永遠なる魂 第六章 あすに向かって 1

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 あすはいよいよ念願の日。目が冴えてなかなか眠られない。奇しくも、GE-一三二が完成して十年目である。

 外は強い風が吹き、激しく雨が降っている。天気が少しでも回復してくれればいいがと祈るような気持ちだ。

 ここまで来るのにずいぶん長い時間がかかった。資金に余裕があったことはなく、廃人同然の重い病に倒れ、やっと元気になったら今度は騙されて身ぐるみ剥がれ、いつ挫折してもおかしくない苦境に何度も陥った。だが不思議なことに、その度ごとにどこからか救いの手が差し伸べられ、石炭の研究から始まったGE-一三二の薬理効果の研究を、やっと軌道に乗せることができた。

 晴れの日を迎えられるのは浅井一人だけの力ではなく、満足な報酬を得られずとて、ずっと苦労をともにしてきた及川や柿本たちの努力が大いに役立っている。だがそれ以上に、目に見えない何かの力が働いているように感じられてならない。そうでなければ、浅井をここまでゲルマニウムの研究に没頭させた理由がわからない。

 きっと生命の元素であるゲルマニウムで、人類を救えという大いなる意志が、浅井たちを研究に駆り立て、見守ってくれたのに違いない。

 雨足が少し弱くなってきたようである。寒い中を出席する参会者のために、是非ともやんでほしい。そう祈りながら、浅井の思考は過去のさまざまな出来事へと向かっていく。ドイツでの生活、ソ連軍に捕らえられた時のこと、よく生きて日本へ戻れたものだ。

 家族や義母の救出にしても、ただ単に幸運だっただけでなく、見えない意志が浅井を助けてくれたのではないか。

 敗戦した祖国復興のためにと始めた石炭の研究も、決して恵まれていたわけではない。常時、資金繰りに苦しみ、所員たちに辛い思いばかりさせた。だがそのおかげで、ゲルマニウムという元素に出会え、癌や心臓病などの難病から人類を救う手だてが見つかったのだ。

 GE-一三二を合成してからの道のりも、決して楽ではなかった。どんなに苦しくても研究を放り出そうと頭の隅でさえ考えたことはないが、もう終わりかと観念することはたびたびだった。自殺さえ考えたことがある。

 それに所員ともども耐え、あすという日を迎えられるのは感激にたえない。GE-一三二の新しい一歩が始まるのだ。

 だが、気を抜くのはまだまだ早過ぎる。GE-一三二がいかに偉大なものかを、広く人類に知らしめなければならない。日本の片隅に埋もれていたのでは、人類を難病から救う大願は果たせない。

 ゲルマニウム研究会で本格的な臨床試験が始まったとはいっても、厚生省が簡単に薬事法の認可を下ろすと考えるほど甘くはない。癌の新薬の開発は十年、かかる費用は二十億円とも三十億円とも言われているが、それを企業ではなく一個人がやろうというのだから容易ではない。

 GE-一三二の効果があまりにも凄まじいので、自社の薬品が売れないからと製薬会社から圧力がかかったり、心ない医者が誹謗中傷を繰り返している。わずかでも気を抜けば、どんな罠にはめられるかわからない。

 GE-一三二が真価を発揮するのは、これからの努力にかかっている。患者が安く使えるようにならなければ、本当の意味で難病患者を救済するということにならない。

 考えているうちに、いつしか雨はやんだようだ。これで出席者に不愉快な思いをさせなくてすむ。

 念願が叶うまで大勢の人に世話になった。佐藤大使、管社長、斉藤代議士、みんなゲルマニウムの神秘を認め、力の限り応援してくれた。

 佐藤大使や管社長がいなけば石炭綜合研究所を維持することはできなかっただろうし、斉藤代議士がゲルマニウムに興味を示さなかったら、今日のGE-一三二はなかったかもしれない。私利私欲のない、国を心底から憂える人たちばかりで、浅井は多くのものを学んだ。

 その人々にこそ、あすという日に出席してもらいたかった。だが、佐藤大使をはじめみんな鬼籍に入られた。きっと天上からあすの晴れの日を見守ってくれるだろう。

 物思いに耽っているうちに、浅井はいつしか眠りに誘い込まれたが、うつらうつらしたと思ったら雀の鳴く声で目が覚めた。雨は上がったようである。

 わずかな睡眠しか取れなかったが、頭は冴え気力も体力も充実している。雨戸を開けた。厳冬の寒気は肌を刺すほど冷たいが、空は青く晴れ渡っていた。きのうの荒天が嘘のようである。浅井の願いを天が聞き入れてくれたのに違いない。

 昭和五十二年二月十一日建国記念日、狛江市和泉に新築した浅井ゲルマニウム研究所の開所式には、ゲルマニウム研究会や臨床研究会の主だったメンバー、GE-一三二で命を救われた大勢の人たち、映画をともに制作した松緑神道大和山の信者たち、地元狛江市の市長や議員が駆けつけた。

 GE-一三二を信じ、難病を自らの力で克服した患者たちの出席が、浅井は何より嬉しかった。

 新しい研究所は鉄筋の白い四階建てで、最上階には世界最大規模のゲルマニウム有機合成設備が設置してあり、世界最高水準であることは疑いない。

 開所式は午前十時からで、浅井は早めに研究所へ到着した。完成したばかりの建物を見上げた浅井は、何度も苦境に陥ったのが悪い夢だったとしか感じられない。バラック住まいだった研究所生活から、やっと自前の立派なビルを持てたとは、感無量である。

「おめでとうございます」

 研究所のドアを潜った浅井に、柿本が駆け寄ってきた。開所式まで二時間あるが、それまでじっとしていられず、浅井同様に早く出てきたのに違いなかった。柿本は石炭綜合研究所時代から浅井と行動をともにし、苦しい時も決して離れていこうとはしなかった。彼がいなかったら、今日の浅井ゲルマニウム研究所はなかったに違いない。

「やっとここまでこぎ着けたな。これからがゲルマニウムの正念場だ」

「これだけの設備で研究を進めれば、GE-一三二はきっと新薬として認められます」

 柿本は水に溶ける有機ゲルマニウム開発の功労者で、研究を一緒に始めた当時は黒い髪がふさふさしていたが、今は真っ白になっている。そういう浅井も豊かだった髪は白く薄くなっている。石炭綜合研究所からともに始めた研究生活の長さを物語っているようだった。

「大企業ならともかく、一個人が薬事法の壁を崩すのは容易ではない。お互い、気を引き締めよう」

「全力を尽くします」

 頬を紅潮させた柿本が握手を求めてきた。

 話しているうちに、開所式の時間が来た。会場は一階のロビー兼展示室で、出席者が入り切らず外に溢れていた。これだけ大勢の人たちが、浅井ゲルマニウム研究所の開所式に駆けつけてくれたのを目の前にし、浅井は鼻の奥が熱くなった。

「みなさまようこそおいでくださいました。建国記念日のきょう、落成祝賀会を催すことができましたのは、何かゲルマニウムと私、そして祖国日本と、三つの因子がそれぞれ因縁をもって結びついているような気がします。それにきのうの悪天候が、今朝は文字通り、さわやかな日本晴れとなり、われわれの門出を祝福してくれています」

 派手なことは好きではないが、きょうは特別だった。浅井は挨拶しながら、過去の苦しかったことや辛かったことが走馬灯のように頭に蘇り、そしてすべてが幻だったように消え去っていくのを感じた。

「私は来年古希の年を迎えんとしておりますが、夢にまでみた、正真正銘の私自身の研究所を持つにいたったこの喜びは、あまりにも大きく、とても表現できません。率直に申し上げて昨夜は眠れませんでした。私はこの喜びを、年齢を忘れていっそう人類のために尽くす原動力として、がんばってゆきたいと思います」

 聞き入る出席者全員が目を輝かし、浅井ゲルマニウム研究所の新たな出発を心から喜んでいるようだった。この人たちの期待にこたえるためにも、GE-一三二を世に普及しなければならない。浅井は闘志が沸き上がるのを覚えた。

「私は、この研究所を根城として余生を、人類の幸福のために、燃やしつくしてしまう決心であります。どうか今後ともご声援とご援助をひとえにお願い致します」

 われんばかりの拍手はいつまでも鳴りやまなかった。出席者全員が、GE-一三二に大きな期待をかけているのは明らかで、この人々の願いを原動力に、普及に邁進しなければならないと浅井は思う。

 開所式のあと、近くのホテルで祝賀パーティーが開かれた。立食パーティーだったが、酒も料理もうまく、人生最良の日とはこういうことを言うのだろうと、浅井は喜びにひたった。

 浅井の歌好きを知っている何人かに、喜びを歌えと求められ、場違いと思いながらマイクを握った。

 いのち短し 恋せよ乙女

 紅き唇 あせぬ間に

 熱き血潮の 冷えぬ間に

 明日の月日は ないものを

 人に求められると好んで歌う唄で、以前はテノールの美声だったが、喉頭癌の手術で蛮声になってしまったのが残念だった。だが、熱き血潮は何事をなすにも必要で、浅井は一人ひとりの胸に訴えかけるように歌った。

 武藤を代表世話人にしたゲルマニウム研究会は、着実な成果を上げていた。だが、GE-一三二があまりにもさまざまな病気に効果があるため、治療効果を一つの病気に絞り切れないのが悩みだった。

 薬事法では特定の疾患に対して新薬の効果を評価するから、すべての難病に効くとなると、評価の下しようがないのである。そして学者は、他人が手をつけていないことを研究しないと評価されないから、勢い対象が拡散し、研究しっぱなしになってしまう。

 昭和五十年四月に第六十四回日本病理学会で発表された実験はその典型である。

 実験内容は 生後二年のICRマウスで、アミロイド症の自然発生が十四例中十二例、腎、消化器、肝、脾、心、副腎などの諸臓器に広範に認められた。慢性炎との関係は認められない。同系マウスに生後五週目からGE-一三二を二十二カ月間胃内強制投与を行った実験群では、体重キログラム当たり三十ミリグラム投与群で六例中三例にアミロイド症の発生が認められたが、同三百ミリグラム投与群ではそれぞれ十二例、十四例にその発生を認めなかった、というものである。

 この発表は学会で記録され保存されるだろうが、一般大衆には何らの恩恵ももたらさない。ただ実験したということに終わってしまう。

 だが、この実験結果を良く分析すると、大変な内容を含んでいることがわかる。医学大辞典によると、アミロイド症とは別名類デンプン症といい、類デンプン変性が生体内で起こって発症する病気である。簡単にいうと、老化現象である。

 GE-一三二がアミロイド症を完全に抑制するということは、すなわち老化現象を抑えらるということにほかならない。GE-一三二は、いわば不老長寿の薬なのである。

 これだけの実験成果があるにもかかわらず、老化抑制にGE-一三二を使用しようという姿勢にならないのが不思議である。

 学会ではこのほかにも、高血圧症、糖尿病に関する効果についても発表されているが、いずれも記録として残っているだけで、実際の治療に役立てようとはしていない。

 それが硬直した学会の現状である。

 医療とは、病に苦しむ人々を救うものである。だが、医学会は新事実だけを求め、患者を救おうと努力しているとはとても思えない。

 研究と称してGE-一三二を弄んでいるだけである。そんな姿勢に、浅井は怒りを禁じ得ない。

 だから、ゲルマニウム研究会の会合も三回出ただけで出席をやめてしまった。

 GE-一三二が薬事法で認可されることを願ってはいるが、医薬品として扱うのに浅井は内心忸怩たるものがある。浅井の理想は、薬というより自然治癒力を高めるGE-一三二を中心に、人類救済のための医療体系を作り上げることである。それが出来たとき、人類は難病から解放されると夢想する。

 だが、現実は浅井の理想とはほど遠く、治療にGE-一三二を自由に使うことすらできない。難病患者に効果があるとわかっていながら、担当医がかたくなに投与を拒否し、苦しみながら亡くなる大勢の患者がいる。末期とわかっていながら、新薬として認められていないからという理由だけで、尽くすべき手を尽くさない医者は、犯罪者と罵ってもいいほどである。

 GE-一三二が効果を表せば表すほど、製薬会社や一部の医者は浅井に敵愾心を燃やすようで、研究所の新築と時を同じくして圧力が強まりはじめたのは、決して偶然ではなかっただろう。GE-一三二が普及しては困る製薬会社や無能な医師たちが、装いを新たにした研究所に驚異を感じたのは容易に想像できることである。

 同時に、GE-一三二のすさまじいまでの効果に、邪な野望を抱く研究者も出てきた。

「とんでもない特許が出ています」

 東洋大学の教授をしていた及川が、柿本を伴い血相を変えて浅井の部屋へ駆け込んできたのは、研究所が完成した二年後の秋だった。普段は研究者らしい物静かな及川が、目をつり上げ顔を紅潮させていた。

「血相を変えてどうした」

 所長室のソファに二人を座らせ、落ち着かせた。

「実験研究所の伊藤にやられました」

 及川が震える手で特許出願公報のコピーを浅井に差し出した。GE-一三二と同じ物質だが、化学式が若干異なった製造特許で、申請者は伊藤と豊田、池田の連名だった。

「なんでこんなものが」

「盗むつもりに違いありません」

「だが、GE-一三二は特許が成立している」

「化学式と製法を変え、こちらの特許に引っ掛からないようにしてあります。伊藤たちは海外でも特許を申請しています」

「馬鹿な」

 浅井は頭がかっと熱くなった。東京実験医学研究所は、GE-一三二の毒性など一般薬理実験で満足できる結果を出し、詳細な報告を出していた。それだけに、社長の伊藤を信頼していたのだが、陰でこんなことをしているとは思いもしなかった。

「GE-一三二の特性にむらがあるからと、製造法を詳しく説明させられました。最初から盗むつもりだったのです」

 柿本が細い顔をこわばらせ、唇を震わせた。

「ほうってはおけん。どうする」

「特許を取り下げさせなければなりません」

「弁護士と相談しよう。それにしてもひどいな」

 浅井は何度もだまされ、人の欲望の醜さが身にしみていたが、研究成果をこっそり横取りしようと考える科学者がいるとは、想像すらできなかった。行き詰まった時に差し伸べられる善意の手に、人間は悪人ばかりではないと感謝したものだが、これでは人など信じられなくなる。

 浅井はすぐさま研究所の顧問弁護士に相談し、十二月二十三日付で伊藤に「催告書」を送り、特許出願を取り下げるよう求めた。伊藤から返答があったのは翌年の六月で、申請した特許は浅井に占有権を設定するという覚書を差し出してきた。特許の権利は一切譲るというもので、浅井は伊藤と和解契約を結んだ。

 これで一件落着と思っていたのだが、翌年の九月に伊藤は、日本癌学会で、体内で抗腫瘍効果を活性化させる半導体化合物の発表を行った。半導体化合物の名称はバイオゲルマン 七だったが、GE-一三二の化学式をわずかに変えたものにすぎなかった。

 最初の特許出願の件があったから、浅井は伊藤たちの動きに注意していたが、学会発表で彼らが諦めていないことを知り、調べたら特許を出願しているのがわかった。特許申請したのは和解の三カ月前で、覚書を差し出したのは浅井たちの目をくらまそうとする悪質極まる行為だった。

 GE-一三二の絶大な効果を知った伊藤たちは、開発の功績をわが物にしようと狙っているのに違いなかった。そこまで人間は醜いものかと浅井は嘆息したが、放置しておくわけにはいかない。

 浅井は即座に警告書を送った。そして翌月、伊藤たちは和解を申し入れてきた。

 これで一段落と思ったのも束の間、伊藤は大手製薬会社と連名で、五十五年二月二十五日に「有機ゲルマニウム化合物を含有する免疫賦活剤」の特許を出願しているのをつかんだ。これも化学式がわずかに違っていたが、GE-一三二にほかならなかった。

 仏の顔も三度までとは言うが、伊藤たちのGE-一三二への執着心は尋常でなく、浅井は催告書や警告書などの手段を取らず、東京地裁に「不正競争行為禁止等請求事件」として、八月に伊藤と豊田、池田の三人を提訴した。

 今度ばかりは伊藤たちも和解しようとはせず、GE-一三二の開発権を裁判で主張した。長い裁判の始まりだった。

 

