の日本武尊(やまとたけるのみこと)は前の天皇の景行四十三年に亡くなっている。景行天皇の在位は六十年だから、誕生年の成務十九年とは三十六年の空白が生じる。すなわち、日本武尊が亡くなった三十六年後に仲哀天皇が生まれたことになる。

 これを指摘して日本書紀を信用できないと批判する学者がいるが、長寿天皇を何人も創るより天皇の人数を増やすほうが信憑性が高いのと同様に、平田俊春氏は「仲哀天皇の宝算を三十六年延長して『八十八歳』としておけば、簡単に解決するのである」(神武天皇紀元論 日本文化研究会編 立花書房)と指摘する。

 それとも批判者は、日本書紀の執筆者が、矛盾に気がつかないほど無能だったとでも主張したいのだろうか。

 日本書紀仲哀天皇誕生の矛盾を訂正しなかったのは、古事記との宝算一致で明らかなように、古伝承に手を加えなかったからである。あくまでも伝承を優先し、歴史書の体裁を整えるにあたり、改竄することがなかった故の矛盾にほかならない。歴史書の体裁をより重視するなら、伝承は元の姿を失っていただろう。

 では、なぜ矛盾を承知で日本書紀を選録したかだが、那珂通世が明治時代に指摘したように、讖緯説によって神武天皇元年を一蔀の最初の辛酉の年にしたためである。

 辛酉は革命、甲子は革令の年で、一蔀の最初の辛酉の年は、世が変わり新時代に入るというのが讖緯説である。

 日本書紀の選録者は、神武紀元を決めるにあたり、推古九年(西暦六〇一年)を一蔀の最初の辛酉の年とし、これより一蔀千二百六十年前の辛酉の年に、奈良県の橿原で神武天皇が国家成立を宣言したと考えたのである。

 推古九年は平穏な年で、一蔀の最初の辛酉年にふさわしい新時代到来を思わせる出来事がなかったからと、讖緯説による神武紀元の設定に疑問を投げ掛ける向きがあるが、推古十二年の甲子年を基準にして、三年前の辛酉年が一蔀の最初と決められていることを見落としてはならない。

 推古十二年には元嘉暦が採用され、冠位が制定され、正徳太子が十七条の憲法を制定した。この年は革令の年にふさわしい出来事が多く、一蔀の最初の甲子年と受け止めれば、その三年前の辛酉年が一蔀の最初の年と考えるのは自然の成り行きである。

 そして、聖徳太子日本書紀の原典となる帝紀旧辞を選録したことを考えれば、推古九年が一蔀の最初の辛酉の年となるのは必然だった。

 こうして神武元年は推古九年の千二百六十年前の辛酉年と決められ、雄略紀から遡って紀年が創られていく。

 その際、応神紀にみられたように、伝承を基にした年代列が、讖緯説で統一された日本書紀の紀年にはめ込まれていったから、矛盾が生じることになった。

 そして仲哀天皇以前は、照らし合わせる海外史料がないから、天皇の異常な長寿や仲哀天皇誕生などの矛盾を承知のうえで、統一された紀年に古伝承を挿入していったのだろう。

 では、讖緯説によってどれだけ紀年が延長されたかといえば、那珂通世は約六百年と推測した。もっとも、神武天皇から崇神天皇までの十代の天皇について、在位期間を一代三十年と仮定しての計算だから、統計を歴史に持ち込む愚を犯している。

 歴代天皇の宝算と在位期間を俯瞰しよう。神武天皇から仁徳天皇までの十五代にあって、百歳を超える天皇は十一人、十人の在位期間が六十年を上回っている。

 これから検討する紀年は、応神元年から雄略五年までに百二十年の延長がなされていることを前提にする。

 在位期間が六十年を超える天皇のうち、第九代開化、第十二代景行、第十三代成務の三天皇の在位期間がそろって六十年で、景行天皇成務天皇と二代続いていることに注目しなければならない。

 三人の在位が六十年で、さらに二代続けてとなると、偶然では片付けられない要素が含まれていると、普通なら考える。確率論からいえば、開化天皇から成務天皇まで五代の中で、三人の在位が六十年で完全一致する可能性はわずかである。