永遠なる魂 第五章 余命2年 3

              3

 ドイツとはよほど深い縁があるようで、息子の博和が住んでいるのはドルトムント市で、四十年前に浅井和彦が青春を燃やし、人生の方向を決めた、忘れようのない国にある。あの当時は第二次世界大戦末期で、空襲でいつ命を失うかもしれない緊迫した状況だったが、息子夫婦に孫二人と夕食の席で談笑できるとは、何と平和なことか。ずっと一家団欒という言葉とは程遠い生活を送ってきただけに、浅井はこの幸福感を大切にしたいとしみじみ思う。

 ダイニングテーブルの正面に座った博和が、わずかに首をひねり眉をひそめた。医者という職業柄、人前で顔を曇らせることのない博和にしては珍しいことだった。

「その声はいつから?」

「一カ月ほど前から調子が悪くなった。すぐ治ると思っていたんだが、声が出なくて学会で説明するのに苦労したよ」

「明日、僕と一緒に病院へ行きましょう」

 三十八歳になる博和は慶応大学医学部を卒業し、五年ほど前にドイツに渡り、ドルトムントの公立病院で整形外科の医長をしている。

「心配することはない。本の原稿執筆で疲労がたまっているだけだ。疲れが抜ければ元に戻る」

「でも、一カ月も治らないというんだから、専門家に診てもらうべきです」

 博和はドイツで生まれ育ったせいか、少年の頃からはっきりものを言う性格で、正しいと信じて口にした言葉は決して引っ込めようとしない。日本での病院勤めが嫌になってドイツへ渡ったのも、正しいはずの自分の主張が医療制度や派閥に阻まれて否定され、嫌気がさしたからだと浅井はみていた。

「そうだな。君が勤める病院を見に行くのも悪くはないな」

「それじゃ、朝の早い時間に診てもらうよう手配しておきます」

 博和の眉間の皺が緩み、口元に笑みがこぼれた。浅井は長男の博和を筆頭に一男三女に恵まれ、全員が独立した家庭を営んでいるが、やはり一人息子の言うことには弱い。

 翌早朝。浅井は博和の運転する車で病院を訪れた。ドイツのどこの病院も日本の病院など比較にならない清潔さだが、ドルトムント病院は特に手入れが行き届いていた。待合室の喧騒はなく、ここで静養すればどんな病気でも回復は早いに違いないと思えるほどだった。

 博和に二階の耳鼻咽喉科へ案内され、立派な体格で口髭をはやした医長に紹介された。診察室は日本の病院のように乱雑ではなく、整理が行き届いていた。

 浅井は診察用の椅子に座り、医長と向かい合った。博和は医長の後ろの椅子に腰掛け、瞬きもせず診察の様子を見つめている。

 医長は口を大きく開くよう指示し、浅井の舌を指でつまんで引っ張り、診察用の小型電灯で喉の奥を照らしてのぞき込んだ。

「こりゃ大変だ」

 医長が博和を振り返り、目を剥いて叫んだ。博和が反射的に立ち上がり、医長の顔を凝視した。

「よくもまあ、生きていたものだ。気管の上に親指より大きなポリーブが被さっている。窒息寸前の状態だよ」

「えっ!」

 博和が目を飛び出させそうに見開き顔を強張らせた。みるみるうちに頬から血の気が失われていき、唇が紫色になった。

 医長の大げさな言い方に浅井は首をひねった。窒息寸前だと言われても、呼吸は楽にできるし、体調も悪くないから、とても信じられない。だが専門医の診察に誤りがあるはずもなく、それで声が出づらかったのかと納得した。

 医長はすぐ入院して手術するよう勧め、浅井はそんな大げさな症状ではないと言葉を濁し博和の家に戻ったが、妻を交えて大騒ぎになった。

「窒息してしまったらどうするんですか。大げさな言い方が大嫌いなあの先生が断言したんですから、大変なことになっているのは間違いありません。手術すべきです」

 博和がそう主張すれば、めったに逆らうことのないエリカも同調して引き下がらない。

「耳だれが出たり、声が出なくなったり、ずっと体調が悪かったんですから、博和の言うことを聞いてください」

 体調はすこぶる良かったが、家族全員に責めたてられてはむげに拒否することもできない。確かに声は出づらいし、耳だれが出たあとから耳が聞こえづらくなっていたので、皆が安心するならと浅井は渋々うなずいた。

 博和はすぐ病院へ電話して、翌日一番の手術を予約した。日本なら病室が空くまで待たされるところだろうが、整形外科の医長が息子とあって便宜を図ってくれたのか、それともドルトムント病院が迅速を旨としているのか、博和の要望通り翌朝に手術を受けることになった。

 手術が決まっても、浅井はこれといって動揺は感じなかった。原稿執筆で睡眠不足と煙草の吸い過ぎが祟り、喉に異変が起きたくらいにしか受け取っていなかった。

 だが、手術となれば体力を消耗する。浅井は海外旅行でも肌身から離したことがないGE-一三二を、前もって大量に服用した。手術や放射線治療の前に飲んでおけば、副作用や苦痛がないのは多くのケースで確かめられていた。

 翌朝。博和につれられて病院へ到着し、すぐ手術着に着替えさせられ、手術室でベッドに横になると全身麻酔をかけられた。どういう手術が行われたか覚えているはずもないが、病室で目覚めたときは痛みはわずかもなく、深い眠りから自然に醒めたように気分が良く、本当に手術したのかと疑うほどだった。

 口からポリーブを切除しただけだから、入院して手術後の回復を待つ必要はないと判断し、看護婦が呆れているのも構わず、浅井は自分で洋服に着替え、タクシーを呼んで博和の家に戻った。

 その三日後の夕方のことである。勤務から戻った博和が、リビングのソファでエリカと寛いでいた浅井に、暗い目の色で話しかけてきた。

「ポリーブの細胞検査をした結果、もう一度手術して完璧にしたいと病院では考えているんだけど」

「全部取り切れなかったのか」

「そういうわけじゃないけど、万全を期したほうがいいと思うんだ」

「癌なのか」

「そういうことじゃないけど」

 いつも歯切れのいい博和にしては、喉に骨でも刺さったような言い方で、浅井はピンときた。

「正直に言ってもらいたい。癌が確定的なら手術してもいいが、そうでないなら帰国して有機ゲルマニウムで治療する」

 瞬間、博和は顔を歪め、それが子供のころの泣き顔を思い出させた。博和はしばらく迷っていたが、ため息を一つ吐き出してうなずいた。

「細胞検査では、扁平上皮癌で声帯の周りに発生しているようなんだ。ポリーブは切除したけど、取り切れなかった部分が残っている。転移率が高い癌だから、放置しておけないと先生が言っているんです」

「どういう手術をするんだ」

「喉を外側から開き、切除したポリーブの周辺を徹底的に切り取るそうです」

「手術しなければどうなるって?」

「転移で癌が再発する可能性があると」

 浅井に精神的な衝撃を与えまいと考えているのか、博和の説明は明確でなく、それがかえって病状の深刻さをうかがわせた。浅井は無意識のうちに微笑みを浮かべていた。

「心配しなくていい。癌ならGE-一三二で自分で治す」

「それは無茶です。放置すれば、二年しか持たないと 」

 博和がはっとして口を閉ざした。

「ひっ!」

 浅井の隣で聞いていたエリカが小さく悲鳴を上げた。

「お願い。博和の言う通りにして」

 エリカが浅井の腕に手をかけ唇を震わせた。

「こんなに元気なんだし、ポリーブも取ったんだから、GE-一三二を飲んでいれば治ってしまう」

「あなたの言いたいことはわかるけど、もし手術しないで万一のことがあれば、わたしたちはどれだけ悔やむかわからない。博和だって苦しむはずよ」

「だが、君だって効果を知っているはずだ」

「GE-一三二に助けを求めてくるのは、手術や放射線治療などができなくて、医者に見放された人たちばかりよ。あなたは手術できるんだから、考えられる治療はすべてすべきよ」

「うむ」

 家族がこんなにも取り乱すとは思いもよらず、浅井は腕を組んで口を閉ざした。それを手術の拒否と受け取ったのか、エリカは目から大粒の涙を溢れさせ両手で顔を覆った。博和は唇をへの字にきつく結び、神経質に瞬きを繰り返している。

 浅井は癌と聞いてもショックはなかった。むしろ自分の体で、GE-一三二が癌にどれだけ効くか、試すのにいい機会だと闘争心が湧いてきた。

 だが、浅井が悪性の癌に罹っていると知った妻や息子の不安は尋常でなく、何度も手術を受けるよう懇願され、首を縦に振るつもりはなかったが、目の前で嘆き悲しまれれば、最愛の家族を苦しめていると自責の念にかられる。癌と宣告されたことより、家族思いの浅井にははるかに辛いことだった。

 浅井は渋々手術に同意した。博和は気持ちが変わらないうちにと入院手続きを電話で済ませ、翌朝はまるで囚人のように病院へつれていかれた。

 手術着に着替えさせられ、すぐ手術室へ運ばれ全身麻酔をかけられた。最初の手術と同じで、目覚めたときは爽やかで、本当に喉頭癌の手術をしたのかと疑ったが、喉に大きなガーゼが巻き付けられていた。

 若い頃に大腿骨の手術をしたときは、麻酔が醒めると吐き気が激しく、手術箇所は痛みが絶え間なく続き、睡眠薬を飲んでも眠られないほどだった。

 しかし、今回は三時間の大手術にもかかわらず、痛みも苦しみもまったくない。GE-一三二の効果に違いなかった。

 それにしても皮肉なことである。世界自然療法学会で、GE-一三二が癌治療に絶大な効果を示すと発表し、大きな反響を呼んだのに、いつも服用している自分が悪性の癌細胞に取りつかれるとは思いもしなかった。

 思い起こせばこの八カ月間、無茶な生活を続けてきた。初めて世に出す著作の執筆で、毎晩寝るのは午前二時、三時。書いている間は気を紛らわすため大量の煙草を吸った。ゲルマニウムを毎日飲んでいても、執筆からくる激しいストレスと大量の煙草が、いつの間にか体を蝕んでいたのだろう。今度の手術は、GE-一三二を服用しているから病気になど罹からないという慢心への、警鐘にほかならないと浅井は感じた。

 浅井は訪ねてくる癌患者が、GE-一三二の服用で治癒し、苦しみが取り除かれるのを現実に見てきたが、それは思い込みで、間違って認識していたのかもしれない。

 だが、今度は自分自身が癌に罹かり、自らの体を使って効力を試すことができる。身をもっての生体実験で癌を治癒できれば、GE-一三二への信頼は絶大なものになる。

 ベッドに横たわった浅井は、闘志がふつふつとたぎってくるのを覚えた。

 浅井は周囲の反対を押し切り、二度目の手術から四日目に退院して博和の家に戻り、その五日後にエリカとともに東京へ飛び立った。博和はもっと静養してから帰国するよう何度も説得を試みたが、浅井は東京の自宅でGE-一三二で治療すると聞く耳を持たなかった。

 博和は親父の頑固さにはつくづく呆れたと、両手を広げ肩をすくめて見せたが、強いてとは言わなかった。

 浅井が帰国する前日、息子一家との最後の夕食で、博和は診察した耳鼻咽喉科の医長が漏らした言葉を、苦笑まじりに伝えた。

 「長年、癌患者と接してきたが、癌だと宣告されて微笑んだのは、君のオヤジが最初で最後だろう」

 医長はそう言って、感慨深そうに首を横に何度も振ったというのである。

 癌だと聞かされて嬉しいわけがないが、自分の体で生体実験ができると思い、知らず知らずのうちに喜んでいたのかもしれなかった。

 二カ月ぶりに帰国し自宅に落ちついたが、病気を知って駆けつけてきた、兄弟や研究所の所員の嘆きようは並大抵でなく、難病患者を持った肉親や周囲の悲しみを、浅井は改めて思い知らされた。

 難病患者本人を救うことはもちろん、家族や親しい人たちの悲しみを和らげるためにも、おのれの癌を征服し、GE-一三二を世に広めなければならない。浅井は改めて決意した。

 帰国した浅井に、日本の専門家に診てもらって放射線治療を受けるよう、博和が何度も電話してきた。それが妻の不安をあおり、さらに周囲の心配を高じさせ、いつものことだが嫌と言えなくなり、博和が卒業した慶応大学付属病院の耳鼻咽喉科で診察を受けた。

 浅井は煙草をやめ、食べ物も血液が酸性に傾かないよう注意し、毎日三グラムのGE-一三二を飲んでいたから、癌細胞はすべて死滅したと信じていたが、周りはそうは受け取らず、死に神に魅入られてしまったと思っているようだった。

 病院では、咽喉内の細胞検査が行われ、予想通り癌細胞はまったく見つからず、放射線治療の必要もないと診断され、無罪方面された。

癌は怖くない。

 浅井はそう叫びたかった。これから生き続ければ、転移率の高い扁平上皮癌を克服したことになり、癌に対する有機ゲルマニウムの有効性の証明になる。生命の元素の威力を説明する言葉に、おのずと重みが増していく。

 癌に代表される難病に、浅井が長い苦労をかけて開発したGE-一三二ウムは、最大の武器になる。もっと研究を深め、難病患者を救わなければならない。自らを実験台にして悪性の癌から生還した浅井は、GE-一三二を溶かした水溶液を見つめ、闘魂をみなぎらせた。

永遠なる魂 第五章 余命2年 2

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 浅井がさまざまな難病患者と接触している一方で、ゲルマニウム臨床研究会に参加する医師たちから、多数の臨床例が報告されていた。積極的にGE-一三二を治療に用いる医師たちは、あまりにも顕著な効き目に呆然とし、かつ深い感銘を受けたようである。

 調府市の病院では、田代医学博士がGE-一三二を治療に用いていた。田代博士自身、六十歳直前で全身倦怠感、無気力、頭重、前立腺疼痛が自覚症状としてあり、GE-一三二の効果を自らの体で効果を確かめている。

 博士は一グラム入り五百ミリリットルの水溶液を、一日に二十ミリリットル、朝夕二回に分けて服用した。その結果は、服用一~二日で倦怠感、頭重感が消失し、気力の充実を感じるようになった。前立腺疼痛もしばらくして消失、血色がよくなり手足の冷感もなくなったという。

 これに意を強くして患者の治療に使用したところ、癌手術後患者の再発防止、動脈硬化症、脳卒中、心臓病(特に狭心症)、更年期障害、都市ガスその他の薬物急性中毒症、副腎皮質ホルモン常用の慢性リウマチ、パーキンソン病鬱病、老人性精神病、てんかんレイノー氏病などのすべてに著しい効果があるか、あるいは効果を認めたのである。

 また、乳児のための社会福祉法人の付属診療所でも、岡本医師がGE-一三二を使った臨床例を報告している。四十二歳の主婦の子宮筋腫はGE-一三二を一日四百ミリ投与し、三カ月で筋腫が消失し、手術不要になった。二十五年来の六十三歳の男性糖尿病患者は、肝硬変と食道静脈瘤を併発していたが、GE-一三二投与後六カ月で、すべて改善され治癒状態となった。四十一歳になる看護婦は喘息、高血圧、頭痛、便秘、肝・腎障害などがあったが、六カ月間のGE-一三二投与ですべての症状が軽快した。

 浅井は常々、酸素欠乏が万病のもと、と主張している。野口英世博士も万病一元論を説き、酸素不足がすべての難病の原因と喝破している。

 GE-一三二は一般に言う薬品ではなく、人体に必要な酸素を隅々まで供給し、自然治癒力を高めて不治といわれる病を癒していく。だから、あらゆる病気に有効なのだが、対症療法しか念頭にない現代医学では、万病に効く薬などないと頭から否定される。人間の体を機械と考え、悪くなった部品を取り替えるような発想をしている限り、人類が難病から救われることはない。人類救済には、どうしてもGE-一三二が必要なのである。

 だが、万病に効くが故に、逆に薬としての有効性が認められず、いつまでも日陰の生活を余儀なくされている。現代医学は発想の転換をすべきなのだが、いくら声高に主張しても、領分を守ろうとする厚生省や医者に通用せず、それなら規制している法律に従って医薬品として認可を得るしかない、と浅井は気持ちを引き締める。

 幸いなことに、ゲルマニウム研究会では毒性試験が終わり、各種の臨床試験に入っていて、癌や高血圧、脳軟化症などの難病に顕著な効果があったという報告が相次いでいた。

 ゲルマニウム研究会は武藤の意もあって特に癌を対象にし、なぜGE-一三二が有効なのか、浅井としても理論的に解明する必要がある。

 浅井は救いを求めてくる人々に手を差し伸べながら、GE-一三二が癌に及ぼす効果の研究を進めた。その結果、ゲルマニウム半導体という性質が、癌を死滅させる原理がわかったのである。もっとも、さらに研究が進んでゲルマニウムが具体的に癌を絶滅させていく複雑な過程が明確になっていくのだが、この時浅井が発見した癌撲滅のメカニズムは、鋭い考察と観察に支えられ、永遠の真理とでもいうものだった。

 近代物理学の開祖アインシュタインは、物質はエネルギーを持ち、エネルギーは質量を持っていると、特殊相対性理論で述べている。そしてエネルギーは微粒子からでき、凝集したところが物質であると論じている。

 同様に考えれば、人体もエネルギーを持つ微粒子が凝集して成り立っていることになる。そして、微粒子の集まりの人体各部分は、エネルギーの凝集体としての機能を果たしているのだが、それぞれ独自のエネルギー、言い換えれば電位を持っている。その電位が狂うと病気が発生するのは近代医学で実証されている。

 これは各細胞の電位を正常に戻してやれば、病気が治癒するということにほかならない。ゲルマニウム半導体という性質から、人体に入れば電位を正常に戻す働きがある。

 癌細胞は、他の正常な細胞より電位が高く、激しく変動している。癌細胞は猛烈に増殖するからエネルギーが高く、電位も高いのである。

 半導体ゲルマニウムは、ポジティブホールで電子を吸収し、癌細胞と接触して電子を奪い、電位を下げると考えられる。この場合の電子は水素イオンで、電位を下げて癌細胞の活動を停止させてしまうのである。

 電位が下がった癌細胞は増殖できず、増殖しなければ転移することもない。これが、ゲルマニウムが癌に有効な理由だと、浅井は考えている。

 半導体の性質にはさまざまなものがあるが、その中で体内にゲルマニウムが豊富にあると、放射線障害を防ぐことができるという現象がある。

 放射線治療はガンマー線を照射するが、言い換えれば電子を癌細胞にぶつけて壊すのである。だが、癌細胞を殺すのはいいが、同時に血液の赤血球や白血球まで破壊してしまい、生命までを脅かすことになる。

 だが、生化学的研究が進み、ゲルマニウムが血球にぴったりくっつき、ぶつかってきた電子を原子の軌道で回し、血球に当たらないよう守る働きをしているのが判明した。

 つまり、放射線治療を行う時、前もってGE-一三二を服用しておけば、副作用の心配がないということになる。

 末期癌の痛みがなくなるのも、半導体としての性質による。痛みの原因が発生すると、神経細胞を伝って電子が移動し、脳に伝達されて痛みを感じる。

 ところが、ゲルマニウム神経細胞中を移動する電子の動きを攪乱し、移動を停止させてしまうのである。電子が脳に到着しなければ痛みを感ずることはない。

 さらに半導体同士は、電子特性から共存できないという性質を持っている。人間の血液や細胞は半導体の性質を保有しているから、体内に入ったゲルマニウムを反発して追い出し、蓄積することがない。つまり、水銀やカドミウムのように、人体に蓄積して深刻な病気を引き起こすことはあり得ないのである。

 血液の酸素を増やし、病気の原因となる異常電位を正常に戻し、しかも副作用がないGE-一三二は、人類救済の究極の元素だと浅井は信じている。

 GE-一三二は生命の元素とでもいうべき存在で、ゲルマニウム研究会の発足で医学的な解明が行われるようになったから、やがて医学界で認められ正式な治療に使われるに違いなく、浅井は一生をゲルマニウムの研究に捧げてきて良かったと実感する。

 医薬品の数は何万種類にも及ぶが、半導体を原料に使った薬は一つもない。いずれ半導体薬品がこれからの医学界に革命的な変革をもたらすのは容易に想像でき、そのためにもGE-一三二を世の中に広めなければならないと浅井は決心するのだった。

 浅井が不思議でならないのは、GE-一三二の効き目は子供に顕著ということである。さらに大人でも、信心を持つ人や素直な人ほど効果を表す。ある種の職業人のように、ものごとを疑ってかかる人々には、ほとんどと言っていいほど効かない。

 なぜかと言えば、ゲルマニウムは薬理効果だけではない何か、精神的な何かを内包しているのではないかと推察できる。子供は物事を信じやすく素直だし、信仰のある人々はありがたいと感謝する心を持っている。そこに効き目の差が表れてくるのではないか。

 アレキシス・カレル博士はルルドの泉の奇跡を考察し、科学の境界を超える現象を声高に論じている。いわく、われわれはこの物理的な世界を超えて、どこか他の所に及ぶ広がりを有することを知っている、と。

 大自然の中にあって、ゲルマニウムは神が人類に恵み与えてくれた生命の元素である。

 浅井はそう確信せざるを得ない。

 これを世に知らしめるにはどうすればいいのか? 一つはゲルマニウム研究会のような研究グループで地道な臨床試験を続け、医薬品として厚生省に認めさせることだが、それには長い時間と巨額の費用がかかる。それを待つ間に、浅井にはできることがあるはずである。

 そう考えた時、ルルドの泉と山吹のお水が、それぞれ信仰は違うが、奇跡の水として信者にうやまわれ、多くの奇跡を現実に現していることがヒントになり、一つのアイデアが浮かんだ。特定の宗教人を対象にするのではなく、GE-一三二が難病に奇跡的効果を持つことを、一般の人々にわかりやすく訴えればいいのである。

 浅井は松緑神道大和山の信者たちと相談し、十六ミリ映画を作ることを思い立った。カラー・トーキーは三十分の長さで、「生命の水」と題し、素晴らしい出来になった。

 山吹のお水を調べ、十六ミリ映画を作ったことで、大和山の田沢康三郎教主とは極めて親しくなった。宗教家は概してGE-一三二の神秘性に惹かれるようで、真如会の紀野一義主幹とも懇意になった。紀野は家族の慢性リウマチやアトピー性皮膚炎をGE-一三二で治してから浅井の熱烈な支持者になった。

「オーラの人」

 紀野は浅井をそう評していたが、宗教者の多くが浅井から強烈なオーラを感じているようだった。

  もっとGE-一三二を多くの人に知ってもらいたい。浅井はそんな思いに突き動かされ、さまざまなつてを頼り、ゲルマニウムの本を出してくれる出版社を探し、引き受けてくれるところが見つかった。昭和四十九年の秋も深まった頃である。

 浅井は以前からゲルマニウムについて、物語風の小説を書いてみたいという気持ちがあった。ただ、ずいぶん以前に、東京・渋谷の寿司屋で一緒に飲んでいた詩人の三好達治氏に漏らしたとき、「バイブルとか論語とかは、小説ではありませんよ」と厳しくたしなめられていたから、随筆にすることにした。

 だが、原稿を書くという仕事は思いのほか難しく、慣れないせいもあって激しく疲労した。もっとも、毎日明け方近くまで机に向かっているのだから、疲れないほうがおかしいのかもしれない。

 七月に入った蒸し暑い明け方。原稿を八カ月も書き続け、やっと完成間近になり、あと少しとばかりに午前四時までかかって三十枚の原稿を書き終えた。執筆の間中、浅井は疲れを紛らわそうとひっきりなしに煙草を吸うから、机の上の灰皿は吸殻で山盛りになっている。健康によくないとは思いながら、つい手が出てしまう。

 いつもの日課で、書き終わった浅井は、重曹を水に溶かしてうがいした。

 おや?

 喉の奥で何か引っ掛かるものがある。高い声を出しにくい。だが気にもせず、浅井はGE-一三二の水溶液をたっぷり飲んでベッドにもぐり込んだ。猛烈な眠気にあっという間もなく睡眠に引きずり込まれた。

 翌朝、声がひどくしゃがれている。風邪でも引いたかと軽く考えていたが、しゃがれ声は一向に治らず、普段話す時も絞り出すような声しか出せなくなってしまった。

「酷い声をしているわね。風邪かしら」

 エリカが眉をひそめたが、浅井はGE-一三二の服用で人一倍元気なのを知っているから、医者へ行けとも言わなかった。

「執筆の疲労がたまっているんだろう。軽井沢へ逃げ出せば、疲れも声も治るさ」

 浅井は夏が苦手で、毎年、梅雨が開けると軽井沢の山荘に避難し、ピアノ曲を聴いたり思索に耽るのをならわしにしていた。だが、この年は執筆で東京を脱出するわけにはいかず、原稿を出版社に渡すまではと頑張っていた。原稿が完成したのは七月半ばすぎで、これでやっと蒸し暑さから逃れられると軽井沢へ出掛けた。

 八カ月以上も原稿執筆で睡眠を削り、寝るのは毎日明け方だったから、心身ともに疲労は限界に達していた。九月初旬にはフランスのエクス・アン・プロバンス市で、第一回の世界自然療法学会が開

かれる。浅井は「ゲルマニウムの医療効果 とくにガンに対して」という題で講演することになっているから、それまでに疲れを癒し喉を治さなければならない。

 だが、軽井沢へ引き込んでもしゃがれ声は治らず、薬局で喉の薬を買って飲み、GE-一三二を併用していたが、良くなる兆しはなかった。それでも疲労感はずいぶん軽くなり、近所を歩き回っても疲れることはなかった。

 山荘ではあまり人と会うことはないが、八月に入ってすぐ、小諸市から柳井が一年間の実験結果を持ってやってきた。柳井は小諸市の郊外で薬湯を経営していて、二年前にGE-一三二の噂を聞きつけて訪ねてきた。その時、ルルドの泉では重病人が奇跡の水が入った水槽に体ごと漬かるのを思い出した。日本でも、傷ついた武士が湯治した温泉は、いずれもゲルマニウムを含有していることがわかっている。

 そこで、浅井は柳井にGE-一三二の粉末を渡し、ゲルマニウム風呂の実験を勧め、昨年の夏に報告を受けたのだが、残念ながら失敗だった。

「どうもいけません」

 一年間の実験結果を持ってやってきた柳井は、浅井と顔を合わせるなり、唇をきつく結んで首を振った。

「効かないのですか?」

「そうではないのですが、湯の汚れと臭気が酷いのです」

 柳井は、GE-一三二をわずか三百ppm(一万分の三)溶かした浴槽に、十五分から二十分間入浴する実験をした。だが、驚いたことに入浴者の全身からわけのわからない汚物がしみだし、湯が汚れて臭気を発する。さらに黴の一種であるフザリウム・ペニシリウムという藻のようなものが繁殖し、濾過装置が詰まってしまうというのである。

「あの汚れ方では衛生上好ましくありませんし、だからといって高いゲルマニウムを溶かした湯を、頻繁に取り替えるわけにもいきません。お手上げです」

 ゲルマニウム風呂の効果は間違いないと浅井は確信していたが、衛生上好ましくないとあれば断念せざるを得ず、計画は暗礁に乗り上げてしまった。

 そこで浅井が思いついたのが、青竹踏みが病気を治したり、漢方では手のひらで体の悪い場所を判断していることだった。足や手には各種のツボが集中し、東洋医学では治療するのに手と足を温めろと指導している。

「全身でなく、手と足だけで試したらどうでしょうか」

「そんなことができますか」

「例えば、樋のようなものにゲルマニウムを溶かした湯を満たし、足と手だけを浸すとか」

「いけるかもしれませんね」

 相談した結果、浅井と柳井は手首と足首だけをゲルマニウム湯に浸す装置を考え出した。ゲルマニウムを溶かした湯をボイラーで四十二度に保ち、ポンプでステンレス製の上下二段の樋に循環させ、入浴者は座ったまま手と足を浸すという方法である。これなら汚れや黴の繁殖は少なく、濾過装置は順調に動くはずである。

 浅井は自分でも試してみたが、手首と足首をゲルマニウム湯に入れているだけで、驚くほど大量の汗が出る。全身から噴き出す汗を、ほかの人が拭き取らなければならないほどで、新陳代謝が活発になっていることを物語るものだった。

 この装置を作って一年がたち、その結果を柳井が報告に来たのだった。

「大変な評判ですよ。腰痛や肩凝り、神経痛などの慢性病が次々と治っています」

 柳井は浅井と対面するなり、挨拶もそこそこに白い顎髭を伸ばした顔を綻ばせた。

「それは素晴らしい」

「膝や腰が痛いといって真っ直ぐ歩けなかった人たちが、二、三回入るだけで痛みが消え、すんなり歩けるようになるんです。奇跡の温泉と喜ばれています」

 柳井が入浴者を観察したレポートでは、入って二、三分すると身体中から大粒の汗が噴き出し、入浴後は体の内部から熱が湧き上がってくるようで、いつまでも消えない。大量の発汗にもかかわらず、入浴した全員がまったく疲労を感じない。長年の神経痛が軽くなり、数年来の便秘が解消し、冷え性が治るなどの効果が続出しているというのである。

 動物実験では、GE-一三二は皮膚から良く吸収されることがわかっている。ゲルマニウム湯に入った人たちは手足の皮膚からGE-一三二が吸収され、服用したと同じ効果を表しているのに違いなかった。

「大勢の人たちが利用できるよう、工夫してみませんか」

「病人に喜ばれるのは間違いありませんから、是非、やりたいと考えています」

「クール・バードという名前ではどうでしょう」

 ドイツ語でクールというのは治療で、バードは入浴のことである。

「いい名称です」

 浅井の提案に柳井はすぐ賛成し、ゲルマニウム湯を推進することにした。

 柳井との話は尽きなかったが、声の調子が悪く、長く話していると疲れてくる。柳井は浅井の声をしきりに心配したが、久しぶりに長く話したせいだろうと軽く受け取っていた。

 変だな? と思ったのは、八月の半ばだった。耳の聞こえが悪くなったと気にかかりはじめた時、大量の耳だれが出たのである。耳の聞こえは一段と悪くなったが、体調はすこぶる良く、食欲はあるし、夜もぐっすり眠られるので、そのうち治るだろうとほうっておいた。

 浅井は八月いっぱいを軽井沢で過ごし、九月八日にエリカとともに羽田から日航機でフランスへ向けて旅立った。

 エクス・アン・プロバンス市は、南フランスのマルセーユの六十キロ北にある。市内は古い城郭に囲まれ、石作りの兵舎や多くの教会が建ち、古代ローマの面影をそのまま現代に残していた。通行人さえいなければ、二千年前のローマ帝国そのものである。

 浅井たちが泊まったのは、昔の僧院を改造した落ち着いた雰囲気のホテルだった。

 世界自然療法学会は近代医学に飽き足らない有志たちが呼びかけて開かれたもので、ドイツ、フランス、英国、アメリカなど各国から二百人が集まった。学会は古い教会の内部を改造した会議場で開かれ、英語、フランス語、ドイツ語の同時通訳付きだった。

 会議は近代医学に疑問を持つ学者たちの集まりだったから、鍼治療やマッサージ治療、薬草、食事療法など、東洋医学的な発表が中心だった。

 さらに、芳香療法、虹彩療法、イオン療法、ホメオパシー、ビタミン療法などを提唱する講師も多かった。興味深かったのは、瞳の周りにある虹彩を拡大鏡で撮影し、その模様で人間の健康状態を判断するという虹彩診断だった。

 起源はギリシャ時代にさかのぼり、ジプシーが継承して占いに使っていて、ドイツで体系化して病気治療に利用されるようになった。全身が虹彩につながっていて、どんな病気も虹彩に異常を示すから、疾患の場所を特定して治療に役立てられるというのである。

 手や足にはさまざまなつぼがあり、それを観察して病気の箇所を判断したり、鍼や指圧では治療に使い、クールバードもその原理を利用している。だから、目は口ほどにものを言いではないが、虹彩が全身状態を投影しているというのはうなずけることだった。

 浅井が講演したのは二日目で、喉の調子はすこぶる悪く、用意してきた「生命の水」の映画を三十分上映し、二十分の講演で勘弁してもらった。

「酸性体質にならないよう注意し、ゲルマニウムを信頼し他の近代医薬に頼らないこと、そして精神状態を安定に保てば、ゲルマニウムは劇的な効果を表します」

 講演は拍手の渦に巻き込まれた。持ち時間は一時間で、十分間の質疑応答が予定されていたが、聴衆の関心は驚くばかりで、時間内にはとても終わらず、浅井は講演後に大勢の質問者に取り巻かれ、身動きすらできない状態になってしまったのである。