 それも、雄略五年から延長された百二十年を含め、百九十二年の年を遡って応神元年に至り、在位が九年と短かった仲哀天皇の前の成務天皇から、二代が続けて在位六十年となると、執筆者の意図が透けて見えてこないだろうか。

 正確な暦がない時代、天皇の宝算や在位期間がどのていど伝承されていたかだが、年齢や在位期間を正しく記録することは難しく、史料というものは非常に少なかったと考えられる。

 日本書紀仁徳天皇から推古天皇までの十八代中、在位期間は全天皇に記載されているが、宝算も記載されているのはわずか六代にすぎない。これに比べ、応神天皇以前のより古い時代の歴代すべてに、宝算と在位期間が記載されているのは、推古九年の千二百六十年前の辛酉の年を神武紀元とする大前提により、宝算や在位期間を執筆者たちが創り上げたからにほかならない。

 史料が残っていなくても歴史書を創らなければならないとなると、頼るのは古代の「科学」である讖緯説や陰陽道、干支しかない。そして、後世の人も讖緯説や陰陽道に詳しいことを前提にして、推古九年から一蔀千二百六十年前の神武紀元を、無理なく受け入れられるように創りだしたのが、異常に長い在位期間と宝算だったのではないか。

 こう考えてくると、日本書紀の紀年を読み解く鍵は一蔀の千二百六十年であり、それを構成する一元六十年となる。

 開化、景行、成務の三天皇の在位期間がそろって六十年となっているのは、在位期間の記録が残っていなかったため、一元六十年に統一したためだろう。後世の人がこれを見ても、讖緯説や陰陽道の知識を持っていれば、そろえた理由がわかるからである。

 さらに、あるていどの記録が残っていた歴代の在位期間に、一元六十年を加えて紀年延長を図った。その際、推古九年から仲哀元年まで、空位年一年を考慮して四百十年経過しているので、成務末年から神武元年までを八百五十年とする必要があった。

 成務天皇景行天皇開化天皇の在位期間は六十年だから、六十年を加えたとすると在位期間がないことになってしまうが、開化天皇孝元天皇の在位五十七年に、景行天皇成務天皇垂仁天皇の在位九十九年に、それぞれの在位期間が合算されているからだと考えられる。

 つまり、孝元天皇の在位期間の五十七年は、孝元天皇開化天皇の二人の在位期間の合計、垂仁天皇の九十九年は、垂仁天皇景行天皇成務天皇の三人の在位期間の合計となる。

 在位期間が六十年を超える天皇が続くなかで、孝元天皇が五十七年と一人だけ以下なのは、開化天皇との合算だから六十年を加算しなかったためと考えられる。同様に、垂仁天皇の九十九年は三人の天皇在位期間の合計だから、これも加算はなされていないと考えていいだろう。

 第五代孝昭天皇まで加算を続けてきて、紀年の合算が六百六十六年となり、残りが百八十四年となったところで、古事記では宝算が短い第四代懿徳(とく)天皇(四十五歳)、第三代安寧(あんねい)天皇(四十九歳)、第二代綏靖すいぜい)天皇(四十五歳)の在位を伝承通りとした。そして、伝えられている神武天皇綏靖天皇間の空位四年を考慮して、初代神武天皇の在位に六十年を加え七十六年として調整したと考えられる。

 多くの天皇の宝算が百歳を超える長寿になっているのも、伝えられていた宝算に一元六十年を加えたからと考えれば辻褄が合う。ちなみに、神武天皇日本書紀の宝算百二十七歳、在位期間七十六年からそれぞれ六十年を差し引くと、宝算六十七歳、在位十六年となる。長寿天皇の宝算と在位期間からそれぞれ六十年を引けば、実際と思われる数値に近づくだろう。

 在位五十七年、宝算百十六歳の孝元天皇は、宝算から六十年を差し引けば五十六歳で、古事記の宝算五十七歳とほぼ一致する。これは、原史料から選録するにあたり、実際の宝算に六十年を加えたことを示唆している。また、古事記の宝算と日本書紀の在位期間が一致しており、日本書紀の執筆者が宝算と紀年と誤解を混同した可能性がある。