 日本では医学関係者に噛んで含めるように説明しても、ほとんどの人間がそっぽを向く。それなのに、会議参加者の関心の高さには驚くばかりで、会議開催中に浅井が会場に現れると、大勢の人々が集まってきて矢継ぎ早の質問を浴びせてくる。地元の新聞にも取り上げられ、学会はゲルマニウムの声で埋め尽くされてしまった。

 浅井は日本で冷遇されているだけに、どうしてこんな騒ぎになるのかわからなかったが、それが理解できたのは、数人の学者から意見を聞いた後だった。

 近代医学の有害性や無力さに反発し、薬草だとか鍼だとか、食事療法と騒いでも、病気の治療には限界があり、特に難病の場合はお手上げというのが実態である。虹彩診断にしても、体の悪いところを発見できるが、では治療するとなると、実際には食事療法しかない。

 だが、漢方薬や鍼治療などとGE-一三二を併用すれば、相乗効果で驚異的な効果が表れるに違いない。GE-一三二は、難病治療という厚い壁を破ったのだと、参加者のほとんどが絶賛した。

 日本は明治時代に西洋医学を導入し、江戸時代まで続いた漢方医学を否定した。それ以後、西洋医学は最高の治療方法だと絶対視してきた歴史がある。

 確かに西洋医学の対症療法で、天然痘結核などの死病が克服され、多くの患者を救った。

 だが、全身状態の悪化、つまり細胞の酸素不足から生ずる癌や心臓病、糖尿病や高血圧には無力なことがわかっていない。酸素欠乏による代謝病を、対症療法的に克服しようとするのがそもそも間違いなのである。

 日本では近代医学が絶対視されているが、それを発展させた大本の国では限界を悟り、新たな治療法を求めているのではないか。浅井は会議場での聴衆の興奮を眺めて驚くと同時に実感した。

 GE-一三二はかならずや人類を救済する。そういう思いを強くし、会議を終えた浅井は、三女と長男のいるドイツへ向かった。

 

永遠なる魂 第五章 余命二年 1

                  1

 ある日、船田という大手企業に勤める四十二歳の男性が、知人の紹介状を持って浅井を訪ねてきた。暗い顔色の船田は目が真っ赤に充血し、聞き取りにくい小さな声で、ため息をつくように説明した。九歳になる長女が、大学付属病院で骨髄性白血病と診断され、ベッドがあくのを待っているというのである。

 浅井は同じ病で亡くなった小林の息子のことが念頭にあり、つい強い口調になった。

「お嬢さんを難病治療のモルモットにされたくなければ、絶対に入院させてはなりません」

 浅井は小林の息子の例を話し、GE-一三二でかならず治るからと、治療にあたっての心構えを詳しく話した。

 細面で黒縁の眼鏡をかけた船田は、浅井の説明を聞いてしばらく沈黙していたが、姿勢を正して頭を下げた。

「実は、医師からは一年の命と宣告されています。どうせ一年の寿命なら、病院でモルモット代わりにされるより、GE-一三二に賭けてみたいと思います。どうか、助けてやってください」

 浅井は、病院のカルテを手に入れ、すぐゲルマニウム・クリニックで医師と相談するよう勧めた。

 有機ゲルマニウムを求める人の数が増えるにつれ、医学知識の乏しい浅井では対応できなくなり、友人の医者に頼んで診療所を開設してもらった。成城駅から近いビルの一室で、有機ゲルマニウムによる治療を始めたのである。

 船田は言うとおりに翌日クリニックを訪ね、GE-一三二を娘に服用させ、ベッドがあいたから入院するようにという病院の連絡を断った。

 船田が浅井を訪ねて来てから半年ほど後だった。

「ありがとうございました。娘が助かりました」

 血色のいい顔色をした船田が、顔を輝かせて浅井の家へ飛び込んできた。

「快復なさったのですね」

「そんな言葉では言い尽くせません。GE-一三二を飲みはじめてから病症が日ごとに良くなり、今は小学校へ登校できるまで元気になりました。娘はGE-一三二を肌身離さず、少しでも体調が悪くなると、すぐに服用しています」

「それは良かった。決してGE-一三二を欠かさないように」

 船田は何度も頭を下げて喜んでいた。

 船田の娘の治療はうまくいったが、両親がGE-一三二を信じ、病院に入院させなかったのが良かったといえる。だが、浅井は決して現代治療を否定する気持ちはない。場合によっては手術で不要なものを取り去らなければならないことがあり、それには外科手術は不可欠だからである。

 その典型例が、脳腫瘍の野村の娘だった。死んだ癌の腐敗物を除去しなければならないと、何度説得しても野村は応じなかったが、ついに娘の体力が尽き、梅雨の終わりに亡くなったのである。

 連絡を受けた浅井は品川の野村の自宅へ通夜に訪れた。さぞかし悲しんでいるだろうと予想していたが、案に相違して両親は温和な表情をしていた。

 悔やみを言い、焼香して柩に収められた娘に別れを告げた。花に囲まれた娘の顔は、まだ血の気があるように色づき、とても死者の顔色ではなかった。脳腫瘍という難病に苦しんだ痕跡はなく、眠れる森の美女のように、やすらかな寝姿だった。

「苦しまれた様子がなく、なによりです」

 両親に頭を下げ帰ろうとした浅井に、母親がうなずきかすかに微笑みを浮かべた。母親の顔に悲しみは残っていたが、うちひしがれた様子はなく、穏やかな表情をしている。浅井は母親に目で問いかけた。

「だれも気づかないうちに、安らかに亡くなりました。娘は死んだのではない、神様に手を引かれて天国へ召されていったのだと思うと、見えない目が開いたように、世界が明るくなりました」

「天国ではきっと、穏やかに過ごされているでしょう」

「納棺する時も体の硬直はありませんでした。まだ体に温もりがあり、亡骸を柩に入れるのをためらいました。でも、これですべての苦しみから解放されたのだから、喜んでやらなければならないのかもしれません」

 母親はハンカチで目をそっと拭いたが、泣き崩れようとはしなかった。

 少女は亡くなる五日前、口から悪臭のある膿血のようなものを大量に吐いたという。死んだ癌の腐敗物が行き場を失い、嘔吐という形で噴出したに違いなく、浅井の判断に誤りはなかっただけに、手術さえしていればと、唇をきつく噛みしめた。だが、少女は精いっぱい生き、寿命が尽きて天に召されていったと考えれば、それだけでも治療のかいがあったといえ、安らかに永眠できるよう祈るだけだった。

 浅井が直接接触した以外にも、ゲルマニウム・クリニックでは多くの難病に驚異的な治療効果を上げていた。

 ゲルマニウム研究会が発足した時、GE-一三二で治療していた医師たちのために、臨床研究会という別組織を立ち上げていた。治験薬を公然と一般の治療に使うわけにいかないから、厚生省の指導で作ったもので、ゲルマニウム・クリニックは代表的な存在だった。

 浅井は時間があるとクリニック院長の牧口が記した診療メモに目を通すのだが、どれを読んでもGE-一三二の威力を再認識せざるを得ない。

 例えば、四十二歳のベーチェット病患者は、視力が衰え歩行困難になって入院加療したが、病状は悪化する一方で、妻と友人に付き添われてクリニックを訪れた。

 医師はGE-一三二を一日当たり一・五グラム服用を指示し、二十日後には別人のように元気になって自分で製品を取りにきた。ベーチェット病は著効と良好の三件が治療例として残っている。

 また、寝た切りの七十歳になる女性の脳軟化症患者は、水溶液で一日三百ミリグラム投与したところ、七日目に病床で食事が可能になり、二カ月後には自宅で歩けるまで快復した。

 一酸化炭素中毒、肝機能障害、高血圧、前立腺肥大、子宮筋腫など、血液が大量に集まる器官の障害には、GE-一三二が特に効くことがクリニックの診療メモから明らかになっている。

 なぜかといえば、浅井はGE-一三二の服用で血液中の酸素が増えることが最大の原因だと考えている。脳や肺、心臓や肝臓、子宮などの臓器は、正常に働くために大量の酸素を必要とするが、酸素が欠乏するとさまざまな症状を表す。そこへGE-一三二で酸素が豊富になった血液が集まるのだから、症状が改善されるのは当然なのである。

 それを証明する幾つかのエピソードがある。ある日、研究所へ出勤しようと準備していると、以前から近所付き合いがある浅井と同年輩の老人の息子が飛び込んできた。

「大変です。親父が倒れてしまいました。どうしたらいいんでしょうか」

 息子は顔面蒼白で目が吊り上がり、唇をわなわな震わせた。

「慌てないで、どういう状況か説明してください」

脳卒中で倒れ意識不明なんです。近所の先生に往診に来てもらったんですが、酸素吸入すらできない状態で、お手上げです」

「これを飲ませなさい。口から入らなければ、医者に言って鼻から管を使って注入するんです」

 浅井はGE-一三二の水溶液を息子に渡した。息子は取って返し、医者に頼んで言われた通りにしたが、老人は意識を失ったままだった。

 浅井は老人の症状が心配だったが、研究所で人に会う約束があって見守ることができず、容体が変わったらすぐ連絡するよう言い残して出勤した。

 その数時間後である。息子から電話がかかってきた。

「先生! 驚いたことに親父が意識を取り戻し、止めても話をするんです」

「それは良かった。水溶液を継続して飲ませてあげてください。ただ、安静にさせてくださいよ」

 息子に注意を与え、帰宅したら見舞おうと考えていたが、来客や打ち合わせが重なり、帰ったのは深夜になってしまった。そんな時間に病人のいる家を訪ねるのは非常識だから、翌朝出掛ける前にのぞいて見ることにした。

 そして翌日の朝、出勤の準備をしていた浅井に、息子が礼を言いにきた。重病人を抱えた家族とはとても見えない晴れやかな顔つきから察し、父親は回復に向かっているらしかった。

「おかげさまで大事には至りませんでした。ただ、言うことを聞かないので困ってしまいます」

「病人の我が儘が出ましたか」

「それならともかく、寝床から起きて一人で便所に行ってしまうんですよ」

「安静が必要なのに」

「さっき往診に先生が来てくれたんですが、親父が歩いているところを見て、お化けだ、と叫んでいました。親父はどうなったんでしょうか」

 息子は呆れ返った顔で浅井に返答を求めたが、苦笑いするしかなかった。

 まるで笑い話だが、浅井はかねがね脳卒中脳軟化症で倒れたら、六時間以内にGE-一三二を飲ませるか、口から入らなければ鼻から管で入れろ、と話している。

 同様に、一酸化炭素中毒にもGE-一三二は驚異的な力を発揮する。火事の消火中に一酸化炭素中毒になり、瀕死の状態になった二人の消防士が、鼻からGE-一三二を注入して命を取り止めたこともある。

 これも血液と結びついた一酸化炭素ゲルマニウムが結合し、血液内の酸素が元に戻ったからにほかならない。

 GE-一三二はまるで命の特効薬のようだが、残念ながら飲めばだれでも治るというわけではない。特に物事を信用しようとしない人や、金銭や物質への執着心の強い人には効き目が弱い。自らの体が病を治すという事実を信用しなければ、肉体の免疫力が上がらないし、執着心が強いとストレスがたまり、血液が酸性に傾くからだと浅井は考えている。

 その典型的な例が、浅井を訪ねてきた三人の中年婦人だった。五十歳前後の婦人の病気治療が目的で、二人は付き添いだった。病気の婦人はゲルマニウム・クリニックで診察を受け、GE-一三二の服用方法を教えられたが、どうしても浅井に会って効果を確認したかったという。

「ちょっとお待ちください」

 浅井は三人を応接室へ招き入れ、書斎からクリニックに電話して症状を聞いた。

「肝臓癌が腹膜に転移し、腹水もたまっています。病院が匙を投げたということです」

 診察した医師の説明では、ほとんど絶望的な状態だった。

 だが、GE-一三二は奇蹟的な効果がある。これまでも医者に見放された何人もの末期患者を救ってきた。GE-一三二を信じ、体を酸性に傾けないよう精進すれば、完治しないまでも病気の進行は抑えられる。

「治すのはあなた自身だと、しっかり認識してください。GE-一三二は血液の酸素を増やし、あなたのお手伝いをしますが、本人が治すのだという気力を持たなければ効き目がありません。それから、精神を安定させ、くよくよ考えたりしないでください。ストレスが血液を酸性にし、GE-一三二の効果が表れません」

 浅井の説明に、婦人の顔にかすかな希望の輝きが表れたようだった。婦人は有名な作曲家の未亡人で、病院は考えうるすべての治療をしたのだろうが、難病中の難病である肝臓癌で、腹膜にまで転移していては、手の尽くしようがなかったに違いない。

 婦人が訪ねてきてから六日たち、付き添っていた人から浅井に電話があった。

「GE-一三二を飲みはじめてから腹水が取れ、体が非常に楽になったので、お医者様と相談して自宅療養することになりました」

「それは良かった。GE-一三二を欠かさず服用するようお伝えください」

「それで、あの 。先生に是非お会いしたいと病人が言っております。大変申し訳ありませんが、お暇な時にご足労願えませんでしょうか」

「さっそくうかがいましょう」

 浅井は心地よく承諾した。GE-一三二に最後の望みをかけて訪ねてきた人には、求められればかならず見舞うことにしている。見舞って元気づければ免疫力が高まり、難病と闘う気力体力が湧いてくるからである。

 浅井は原宿の神宮通りに面した高級マンションの三階へ婦人を見舞った。部屋は厚い絨毯が敷かれ、婦人は広い寝室のベッドで寝ていた。

「ご気分がいいようですね。ですがこれからが肝心です。食事に注意し、心を平穏に保つよう努力し、早く病気を治してください」

「おかげさまで、ずいぶん楽になりました。先生、わたしはどうしても死にたくありません」

 婦人は濡れた目ですがるように浅井を見上げた。その瞳には必死の思いが込められているようだった。死にたくないのはだれでも同じだが、婦人には何か事情があるように思えた。

「病気と闘うという意識をしっかり持てば、きっと快復します」

「皆が亡くなった夫の遺産を狙っているんです。わたしは今までだれにも取られまいと戦ってきました。わたしが死んだら、今までの苦労が水の泡になります。どうかわたしをもうしばらく生かしてください。お願いします」

 潤んだ目で訴える婦人に、浅井はそうだったのかと納得した。亡夫の遺産がどれだけ巨額なのか知らないが、財産への執着心と、他人に取られるのではないかという疑心暗鬼がストレスを高め、癌に罹かったのだと推察した。最初にくよくよしてはならないと注意したのに、これでは病気を治す根本的な条件が失われていた。

「GE-一三二を信じることです。病気を治すにはそれしかありません」

「お医者様が毎日往診してくださって、抗癌剤を注射してもらっています。お注射とゲルマニウムを飲んでいれば、かならず治りますわね」

 婦人は胸にたまっていた思いを言うだけ言い、疲れたらしく目を閉じた。

 浅井は婦人のやつれた顔を見下ろし、小さくため息をついた。あれだけGE-一三二だけで治療しろと口を酸っぱくして言ったのに、抗癌剤を併用しているとは思いもしなかった。出来る限りの治療を受けたいという気持ちはわかるが、浅井は失望せざるを得なかった。

 それから二十日ほどたって、婦人からお会いしたいと電話がかかってきた。指示通りの服用をしていないからといって拒むつもりはなく、浅井は再び婦人の病床を見舞った。

 病臥している婦人の顔を見て、浅井は目をみはった。顔は血色が良く、苦しみのかけらさえ見当たらず、唇には微かに笑みが浮かんでいるようだった。

「先生。亡くなった主人が天国から、早くおいでと呼んでいます。わたしも早く主人のところへ行きたくなりました。そしてこの歌を聴かせてあげたいのです」

 ステレオから静かなメロディーと歌が聴こえていた。

「先生。大変お世話になりました。ご恩は決して忘れません。お別れに、わたしが吹き込んだこのレコードを差し上げます。しばらく一緒に聴いてください」

 婦人の目は穏やかに澄み、財産への執着や現世のしがらみを洗い落としていた。

 浅井は右手を婦人の額に当てた。これでいいのだ。静かに眠ってください。心の中で呟き、浅井は部屋を後にした。

 婦人が亡くなったのは、その夜だった。葬式に出席した浅井は遺族から、眠るような安らかな昇天で、翌日の昼すぎまで体温があり、体は硬直がなかったと聞かされた。両手を合わせて胸に置いた姿は、あまりにも美しく、遺族たちは思わず合唱したという。

 四十九日の法要が終わって訪ねてきた遺族は、荼毘に付した後、骨は桜貝のようにきれいで、原形のまま残っていて、とても骨上げする気になれなかったと話していた。

 癌で亡くなった人たちは、死に際の苦悶の表情が顔に残り、荼毘に付した骨も、癌に侵された跡が歴然とある。死に神と闘い抜き、苦しみ悶えて生命尽きるのだから、骨に痕跡が残るのは当然だろうが、婦人にそんな跡がなかったのは幸いだった。

 婦人がもっと早く執着心を捨て、我欲のない生活をしていれば、あるいは快復したかもしれないと残念でならないが、これもこの世の縁のなせる業と考えるしかない。

永遠なる魂 第4章 奇跡の水 3

              3

 小松や丹野の協力で、絶望の淵から蘇り心機一転しての再出発にあたり、浅井は有機ゲルマニウムの製品名をアサイゲルマニウムと名付けた。自分の名前をつけたかったわけではないが、有機ゲルマニウムは浅井の人生そのもので、柿本たち所員にとっても浅井と同じ思いだった。もっとも、他人に渡すのに自分の名前がついているのは面はゆく、製品名はアサイゲルマニウムの分子構造からGE-一三二と決めた。

 浅井は自らの体を有機ゲルマニウムで治癒させ、効力に自信を持っていたから、親しい友人などが病気と聞くと水溶液を届けずにはいられなかった。

 渡された友人たちの反応はさまざまで、また浅井の大風呂敷が始まったと見向きもしない相手もいた。医薬品として認められていないものを、すべての難病に効くと主張するのだから、大言壮語と受け取る人間も出てくる。

 まかり間違えば、浅井の行動は詐欺師とみられかねなかったが、石炭研究で実績があったから、耳を貸す仲間もいた。

 水戸高時代の同級生で、難病に苦しんでいた根元や八雲は信じてくれた。二人とも有機ゲルマニウムで重かった症状が改善したのである。二人とは水戸高の同級生がつくるリードル会というクラス会で再会してから親交を深めていた。

 根元は東京市役所勤めから始まり、当時は慶応大学通信という通信教育の会社を設立し、常務に就いていた。若い頃から病弱だったが、有機ゲルマニウムで健康を取り戻し、浅井の信者の一人でもあった。浅井は研究所の資金に困ると根元に借金を頼んだが、求められるのは返済ではなく、有機ゲルマニウムの製品で、どれだけ助けられたかわからない。

 だが、いくら難病が治っても、薬事法で認められなければ普及することはできない。

「そんなことをやっていても、仕方ないだろう」

 有機ゲルマニウムで高血圧と眼底血圧の異常が回復した八雲が、浅井の研究所を訪ねてきたのは四十六年の初めだった。八雲はすっかり動脈硬化が改善され、肉付きのいい頬の血色が良かった。

「ほかに方策がないからな」

 八雲の言う通りだったが、細々と研究を続ける浅井たちに余力があるはずもなく、不貞腐れたように答えるしかなかった。

薬事法の認可を取りたいというお前の夢はどうするんだ」

「おいおい進めるしかない」

「紹介したい人がいる。時間を作ってくれ」

「どんな人?」

東京電力病院の大川副院長だ。もう話はつけてある」

 八雲は東電の副社長で、急な話に戸惑ったが、二月半ばに浅井は東京・信濃町の東電病院で大川を紹介された。

「薬として認められるよう手続きを踏まなければなりません」

 薬臭い副院長室のソファで向かい合った大川は、髪の半ばが白い生真面目な医師で、浅井の説明を聞いて尽力を約束した。八雲が長年苦しんだ難病から立ち直った姿を見ているだけに、有機ゲルマニウムに強い関心を抱いているようだった。

 大川はまず一般薬理実験が必要と、東京実験医学研究所社長の伊藤医学博士を紹介した。

「ほかならぬ大川先生のご紹介ですから、まかせていただけば満足できる結果を出せると思います」

 伊藤は六十代半ばで、小柄で痩せていたが、大きな目は野心的な光をたたえ、自信に満ちていた。

 浅井ゲルマニウム研究所はさっそく七月、東京実験医学研究所と委託研究契約を結び、GE-一三二の毒性、催奇性(生まれる動物に奇形が生じるかどうか)、血圧と動脈硬化に及ぼす影響、老化防止対策などの一般薬理の研究に入った。

 動物実験は急性、亜急性、慢性、催奇形性の面で徹底的に検証されたが、結果はまったくの無毒、無害とわかった。

 というより、動物に幾ら与えても致死量が出てこないうえ、与えるのが多ければ多いほど元気になってしまうのである。薬事法では、動物が半分死ぬのを致死量の判定基準にしているが、有機ゲルマニウムは致死量の表示ができないのである。

 つまり医薬品ではないということになる。

 だが、浅井がいくら薬ではないと主張しても、化学製品はすべて医薬品とみなされ、薬事審議会の同意を得て厚生省から製造認可を取らなければ、販売したら薬事法違反に問われる。

 しかし薬品として認められなくても、有機ゲルマニウムが難病に効くのは否定できず、噂を聞きつけてやってくる人たちには実費で分けていた。

「どうも、ロットごとに特性に違いがあるようです。合成過程に問題があるのではないでしょうか」

 東京実験医学研究所の伊藤からクレームがついたのは、昭和四十九年の半ばだった。浅井や柿本はGE-一三二の製造にあたり、斎戒沐浴して精神を集中していたから、そんなことはないはずだったが、実験に携わっている伊藤の言葉だけに、反論できなかった。

 伊藤は実験データを示すとき、眉間に深い皺を寄せて口をへの字に結んでいた。

「どうすればよろしいですか」

 浅井ゲルマニウム研究所の粗末な応接ソファで向かい合った伊藤に、浅井は戸惑いを覚えながら尋ねた。

「特性を安定したものにすることが、実験を続けるにあたって必要です。やはり薬剤合成の権威の方にお願いし、合成方法を改善すべきではないでしょうか」

 伊藤は慶和大学医学部の豊田教授と組み、GE-一三二の薬理実験を進めていたから、言葉には重みがあった。

「心当たりの方がおられるのですか」

 薬剤合成の権威者といっても、浅井には見当もつかず、伊藤に人選をゆだねるしかなかった。

「豊田先生の友人で、科学技術庁の研究所で主任研究官をされている池田さんという方がいます。池田さんに相談されたらいかがでしょうか」

 伊藤の勧めで、浅井ゲルマニウム研究所に池田を招いた。

「まず、製造法を詳しくお話しください」

 背が高く小太りで押し出しのいい池田は、いかにも優秀な研究者という雰囲気だった。浅井と柿本は、聞かれるまま池田に製造法を説明した。池田の質問は的を得ていて、これならGE-一三二の特性を安定させられそうだった。

 東京実験医学研究所の一般薬理試験は順調に進み、GE-一三二に慢性毒性や催奇性はなく、血圧降下作用と老化防止に効果があると結論し、詳細なレポートを浅井に提出した。

 権威ある研究所でGE-一三二の効用が認められたのである。

 地道な研究は進み、医学誌や新聞に寄稿した論文を読んだり、GE-一三二の効果を伝え聞いて、良心的な医師からの問い合わせが相次ぎはじめた。GE-一三二の噂を人づてに聞き研究所を訪ねてくる人は多くなるばかりで、一刻も早く薬事法での新薬承認を行わなければならないと浅井は気持ちが焦った。

 だが浅井研究所は少人数で資金力がなく、新薬承認の申請手続きを進めるには無力だった。

 不思議なことに、困った時にはかならず救いの手が差し伸べられるもので、ある日のこと、浅井と同年輩の紳士が研究所を訪ねてきた。痩せて髪が白く、知的な目をした訪問者は、財団法人佐々村研究所の武藤と名乗った。佐々村研究所はわが国の癌研究のメッカとして知られる研究財団で、浅井もその名前を知っていた。

「東電病院の大川先生にご紹介されました。GE-一三二の薬理効果を解明したいと考えています。ついては、ご協力をお願いしたいのです」

 寝耳に水とはこのことで、武藤がどこまでGE-一三二の効果について知ったうえで提案しているのかと、浅井は相手の顔をまじまじと見てしまった。

「唐突な依頼でご不審に思われるかもしれませんが、私どもの研究所では、大川さんにGE-一三二を教えられ、以前から注目していました。先生の論文にはすべて目を通しましたし、GE-一三二を服用して快復した患者さんの調査も行いました。驚異的な効果があるGE-一三二を、大会社が研究していないからといって放置していては、医者としての良心が許しません」

「薬理効果とおっしゃいましたが、対象の病症はなににされるつもりですか」

「癌を考えています」

「論文をお読みになったのならおわかりでしょうが、GE-一三二は特定の病気を対症療法で治すものではありません。それでも薬理効果を確かめることができるのですか」

「GE-一三二はある種の癌を治癒したという実績があります。ひとまず癌から始めて、薬効を広げていったらどうかと考えています。実験は対症療法的にはなりますが」

「佐々村研究所で実験をされるということに?」

「私どもだけでは力不足ですので、協力してくれる医療機関を募りたいと考えています。それでご協力をお願いしたいのは、治験薬として製品を供給していただきたいということです」

「すると、病院がGE-一三二を臨床で使うということになるのですか」

「そうしなければ臨床試験と認められませんから。実はGE-一三二に興味を持つ医学者たちに、すでに呼びかけを始めています。ご了解いただけませんでしょうか」

 思ってもみない話の展開で、浅井は言葉がなかった。畑中や李博士の件で人に任せることに懲りてはいたが、武藤は大川の紹介だけに、信じて良さそうだった。

「願ってもないことです。私は有機ゲルマニウムをずっと研究してきて、生命の元素とでも言える物質と考えています。難病に苦しむ人々を救うために、GE-一三二を是非とも世に知らしめたいという念願を持っています。お申し出の件、喜んでご協力させていただきます」

薬事法による医薬品認可を取る目的で、臨床試験を行います。認可が下りるまでは、未承認治験薬としての扱いになります。従って実費程度しかお支払いできませんが、ご了解いただけますか」

「GE-一三二で儲けようとは考えていません。研究所を維持できるだけの収入があれば十分です」

「さっそく正式な呼びかけを始めます。先生のほうでも、実験に参加されたいという方々を募っていただければと思います」

 武藤は研究者らしく真摯な態度で、話していて間違いなく信頼できる人物だと浅井は確信した。

 その日から浅井と武藤は連絡を取り合い、全国の大学や医療機関、研究機関に呼びかけ、一カ月ばかりで五十機関、百二十人以上もの参加が決まった。参加する研究者は第一線で活躍している精鋭ばかり、組織の規模や充実した内容は、一つの医薬品のために作られた研究会としては、わが国の医薬品開発史上で過去に類のないものになった。それだけ癌の治療に一線の医者たちが悩んでいることの証左でもあった。

 研究会はゲルマニウム研究会と名付けられ、世話人には武藤と帝京大学医学部の古山教授が就任した。治験薬としての対価が支払われるから、浅井ゲルマニウム研究所は研究資金に困ることもなくなり、独自の研究を進められるようになったのが、浅井は嬉しかった。

 ゲルマニウム研究会で有効性が確かめられれば、薬事法に基づいた医薬品として人類救済に役立つ。行動をともにしてくれた柿本ら所員の苦労にも報いることができる。ここまで頑張って良かった、と浅井は感極まる思いで鼻の奥が熱くなった。

 ゲルマニウム研究会が最初に着手したのは、GE-一三二の毒性試験だった。医薬品は人の生命にかかわるから安全性の確保が不可欠で、毒性はないとすでに確かめていたが、ゲルマニウム研究会で確認されれば文句の出ようがなくなる。

 毒性試験には急性、亜急性、慢性の区別があり、さらに特殊毒性として催奇形性(発癌性)、繁殖に及ぼす影響がある。主に毒性試験に取り組んだのは北里大学薬学部で、ほかにも医科大学の医学部、研究施設などが参加した。

 毒性試験はラット、マウス、ビーグル犬で行われ、GE-一三二はまったく毒性がないことが確認された。さらに試験に使った動物の死体を解剖して調べる病理検査や、GE-一三二が体内でどのような化学変化を起こすかを検討する生化学検査でも、異常はまったくなかった。

 催奇形性や繁殖に関する試験でも毒性は認められず、GE-一三二は安全性が極めて高い有機化合物であることが確認された。

 GE-一三二に毒性がないのは、浅井は自らの体で確かめ、東洋実験医学研究所でも確認していたが、一線の医師たちが構成するゲルマニウム研究会で再確認されたとなると重みが違ってくる。

 毒性試験に続き一般薬理作用の検査も行われた。体に吸収された薬品は、体内、特に肝臓で化学変化、いわゆる代謝が活発に行われる。人間の体にとって異物である薬を、無毒化して体外へ排泄する働きだが、代謝によってできた物質が有害物として人体に害をなすことがある。また、排泄されず肝臓や腎臓などに蓄積され、人体に有害な作用を起こすこともある。医薬品の副作用だが、一般薬理試験の結果、GE-一三二は吸収、排泄とも速やかで、体内に残留することはまったくないという結果が出た。

 GE-一三二は投与すると速やかに各臓器に平均的に分布し、薬としての役割を果たしたあとは、三時間で九〇パーセントが尿中に排泄され、十二時間後にはほとんど残留が認められない。GE-一三二は、体内に蓄積して副作用を起こす心配はまったくないのだった。

 毒性試験で安全性が確認され、薬理効果での動物試験へと進んだ。そして動物試験では、GE-一三二は正常な動物には特定の薬理効果を示さなかったが、病変を持った動物に対しては治癒促進をすることがわかったのである。GE-一三二は自然治癒力を高める、という浅井の以前からの考えを改めて確認するものだった。

 こうしてゲルマニウム研究会で研究が進み、浅井も日々充実して研究に勤しんでいる時、たまたまニューズ・ウイークを読んでいてある記事が目に止まった。物事との出会いは不思議な縁としか言いようがないものである。

 その記事は、英国人の三歳になる少女が腎臓癌に罹かり手術したが、癌は頭蓋骨に転移し、抗ガン剤治療を行ったが体は痩せ衰え、副作用で毛髪が抜け落ち、皮膚はまっ黄色に変色した。癌はさらに進行して全身を侵し、医者はさじを投げたという悲劇的な内容から始まっていた。

 途方にくれた両親は藁をもつかむ思いで、意識がほとんどない少女を寝椅子車に乗せ、奇跡の泉として名高い南フランスのルルドへつれていき、そこで聖泉とされる水に体を浸し、泉の水を飲ませた。

 しかし少しも良くなる兆しはなく、諦めた両親は死なせるなら自宅でと、イギリスのグラスゴーへ少女を連れ帰った。帰宅しても少女に変化はなく、ベッドで寝た切りだったが、三日目の朝、彼女は突然起き上がってベッドに座り、オレンジを食べたいと口を開いたというのである。

 少女はオレンジをうまそうに食べ、その日から食欲が増し、数日して腫瘍は消え去ってしまい、元気な同年令の少女と変わらぬ健康な体になったと、ニューズ・ウイークは彼女の写真まで掲載していた。

 この出来事はスコットランドの医学界で話題になり、ルルドの奇跡の泉として評判になっていた。

 記事を読んだ浅井は、遠藤周作の名著、「聖書のなかの女性たち」に書かれていた、「ルルドの聖母の泉」を思い出した。著作の「人間この未知なるもの」が世界的ベストセラーになった、ノーベル生理・医学賞受賞者の医学博士、アレキシス・カレルのことを書いた作品である。そこではルルドの泉に懐疑的だったカレル博士が、列車の中で知り合った重病人に寄り添って実際に現地へ行き、奇跡を目の当たりに見たことが記されている。

 医者から見放された病人たちが、最後の拠り所としてフランスとスペインの国境、ピレネー山脈にあるルルドの聖なる泉を求め、今でも年間三百万人から四百万人もの難病患者が訪れていると言われている。

 カレルの「人間この未知なるもの」と遠藤周作の「聖書のなかの女性たち」は、以前に読んで感動した作品だが、忙しさにかまけて内容は記憶の奥に埋もれていた。それがニューズ・ウイークの記事で触発され、鮮明に思い出されたのである。

「久しぶりに里帰りしてみないか」

 エリカがぱっと顔を輝かせた。親子そろって日本へ来てから、エリカは一度もドイツの地を踏んでおらず、望郷の念はさぞかし強いものがあったに違いない。

「嬉しいけど、なにかほかに狙いがあるのね」

 エリカが微笑んで浅井の目をのぞき込んできた。

「その通りだ。帰りにフランスのルルドへ寄ってきてほしい」

「奇跡の泉のこと?」

「知っているのか」

「欧州では、キリスト教信者の中で有名な話だもの」

「泉の水を持ってきてほしいんだ」

 エリカは喜んで故国ドイツへ向かった。ドイツから南フランスのルルドを回り、日本へ戻ってくるのは二週間後。浅井はエリカが戻ってくるのが待ち遠しくて仕方なかった。

 ルルドの泉には奇跡確認証明所があり、ルルド国際医学会が厳密な検証を行って難病が治癒していると断定、ローマ法王も奇跡と認めたほどである。その泉の水に何が含まれているのか?