 成務末年から神武元年まで、紀年が六十年延長されているのは八人の天皇で、合計は四百八十年である。成務末年から神武元年までの紀年の合計は八百五十年だから、実際の経過年数は三百七十年となる。

 応神元年から雄略五年まで、加算されていたのは二元の百二十年だった。これに八代の四百八十年を加えると、延長された紀年は六百年となり、奇しくも那珂説と一致する。すなわち、神武元年は西暦紀元前六〇年前後と推測できる。

 日本書紀私記や釈日本紀などの日本書紀解釈書が天皇の長寿を話題にしていないのは、当時の人々が長寿の理由を、すぐに理解できたからだろう。

 神武元年が讖緯説によって創られているからといって、歴史的に間違っていると否定すべきではない。紀年から実年を推定するのは、歴史研究の立場では必要であっても、上代人が日本国成立の初めと考えた神武紀元は、日本人の情操に深く刻み込まれ血肉となっているのだから、伝承による紀元だと納得しておけばいいのである。

 ちなみに、西暦元年はイエス・キリストの誕生年と一般にいわれているが、実際には誕生四年後である。だからといって、西暦元年を四年前に改定しようなどという杓子定規な動きなどどこにもない。

 

イ 入り組んだ百二十年

 

雄略五年から応神元年までの百二十年の延長は、在位期間に一元六十年を単純に加えたものではない。海外史料との比較ができる時代になっているため、対外的な歴史書である日本書紀は、それらとの整合性を保たなければならなかった。歴史と伝承の狭間の時代である。このため、雄略五年から応神元年の百二十年については複雑な工夫がなされている。

 応神元年から雄略五年まで、二元百二十年がどのように加えられたかを検討しよう。

 まず、日本書紀古事記の関係だが、古事記は歴史書の体裁にこだわらず、日本書紀よりもより古い形で伝承を伝えている。分注崩年干支のように、何らかの原史料を基に、加工せず選録されている可能性が大きい。そこで、古事記に記載されている宝算や在位期間は、普通では考えられない長寿を除いて、原史料を忠実に反映しているという前提に立つことにする。

 日本書紀仁徳天皇の在位期間を八十七年、古事記は分注崩年干支から計算すると、在位三十一年、宝算八十三歳となっていて、古事記の宝算より日本書紀の在位期間のほうが長いという矛盾が起きている。

 前提にしたがって古事記の在位三十一年が正しいとすると、日本書紀は五十六年の紀年延長がなされていることになる。同様の前提に立つと、反正天皇は五年で一致、安康天皇日本書紀だけ三年としているからそのままとし、日本書紀履中天皇在位六年、允恭天皇四十二年に対し、古事記履中天皇五年、允恭天皇十六年だから、紀年延長はそれぞれ一年、二十六年となる。三天皇の延長された紀年を合計すると八十三年となる。

 雄略五年から応神元年までの延長紀年百二十年から、三天皇の合算した延長紀年八十三年を引くと三十七年となる。これが応神天皇の延長された紀年となる。

 日本書紀応神天皇在位は四十一年だから、延長された三十七年を引くと、実際の応神在位は四年と計算される。応神元年は三九〇年だったから、応神末年は三九三年ということになる。

 これを基に、延長紀年を引いて各天皇の末年を西暦に換算すると、仁徳四二六年、履中四三一年、反正四三六年、允恭四五三年となる。

 那珂説によると応神末年は三九四年、仁徳四二七年、履中四三二年、反正四三七年、允恭四五四年で、先に算出した各天皇の末年といずれも一年の差がでる。

 仁徳天皇の在位期間にはもう一つ、不思議な数字の一致がある。履中天皇の在位六年、反正天皇の五年、允恭天皇の四十二年、安康天皇の三年の四代を合計すると五十六年で、仁徳天皇の在位期間八十七年から古事記の在位期間三十一年を引いた五十六年と一致する。仁徳紀に四代の治世が含まれているとみることもできる。

 延長された紀年、仁徳天皇の五十六年と允恭天皇の二十六年には、ほかの天皇の年代列が重複して挿入されている可能性が高い。

どれが正しいかは断定できないが、雄略五年~応神元年まで、このようにさまざまな操作が行われており、海外史料と整合性を保つために、非常な苦労を重ねていることがわかる。