 過去に何人もの科学者がルルドの水を分析したが、奇跡を起こすような物質は発見できなかった。だが、浅井にはある直観があった。それは、ルルドの泉が起こしている奇跡が、GE-一三二の効果と酷似していたからである。

 待ちに待ったエリカが帰ってきたのは予定通り二週間後で、九月に入っていた。

「聖地というからさぞかし清楚なところだと思っていたら、ごてごてした土産物店ばかりで、毒気に当てられたわ」

 羽田に迎えに出た浅井に、エリカは苦笑して魔法瓶に入れたルルドの泉の水を渡した。妻によれば、ルルドの泉の奇跡を求めて訪れる、数百万人の病人や家族を当てにし、参道は赤や黄色の原色で飾った土産物店が乱立しているというのだ。ただ、聖地に入ると雰囲気は一変し、清らかさに満ちていたという。

 浅井はエリカの土産話もそこそこに、魔法瓶に入った水を手にして研究所へ走った。柿本に手伝わせて水を原子吸光分析器にかけ、結果が出るのを胸を高鳴らせて待った。

「出ました!」

 柿本が興奮した声で叫び、描かれたグラフを指さした。

「やっぱりそうか」

「間違いありません。大変な量です」

 分析結果が記された曲線は見事なゲルマニウム線を描き、含有量もかなりの量と判明したのである。

 高麗人参に代表される薬草、そして奇跡の泉、いずれにも多量のゲルマニウムが含まれているのは偶然なのか? 過去の人々が求めた薬草や奇跡の泉の効果は、ゲルマニウムを含有しているからではないのか。

もしかすると 。

 日本にもルルドの泉と同じような奇跡の水があるかもしれない。飲んだり沐浴すれば、難病が治る霊験新たかな水。それは宗教と密接に関係しているに違いない。

 浅井は宗教界にはまったく無知で、奇跡を強調する宗教団体の本を片っ端から取り寄せて読んだ。そして、ルルドの泉と同じような効果を表すものに、青森県東津軽郡平内町外童子山にある、松緑神道大和山の「山吹のお水」が匹敵することを発見した。

 大和山発祥の地である神域の奥宮の沢に湧いている「山吹のご神水」は、教団創立当初から、飲用したり湿布すると、さまざまな難病から救われるという不思議な現象が次々と起こったという。信者たちは「奇跡の水」と崇め、参拝する度に最高の土産物として持ちかえるのを習わしにしている。さらにこの水は、殺菌や消毒をせずに何年放置しても、決して腐らないという特性を持っているというのだった。

 研究の忙しさにかまけたのと、調査に時間が掛かったため、山吹のお水のことを知ったのは、ルルドの水に大量のゲルマニウムが含まれていることを発見した翌年の、二月上旬の寒い最中だった。青森はさぞかし寒いに違いないと思ったが、ルルドの泉と同じ湧き水があると知ってしまってはいても立ってもおられず、浅井はさっそく外童子山を訪れた。

 思った通り外童子山は深い雪が積もり、肌を刺す寒気は痛くさえあった。宗教団体というから、さぞかし立派な建物があると想像していたが、山奥にある松緑神道大和山の本部は、木造りの礼拝堂と祈祷用の道場があるだけで、清々しい凛とした雰囲気に包まれていた。

 前もって連絡しておいたので、礼拝堂の受付で来意を告げるとすぐ中へ通された。

「山吹のお水を調べたいということでしたね」

 応対したのは神主姿の年配の男性で、浅井は改めて訪ねた理由を説明した。

 男性はしばらく浅井の顔を凝視していて、やがて感嘆したように頭を下げた。

「あなたと向かい合っていると、熱気が押し寄せてきます。オーラの人ですね。どんな協力も惜しみません」

 オーラと言われても浅井本人に実感はなかったが、信念に従って突き進む意欲が、相手に何らかの感銘を与えているのかもしれなかった。

 青年部長という体格のいい男性を紹介され、奥宮まで案内してくれることになった。

「大変に寒いところですから」

 青年が貸してくれた防寒服と防寒靴で身を固め、奥宮まで深い雪の五キロの道のりを歩いたが、寒さはさほど感じなかった。というより、これから出会う山吹の水に、浅井は意識を奪われていたと言ったほうが正確である。

 登るのが決して楽とはいえない雪深い山道を、足を取られながら歩き、小高いところにある大木に囲まれた小さな御堂に着いたとき、浅井は息が上がり汗をぐっしょりかいていた。青年は山歩きに慣れているのか、息にわずかな乱れもなかった。

「ここです」

 青年が指さした御堂の脇から水が湧き出し、かけいに流して飲みやすくしてあった。

 青年が柏手を打つのに浅井も倣い、一礼して置いてあるひしゃくで水をすくい、口に含んで少しずつ飲み下した。荒い息のせいか、それとも特別の成分が含まれているためなのか、水は冷たく、何とも言えない深みのある味をしている。

 浅井は山吹のお水を瓶に詰め、研究所へ持ち帰った。予想が当たっていれば、山吹のお水にもゲルマニウムが含まれているはずである。

 原子吸光分析器にかけた結果は、思った通りだった。ルルドの泉と同じように、ゲルマニウム線がはっきり現れたのである。

 もう間違いなかった。ルルドの泉も山吹のお水も、奇跡を起こすもとは、どうして溶け込んだのかは不明だが、ゲルマニウムしか考えられなかった。

 山吹のお水が湧き出る青森県は、黒鉱と呼ばれる高圧熱水型変成岩の鉱脈が広がっている。黒鉱は鉄のほか金、銀、銅、亜鉛を含有している。そしてゲルマニウムは、主に銅や亜鉛鉱を精錬した鉱滓から採っている。

 そこでさっそく黒鉱を分析したが、予想通りゲルマニウムを含有していることが判明した。もっとも、鉱石中のゲルマニウムがどうやって地下水脈に入り込むのか、さらに鉱石中の無機ゲルマニウムがなぜ有機ゲルマニウムに変わって水に溶けているのか、疑問だらけである。

 そこで立てた仮説がバクテリアの存在である。ちなみに石炭には有機イオウが含まれているが、元々は無機だったものがバクテリア有機に変わったのを、浅井は石炭の研究で突き止めている。ゲルマニウムも同様に違いないと見当をつけたが、ソビエトの科学者が国際会議の有機ケイ素に関する発表で、ケイ素バクテリアの存在を主張していた。

 ケイ素とゲルマニウムはともに典型的な半導体物質だから、ケイ素と同様にゲルマニウムバクテリアが存在しても不思議ではない。ケイ素とゲルマニウムは地球上に広く分布し、生命の起源で重要な役割を演じたとみられる物質である。そして、両者とも有機物となって生命のサイクルに関係していると考えられるのである。

 浅井は大自然の偉大さに感嘆するばかりだった。

永遠なる魂 第4章 奇跡の水 2

              2

 管の好意で研究所を得た所員の意気は上がり、水に溶ける有機ゲルマニウムの合成は成功していなかったが、石炭に関する研究は順調に進んだ。そのおかげで、浅井は昭和三十四年秋に発明および新技術開発で社会に貢献した功績を認められ、政府から紫綬褒章を授与され、三十七年三月には京都大学工学部から工学博士の学位を与えられた。

 並行してゲルマニウム有機化の研究は進み、及川がフェノールと結合させた有機化合物をつくり上げた。

「やっと有機ゲルマニウムの合成に成功しました。治療に使うことが可能でしょうか」

 浅井は出来たばかりの有機化合物を手にし、勇躍して国立癌センター研究所の中原所長を訪ねた。

 中原は理化学研究所で、後に日本医師会の会長になる武見太郎とともに、医薬用ゲルマニウムの研究をしていたことがある。酸化ゲルマニウムは毒性が強いというので研究を断念したが、ゲルマニウムに理解があった。

「それは水に溶けるのでしょうね」

「いえ」

「それじゃ、治療に使いようがありません。水に溶けなければ生化学的な効果は期待できませんから」

 中原所長の厳しい宣告だった。指摘されてみればその通りで、水に溶けなければ血液に溶けず、体内に蓄積してしまうばかりである。

 だが、研究を続ければかならず水に溶ける有機ゲルマニウムができ、人類の難病を放逐することができる。浅井はそう信じてやまなかった。

 順風満帆の航海 が続くと確信していた浅井に、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。石炭にあらずば産業にあらずとばかり、繁栄を謳歌していた石炭産業の凋落が、昭和三十四年ごろから顕著になったのである。

 掘れば掘るほど儲かると、「月が出た出た」とまで歌われた石炭業界は、昭和二十八年ごろから不況風が吹き出した。産業界が国際競争力をつけるため、エネルギーを石炭から石油に転換し、政府もこれを積極的に推進する政策を打ち出したのが打撃となったのである。

 昭和二十九年一月に四百二十あった九州の中小炭坑は、十月にはわずか二百八十七に減少し、この年だけで坑夫の失業は六万人に及んだ。

 年をふるごとに石炭不況は深刻化し、国内最大の三井三池炭坑で、指名解雇をめぐって労使紛争が勃発した。指名解雇には大勢の労組幹部が含まれていたから、組合側は全面無期限ストライキに突入、会社側はロックアウトで応じ、労使は全面対決に突き進んだのである。

 三池争議が起こった三十五年は六十年安保改定の年でもあった。安保闘争の盛り上がりは、三池労組の支援につながり紛争が拡大、安保自然承認の後には石炭搬出庫の立入禁止をめぐり激突寸前にまで過激化していった。

 七月七日に石炭搬出庫の立入禁止の仮処分が決定し、会社側は警官一万人を配置、労組側も総評のピケ隊一万人を含む二万人を動員、二十日には石炭搬出庫の争奪で全面激突の危機に陥ったのである。

 労使決戦の二日前に発足した池田内閣は、初閣議で三池の紛争解決を決定し、石田博英労相が労使双方に異例の斡旋に乗り出し、中央労働委員会に調停を白紙委任させることに成功した。これがきっかけで三池紛争は解決に向かい、二百二十六日にも及んだ空前絶後の大争議は終結したのだった。

 三池争議に代表されるように石炭業界の不況は深刻で、そうなると企業が真っ先に行うのは、寄附金や研究費の削減である。石炭会社から入っていた技術料は、構造不況の進展とともに大幅に削られ、それを補うため父親から残された世田谷区成城の五百坪の土地と自宅、軽井沢の別荘を担保に入れて銀行から金を借り研究を続けていたが、私財の提供も限界になり、研究所を維持するのは極めて困難になってしまった。

 研究費は底をつき、それどころか三十数人の所員の給料さえ払えない。

 落ち目になると、不思議なほど悪いことが重なるものである。東京電力川崎発電所の総務部長から呼び出しを受け、何事だろうと出向いた浅井を待っていたのは残酷な言葉だった。

「石炭協会から、もう家賃の負担はできないと言ってきました。どうされますか?」

「えっ?」

 太った総務部長が何を言っているのかまったく理解できず、浅井は口をぽかんと開けて相手の顔をまじまじと見た。

「もしお宅のほうで月三十万円の使用料を払えないのなら、立ち退いてもらいたいのです。あとは当社の社宅に使用する考えです」

「使用料というのはどういうことでしょうか」

「聞いておられなかったのですか」

「なにも」

「関係のない業界のために、当社が無償で建物を供与していたと、考えていたのではないでしょうね」

「違うのですか。管社長は自由に使っていいからとおっしゃっていましたが」

「石炭の研究をする研究所に、どうして当社が便宜供与しなければならないのですか」

「それは管社長が 」

「石炭の研究をするのだから、石炭業界が費用を受け持つのが当然ではないでしょうか。これまで石炭協会は使用料を払っていましたが、もう払えないと言ってきたのですから、立ち退いてもらうのは当たり前です」

 研究所は管が社長当時に肝入りで建て、東電の好意で供与されていると考えていたが、寝耳に水の話だった。昭和四十年春のことである。

 東電の申し入れは強硬で、これにはさしもの浅井も驚き慌て、事情を調べて見ると、石炭綜合研究所は石炭業界の研究所だからと、東電は石炭協会から家賃を取っていたのである。石炭協会は研究所に研究費を一銭も出さない代わりに家賃を支払っていたが、不況の深刻化とともに支払いを打ち切ってしまったのだった。

 東電や石炭協会にとって家賃など大した額ではないはずだが、四十年不況が重なり、担当者はしゃかりきに不要不急の出費を抑えようとしていたから、金を生み出さない研究所の存在が邪魔になったのに違いなかった。東電、石炭協会とも家賃を槍玉に上げ、石炭綜合研究所を潰しにかかったのである。

 嘆願書を持って石炭協会会長を何度も訪れたが、まったく相手にされず、金にもならないゲルマニウムの研究などやめてしまえ、と逆襲される始末だった。

 何がなんでも研究費を稼がなければならない。浅井は石炭の利用加工の研究を中断し、超音波を利用した重油の改質や脱硫などの新技術の研究に大半の所員を振り向けた。超音波による洗浄装置や微粒子を分離する装置など、少しでも収入を得るためにあらゆる方策を講じたのである。

 そうして得たわずかな収入で家賃を支払い、乏しい研究費で研究所を何とか維持していった。

 だが、それも限界で、研究所は破産寸前に追い込まれていった。破産すれば抵当に入れてある自宅は取られてしまい、家族が身を寄せる場所がなくなる。

 それ以上に、破産すれば浅井を信じて研究に打ち込んできた所員や、支援してくれた人々への不義理は図り知れない。

 死をもってすれば償えるか。浅井はある日、思い詰めて東京タワーに上り、展望台から下を見下ろした。ここから飛び下りれば楽に死ねる。そんな誘惑が浅井を襲ったが、死ねばエリカは異国で一人残され、迷惑をかけてきた友人の行為を踏みにじってしまう。生き抜かなければならないと浅井は唇を血が出るほど噛んだ。

 だが、行くもならず引くもならず、荒れ狂う風雨の中で断崖絶壁に立たされ、落ちまいと必死に耐えることしか浅井にはできなかった。

「とても酷い顔色をしているわ。どこか悪いんじゃない」

「忙しくて疲れているだけだ」

 エリカが何度も心配そうに尋ねたが、浅井は取り合わなかった。実際のところ心身ともに疲れ果てていたが、弱気を見せれば所員が動揺すると、浅井は自らに鞭打って元気を装った。

 気力も体力も限界にきていたが、それでも浅井はゲルマニウムの研究はやめなかった。やめろと何度も警告を受けたが、ゲルマニウムは必ず人類に貢献すると信じ研究を続けた。

 昭和四十二年四月に入ったばかりの春だった。前の年に奇な縁で研究所に入社した柿本が所長室に入ってきた。

 浅井は神田にある易者を良く訪ねていたが、そこに柿本の母親が息子の相談に行っていて、紹介されたのだった。柿本は実家が薬局で薬学部へ進んだが、画家志望で大学を卒業しても製薬会社に就職せず、当時はアルバイトで生計を立てるというフリーター生活をしていた。

 浅井は工学博士とはいえ薬学に明るくなく、化学合成に詳しい人材がほしいと思っていたところで、ためらわずに柿本を研究所へ引っ張った。

 当時の研究所は経営不振で、新入社員を採用する余裕などなかったが、給料さえもらえないかもしれないとわかっていて、柿本は浅井の元に来た。運命の出会いだった。

 柿本は白い粉末の入った試験管を親指と人指し指に挟み、捧げるように浅井に差し出した。

「所長。ご待望の水に溶ける有機ゲルマニウム三二酸化物ができました」

 頬がこけ不精髭を生やした柿本の顔は、自信と威厳に満ちていた。浅井は何も言う言葉が見つからず、唇に笑みを浮かべ、熱い涙をぽろぽろとこぼした。どれだけの時間、黙って涙を流していたかわからないが、突然、浅井の胸中から激しい衝動が噴き上げてきた。

「これで癌が治るぞ!」

 浅井は無意識に柿本に抱きつき叫んだ。なぜそんな言葉を口にしたのか、自分自身にも理解できず、柿本も不思議そうに浅井を眺めるばかりだった。

 だが理屈ではない何か、宗教的な啓示とでも言える絶対的な真理を、浅井はこのとき悟った。

 もう駄目かと思われた研究所は、幸いにもこれまで発明していた百件ほどの特許権を、友人のつてで日本碍子が買い取ってくれ、破産だけは何とか免れた。百件の中には柿本が合成に成功する前に、及川が設計した有機ゲルマニウムの製造特許出願権も入っていた。そして日本碍子は九日後の四月十二日、特許申請した。

 すべての特許を売却したのだから、有機ゲルマニウムの特許出願権も渡さなければならなかったが、かならず買い戻すからほかには売らないでくれと、浅井はくどいほど念を押した。いつの日か、この特許が人類を救うと、浅井は信じて疑わなかったためである。

 研究所が存続できたという気の緩みがあったのかもしれない。浅井は重い病に倒れてしまった。

 せっかく水に溶ける有機ゲルマニウムが完成したが、浅井は破産一歩手前の資金繰りに奔走したせいで、いつのまにか全身を蝕まれていたようである。

 医師は、長年の肉体的疲労と精神的ストレスで、全身の多発性リウマチに通風が加わり、治療不可能と診断した。体に力が入らず起き上がる気力さえ湧かず、浅井は病床に臥したきりの廃人状態になってしまった。

 肝心の所長が廃人同様では、研究所の先行きは覚束なく、日本碍子が経営のてこ入れに入ってきた。

「一緒に辞めよう」

 浅井は柿本を促した。浅井は当時、研究所の社長として日本碍子から月額三十万円の給料を保証されていたが、大企業の管理になれば、金にならない研究はできなくなる。柿本がやっと有機ゲルマニウムの合成に成功したのに、夢を断念しなければならなくなる。安定した身分より、有機ゲルマニウムの研究に浅井は自分の人生を懸けた。

 易者の紹介で入ってきた柿本が、わずか一年で有機ゲルマニウムの合成に成功したのに、浅井は運命的なものを感じていた。

 だが、柿本が辞めようとすると、研究所の所員がこぞって引き止めた。柿本が研究所に残れば、一人で飛び出した浅井は有機ゲルマニウムを作れなくなる。そうなったら、浅井が辞めようにも辞められなくなると所員たちが考えたのかもしれない。

 だが、柿本も浅井との出会いを運命的なものと受け取っていたのだろう。あるいは、理想のために身命を投げ打つ浅井の姿に、その人間性に魅了されていたのかもしれない。柿本は研究所を退職した。

 柿本は浅井と一心同体だったのである。

 浅井は研究所を辞め、融資の抵当に入れていた自宅は人手に渡った。エリカと二人で、手放した自宅近くの六畳と三畳の長屋に移り住んだ浅井は、寝たきりの生活になった。六十二歳の時だった。

「済まないな」

 看病に専念するエリカに、苦労ばかりさせると浅井は申し訳なさでいっぱいだった。金銭的に楽をさせた記憶はなく、今度も老母を長男夫婦に預けての、エリカと二人の闘病生活だった。

 まさしく絶望のどん底である。

 身動きは叶わず、快復も期待薄で、生活費にも窮する浅井にあるのは、柿本が開発した水に溶ける有機ゲルマニウムだけである。毎日のように瓶に入れた白い粉末を眺め、浅井はある日、この有機ゲルマニウムを自身の体で試してみようと思い立った。

 ゲルマニウム有機化研究に取り組んできたのは、高麗人参さるのこしかけのように、人間の体に好ましい影響を与えられると信じたからである。それなら、柿本がつくり出し有機ゲルマニウムも、それらの薬草と同じ効果を表すのではないか。

 目の前の瓶に入った粉末は、初めてできた化学合成品で、毒性があるかもしれなかったが、浅井は決心して粉末を水に溶かして飲んだ。藁をもすがる思いだったのかもしれない。

 酸っぱい味だったが不快感はなく、浅井は水に溶かした有機ゲルマニウムをグラスに何杯も飲んだ。ゲルマニウムについてのわずかな文献で、生化学的に毒性がないことを確信していたためでもある。

 有機ゲルマニウムの水溶液を飲み始めた浅井は、身動きならない病状が、日一日と薄紙を剥ぐように良くなり、十日後には病床から起き、杖をつけば散歩できるようになった。

 ゲルマニウムが生命の元素だという直観を、浅井は自らの体で証明したのである。

 エリカは浅井の散歩にいつもぴったりと寄り添い、貧乏だが束の間の平穏を楽しんでいるようだった。

 浅井はこのころ、現代医学が自分の病症にお手上げだったので、東洋医学にわずかな期待をかけ、漢方薬と鍼で治療していた。その鍼師が、鍼を打つ前に浅井の体を触診し、首をひねった。

「肌の弾力と色つやが変わってきました。ずいぶん良くなっているようです。なにか特別なことをなさっているのですか」

有機ゲルマニウムというものを飲んでいます」

「ほう! あれほど酷かった全身状態が、ほぼ健康人に近くなっています」

「自分でも体調が良くなったのを実感しています」

「驚異的な快復ですね」

 鍼師は鍼を打ちながら全身を観察し、感嘆の声を上げた。

「その有機ゲルマニウムを分けてもらえませんか。私のところに大勢の患者さんが来られますが、皆現代医学に見放された人たちばかりです。その方たちを少しでも良くしてあげたいのです」

 浅井は乞われるまま鍼師に有機ゲルマニウムを分け与えた。それから十日ほどして鍼師が浅井の家へ飛び込んできた。

「実に凄い。皆、治ってしまうんです」

 鍼師は癌や肝硬変などの難病で苦しんでいる患者に有機ゲルマニウムを飲ませたら、劇的に快復したというのである。鍼師が説明する患者たちの快復ぶりには、浅井も驚き呆れるしかなかった。

 だが、薬事法医師法の問題があり、有機ゲルマニウムが難病に効くとわかっても、それ以上のことを治療としてするわけにはいかない。

 柿本が合成した有機ゲルマニウムのおかげで、浅井は快復し、その素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいと思い立ったが、長屋に逼塞している身では動きが取れない。

 だが、いつの時代にも善意の主はいるもので、どん底生活の浅井に光がもたらされた。

「実は、先生が有機ゲルマニウムについて書かれた論文を読みました」

 裏ぶれた長屋に、小柄で口髭を生やした高田という紳士が現れたのは、浅井が病床から起き上がれるようになって一カ月ほどした時だった。高田は製薬会社を経営しているといい、思いがけない提案をした。

「論文といいますと?」

ゲルマニウムと共に二十年という論文です。医学月刊誌に発表なさいましたね」

「ずいぶん前のことですが」

「ずっと興味を持っていましたが、最近になり石炭綜合研究所の方から先生の近況を聞き、お訪ねしました。有機ゲルマニウムの研究を続けられるなら、ご支援させていただきたいと思います」

 浅井は驚いて高田の顔を見つめた。すべてに行き詰まった浅井を、資金的に面倒を見ようと言ってくれているのだった。

 人の好意がこれほどまでに嬉しかったことはない。浅井は高田社長の好意をありがたく受け入れることにした。

 だが、研究を再開しようにも研究施設がない。浅井は地価が比較的安い東京都調布市に十三坪の建て売り住宅を見つけ、高田社長に頼んで購入資金を立て替えてもらった。そして、建物の畳をすべて剥がして床にし、有機ゲルマニウムを合成する設備を借金で買い、やっと研究を再開したのだった。

 狭いが楽しい我が家ではないが、自前の研究所を持てた喜びは大きく、それを増幅するように、ゲルマニウムの合成に成功した柿本が馳せ参じた。

 昭和四十三年三月末のことで、浅井は新たな研究所を「浅井ゲルマニウム研究所」と名付けた。

 浅井と柿本が合成に成功した水溶性の有機ゲルマニウムは、カルボキシ・エチル・ゲルマニウム三二酸化物で、分子式は(GeCH 2CH 2COOH) 2O 3。ゲルマニウムに三個の酸素が付いた網目構造で、強い水素結合があるはずであった。

 浅井は三月二十九日、カルボキシ・エチル・ゲルマニウム三二酸化物の完成された製法特許を、日本碍子が行った未完成出願とは別に、「生体内の異常細胞電位を変化させてその機能を停止させる作用を持つ化合物の製造法」と題して出願した。

 鋼支柱で懲りていたからだが、特許が得られれば有機ゲルマニウムの研究を浅井自身の手で思う存分にできることになる。

 ここでも浅井は友人たちに助けられた。水戸高の同級生だった根元が、トランジスタ工場から出る切り屑を集めて売っている会社から原料ゲルマニウムを継続的に入手できるようにしてくれた。根元は有機ゲルマニウムで虚弱体質を改善していたから、求められたのは返済ではなく、出来上がった製品だった。

 少人数ながら、やっと製品をつくり出せるまでになり、水溶性の有機ゲルマニウムが陽の目を見る日がきたのである。

 浅井と高田は、制ガン剤として特許を共同出願し、山口大学医学部で臨床試験に入り、九八パーセントの効果が認められたが、医薬品として世に出ることはなかった。

 高田は毒性試験や臨床試験の手続きを踏み、薬事法の認可を得ようとしていた。だが、薬品にすれば製品化した企業だけが莫大な利益になり、使用が限定され大勢の苦しむ人たちに行き渡らなくなると考える浅井が、衝突したためだった。

 浅井は面倒な手続きなどどうでもよく、病人を救うことしか念頭になかった。規則は人のためにあるのだから、邪魔をするなら無視してしまえばいいという考えだった。それでは製薬会社とうまくやっていけるはずはない。

 浅井が高田と袂を分かち、これからどうやって有機ゲルマニウムを普及していくか悩んでいたとき、前畑が現れたのである。

 浅井は研究を根こそぎ奪われ、失意から再び蘇るのだが、前畑とのかかわりは尾を引いた。

 前畑は日本碍子が出願して認可された特許を二百万円で買い取り、浅井を特許侵害で訴えたのである。

 日本碍子にはかならず買い戻すから売らないでくれと、あれほど頼んだのに、裏切られるとは思いもよらず、浅井は愕然とした。利益になるなら企業が売るのは当然ではあるが、信義を重んじる浅井には信じられない行為だった。

 前畑が手に入れた特許権が裁判で認められれば、浅井は有機ゲルマニウムを作れなくなり、人類のために普及する夢はかなわなくなる。

 目の前が真っ暗になるほどの危機だったが、前畑が入手した製造特許は、柿本が未完成と指摘し、浅井側が勝訴した。

 だが、前畑はそれでも諦めなかった。柿本が有機合成する半年前に、ソ連の学者ミノロフが有機ゲルマニウムの構造式を論文に発表し、アメリカで特許を取っていたのに目をつけたのである。前畑はその特許を買い、再び特許論争を仕掛けてきた。

 だが、ミノロフの論文も未完成で、構造式は発表されていても、物性や特性を証明する反応式が間違っていて、有機ゲルマニウムにならないことが柿本の研究でわかった。この特許論争にも、国際的な発表論文を否定するというおまけがついて、浅井側が全面勝訴したのだった。

 

永遠なる魂 第四章 奇跡の水 1

          

              1

 浅井が最も研究に力を注いだゲルマニウムは、発見の歴史から神秘に包まれている。一八六九年、ソ連の科学者メンデレーエフは六十二種類の元素を調べ、元素の周期律表を発表した。メンデレーエフは周期律表の三十二番目を空白にし、将来発見されるべき元素、「エカ・ケイ素」と名付けた。

 エカ・ケイ素はメンデレーエフの予言にもかかわらず、長く発見されなかったが、周期律表の発表から二十年後に、ドイツの化学者、ウインクラーとブレイハープトによって発見された。当初は未知の元素かと思われたが、さまざまな分析の結果、メンデレーエフが予言したエカ・ケイ素だとわかったのである。

 発見者のウインクラーらは、新元素を祖国ドイツの名前にあやかり、ラテン語でドイツを意味するゲルマニウムと名付けた。

 ゲルマニウムは一見するとスズに良く似た光沢を持っているが、金属でもなく非金属でもない半導体で、低温では電気をほとんど通さないが、高温になると通す性質を持っている。

 物質は絶縁体と良導体に分けられ、ガラスやゴムは絶縁体、銅や鉄は良導体で、ゲルマニウムやシリコンの半導体はその中間の存在である。

 発見されたものの、ゲルマニウムは稀に存在する元素としてしか研究がなされなかった。ゲルマニウムを単独で大量に生産する技術が確立されず、実用化への研究はおろそかにされたのである。

 ゲルマニウムの発見から六十年が過ぎ、一九四八年にアメリカのベル研究所のショックレーらが、ゲルマニウム半導体という性質を利用し、真空管に代わる増幅用のトランジスタと、整流用のダイオードを発明した。電子工学の夜明けで、ゲルマニウムは現代情報文明の礎を作ったのである。この発明でベル研究所の開発者は一九五六年にノーベル物理学賞を受賞している。

 トランジスタの発明で、ゲルマニウムは現代文明の最先端、エレクトロニクス産業の中心的存在となっていった。半導体という性質は、古典物理学では説明できなかったが、量子物理学の発展で理論的な解明が進み、世界の物理学者や技術者は、ゲルマニウムの電子の動きに魅了されたのである。

 ちなみに、元素は原子からなり、原子は原子核と電子からできている。電子は原子核の周りの殻と呼ぶ円形軌道を回っており、殻に入る電子の数は決まっている。殻は内側からK殻、L殻、M殻、N殻  と続き、元素の電子的性質は最外殻に入っている電子の数で決まる。水素やナトリウムは一個、ゲルマニウムは四個の電子が存在している。

 固体は電子を共有して結合することで成り立ち、電子的に安定した存在である。だがゲルマニウム共有結合の力が弱く、温度が上昇すると原子の共有結合が切れ、電子が自由に動きだす。温度の上昇とともに浮遊する電子の数が増え、電気抵抗力が減少していく。シリコンも同じ現象を示し、これらの物質を真性半導体と呼んでいる。

 半導体の性質が理論的に解明されたことで、電子工学は飛躍的な発展を遂げていく。ゲルマニウムといえばエレクトロニクスという時代が到来したのである。

 浅井は日本の石炭からコークスを製造する技術の研究をしていたが、その過程で出る排ガス液に、百ppmを超える大量のゲルマニウムが含まれているのを発見した。

 ガス液にゲルマニウムが大量に含まれていることがわかれば、あとはどうやって安価に抽出するかである。原料となるガス液は東京ガスの大井工場から供給を受けたから無料で、試験管やフラスコでガス液とさまざまな試薬を混ぜ合わせ、ゲルマニウムの抽出実験を行ったが、どれもうまくいかなかった。

 だが、浅井は押しかけてきた七人の東大卒業生のうち、及川と稲垣勝を中心にゲルマニウムの研究を進めさせ、徹夜に徹夜を重ねて実験に没頭し、ガス液をさまざまに化学的処置を行った結果、三〇パーセントものゲルマニウムが含まれている沈殿物をつくり出した。

 ここまでわかれば後は簡単で、沈殿物を焼き化学処理すれば酸化ゲルマニウムができあがる。

「できました」

「やったな」

 苦労して抽出した酸化ゲルマニウムの白い粉をかき集めて小瓶に入れた時、浅井と及川は思わず歓声を上げて抱き合った。石炭のガス液から初めてゲルマニウムを抽出した喜びは、科学者にしか理解できないに違いないが、浅井にはこの物質が人類の将来に大きな貢献をするという神憑り的な確信があった。

 浅井は通産省工業技術院の電気工業試験所の設備を使い、酸化ゲルマニウムを棒状単結晶の塊に作り上げた。単結晶は銀灰色に光り、占領軍の士官が話していた、「未来を支配する元素」という言葉がぴったり当てはまる深みを持った輝きだった。

 電気工業試験所では、抽出したゲルマニウムトランジスタダイオードを作り、広辞苑ほどの大きさの箱に詰めてラジオを製作した。ダイオードは稲垣が開発した。

 もっとも、他の部品などの関係で大量生産による実用化は難しく、商品化は諦めざるを得なかった。

 ゲルマニウム時代の到来で、日本電気東芝東京通信工業などの企業から実験用の引き合いがくるようになった。日本が電子工業で先進国になったのは、浅井たちの努力に負うところが大きかったのである。

 産業界の関心はゲルマニウムのエレクトロニクス面だけだったが、浅井の考えは彼らと異なっていた。高麗人参さるのこしかけなどの薬草には、ゲルマニウムが大量に含まれている。だから、ゲルマニウムは人間の生体に奇跡的な効果を表すに違いないと直観したのである。その直観は研究すればするほど深まるばかりで、浅井の終生変わらなかった。

 高麗人参はある特定の場所でしか成長せず、収穫したあとは三十年以上もたたないと次の栽培ができない。そのカギはゲルマニウムにあるのではないかと、浅井は高麗人参の苗を取り寄せ、二つの木箱に土を入れて実験した。

 一つの苗には、ゲルマニウムを醋塩にした水溶液を、もう一つは水だけを毎日注いだのである。

 その結果は六カ月後に出た。

「予想通りだったな」

 浅井と及川たち所員は高麗人参の成長ぶりに目を輝かせた。ゲルマニウムを注いだ苗は、茎が三十センチほどになり、匂いを嗅ぐと独特の芳香があったが、片方は茎の長さが十センチと小さく、香りもわずかしかしなかった。

 高麗人参にとってゲルマニウムは成長に欠かせない物質だったのである。

 高麗人参の中でゲルマニウムはどんな有機化合物の形になっているのかに、浅井は異常なほどの関心を抱いた。化合物の分子式がわかれば、有機ゲルマニウムを合成し、生物の生命に貢献する物質を得ることができると直観したからだ。高麗人参さるのこしかけが万能薬と称賛されるように 。

 量子物理学の発展と歩を合わせ、古典的な生物学とはまったく違う量子生物学や電子生物学の研究が進展していった。生体内でミネラルなどの元素がどう働くかなどを究明するもので、それをゲルマニウムに応用すると、一つの仮説が浅井の頭に浮かんだ。

 ゲルマニウムの最外殻には四つの電子が入っているが、異質の物質が接触すると、四個のうち一個が外殻から外へ飛び出してしまう。電子が飛び出した跡はポジティブ・ホールという、「正」に荷電した電子の落とし穴になり、外から電子を取り込む。

 生体内で食物が燃焼すると、最終的に水素Hと炭酸ガスCO 2に分解される。水素Hは一つの電子を持った元素だから、それがポジティブ・ホールに落ち、生物学的に言うと脱水素効果を起こすのではないか。体内に水素イオンが多いと血液は酸性に傾くが、ゲルマニウムが存在すれば抑えることができる。高麗人参さるのこしかけが万能薬と珍重されるのも、それが関係しているのではないか、と浅井は考えたのだった。

 ゲルマニウムの研究を続ければ、いつか医薬用の有機ゲルマニウムを合成でき、人類に貢献できる日が来ると、浅井は確信を持った。

 だが、研究を進めようにも資金がない。何とか医薬用ゲルマニウムの研究費を捻出する方法はないか。浅井は考えたすえ、いつもの当たって砕けろの精神で、昭和二十九年二月に自民党科学部会の斉藤憲三代議士を訪ねた。斉藤代議士は先祖が秋田の名門で、本庄市内に斉藤神社があるほど漁民や農民の尊敬を受けている一族の出身だった。

「突然で恐縮ですが、科学行政を担当されている先生に、お願いがあって参りました」

 約束も取らず押しかけた浅井に、斉藤は自民党本部の応接室で気楽に会ってくれた。小柄で紺の地味なスーツを着こなした斉藤は姿勢が良く、柔和な表情で浅井とソファで向かい合った。細面で髪は半ば以上が白く、穏やかな顔つきとは違って眼鏡の奥の眼光は鋭く、何事にも真剣に取り組もうとする真摯さが感じられた。

 浅井はゲルマニウムの研究を進めていることを話し、資金的に行き詰まっていることを訴えた。世間ではゲルマニウムとは何なのかまったく理解されておらず、そんな研究に金を投じるのは溝に捨てるようなものといわれた時代である。

「電子工学への利用とは違い、医薬品として人類を救済できるかもしれないということですね」

 浅井の説明に、斉藤は目に強い光を浮かべて尋ねた。政治家でゲルマニウムに興味を示した人物は初めてで、この人なら後押ししてくれるかもしれないと期待を抱いた。

「研究が進めば、癌などの難病を克服できる可能性があります」

 こんな言い方をすれば、大言壮語と人間性を疑われるかもしれないが、浅井は心底からそう信じていた。

「それはいい。是非、研究を完成させてください。資金の方は、私の力で可能なお手伝いをさせていただきます」

 初対面なのに斉藤は浅井を信じ、全面協力を約束してくれた。眼光鋭く人を射る目は、浅井の本質を見抜いたのに違いなかった。

 驚いたことに、それからわずか二カ月後の四月十四日、浅井は衆議院電気通信委員会に参考人として招かれた。斉藤代議士の尽力だった。

「古来から漢方薬や精力剤とされる高麗人参さるのこしかけに、大量のゲルマニウムが含有していることが、私どもの研究で判明しております。実際に、東大で有機ゲルマニウムを再生不能型貧血性に、順天堂で結核の治療に応用し、相当な効果があったと聞いております。研究が進めば、ゲルマニウムは医薬品として大きな効果を表すに違いありません」

 浅井は意見陳述で知っている限りのことを説明した。

「すでに一部の治療で効果が出ているということですね」

 斉藤代議士が質問した。

「当事者ではありませんので詳しいことを把握しておりませんが、調査するに値する効果だと聞いております」

 こうした斉藤の努力が実り、ゲルマニウム工業振興の中に、医療という一文字が入り、浅井は研究費の補助を受けることができたのである。浅井にとって斉藤代議士は苦しい時に手を差し伸べてくれた恩人で、生涯忘れえぬ人物だった。

 斉藤の力で補助金を得られ、石炭からゲルマニウムを抽出する研究が進んだが、コスト的には輸入した方がはるかに安く、企業化を考える会社が出てこないのが恨みだった。

 それでも浅井の研究は着々と進み、石炭からゲルマニウムが採れるという事実に世界中の学者が注目し、欧米の学会に招待されることが多くなった。

 浅井が欧州で開かれた石炭組織学会に出席し帰国したのは三十年十月十九日で、その一週間後に衆議院逓信委員会が開かれ参考人として招かれた。委員長は松前重義で、理事に斉藤、橋本登美三郎、中曾根康弘佐々木更三などが顔をそろえ、参考人として浅井のほか大越伸東大農学部教授、河本頼希日本ゲルマニウム工業社長などが呼ばれ、意見陳述を求められた。

 浅井は最初に立ち、ガス液からゲルマニウムを抽出する研究と、欧州のゲルマニウム研究の状況を説明した。その中で、浅井は医療用のゲルマニウムについて調べた結果を報告した。

「医薬としてドイツとフランスの二カ国が熱心に研究を続けております。文献もかなりの数が出ていまして、医薬用としての実験結果の発表が、主なものでも百件近く出ております。これらの資料の中で、去年、バーデンバーデンで医学大会があり、癌の治療法が非常な問題となりましたが、その中でゲルマニウムによって癌を治療する方法が発表されております。複雑な化合物を使っているようで、欧米ではゲルマニウムを医薬品として、癌の治療に主眼を置いて研究しているように見受けます。東大の実験では、ゲルマニウムが血液に作用することが判明しておりますが、世界各国は血液関係でゲルマニウムを使うことには気がついていないようです。もっかその研究を行っておりますが、これが成功すれば人類にもたらす幸福は実に大きいのではないかと思われ、皆様のお力添えでこの完成を一日も早く実現したいというのが念願であります」

 浅井の次に東大教授の大越が意見陳述に立った。大越は家畜でゲルマニウム化合物の実験を行い、幾多の成果を上げていた。

ゲルマニウムの医薬的な作用について調査したのは、大学時代の友人からゲルマニウムの注射薬があるのでテストしてくれないかと持ちかけられたのがきっかけです。ゲルマニウムが医薬的にどういう作用を持っているか知りませんでしたので、ただちに文献に当たりますと、意外と古い薬でした。三十三年前の一九二二年に、すでに酸化ゲルマニウム、およびゲルマニウム酸ナトリウムの形で多数の学会報告がありました。主に血液、赤血球とヘモグロビンについてで、それらが増加するという実験データがそろっております。私どもに持ち込まれたゲルマニウムの注射薬は、ゲルマニウムアンモニアの形でございました。どの文献にもこれのデータはありませんので、さっそく家畜で試してみましたところ、赤血球が増えるという事実は認められなかったのですが、白血球が非常に増加するという結果が表れました」

 白血球が増えるというのは初耳で、症状に応じて化合物の形を変えれば、あらゆる病気に効くのではないかと浅井は確信した。

「委員会まで問題を持ってくるに当たり、相当の研究と努力を重ね、国会の速記録にとどめるのに十分な価値があるという信念のもと、こうして委員会を開いていただきました。何らかの方法で、今年中にゲルマニウムの医薬研究に着手し、その効果を上げつつ来年は予算を増やして研究を進めていくというふうにもっていきたいと思っておりますので、厚生省の方々にはご考慮願う次第であります」

 斉藤は浅井の説明を受けた時から熱心だったが、独自のルートでゲルマニウムの医薬品としての研究状況を把握しているようで、東大物療内科などの実験データをもとに、癌や結核の治療薬として期待できると熱意を込めて締めくくった。

 委員会の後も、斉藤は浅井のゲルマニウム研究を陰になり日向になり支えてくれた。

 だが、すべてが順調に進んだわけではない。

「浅井君。素人が癌治療を口にすることは、まさにタブーだね」

 委員会から数カ月して浅井が議員会館に斉藤を訪ねた時、理想に燃える代議士が嘆息したほど、医学会や製薬会社は既成知識や経験だけを重視し、浅井の研究を敵対視し、排斥しようと激しく抵抗したのだった。

 斉藤の嘆きを裏付けるように、逓信委員会で議論に取り上げられたものの、医学会の抵抗でゲルマニウムの研究は進まず、医療薬の研究は進められなかった。

 だが、斉藤代議士の尽力や浅井の地道な研究で、社会的に地位がある人や医学会で名が通った人たちの関心を、少しずつだが呼んでいった。

 三井化学研究所から追い立てをくらったのは、ゲルマニウムの研究に将来性が見えてきたちょうどその時だった。追い出されれば研究の進めようがなく、引っ越し先を探し回ったが適当な物件は見つからず、弱り果てた浅井は斉藤の顔の広さを頼った。斉藤は衆議院議長という要職にあって繁忙のため、訪ねるのは年に一度程度だったが、ずっと交遊を続けていた。

「研究所を貸してくれるような奇特な会社はないでしょうか」

 立ち退きを求められるまでの経緯を説明した浅井に、斉藤は眉間に縦皺を刻み、唇をきつく結んで考えていたが、思いついたことがあったようで、目をかっと見開いた。

「管君のことは覚えているね」

 管礼之助が石炭庁長官のとき、浅井は石炭増産協力委員会の委員になり面識を得ていた。

「委員会でご迷惑をおかけしました」

「ちょっと会いに行きましょう」

 斉藤は軽く言い、浅井に同行を求めた。管は東京電力社長で、浅井などが面会を申し入れても会える相手ではないが、斉藤ともなると違っていた。約束も取らず千代田区内幸町の東京電力本社を訪ねた斉藤と浅井は、すぐさま広い応接室へ通された。

 管は石炭庁長官時代と変わらない精力的な容貌で、斉藤の話を聞き、大きな目で浅井を見つめてうなずいた。

「それはお気の毒です。石炭増産協力委員会では、石頭の委員長のせいで不愉快な思いをされたでしょうから、その見返りと言ってはなんですが、解決策を考えてみましょう」

 私に任せてください、と太鼓判を押した管の言葉に、浅井は地獄で仏に出会った思いがした。管ほどの実力者が了解してくれたのだから、間借りしている研究所並みの場所を確保してくれるに違いないと期待したのだが、予想はまったく外れた。

 管に会って三カ月ばかりたち、三井化学研究所に居すわるのはもう限界という時、東京電力の社長秘書から連絡が入った。研究所用の建物ができたから、点検したうえで必要な設備や器材を申し出てほしいというものだった。

 場所は神奈川県川崎市にある発電所の用地で、鉄筋コンクリート二階建てだという。いきなり言われても半信半疑で、秘書に求められるまま、浅井は翌日、川崎発電所を訪れた。

 受付で来意を告げた浅井は、背広姿の総務部員に案内され、真新しい鉄筋の建物につれていかれた。

「突貫工事で建てましたから、不備なところがあるかもしれません。点検して問題点は遠慮なく申し出てください」

 浅井はしばらく言葉が出なかった。石炭綜合研究所のために、管が建物を新築してくれるとは思いもよらず、まだコンクリートの匂いが湧き立っているような二階建ての建物を凝然を見つめた。

 とても信じられる光景ではなかったが、夢ではない証拠に、何度首を振って瞬きしても建物は消えず、嬉しさが心の奥底から滲み出した。

 世の中、資本主義に毒された利益至上主義者ばかりかと恨んでいたが、浅井の研究のために建物を新築してくれる善意の主がいるとは、どれだけ感謝してもし足りない。

 管は中の設備もすべて整えてくれ、浅井たちが持ち込んだのは、借り物の研究所で使っていた研究機器だけだった。

 引っ越しが無事終わり、所員が車座になって乾杯した。これほど嬉しいことがかつてあっただろうか。研究を断念しなければならないかと絶望に駆られたりしたが、これで研究がはかどる。

 酔いが回るにつれ、浅井はじっとしていられなくなり、いつもの唄を歌いだした。

 庭のさんしゅうの木に

 鳴る鈴かけてヨー オーホイ

 鈴の鳴る時や 出ておじゃれヨー

 平家谷の伝説を持つ宮崎の椎葉村に伝わる稗搗節(ひえつきぶし)で、平家残党の追討を命じられた那須大八郎と、平清盛の血を引く鶴富姫の恋のささやきが民謡になったものだ。木の実、草の根をかじって生活していた落ち武者を哀れに思った大八郎は、鎌倉幕府に残らず追討したと嘘の使者を送り、椎葉村に落人らの永住を認め

た。そして、鶴富姫と恋に落ちた 。

 歌っているうちに全身が熱くなり、浅井は上半身裸になり、胸をたたいて所員と声を張り上げた。酒が入れば浅井は率先してこの唄を歌い、所員がかならず合唱した。声は溶け合って一つになり、ゲルマニウムの研究を完成させてみせるという熱情が、浅井の胸の底からこんこんと湧きだしていった。

 研究所の住み心地の良さは以前と比べると雲泥の差で、浅井はお礼に東京電力の本社を訪ねた。多忙にもかかわらず、管は快く会ってくれた。

「素晴らしい研究所を作っていただき、感謝にたえません。恩返しに、東京電力のためになることでしたら、何でも一所懸命に研究して役立ちたいと、所員一同考えています」

 頭を下げた浅井を管は大きな目で睨み付けた。

「君。そんなケチなことは言わないでくれ。君の研究所は私物ではないはずだ。国家のためになる研究を進めてもらいたいからこそ、研究所を建てたんだ」

 浅井は管の私欲のない人物の大きさに、ただ頭が下がるばかりだった。資本主義社会では自社の目先の利益しか求めない経営者が大半なのに、国家のためと巨額の資金を投じ浅井を援助してくれる管は、大所高所に立った経営者の鏡にほかならなかった。